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302. 海竜の宴で事故が起きます(本編)





夕暮れと共に海竜の宴が始まった。


海の上に硝子の床を貼ったような会場では、ぷにぷにもちもちとした不思議なクッションが配られる。

椅子とテーブルがないので水竜の宴を思い出して一瞬絶望したネアだったが、そのクッションはずばんと上に座れば、その座った者が寛ぎやすいくらいの高さにもちもちと膨らみ、体をしっかり支える堅めのゼリーのような状態になる。



「ふ、不思議です!最初は平べったいのに、座ると膨らむなんて…………」

「クラゲの妖精と、餅魚の精霊が作ったものでな。これは楽だぞ!」

「くらげさん…………」



そう教えてくれたのは、リドワーンがとても警戒していた彼の兄、夜海の竜の第一王子のギーレンだ。

大柄な男性で、雰囲気は少しグラストに似ている。

紫紺の混ざった青い髪は短く切り揃えられており、淡い水色の瞳はとても優しい。



ネアが祟りものを恐ろしい箱で滅ぼし、死者の王や塩の王ですら弱らせてしまい、万象の魔物まで泣かせたという偉業を成し遂げたせいで、今夜はネアの周囲で楽しくお酒を飲むという海竜は少ないようだ。

その代わり、現場を見ていない者達の中でも、自身の力に自信のあるような者が一緒に飲もうぜと集まってくれていた。


今は、他の竜達と海の底で格闘遊びをするという謎の理由で立ち去ってしまったが、他にも何人かがネア達の輪を訪れてくれていた。

今は、格闘よりまだ飲みたいというギーレンだけが、ここに残っている。



(リドワーンさんは、お兄様がこの席に着いた時に、向こうでもの凄い顔をしていたけれど、大丈夫かな…………)



そんなリドワーンは今、中心となるロキウスを囲む席についている。

そこにはゾーイやクフェルフもおり、ベリス王子は隣の輪にいるものの、大好きな兄とは背中合わせだ。


ネアは、兄を排除しましょうとやって来たリドワーンに慌てて首を振り、こちらには魔物達もいるので大丈夫なので、ぜひにロキウスを頼むと言って押し戻しておいた。

なぜかそう言われたリドワーンは、ぴしゃっと背筋を伸ばして張り切ってロキウスの方に行ってくれたので、兄弟の悲しい戦いを防げたネアは胸を撫で下ろしている。



「それにしても、ちびこいなぁ!うちの娘より小さいのに、祟りものを倒してしまったのか」


がははと笑う夜海の竜の第一王子は、夜の海に揺蕩う豊かさや優しさを資質に持つ夜海の竜なのだそうだ。

それとは逆に、夜の海の恐ろしさや厳しさを資質に持つのが、弟のリドワーンなのだとか。


沢山飲んで沢山笑う、気のいいお父さん風なこの竜は、実際に父親でもあるらしい。



「ギーレンさんは、お子さんがいらっしゃるのですか?」

「娘が三人と、生まれたばかりの息子がいるのだ。娘達はな、妻に似てこれがもう、小さいのに美人揃いで、近隣の海の小僧共がうるさくてかなわん」


二名ほどの実名を出し、今度また娘にちょっかいを出したら捻り潰すと、ギーレンは半ば本気の目で呟く。

娘が大好き過ぎて、いささか過保護になっているようだ。


竜の良い部分が際立った包容力のある優しい人柄に、ネアはすっかりこの竜が好きになってしまった。

笑顔であれこれ話しているので最初はディノが荒ぶったが、どこかがグラストに似ていると言うとすとんと落ち着いた。


どうやら、ディノの中ではグラストは、浮気の心配をせずに仲良くさせてもいい相手として認識されているらしい。



「ディノ、ノアはすっかり向こうで捕まってしまいましたね」

「うん。悪いことではないと思うよ。ノアベルトはね、海に祝福を与えた後からは一度も、こんな風に海の者達と過ごすことはなかったからね」

「むむ、ノアを苛めた海の乙女さんがいたら、へどろの精を投げつけます!」



ノアは今、ベリス王子の席にいる。

なぜか今回の事件ですっかり懐いてしまい、ベリス王子は塩の王と話したくて仕方なかったそうで、そんな王子の意向を汲み、決死の勧誘部隊がおずおずとやって来ると、先程ノアを連れていった。


