301. その魂に出会いました(本編)
ざざんと、柔らかな海が揺らぐ。
ネアは穏やかな波を眺め、魔術通信端末に唇を寄せる。
夕方から海竜の宴が始まるので、お家に帰る時間を上司兼大家さんなエーダリアに連絡しているのだ。
淡いエメラルドグリーンの海はイブの瞳のようで、ネアは彼の魂の今の在り処について少しだけ考えた。
ディノとノアは、恐らくもう誰なのかを分かっているのだろう。
あのクリームイエローの貝殻は今、ディノが持っている。
そんなイブが預けた魂の欠片が、出会った誰かに反応したのかもしれない。
じじっと、魔術端末が音を立てた。
見渡す限りの穏やかな海には、今は海竜達の姿は見えない。
ネア達は、一足先に海の上に上がってきているのだ。
「…………と言う訳なので、今夜には無事に帰れますからね」
「ああ、無事に終わったようで良かった。それからその、…………雲の魔物は暫くここにいるのか?」
「うむ!海の関係者の方が悪さをしないように、ウィリアムさんのご配慮でヨシュアさんを配置してあります。私達が帰るまでは、ヨシュアさんを頼りにして下さいね」
「あ、ああ、………なぜか、ヒルドとイーザが二人で話していてな、雲の魔物は、アヒルの人形を持ってずっと私の執務室にいるのだが……」
「ふふ、とうとうエーダリア様に懐いてしまうのでしょうか?」
「うわ、エーダリア駄目だからね!懐きそうになったら、窓から捨てていいよ」
「ノアベルト、私には雲の魔物を窓から捨てる能力はない…………」
「あら、エーダリア様、もし悪さをしたらきりんさんを見せればいいのです。その代わり、チラ見せですよ!」
「よし、僕もそれを推奨するよ」
リーエンベルクには今、ヨシュアとイーザが留まってくれている。
ディノ達がリーエンベルクを出る時に、ウィリアムがヨシュアを呼び出してその仕事を命じたのだそうだが、当初はかえって仕事が増えるのではと困惑したエーダリア達も、イーザが一緒に来てくれると分かり、一時的な外部協力者として滞在承認することとなったそうだ。
これについては、状況を共有されたダリルも、是非にそうして欲しいと言っていたのだとか。
雲の魔物は、海の系譜の生き物に一定の権限を持つ。
だからこそウィリアムは、不確定な要素の多い今回の海竜の戦回りの状況を踏まえ、備えは多くあった方がいいとヨシュアに頼んでくれたのだが、ノアは最初の内はあまり乗り気ではなかったようだ。
自分の守護する領域に、あまり好きではない魔物が入り込むのだ。
そう考えるとすぐには頷けなかったようだが、それよりも残してゆく者達の安全を考え渋々その措置を受け入れたらしい。
エーダリアとヒルドには、幾つかヨシュアの躾け方を伝授してからリーエンベルクを出たと聞いていたが、それが功を奏してなのか、効果が出過ぎたものか、ヨシュアは、あれこれ話を聞いてくれるエーダリアにすっかり懐いてしまったようで、エーダリアにあひるの自慢をした後は、特別な魔術を教えるのだと威張っているそうだ。
ノアが、大事な契約者が取られないかとそわそわしているので、ネアは先に戻ってはどうかと提案してみたが、今回はそういう訳にもいかないと苦笑された。
「でも、エーダリア様が契約をしているのは、ノアだけではないですか。それでも不安になってしまうのでしょうか?」
「ほら、エーダリアは面倒見がいいからさ。ヨシュアまでリーエンベルクに住むとか言わないかな………」
「あらあら、それは大丈夫ですよ。ヨシュアさんは甘やかしてくれる人によく懐く魔物さんですが、あの方は、自身の一番大事な方はもう心に決めているのです。帰るときは大好きなイーザさんと一緒に帰ると思いますよ」
「…………残るとか言わないかな?」
「ふふ、心配性なノアは、エーダリア様が大好きですねぇ」
