妖精達の企み
「ほら、があがあ言うんだよ!」
「あ、……ああ。素晴らしいな」
その日の夕方、エーダリアは執務室で思いがけない魔物と二人きりでいた。
途方に暮れて、先ほど部下にカードで訴えたのだが、そちらもなかなかに大変な状況なので早く帰ってきてくれとも言えない。
と言うか、だからこそここに雲の魔物がいるのだった。
(ヒルド、早くイーザをこの魔物に返してやってくれ…………)
祈るような思いでヒルドを呼びながらも、雲の魔物が持っている人形にどうしても目がいってしまう。
危機管理と魔術師の欲は決して折り合えないものだと痛感しつつ、見たことのない魔術添付のある子供用の玩具を、またそっと観察してみた。
「もっと褒めるといいよ!僕は偉大だからね」
そう微笑んでアヒル人形を見せてくる魔物は、頬に白い模様のある特等の魔物の一人。
エーダリアとて、ほんの少し前までは一目見ただけで息を詰めたような、そんな特別な魔物なのだ。
それなのに、なぜ自分の執務室の、それも、強請られて敷物を敷いてやったものの床に座っているのだろうか。
だが、悲しいかなエーダリアはそんな状況に慄くよりも、どうしても気になってしまうことがあったのだった。
なので、おずおずと雲の魔物に話しかけてみる。
「………その、どうやって鳴き声を変えたのだ?」
「やっぱり人間は馬鹿だなぁ。ほら、ここで音の魔術を領域支配して、隷属の魔術でアヒルに繋がせるんだ」
「領域支配か…………!」
「うん。この音はアヒルの中にずっと留まっていて、このお腹に触れると響くようになっているんだよ」
「音そのものがこの中に!」
そこで自制心をどこかにやってしまったようで、ついつい夢中になってあれこれ聞いてしまい、やはり雲の魔物は凄いのだなとエーダリアは感動した。
エーダリアがこんな状況に置かれているのには、理由がある。
リーエンベルクに住んでいたり、或いはここに住むネアという少女に守護を与えている高位の魔物達が、海竜の戦に不安な動きがあったと不在にしている今日、そのネアに降りかかっている事件について重く見た終焉の魔物が、ここに雲の魔物を護衛代わりだと言って置いていったのだ。
ウィリアムに脅されてしまったのか最初は涙目で不機嫌だったヨシュアは、エーダリアがアヒルの人形に仕込まれた驚くべき魔術の叡智についてあれこれ質問していると、徐々にご機嫌になってきた。
「それに、浴槽にアヒルらしく浮くようにしてあるんだ。ネアにも自慢するんだけど、今日はいないからね。また来てあげるよ」
「アヒルらしく………。その人形が、市販時の魔術によって浮くのとはまた違う効果なのだろうか?」
「元々浮くけれど、泳がないからね」
「泳ぐのか…………?」
「見たいなら見せてあげてもいいよ。僕は偉大だから、君はきっと驚くよ」
「是非見せて欲しい。盥と水だな、………いや、浴室の方がいいのか?」
「浴室で泳がせるんだよ。だってこれは、浴室のものなんだろう?」
誇らしげに胸を張る雲の魔物に頷き、エーダリアは執務室にある浴室に彼を案内した。
ここでは夜通しの会議を行うことや、ついつい持ち込んだ魔術書を読み明かしてしまったりすることも多々あるので、自室ではないものの浴室を併設してある。
時折ここでは、口周りを汚したり、外で沼や池に落ちた銀狐を洗うこともあるので、ノアベルトのお気に入りの林檎とラベンダーの香りの犬用シャンプーも常備されていた。
(いつの間にか、それがあるのが当たり前になった…………)
浴室を見ると、浴室に立て篭もり自分を暗殺しようとして送り込まれた獣と扉越しに睨み合った遠い日を思い出す。
あの日に感じた焼け付くような孤独から、この不思議な日常まで。
気紛れでその獣を追い払ってくれたというノアベルトの為のものが、今はこんな風に自分の執務室の浴室に置かれている。
(そしてなぜか、今日は雲の魔物の為に浴槽に湯を張るのだ…………)
浴室全体は白に近い、とろりとした乳白色がかった水色のタイルをふんだんに使っており、冬の湖の結晶石は鎮静効果などがある。
