避暑地と夏休みの怪 1
その日、ネアは無事に今年の夏休み前の執務を終えたエーダリア達と共に、カインの都で拾ってきた絵本の中に隠されていた、ウィーム王の指輪から避暑地に向かった。
シュタルトの西方にある山岳地帯に隠されているそうだが、そもそも影絵なので実在しない土地でもある。
指輪がなければ入れないので、そのまま説明するとそこはどこだという謎の立地であるが、それはそれは素晴らしい避暑地である。
美しい湖から温室とは名ばかりの農地までを含め、ここは憧れを詰め込んだ理想の隠れ家と称しても良いくらいだ。
「…………なので私は、てっきりここは指輪風携帯別荘地という素敵なものだとばかり思っていました…………」
「…………少し違うが、私も殆ど同じようなものだと考えていた」
「これはもう、お城に帰ったらノアを締め上げるしかありませんね」
「……………悪気はなかったのだと思うぞ」
「けれども、私とエーダリア様は見事に迷子なのです。むぐぐ、………ここは森でしょうか…………」
「ただの森だといいのだが、…………土地の魔術が妙に濃密だな」
「……………温室の中に牛さんがいるくらいなのです。となると、この森にも何者かが潜んでいたり…………」
そんな不吉な疑問に、二人は無言になった。
現在、ネアとエーダリアが彷徨っているのはとても深い森で、ここは指輪の向こう側の避暑地にあった、不思議なお庭のアーチから迷い込んだ先なのだ。
(それにしても、普通の薔薇のアーチだったのにな…………)
そう考えて眉を寄せたネアの記憶を辿っても、あのアーチはただの薔薇を這わせたお庭の入り口のアクセント的なものでしかなかった。
向こう側の景色も普通のものだったし、そもそも二人がくぐれるくらいの大きさしかなかった。
『ありゃ、僕のボール!』
すてんてんと、お気に入りのボールを転がしてしまったノアに、最初は、エーダリアがボールを拾おうとして、そのアーチをくぐったのだ。
ネアも同時に追いかけてしまったのだが、アーチのところで慌てたノアとぶつかってしまい、むぎゃっとなったネアは前にいたエーダリアに激突して転がった。
そして、ネアに突き飛ばされた格好になったエーダリアと、そんなエーダリアに激突させられたネアが顔を上げると、そこはもう深い森であったという訳だ。
ピチチと、鳥の声が聞こえる。
鮮やかな青みがかった深い緑色の枝葉を透かして落ちる木漏れ日に、大きな木の根元に咲いている白い花はカモミールのような形をしていて、甘いいい香りがする。
ライラックに似た薄紫色の花を咲かせた木があると思えば、宝石のような澄んだ水色の実をつけた不思議な木もあった。
森は美しく、どこまでも清涼で豊かで、瑞々しい朝の庭園の香りのような香りに包まれている。
「…………むふん!この森は、ずっといい匂いがしますね」
「ああ。このような香りは、魔術階位の高い土地の証拠なんだ。魔物達も良い香りがするだろう?」
「まぁ、香りまで意味のあるものなのですね?」
「高位の生き物たちが美しいのと同じ事だ。望まれるものを備えているからこそ、彼らは力を持つ。…………例えば、良い香りのする花は需要があるし、持て囃されるだろう?」
「…………そう考えるととても分かりやすいですね。………私は、香水などは好みの層がとても狭い筈なのですが、魔物さん達の香りは、どなたのものもくんくんしたいくらい大好きなものばかりなんですよ。それがいつも不思議だなぁと考えていたのですが、あの香りもみなさんの魅力の一つなのだと考えるととても納得しました」
ネアが納得して頷いている内に、エーダリアは隣から消えていた。
「む。消えました…………」
厳しい顔でネアが振り返ると、部下の話をとても大切に拝聴するべきである上司は、木の根元に生えていた光る鉱石の苔のようなものを夢中で採取していた。
「……………エーダリア様?」
「す、すまないヒルド……………ではなかったか………」
「うむ!ヒルドさんの真似をしたのです!」
「頼む、心臓に悪いから控えてくれ。今の声の高さは、ヒルドが本気で怒っている時のものだった」
そう言って息を吐いているエーダリアに、ネアは首を傾げた。
そう言えばあまり話す機会はないが、一度聞いてみたいことがあったのだ。
