303. 海のお土産を渡します(本編)
「エーダリア様、ただいまなのれふ」
ネアがほろ酔いで帰ってくると、まだ会食堂で起きて待っていてくれたらしいエーダリアが顔を上げた。
そしてなぜか、ささっと斜め下に視線を逃す。
「エーダリア様?」
「…………ネア、なぜ鍋を持っているのだ?」
「これは、私がお気に入りで食べていたムール貝の白葡萄酒蒸しを、海竜さん達がお土産にくれたのです」
「君に踏まれたかった者達がくれたのだよね」
「…………とくていのしゅみのしじしゃなどおりません」
ご主人様を死守したディノが、どこか悲しげにそう言い、ネアは慌てて首を振った。
あれは多分、兄を助けてくれた救世主に、弟王子がお礼をしたかっただけの筈だ。
会など存在していないので、その入会希望の賄賂などではない。
「ネア様、御無事で良かったです」
「まぁ、ヒルドさんまで待っていてくれたのですね!」
「ええ、隣室にダリルとゼノーシュもおりますよ」
「ヨシュアさん達は帰られたのですか?」
「ダリルとの相性が悪かったようですね。とは言え、今回は彼等がいてくれて助かりました」
その言葉の響きに、ネアはほわんとしていた目をきりっとさせた。
心配になってヒルドを見上げると、まずはこれを置きましょうかと、お鍋を受け取ってくれる。
「何かあったのかい?」
そう尋ねたディノは、ネアが貰ったお土産のきらきらとイルミネーションのように光る珊瑚をそっと床に置き、けばけばになった銀狐を肩から下した。
銀狐はムギーと弾むと、ヒルドの足に一生懸命すりすりしてから、また尻尾をけばけばにして、エーダリアの方に飛んでいった。
「海の者ではなかったのですが、ダリル宛の呪いの一つが誤ってこちらに届きましてね。たまたまヨシュア様がいらっしゃいましたので、無事に排除していただきました」
「そんなことがあったのだね。ウィリアムの言うように、ヨシュアを招いておいて良かったようだ」
「まぁ、どなたもお怪我などはされていませんか?今度、ヨシュアさんにはお礼をしておきますね」
眉を下げてネアがそう言えば、ヒルドはムール貝のお鍋を持ったまま優しく微笑んでくれた。
「ヨシュア様が、その場ですぐに呪いの術式を解いて無力化して下さいましたからね」
「よりにもよってさ、呪いのくせに道に迷ったらしいんだよね。まったく、馬鹿な呪いだよ」
そう言いながら隣室から会食堂に入って来たのは、今日は鮮やかな緑色のドレスのダリルだ。
ディノが床に置いた珊瑚を見ておやっと眉を持ち上げ、ヒルドが持っているお鍋に視線を移す。
「ネア、お帰り。………あ、ムール貝だ!」
一緒に入って来たゼノーシュが、まずはネアに声をかけてくれた後、ヒルドが持っているお鍋を見て息を飲むと嬉しそうに目を輝かせた。
「ゼノ、ただいま戻りました。ムール貝の蒸し物を貰ったのですが、食べますか?」
「うん!僕、ムール貝大好き」
「ありゃ、ムール貝を食べながらの報告会になりそうだね」
「そういうあなたは、なぜ狐の姿で帰ってきたのですか?」
振り返ったヒルドにそう問われ、ノアはすすっと目を逸らす。
口元をもにょもにょさせているので、ネアがずばっと教えてやることにした。
「ヨシュアさんの滞在ですっかり不安になってしまったので、たっぷり甘えられる狐さんの姿で、まずはお二人にいっぱい甘えたかったようですよ」
「うわ、ネアやめて!」
「転移でこちらに戻る途中で、アルテアさんが野暮用でいなくなったのを幸いに、いそいそと狐さんの姿になってしまいました」
「そうだったのだな、であれば安心してくれ、確かに雲の魔物は思っていたよりも話し易くて驚いたのだが、やはり私が契約をしたのはノアベルトだけだからな。上手く言えないのだが、どれだけ親しく出来たとしても、他の魔物では駄目だったのだろう」
