椅子と選別
その日の夜遅く、リーエンベルクをウィリアムが訪れた。
明後日が疫病祭りなので、今年もウィームに来てくれたのだ。
お忍びではあるのだが、疫病の系譜の者達は系譜の王の威圧感めいたものを敏感に感じるようで、昨年も事故などが懸念されるような荒ぶりはなく済んでいる。
今夜の短い滞在で当日の予定を擦り合わせ、当日は朝からウィームにいてくれるそうだ。
今週は、まだあちこちに海竜の王の代替わりの影響が出ているが、もう少しすると落ち着くだろうと苦笑してくれたウィリアムは、リーエンベルクに来ると少しほっとしたようだった。
(今年はその後に音楽祭があって、夏休みがあって………)
昨年とは少し日程が変わるが、サムフェルもあるのでネアはまだまだ夏を楽しみ尽くす所存である。
ちゃぱん、とお湯が揺れる音がした。
隣を見ればウィリアムが仰け反るようにして鎖骨の下あたりまでお湯に沈み、どこか悩ましくも感じるような深い息を吐いている。
この大浴場のお湯は肌に染み込むような独特の熱さが、思わず声を漏らしてしまう程の気持ち良さなのだった。
「……………はぁ、この浴場はいいな」
海竜の戦では、駆けつけてくれたウィリアムにも無理をさせたのだろう。
また、これからの蝕に向けてウィリアムはますます忙しくなりそうだ。
まさにそんな折に、訪れた終焉の魔物の疲れを癒しましょうと言わんばかりに、リーエンベルクの大浴場はお湯を湛えた。
ウィリアムは今日、一つの鳥籠を閉じてここに来てくれたのだが、リーエンベルクに来るなり、また来てしまっていたアルテアにひやりとする微笑みを見せ、何か悪さをしていたようだなと釘を刺していた。
どうやら、海竜の戦の直後にアルテアが何やら暗躍していたのを知っていたようだ。
まったく、多忙な終焉の魔物なのである。
「ふぁ。………心まで沁み渡るようなお湯なのです」
ネアは顎先までお湯に浸かり、むふぅと息を吐いた。
見事なウィーム王朝時代のシャンデリアから溢れる光に、その精緻な枝と葉の細工。
ふくよかな花の香りに包まれて、ネアは胸の底まで寛いで、この柔らかなお湯にひたひたと沈み込む。
ウィリアムが来たのは深夜だったが、大浴場はそんなお疲れの魔物を見逃さずに稼働してくれたらしい。
お陰で、森の散策を楽しんだネア達も、今夜は思いがけない寛ぎの時間を得られたのだった。
「…………お前は来過ぎだな」
ネアの隣で目を閉じてお湯に浸かっていたウィリアムに、最初に話しかけたのはアルテアだ。
こちらの魔物も、大浴場が開くなり飛び込んできたのですっかりのお得意さんである。
コロッケ戦士の活躍で疲れきっているのだろうが、相変わらず浴室着などは着てこなかったので、ネアは厳しく叱っておいた。
ここには、嫁入り前の淑女がいるのである。
「アルテアに言われたくないですね。この分では、帰っていない屋敷もだいぶあるのでは?」
「必要な時に必要な所に留まるまでだ。一箇所に数年住んでたこともあるぞ」
「それは、自身の屋敷でしょうに」
相変わらず、こちらの仲良し二人は放っておくとこんなやり取りを始めてしまうので、ネアはびしゃっとアルテアにお湯をかけてみた。
「ていっ!」
顔をびしゃびしゃにされた選択の魔物は、一瞬呆然としてから、赤紫色の瞳に暗い苛立ちを浮かべてネアを睨む。
ぼたぼたと髪の毛から溢れるお湯に、アルテアは顔を顰めた。
「おい……………」
「ウィリアムさんはお疲れなので、ゆっくり入浴させてあげて下さいね」
「だったら、そっちにかけておけよ。黙るだろ」
「むぐぅ」
「ネアにかけられるなら、満更でもないかもな」
ウィリアムはそう笑っているが、その場合は若干特定の趣味に近くなるのでやめて欲しい。
とは言え、仲間外れにされると案外荒ぶったりもするので、ネアは少しばかり慎重になり、そんなウィリアムには首筋のあたりにお湯をかけてみた。
「うむ!」
「俺の時と随分な差だな?」
「はは、ネアは可愛いな」
「見ろよ、上機嫌だろうが。また帰らなくなるぞ」
「むぐぅ。そもそもここは、アルテアさんのお家でもないのでは…………」
こんな時に、ネアの婚約者な魔物はどうしているのかというと、実は隣でくしゃくしゃになってお湯に浸かっているのだった。
お湯の中ではあるのだが、この魔物なりの甘え方としてご主人様がどこかに攫われないように、ディノは隣に座っているネアの首に三つ編みをかけてきた。
