305. とても無謀な襲撃でした(本編)
「ネア、あれはな腐食症の妖精なんだ」
体を屈めて穏やかな声でそう教えてくれたウィリアムは、ゆっくりと二歩ほど前に進むと、上空の黒い影を落ち着いた様子で見上げた。
腐食症の妖精は、触れた肌を金属の腐食のように変質させて齧り取る妖精で、それを聞いた途端ネアは慌ててディノの腕の中に隠れた。
水玉だけでも充分なので、これ以上肌に何かをされたら堪らない。
腕の中に潜り込まれた魔物は目元を染めて、ご主人様がとても懐いていると三つ編みを持たせてくれた。
(鳥の群れのように飛ぶのだわ…………)
ざあっと群れになって飛んでいる生き物達が近付いてくれば、ネアの目にも蝶と蝙蝠の間のような不思議な生き物の姿が見えてくる。
ごうっと、時折つむじ風のように素早く動き、どうやら最後尾の山車を狙っているようだ。
そうして、最後は鋭く一直線になって舞い降りてくると、歩道側を見た瞬間、一斉にぼさぼさっと地面に落ちた。
「ほわ、…………落下しました」
「わーお、案外鈍感なのかな。気付くのが遅くない?」
「落ちるんだね……………」
今や、山車の前を歩く魔術師達や観客の目線は、地面に落ちて激しく震えながら涙目でウィリアムを見上げている小さな生き物達に釘付けだ。
微笑んで立っているだけのウィリアムと、そのまま恐怖のあまりこてんと倒れてしまいそうな腐食症の妖精達との対比がとても激しい。
「ムキキッ……」
「ムキ…………」
おずおずと、一口まんじゅうサイズな腐食症の妖精の中でも若干大きめの個体が進み出ると、ウィリアムに何やら訴えている。
ウィリアムは、冷え冷えとした微笑みを崩さぬまま、一言だけ短く返事をした。
「帰るんだ」
「ムキ!」
その瞬間、全ての腐食症の妖精達がびゃんと垂直飛びで跳ね上がり、一目散に飛び去ってゆく。
後には巻き上げられた花びらが少しだけ舞っているくらいで、成り行きを見守っていた人々はごくりと息を飲んだ。
人々の途方に暮れたような眼差しからは、あの砂色の髪の背の高い男性は何者なのだろうという疑問がありありと伺えた。
中には、疫病祭りのどこかにいると言われている死者の王ではないだろうかと、こそこそ言い合う者達もいた。
そんなウィリアムは現在、ふわっと飛んで来た花びらが鼻先に貼りついてむがっとなっているネアに、屈んでその花びらを取ってくれている。
「…………キュミ?」
よりにもよってなそのタイミングに現れたのは、黒い人参のような不思議な生き物だ。
ひょこひょこと根っこの部分で二足歩行しながら側溝の方から出て来たのだが、何とも言えない周囲の空気に、何が起こっているのでしょうかともさもさとした葉っぱ部分の頭を傾げている。
「……………なにやつ。ハムハムさんの親戚でしょうか…………」
「おや、悲鳴草ですね」
「む。悲鳴草さん…………?」
「ええ、頭の中で悲鳴が耳鳴りのように聞こえるという、厄介な病を媒介する精霊の一種です。呪いなどに使われますが、あの通り畑から脱走するのでウィームでの栽培は禁止されていますから、違法栽培者がいる可能性もありますね…………」
「脱走するのですね…………」
「脱走するんだね……………」
ネアに、悲鳴草という新しい生き物の名前を教えてくれながら、ヒルドは隣のエーダリアと頷き合った。
二人の様子を見ている限り、この疫病祭りが終わったら、違法栽培者を探したりもするに違いない。
首を傾げながらひょこひょこと歩く黒人参に、はっと我に返ったのは、封印庫の魔術師らしい女性だ。
ウィリアムの方を見たまま固まっていたが、現れた敵の姿に自分が何の為に山車行列に参加していたのかを思い出したのか、慌てたように背筋を伸ばす。
すぐに、手に持ったすりこぎのような形をした木の棒を振るい、しゃりんと、澄んだ鈴の音を響かせた。
「まぁ、あの棒は音が出るのですね」