ベリス王子の氏族は魔術の解析や調整に長けており、研究職の魔術師のような立場であるようだ。

塩の王は怖いけれどお喋りしたいというベリス王子の瞳の輝きを見ていると、ネアは魔術書を与えられた時のエーダリアを思い出した。


ノア自身も、どこかエーダリアに似ている雰囲気に気付いてしまったのか、無下に出来ずに今は話を聞いてやっているようで、そんな風に好意を示されるとたじたじになってしまうノアが、ネアは何だか好きだった。




「…………おい、何だ今のは」



そう渋い声を出したのは、宴が始まった直後に合流したアルテアだ。

ネアが目の前のお皿の海老を遠ざけたのが、お気に召さなかったらしい。


「むむぅ。ちびふわは、海老を食べ過ぎなのでは…………」

「あの大きさのものを、せいぜい五匹だろうが。余計なおせっかいをするな」

「あらあら、困りましたねぇ。海老まみれでお腹を壊さないようにして下さいね?」

「なんでだよ」


そんなやり取りをしながらも海老は食べるようなので、これはもう、海老は好物に違いないとネアは深く頷く。


ここは厄落としや穢れ封じなどをかねた、儀式的な祝いの席なので、ネアも気兼ねなくお料理を食べる事が出来ていた。



「シェダーさんも最初だけで、すぐにあちらに呼ばれてしまいましたね」

「彼の統括している土地の近くで、水竜達が海の領域にも進出しているらしい。その話を聞きたいということのようだね」


シェダーが呼ばれたのは、この夜の宴に招待された、他の種族の席だ。

そこにはセレスティーアを始め、海のシーや、高波の魔物などがいて、魔物達は先程揃ってディノに挨拶に来ていた。



「お仕事の話であれば、致し方ありません。…………むぐふ。この、お魚とオレンジを使ったお料理がとっても美味しいです!」


ネアは、オレンジの酸味を使って美味しく仕上げたカルパッチョ的なお料理に頬を緩ませる。


他にも、美味しいお魚のつみれの入った澄んだスープや、大蒜と小さな麦粒のようなパスタと煮込む、海老や烏賊などのトマト煮込み。

溶かしバターをつけて食べる大海老の塩焼きに、香辛料をきかせた海老にチーズをかけて焼いたもの。

新鮮な生牡蠣も並んでおり、上に乗せるソースがなんと五種もあったので、ネアは既に三つも食べていた。


中でも、何度も食べてしまうのが、シンプルなムール貝の白葡萄酒蒸しだ。

お鍋いっぱいのムール貝は、味わいが海水の塩味と大蒜に白葡萄酒だけのシンプルさが故に、手が止まらなくなるという恐ろしいお料理である。

アルテア曰く、同じように見えるが、香草とバターの入ったお鍋も向こうのテーブルにあるそうだ。



「ふふ、ディノはそれが気に入ったのですね?」

「うん。美味しいね」


ディノが気に入ったのは、鮭のようなお魚を揚げたもので、タルタルソースと、林檎とバターのソースがたっぷり添えられていて、味を変えながら美味しく食べられる。



たらふく食べ、海ではあまりお酒は造られないということで、陸から持ち込んだ美味しいお酒がずらりと並び、ネアはまさかの氷河のお酒を発見してすっかりご機嫌のほろ酔いである。