自室の浴室とは違う雰囲気にしてあり、ゆったり湯に浸かって寛ぐというよりは、短い時間でも疲れを取れるような造りになっていた。
チャリっと音を立てて揺れるのは、浴室に人が入ると穏やかな風が吹くような効果があるからだ。
浴室の壁にかけられた、森と湖の絵から、その穏やかな風が吹くのだった。
「ほぇ。この絵は………祝福かい?」
「ああ、この絵を描いた者が、この森の妖精達に愛されていたらしい。私の気に入りなのだが、中に込められた魔術が動くものなので、寝室などには飾れないのだ」
「無意識な状態で過ごす場所に、扉に育つかもしれないものを置かないのは当然だよ」
「ああ、なので、この執務室の浴室の壁にかけた。この浴室では長時間を過ごすことはないが、その代わりよく使う場所だからな」
「ふぅん。………湖の部分に水の祝福があるから、湿気を防ぐ魔術はいらないんだね」
「そうなのだ。それどころか、浴室の湿気で木々が生き生きとする」
さすがに、まだよく知らない魔物を自室に案内したらヒルドに怒られそうだが、執務室の浴室であれば問題あるまい。
と言うかヒルドは、この雲の魔物と一緒に来たイーザと急ぎ内密の話があると言って外してしまい、なぜかここで、エーダリアはヨシュアと二人きりにされたのだ。
(仮にも雲の魔物なのだが、ヒルドは構わないのだろうか…………)
そう思わなかったでもないが、思っていたよりも比較的上手くやれている。
高慢で残忍だと言われる雲の魔物が、こんな風に魔術の組み合わせや工夫を教えてくれるとは、思わなかった。
この魔物は、ガレンの長となるその前から、人間にとっては災厄の一つとされた古き魔物だ。
それをなぜか、ネアは出会った日に狩ってしまったのだった。
「では、この場合はどうなるのだ?………例えば、羽のような質感を再現するのであれば、影の魔術で陰影を描くことも出来るだろう?」
「だから人間は浅はかなんだ。羽の祝福を知らないのかい?特別にだけど、このアヒルに触らせてあげるよ」
「い、いいのか?」
許可を貰ってそっと触れてみると、そのアヒルはまるで本物のアヒルのような柔らかな肌触りだった。
すっかり感動してしまい、エーダリアは目を瞠って微笑んだ。
「す、凄い!この質感は本物の羽毛のようではないか!」
すっかり感動してしまったエーダリアは、ふと、浴槽に寄りかかりこちらを見て微笑んだ美貌の魔物の凄艶さにぎくりとする。
銀灰色の瞳でこちらを見て、ヨシュアは不思議な微笑みを浮かべた。
それはエーダリアも良く知る魔物らしく老獪で酷薄な微笑みで、話に聞く雲の魔物らしい冷酷さや高慢さも覗く。
けれどもそこには、あの気象性の悪夢の中で契約を結んでくれた日の、ノアベルトの目にどこか似た、不思議な穏やかさもあった。
ちゃぷんと、浴槽のお湯を指先でかき混ぜ、ヨシュアは水面を揺らす。
ターバン姿の魔物は、このウィームでは見慣れない姿をしている。
異邦人であるというその異質さに加え、高位の魔物達の持つ色彩は、内側で光の燃えるような独特の鮮やかさを持つので、ひたと見つめればその凄艶さに胸が騒めく。
そうして、際立ち輝く色の苛烈な美しさに人間は絶望を見るのだろう。
だからこそ彼等は、その美貌や眼差しで、抵抗力のない人間達を容易く掌握してしまうのだ。
エーダリアですら。
魔術を極めた白の塔、ガレンエーベルハントの長であるエーダリアですら、その瞳をただ美しいと思い、その恐ろしさと深さに惹き寄せられそうになるのだから、彼等はどれだけ特別な生き物達なのか。
精神圧を抑えない高位の魔物を正面から見ると、その美貌に気が触れる者もいるという。
「僕はさ、君のことはあまり好きじゃないのかなって考えていたんだ。…………でも、君は面白いよね」
浴槽に浮かべたアヒルを動かしながら、雲の魔物はそう微笑む。
「……………私が?」
「うん。僕のことを最初は警戒していたけれど、すぐに一緒に遊んでくれたよ。僕はさ、下僕なら沢山いるんだ。それも便利だし好きだけど、退屈するんだよ」