「鈴の木ではないかな。誰も踏み入らないような森の奥に、浄化の魔術の種を埋めて塩をかけて育てると、鈴の木が育つそうだ。あの鈴の音は、浄化の魔術を編むのに適しているんだよ」
「とても不思議で面白いです!そんな風にすると、鈴の木が生えてくるのですね…………」
芽吹いた鈴の木を育てると、あのような大きさのところでぽきんと折れて枯れてしまうのだそうだ。
折れた鈴の木を持ち帰って月光に晒して乾燥させ、丁寧に磨き上げれば素晴らしい浄化魔術の道具になる。
枯れるのは夕方と決まっていて、その後は月の出る夜まで布で包んでしまっておく。
月光に当てる前に朝日を浴びてしまうと、せっかく育てた鈴の木は砂になって崩れてしまうそうなので、細心の注意を払って作られたものに違いない。
しゃりん、しゃりんとまた鈴の音が響いた。
どうやらそちらの女性は浄化の魔術で黒人参の足止めをしていただけのようで、後方に立っていた男性が、つがえた弓でざしゅっと黒人参を撃ち抜く。
綺麗な銀色の弓で貫かれ、黒人参は砂になって滅びてしまった。
残酷なようだが、脱走して悲鳴草は獲物を探しているそうなので悪い生き物なのである。
やっと本来の疫病祭りの醍醐味を思い出したのか、観客達も我に返ったように歓声を上げた。
その騒ぎに乗じたものか、どこからかしゅばっと飛び出して来た黒い狸のような生き物がいたが、山車にへばりついたところでうっかりウィリアムの方を見てしまい、けばけばになって固まった。
そのまま動かなくなったので、疫病除けの特製グローブをはめた魔術師に、けばけばの尻尾を掴まれてべりっと山車から引き剥がされている。
「皆さん、ウィリアムさんを目視するまで気付けないのですね…………」
「ああ、擬態でだいぶ気配を薄めているからな。…………今のは、咳病の魔物だ。子供の頃の姿はちびふわに似ているが、見付けても触らないようにするんだぞ?」
「……………むぐぅ。ちびふわ似の赤ちゃん…………。せっかくの逸材なのに、なでなでしてはいけないのですか?」
「ああ、症状は地味だが厄介なことになる」
ネアは、耳が短いだけで、ほとんどあの形だという咳病の魔物の子供に胸が騒いだが、咳が止まらなくなって声が出なくなったり、咳のあまり肋骨を疲労骨折したり、喉から血が出たりすると知り諦めた。
春先には、よく農村などに現れて悪さをするらしい。
その季節に子育てをするので、咳病患者を増やして力を蓄えるのだ。
「となると、咳病の魔物さんは赤ちゃんを産むのですか?」
「…………どう言えばいいんだろうな。分裂して増えるんだ」
「……………なぬ。分裂ということは、ボラボラ方式なのですね」
「ありゃ……………」
やがて、ネア達の前を通る山車は全て行ってしまい、人々は最後の花火の大騒ぎが始まるまではと、あちこちにお土産を買いに散らばって行った。
その素早さは圧巻で、ウィリアムも凄いなと苦笑している程だ。
このあたりの観客席は区画ごとにチケットを購入して入るので、出入りは自由となる。
近くには大きなお面売り場もあるので、奥の観覧席のお客達が山車に夢中のこの隙に、ゆっくりお土産用のお面を買い足したりする観光客も多いようだ。
とは言え、みんなの一番の楽しみは今日だけ出ている屋台だろう。
あちこちの有名店からも、今日だけ限定の浄化の祝福のある美味しい食べ物の屋台が出店されており、ウィームの領民達もそんな限定グルメに夢中なようだ。
「むぐる…………」
「ご主人様………」
「揚げ菓子の甘い香りが漂ってきますが、ここは我慢なのです。林檎のケーキは食べられるので、それまでは……………」
ネアの言葉が途切れたのは、スパイシーな、角切りトマトをたっぷり使ったソースのピタパンサンドのようなものを食べている騎士がいたからだ。
そのピタパンサンドが欲しくてじたばたしている奥さんを、ゼベルが慌てて持ち上げている。
「奥さん、それは辛いから他のにしようか!」
「はは、首を振ってるぞ。ゼベルはすっかり尻に敷かれたな」
「…………いつか、大変なことになるぞ」