微笑んだネアにつつかれてはっとしたのか、ノアは慌ててディノの後ろに隠れてしまった。
ふわりと海からの風に揺れた白い髪に、鮮やかな青紫色の瞳。
ネアは、その色彩に遠い面影を映し、いずれは弟になる魔物を少しだけ冷やかす。
こんな心配をしてしまうくらい、ノアがリーエンベルクを大好きになってくれて良かった。
今度は、ゼベルにも懐きそうだと心配していて、そんな不安をぶつけられたディノは困惑したように頷いてやっていた。
微笑ましい思いでそちらを見ていると、そっと肩に手をかけられる。
「ネア、そろそろ俺は帰るが、妙なことをする者がいたら呼んでくれ」
「まぁ、ウィリアムさん、もう大丈夫なのですか?」
海竜の宴が行われる会場をぐるりと見回り戻ってきたウィリアムは、既に軍帽をかぶっていた。
淡い色の海にその白い軍服が映え、柔らかな微笑みはとても爽やかだ。
先程までは、きりん箱の中身をうっかり一部だけ見てしまい、気分が悪そうにしていたのだが、無事に回復したようでネアはほっとする。
会場になる海の魔術基盤を調べると話してシェダーと二人で見回りに出ていたので、ネアは遠浅の淡い色の海の上を歩く二人の魔物を、絵のようだなと思いながら眺めていた。
どんな話をしたのだろう。
とても穏やかな様子であったので、またこの二人も仲良くなれるだろうか。
「もし、ネアやシルハーンに危害を加えようとする者がいたら、この海域からは生きて出られないようにしてあるからな」
「ほわ…………」
「彼の魔術を借りて仕掛けをしておいた。お陰で安心して君達を海竜の宴に出せそうだ」
優しく微笑んでそう教えてくれたウィリアムとシェダーに、ネアはこちらのお二方はまぜるな危険系の相性だったのかなと慄きながら頷いた。
今夜の宴では、ぜひとも海竜達には羽目を外さないでいただきたい。
「ネア、それと、アルテアはどうしたんだ?」
「お仕事の打ち合わせだとかで、海竜さんの宴が始まるまでは出掛けています。情報が新鮮な内に駒を動かして、アイザックさんの先手を打つのだとか」
「やれやれ、使い魔として注意散漫にならなければいいんだがな………」
ウィリアムが少しだけ目を細めて冷ややかな顔をしたので、ネアは慌てて首を振った。
影の国では、うっかりの持ち込み事故とは言え、アルテアがジアリノームから助けてくれたのだ。
「アルテアさんは使い魔さんではありますが、野生の魔物さんでもあるので、出来るだけ自由に過ごしていて欲しいのです。寧ろ、今夜の宴では立派な海老も出るそうなので、参加してしまうと海老の食べ過ぎが心配ですし………」
「そう言えば、アルテアは海のものが使われている料理を選ぶことが多いな………」
「以前、大晦日のお料理でも牡蠣まみれでしたしね…………」
ネアとウィリアムは、暫し選択の魔物の実は海産物大好き疑惑について暫し思い悩み、少しだけ過去の記憶を遡ってみたりした。
様々な食べ物をバランスよく食べるような印象だが、そもそも大好物は何なのかとなるとネアもウィリアムも知らないのだ。
「は!ウィリアムさん、お仕事なのですよね?」
「おっと、かなりどうでもいいことで悩んでいて、ネアと話す時間がなくなるところだった」
「む?」
微笑んでそう言われ、目を瞠ったネアの頭に、ふわりと白い手袋に包まれた手が乗せられる。
ウィリアムが体を屈めているので軍帽のつばで目元が影になり、白金の瞳が鮮やかに光った。
「ネア、今回はよく頑張ったな。君が無事にこちらに戻れて良かった。今年は蝕もあるからな、リーエンベルクに帰ったらゆっくり休むんだぞ」
大きな手で、優しく頭を撫でてくれる。
ネアはすっかり甘やかされてしまい、短く声を詰まらせた。