(カードで救難信号を出したけど、ディノ達が私たちを見付けるのには少し時間がかかるというし………)
こんな時だからこそ、尋ねてみようか。
そう思って隣のエーダリアを伺えば、木の上の方から差し込んだ木漏れ日に、澄んだ鳶色の瞳が複雑な煌めきを帯びていた。
オリーブ色に淡い水色と深い藍色、銀色に微かな黄金色。
その色の多彩さをあらためて観察すれば、エーダリアは立派に高位の証をこの瞳に持っているのだ。
多色持ちは人外者達だけではなく、魔術を扱う人間にも適応される才能の証なのである。
「ヒルドさんが、本気で怒った時はどんな時だったのですか?」
ネアがそう尋ねると、エーダリアは小さく目を瞠り、そして淡く淡く微笑んだ。
さくさくと踏む森の下草は、可愛らしい水色の花がみっしりと咲いていて、時折きらきらと光る不思議な鉱石の実が落ちている。
ネアは、ノアの瞳のような色合いの団栗と、淡い藤色の団栗サイズの林檎のようなものを拾って意地汚くポケットに詰め込んだ。
エーダリアがそんな行いに呆れないのは、既に本人が根っこ付きの謎の薬草を収穫し、片手に持っているからだろう。
「…………昔、あのヴェルリアの王宮に、サンラという女中頭がいた」
「優しい響きのお名前ですね」
「ああ。サンラは優しい女でな、幼かった私が気象性の悪夢を怖れないように、初めて、ぬいぐるみを与えてくれた者だったのだ」
「ふふ、ちびこいエーダリア様は、どんなぬいぐるみを貰ったのですか?」
「竜のものだった。小さなもので、………ラベンダーのような良い香りがした。そのぬいぐるみは、私のお気に入りの宝物だったんだ」
そう言うと、エーダリアは唇の端を持ち上げる。
ネアはネアで、ちびエーダリアに竜のぬいぐるみを脳内で思い描くと、とても愛くるしかったので微笑みを深める。
「…………優しい女中だった。他の女中達が嫌々私の部屋を整える中、女中頭だったサンラが一人でやってくれることもあった。彼女がいないと、私の生活区画には三日に一度くらいしか人が入らないのだ。………王宮はな、今のリーエンベルクとは違う。自室だけでは、生活が完結しないので、自分の生活する棟を丸ごと一棟与えられる。そこに使用人達が住み込み、一つの砦ともするのだ。………だが、私の与えられた棟は、殆どが空き部屋ばかりで、女中達が近寄らないと恐ろしく静かなところだった…………」
ネアは、小さな王子が誰からも抱きしめられることもなく、そんな場所で一人で竜のぬいぐるみを抱き締めている姿を想像してしまい、胸が苦しくなる。
「むぐる…………。担当の方の面倒を見たり、任された棟の手入れをするのは、お仕事ではありませんか。職務放棄です!」
「…………昔の事だ。あれは決して良い過去ではなかったが、あの時代がなければ、私はウィームに帰れなかっただろう。王都で利用価値を見出されなかったからこそ、兄上も、ダリルやヒルドも、私をヴェルリアから出す事が出来たのだからな……………」
「だとしても、そんな素敵な未来を小さなエーダリア様は知りません。きっと、寂しくて苦しくて、胸が苦しくなるような日もあったでしょう……………」
ネアの言葉に、エーダリアはまた少しだけ微笑んだようだ。
そんな日には本を読んだのだと、また何か得体の知れない植物を引っこ抜きながら教えてくれる。
ネアは、そんな上司の為に、狩りの為に持ち歩いている、大きな手提げの紙袋を分けてあげることにした。
畑の収穫の帰り道みたいになっているが、ここにいるのは元王子様な、ウィームの領主なのである。
「管理をされていないからこそ、私は魔術の勉強が出来たのだろう。彼等が目をかけていれば厭う筈だった知識を、監視がないのをいいことに私はいくらでも得ることが出来た。ヴェルリアの王宮では、書庫はあまり厳重に管理されていなかったからな。……………そこで得た知識があったからこそ、私はヒルドの信頼を勝ち得ることが出来たのだ」
就寝したかどうかを誰も気に掛けることがない子供だったからこそ、エーダリアは真夜中に禁術書のある書架に忍び込むことが出来た。
掃除がいい加減なエーダリアの自室には、聡明な子供が魔術書を隠す場所もあったのだという。
そして、そんな孤独な王子がやっと出会った妖精の守護を得た暫く後に、その事件は起こった。