「うわ、リーナが言うと笑えないなぁ………」
「そうだとしても、心を動かしてくれるような相手に出会えただけでも幸せじゃないか。大切な奥さんに愛想を尽かされないように、何か、他に美味いものでも買ってきてやったらどうだ?そう言えば、奥の通りに揚げパンの屋台があったぞ」
「…………奥さん、揚げパン食べる?」
そう尋ねられた夜狼の奥さんは、首を傾げてから尻尾をふりふりさせた。
興味ありと見たのか、そんな揚げパンを勧めていたアメリアが、揚げパン屋台のメニューの紹介に入る。
どうやら、メニューの書かれた紙を貰って来ていたようだ。
揚げパンには、中にマッシュルームとチーズソースが入ったものと、野菜たっぷりトマトソース、甘辛く煮た牛肉のものの三種類があるらしい。
そんな会話が聞こえて来て、無言で足踏みしているネアの視線の向こうで、ゼベルと奥さんは甘辛牛肉の揚げパンを買いに出かけていった。
「むぐぅ…………」
自らが羨望の魔術の場になりかねない思いでその姿を見送り、ネアは、あまりにも暗い目をしていると慌てたノアから、美味しい干し杏をお口に入れて貰った。
ネアはもぐもぐしながら、首から下げたアルテアの食べてはいけないものリストを引っ張り出して見てみたが、幸いドライフルーツは問題なしのようだ。
「ほら、リーエンベルクに帰ったらさっぱり塩檸檬の鶏肉サンドだよ!」
「むぐ?きょ、今日のお昼御飯は、そんな素敵なものなのですか?!」
「そうそう。ネア、塩檸檬の鶏肉好きだったよね?」
「…………私も食べていいものなのですか?」
「勿論だよ!ネアにも食べられるものをってことで、疫病祭りに出かける前に作っておいてくれたみたいだからね」
そんな素晴らしいメニューを教えてくれたノアに思わず目を瞠ったネアに、エーダリアも頷いてくれた。
「ああ。刺激の少ないものをと考えられた特別なメニューがあるのだ。その中から、お前が好みそうなものをと、張り切って用意していたぞ。中に挟む香草も鎮静効果のあるものだから、お前の水玉病にもいいだろう」
「…………ほぎゅ。優しい世界なのです」
「良かったね、ネア」
「はい!」
ディノに頭を撫でて貰い、辛うじて祟りもの化を免れた人間は唇の端を持ち上げた。
他にはトマトの冷製スープと、ほっくり焼いた茄子を、オリーブオイルと削りかけた祝福なしの燻製チーズでいただくものもあるのだとか。
とても素晴らしい鎮めの品に、ネアはきりりと頷いた。
今日は沢山のケーキが届く日でもあるので、ずっと楽しみにしていたのだ。
ケーキの為には水玉模様なお腹のことを考えて、お昼は簡素なものしかいただけないと絶望していたのに、リーエンベルクの料理人は刺激の少ない美味しいものをあれこれと工夫してくれていたようだ。
「リーエンベルクにはな、私が魔術的な禊を必要とする時の為に、祝福や魔術効果のない食事用の食材やレシピがあるのだ」
そう教えてくれたのはエーダリアで、今回はその時の為のメニューにある料理を、ネアの為にお願いしてくれたらしい。
「禊があるのですか?」
「ああ。このような立場だと、政敵や、あまり関係のよくない者達の、結婚式や葬儀に出なければならないことがある。舞踏会などとは違い、儀式となるような場であるし、万が一にも望まない術式を持ち帰らないようにと、禊をして身の内の魔術を清めてから出向くようにしている」
守護や祝福などで身に纏う魔術を清めておけば、悪意のあるものや祝福に見せかけた呪いなどを添付されると、すぐに分かるのだそうだ。
実際に、それで望ましくないものを発見したことも少なくはないと聞いて、ネアは胸が苦しくなった。
「……………まぁ、…………お役目柄、そのような大変さもあるのですね」
エーダリアはウィーム領主だ。
確かに、望まざるとも出なければならない場所はあるだろう。
そんな危うさを思いネアが眉を下げると、どこか自慢げにノアが微笑んだ。