マフラーのようにくるんと巻かせて、紐の代わりにしようとしたのだろう。
ネアはいそいそと三つ編みを配置しているディノに、こうした方が早いのではとディノにぴたっと寄り添ってみた。
そして、ちょうど素敵な位置にあったので、ディノの肩にこてんと頭を乗せてみたのだ。
その結果、こちらの魔物はまたしても儚くなってしまったのであった。
現在は、浴槽の縁の部分に突っ伏してお湯に浸かっている。
「そう言えば、来月には………行くだろう?」
「……………む」
ウィリアムがそう言うのは、アルビクロムのとある専門店についてである。
ネアの婚約期間の終わりに向けて、これから特定の趣味のお勉強が始まろうとしているのだが、そのことについて考えると胸の奥がざわざわする。
初回のアルビクロム探索は衝撃的過ぎたし、ネアに紐をかけていたウィリアムの瞳から急速に光が失われてゆく様は、まだ鮮明に覚えている。
あの舞台を見た時も、ネアの目を塞いでくれていたウィリアムの手は震えていた。
(とは言え、今回はアルテアさんが最初から一緒だしと安心していたんだけどな…………)
お店のリサーチは、経験者だというアルテアに任せていたのだが、とても嫌がってしまい、遅々として進まないので途中からウィリアムが調べてくれた。
そして、初心者達にその趣味への誘いをしてくれるというとても良いショーを見付けてきてくれたのだ。
その趣味の者達が、まだこちらの世界に来ていないパートナーや友人を勧誘するのにご利用下さいという趣旨の舞台で、その趣味についてとてもポジティブに解説しつつ入門編らしい穏やかさで優しく誘ってくれるらしい。
あまりにも専門的なものを繰り広げられると走って逃げたくなるネアなのだが、その程度のものであれば何とかいけるかもしれない。
今後、この繊細な心が死んでしまわないよう、どうかそちらの世界のいいところを教えて欲しい。
また、正しいご主人様の振る舞いとして、下僕を躾ける為の個人講座も予定されている。
そちらの講座では、梱包妖精というとても専門的なシーが講師となっているそうだ。
(講座の時は、さすがにウィリアムさんを下僕に見立てるのはまずいから、アルテアさんにやって貰おう…………)
「……………むぐ。次こそは勝ちます」
「最後まで見られるんだろうな?」
「むぐる…………。初心者向けですし、今度の私には、もう後がありません」
「………はは、俺達も今度こそは最後まで付き合うからな」
「ほわ。ウィリアムさんの目から光が失われました…………」
「やれやれだな。ある程度であれば、俺が個人的に教えてやってもいいんだが、何でそこまで専門的な方を選ぶんだ………」
「む。アルテアさんは、踏まれたり叩かれたり、…………とても専門的な道具で折檻されてくれるのですか?」
「やめろ。ある程度までだと言っただろうが」
ネアは世慣れた魔物がどれだけの専門的な知識を有しているのか不安になったが、幸いにも鞭や蝋燭はまだ未経験であるらしい。
「…………は!…………アルテアさんが、よくウィリアムさんに刺されてしまっているのは、かなり高度な…」
「やめろ」
「うわ、ネアやめてくれ。今後、アルテアを気軽に刺せなくなる」
「お前もお前で気軽に刺していたのか……………」
そんな会話をしていたら、ウィリアムが、手を伸ばしてネアの首筋に落ちていた髪の毛をすくい上げてくれた。
「むむ、結び損ねていました………」
「結んである束の中に入れておこう。水気は飛ばしておくから、他の髪の毛も濡れないからな」
「ウィリアムさん、有難うございます」
手を伸ばして一房溢れていた髪の毛を器用にネアのお団子結びに押し込んでくれる。
一瞬だが抱き込まれるような体勢になったネアは、力が入ると浮かぶ筋肉の筋にえいっと触れてみたくなったが、痴女の疑いをかけられると困るので踏みとどまった。
衣服を脱げばアルテアも筋肉質だが、ウィリアムの体型はもう少し実用的な筋肉という感じがする。
ディノやノアはアルテア寄りで、恐らくウィリアムの体型は竜種に近いのだろう。
(ドリーさんもそうだし、リドワーンさんやベージさんも背が高いし、ダナエさんも儚げなようでかなり背が高いから…………)
身長的には、竜種はやはりどの種族よりも一回り大きい。
