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アダン




極北の海で生まれた。




暗い海の闇の底で、極北の海の竜達はその一生を終えることが多い。



魔術は潤沢だが他の海域の竜達とは交流もなく、食べ物や資源の少ない土地を守り言葉少なく生きる。




「でも、だからこそ君達は強く美しい。なぁ、アダン、君なら新代の王にだってなれるだろうに」




そう微笑んだ従兄弟を見て、アダンは溜め息を吐いた。

このお気楽な従兄弟は、継承争いなどには関係のない低階位の海竜らしく、何の保証もない夢物語ばかりを語る。



(けれど、お前だけはいつも、俺を見て眉を顰めずに微笑みかける…………)



弱く愚かなイブだからこそ、アダンはいつも何の虚勢も張らずに、心から生まれるままの言葉でぞんざいに会話を出来ていた。

氏族の長らしくだとか、極北の竜らしくだとか、美しく見せる為や恐ろしく見せる為の全ての手練手管を捨てて、ただのアダンのままでいられるのだ。




「その有様は何だ」

「俺は南海の竜だよ、アダン。このくらい着込まないと寒くて」


今は毛皮で裏打ちしたコートに帽子までかぶり、情けなく着膨れた姿で隣に座っている。

悲しげに鼻を鳴らし、こちらに近寄って来ようとするので邪険に追い払った。


すると困ったような、それでいて酷く透明で柔らかな目でイブは微笑む。



「アダン、冷たいな」

「男同士で体を寄せ合うなど、考えてもみろ。吐き気がする」

「従兄弟じゃないか」

「従兄弟だとしても普通はしないぞ」

「はは、そうかなぁ」



また気が抜けたような微笑みを浮かべ、イブは鮮やかなエメラルドグリーンの瞳で冷たい海を眺めた。

この海域に、こんな海の色はない。

けれども割れた氷河の断面には時折現れる色なので、アダンは最初、イブのことを氷竜かと思ったものだ。



まさか海竜で、それも従兄弟だとは。

とは言え自分達の代は海の始祖竜の次の世代として、最初の海竜から生まれた第二世代の海竜はすべて血族とされているに過ぎない。


第一世代は全てが兄弟姉妹であり、第二世代は同じ氏族を兄弟姉妹に、違う氏族を血族として認識される。

それは、同じ系譜の竜達に竜種の繁栄を足止めさせぬようにと、光竜達が定めた枷である。



力で優位を図る竜達は、そうでもしなければどこまでも減らし合う。

それを憂えた光竜の王がそう決めた時、あらゆる竜達から不満の声が上がったものの、やはり光竜に逆らえる筈もなく。

悪しき咎竜達を退け、健やかな繁栄を守れるのは彼らしかいなかったのだ。




「西の海で、また大きな戦が始まったんだ」



イブが、そう呟く。



「…………たくさん死んだ。海は赤く染まり、死者の王が海辺を歩いていた。通りがかった俺に、竜は愚かだなとそう言っていたよ」

「強いものが残り、弱き者が淘汰されるのが竜の宿命だ。お前の理想は誰にも取り上げられないぞ」



海竜を統一出来れば、海はどこまでも自由になるのではと、イブは以前からおかしなことを言っていた。

人の国のように一つの国にして、その中の町や村のように各氏族の居住地を切り分け、いざという時は海そのもので団結出来ないかと。



この浅はかな竜曰く、そうすれば各海の資源が潤沢に分け合えるらしい。

例えばこの北の海の竜達の強さは闘いに向くので、南の豊かな海の竜達は時折魔術や知恵を借りる代わりに、食料や穏やかな休日の宿を貸す。


望めば、違う氏族との縁も叶い、その土地の氏族が受け入れれば見たこともない土地で暮らしてゆくことも出来る。



なんと愚かで、子供じみた夢だろう。

それは、この南海の竜が陸の生活に憧れたからこその妄執のようなものだった。



「…………そうだろうか。そのように生まれたら、そのままでなければならず、俺たちはどこにも行けないのかな」

「お前は、早くその陸への憧れを捨てろ。海竜が陸で生きていける筈がないだろう」

「………新緑の草原は美しいよ。深い森や色鮮やかな街。海と同じように前の世界の残骸を飲み込んだ砂漠。……………俺は、陸に小さな家を持ち、その庭で花を育ててみたいのだが、やはり夢物語だろうか」

「だろうな。さっさと諦めろ」

「はは、アダンははっきりと言うなぁ」




そう呟き、イブはまた遠い目をした。




(愛した女のことでも考えているのだろう)




この南海の海竜は、かつて陸に住む人間の女に恋をした。


女は、どこかの灯台のある街に住んでおり、既に夫も、生まれてはいなかったが子もいる身であったという。

なので勿論その恋は叶わなかったが、この男はその夫婦の良き友人となると、旅人のふりをして恋した女とその女の伴侶の男に会いにゆく度、その旅人の装いを完全なものとする為に陸のあちこちを見て回った。

