野外演奏会と妖精の歌声
疫病祭りから数日後、ウィームは野外演奏会の日を迎えた。
こちらのイベントは領主館も主催に入るので、エーダリア達は大忙しだ。
会場はリーエンベルク前広場となり、会場はふんだんに生けられた淡い水色の花で飾られている。
一つとして同じものではない様々な形の花器が並び、そこには人外者達から持ち込まれた水色の花束が規則性もなく生けられているのだが、そのばらつきには不思議な美しさがあった。
藤色の花で作ったボール状の大きなくす玉飾りが色とりどりのリボンで木から吊るされ、そのリボンを楽しげにててっと駆けてゆくのは栗鼠の姿をしている妖精達だろうか。
時折、はしゃぎ過ぎて木から落ちてくるものもいるので、そのような時は、頭の上に落ちてきて目を丸くしている生き物を優しく木の上に戻してやる。
花の香りを嗅いで幸せそうに目を細めている楽団員が、満足げに頷くとバイオリンを構えた。
そうして、演奏前の音合わせとして流れてくる音楽に、木々の茂みや花壇の中で、色とりどりの光の粒子が満足げに優しい風に揺蕩う。
しゅわりと煌めいた百日紅から光の雫が落ち、その下の枝の特等席に腰掛けていた小さな竜が直撃を受けてくしゃみをしている。
どこを見ても贅沢に飾られた水色の花は、薔薇や百合にライラックのようなもの、ラベンダーに似た形に鈴蘭やチューリップ。
ありとあらゆる種類の繊細な水色のグラデーションにうっとりと酔いしれることの出来る、お伽話の花畑のようだ。
訪れる人々の装いも、演奏会らしい華やかなもので、あちこちで綺麗な夏用のドレスの裾が揺れる。
優雅に着飾ったご婦人方に、今日ばかりはと可憐なドレス姿に変身した愛くるしい子供達。
そこに、蝶ネクタイをつけた狐や、帽子をかぶった狼なども混ざり、お洒落なパラソルを持つ子熊も現れた。
(見たことのない生き物もたくさんいる。なんて楽しいのかしら!)
今日の演奏会は、夏の系譜の守護が薄いウィームで、少しでもこの季節の国土を豊かにしようと始められた野外演奏会で、夏の系譜の人外者達を素晴らしい音楽でもてなす為のものだ。
音楽だけではなく、この会場で売られる葡萄パイも一つは無料でいただけるので、あまりそのようなお菓子と縁がない小さな生き物達は大喜びだ。
世界各地から著名な演奏家や、楽団を呼ぶことでも大人気だが、この演奏会に参加する奏者達からもとても楽しみにされている。
チケットの代わりに祝福を込めた花を持ち寄る人外者達が、今年も素晴らしい演奏を楽しみに会場の各所に美しい花々を飾ってくれているのだが、出演者達はその花を好きなだけ持って帰れるのだ。
特別な祝福を込められた花々は彼らのインスピレーションを高めたり、音楽家としての成功の手助けをするので、この出演料欲しさに立候補する者達が後を絶たない。
有名な音楽家達は、必ず自宅のどこかに、高価な状態保持の魔術をかけたウィームの野外演奏会の水色の花を持っているとさえ言われていた。
「今日は、とても気持ちのいいお天気ですね」
「夏の系譜の生き物が多く集まり、彼らが幸福を得るからだろう。特別に心地良い夏の日という魔術的な場が整うのだと思うよ」
ディノにそう教えて貰い、微かに甘く爽やかな花の香りに胸を膨らませ、晴れて水玉模様のお腹やお尻から卒業したネアは微笑みを深める。
この、そわそわわくわくと心が弾むような高揚感は演奏会や舞台が始まる前特有の感覚で、ネアの大好きなものの一つだ。
あちこちに蝶が舞い、息を飲む程に美しい人ならざる者達が子供のように目を輝かせて演奏の始まりを待っている。
(去年は、こんな風に会場の空気を楽しめなかったから、今年はとても贅沢な気分だわ…………)
昨年は、事件に巻き込まれてゆっくりと楽しめなかった演奏会だが、今年はただのんびりと音楽を堪能し、その喜びに贅沢に溺れることが出来る。
開場前に、周囲の見回りや守護結界の補強の為に森には出たが、あまり楽才のないネアはこのイベントの運営には深く組み込まれない。
大変遺憾なことではあるが、音楽の才能がない者が関わると、音楽の祝福が逃げてしまうのだとか。