「では、同じ目線で会話を出来る者が欲しいのだろうか?でもそれであれば、イーザ達がいるだろうに」
「うん。僕にはイーザやルイザ達がいるし、ハムハムやポコのぬいぐるみもいるからね。…………でもさ、僕だってシルハーンと遊びたいんだよ」
エーダリアは、そこでただ頷いた。
ヨシュアがシルハーンとの時間を得たいのだと、ただそれだけの会話ではないのだと、ヨシュアの目を見れば分かったからだ。
「だからさ、シルハーンとここで一緒に暮らしている君には、きっといつか腹が立つ筈だと思っていたんだけど、イーザにそう言ったら、多分そうはならないって言うんだ。君は、僕がよく虐めて遊ぶ魔術師の一人なのにね…………」
「…………魔術師は嫌いなのだな?」
「偉ぶって見せる奴は嫌いだ。雲を作って土砂降りの雨を降らせたり、街を流したりするんだよ」
「……………それは、私も気を付ける必要があるな。ついつい、知っている術式の話が出ると夢中になってしまう。人によっては、それを知識を押し付けられているようだと感じることもあるだろう…………。もし、不愉快なことがあれば、指摘してくれると助かる」
少し反省してそう言えば、雲の魔物は小さく笑う。
「エーダリアは、ネアに少し似てるね」
「…………私がか?!」
「全然違うけれど、似てるんだよ。僕が言うんだから間違いない。ネアはね、ポコのお祝いに来てくれたんだ」
それを、とても嬉しそうに言うと、ヨシュアはまたアヒルの人形をお湯の中で動かした。
「今度、君にも僕の奥さんのぬいぐるみを見せてあげるよ。ポコはぬいぐるみになってもとっても美人だから、賞賛するといいよ」
ネアから、そのぬいぐるみの話は聞いていた。
残忍で残虐な筈の雲の魔物が、死んでしまったムグリスの妻を今も偲んで、作らせたぬいぐるみを抱いて眠ると言う。
愛する者の為に、彼はそうして心を震わせる生き物なのだ。
だからネアは時々、そんな不器用で優しい生き物を、そっと撫でてやりたくなるのだそうだ。
それはディノやノアベルトを見ていても、或いはウィリアムやアルテアですら、高位の魔物達は、そんな無防備さをも秘めているのだと、エーダリアは最近ようやく分かるようになってきた。
だから、ここは微笑むのだと、今のエーダリアには分かるようになった。
「とても光栄だ。その時には、あなたの奥方のぬいぐるみに、何か贈り物を持ってゆこう」
そう言うと、ヨシュアは嬉しそうに微笑んで頷いた。
彼は、例えぬいぐるみであっても、そこに伴侶の面影を見るものを大事にされるのが嬉しいのだろう。
それを知ることで、エーダリアにとってもこの魔物は恐ろしいばかりの長命者ではなく、ヨシュアという名前を持つ、温度の感じられる存在になった。
幼い頃、書架に隠れて読んだ絵本の中の、魔物達や妖精達に怖々と指先で触れたことを思い出した。
恐ろしくも美しい彼等に心を奪われ、かつてのウィームの王族のように、人ならざる者達に囲まれて、彼等と共に暮らしてみたいと思った。
人間の誰かが、このような立場の王子として生まれたエーダリアを愛するのは難しいだろう。
心を傾けることで、自分の立場を危うくし、命さえ奪うかもしれないものを人は見ないようにするものだ。
けれどももし、人ならざる者達なら。
こんな国の事情など気にかからないような生き物や、こっそりと影の隙間やあわいから忍び込めるような友人がいたら。
そう考えて胸を熱くした幼い頃。
それは、エーダリアが生きて行く為に必要な、命をあたためる為の灯火であった。
「…………ところで、君はぶたないよね?」
「…………ネアには、叩かれてしまうのだろうか?」
「うん。ネアは怒ると叩くんだよ。もっと僕を大事にするべきだ。それに、イーザが出かける日には、ネアが僕を構ってくれてもいいと思うよ」
「ネアのことを、気に入っているのだな」
「ネアは怖いけれど、僕にポコのぬいぐるみを作ることを教えてくれたし、逃げ沼に落ちた時には助けてくれたからね。僕は僕を大事にしてくれる者が好きだよ。そういう者に会いたいし、側にいて欲しいんだ。君だってそうだろう?」