すると今度は、いつの間にか陸に叶わない恋をしたという訳だ。



どちらの恋も叶わず、全てにおいて情けない男なのである。




「この前、またあの人の国に行ってきた。彼女の孫は嵐の夜に船で海に出ていて、危うく沈んでしまうところだったんだ」

「…………まさか、手を出してないだろうな?」

「さて、どうだろうな」



そう微笑んだ横顔に、これはもう間違いなく手助けしてやったなと苦い思いを噛み締める。



(そのような行いがいつも、海を騒がしくするのだ)



海は繋がっているものの、その海域ごとに異なる氏族の領土である。

他の海竜達が治める海で人間を助けるということは、その海の摂理を勝手に置き換えたということに等しい。


決して与えるばかりではなく、海は奪い滅ぼす役目もある。

多少の犠牲とて、海を畏怖する為には必要な要素なのだ。



(そもそも、愛した女が愛した男と、よくも友人などになれたものだ。そんな男など殺してしまえば良いのに、なぜにその男とまで仲良くなれる?)



彼は物知りで、とても優しく愉快な男だったのだとイブは言う。

最初は恋敵だったが、やがて彼と一緒に飲みにゆくのも楽しくなり、心からの親友であったと今でも言えると。

愛した女が産褥で亡くなると、イブは足繁く友人とその娘の家に通い、二人の生活を影ながら支えた。


他の同族に襲われたりもしないよう、笛のような特別な魔術道具を作って持たせたりもしたそうで、あまりの過保護さにアダンは聞いていて苛々した。



共に戦えず、殺すことも出来ないような脆弱な生き物はあえて助けてやる必要などありはしない。

弱き者は、強き者に殉じ、あまり長く生きないことこそがその役割なのである。





「なんだ、お前達はまたこんなところで海を見ているのか」



その時、後方から柔らかな声が落ち、視界に鮮やかな青い髪が雪混じりの風に揺れた。

ぎくりとして振り返り、その美しい青い瞳に浮かぶ微笑みを眺める。




(アデラ……………)



アデラは、美しい極北の海竜だ。

潤沢な魔術と他者を寄せ付けない高貴な美貌を持ち、男達ですら叶わぬ程に巧みに敵を狩る。


冷酷で大胆で、この北の海では並び立つ者のいない屈指の実力者であった。




「まったく、若造が。あまり寒さに弱いイブをここに留めるなよ」

「…………その若造というのはやめろ」

「若造だとも。アダンは私よりも、百も若いではないか。………イブ、あなたもあまり無理をしないように」

「心配してくれて有難う、アデラ。氷漬けにならないように気を付けるよ」



また、こうっと雪混じりの風が吹いた。

その中に漆黒のドレス姿で立ち、アデラはイブに微笑みかける。

極北の竜達は皆、漆黒の衣服を纏う。

それは、毎年多く喪われてゆくこの北の海の生き物たちへの追悼であり、この地に迷い込む他の海域の竜達を慈悲なく滅ぼすという誓いでもあった。



だから、アダンが生かして帰したのは、このイブだけだった。

あの日、アデラが、これはお前の従兄弟だぞと声を張り上げて静止するまで、勿論外敵は排除するつもりであった。



『北の土地の陸地を見てみたいんだ。この先には、雪の中に建つ礼拝堂があると聞いた』



アダンに捕らわれ傷だらけになっているのに、なぜ他の氏族の海域に忍び込んだのかを問われ、イブはそう答えて、アダンとアデラを絶句させた。

苦笑してその礼拝堂を見てきてもいいかなと尋ねるので、アダンもついつい逃してしまった。



するとその翌月、イブは南海の様々な食べ物や美しい珊瑚の飾りを持ってアダンとアデラに会いに来た。

そうしていつの間にか、時折ふらりと現れる顔馴染みの竜となり、その日から数百年あまりが過ぎたのだった。



「でもいつか、この海は統一に向けて動き出すだろう。地上では風竜と土竜がそれぞれの統合を終えた。水竜達は元より一つの国としてまとまっている。………次は火か海だろうと、光竜の王子達とも話していたんだ」

「あなたは、相変わらず光竜達とも仲がいいのね」



そう呟いたアデラは、幼い頃に一度だけ見た光竜に心酔している。

北の海の上を飛んだという輝ける者に魅せられ、その者達に恥じない行いをと己の力を磨きここまで来たと言う。



であれば、アダンはその光竜に感謝しよう。

この美しく強い女がアダンの氏族にいるのは、彼らが彼女に道を示してくれたからなのだ。




ごうごうと吹雪が音を立てる。

純白の高貴な色に閉ざされるこの土地に魔術が潤沢なのは当然のことで、だからこそ極北の海の竜達は強く美しい。


他の無様な竜達とは違って大きな手を持ち、その手で敵の全てを薙ぎ払う。




「最近、イブを見かけないな」


そう呟いたアデラに、アダンは眉を持ち上げる。

何の為に自分の狩場まで来たのかと思っていたが、またイブに光竜の話を聞きにきたのだろうか。

こんな女にも可愛らしいところがあるのだと、アダンは少し愉快になった。



「また光竜の話をするのか?」

「それの何が悪い。それはな、私の嗜好品なのだ。お前が煙草や始祖達の複雑な魔術の書を好むように、私は光竜の話を聞くのが好きだ。それぞれに、そのような喜びがあるのさ」