「だから今日の演奏会は、この後はもうただのお客さんと化すのみなのです!」
「今年も、君の楽しみにしている銀のバイオリンが出るよ。演奏会の最後の曲まで楽しめる日になって良かったね」
「はい!勿論、去年の演奏は、私が楽しめた部分だけでも素晴らしいものでしたが、銀のバイオリンさんの演奏は是非に一度聴いてみたかったのでわくわくしますね!」
「かわいい…………弾んでる」
関係者用の招待席もあるのだが、今回はただのお客さんだからと辞退し、お小遣いで特別席のチケットを買ったネアは、隣の魔物の三つ編みを膝の上で握っている。
音楽は魔術の道になり、人ならざる者達が強く執着するもののひとつだ。
今日ばかりは、圧倒的な標的率の奏者達がいるので、ネアは完全にその他大勢の立ち位置であるが、安全面なども考慮してこのような保険をかけることとなった。
けれども、楽しみなあまりに荒ぶるご主人様が、握った三つ編みを膝の上でばしばし振るってしまい、魔物は少しだけくしゃりとなりかけている。
「銀のバイオリンさんは、綺麗な女性の方なのですよね。私は細やかな良し悪しの差が分かる程に高尚な音楽愛好者ではないのですが、大好きな音楽を素晴らしい奏者さんが演奏してくれるという事だけでも、今からもうわくわくが止まりません……………」
「…………ネア、葡萄パイは二個までだからね」
「むぎゅる。しかしながら、無事に回復が進んで二個は食べられるようになったので、どちらのお店のものも買えるようになりました!」
ちらりとお店の場所を目視で確認しておき、ネアは休憩時間の為の動線を頭の中でおさらいした。
パイ戦争では、見事な勝利をおさめる予定である。
この演奏会には、古くから音楽と共に夏の系譜の人外者達をもてなした特製のお菓子があり、今でもそんな伝統の葡萄パイを楽しめる三つのパイの店が出る。
この演奏会を始めた頃からある、燭台の印が有名な白葡萄と白砂糖を使ったパイのお店と、流麗な赤い文字で書かれただけのシンプルな店名のロゴを使う、赤葡萄に茶色いお砂糖を使ったパイがとても有名であった。
もう一店舗、近年参入した燭台印のお店と同種のパイを出すお店があるが、そちらのお店のものは甘いものが苦手な人が愛用するお菓子パイというよりはさくさく葡萄パンという味わいの、甘さ控えめの商品が主力となる。
そうなると、本日のパイにはお菓子感を求めるネアが買うのは二つの店舗で良いので、演奏会の休憩時間を今から楽しみにしていた。
無料でパイを貰える人外者達の中には、既に真剣にパイ選びをしている者達もいて、それぞれのお店の周囲には、焼きたてパイをはふはふサクサク食べる者達をじっくり観察している長考中の一派がいる。
今年はそんなパイ目当てでトトラもやって来ているらしいが、擬態をしてこっそり観客に紛れて鑑賞したいそうなので、あえて挨拶などはしないでおくことにした。
森の賢者はとても女性達に人気があるのだが、そのような人付き合いが苦手なトトラは、誰かに気付かれて余計な騒ぎを起こしたくないのだそうだ。
まもなく開演する会場は、たくさんの人で賑わっていた。
人々はプログラムを手に曲順を確認したり、偶然席が近かった友人達と挨拶したりしている。
持ち寄られた花はきらきらと清廉な木漏れ日を受け、花に囲まれた会場には、そこかしこに妖精や精霊達の姿が見えた。
木の上や花壇の中など、あちこちから楽しげな囁きが聞こえていて、音合わせで楽器の音がする度に嬉しそうに飛び跳ねている。
客席に座っているような人外者達は、上品に腰掛けて開演を待っているが、嬉しそうに羽を煌めかせる妖精や、そわそわと座り直して何度もあちこちを見ている竜を見ていると、何だか見ているだけで嬉しくなってしまうではないか。
魔物の姿も多く見られるが、彼等は領民達に混ざって地元の住人らしいこなれた感じを見せていた。
「今年の演奏会では、一曲目と三曲目、そして最後の曲が私の好きな曲なのです。四曲目と五曲目の曲は初めて聞くので、また好きな曲が増えてしまうかもしれませんね」