「…………ふぐ。ウィリアムさんは、私がいない間ディノの側にいてくれて、それに今日も助けに来てくれて有難うございました。海竜さんの選定会議にまで出てくれて、とても頼もしかったのです!」
「勿論だ。ネアやシルハーンに何かがあると困るからな。………この後は、比較的近い戦場にいるから、何かがあったら呼んでくれ。今回は疫病で始まる戦だから、鳥籠になるのは夜半過ぎくらいからだろう。それまでは、普通に声が届くからな」
ネアは疫病と聞いたので、慌ててウィリアムに、金庫の中に持っていた冬杏の喉飴を渡しておいた。
ウィリアムが病気になってしまったら大変だ。
するとウィリアムは、ネアに持たされた飴の袋を見て、ひどく嬉しそうに微笑む。
「これがあれば、俺も仕事が捗るよ。……有難う」
「はい!」
最後にまたネアの頭を撫でてくれると、ウィリアムは白いケープを翻して戦場に出て行った。
その間、シェダーと仕掛けについて話していたディノが、手を振ってお見送りしていたネアに、そっと三つ編みを手渡してくる。
「三つ編みが出現しました…………」
「海に落ちてしまうと危ないからね」
「まぁ、ディノやノアがいるのに、じゃばんと落ちてしまったりはしませんよ!ただ、こんなに綺麗な海なのに、戦闘靴を脱いでじゃばじゃば出来ないのが少しだけ残念です」
「今はまだ、海竜の王が代替わりしたばかりで海が無垢だからね。今夜は控えた方が良さそうだ」
ディノがそう言うのは、今はまだあの海底にある海竜の王宮で戴冠式のようなことをしているロキウスの支配に関する魔術的な問題があるからだ。
実際には、各種族の王の代替わりは、前の王が生きている内に新たな王を立てて、土地の祝福や契約が揺らがぬように段差のない入れ替えとなることが多い。
だが、今回は祟りものと化したアダンがきりん箱の中で滅びてしまったので、一時的に海に魔術の揺らぎが出ている。
しかしながら、既に新たな王が決まっていたことや、セレスティーアやゾーイなどの、他の海の高位者が同席していたので、今回の揺らぎは大きな問題にはならないそうだ。
一晩ほど経てば海は鎮まり、いつもの海に戻る。
だがそれまでは、いつもとは魔術の流れや質が違かったり、普段は抑えられている海の穢れが浮き上がりやすかったりもする。
その代わり、こんな日は海の底深くに沈んでいた財宝が砂浜に打ち上げられたり、魔術の仕組みが歪むので、海に囚われていた死者が無事に死者の国に逃げ込めたりもするのだとか。
不思議なことが、たくさん起こる夜なのだ。
(エーダリア様からヴェンツェル様に連絡が入って、ヴェルクレアの船はみな、今日は守護魔術を二重にかけることになったみたい………)
とは言え、海竜の戦で優勝したのはネアなので、この夜に海の生き物たちが勝者の国のものを損なうことはあまりない。
様々なことがあったが、新たな王が即位するということはおめでたいことなのだ。
この宴には揺らいだ海を鎮める儀式的な役割もあり、ネア達は厄落としの意味も兼ねて参加する。
とは言え勿論、純粋なお祝い騒ぎでもあるのだった。
(海竜の戦の褒賞は、あらためての席で話し合われることになったみたいだけど、その時に渡す宝玉が、ロキウスさんのものだったらいいのに………)
褒賞の決定が少し先になったのは、ノアが、その宝玉について一言言い添えたからだ。
位置的にはロキウスのものとは思えないが、ネアの身に持つ収穫の祝福のすさまじさを考えると、ロキウスのものである可能性もある。
その場合、宝玉を取り戻したロキウスには、出来ることが増えるので、その結果を見た上での決定としようということで双方同意をしている。
なので、その決定はまた少し後に。
その時には、ヴェンツェルの側からも誰かが同席するかもしれないそうだ。