「ほら、もう僕がいるから大丈夫だよ。僕はさ、呪いの周りの魔術には強いからね。外周だけ巡らせて、全部依頼主に跳ね返るようにしておいたから」
「さすがノアです!」
「は、跳ね返るようになっているのか…………?」
「そりゃ勿論そうだよ。それで死んだとしても、僕の守護を持つ者を損なおうとしたんだ。自業自得だよね」
エーダリアは少し困ったような顔をしていたが、ネアは、その後ろにいた騎士達や、隣の区画にいるバンル達が深く頷いているのを見て、この上司が、領民達からもどれだけ大事にされているのかを再確認する。
ヒルドは微笑んでいて何も言わなかったが、かつてはそのような悪意を持つ者達を、ヒルドが内密に排除していたのだそうだ。
ノアが来たことでヒルドがどれだけ楽になったのかを、ネアは以前ダリルから聞かされたことがある。
(そんな話をした時、ダリルさんは私の表情をじっと見ていたっけ…………)
ネアが、ここで暮らしてゆく上では無縁では済まされないそのような暗部に耐え得るのかを、ダリルは観察していたのだろう。
とは言えここにいるのは、大事な人達を守る為であれば、悪い奴などくしゃっと滅ぼす系の冷酷な人間である。
必要であれば、ネアもきりんの貸し出しを厭わないのだが、その場合はノアも倒れてしまうので困ったところであった。
(でも、きりんさんなら、高位の生き物にも効くのにな………)
ノアの呪い避けも、万全ではない。
ディノもそうだが、この世界の魔術には誰にも介入出来ない厄介な理で守られた範囲があり、また、それぞれの系譜の固有魔術なども存在する。
そんな時の為に、ネアとしては高位の生き物達をも滅ぼせるきりんを推奨しておきたいところだ。
先日、初めての動作確認から大物の捕獲実験も終えたきりん箱にも、まだまだ開発の余地がありそうだ。
ネアは、より使いやすい武器としての完成を目指し、いっそうの研究を進めることを誓った。
きりりと頷いているネアの表情を何と思ったのか、ウィリアムが微笑みかけてくれる。
「安心して食べられるものがあって、良かったな」
「はい!ウィリアムさんも、夕方まではこちらにいてくれるのですよね?」
「ああ。何か問題があるなら、夕方まではローンに任せているから心配しなくていい」
「む。にゃんこ耳なローンさん……」
ネアはあの尻尾をぎゅむっと掴みたいという憧れを思い出し、少しだけ手をわきわきさせた。
すると、何を思ったのか、慌てたディノがその手に三つ編みを握らせてくれる。
「なぬ。なぜに三つ編みなのだ」
「ネアが懐いていてかわいい……………」
「ディノ、今のは三つ編みを所望する合図ではないのですよ?」
「…………違うのかい?」
小さく首を傾げ、魔物はとても寂しそうな目をした。
その眼差しの無防備さに、心の汚れた人間は、ローンのにゃんこ尻尾を掴んでにぎにぎしたかったのだとは言えなくなる。
「…………ぐっ、…………仕方ありません。ディノの三つ編みを握っていることにします……………」
「……………かわいい」
「あっ、ネア。あんまり強く引っ張ると、シルが弱るから注意しようか!」
「強く引っ張ってもいいよ。君が甘えてくれるのは、とても嬉しいからね」
「わーお、シルも、危ない橋を渡り過ぎないようにね……………」
「なぜにこの流れになったのだ。解せぬ…………」
ネアは悲しい思いでウィリアムの方を見上げてみたが、この話題は相変わらずウィリアムの苦手分野であるらしい。
微笑んではいるが、たいそう虚ろな目をした終焉の魔物は、来月のアルビクロムの鍛錬を思ったのか深刻そうな面持ちで小さく頷いてくれた。
やがて、のんびりお茶をしながら待っていたネア達のところにも、ウィームの街を巡った山車行列が帰ってくる。
行きとは違って、どがががと激しい音が聞こえるのは、山車行列に参加している魔術師達が、爆竹のような音を立てる花火をつけた紐を、ぶんぶんと激しく振り回しているからだ。
時折、どかんと爆発音も聞こえ、手筒の打ち上げ花火のようなものも発射されている。
