水玉病と魔物の介護
「ふぇっく」
その日のネアは、朝から涙目であった。
小さく鼻をすすり、鏡の中の大惨事を直視出来ずに項垂れる。
事の起こりは、昨晩の夜からであった。
森から帰り、大浴場でお風呂にも入ったのでさぁ寝ようかというところで、お庭に光る鳥が出たのではしゃいで見に行って帰って来た後くらいから、少しだけ肌がぴりっとするような感じがした。
草にでもひっかけたかなとあまり気にしていなかったのだが、今朝になるとネアの体には重篤な症状が現れていたのである。
「……………ふぎゅ。死んでしまうのかもしれません」
ネアは悲しくそう呟くと、体を捻ってお尻の方まで調べてみた。
今のところ、症状はお腹と右足の太もも、そして左側のお尻のあたりにも少しだけ出ているようだ。
悲しくて悲しくて涙が出そうになり、どうやって魔物に伝えればいいのかなと胸が苦しくなる。
幸い服を着て見えるところや顔は無事だが、これから広がってくるのだとしたら、もう消えてしまいたい。
「ふぎゅ…………ふぇっく。…………ふぐ」
悲しくなったネアは溢れそうな涙を拭い、服を着るのはやめて、一度も袖を通してなかったガウンのようなものを衣装部屋から引っ張り出してくるとそれを羽織った。
ぽてぽてと歩いて悲しく続き間の扉を開け、部屋で待っていてくれた魔物の方を見た。
「……………ネア?」
ディノは、すぐにネアの異変に気付いてくれたようだ。
涙目のネアに慌てたように駆け寄ってくると、まずはふわりと抱き締めてくれた。
「どこかぶつけたのかい?それとも、怖いものでもいたのかい?」
優しく尋ねてくれる魔物の水紺色の瞳を見上げ、ネアは惨めさを噛み締めて何が起こったのかを伝えることにした。
肌の異変は淑女の絶望である。
悲しくて恥ずかしくて、また涙が出そうになった。
「…………ネア?」
優しく涙を拭ってくれたディノが、額に口づけを落としてくれる。
「…………び、病気になったようなのです」
「…………どのような症状なんだい?すぐに薬を作ってあげるよ」
ディノはその一言ではっとする程に深刻な眼差しになり、床に膝をついて、ネアの正面に屈むようにして顔を覗き込んでくれる。
「お、お腹に……………」
「お腹に?」
「……………ふぇっく。………お腹が水玉になりました」
「……………水玉?」
あんまりな症状に魔物は目を瞬いた。
けれども、可愛らしい水色の水玉模様のようなファンシーなものではないのだ。
水玉模様の突起のある板の上にでも寝転んだかのように、水玉模様の軽度の内出血にも似た模様が出来るのは、視覚的にとても堪えた。
「…………見せてくれるかい?」
「ふぎゅ……………」
ネアは、ディノが嫌がらないだろうかと怯えながら、恐る恐るガウンの前を開いてお腹を見せてみた。
するとディノは、感染ったらどうしようと嫌がったり、気持ち悪いと眉を顰める様子はなく、ひどく悲しい目をするではないか。
「ああ、…………これは水玉病だね。可哀想に。痛くはないかい?」
「…………むぎゅ、水玉病……………」
「魔術的な感染症の一種だった筈だよ。一度、この病気が悪化してしまって斜線模様になった魔物を見たことがある。体質的に合わない穢れや魔術が、傷口や呼吸器から体内に取り込まれるとなるものなんだ」
「……………治るのでしょうか?」
「この反応自体は、体に合わない魔術が取り込まれたという合図のようなもので、そこまで悪いものではないんだ。………確か、体の中の異質な魔術を追い出す為の薬を飲めば、数日で治る筈だよ」
「……………数日」
ネアは、数日も水玉模様なお腹なのかとすっかり絶望したのだが、ディノは特に重たい病ではないことに安堵したようだ。
深く息を吐くと、安心させるように微笑んでくれる。