「……………私は、幼い頃は体が弱かったのだ」
「むむ?そうだったのですか?エーダリア様は、頑丈頑強という容姿ではないのですが、体は丈夫ですよね?」
「ああ。可動域の多い者が寿命が長いことと同じ原理で、魔術を多く扱える私は、人並み以上に体力はあると思うし、病気などにも罹り難いのだと思う。…………だが、幼い頃は病弱だと思っていた。よく熱を出したり倒れたりしていたし、兄上もそのような体質だったから遺伝だろうと考えて疑いもしなかったのだ」
その異質さに気付いたのは、ヒルドだった。
多くの魔術を扱うだけの可動域を持ち、シーであるヒルドの守護も得たエーダリアが、過分な魔術錬成を強いられるような執務も与えられないままにこうも脆弱なのはおかしい。
何かが妙だと気付いたヒルドは、礼儀作法や勉強などの授業をする傍ら、エーダリアの部屋を調べていたのだとか。
そして発見されたのが、あの竜のぬいぐるみだった。
「……………そのぬいぐるみに、何か仕掛けがあったのですね?」
ぞっとしてそう尋ねたネアに、エーダリアは淡い微笑みを浮かべて頷く。
それはどこか諦観にも似ていたが、悲しく乾いた微笑の向こうには、人間らしい理不尽な執着も見えたような気がする。
その執着がどれだけ困ったものなのかを、ネアはよく知っていた。
「そのぬいぐるみには、…………持ち主の命に、疫病の毒を染み込ませる魔術が仕込まれていた。一気に反応が出ると怪しまれるので、少しずつ浸透してゆくようなものだ。…………私はな、どこかでそのぬいぐるみが厄介なものだと、きっと気付いていたのだ。だが、私に良くしてくれた数少ない一人が与えてくれたものを、どうしても手放す気にはなれなかった……………」
そのぬいぐるみを捨てないでくれと取り縋ったエーダリアに、ヒルドは初めて声を荒げて怒ったのだという。
「ヒルドが、私の名前を呼び捨てにすることは滅多にないが、あの時、初めてそんな風に呼ばれた。……………彼も、王宮の在り方を嫌と言う程に知っているだろう。だから、私が、あのぬいぐるみが良くないものだと理解していなければ、もっと優しく窘めた筈だ。……………けれど、あの竜のぬいぐるみを手放さなかったのは、私の子供じみた我が儘でしかなかった。私はその愚かさで、やっと誰かを守ろうとし始めたばかりだったヒルドの心すら傷付けたのだ」
(そんなことがあったのだわ…………)
以前、何でもない会話の中で、ヒルドがエーダリアに本気で激昂したことがあると聞いてから、ネアはその時に何があったのかが気になっていた。
そこには、小さな子供の縋るような執着があり、それを、その子供を愛するからこそ捨てさせた妖精がいたのだった。
「…………………エーダリア様は、そのぬいぐるみを諦めたのですね?」
「……………ああ。ヒルドが、あのように声を荒げて私を叱ったので、驚いてしまってな。…………その晩はなぜか涙が出た。宝物を取り上げられて悲しかったのかもしれないが、あのように怒られたのは初めてで、ヒルドに愛想を尽かされたらどうしようと恐ろしかったのだと思う」
ネアは、小さく頷いて唇の端を持ち上げて微笑む。
森は穏やかで美しく、見たこともない綺麗なものがあちこちで収穫出来た。
「そんなエーダリア様の姿を見てしまったら、ヒルドさんはより強くこの子供を守らなければと思えたでしょうし、エーダリア様は、初めて声を荒げて叱ってくれる程に、自分を大事にする人がいるのだと理解出来た筈です。そのぬいぐるみがどんな曰くや策略の下にエーダリア様に渡ったとしても、そのサンラさんがどんな方であったとしても、小さなエーダリア様がそうであるようにと願ったように、その方は結局はエーダリア様を守り導く為の一手になってしまったのです。ふふ、素敵なお話ではないですか」
ネアがそう言えば、エーダリアはこちらを見て目を丸くした。
「……………そういうものなのだろうか」
「ええ。小さなエーダリア様がサンラさんを慕ったことで、結果としてそのぬいぐるみは、エーダリア様の人生を動かす一つの投げ石となったのだとは思いませんか?エーダリア様がそこに温かなものを見たことで、結果としてぬいぐるみさんはそのように働かざるを得なくなったという運命論的な物語ですね」