このような一面を見るたびに、ネアはウィームの住人達の秘められた過激さに慄くばかりなのだが、そんなネアよりも怯えてしまうのは魔物達だ。
ずどん、どがががと激しい破裂音や煙が近付いてくると、ディノは怯えてネアをしっかりと抱き締める。
ウィリアムも途方に暮れた顔をしているし、ノアもヒルドの陰に隠れたようだ。
行きの優雅で艶やかな調伏の舞はどこへやら、魔術師達は激しく火花を上げる花火を振り回し、時には飛んできた疫病の系譜の生き物に投げつける。
直撃を受けてじゅわっと焦げて地面に落ちた毛玉妖精を見ていると、火をつけたばかりの激しい火花を出す花火でべしべしと叩かれている、枯れ木のおばけのような精霊も見えた。
山車やその上に置かれた山車人形は焦げないように、火除けの魔術で守られているそうだ。
恐らく、だからこそいっそうに花火の振り回しは激しくなり、お酒の入った男達が観客席で拳を振り上げて歓声を上げる。
「疫病祭りの荘厳さというか、繊細さのようなものは、すっかり消え失せました…………」
「人間はどうして花火を振り回すのかな…………」
「…………わーお。いつ見ても、この最後の儀式は残酷だなぁ……………」
「俺は、この猛々しさは人間らしくて結構好きなんだが、確かに火には浄化の魔術があるけれど、ここまでしなくても疫病は祓えるとは思うかな」
大らかに微笑むウィリアムを除き困惑する魔物達の一方で、騎士達の中には大盛り上がりする者もいる。
特にリーナは竜の血が騒ぐのか、珍しく目を輝かせて声を上げ、花火を持つ魔術師達を応援していた。
「ふぁ、目がちかちかします。…………そして煙いのでふ」
「この煙には浄化の魔術が込められているんだ。イブメリア前後の儀式や、お前が死者の国から戻った時にも、煙を浴びるような儀式があっただろう?」
「むむむ、であれば、この煙でお腹の模様が薄まるといいのですが…………」
「ま、待て!ここで脱がないようにするのだぞ!」
「……………エーダリア様の中で、私は痴女か何かなのでしょうか…………」
「申し訳ありません、ネア様。後でしっかりと叱っておきますからね」
「ヒルド…………………」
花火で大盛り上がりの山車が通り過ぎると、そこからウィームの街はまた新たな戦争になる。
疫病祭りが終わると、人々は薬草の花を添えた、淡い黄色と水色のクリームでデコレーションする爽やかな林檎のケーキをいただくのが習わしなのだ。
それぞれが、お目当のお店のケーキを買うべく奔走するからで、山車が通り過ぎたところからの観客の撤収は、いっそ見事な程であった。
「まぁ、一瞬で駆け出してゆくのですね」
「凄い技術だな。あれだけ機敏に出てゆくのに、一定の優雅さを失わないのか…………」
「ウィームの住人さんらしいのです。とても穏やかで理知的ですが、内面には先程の花火を振り回す魔術師さん達のような情熱を秘めているのでしょうね…………」
ネアの総括にディノは震えながら頷き、ご主人様の持つ三つ編みをしっかりとネアの手に巻き付けた。
ノアもヒルドの腕に掴まってしまっており、そちらはそちらで、ホラーハウスに来た恋人達のような状態になっていた。
よく見れば、ケーキの買い出しに飛び出してゆくのはその家族や仲間達の中の一部の人だけで、残った人達は疫病祭りの余韻を楽しみながらのんびりと帰路についている。
山車をしまい疫病祭りの成功を祝う、二組織の打ち上げの場に加わる者達もいるようだ。
全ての山車は、封印庫の一画に設けられた遮蔽空間の中に収納されており、魔術的な隠し金庫のようなその中には、統一戦争の後の略奪をも乗り越えたウィームに代々伝わる特別な儀式道具達が保管されている。
そのあたりの所蔵が見逃されたのは、ダリルの書庫と同じように統一戦争時に封印庫が中立の立場を選択したからだ。
戦争とは言え、決して外に出してはならない封印の品の数々を守る為に、彼等もまた苦渋の選択を強いられたという。