ざざんと、淡い色の波が揺れ、ネアは美しい海の色に唇の端を持ち上げる。
「ディノ、…………イブさんの魂を持っている方は、どなたなのですか?」
柔らかな海の上を歩き、ネアは持たされた三つ編みを引っ張って魔物に尋ねてみた。
するとまたなぜか、ディノはノアと顔を見合わせるのだ。
「むむぅ。私には秘密なのでしょうか?」
「君は、…………イブを気に入っていただろう?」
「…………まさか、それを警戒しているのですか?」
「ご主人様……………」
じりじりと詰め寄られ、しゅんとした魔物は悲しげに項垂れる。
なのでネアは、あらためて約束してやらなければならなかった。
「海竜さんは飼いませんし、イブさんの魂を持った方がどなたであれ、その方はイブさんとは違う方なのです。それだけで気に入ってしまったりはしませんよ?それと、私がイブさんともっとお話ししてみたかったなと言ったのは、あの方の好む生活が私がかつて望んだものに似ていたからです。言わば、趣味友候補のようなもの。ですので、ディノが心配になってしまうようなものはありませんからね……?」
「趣味友…………」
「なぬ。そんな目で見ても、ディノは読書好きでもありませんし、お家作りもそんなに………。ディノ、ディノの趣味は何ですか?紐や体当たり以外のものに限りますよ!」
「……………君が生きているのを、見ていることかな?」
「怖っ!」
「ご主人様……………」
ご主人様に自分の趣味を分かって貰えなかった魔物はぺそりと項垂れ、後ろを振り返ってノアに助言を貰ったようだ。
「プールかな………」
「あら、それなら私も奇遇にもディノとプール遊びをするのが好きなので、ディノはもう、私とは趣味友でもあるのですね」
「ご主人様!」
自分も既に趣味友だったと知り、ディノは安堵したらしい。
ネアとノアは顔を見合わせ、ひっそりと頷いた。
シェダーには、小さく微笑む気配がある。
ざざんと、波が揺れる。
いつの間にか先程までの陽の明るさは翳り、空は菫色を帯び色を変え始めていた。
鮮やかな青を暗くにじませたような安らかな夕闇が、天上から少しずつ広がってくる。
エメラルドグリーンの海は透き通る色硝子のよう。
祝いの場として海の上に薄く頑強な結界を張って足場にしているので、海の上に透明な硝子の床を敷いてその上を歩いてるような感覚だ。
ネアは魚がいないかなと思って何度も下を覗いていたが、さすがにこのような場には入り込めないらしい。
揺れる波の影が下に見える砂に落ち、ネア達の影もそこに重なる。
特にその足場をどこかに固定している訳でもなく、指定した範囲に結界を敷くだけでこのように浮かぶのだそうだ。
ネアには良く分らないのだが、ノア曰く、結界の魔術は真下に向いており、だからこそ浮かぶし動かないものの、真下に力を向ける結界なので横からの衝撃には弱いらしい。
なので勿論、横からの衝撃や攻撃を防ぐ為に、この足場の周囲を囲むような箱型の結界も張られているようだ。
海の上を歩く人外者達は、このようにして進んでいるのかなと、ネアはあらためてその魔術の可能性に驚いて、美しい海の上を楽しく歩いている。
「イブの魂を継いでいるのは、あの夜海の王子のようだよ」
ややあって、ディノは漸くそう教えてくれた。
ネアは思わぬ人物の名前に目を丸くして、思わず周囲を見回してしまう。
「………………まぁ。私は、………ロキウスさんだと思っていました」
「浮気…………?」
「違いますよ!…………ただ、イブさんに、持っている色彩や身に纏う雰囲気が似ていましたし、最後の祟りものさんの時に、あの方はディノの方を見てイブさんの名前を呼びました。なので、その直線の軌道上にいた方がそうかなと考えて、ゾーイさんとロキウスさんならば、ロキウスさんかしらと考えていたのです…………」