狐事情をネアに暴露されて慌ててディノの背中の後ろに隠れてしまったノアだったが、大真面目に分析したそのエーダリアの言葉に目を丸くして顔を出す。
「わーお。告白かな」
「こ、告白ではなくてだな!…………自分でも、その違いが何だと言われると難しいのだが……」
頭を抱えてしまったエーダリアの代わりに、ノアは唇の端を持ち上げてご機嫌になったようだ。
ヨシュアなんかに僕の代わりは務まらないよねと、嬉しそうに呟いている。
そんな二人の姿に優しい溜息を吐き、ヒルドは会食堂のテーブルの上にムール貝の入ったお鍋を置いた。
ちょうどのタイミングで、ゼノーシュが呼んでいた家事妖精が取り皿を持って来てくれる。
一緒に、手を拭くおしぼりや小さな器に入ったシャーベットも持ち込まれ、ネアも目をきらきらさせた。
「まずは、お帰りネアちゃん。ゆっくり、海竜の戦の報告を聞かせて欲しいんだけど、疲れてないかい?」
「はい。明日明後日はエーダリア様からお休みを貰えたので、今日はしっかりとご報告しますね。アルテアさん曰く、情報は熱い内が高価なものなのだそうです」
「そりゃ、頼もしい。ディノ、二時間程この子を借りるよ」
「疲れが出るようであれば、途中で休ませるかもしれない。その場合は、向こうでのことはアルテアも話せるだろう。一時間程したらこちらに来て、今夜は念の為に泊まるそうだ」
「すっかり使い魔業が板についたもんだねぇ」
ネアは微笑んで頷き、そんなアルテアがどこかに悪さをしに出かけていることは黙っておいた。
帰りがけにアルテアは、開いた手帳を覗いて何やら魔物らしい凄艶な微笑みを浮かべ、ウィリアムが別件で拘束されている今の内だなと呟いていたのである。
(ノアも、あの様子だと今回の海竜の戦で敗れた国のどこかに、今夜の海が不安定な内に何かを仕掛けに行くのだろうって言っていたし…………)
時計の針は真夜中の一時間前。
この様子でいけば、深夜にはこの報告会が終わり、ネアはお風呂に入って久し振りに思えてしまう自分の寝台で眠るのだろう。
今夜は食べすぎてしまっていることもあり、明日は朝食を飛ばして朝寝坊させて貰い、お昼でみんなと一緒に食事をする予定だった。
ディノには一人でも朝食の席に出ることを勧めたのだが、魔物はご主人様と一緒に朝寝坊するという催しにすっかりはしゃいでしまい、ネアは、眠っているご主人様を観察し過ぎないようにと注意しなければならなかった。
各自の席に飲み物がいきわたり、少し不思議な光景だがテーブルの真ん中には大きなお鍋いっぱいのムール貝がある。
魔術で保温されているのでまだほこほこしており、ゼノーシュはすっかり会議というよりも食事の体勢だ。
(でも、綺麗な森と水の匂いがする………)
リーエンベルクの空気は、やはりあの海とは違う。
ふんだんに生けた花の香りに、森と水、そして今の季節は外にはないが、このリーエンベルクの建材に使われている雪結晶から立ち昇る、清涼な雪の香り。
その豊かさとふくよかさに胸を熱くし、ネアはどこよりも大好きなウィームに帰ってきたことを喜んだ。
「では、私がグラニのプールから呼び落とされてしまったところから、お話しますね……」
順を追って、丁寧に。
けれども要領よく、そして余分な情報で脇道に逸れ過ぎないように。
ネアはそう心がけながらもまずは一通りの経緯を話してしまい、見知らぬ海底の国での出来事を聞きながら、エーダリアは深く頷いたり、目を輝かせたりもする。
ダリルは鋭い目でその全ての報告を聞き終えると、質問をどこから始めるかで一拍悩むようだ。
まず最初に口を開いたのは、ヒルドだった。
「極北の竜であれば、何度か狩りに出たこともあります。あの種の海竜は、はぐれ者が出やすいですからね」