「私が前に見た者は、その箇所をとても痛がっていたんだ。君の様子を見ていると、そこまでは痛くはないのだね?」
「ふぐ。ぴりぴりっとした感じは時々ありますが、痛いという程ではありません。…………ただ、こんな風に出てきた水玉模様が怖くて悲しいのです」
「可哀想に。…………見ると怖くなってしまうなら、何か、柔らかいものを着て覆っておこう。けれどもその前に、少し触れるからね。どんな属性のものに反応が出たのかを調べて薬を作るよ。…………もし嫌でなければ、ノアベルトかアルテアにも診て貰った方がいい。私が知らないものの影響があって、治りが遅くなるといけないからね」
「……………ふぎゅる。ノアに診てもらいまふ」
しかしノアは、折悪くリーエンベルクを不在にしていた。
明日の疫病祭りの山車の一つに、魔術的な欠陥が見付かったのでその調整に駆り出されたのだ。
それは、昨日の割れ嵐の影響によるもので、その際に嵐の中にあった穢れに反応し山車にかけられた魔術が動いてしまい、大きな負荷がかかったことで一部の機能が失われてしまったようだ。
儀式的な意味のある疫病祭りなので、魔術に不備のある山車は牽けなくなる。
とは言え、それぞれに意味があるのでその山車の表現するものを鎮める要素が失われるのもまずいぞとなり、大至急の修理が行われているのだった。
「では、アルテアかな」
「むぐぅ。アルテアさんに、このお腹を見せるのですね……………」
「……………そうだね、もう少し着ようか」
「お尻にも水玉があるのですが、覆ってしまってもいいですか?」
「……………………うん。一度、私が見ておいてもいいかい?特別な差異がないようであれば、アルテアに診せるのは腹部だけでいいだろう」
「ふぁい」
ノアは、女性問題では何かと悪さもするし、最初の出会いの印象もあり、気軽に椅子にしたりは出来ない系の魔物なのだが、病気となると真摯に対処してくれそうな安心感がある。
そこはやはり家族のような認識があってこそなのだが、その、こんな風になってしまったお腹やお尻を見せてもなんとなく安心なノアとは違い、アルテアに赤く水玉状になったお腹を見せるのは抵抗があった。
どんなものでも懐に入れたものを慈しむノアとは違い、アルテアには、まだ一定の外様の魔物らしい酷薄さも窺える。
風邪をひいた時には甲斐甲斐しく面倒を見てくれたのだが、あのような体調不良とは違う今回のような病変は、醜く損なわれたものという感じがして倦厭しないだろうか。
(水玉模様のお腹の人間なんて、使い魔でいるのが嫌になってしまうかもしれない…………)
そんな悲しい思いでネアはディノにへばりつき、体に負荷をかけないようにと持ち上げることも出来ない魔物は、そんなネアの鼻先にまた一つ口付けを落してくれた。
すっかり弱ってしまっているネアに、ひどく甘やかで優しい声で話しかけてくれる。
大事に大事にしてくれるので、水玉模様な婚約者でも構わないのだというその思いが伝わってきて、胸の奥に固まっていた怖さをもろもろと崩すことが出来た。
(こういう時、その境界線が分らなくて怖くなる……………)
人外者達の好意は、とてもはっきりとしたものだ。
ネアは、春や夏の系譜の者達には好まれないらしく、水玉などのない平常の状態から、春告げの舞踏会などのようにとびきり綺麗にして貰って着飾った状態であっても、その系譜の者達からは地味だとか醜いと言われることは珍しくない。
人外者は大きな力を持つ者程に美しく、それは悍ましい程の造詣であれ、どこか壮絶な美貌を意識させるのが彼等の容姿であった。
であれば、醜く病変したものなどを嫌悪はしないだろうか。
それは人間が感じるものよりも、大きな変化として認識されはしないだろうか。
そう考えると恐ろしくて悲しくて、例えようもなくこの病変が腹立たしい。