ダナエやリドワーンのように人型でも角があると更に大きく感じるのだが、竜としての大きさはダナエが一番大きいそうだ。
バーレンのような光竜達は、竜姿のすらりとした細身の肢体からも分かるように、人型になってもそこまで大きくはないのだ。
「ネア…………?」
「ウィリアムさんは、竜さんのように背が高いなと考えていたら、一番大きな竜さんは誰なのかなと考えてしまいました。やはり、砂風呂の地下で見た、地竜さんでしょうか?」
そう言ったネアに、ウィリアムは意外なことを教えてくれた。
「一番となると、月闇の竜だろうな。闇の系譜の竜は元々大きいが、年数ではなく蓄えた力で育つから、そこまで大きくなる竜が少ないんだ。ダナエもそうだし、以前までは夏闇の竜の王子がかなり大きかったぞ。逆に、疫病の竜の中でも特に厄介な竜はかなり小さい」
「まぁ、凝りの竜さんのようなものを考えていたのですが、疫病の竜さんは小さいのですか?」
「ああ。威嚇の為に魔術で大きく見せたりはするが、実際には力が強い者ほど小さいな」
疫病の系譜にも、竜がいる。
とても恐ろしい竜だが、頭が良く狡猾で、特定の集落や国を持たず、人間の国やその他の種族の領域に身を隠して暮らしているそうだ。
普段は悪さをすることもないものの、特定の条件が揃うと残忍な性質を現すので、疫病の竜を見付けたらあまり深くかかわってはいけない。
竜らしい独占欲の強さを持つ彼等に気に入られると、その身に持つ病に冒されてしまう危険があるのだ。
自らの持つ病で縛り、好んだ者が逃げられないようにする困った性質の竜なのである。
「王族は、人型だと、ネアくらいの大きさじゃないかな。火竜と氷竜とは相性が悪いから、疫病の竜に出会ったら彼等の手を借りるといい。特に、氷竜のことはかなり不得手としている」
「では、そんな竜さんに出会ったらベージさんに助けて貰えばいいのですね」
ネアはお気に入りの氷竜を思い出し、唇の端を持ち上げた。
するとなぜか、アルテアからぴしゃっとお湯をかけられてしまう。
「ぎゃ!ゆるすまじ…………」
「お前はそもそも、竜にあまりかかわるな」
「むぐる。ベージさんは残念ながらとげとげしていなくても、良い方なのです…………」
「リドワーンのことがあっただろうが。彼奴等は、自分より強い者を好むからな。下手に触れるとまたお前の会の会員が増えるだけだぞ」
「か、かいなどありません!」
「ニエークにリドワーンか、どれだけ余分を増やすつもりだ?」
「むぐるる!」
ネアがすっかり荒んでしまっていると、笑ったウィリアムがひょいと持ち上げたネアを、自分の膝の上に乗せてしまった。
「むぐ?!」
驚いて目を丸くしたネアは、まるで小さな子供にするように頬を撫でられる。
幸い、ディノはまだ死んだままなので、隣に新たな椅子が出現したことには気付いていないようだ。
「可哀想にな、アルテアは意地悪だな」
「………むむ。ウィリアムさんの言動や雰囲気を見るに、これは椅子になりたいのではなく、慰めてくれるお父さん的な…………」
「うーん、父親か」
ウィリアムはそう苦笑していたので、ネアはこてんと首を傾げた。
「違うのです?」
「アルビクロムに向けて、俺も少し自制心を鍛えた方が良さそうだ」
「つまり、椅子になる的な覚悟を育てる為の予行練習なのですね」
そう納得して頷いたネアに、なぜだかアルテアはまた厳しい面持ちになる。
「情緒がないにも程があるだろ。さっさと下りろ」
「情緒……………?」
「ほいほいと、契約もしてない魔物の膝に乗るな」
「ウィリアムさんは契約はしていませんが、………なんと言うか家族に近しい雰囲気なのです。さすがのウィリアムさんも、予告もなく私を刺したりはしない筈なので、危なくはないのかなと思っていますが…………」
しかしながらアルテアがとても剣呑な雰囲気を出すので、ネアは念の為にウィリアムを振り返って尋ねてみた。
「ウィリアムさんは、突然襲いかかってきたりするのでしょうか……………?」
するとなぜか、アルテアが言葉選びが最悪だと低く呻くではないか。
ネアはますます困惑して首を傾げる。
「………むぅ、刺激しない方がいいと言うことですか?」
眉を下げて見上げたウィリアムは、なぜか面白そうにくすりと笑う。
それはひどく男性的な微笑みだったので、ネアはおやっと眉を顰めた。
(もしや、アルテアさんと、どっちに懐いているか的な領土争いをしているのかしら?)