「まぁ、ヒルドさんは、あの不思議な姿をした竜さんをご存知なのですね?」
「あの大きな手は、氷や凍りついた地面を砕くのに使うと聞いていました。魔術については、扱う量も多く、それを術式に置き換える叡智を潤沢に備えた、古き黒い竜という認識でしたが…………」
「ありゃ。ヒルドの一族は、何でも狩っちゃうなぁ…………。あの氏族はかなり頑強なんだよ。でも、今回の事件で随分と減ったね」
「そう言う意味でもクフェルフさんが生き残ってくれて、一族の方はほっとしているみたいですね」
「…………そちらの氏族は、その王だった者に仕えていた一族だったのだろう?」
報復や逆恨みなどはないのだろうかと、エーダリアは心配してくれたらしい。
「その点はこっちでも気になって調べたんだけど、最後にアダンが悪変で騎士達を道連れにしたからさ、家族を奪われて残された者達は、寧ろアダンを憎んでいるような感じだったね。まぁ、今後はクフェルフが氏族の長になるみたいだし、彼の誓約を受けて生き長らえさせたロキウスは、かなり感謝されているみたいだ」
「ネアちゃんについてはどうだい?」
「それがさ、ナトっていう竜がその氏族の長だったみたいだけど、かなり嫌われていたみたいだね。でも、強過ぎて誰も逆らえなかった。それをネアが斃しちゃったから、ほっとしているって感じかなぁ」
その竜には、先月迎えられたばかりの、他の氏族から連れ去られた奥方がいたのだと言う。
言葉通り、半ば連れ去るようにして伴侶にされてしまっていたので、解放されたその女性は泣き崩れて喜んだそうだ。
彼女を守ろうとして片目を亡くした兄も、もう叶わないと思っていた妹の帰宅を涙ながらに喜んだ。
そんな、ナトの花嫁を彼女の暮らしていた西海の海域に連れて帰ってやったのは、極北の竜の女達であったらしい。
ナトに息子達を無理矢理騎士として連れ去られていった女達は、遠い海から連れ去られてきた花嫁を、影ながら手を尽くして守ってやっていたそうだ。
「なお、ナトさん本人は大きくて無理だったのですが、尻尾は持って帰ってきましたよ!」
ネアがそう言ってふんすと胸を張ると、会食堂は重い沈黙に包まれた。
「その、…………仲間達が恐れていた竜の尾を、持ち帰ってきたのか…………」
「うむ。私の獲物ですので、他の部分を残してゆくのはとても残念でした。尻尾はアクス商会に売ろうかなと思っていたのですが、他に爪や鱗もあります。エーダリア様へのお土産に………」
ネアがそう言うと、思わぬお土産にエーダリアが興奮してしまい、冷やかな目をしたダリルに脛を蹴られるという一幕があった。
鱗を渡すと暫く使い物にならなくなると言われ、報告会が終わるまではお土産の贈与は禁止される。
「ネアちゃん、極北の竜の爪は、呪い避けの魔術道具になる。それも今回は、その長のものだ。エーダリアの分は、ガレンを経由して第一王子に渡した方が良さそうだね」
「ダリル?!」
「…………エーダリア様が絶望してしまったので、ヴェンツェル様に差し上げるのは、爪と鱗のそれぞれ一つずつでは如何でしょう?それであれば、エーダリア様にも同じものを差し上げられますから」
「ありゃ。思ってたよりたくさん持ってるね。だったら、それがいいんじゃないかな。こっちにだって、呪い避けは必要だよね」
「まったく、この馬鹿王子に甘い奴だらけだねぇ」
「それと、牢屋に入れられた時に貰った海結晶もあるのです。これも何かの賄賂的なものに……」
ネアがポケットからごろんと大きな青い石を取り出すと、ダリルは珍しく目を丸くした。
けれども、立ち上がったエーダリアが手に取ろうとしたものを、さっと取り上げるくらいにはすぐに立ち直ったようだ。