「五曲目のものは好きになるのではないかな。四曲目のものは、穏やかな波のような旋律だ。部屋の中で流れているのは心地よいけれど、演奏会では退屈だと言う者もいる。ただ、妖精達がとても好むので外せないのだろう」
余談だが、人外者にはそれぞれ種族的に好みの楽曲がある。
魔物はメリハリのある、情感と盛り上がりを欠かさない曲が好きだ。
オペレッタならなんでもない場面で流れる曲ではなく、その演目の目玉となるような曲が選ばれることが多い。
妖精は穏やかな囁きのような曲と、目が回るように早くて陽気だが微かな不安を掻き立てる、独特の好みの旋律がある。
精霊が好きなのはとにかく悲しい曲で、竜は華やかで力強い曲を好む。
また、舞踏会で使われるような曲には、ダンスという魔術的な要素を持つ楽しみを補助する為の旋律に興奮作用などがあるらしく、種族関係なく好まれるものなのだとか。
ネアは、それぞれの音を出していた奏者たちが指揮者の手の動きにぴたりと音を止め、その次の瞬間から魔法のように一つの楽曲を奏で始める音楽の始まりの瞬間が大好きだ。
すっと差し込まれた刹那の沈黙には、さぁこれから素敵なものが始まるぞという、例えようもなく期待を掻き立てられる効果がある。
それはどこか、物語のページをめくる最初の瞬間にも似ていた。
(……………わ、)
そうして、短い領主の挨拶が終わると、集まったお客達が待ちに待った、一曲目が始まった。
しゃらりと涼やかな音を立てて、大きな木の茂みが揺れる。
透き通った緑色の光を霧雨のように降らせ、その木の枝がかかる座席のお客達は気持ち良さそうに目を細めていた。
ご機嫌で羽を震わせる妖精の後ろの席のお客は、風に舞った妖精の粉にとろんとした表情になってしまっている。
この野外演奏会は、音楽だけでなく音楽の祝福に煌めき揺れるこの世界の美しさを感じることの出来る、素晴らしい催しなのだ。
序曲のぐぐっと盛り上がる最高のところで、ばさりと大きな翼を広げて興奮気味にしているのはウィームに移住してきたミカエルだ。
自分で購入したのであろう座席に座っており、その膝の上や肩の上には小さな森の生き物達がみっしりと乗っていて、彼が、これまでの森の見回りなどで小さな生き物達の信頼をここまで得たのだとネアは嬉しくなった。
もふふわの友達がたくさん出来て、ミカエルはとても楽しそうだ。
そんなミカエルを頬を染めて眺めている女性達が一定数いるので、心優しく美しい雨降らしは彼女達の心も掴んでしまったらしい。
肌に、ふわっと涼しい風が触れる。
堪らなく気持ちのいい風の感触にむふんと心を緩め、ネアは豊かな音楽の中で胸を震わせた。
深く深く、鮮やかで繊細で、この旋律を紡ぎ上げてゆく奏者達の指先の魔法に見惚れ、ネアは隣の魔物の三つ編みをまたぎゅっと握り締めた。
やがて、音はふっと息を潜め、その素晴らしい序曲の幕を引く。
「なんて素敵なのでしょう!一曲目でもう胸が一杯です!!」
「…………ネアがかわいい」
そう呟いて目元を染めた魔物が見ているのは、ご主人様に握り締められた三つ編みのようだ。
試しにネアがその三つ編みをぺっと捨ててみると、魔物は悲しげに目を瞠る。
もう一度掴みぎゅうぎゅうと握れば、また嬉しそうにもじもじした。
もう一度三つ編みをそっと手放せば、魔物はしゅんとして捨てられた子犬のようにご主人様をみつめる。
「……………虐待する」
「むぐ。…………ディノの精神状態は、この三つ編みに大きく左右されてしまうのです?」
「甘えてこなくなった……………」
「えいっ!」
あまりにも悲しい目をするので、また三つ編みを握ってやれば、魔物はすぐさま目をきらきらさせた。
「……………ずるい。かわいい」
「むむぅ。悩ましい問題ですが、今日は身の回りに注意するようにと言われているので、三つ編みを引っ張るしかありません」
「甘えてくる……………」
擬態させた青みがかった灰色の髪に、虹色の霧のような不思議な煌めきと透明感を際立てて、ディノは幸せそうに微笑んだ。
雪白の香炉の舞踏会も、サムフェルも。
美しく素敵な催しは沢山あったのに、今迄のディノには、楽しめなかったものばかりなのだという。
であればディノがこんな眼差しで微笑むのは、この美しい魔物がやっと安堵して過ごせているからだろうか。