魔物は、時々これをやるのだ。
ヨシュアですら、時折ネアは自分の知り合いなのだと騎士達に自慢している。
人間における子供達の仲良し自慢に似ているが、魔物にはまた少し違う趣きもあるようだ。
ノアな銀狐がエーダリアやヒルドに体を擦り付けるのもそれで、ネアの婚約者は時々ムグリスになって威嚇もする。
それだろうかと考えて頷いていると、ウィリアムが秘密を明かすかのように耳元で囁いた。
「そうだな。襲いたくならないように、自重しよう」
「……………むぎゅ。そんな気分の時は、アルテアさんと遊んでいて下さい」
「はは、そっちの意味合いじゃないから安心していい」
どうやら、ネアのことは剣で刺したりはしないようだ。
となると、以前のアルテアのような悪さをするのだろう。
悪夢の時にネアが初めて踏み込んでみたウィリアムも、魔物らしい獰猛さが垣間見えた。
万が一の時は申し訳ないがきりんで倒すしかない。
ネアは誤って滅ぼしてしまわないようにと、殺傷力の低いきりんの開発にも意欲を燃やす。
「さてと、これ以上は離したくなくなりそうだからな」
そう微笑んだウィリアムがネアを下ろしてくれたので、ネアは、こちらの魔物への今度の贈り物は抱き枕かなと密かに企んだ。
案外寂しがりやなこの魔物には、愛くるしい白けもの風の抱き枕でも贈ってみよう。
まだ正体に気付いてはいないが、実は友人の形をしているだなんて素敵ではないか。
(それとも、ギードさんな黒つやもふもふがいいのかしら…………?)
そこは今度、ディノに相談してみよう。
「…………何の用だ」
そんな事を考えながらざぶざぶと使い魔に近寄ると、少し御機嫌斜めなアルテアが片眉を持ち上げる。
浴室着を着ていない悪い魔物なのでこの角度からは直視出来ないが、ネアはこつんと、そんなアルテアに背中をぶつけてみた。
「まったくもうな、寂しがりやな魔物さんなのです。アルテアさんとも仲良しですから、荒ぶってはいけませんよ。森に帰る時には、この前約束した無花果のパイを作り置きして下さいね」
「…………ったく。お前は、食い物以外にももう少し意欲を示せ」
「…………アルテアさんのお家をくれるのですか?」
「何でだよ」
そんなやり取りをしている内に、もそもそとディノが起き上がった。
「ご主人様がいなくなった……………」
「ディノ、私はここにいますよ。もう、ぴたっとくっついても死んでしまいませんか?」
「ネアが虐待する……………」
「なぜに慣れないのだ……………」
ディノはめそめそしているのにネアにえいやっと肩をくっつけられてしまい、今度こそ浴槽に沈みそうになったので慌てたウィリアムが救出してくれた。
なお、湯上がりのシャーベットを出してくれたアルテアから、先程のように気安くお風呂で椅子に出来ない、例えば気恥ずかしくなってしまうような知り合いはいるかと尋ねられたので、そもそも知り合い程度の人をお風呂で椅子にしたりはしないと強く伝えておいた。
ネアには勿論、会などないので、椅子にする系の通り魔な行いなどする筈がないのである。