「ダリル、それ程のものであれば、ガレンでも研究の為に提出を要求する!」
「あんたの私利私欲だろうが。これは、王都行きだ。そもそも、ここで海のものを持っていても仕方がないだろう」
代理妖精にくしゃりとやられ、悲しげな目で没収されてゆく海結晶を見送るエーダリアには、後で他にも持っている海結晶の一つをあげておこう。
最初はバケツ一杯渡されたものであるし、誰も返してくれとは言わなかったので、ネアは有難く六個頂戴してある。
ポケットとは別に、金庫にも二個入れてあったので、思いがけずいいお土産になった。
(金庫のものは、そのまま温存しておいて、一個をエーダリア様に、一個は賄賂じゃなくてダリルさんが手元で使う用に残して貰うようにして……………。残りの二つは、ヒルドさんにも欲しいかどうか聞いてみてから、それでも残るようであればディノ達に相談しようかな……………)
そこで、影の国で背中に乗せてくれた海竜からも似たようなものを貰ったのだと思い出し、ネアは首飾りの金庫をごそごそしたい衝動に駆られたが、それは一個しかないので没収されないように隠しておく。
こちらの人間は、ちょっぴり強欲なのだ。
一瞬、魔物達にもと考えたが、そのようなものであれば、お店で素敵なお菓子や使い勝手が良さそうな日用品でも贈った方が良いだろう。
ネアは尻尾を売って手に入りそうな金額を脳内で転がし、魔物達に何を買ってあげるのかをわくわくと考える。
(鱗の一枚は、ほこりの手紙に同封してあげたいけれど、極北の竜さんが美味しかったりしたら、絶滅させてしまいそうだから…………)
そんなことを考えている内に、ネアはエーダリアへの一番のお土産を忘れていたことを思い出した。
「そう言えば、影の国の市場にあった古書店で、エーダリア様にお土産の魔術書を買ったのです。私に向かって吠えた悪い奴ですが、保管箱に入れるとすやすや眠ってしまうんですよ」
「魔術書を、…………魔術書」
「む。エーダリア様が壊れました」
「エーダリア様?」
突然言葉が不自由になって黙り込んでしまったエーダリアに、ヒルドが優しく名前を呼んだ。
その声音に何を感じたものか、エーダリアははっとして慌てて座り直す。
「ネアちゃん…………」
「悪いものだといけないので、元々、一度ダリルさんに見て貰おうと思っていたのです。なので、今の方が皆さんに一斉にお知らせ出来るかなと、むぎゅり………」
ダリルにこらっと睨まれたので、ネアはそう謝った。
若干ほろ酔いのままなので、細やかな配慮に支障が出ているのかもしれない。
やれやれと許可が出たので、ネアは金庫から木箱に入った魔術書を取り出した。
箱の段階でエーダリアは立ち上がってしまったのだが、それとは別に魔物達も表情を変える。
「海湖の魔術書かな…………」
「ありゃ、海湖の魔術書かもしれないね。……………わーお、よく現存してたなぁ」
「す、すごいものなのか?」
「海湖の魔術書みたいだよ。僕、昔に一度だけ見たことがあるもの」
「……………海湖の魔術書だったら、大したもんだよ。私も現物を見るのは初めてだ」
慎重にそう呟いたダリルが箱をそっと開けると、箱の中に張られた天鵞絨の布の上に、青い雲母で出来た鱗のような表紙を持つ魔術書が出てきた。
青や水色にオーロラのような淡い紫や銀色がかかって、見る角度で色を変える不思議で美しい装丁だ。
表紙には優美な装飾文字で、海のまじないと湖のまじないと書かれている。
「なんと美しい本だろう」
「…………こりゃ、本物だね。ネアちゃん、どこで手に入れたんだい?」
「川沿いの街の市場で購入しました。目が覚めると、ガウと鳴くかもしれません」
「禁術書にはそういう自己防衛の魔術がかかっていることが多いんだ。妙な手合いに購入されないよう、本そのものが身を守るんだよ。…………購入したなら、かなりの額だっただろうに」