「……………………そうか。そのように考えたことはなかった。…………サンラの姿は、その後暫くして見なくなった。兄上が何か手を回したようだが、王宮を去り、翌年の夏至祭に湖に足を滑らせて落ちて亡くなったと聞いている。……………自分の意志で私を殺そうとしたのかもしれないが、私にとっての彼女は、ずっと穏やかで優しい母のような人だった……………」
「その方はとても悪い女性だったのだと思いますよ」
ネアの言葉に、またエーダリアは目を瞬く。
その無防備さに微笑みを深めて、ネアはエーダリアの持つ紙袋に、拾い上げた不思議な銀色の小枝を放り込んでおいた。
「そんなぬいぐるみを仕込み、エーダリア様とヒルドさんの絆をいっそう強いものにしてしまった、策士なのです。お二人は、その一件で、まんまと仲良しになってしまったのですね。結果として、エーダリア様はウィームの領主様になってしまいましたし、ヒルドさんもウィームに来てしまいました。リーエンベルクは私の大好きなお家で、絨毯やカーテンを破壊する悪い魔物であるノアは、エーダリア様が大好きです!」
ネアがふんすと胸を張ってそう主張すれば、エーダリアは、ふっとほころぶような無防備な笑いを零す。
それは、出会ったばかりの頃には見ることのなかった、何とも柔和な健やかさだ。
「……………私は、ヒルドやダリルは言うまでもないが、…………ノアベルトがリーエンベルクに来てくれて良かったと、常々思うのだ。彼がいてくれることで、ヒルドと過ごす時間も長くなった。私とヒルドだけでは休日にまで共に過ごすことは少なかったのだが、…………その、狐の時のノアベルトがいるとな…………」
「狐さんが、強制的にエーダリア様達を引っ張り回してくれるのですね?」
「………………ああ。そのせいか、つい甘やかしてしまうので、この前もヒルドに、あれこれ買い与え過ぎだと言われてしまったが、……………そんなヒルドだって、部屋の前に玩具を並べて置かれると、睡眠時間を削って遊んでやっているのだぞ」
「………………胸が温かくなる素敵なお話なのですが、そこにノアの魔物さん的な要素が皆無であることに、若干の物悲しさを覚えてしまいますね………………」
「勿論、魔物としてのノアベルトも…………」
慌てて弁解しかけて、エーダリアはぴたりと動きを止めた。
無言で視線を持ち上げると、二人の正面に現れた巨大な石の壁を、子供のような無防備な目でまじまじと凝視している。
「…………ほわ、石の巨人ですね」
「……………石の衛兵の亡骸だ。古い森や谷などに住む土地の精霊の一種で、死ぬとこのように動かなくなる。これだけ古いものは珍しい…………。最近ではすっかり小さくなってしまったが、文献にあるようにかつての石の衛兵は大きかったのだな!」
エーダリアは嬉しそうに目を輝かせ、そっと石の衛兵に触れている。
形としては、よく子供が持っているような木の兵隊さんの人形に似ているが、特に顔などは彫り込まれておらず、これが動き回っていたらさぞかし怖いだろう。
「……………………む」
そこでネアは、石の衛兵の足元に気になるものを見付けてしまった。
「エーダリア様…………」
「少し待ってくれ。この腰の辺りの魔術の装飾が、素晴らしいのだ。…………見たことのない造形もあるし、少しだけ前屈みで、どうしてこの状態で制止出来るのかも不思議ではないか。石の系譜は、基本的には地面と引き合ってしまうからな。このようにして立ったまま残るのは、存外に難しい……………」
「エーダリア様、こちらをご覧下さい」
「ネア…………?」
ネアは、魔術師としてのいけないスイッチが入ってしまったエーダリアの袖を引っ張り、石の衛兵の足元を見て貰うことにようやく成功した。
最初は訝しげに目を瞠っていたエーダリアも、ネアが言わんとしていることにすぐに気付いたようだ。
大きな石の衛兵の足は、瑞々しく伸びた下草を踏んでいる。
踏まれてへしゃげた草は青々としていて、たった今踏まれたばかりのように見えるのだ。
それはつまり、この石の衛兵はずっとここに立っているものではなく、たった今、ここに歩いてやってきたものだと証明する、これ以上ない証拠なのだった。