空には大きな満月が輝き、遠浅の美しく澄んだ海は宝石のように光る。

どこまでも、どこまでも、月と星の光を映した南海の海は穏やかで優しかった。



ずしん。



その時、ふいに月光が翳った。

海の向こうに何か巨大な影がそびえ立っており、それが月光を遮っているようだ。

その姿を見て、ディノが小さく息を吐く。



「やれやれ、海渡りだね。覗きに来てしまったのかな?」


そう呟くと、ネアをアルテアに預け、ディノはゆっくりと立ち上がる。

海渡りに出会うのは二度目なので、ネアはそうしてディノが追い払う訳を知っていた。

特に危険などもないと前回で理解したので、立ち向かわれてしまっても怖くはない。


「…………高波が来ると困るのですね?」

「うん。海の者達が出てゆくと、逆効果だからね。すぐに戻ってくるよ」

「はい。ここで、美味しいムール貝をもぐもぐしていますね。悪い奴が出たら私を呼ぶのですよ?」

「お前こそ、ムール貝を食べ過ぎだろうが」


アルテアが何かを言っていたが、ネアは聞こえなかった筈なのでぷいっとそっぽを向き、頬っぺたを摘まんだ魔物に唸り声を上げた。

ギーレンが、仲良しだなぁと笑っているが、これは乙女の顔を不細工にする辱めなのである。

頭に来て、あまり開きのよくないムール貝をいじきたなくこじ開けながら、ネアはおやっと目を瞠った。




「……………なにやつ」


こじ開けて食べてしまうつもりだった貝の中に、小さな棘だらけの黒い生き物がいたのだ。

じっとりとした暗い目でこちらを見ており、なかなかに邪悪な感じがする。



「…………おい、まさかまた事故ったんじゃないだろうな?」

「アルテアさん、こやつはなんでしょう?」

「……………………棘貝の祟りものだな。よこせ。………それと、お前はここにいろ。ギーレン、数分間こいつを見張ってられるか?」

「任された。棘貝の祟りものとは、また珍しいな!」

「棘貝さん…………?」



ネアが引き当てたのは、棘貝という棘だらけのウニのような小さな貝で、中身も美味しくないので網にかかっても猟師が捨ててしまう生き物の、祟りものだったそうだ。

このように、美味しく食べて貰える他の貝に潜んでいて、うっかり食べてしまった者の口に刺さって悪さをする小さな祟りものだ。


あまり害はないのだが、一度獲物に選んだ相手が自分を食べないと、ずっと付き纏う迷惑な祟りものなので、アルテアはこの宴席の外側から海に捨ててくるらしい。

ネアを、今迄自分が座っていたギーレンの隣の席に移設すると、棘貝の祟りものの潜む貝を持って、宴席の奥に足早に歩いていった。


ジレに白いシャツ姿のその勇姿を見送り、ネアは次の貝に手を伸ばす。



(アルテアさんとギーレンさんは、知り合いなのかもしれない………)


特にそのようなやり取りはなかったが、先程のやり取りでは、お互いの事をよく分かっているようだった。

ディノやノアも、初対面という感じはしない。


(でも、随分と長く生きているのだから、そのような知り合いも多いのだろう)


そう考えて特に深く悩まず、ネアは食事に戻った。



「うむ。あのとげとげを食べてしまわなくて良かったです………」

「あいつはなぁ、俺も一度食っちまったことがあるが、なかなか痛い」

「むむぅ。海には色々な生き物がいるのですね………」

「はは、でもまだまだいけそうだな!」


厳しい面持ちで頷きながらも、次のムール貝を躊躇わずに食べていたネアに、ギーレンはがははと笑って背中を叩いてくれた。

すっかりお父さんな雰囲気なので、ネアも寛いでお喋り出来る。



しかしその様子を、あまり快く思わない者がいたようだ。

ゆらりと落ちた影に、ネアは顔を上げておやっと目を瞬く。

そこに立っていたのは、いつの間にかこちらにやって来たらしいリドワーンだ。



「……………兄上、その方に、あまり気安く触れないでいただきたい」


弟の不愉快そうな低い声に振り返ったギーレンは、ふんと鼻を鳴らした。


「今宵は継承の宴だぞ。様々な者達と愉快に飲むのが海の掟だろう。無粋なことを言うな」

「……………もう一度言いましょうか。ネア様から手を離して下さい」

「ふうん?」


そこできらりと目を光らせたギーレンは、ふいにネアをひょいっと持ち上げてしまった。

美味しい生牡蠣をいただいていたところだったネアは、牡蠣がつるんと落ちてしまいそうでぎゃっと悲鳴を上げる。


「むぎゃ!何をするのだ。牡蠣が落ちたら許しませんよ!!」

「はっはっは。すまんな。リドワーンには、急に陸に上がると一方的に宣言されて、頭に来ていたのだ。兄として、このくらいの嫌がらせはしてやらんとな」

「むむぅ。またしても復讐の為の武器にされております。しかしながら、大きな竜さんの肩の上に担がれるのは初めてなので、………ギーレンさん、弟さんが剣を構えていますよ?」