そう考えると愛おしくなり、ネアはすくっと立ち上がると、大事な魔物の頭を撫でてやった。
一曲ごとにお客を入れ替える区画もある為、曲と曲の間には五分休憩があり、こうして立ち上がっても叱られたりはしないのだ。
「…………ずるい」
唐突にご主人様に撫でられた魔物はまたしても弱ってしまい、その美貌の端っこをむずむずくしゃりとさせて、甘えるように頭をぐりぐりと押し付けてくる。
(二人でこんな風に過ごせるのも、胸がほこほこして素敵だな…………)
沢山撫でてやってから微笑んで座り直すと、ネアはよれよれの婚約者に、次の曲を楽しみましょうねと耳打ちしてやった。
「虐待する……………」
「なぬ?!死んでしまいました…………」
耳元で囁かれた魔物はあえなく撃沈してしまい、ネアは困り果てて眉を下げた。
隣でくすりと笑う気配は、お隣の席のご老人がディノの姿を見て心臓発作を起こしそうになっていたのを見かねて、席を代わってくれたエイミンハーヌだ。
エイミンハーヌは、三席右側のオーケストラの真ん中にあたるとてもよい席にいたのだが、独り身のご老人の安全を考えてその席を交換してくれたのだ。
魔術計反応管理師という、可動域や抵抗値を測る技師であるご老人は、人よりも隠された魔物の気配に敏感だったらしく、喜んで席を代わって貰っていた。
「ディノが死んでしまいました」
「幸せそうだからいいんじゃないかな。………ああ、風の精霊達も幸せそうで、気持ちのいい風だね」
「ええ、今日は本当に風が気持ちいいのです。優しいお天気で木々やお花がとても綺麗で、みんなが楽しそうな素敵な野外演奏会ですね」
「今年は、妖精の歌い手が来るから楽しみにしているんだ」
一人で来ていたエイミンハーヌのお目当ては、妖精の歌い手であるらしい。
プログラムの真ん中を示して教えて貰い、ネアはその部分を覗き込んだ。
「…………この、ヴィマルさんという方ですよね?」
「そう。素晴らしい歌声だよ。エルトが熱を出さなければ、フェルフィーズも来れたのだけどね」
「まぁ、エルトさんは熱を出してしまったのですね?」
「川遊びではしゃぎ過ぎたみたいだね。でも、子供の竜はよくそうやって興奮し過ぎて熱を出すんだって」
可愛い子竜の姿を思い出し、ネアは頬を緩ませる。
このエイミンハーヌは、一時期リーエンベルクにも滞在していたウィームの小さな名誉騎士、花竜のエルトの保護者であるフェルフィーズという青年と仲がいい。
イーザとも仲良しのようで、純白がルイザ達を襲った時にも、この霧の精霊王が一緒に駆けつけてくれたのだそうだ。
フェルフィーズは、ウィームに古くからある商会の次男で、エーダリアよりは年長者なのだが、年齢不詳な柔らかな微笑みからどうしても青年という印象が拭えない。
ネアも見かけて驚いたことがあるのだが、花の魔術を持つ魔術師達はとても長生きで、彼のようにずっと若々しく見えるのだとディノに教えて貰った。
なお、そんなフェルフィーズやここにいるエイミンハーヌ、手袋専門店のオーナーであるバンル達は、エーダリアを盛り立てる会の会員なのだとか。
そう教えて貰って以来、ネアは彼等に特別な好感を持っている。
エーダリアは、ネアにとっても大切な家族のような人なので、外周から大事な家族を守ってくれる心強い仲間のように感じていた。
(この方の歌声も、とっても楽しみだわ……………)
プログラムの絵には、丸みを帯びた黄金色の羽を持つふくよかなご婦人が描かれている。
にっこり微笑んだ表情には、包み込んでくれるような柔和さが窺え、くるくると巻いた短い髪が印象的だ。
(どんな歌声なのかしら…………)
そう考えていたら、耳の奥に遠い歌声が蘇った。
爆音と懐かしい呼び声に、ふっと、視界が陰る。
美しい音楽の中に身を委ね、清廉に煌めくウィームの夏の美しさを眺めながら、ネアはあの暗い劇場を思った。
そこは、歴史のある立派な歌劇場だったのだそうだ。
真紅のカーテンに、古くからある歌劇場の深みのある金色に塗られた装飾の数々。
神話の場面を表現した青いステンドグラスの天井と、大きなクリスタルのシャンデリア。