「…………………ほわ、衛兵さん、初めまして………………」
ネアが思わず見上げてそう挨拶してしまうと、大きな石の巨人はぎしぎしっと堅い音を立てて体を持ち上げた。
前屈みになって立っていたのは、ネア達を発見して、じっくり観察する為の姿勢だったのだろう。
「大きな体ですねぇ。………むぐ?!」
仲良くなれるだろうかと呑気に見上げたネアを、エーダリアは無言で抱えて走り出した。
このような時、エーダリアは思っていたよりも力持ちだと驚いてしまうのだが、こちらにいるのは白の塔の魔術師達の長であり、人間一人の重量を魔術でどうこうするくらいの技術は持ち合わせている。
「に、逃げるぞ!!」
「エーダリア様?…………むぎゃ!葉っぱが顔に……むぐ?!」
残念なことに、あまりネアを持ち上げて運ぶ習性のない上司による移動は、周囲との距離感がまずいようで、ネアの顔には、森の木の枝がばしばし当たる。
最後には満開の花を咲かせた茂みにずぼっと突っ込まれてしまい、花びらまみれになってくらくらする頭を押さえた。
「……………よし、ここまで来れば安心だな」
「………………ふぐる。……………エーダリア様に、森でがさがさにされました…………」
「ネア…………?っつ、すまない。……………まさか、そんなことになっているとは…………」
葉っぱまみれの花びらまみれでくしゃくしゃの髪の毛になった部下を見て、ウィーム領主はかなり焦ったようだ。
抱えていたネアをそっと地面に下してくれると、髪の毛の葉っぱを取り除いてくれながら、先程の石の衛兵は性格は穏やかなのだが、厄介な生き物だったのだと教えてくれる。
「石の衛兵は、その土地を管理する良き隣人だが、その種の職務が多忙なことと、一応は精霊だからな。気に入った者がいると、同じような姿に変えて仲間にしてしまうのだ」
「なぬ。ちっとも良き隣人ではありません。それでは、強制労働ではないですか…………」
青ざめてふるふるしたネアに、エーダリアは大真面目に、その変質の魔術にも興味があるのだと話してくれる。
その熱心な口調を聞いたネアは、途方に暮れた。
今はまだ逃げようとする危機感を持ってくれてはいるが、なにぶん、魔術師とは厄介な生き物だ。
試してみたいと思うようになったら大惨事なので、ネアは決して石の衛兵に近付けさせないようにしようと、固く心に誓った。
(…………………そして、私の惨憺たる有様とは対照的に、紙袋の方はあれだけ詰め込んだものを一つも落してもいないような…………)
そんな事実に気付いてしまったネアは、悲しい目でエーダリアを見上げる。
エーダリアも己の本能が何を優先したのか気付いてしまったのか、さっと紙袋を背後に隠した。
「こ、これはだな……………」
「反対側の手に抱えた収穫物を大事に持ち過ぎて、私はあちこちにがさっとぶつけられ続けていたのですね。…………むぐぅ。大事な鼻が、どこかで取れたりしていないといいのですが……………」
「安心してくれ、鼻はちゃんと残っているからな。気付かなくてすまなかった」
じっとりとした眼差しになった部下に、慌てて頭を下げて謝ってくれたエーダリアだったが、ネアは正面のエーダリアが頭を下げたことで、その後方にある大きな木の枝にいる生き物が見えてしまい、そのまま凍りつく。
「……………………ネア、そんな目で見ないでくれ。…………ネア?」
呆然と瞠った眼差しに居心地が悪そうにまた謝りかけ、エーダリアは、ぎくりとしたように後ろを振り返る。
そこにそびえているのは、枝葉をみっしりと盛り広げた、ブロッコリーのような大きな木だ。
そんな大きな木が枝を広げていられるのは、周囲に日光を遮るような他の木がないからだろう。
青々と葉を茂らせた美しくどっしりとしたその木の枝に、まるでレース飾りのような精緻な蜘蛛の巣が広がっていた。
元々その木を住処として育てたかのように、ぐるりと受け皿めいた巣を広げ、恐らく定型通りであれば目の前の木のどこかにそんな立派な巣を作った蜘蛛がいる筈だ。
ネアは無言で巨大な蜘蛛の巣を見上げた後、よろよろと四つん這いでその場から逃げ始めた。
ここで物音に気付いて家主が顔を出してしまった場合、まず間違いなく心不全で死んでしまう。
(に、逃げなくては!本体を見たら死んでしまう!!)