「そうだろう!こうやって肩に座らせてやると、娘達も喜ぶんだ。…………何?!」



先程散々自慢していた娘の話をまた始めかけ、ギーレンはぎょっとしたように振り返った。

そこには、酷く冷やかな眼差しで、大きな剣を構えたリドワーンがいる。




「な、なぜだ。そんなに激昂させることか?」


動揺したギーレンは、慌ててネアにそう尋ねたが、そこで話を振られてもこの二人の兄弟関係が良く分らないので、ネアも何とも返事がし難い。

とは言え牡蠣は美味しくつるんといただけたので、もぐもぐしながら、牡蠣殻をギーレンに渡し、リドワーンに向かって手を伸ばしてみた。



「リドワーンさん、この乗り物から降りるので、手を貸してくれませんか?」



すると、リドワーンははっとしたように剣をしまうと、慌ててネアを兄の手から救出してくれた。

挨拶をしてくれた時から紳士的で優しい雰囲気だったのでこのような手段に出てみたのだが、上手くこちらに注意を切り替えてくれたようだ。



(そして、もしかしてリドワーンさん、少し酔ってる?)



微かに手が熱いような気がするのだが、気のせいだろうか。



「申し訳ありません、兄が失礼なことを」

「いえ、ギーレンさんは、娘さんが大好きな優しいお父さんという雰囲気で、とても楽しい方でしたよ。…………リドワーンさん?」

「い、いえ、ネア様を落とさないようにと思うと、少し緊張しました」



ものすごく真剣な顔で床に下してくれたが、ネアとしては飛び降りてもいいくらいの高さであったので、余程気を遣う人なのかなと首を捻る。


しかし、その直後にリドワーンは、通りすがりの無法者のせいでうっかり口を滑らせてしまった。




「なんだ、そんな小さな子供一人満足に持てないのか。夜海の王子も言う程ではないな。貸してみろ」

「むぎゃ?!」


そう言ってネアを持ち上げようとしたのは、通りがかりの見知らぬ竜だ。

見知らぬおじ様に持ち上げられかけて悲鳴を上げたネアだったが、次の瞬間、その男性は宙を舞っていた。



うわぁぁと声を上げて投げ飛ばされ、会場を覆った結界の向こうにばしゃんと落ちる。

周囲で飲んでいた竜達が呆然とその光景を見守り、ぱんぱんと手を払ったリドワーンは、通りすがりの持ち上げ魔がネアに触れた部分も手で払ってくれた。



「お怪我はありませんか、ご主人様」

「ごしゅ…………?」



目を丸くしたネアが復唱すれば、リドワーンははっとしたように目を瞠り、片手で口元を押さえると何やら艶っぽく目元を染める。



「……………申し訳ありません、つい。失言でした………」

「ごしゅじん………さま?」



ふにゅりと眉を下げて立ち尽くしたネアに、ギーレンは、良く分らないがこのおかしな空気をどうにかせねばと焦ってしまったらしい。

慌てて二人の間に割って入ると、リドワーンの背中をばしばし叩く。



「はっはっは!馬鹿だなお前も。父上とでも間違えたのか?それとも、陸に上がって妙な趣味なんぞ覚えていないだろうな?」

「…………兄上、偏見を持たれるのは構いませんが、この方は私の立派な主君です。ご主人様と呼ばせていただくのは烏滸がましいですが、父上などよりも遥かに偉大で…」

「わかった!わかったから、黙ろうな!!」


何やら地雷を踏んでしまったらしく、滔々と語り出してしまったリドワーンに、酔いも吹き飛んだのかギーレンは弟の口を慌てて塞ぐ。


それは、ネアがとても絶望に満ちた悲しい目をしたからかもしれない。

或いは、周囲の竜達がざわざわしているからだろうか。



「ネ、ネア様、………その弟とは……………」

「わたしには、かいなどありません」

「……………貝?…………ん、会?」

「とくていのしゅみのしじしゃなどおりません!!!」



悲しい思いでそう宣言したネアに見上げられ、ギーレンは何かを悟ったのか、どこか悲壮な面持ちになって大真面目に頷いてくれた。

口を覆っていた兄の手をぷはっと外したリドワーンを鋭い目で見た後、小さな声で、実はかなり酔っているなと苦々しく呟いた。



「……………申し訳ありません、ネア様。弟は、そうそう酒に飲まれることなどないのですが、今夜ばかりは少々飲み過ぎているようです。…………リドワーン、どれだけ飲んだんだ?」