ネアは、どちらかと言えば恰好いい枠であるリドワーンを思い浮かべる。
まったく重ならない雰囲気ではあるが、それはつまり、イブの魂が満足して次の生に向かったという証なのかもしれない。
前歴で綺麗に幕を引き、まったく違う新しいまっさらな魂として生まれ変わる。
あわいでのイブがそう語ったように、彼の最後の時間が幸福だったという証明のようなものだと思えば、リドワーンがその魂を継ぐ人で良かったような気がしてきた。
「…………イブさんの魂は、また海竜さんになったのですね」
「大きく資質の偏る魂は、その道筋を大きく外れることはないんだ。その不自由さは酷なものでもあるけれど、幸いにも今の彼の魂を持つ者は、陸で幸せに暮らせているようだね」
「…………もしかして、シェダーさんの話していた方は、リドワーンさんなのですか?」
ネアのその言葉に、足場の結界の縁を調べていたシェダーが顔を上げた。
ふわりと微笑んで頷いてくれる。
「ああ、彼のことだよ。彼とは、共通の知人が何人かいて知り合いになったのだが、陸で暮らしてゆくにはそのような工夫があるのだと知って驚いた」
「彼も頑張るなぁ……………。あ、でもそういうのもご褒美なのかな?」
ネアは奇妙な言葉を口にしたノアの方を静かに振り返った。
何やら言葉の含みに不穏な気配がするのだが、気のせいだろうか。
(でも、シェダーさんがご存知で、今回の海竜の戦にヴェルクレアの組で参加してくれたということは、もしや、リドワーンさんはウィームの近くに住んでいるのかしら………)
であれば、また会えたらいいなとネアは嬉しくなった。
ドリー以外で久し振りに、絵になるような恰好いい竜を発見したのだ。
そしてその竜は、イブの魂を受け継ぐ者であるという。
「アダンが私をイブと間違えたのは、悪変で意識が混濁しているところで、私がこれを持っていたからだろうね」
そう言ってディノが取り出したのは、イブの魂の欠片であるクリームイエローの巻貝だった。
ウィームで眺めると檸檬色に近く見えたのだが、こうして海辺で見るとやはりより白に近く、まだらに宝石質になっている部分が美しく光る。
「ほら、ネアが巻き込まれたからさ。きっとこっちで使うことになる筈だって、ダリル経由で、シルの手元に戻ってきていたからね」
「それで、アダンさんはディノのことを見ていたのですね……………」
実はあの後、ネアは脳内で、ゾーイとロキウスで散々どちらがイブの魂を持っているのか会議をやり、軌道上にいた見知らぬ水色の髪の海竜の顔も、忘れてしまわないようにしっかり目に焼き付けておいた。
けれど、ネアが思案した者達は皆違かったのだ。
(でも、少しだけほっとした…………)
もしまた、陸に憧れながらもそこにはまだ住み替えられないゾーイや、今後は海竜の王として重たい責務を負うロキウスにあの魂があるのだと思えば、ネアは少しだけ胸が苦しくなっただろう。
今のイブの魂の持ち主が自由だと知って、こうして安堵出来て良かったと思う。
「少し早めの段階で、一度上に来て欲しいとシェダーから話をして貰っているから、そろそろ彼も来ると思うよ」
「では、そこでリドワーンさんに笛を渡せばいいのですね?」
「うん。それで、後はロキウスに笛を返すだけで継承は完了するだろう」
「今回はさ、こっちの事情を汲める相手が魂の持ち主で良かったよ。これなら、公にしないで済ませられるし」
「ああ、その方がリドワーンも助かるだろう」
そう呟き、シェダーは小さく息を吐いた。
イブの魂を継ぐ者がいるという事実は、海竜達にとっては複雑なものだ。
例えばゾーイのような他種族であれば、影響はそこまででもないだろうが、ロキウスという新しい王が決まったばかりなのに、他の海竜にその魂の持ち主がいるとなると、再びの内紛の原因になりかねない。