その恐怖をすぐに理解してくれたものか、エーダリアが無言で左側に手を伸ばす。
あの石の衛兵から逃げてきた方向を把握しているのはエーダリアだけなので、ここからの移動はそちらに逃げようということなのだろう。
ネアはこくりと頷くと、最初の茂みに入るまでは四足歩行での移動とさせていただいた。
とても悲しい話ではあるが、あの天敵が現れた場合につき、ネアは即刻行動不能となってしまう。
無力化されて足手まといになって諸共滅ぶという最悪の展開を避け、誰よりも慎重に行動する必要があるのだ。
がさがさと獣気分で茂みを抜けると、ネアはその位置からはあの大きな木が見えないだろうかと思って立ち上がってみた。
「…………………むむぅ」
「あれだけの大きな木だからな。もう少し離れないと、どうしても視界には入るだろう。このまま、大きく弧を描くようにしてここから離れよう。…………恐らくあの蜘蛛は森守りの一種だ。幸いにも、あのような個体が複数生息しているということは考え難い」
「他にもいたら、私はまず儚くなってしまうので、是非にそうではないことを祈るばかりなのでふ……………」
そう呟き、がさがさっとまた茂みを押し広げると、深紅の鶏のようなものが襲いかかってきた。
ギャーとけたたましく鳴かれてどきりとしてしまったネアは、そんな鶏を、すぐさまごすっと手刀で黙らせた。
だらんとなった鶏を片手で持ち、ネアは可憐な淑女らしく、どきどきする胸を片手で押さえる。
「ふぁ!びっくりしましたね。あんなに大きな声を上げて、怖いものに気付かれてしまったらどうしてくれるのでしょう……………」
「………………お前が片手にぶら下げているのはな、陽炎の魔物の一種でとてつもなく獰猛なものだ。その嘴は祝福を得た鎧も切り裂くので、毎年各地の騎士にも死者が出る。幸い、ウィームの森にはあまり生息していないが、ガレンの魔術師が二晩かけて戦い、ようやく生きて帰ったのは王都でも有名な話なのだからな………………」
そう言われ、ネアは眉を顰めた。
「………………この鶏さんが?」
「ああ、それは獰猛な魔物だ。素手で、それも一撃で倒す人間はそうそういない」
「まぁ、………………ではきっと、ぶたれるのに弱い個体だったのではないでしょうか」
「私が見たものの中でも、最も大きいくらいだが、…………………っ、ネア、少しの間動かないようにしていてくれ」
「わかりました」
何が起きているのだろうかと首を傾げたかったが、このような時には疑問はさておき、承知したという返答を真っ先にするべきである。
その回答を得るのが早いか否かで、エーダリアの対応が決まるのだと思えば、忠告に対しては分ったと返事をすることこそが最優先ではないか。
もたもたしても足手まといにもならないような高位の魔物達とは違い、エーダリアはどれだけ凄い魔術師であってもネアと同じ人間なのである。
ネアは、重ねてきりりと頷くと、鶏を持っていない方の手で、ポケットの水鉄砲を握り締めた。
その時、歌うような美しい声が揺れた。
(エーダリア様の詠唱だわ…………)
詠唱を始めたエーダリアが紙袋を持っていない方の手で飾り石の金庫から取り出したのは、見たことのない魔術道具だ。
深い青緑色の鉱石に精緻な細工を施してあり、携帯用の軟膏入れや香水瓶のようにも見える。
ネアが興味津々で見守っていると、エーダリアは、かちりとその入れ物の蓋を親指で開けた。
キンと、澄んだ音がして蝶番のようなもので固定されている蓋が開けば、ぼうっと青白い炎が点く。