「まだ、七ガズも飲んではいませんよ。兄上こそ、あまりネア様に気安く触れないで下さい」

「……………一晩に三ガズも飲めば充分なところを、お前はその倍以上も飲んだのか。我が弟ながらはしゃぎ過ぎだな!よし、酔い覚ましを飲め」

「酔い覚ましなど…」

「ネア様、弟は少し酔いを醒ました方が良さそうですよね?」

「むぐる、酔い覚ましを飲むのだ!」

「は!ご命令とあれば!」


ネアは、嬉々とした表情のリドワーンから、おかしな方向の返事が飛んできたぞと青ざめ、そっと周囲を見回してみた。


すると、近くにいた竜達は、何かいけないものでも見てしまったかのように、ささっと目を逸らすではないか。

そしてなぜか、数人の男達からは、きらきらと輝く憧れの眼差しをこちらに向けられてしまう。



「むぐるる!」



ネアが慌てて精一杯の威嚇をしていると、棘貝の祟りものの放流が無事に終わったのか、どこからともなくアルテアが戻ってきた。

周囲の状況を見て顔を顰めると、ネアの頭に片手をずしんと乗せる。



「むぐ?!」

「何だ、お前はまた騒ぎを起こしてるのか?」

「むぐる!私は何も事故っていませんよ。かいなどありませんし、とくていのしゅみのしじしゃもいません!」

「……………何だ、また増やしたのか」

「おのれ、その残念なものを見るような目はやめるのだ!」

「竜はやめとけ。海竜はどうせ庭では飼えないぞ」

「………………むぐぅ。いくら私でも、陸での生活が大変な海竜さんを、お庭で飼ってしまったりはしないのです」



ふわりと、白い闇が揺れた。


さっと周囲の空気が変わり、微かな畏怖と、間近で見る万象の魔物への思慕のようなものを視線に添わせ、竜達はまた違う思いに息を潜めたようだ。


海渡りを追い払ったディノが帰ってきたようで、そう言えば周囲はいつの間にか、また明るい月光に照らされている。



「ネア?…………飼いたい竜を見付けてしまったのかい?もうアルテアがいるのだから、他には飼えないよ?」


戻ってきたディノは、そう言うと困ったようにネアを見る。


「ディノ、私にはかいなどありませんよね?」


ネアは、ここにいる人間がいかに善良でまっとうな生き物なのかを保証して欲しかっただけなのだが、ディノはそう尋ねられてしまったことで、とても不安になったようだ。

悲しげに目を瞬くと、ネアの手にそっと三つ編みを握らせる。



「君が踏んだり頭突きしていいのは、私だけだからね」

「お、おのれ、いっそうに悪化させましたね!」

「ご主人様……………」



更に険しい表情になってしまったネアに、魔物はおろおろしながらネアを持ち上げてあやし始めた。

ギーレンが、どこか不憫そうにそんなネアを見ている。

案外、常識人はこの夜海の竜の第一王子しかいないのではと、ネアは苦境を訴えるように悲しい目をしてみせた。



「ったく。どうせ、何か食べ損ねたんだろ。取って来てやるから言ってみろ」

「むぐぅ。そういうことではないのですが、向こうの大皿で食べられている、白身魚を揚げて酸っぱ辛いソースをかけたものが食べたいです」

「やれやれだな」


ぶつくさ言いながらではあるが、使い魔がお料理を取りに行ってしまうと、ディノはどこか儚なげに微笑んでネアの頭を撫でてくれる。


「そうか、食べられないものがあって悲しかったのだね。大丈夫だよ、アルテアがすぐに持ってくるからね。私が気付いてあげられなくてごめんね」

「…………もはや、この収拾はつかないのだと理解しました。せめて食べたかったお料理を食べて心を癒します…………」

「ご主人様……………」



視界の隅では、酔い覚ましを飲んだらしいリドワーンが、夢から醒めたような表情で目を瞬いている。