ネアは、何とも言えない思いでガウンをめくると、よりにもよって婚約者に赤い水玉模様のあるお尻を見せる羽目になった。
今年はまだ海遊びもしていないし、プールでだって遊ぶつもりであったのに、こんな状態ではそれも難しいかもしれない。
楽しみを奪われたようでますます惨めになり、ネアはくすんと鼻を鳴らす。
「…………ここにも出ているんだね」
「太ももは、薄らと出ているだけなのです。お腹がとても濃くて、次に濃いのがお尻でした…………」
「可哀想に。この場所だと座ったりするのも怖いだろうに…………。詳しく見て問題がなければ、すぐに薬を作ってあげるよ」
「わ、私をとても惨めな思いにさせたので、こんな水玉模様は早くぽいするのです!」
「うん。…………ああ、怖くなってしまったかな。大丈夫、綺麗に治るからね」
またくすんと鼻を鳴らしたネアに、ディノはお尻のカーブにひんやりと冷たい手を当て、念の為に痛みなどは感じないようにしておいたと教えてくれる。
けれども、優しい目で慰めてくれた魔物に少し安心させて貰ったせいか、湿疹や痣などのようなものだと思えば、治るまでは刺激物もいけないのだろうかと、ネアはなぜかいっそうに暗い気持ちになった。
心に余裕が出たことで、かえって他にも様々な不安や不満が湧き上がってきたのだろう。
そんな我が儘さがまた悲しくて、ネアはくすんと鼻を鳴らす。
「……………水玉模様の婚約者でも、嫌いになりませんか?」
だから、こんな風に確かめるのは甘やかして欲しいから。
ディノはすぐに察してくれて、ぞくりとする程に甘く凄艶に微笑んだ。
「どうして私が君を嫌いになるんだろう。どんな模様でも君は可愛いよ。それにね、君を怖がらせるものは私が取り除いてあげるからね」
「むぐふ」
ぽすんと抱き締めて貰い、ネアは胸の奥に凝った悲しい吐息を深々と吐き出した。
こんな風になった肌がとても悲しかったので、今後は不用意にちびふわの毛皮を小花柄にしたりしないよう、ダリルとも話し合っておこう。
とは言え、肌と毛皮ではまた違うかもしれないので、そこは応相談だ。
廊下に出ると、窓の外はいつものリーエンベルクの健やかで美しい庭が広がっていた。
嵐は去ったものの、あちこちにまだ雨の滴が残っていて、早朝の庭ではその煌めきが美しい。
そんな滲むような色彩の鮮やかな緑と、色とりどりの花々を見ても、今日のネアは心を弾ませることは出来ずにいた。
朝食は遅らせる旨を連絡しておき、まだ早い時間ではあるもののアルテアの部屋に向かう。
その道中の廊下を歩きながら、ネアは何度か運命の残酷さにむしゃくしゃして、ディノの背中にぼふんと顔を埋める。
こうして心をざわめかせるような症状に悩まされていると、世界の全ては健やかなのに、自分だけが苛められているような悲しみにくらくらしてしまうのはなぜだろう。
心の狭い人間は、現在進行形で水玉模様の肌にされたことが悲しくてならないのだ。
「………………なんだ」
連泊中の部屋をノックされ、アルテアは少しだけ草臥れた様子で顔を出した。
部屋の中には書きかけの書類のようなものや、以前に屋敷で見かけたチェス盤のようなものもあり、このリーエンベルクの滞在でも仕事はしているらしい。
部屋の奥には見たことのない部屋が広がっているので、無断空間併設の疑いもある。
アルテア特有の魔物の香りに、微かな珈琲の香りが混ざった。
寝ていた様子はないので、もしかしたら徹夜で何かをしていたのだろうか。
「この子に、水玉病の症状が出ていてね。私の見立てで薬を作るのは簡単なのだけれど、他の要素が紛れていないか君にも見て貰おうと思うのだけれど、構わないかい?」
ディノがそう尋ねると、アルテアは赤紫色の瞳を瞠る。
ディノの後ろに隠れてしまっていたネアは、ばちっと目が合ったのでまた少しだけ隠れてみた。