「けれど、何か影の国に落とされたことで得られる成果が欲しかったのです。ゾーイさんも禁術書だと話していましたし、エーダリア様は魔術書大好きです。その上ウィームにはダリルさんがいるので、うってつけのお土産だと思いました」
「はは、いい読みだ。これはネアちゃんには、臨時報酬を弾まないとかもだね」
「ほわ!」
箱を開けられて少ししたからか、魔術書は無事に目を覚ましたようだ。
ざわざわっと装丁の鱗が波打つと、ガウと勢いよく鳴く。
けれどもすぐに、ダリルがじっとのぞき込むと、びゃっと飛び上がって大人しくなった。
魔術書を大人しくさせたダリルは、そっと手を伸ばして慎重にその海湖の書を取り上げると、ぱらりと頁をめくる。
割れそうな程に青い美しい瞳で真摯にページをめくる様は、絵のような美しさだった。
「失われた叡智の結集だね。これがあれば出来るようになることがたくさんある。…………簡単に言えば、このリーエンベルクやシュタルトでも、古い魔術の補修や修復が可能になるし、有事に備えて誰も対抗策を覚えていないような古い魔術で防壁を作ることも出来る」
静かな声でそう言ったダリルに、隣からエーダリアが覗き込む。
魔術遮蔽用の眼鏡をかけると雰囲気が変わるのだが、その眼鏡ごしにでもエーダリアが目を輝かせているのがよく分った。
「こ、これは………………」
「わーお。久し振りに見たよ。…………対価を必要とするような禁術も隠れているから、使う時は僕かシルに相談するようにね」
「ああ、そうさせて貰うよ。この本がありゃ、ひと財産だね」
ネアはダリルにたくさん褒めて貰い、感動したエーダリアに無言で頭を下げられた。
あまりにもエーダリアが感動しているので、ヒルドも微笑んでいる。
「噛まれたりしなかったかい?」
「がうと唸られたので、表紙を引っぺがして逃げ沼に沈めると脅したところ、いい子になりました」
「逃げ沼に……………」
「だ、駄目だ。絶対にそんなことをしては駄目だからな?!」
あまりにも残虐な脅しに、ディノはふるふるとしてしまい、エーダリアは真っ青になった。
あくまでも購入段階での脅しなので、今更表紙を剥いだりはしないと約束し、ネアは一押しのお土産をひとまずはダリルに預けた。
エーダリアが震える手を伸ばしているが、まずはダリルのところで問題などはないのかを調べることになる。
ノアがざっとページをめくってくれ、隣のゼノーシュもじっと見て調べてくれたので、特別な仕掛けや悪影響などは今のところなさそうだ。
そうしてお土産の受け渡しが終わり、会話は今回の海竜の戦による影響の話に戻された。
お鍋はすっかり空になり、エーダリアやヒルド達も少しではあるが美味しく食べてくれたようだ。
「明日の朝が明けた段階で、どの辺りにどれくらいの影響が出ているか、今夜の海の動きを集約するのが第一だろうけれど、新代の王の統治である程度は海の力関係が変わるかもしれないね」
「その、行方不明のままの海竜の王族達は、やはり見付からないのだろうか」
「プロネとその息子のグレウスは、やはり行方不明のようだね。………ロキウスも困惑していたようだが、彼等は部屋ごといなくなっているようだ」
「……………部屋ごと?」
そう目を瞠ったエーダリアに、ディノは困ったように頷く。
この問題に関しては、海竜側も分らないことが多過ぎて困惑しており、結果その情報を貰ったディノ達も困惑をせざるを得ないようだ。
「彼等の部屋が、がらんどうになっている。それは、どこかに避難したものなのか、何かがあって部屋ごと掃除されてしまったものなのか。ただ、下の弟である第八王子はかなり前からその状況だったので、兄や父は自分に内緒で引っ越してしまったのだと思っていたようだ」