自慢の弟が新たな境地に踏み込んでしまったことが不憫に思えてならないのか、ギーレンがそんな弟の背中に手を回してこっちで飲もうかと、別の宴の輪に引き入れていた。

ネアの繊細な心が犠牲になったものの、あの兄弟が仲良くしてくれればと今回は思うことにしよう。




「ほら、これでいいだろ。いい加減、機嫌を直せ」

「ほわ、お魚料理の他に、こちらにはなかった揚げ物があります!」


少しすると、アルテアが器用に大きな料理のお皿を何枚か持って帰ってきた。

取り皿ではなく大きな料理のお皿を活用して、他にも何品か持ち帰ってくれたようで、ネアは美味しそうな蛸の揚げ物と、チーズをかけて焼いた半身の蟹などに大興奮で弾む。


ディノから床に下して貰い、また大きなお皿を囲んで輪になったところで、向こうから歩いてやって来たのは、王になったばかりのロキウスと、晴れて彼の騎士になれたクフェルフだ。


「ネア、楽しめているだろうか?」

「ロキウスさん、………ふふ、ほろ酔いですね」

「ああ、頬が少し赤いかな。今夜は祝いの席だからな、随分飲まされてしまった。酒には強いつもりなのだけど、五ガズも飲むことになるとはさすがに思わなかったな」

「みなさん、ロキウスさんとご一緒したいのでしょうね。あちらもこちらも楽しそうで、海の宴席に出るのは初めてですが、こんなに賑やかだとは思いませんでした」

「そう言って貰えると嬉しいよ。………それと、僕達もこちらに入れて貰えないだろうか?」



ロキウスはそう言ってディノの方を窺い、ディノが柔和に頷くと、心から嬉しそうに微笑んだ。


ネア達はこの海竜の宴に呼ばれてはいるものの、この宴席は厄落としの意味合いもあるので、進んで参加しているかどうかの判断にはならない。

快く輪に入れて貰ったことで、ロキウスは、こちらがちゃんと宴を楽しめているようだとほっとしたのだろう。

クフェルフも安堵の表情を浮かべている。



「よし、俺も混ぜろ」

「ありゃ、何でゾーイまでついてくるのさ」


そこに、やっと解放されたのかこちらに戻ってきたノアと、そんなノアを追いかけてきたらしいゾーイも加わって、大きな輪が出来上がった。



ネアはシェダーの姿を探したのだが、今度はリドワーンの隣に座っているのが見えたので、そちらで輪に加わったようだ。


酔いが覚めたリドワーンの様子も少し心配だったので、シェダーと一緒ならと安心した。

ノアとゾーイがわいわいしているせいか、ちらりとこちらを見たシェダーと目が合ったので、ネアはいつでもこちらにどうぞのゼスチャーをしておく。

グラスを掲げて微笑んでくれたので、どこかでシェダーも来てくれるだろうか。



「今回は、海竜の不祥事に巻き込んでしまって申し訳ありませんでした。きっと、海竜とは、なんと愚かで無責任な者達だとお思いでしょう。それなのに、命を助けられたばかりか、このような席にも出ていただけている。…………いただいた恩に報いる為にも、良き王になって皆様にご恩を返してゆけるように…」


ロキウスはまず、丁寧な謝罪から始めた。

けれどもその言葉は途中でノアに遮られてしまう。


「まぁ、君の罪じゃないけれど、君が王になる訳だから、君にもその支払いの義務は生じるよね。でもさ、こんな宴席でもう一度最初から謝らなくてもいいよ。何しろこっちは、ネアがお皿を持って待っているしね」



そう紹介されたネアは、念願の酸っぱ辛いお魚を取り分けたお皿を手に深く頷く。



「ええ。それに、ロキウスさんが新しい王様になったからこそ、私は安心してこの美味しいお魚料理を食べられるのです。今後海で何かがあって、また困った人や心無い誰かがいたとしても、海には信頼できる海竜の王様もいるのだと思える、素敵な安心も貰いました。だからどうか、ロキウスさんは無理をせずに今後も元気に王様でいて下さいね」