もう大人であるし、病変の患部を見せることぐらいは出来る筈なのに、なぜだかそんなことが嫌で堪らない。
「お前は、また妙なものに触るか、食うかしただろ。………………どうした?」
「………………水玉のお腹を見せたら、アルテアさんは森に帰ってしまいます?」
むぐぐっと眉を寄せ、ネアが怖々とそう尋ねると、アルテアはかすかに唖然としたようだ。
ややあって、ふっと唇の片端を持ち上げると、どこか呆れたような微笑みを浮かべた。
「…………馬鹿だな、お前は」
「………………むぎゅ」
ぽふんと頭の上に手を乗せられ、ディノの背中の後ろから引っ張り出される。
ガウンの下には、柔らかなニット編みのショートパンツを穿いてきたが、ガウンをぺりっとめくれば上はもう下着しかつけていないので、お腹は剥き出しだ。
緊張して体を強張らせたネアに、アルテアは無言でまた頭をぐりぐりと撫でてくれた。
「腹だけか?」
「……………………お尻と太もも一部にもあります。お尻はあんまり見せたくありません……………」
「我が儘を言うな。水玉病じゃなかったらどうするつもりだ」
「……………ふぇっく」
「アルテア、全てを見る必要があるのかい?」
「確か、二重感染症を発症した妖精が以前にいた筈だ。調べてみないと詳しい症状までは覚えていないが、重なるように水魔術の中毒症状が隠れていて、薬で障害が出たと聞いている。身体中の皮膚が木の皮になったな」
「むぎゃ!」
「そういうことだ。全身調べるぞ」
そこでネアは、アルテアの部屋に入るなり、べりっとガウンを剥かれ、髪の毛に隠れているような首筋や背中まで綿密な診察を受ける羽目になった。
さすがにそこまではという場所は自分で目視してからの報告で済ませて貰えたが、実際に症状の出ているお尻は容赦なく調べられ、ネアはあまりの惨めさに涙目になってしまう。
おまけにその肌は、じんわり血の滲むような、痛々しく目に障る、決して綺麗ではない水玉模様に冒されているのだ。
「その部分には、痛みを遮るような魔術を当ててある。座ることも出来ないし、歩くのにも痛そうだからね」
「ああ、痛みの遮蔽くらいであれば特に妙な効果も出ないだろう。…………今出ているところは、クアンブルフの魔術で引き起こされた感染症だな。かなり特殊なものだが、………………あの割れ嵐で飛来したんだろう」
「やはりそうだったのだね。今迄になかったことだから、既存のものに反応することはないだろうと思っていたんだ。水を乞う魔術の気配もあるし、クアンブルフであれば納得出来る。海の魔術に長く触れた後だったからだろう」
「くあんぶる……………?」
涙目のまま首を傾げたネアに、その反応についてディノが教えてくれた。
クアンブルフというのは、一種の嫉妬や羨望の魔術反応である。
恐らくネアが触れたものの一端は、水などが貴重な土地で敷かれる、違法すれすれの過剰な水呼び魔術の欠片ではないかということで、その魔術に、ネアが海竜の戦でたっぷり触れてしまった海の魔術の残滓が過剰反応し、クアンブルフという魔術の反応が出たのだそうだ。
とある魔術が多くの対価を支払ってでもと望むものを、多く享受しながらも与えられない者がそこに触れると、このクアンブルフ反応という特殊な魔術反応が稀に出る。
クアンブルフ反応に深く侵食されると、場合によっては呪われてしまったりもするそうだ。
ネアのようにクアンブルフの魔術に感染して水玉病になるくらいで済んだのは、体が正常な抵抗を示したということなので思う程には悪いものではないとここでも言われた。
「な、治ったらプールや海には行けますか?」
「五日は我慢しろ。三日で治るだろうが、念の為にな」
「むぎゅる。夏の間に行けるのであれば、我慢します……………」