ましてや、万象であるディノ達がその欠片を持ち帰ったとなると、下手をすればその竜は、信仰などの対象にもなりえたのだとノアが教えてくれる。
だが今回は、自身もそのような履歴の魂だと知られたくないリドワーンが該当者なので、内々に処理してしまえるのだった。
「申し訳ない、身内に遭遇してしまって少し遅れました」
それから十分ほどしたところで、リドワーンがやって来た。
浅い海にぶわりと影が浮かび、そこから出てくるようにして漆黒のケープを翻して出てきたので、ネアは驚いてしまう。
それは、彼が夜海の竜だからこそ扱える魔術のようで、その中でも高位の竜だからこそなのだとか。
(確かに、この竜さんは白持ちなのだ…………)
竜が白を持つことは、とても稀である。
例えば、竜種の中では第三席にあたるというダナエが白い角を持っていたりするくらいで、そんなダナエはやはり特別な存在とされている。
祝福の子や災いの子などの特別変異体として生れ落ちる者の中に出現することが多く、そうそう滅多に現れることはないのだそうだ。
まずは、知人であるというシェダーに軽く会釈をし、ディノやノアに丁寧な挨拶をしたリドワーンは、ネアと目が合うと、唇の端を持ち上げて優しく微笑んでくれた。
「リドワーンと申します、リーエンベルクの歌乞いの君。実は、ウィームに仮住まいをしておりますので、何かお力添え出来ることがあれば、遠慮なく声をかけて下さい」
「まぁ!ウィームにお住まいなのですね?」
「ええ。他の土地にも住まいはあるのですが、やはり陸で暮らすとなると色々誓約が大きく。いざと言う時の為にアクス商会の近くの住まいが安全でしたので。普段は、陸で暮らす為に自身の魔術から海の要素を排した擬態もしておりますので、あまりお目につくということはないでしょうが、アクス商会経由でご連絡をいただければ馳せ参じますよ」
最後は少し悪戯っぽく微笑み、リドワーンは、もう一度魔物達に向き直った。
「まさか、私があの方の魂を継いでいるとは考えもしませんでした。…………このような形で、仲間達に伏せていただいて助かります」
「君がウォルターと共に戦う者に選ばれた時、ヒルドを介して、君は陸で暮らす為に苦労して海を離れたと聞いたからね。であれば、あまり公にしない方が良いだろう」
「ええ。特に兄などは、海に戻れと口煩いですから。ご配慮いただき有難うございました。国は離れておりますが、幸いにも父は理解がありまして、ある程度の権限は引き続き有しておりますので、何か海の問題が起こりました場合は、今回のご恩をお返し出来ればと思います」
リドワーンのお辞儀は、軍人めいたとても綺麗なものだった。
胸に手を当てて腰をすっと折る仕草に、ネアはおおっと目を瞠る。
ご新規様な竜なのだが、なぜか珍しくディノも好意的だ。
「君には、既に一度力を貸して貰っているだろう?」
「あの時は、私の一族の不祥事でしたので、どうぞお気になさらず」
(………………もしや、踏まれたい系の夜海の竜さんを滅ぼしてくれたのは………)
ネアはぎりぎりと眉を寄せ、その恐ろしい事件が、何を目的としてネアの誘拐を企てたものかを反芻した。
実際に手を下してくれたのが彼ならば、きっとどのような理由でネアを攫おうとしていたのかも知っているだろう。
(せ、せめて、シェダーさんには、どんな事件だったのかを話さないでいて欲しい………)
祈るような気持でいたからか、幸いにも踏まれたい系な誘拐犯の情報はその場で話題に上がることはなかった。
「では、まずは君に一度、イブの魂の欠片を返そう」
そう微笑んだディノに、リドワーンは微かな不安をその瞳に滲ませる。
夜明け前の海のような不思議で優しい色合いで、ネアはまた一つ綺麗なお気に入りの眼差しを見付けた。