和やかな雰囲気で揚げ魚を食べるのだとネアがそうまとめてしまえば、ロキウスは水色の瞳をうるりと細めて深く頷き、もう一度だけ、魔物達に深々と頭を下げた。



(先に、ノアが止めてくれて良かった………)



ネアがどう思うのであれ、ここには魔物達の判断も存在する。

ノアはあのように言うことで、ネアにも、魔物達はこの海竜を厭わないのだと教えてくれたのだ。



夜空は晴れ渡り、海竜の宴は、灯などなくても明るい夜の光の下にあった。




(でも今日は、たくさんの海竜が死んだのだ…………)



ネアが生々しくその喪失に胸を痛めないのは、失われた者達が見知らぬ誰かであったり、敵として明確に滅ぼしにかかった者達だからだろう。


海竜達は今日、多くの騎士と、あの騒ぎに乗じて反旗を翻そうとした多くの海竜達を喪っている。


海竜達同士の戦いでも双方命を落とした者はいたが、ノアやウィリアムも、反意ありとみなしたかなりの数の海竜を倒しており、ウィリアムにいたっては二つの氏族を壊滅状態にしてしまったという。

生き残った者達の中にも処分を待つ者も少なくはなく、その中にはノアが祝福を取り上げることで稼働可能な命の時間を大幅に減らすらしく、この海の底の牢獄で、明日の朝までには砂になってしまう者もいるそうだ。


祖父の思惑に賛同してしまった海竜の第一王子も、自身が敬愛していた暦王が従兄弟の体を奪った咎人だと知るとすっかり落胆してしまい、母親や、まだ宴には参加出来ない幼い第八王子達と一緒に海の底の王宮に残っている。

彼等とは、掲げる政策や理想は違うものの、深刻な問題になるようなすれ違いはないとロキウスが話してくれたので、ネアはほっとした。


ロキウスも、あの騒ぎの中で、三人の同胞をその手にかけた。


その中の一人は、ロキウスが尊敬していた東海の海竜の将軍だったそうで、得難い人の支持を得られなかった自分の未熟さが恨めしいと、ロキウスは深く項垂れていたらしい。



古くからあったものが失われ、海竜は今日、多くの同胞と共に、古き時代の竜として君臨した王と女王がその生を終えた。



この宴席の中にも、知り合いや友人などを亡くしたばかりという者も少なからずいるだろう。

とは言え、こうしてその日の夜には、輪になった者達で酒を酌み交わせるのだから、海の男達はしたたかで剛健とも言えるのかもしれない。



(これからは、………)



これからは、少しずつ前を向いて、新たな海竜の時代を作り上げてゆくのだろう。



「後はもう、ロキウスが嫁を取るくらいだな」

「なっ、……………ゾーイ!」



会話の中で、そう茶化されて、ロキウスが真っ赤になる。

何やら特定のお相手がいるのかなとネアが凝視していると、ゾーイが、ロキウスは理想が高くて婚期を逃しているのだと教えてくれた。



「おや、でも君は宝玉を作ったのだろう?」


そう尋ねたのはディノで、竜の宝玉とは、宝を得なかった竜だけが宝の代わりに作れるものなのだ。



「……………ええ、お恥ずかしながら。とは言え、王となる以上はそうも言っていられませんが」

「ロキウスの理想は、海の精霊王だからな。さすがに妃に迎えるのには無理がある」

「ゾーイ!!!」


慌てて友人の口を塞いだロキウスに、クフェルフが小さく笑っている。


どうやら、海竜の中では有名な話らしく、まだ幼かった頃にロキウスはセレスティーアに求婚をして、それはもう丁重に断られたことがあるらしい。

初恋に敗れたロキウスは、その日から一週間も自室から出てこなかったのだとか。



(そう言えば、白もふさんの想い人は、アルテアさん…………)