しっかりと原因が判明したので、ディノはすぐに薬を作ってくれた。
今回のような反応の場合は、魔術でつるんと治してしまうことは難しく、飲み薬のようなものをきちんと服用することが大事なのだそうだ。
体から、どこからか感染したクアンブルフの魔術が排除されれば、この水玉模様も消えて無くなる。
つまりこれは、表面的に見栄えを良くすることは後回しにして、治癒状態を示す為のものとしてあえて残さなくてはならない症状なのだった。
ことりと、人差し指くらいの大きさの小瓶がどこからともなく現れた。
万象としての要素を司るからこそ、ディノは多くの効果や資質を備えた薬作りは得意だ。
「ほわ、青い綺麗な瓶に入っています……………」
「うん。君はいつも、この瓶の薬を綺麗だと言ってくれるからね」
「ふぁい。綺麗な瓶のお薬なので、その綺麗さに心を和ませて、きゅっと飲んでしまいますね。…………ぎゃ!」
貰った薬をくいっと飲み干したネアは、またしても沼の味という恐怖の飲み薬に、涙目でふるふるした。
上目遣いに魔物達を見上げ、薬が沼の味だと訴えたのだが、そのまずさこそが薬効を高める為の対価として有効であるらしい。
魔物の薬の効き目が高いのは、そのような魔術的な対価の置き換えをあちこちで使い、一般的な薬ではある副作用をなくしているからこそなのだそうだ。
単に同じ効果というだけなら、人間だって同じような材料を揃えれば作れるものもある。
しかしそれは、その材料の及ぼす膨大な副作用を抱えた恐ろしいものとなってしまう。
望まない作用を削ぎ落とすことの許される階位の魔術にこそ、魔物が薬作りに携わる意味がある。
「傷薬もそうなのですか?」
「あれは、少しだけ特殊なんだ。損傷の進行を停止して、その傷口を繋ぐのが本来の傷薬なのだけれど、私のもので補う効果は、実際には成長による再生に近しいかな。だから、私が作るものは他の傷薬とは効き方が違うんだ。普通のものも作れるけれど、私が司るものの恩恵をより強く与え易いから、そちらの方が効き目が強く出るんだよ」
「………………だから、ディノの傷薬は凄かったと、ルドヴィークさんも話していたのですね…………」
ネアは、そう言えばと海竜の宮殿にディノが現れた時のことを思い出した。
足下で育ち、花を咲かせまた枯れてゆくことを繰り返していたあの花は、そんなディノの資質を示したものだったのだろうか。
「一般的な傷薬は、表層の傷を塞ぐ治癒に重きを置く。失われたものを育てたり、或いは作り直して補うようなことは出来ないから、限界もあるのだろうね」
「と言うことは、ディノの傷薬はまずいのですね……………」
「ネア、もしかして傷薬を飲んでしまったのかい……………?」
「アルテアさんに、飲ませてしまったことがあるのです」
「アルテアに………………」
「あの味をもう一度飲むくらいなら、あのまま血を流していた方がましだな」
「むぐぅ」
アルテアはその時のことを思い出したのか嫌な顔をしたが、ネアが眉を下げるとすぐに頭に片手を乗せてくれた。
「よし、体温も上がってきたな」
「むむ……………?」
薬を飲んだからか、ぽっぽっと体が熱くなってきた。
ネアはとろんとした意識のまま、ディノの手を引いてふらふらと移動すると、目の前にあった長椅子に横になる。
そこには素敵なカーディガンがあったので、タオルケット代わりによいしょとかけてみた。
猛烈な眠気に襲われ、この際床でもいいから横になりたいくらいの気持ちだったのだ。
酩酊という感じに近く、急速に意識が曖昧になる。
「おい、……………自分の部屋に帰れ。お前だけならまだしも、お前がいるとシルハーンも帰らないだろうが」
「むぐふ。お口の中が沼で、………………お腹が水玉の私に優しくして下さい。………ぐぅ」