「ってことはつまり、事件性はなしと判断されていたんだね?」
難しい声で尋ねたダリルに、ノアも眉を寄せて首を傾げた。
「事件なのに、誰にも気付かれていなかった可能性もあるんだよねぇ。そのあたりの王家の事情が複雑でさ、第一王子の父親であった前王と、ロキウス達の父親だった前王の弟、………とは言え、二日だけ王を継いですぐに暗殺されている………は、恐らくアダンの思惑で内々に消された可能性が高い。ロキウスの父親が暗殺された直後から半年程を、プロネが代理の王として治めてたみたいなんだ。もう一度アダンが王座を引き取ってロキウスが王座を継ぐまでの繋ぎだったとしても、仮にも王だった訳だからさ、アダンの秘密に気付いていた可能性もある」
海竜の王の並びはかなり複雑だ。
世間的には公表されていない王が代理で治めていた期間が何回かに分けてあり、正式に海竜の戦を行って決められた王は、第一王子の父親だった海竜と、以前のロキウスだけだったのだそうだ。
(つまり、公式ではイブさんの次が第一王子のお父様で、その方が暗殺された後にばたばたとご兄弟が代理で王様を引き継いでいる。………もう一度イブさんというか、アダンさんに戻り、その後にロキウスさんで、そんなロキウスさんも一度王位を返上したから、またアダンさんに…………)
ディノの見立てでは、かなり前からアダンの使うイブの体には、大きな問題が現れていたのではないかということだった。
世界の魔術や気候というものは、時代によって移り変わる。
資質などは変えられないものの、ある程度は時代への順応性の高い他の種と違い、竜種のような資質が固定化されている種族は体の作り替えや進化が難しい。
実際には初代の竜種に近かったというイブの体では、もう限界が来ていたのだ。
それをアダンが無理に動かしていたようなので、何か禁術に近いものを行っていた可能性も示唆されており、プロネや第五王子は、アダンの秘密を知る者としてその犠牲になっていることも考えられた。
(だとしても、お部屋ごといなくなったりするだろうか?)
ネアはそこが疑問であったが、第八王子のように、引っ越したのだと解釈する場合もある。
そのような効果を期待して、部屋の内装を空っぽにしてしまったのかもしれないが、ロキウスの体を狙っていたのであれば、周囲が異変に気付いてしまいかねないような行動は取らないのではと思えなくもない。
その後の聴取で判明したことだが、第一王子のエッボは、今回の海竜の戦に絡むアダンの不正に噛んではいたものの、他の王子達に王座を継がせるのは無理だと祖父に説得され、エッボが王になれるように手を打ったということで、先に影の国に送り込まれた二組について知らされていただけだったようだ。
しかもアダンは、エッボには、ナトと組ませているかのように伝えていたのだとか。
実際には、ナトはロキウスに紐付けられていたので、エッボについては使い捨てにする協力者として利用されたという見方が強い。
アダンの思惑通りに事が進めば、エッボは裏切られることになる。
とは言え全てが終わる頃にはもう、暦王は古い体を捨ててロキウスになっているので、エッボは祖父を責めようもなかったのだろう。
そんな、あまりにも周到で無責任な計画を知り、エッボはすっかり気落ちしてしまっているようだ。
今後の海竜達の課題としては、そのような不正に噛んでしまったエッボの処分についてや、行方不明のプロネとグレウスの捜索も含まれる。
その中の何かの要素が、ネア達にも関わってくるのかどうかは、まだ不透明というところであった。
「…………ウォルターあたりに、その問題も引き続き注視させよう。後日開催の、今回の戦の褒賞については、こちらからウォルターも参加させるからね」