ネアは、奇遇にも並んで座ってしまっている二人を見比べ、内心難しそうだなと考えてしまった。

あまりにも身に纏う雰囲気が違うので、残念ながらセレスティーアの好みのタイプではないのかもしれない。



そんなロキウスは、今度はノアとお喋りをして何だか嬉しそうにしている。

塩の王が海を呪ってはいないと知ったことは、海に住む者としてはやはり喜ばしいのだろう。

こちらでは、ディノにアルテアが、棘貝の一件を明かしてあいつはまた事故ったぞと悪口を言っているので、ネアは小さく唸る。



すると、そんなネアのグラスに、ゾーイが氷河のお酒を注いでくれた。



「まぁ、氷河のお酒がまだあったのですね!」


そう喜ぶネアに、ゾーイはどこか満足げに微笑む。

海と雷光の瞳は、今迄のどんな時よりも柔らかく穏やかだ。



「あんたには、礼をしなけりゃならんからな」

「お礼、ですか?」

「………………俺はな、ロキウスが王座を下りて姿を消した後、…………権力闘争に敗れたものか、何か事件でも起こしたのか、…………恐らく、もう生きてはいないんだろうなと考えていた…………。今回の海竜の戦に、あれだけ不満を言いながらもその場から立ち去らずにいたのも、そこに加わって生き延びることで、こいつの消息が掴めるかもしれないと思ったからだ」



ゾーイは、ぽつりとそんなことを教えてくれた。

アダンは、ロキウスの不在にあれこれと理由をつけていた。

同じ海竜の中にも疑惑を抱いた者達がいたくらいなので、外部からその不自然さに眉を顰めたゾーイは、最悪の想定をしていたらしい。



「ゾーイさんは、逃げられずに巻き込まれてしまっただけではなかったのですね?」

「とは言え、ロキウスはもういないだろうと考えていたからな、仇討ちなんぞ柄じゃないし、必ずその謎を暴くという程の意気込みでもない。海ってのは、時折大きな波が立ったと思ったら、ついさっきまでそこにいた誰かがいないなんてことは、ざらにあるんだ。…………でもな、あの牢でロキウスの声を聞いた時は、ただ嬉しかった。……………あんたのお蔭で友を失わずに済んだよ、礼を言う」


そう言うと、ゾーイは帽子を取って、ネアに深々と頭を下げてくれた。

ネアは、何だか心がむずむずとして嬉しくなり、こちらを見た魔物達に、今回の海竜の戦は大満足の終わりだと自慢する。



「ゾーイさんとも、仲良しになりましたしね!」

「それについては、今後は出来るだけ縁遠くさせてくれ。勿論、あんたには借りがあるからな、何かあったら知恵も力も貸すが、それ以外の部分では関わりたくない。俺はこう見えても、慎重なんだ」

「なぬ……………」

「それと、後ろに、あんたに用のありそうな奴らがいるぞ」

「………………む?」



振り返ったネアは、見ず知らずの海竜達の姿にこてんと首を傾げる。

五・六人の男達は、どこか恥ずかしげな表情でもじもじとネアを窺うと、その中の一人がおずおずと進み出てくる。



「その、…………ゾーイ殿を下僕にしたのなら、是非に私達も………」

「…………………げぼく」

「はぁ?!俺は、下僕になんぞなってないぞ!!」

「あなた様の、あの、悍ましい祟りものと化したアダン様の倒し方を見てすっかり心を奪われてしまいました。…………私を力ずくで座らせた者というのも、初めてです。もし、他にも下僕を取られるのであれば…」

「か、かいなどありません!!立ち去るのだ!!」



慌てて後ずさったネアを、下僕希望者達の輪から引っ張り上げて助けてくれたのは、呆れ顔のアルテアだった。


ネアはすぐにディノに渡され、ご主人様を渡さないと荒ぶる魔物にしっかりと抱き締められる。

駆けつけたシェダーとリドワーンが下僕志願者達を遠ざけてくれたが、リドワーンはずるいぞと詰られてもいた。




「いやはや、ネア様は凄い御方だなぁ。僕の弟まで下僕にしてしまった」


ほろ酔いに蒸気した頬で、ロキウスが愉快そうにからりと笑う。

ネアはぎくりとして向こうの方に隔離されていった海竜達を眺め、その中に第六王子とおぼしき男性が混ざっていることに絶望した。



「か、かいなどありません……………。ふぎゅる…………」



悲しい思いでその夜の宴を終えたネアは、帰り際にお酒を一杯飲んでぽわぽわしている海の精霊王を発見し、絶望のあまり通り魔的に後ろからさっと撫でてしまい、悲鳴を上げて振り返ったセレスティーアには、これが犯人であると無実のアルテアを捧げておき、無事に帰路についたのであった。






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