「寝るな。……………おい、……………ったく」
遠くに、困ったような呆れたような柔らかな声が聞こえる。
妙な熱っぽさに、水玉のお腹を見た記憶が混ざり込み、また蘇ってきた微かな悲しさに涙の滲んだ目を開けば、誰かがふわりと頭を撫でてくれた。
「ネア、眠たくなってしまうのなら、部屋に帰ろうか」
「………………ふぁい。…………ぐぅ。…………むぐ?!…………ディノ、アルテアさんは、こっそり森に逃げていません?」
「うん。ここにいるよ。その肌はじきに綺麗になるから、怖がらなくていい」
「寧ろ、その程度で引くようであれば、もっと前に色々あるだろ…………………」
「アルテアさん…………」
ディノにふわりと抱き上げて貰って、ネアはぼんやりとした目を開いた。
こちらを見る赤紫色の瞳に何かを言いかけて、また瞼が落ちてくる。
「なんだ?」
柔らかく、穏やかな声。
そんな声に頭の奥の方の冷静な部分で驚いて、また少し安堵を深める。
婚約者だからだとか、弟になるからと、当たり前で繋がなくても、ずっと傍にいると約束した使い魔はこんな風に水玉模様になっても優しくしてくれるようになったらしい。
「ぶどうぜり、……………ぐぅ」
「…………………おい。結局今回もそれなのか」
甘えてもいいなら葡萄ゼリーをと思ったところでネアの意識は途切れ、次に目を覚ましたのはお昼前のことだった。
「何か食べられそうかい?」
「………………べたべたしまふ。…………ですが、何か軽いもので塩っけのあるものが食べたいです」
「アルテアとも話して、水玉が消えるまでは香辛料の強いものと、酒類、魔術的な祝福が強い食材は控えるようにしようということになった。朝食のものもまだ残して貰っているから、クレープ地と人参の入ったコンソメスープとパン、チーズやハム、サラダくらいは食べられるよ」
「ほわ、充分に美味しそうなので、会食堂に行くべく、身支度しますね」
よろりと立ち上がると、ディノはほかほかの濡れタオルを持ってきてくれた。
以前に風邪を引いた時のことを覚えていてくれていたのだろう。
患部には触れないようにして汗を拭くと、あまり刺激や締め付けのないような服を選んで会食堂に向かう。
翌日の疫病祭りの準備の為にエーダリア達はいなかったが、戻ってきたノアがいてくれて、エーダリアとヒルドも心配していたと教えてくれた。
ネアが、怖々と椅子に座って、美味しいチーズやハムで心を慰めていると、そちらは昼食で出てきたアルテアが、たくさんの葡萄ゼリーを持って来てくれた。
デザートの小さなケーキには朝露の祝福が入っていて食べられなかったので、ネアは幸せな気持ちで葡萄ゼリーを頬張る。
三個目に手を伸ばすと、過剰摂取は刺激になると叱られてしまったので、残りは夕食の時までお預けになりそうだ。
ネアは明日の疫病祭りには出られるのだろうかと心配だったが、このような状態の時には病に対する抵抗力が落ちているので、寧ろ絶対に出た方がいいらしい。
それまでにこの体温の上昇と眠気は去るようなので、明日は精一杯疫病払いをしようと思う。
その日は、一日中、ディノが側にいてくれた。
優しい声音と穏やかな微笑みにすっかり安心出来たので、ネアは夕方には自分のお腹を見るのが怖くなくなってきたくらいだ。
少しでも離れるとネアが不安がると思ったようで、ディノはどこにでもついて来てくれる。
ただし、お手洗いの時にまで魔物を紐で繋いでおく必要はないので、説得に少しだけ苦労した。
晩餐で会えたヒルド曰く、水玉病には斑病という似たような症状のものもあるらしい。
それは特定の野菜を食べすぎるとなるそうで、ネアはもう二度とこんな思いをするつもりはないので、元気になったら肌に病変の出るこの種の病気を全て調べておこうと心に決める。
残りの夏は、ますます忙しくなりそうだ。