「うん。ネアの代わりには僕が出るから、また日程が決まったら知らせるよ」
これについては、あえてネアを不在にしてノアが出席することになった。
海竜達の動向に不安があるというよりは、ディノが下僕志願の王子を警戒しているのだ。
ロキウスも苦笑してそうしようと言ってくれているので、交渉にあたる布陣としてはかなり手堅い。
その交渉の席に向けて、ネアは見聞きしたさまざまなことをエーダリア達と話した。
そうして最後に出てきたのが、ネアはウィリアムからも注意喚起されていた、世界的な魔術変動についての話題である。
「後は、今年の秋には蝕が起こることが確定した。これは世界的な問題になるだろうが、備えをしてゆかねばだな…………」
その系譜の多くを司る古く力を持つ者が亡くなると、その年には大規模な魔術の蝕が起こる。
川の中の大きな石が失われることで、川の流れが変わるような動きであると、ウィリアムは教えてくれた。
事象を司る人外者には深刻な影響は出ないが、それ以外の者達は扱う魔術がその日ばかりは思うように動かせなくなる。
過去には、蝕が大きな災厄を招いた事例もあるので、注意が必要な日になりそうだ。
「いいか。その日は門や扉のようなものは、絶対にくぐるなよ?既存の要素や資質が裏返ったり、変質したりするからな。いっそ、蝕の侵食のない、シルハーンの城にでも避難していろ」
そう言われて振り返ると、どこかでの悪さを終えてアルテアが戻ってきたらしい。
ネアはむぐぐっと眉を寄せて、事故の多い魔物を不安の思いで見上げる。
「…………アルテアさんは、事故ってしまうのでしょうか?」
「なんでだよ」
「アルテアも、ある程度は影響を受けるけれど、彼は器用だから危なくはないのではないかな」
「ディノ、…………その影響というのは、どのような風になるのでしょう?」
「蝕が深い場合は、身に持つ資質が反転する。反転から除外されるのは、私と、………本来ならウィリアムくらいかな。ノアベルトも、あまり影響はないと思うよ」
「その選別は、生来の魔術貴賤で判断されるからね。僕もあまり影響はないよ」
どうやら、王族相当の魔物には本来はあまり変化が及ばないらしい。
そんな話を聞きながら、ゼノーシュが少しだけしゅんとする。
「僕も、蝕の日はあまり見たり聞いたりが出来なくなるんだ」
「その代り、ゼノーシュは隠蔽に長けた魔術の扱いが出来るようになるのだったかな。以前、それで姿を隠していたと話していたね」
「うん。前の蝕の時は、僕の足跡や気配を完全に消せたし、擬態が得意になったからね。その時にグラストに会ったんだ」
それは、怪我をしたゼノーシュが狐に擬態して、グラストにクッキーを貰った頃のことなのだろう。
そのような身を助ける変化もあるのだろうが、中には不自由になる者も勿論いるに違いない。
「むむむ。つまり、ディノとノア、ウィリアムさん以外の魔物さんは、良い変化を得られる方も含め、ちょっと不安定になるのですね。………アルテアさんの場合は、何も選べなくなってしまったり…」
「やめろ。そんな変質を許す階位じゃないぞ。お前が口に出すと不吉だからな。二度と妙な予測を立てるなよ?」
「…………………ほわ、とても心配なので、一緒に、ディノのお城に避難します?」
そう言えばアルテアにはべしりとおでこを叩かれたが、ディノの方を見れば、ご主人様に三つ編みを持たせながら、ディノもこくりと頷いている。
「じゃあ、蝕については、アルテアが事故らないのが一番の課題になるのかな?ゼノーシュは事故らないだろうしねぇ」
「おい……………」
意地悪な微笑みを浮かべそう言ったダリルに、選択の魔物は何とも言えない表情になったのだった。