そこにふっと息を吹きかけると、煙草の煙のような白い煙がたなびき、エーダリアの足元に不思議な術陣を描いた。
また短い詠唱がそこに重なると、その術陣はすすっと横に動き、その中にもくもくと立ち上がったのは煙で出来た人の形のようなものだった。
(す、凄い!煙人形みたいなものが出来た…………)
固唾を飲んで見守るネアの前で、煙人形は術陣からよいしょと出てゆくと、そのままどこかに駆け去っていってしまう。
「………………もういいぞ。……………何か、形を持たないような不浄の生き物の気配がしたのだ。災い避けの香の煙を囮にしてある。あれを追ってくれれば、追っている内に煙を吸って力を失ってくれるだろう」
「ほわ、………………エーダリア様は、凄いのですねぇ。あんな不思議で特別なことが出来るとは思ってもいませんでした!それと、隣の木に生えているキノコは食べられますか?」
「今のは、西の国の魔術師達が使っていた禁術の一つだ。かつては、あの煙に毒をしのばせ、囮にするのではなく標的に接触させて毒殺したらしい。…………それと、そのキノコは猛毒なので取らないようにな」
「むぐぅ!ぶ厚くて美味しそうだったのに、残念です…………」
そんな会話を持ったからだろうか。
二人は、もしやこのまま森の中で夜を明かすのだろうかと考えてしまい、困惑して顔を見合わせた。
短時間の迷子であれば楽しい冒険だが、本格的な遭難となると色々問題が出てきそうだ。
「今夜は、ディノには会えないのでしょうか?」
ネアが悲しくそう呟いた時だった。
「ネア!」
どこからともなく飛び込んで来た真珠色の魔物が、片手に鶏をぶら下げたご主人様をぎゅうぎゅう抱き締める。
エーダリアの方も、駆けつけたヒルドやノアに手を取られている姿が見えた。
「ディノ、見付けてくれたのですね!」
「エーダリアが囮の魔術を動かしただろう?その気配を追い掛けたんだよ」
「なぬ。そのようなことで、探して貰えたのですね」
「良かった。庭の一画から、その土地の古い魔術に呼ばれてしまったんだね。ここは、かつてあの庭があった場所の森の記憶なのだろう。……………鶏を持っているのかい?」
「うむ。狩りました!」
「ご主人様……………」
またしても何か狩ってしまったらしいネアにしょんぼりした魔物の向こうで、エーダリアは手に持っている紙袋について、ヒルドとノアから厳しいチェックを受けている。
危ないものは容赦なく捨てられているようで、エーダリアは、悲しい声を上げて制止しようとしていた。
「さて、帰ろうか。ここでは、休暇を過ごすのには不向きだからね」
「はい。後から来る使い魔さんが、一人になってしまいますものね」
「そうか、誰もいないとアルテアも迷子になってしまうのかな……………」
「むむ。アルテアさんには、あのアーチには近付かないように言っておきましょうか」
頼もしい仲間たちが揃えばこの森も魅力的だったが、事故り易い使い魔が心配だったので、ネア達はすぐに帰ることになった。
幸いにも、アルテアは無人でまだ鍵も開いていない門の前でどこか呆れたような目をして立っていたので、一人ぼっちの間に事故ってしまった様子はなく、ネアはほっとする。
「また事故ったのか?」
「………………何のことでしょうか」
「その髪の毛はなんだ。花びらまみれだぞ?」
「むぎゅう……………………」
言い逃れ出来ない証拠を突き付けられ、ネアはあえなく沈黙した。
ディノが髪の毛の花びらを放置したのは、くしゃくしゃで可愛いという残念な理由だったようだ。