舞台の中央に立っているのは、真っ白なドレスを着た母親だ。
けれど、不思議なもので、時折見る夢の中では、そのドレスの色は黒だったり真紅だったりもする。
まだ小さかったネアは、艶々としたエナメルのお出かけ靴のリボンを誇らしげに眺め、爪先を控えめにぱたぱたさせた。
あの日のネアが着ていたのは、お気に入りだったミントグリーンのドレスだったような気がする。
絵本に出て来る妖精のお姫様に憧れたネアが誕生日に買って貰ったもので、まさにそのお姫様のドレスそのものだと子供心に自慢に思っていた。
あの子供用ドレスは、父親があちこちを探して、絵本のお姫様の絵と同じような色のものを探してくれたのだと後で教えて貰った。
まだ言葉も拙い小さな小さな娘の初めてのお強請りに、父は大はしゃぎだったのだとか。
どぉんと、体に響くような音が響いたのはどこでだったのだろう。
夜会服に身を包んだ人々が、不安や恐怖に顔を歪めて顔を見合わせる。
音楽が途切れ、隣の席の父親が小さなネアをさっと抱き上げた。
記憶の断片には残らなかったが、幼い子供に脱いだジャケットをかけてくれたのは、親族の一人であったという。
そして、美しい歌劇場に火の手が上がったのは、その直後のことだった。
(あれは、……………テロだったのだと、大きくなってから知った)
政治的な主張を無差別の武力攻撃に置き換えてしまった人達が、偶々、国際的に有名な指揮者が訪れていたオペラ座を狙ったのだ。
爆弾が仕掛けられ、辛辣な政治批判や社会問題への批評などが有名だったマエストロがいたボックス席は、跡形もなく吹き飛んだ。
他にも、保守派の政治家の家族や、他の著名人のいた座席のあたりも同じような被害を受け、劇場はパニックに包まれた。
崩れ落ちた壁やシャンデリアに押し潰され、観客の避難には時間がかかり、二個目の爆弾が爆発した時には、一度目の爆発より多くの人達が犠牲になったのだという。
『お母さんがいたぞ!』
まだ幼児だったネアは、歌声の響く古く美しい歌劇場と爆発の直後の恐怖に包まれた会場の雰囲気くらいしか覚えていなかったが、外に避難した後に、そう嬉しそうな声を上げた父親が顔を輝かせたことだけは、はっきりと覚えていた。
あの時の事件で、ネアの両親の数少ない親族はいなくなってしまったそうだ。
不運なことに、客席を出たところで人波に押し流されてネアと父だけがはぐれ、その後で避難に使った方の通路で二度目の爆発が起き、他の親族達は巻き込まれてしまったらしい。
父親は、家に帰ってから、背中に小さな硝子のかけらが刺さっていたと気付いたそうだ。
けれど、帰宅するまではそんな事にも気付かないくらいに動転していたらしい。
わあっと歓声が上がり、会場が拍手に包まれた。
「………………ほわ」
ネアは夢から醒めたような思いで目を瞬き、周囲の人々と同じように拍手をした。
舞台の上ではふくよかな黄金色の羽を持つ妖精が優雅にお辞儀をしており、耳の奥に残った美しい歌声をネアは噛み締め直す。
「気に入ったのかい?」
そう尋ねた魔物が、そっとネアの頬を撫でる。
こちらを見た水紺色の瞳はどこか不思議な理解を窺わせ、長命な魔物らしい底知れぬ微笑みは美しく謎めいていた。
はらりとこぼれた前髪を耳にかけ、ディノはひどく優しい目でネアを覗き込む。
「…………ええ。母のことを少し思い出しました。今の演目は、妖精の国の、戦争に出るお子さんを思う子守唄なのですね」
「まだ世界が幼かった頃は、妖精の国でも度々戦争が起こった。その頃のことを歌っているのだろうね」
「あの方の舞台があるのなら、また行ってみたいです。………なんと言うか、胸をぐぐっと揺さぶる素晴らしい歌声でしたから」
あの日、かけられた上着のお陰で、ネアは幸いにも無傷だったそうだ。
舞台にいた母親は、混雑のないところから無事に避難出来たようで、客席の混乱に飲み込まれた夫と娘を祈るような思いで案じ、探し続けていたらしい。
切れ切れに記憶に残る、暗い舞台。
歌声と正装した観客達と、大きなシャンデリア。