その言葉にはっとした。
それはもしかしたら、魔物達の普遍的な欲求なのかもしれない。
彼等は選り好みも激しいが、自分が気に入った者には愛して欲しくて堪らないのだ。
そして、自分が愛する者には過剰なまでの執着を向け、愛が返されれば、無防備なほどの信頼を寄せる。
魔物達が差し出す愛情の豊かさは、時には狼狽してしまう程に眩かった。
「だから、イーザは今だって、僕の側にいるべきなんだよ」
「……すぐに帰ってくるだろう。私はあなた達の関係についてはよく知らないのだが、それでも深い信頼を見てとれる。そのような相手を得られるということは、とても稀有なことなのだと思う」
寂しそうに呟いた雲の魔物が不憫になり、そう言ったエーダリアに、雲の魔物は嬉しそうに微笑んで頷いた。
「うん。イーザは僕の特別な友達なんだ。だから僕はイーザやルイザを損なう者がいたら、誰だって許さないよ。だから君も、イーザのことは大事にするんだよ」
「ああ、約束しよう」
そう雲の魔物に微笑みを返したところで、エーダリアは背後の気配に素早く振り返った。
戸口に立って、どこか満足げにこちらを見守っていた二人のシーを見付け、遠い目になる。
いつからそこに居たのかは分からないが、まるで、子供達が遊ぶのを見守る両親のような眼差しではないか。
「ヒルド…………」
思わず、恨めしい思いでその名前を呼ぶと、ヒルドはふわりと微笑む。
「仲良くなれたようで何よりです」
「あ、イーザだ!僕を置いていくだなんて、少し反省した方がいいよ」
「おや、エーダリア様に遊んでいただいていたのでしょう?楽しそうでしたが、やはり苦手ですか?」
「エーダリアは気に入ったよ!ネアがいない時には、遊んであげてもいいかもね」
「では、その新しいご友人が怪我などしないよう、今日のような日は守って差し上げないとですね」
「仕方ないなぁ。でも僕は強いからね、まとめて守ってあげてもいいよ」
得意げにそう宣言した雲の魔物に、ヒルドが蜂蜜とクリームチーズのケーキを食べるかどうか尋ねている。
大喜びで声を上げたヨシュアは、ひどく無邪気で、手のかかるだけの無垢な魔物に見えた。
それもまた彼等の一面なのだと、微笑んでその頭を撫でてやる、あの規格外な部下を思う。
彼女ならきっと、今頃は海竜の一人でも懐かせてしまっているかもしれない。
(だが、さすがにネアには似ていないと思うのだが……………)
ヨシュアがヒルドにケーキの催促をしている姿を見ながら、エーダリアも、苦笑して立ち上がった。
どうやら、自分とこの雲の魔物が親睦を深めるよう、シー達は一芝居打ったらしい。
「そうだな、お茶にしようか」
そう呟いて、家事妖精を呼ぶ為のベルをチリリと鳴らした。
夜にはネア達が帰ってくるだろう。
そこには、エーダリアにとっては特別な一人の魔物もいる。
そんなノアベルトはヨシュアの訪問をとても心配していたので、仲良くなれたようだと帰ってきたら安心させてやろう。
そうしてまた、今はもうここに、手を取り合うことの出来るかけがえのない仲間達が共に暮らしていることに安堵し、安心して眠る夜が来る。
「エーダリア様?」
振り返ったヒルドが微笑む。
その美しい瑠璃色の瞳に、首を振って微笑んだ。
あの息苦しく悍ましい王宮から、清廉な美貌のリーエンベルクに。
ここで、共にあの暗闇を歩いたヒルドと一緒に暮らせるようになって、本当に良かった。
ヨシュアの言うように、エーダリアも彼等にずっと側にいて欲しいと思うのだから。
これからもずっと、愛する者達とここで共に暮らしてゆくのだと考えると、とても安らかな気持ちになった。
なお、帰ってきたノアベルトにヨシュアと少し仲良くなれたと報告したところ、自分の方が仲がいいのだと宣言され翌日から三日に渡ってじっとりした目の銀狐が、部屋に泊まることとなった。
不思議なあたたかさを胸に、今夜もそんな銀狐を隣に眠る。
四日目にはもういいだろうと呆れたヒルドに摘み出されて、涙目でけばけばになっていた銀狐だが、ノアベルトはエーダリアの自慢の契約の魔物であった。