「それを受け取ることで、私自身が変わってしまったりすることはあるのでしょうか?」
「それはないと思うよ。これはあくまでも剥離させた欠片の残骸だ。君を見付ける為には役立っても、それ以上のものは何も残ってはいない」
「…………ほっとしました」
リドワーンの手に、ディノから、そっとクリームイエローの巻貝が渡された。
華奢な貝はリドワーンの大きな手のひらの上でさらりと崩れると、綺麗なシャンパン色の光の粒になってしゅわしゅわと消えてゆく。
そうして、すぐにその美しい光は、見えなくなった。
目を瞬いているリドワーンの隣にシェダーが並び、イブの魂の欠片が消えたあたりをじっと見つめている夜海の竜の王子に声をかける。
「……………どうだ?」
「………何も変わった様子はないな」
海を渡ってきた風に、リドワーンの黒いケープがばたばたと音を立てた。
今度はそんなリドワーンの手に、ネアがあの人魚の笛を乗せるのだ。
ずずいっと進み出て、ネアはあの笛を取り出した。
これは購入品なので、ロキウスが国庫からのお金で買い上げてくれることになっている。
ネアはこっそり値引きしておき、あの店主の青年が提示した額にしておいた。
実際に支払った宝石はもっと高価なものだが、それはあの青年に投資したものなのでネア自身の願いを買ったようなものだからだ。
「これが、海竜の王様の至宝になるようです」
「…………あの時の、笛ですね」
そう呟き、リドワーンは微かに目元を染めたので、ネアは、いきなり強制お座りをさせてしまったことを申し訳なく思った。
ノアからは、竜はくしゃっとやられるのは嫌いじゃないからと言って貰えたが、変質してしまった騎士達と戦ってくれていたリドワーンには、いきなりの強制お座りなどあんまりな仕打ちだったに違いない。
リドワーンの手のひらで、人魚の笛はちかりと青白い光を放った。
まるで満足の息を吐いたようにその光をゆっくり揺らめかせ、また穏やかに沈黙する。
「むむ…………?あっさりめな反応です…………」
「これで完了だよ。後は、彼からロキウスに笛を渡して貰えばいいだけだ」
「やっと、イブさんとのお約束が果たせましたね。…………今回の事件を振り返ると、暦王さんがイブさんではないということを知っていたお蔭で、色々と警戒も出来て無事に海竜の戦が終わったような気がします」
「だからこそ、あのあわいは、祝福として成り立ったのかもしれないね」
「はい!」
ネアはディノの水紺色の瞳を見上げ、微笑んで頷いた。
するとなぜか、ノアとシェダーが顔を見合わせ、リドワーンがどこか遠い目をした。
「…………む?」
こてんと首を傾げたネアに、リドワーンは困ったように微笑む。
ノアが腰に手を当てて深い溜息を吐いた。
「ネア、この後で始まるのは海竜の宴だからね。もう終わったと思って気を緩めないようにすること!」
「海竜さんの宴は、………………危険があるのですか?」
「その、……………どう言えば分りやすいのか難しいのですが、海の男達に酒が入ると思っていただければ」
そう教えてくれたリドワーンに、ネアは、今夜の宴がどんなものになるのかが何となく想像がついてしまった。
幸いにもお前も飲むのだとお酒を勧められても潰れてしまうことはないだろうが、酔っ払いの大男たちに囲まれたらなかなか大変なことになりそうだ。
ディノの側を離れないようにしようと考え、ネアは厳しい面持ちで頷いた。
「私が近くに居られればいいのですが、兄が来ておりますので、寧ろ離れていた方が良いかと」
そう微笑んで詫びてくれたリドワーンが、海竜の宴でネアの心を殺すことになるとは、その時誰が思っただろう。
今回の海竜の戦でネアが一番悲しかった事件が、夕暮れと共に始まろうとしていた。