そして、見たことも無いはずなのに美しかった歌劇場が無残に壊れ、誰もいない廃墟のようになった光景を何度も夢に見た。
件のマエストロは、たまたま席を外していて無事だったのだそうだ。
幼いネアが、燕尾服姿の騎士のようで素敵だと思った劇場の案内人が無事だったのかは分からない。
上品な初老の男性で、小さな姫君にと子供達にだけ配っていた苺の飴をくれた。
その事件の後でも、ネアは劇場にトラウマを持つことはなかった。
そこに立つことを生業とした母親は、その日同じ舞台に立っていた仲間達と共に何度かカウンセリングを受け、比較的早い段階で、恐怖心を手放すことが出来たと聞いている。
「……………前にも話しましたが、私の母は、歌劇場で歌う仕事をしていました。弟の病気もあり、私が大きくなる頃には引退をして家庭に入ってしまいましたが、何度か母の舞台を見たことがあります。だからでしょうか、よく夢の中に大きな歌劇場が出てくるのです」
「それは、良い夢かい?」
「そうではない時もありますが、私は歌劇場や音楽が大好きです。……………だから、自分が歌乞いというものになるのだと聞かされた時は、何だか誇らしくもあったのですよ」
「そうだったのだね」
音楽の波に身を任せ、祝福の光が煌めき不思議な生き物達がひしめき合う広場で、妖精が奏でるバイオリンに耳を傾ける。
美味しい葡萄パイを齧れば、表面のかりっとしたお砂糖の歯触りの後に、さくさくじゅわっとした甘みが広がった。
バターの香りと葡萄の香りを楽しみ、ぺろりと食べてしまうとお砂糖の残った指先をお行儀悪くぺろりと舐める。
ここは、なんと不思議で美しい世界だろうか。
生まれ育った世界で愛した人達がみないなくなり、それから辿り着いた世界を眺めて煌めくような安堵に至福の溜め息を零す。
遠くでパイを山程買っているゼノーシュを見付けたので、ネアは手を振った。
「……………む」
優しい一日の穏やかさを噛み締めていると、足元に小さな銅貨を抱えて涙目で俯いているちび狼を見付けたネアは、自慢の婚約者に相談してみた。
短い審議の結果、ディノに支払いを済ませて貰った新しいパイを一つ、しゃがみ込んでその狼に渡してやる。
ちび狼は、突然差し出されたパイに目をまん丸にする。
「ガウ?!」
「私の魔物からの奢りですよ。来年は自分で買えるように、その銅貨は、落とさずに持ち帰って下さいね」
「ガウ!」
ちびこい尻尾を千切れんばかりに振り回し、無料分で白砂糖のパイを食べたものの、もう一種類も欲しくて泣いていたのであろうちび狼は、思わぬ贈り物に喜びに弾んで帰っていった。
「これで良かったのかい?」
「はい。ディノ、私の我が儘を聞いてくれて有難うございます。今日はとても幸せな気持ちになったので、誰かに優しくしたくなったのです。…………あのちび狼さんは、背中に大きな傷跡がありました。あんなに小さな体で、大きな怪我を乗り越えたのでしょうね…………」
「他の生き物に襲われたのだろう。ウィームの森は豊かだが、決して安全なばかりでもないからね」
そんなちび狼を目で追いかけていると、ネア達から貰ったパイを咥えて花壇の方に行ったところで、もう一匹のちび狼がぴょこんと顔を出すのが見えた。
そちらの狼は片目を失っており、二匹は几帳面にパイを二等分すると、尻尾を振り回しながら夢中ではぐはぐ食べている。
ネア達は魔物を見上げ、もう一匹いただなんてと、ちょっと得をした気分で微笑んだ。
「ふふ。可愛いですね」
「……………浮気…………」
「なぬ。なぜにそうなるのだ。むぎゃ!まだ片手にもう一種類のパイを持っているのに、羽織りものになってはいけません!」
なお、楽しみにしていた銀のバイオリン妖精は、同じ楽団の別のバイオリン奏者な妖精が、舞台の上でフルート担当の妖精に突然求婚をするという珍事でよれよれになっていた。
銀のバイオリン妖精は、どうやら求婚を成功させてご機嫌の青年に恋をしていたらしい。
誰がどう見ても失恋したてだと分かる様子で、涙目で世界を呪うような鬼気迫る演奏は何だか思っていたのとは違ったが、その演奏技術の素晴らしさはネアにも分かった。
次は、どうか心穏やかな時の演奏を聴きたいものである。