そのお陰で、どれだけの危うい品物が暴走せずに済んだものか、王都の者達の知らない魔術大国の負の遺産は、今もそこに眠っている。
「帰って来ました!今年はウィリアムさんも一緒なのです!!」
無事に疫病祭りの観覧を終えて、ネア達はリーエンベルクに戻って来た。
既に様々なお店からケーキが届いており、別室でリーエンベルク特製のお茶を楽しんでいる配達人達に、エーダリアとヒルドが挨拶に行っている。
そして今年はなんと、ウィリアムも一緒に疫病封じのケーキを食べられるのだ。
と言うのも、次の仕事場が疫病が蹂躙して全ての生き物達が死に絶えてしまった集落であるらしく、外部にその疫病が広がらないように、元々ウィリアムはこの後に疫病除けの魔術を纏う予定なのだとか。
その集落は、魔術の約束を反故にしたことで疫病の災いに襲われたらしい。
ローン達の疫病の系譜の人外者達がまずは徹底的にその集落を滅ぼした後は、疫病封じの魔術を浸透させた鳥籠で覆い、死の行列を率いたウィリアムが終焉の残骸を綺麗に片付ける。
特殊な疫病が蔓延した土地なので、二段階に作業を分けて後片付けをしなければならないのだと、疲れたような目でウィリアムは教えてくれた。
「塩檸檬な鶏肉のサンドイッチです…………」
会食堂には、既に素敵な昼食が並んでいた。
家事妖精や料理人達もお祭りを楽しみに出かけているのだが、予め配膳して状態保持の魔術をかけてくれてあったのだ。
美味しそうな匂いにネアは弾んでしまい、あまりにもびょいんとなったせいか、水玉病によくない激しい運動かと案じた魔物に慌てて止められる。
「ネア、体に障るから落ち着こうね」
「むぐぅ。屋台の食べ物をいただけなかった分、喜びは何倍にもなっているのです。かくなる上は、美味しく食べて発散するしかありませんね!」
「うん。………いいかい、ケーキはそれぞれ一切れずつまでだからね」
「ディノ、いくら私でも全てのケーキを一切れずつも食べられません。全種類を取って、ディノやウィリアムさんと分け合いっこするのです!」
「………………ずるい。かわいい」
婚約者な魔物はまたしても弱ってしまったので、ネアは届いたケーキを全種類食べる為に、昨年の全種類薄く切り分けて分け合いっこ運動を施行する旨を、ウィリアムにも厳かに告知しておいた。
「ですので、ウィリアムさんも一口だけ食べたいものがあったら、私達のお皿から召し上がって下さいね」
「ああ。ネアと一緒に食べられるなら、俺も張り切って参加するよ。疫病封じのケーキを食べるのは初めてだしな」
リーエンベルクに持ち込まれたのは、ザハのものやアンツのケーキに雪曇りのケーキ。
ザルツの老舗店のものに、今年になって出来た新しいお店のもの。
疫病祭りのケーキはデコレーションも華やかなので、目で見ても楽しいものばかりだ。
「ありゃ、ウィリアムって甘いもの得意だったっけ?」
首を傾げたノアに、ウィリアムはおやっと眉を持ち上げる。
「普通に食べるぞ?」
「……………ふーん」
ノアはなぜか呆れたような目をしていたが、ウィリアムは自分ではあまり進んで食べにいかないだけだとネアに教えてくれる。
「最近は、ネアと一緒に食べに行ったりするのも楽しいからな」
「ふふ。甘いものは、みんなで食べると美味しいですよね」
そう言ったネアに、ウィリアムは優しく微笑む。
疫病祭りで見事な山車の装飾から触れる死までの道行きは、この終焉の魔物がどれだけの過酷なものを日々見ているのかをあらためてネアに教えてくれた。
だから、ネアはそんなウィリアムの手を引っ張り席につかせた。
これから、この家族のようなみんなで美味しそうな塩檸檬な鶏肉のサンドイッチをいただくのだ。
ここがネアやディノにとって大事な家になったように、ノアがここに沢山の家族を見付けたように。
時には住人かのように滞在してしまっているアルテアのように。
ウィリアムにとっても、訪れてほっとするような場所になればいいと心から思った。