「俺には分からん。手に入らないものを慈しんでも意味がない。喜びも欲も、手に入るものの為だけのものだろう」



そう言えば、なぜかアデラは悲しげに微笑んだ。




「それではお前は、ここからどこにも行けぬではないか。もう少し遠くを見てみろ。お前の力であれば、より世界の遠くまで飛び立つことも可能だろうに」



なぜアデラがそんなことを言ったのか、その理由が分かったのは春になってからであった。



春になると、東方の海から使者が来た。

様々な海の竜の氏族を集め、海の統一を望む為の話し合いが行われるのだそうだ。

何を愚かなことをと一蹴しかけて、ふとアデラの言葉を思い出して興味を持ってみる。



(東海の竜に会うことも、俺は初めてだ)



青よりも黒に近い髪を持ち、鮮やかな水色の瞳をしたその竜は小柄だ。

だが、どんな海竜よりも早く飛ぶのだと笑うので飛び比べてみたが、確かに全く敵わなかった。




(ここではないどこかには、俺も知らないような海竜がいるのか…………)




それは、初めてアダンが外の世界に向けた興味であったのかもしれない。

そしてその日、アダンはその話し合いの場とやらに出向いてみると、いつの間にか東海の竜に約束していた。




「イブ!お前はまた遊び呆けていたのか」



向かった先は、全ての海竜にとって中立の海域となる海の精霊王の領域で、そこで久し振りに見かけたイブは、随分と顔色が悪くなっていた。



あえてそのことには触れず、背中を叩いてそう笑えば、イブは微かな安堵を瞳に浮かべる。




「ああ、アダン。俺の知る中でも最も強い海竜だ。お前がいれば安心してここで穀潰しでいられるよ」

「………まさかとは思うが、あまりにも働かなくて罰でも与えられたのではあるまいな?」

「はは、そうなのかな」



イブも確かにそう笑ったが、そんな彼を見て西方の海の竜達が声を上げて笑った。



「働き者だよ、そいつは。だが、如何せんあまりにも弱くてな。南海の奴等も戦には出せないだろう」



そう言えば今度は、南海の竜達が渋い顔をする。



「イブを見て我等を軽視しないで貰いたいものだ。南海は穏やかな海だが、力に長けた者はいる」

「かもしれないが、イブは稀に見る軟弱者だぞ。だが、俺達は嫌いではないがな」

「はは、いい奴だよな。弱っちいが、優しい竜だ」

「ほんと、イブがこの見た目で強い竜なら、私は求婚したかもしれないわ。でも、弱い竜は御免よ。………あら、傷付けたかしら?」



からからと笑う各海の氏族達に囲まれ、イブは困ったように微笑んでいた。

だがその微笑みは決して苦しげではなく、その苦さの部分は、どちらかと言えばイブ自身の内側に向いていたように思う。



その日の夜の宴の席でそう言えば、イブは悲しそうにこちらを見た。




「…………お前はきっと、俺の秘密に気付いているんだろう?だから俺は、そんな自分の卑怯さに嫌気がさしている。…………それでもな、願いというものは殺せないんだ。これを捨てれば、俺は俺ではなくなる。………この願いがいつか俺を殺すのだとしても、この願いを断てば俺は死んでしまうんだろう」




極北の空とは違う美しい星空の下で、イブは苦しげにそう呟き項垂れた。

長い髪が風に揺れ、内側から光るような瞳が苦痛に細められる。




「…………お前は穀潰しだ。だが、今回の話を聞いて俺は興味を持った。その海竜の戦とやらを行なって海竜の王を決めるなら、俺が出てやろう。お前一人くらい穀潰しでいても構わぬくらい、揺るがぬ王座についてやるさ」

「アダン……………」



振り返ったイブがこちらを見ている。

その瞳には安堵と感謝が揺れていて、アダンはそこに浮かぶ秘密を知るのが自分だけであることに、微かな優越感を覚える。



イブは、誰からも愛される海竜であった。



アダンだけではなく、他の極北の海竜達もイブの訪れを喜んでいたし、こうして様々な海域の海竜達が集まれば、彼はどこにいても、手のかかるか弱い末っ子のような扱いを受け、愛されているのかがよく分かった。


彼を弱い竜だと笑う者達も、イブが危険に瀕していたら、体を張って助けるだろう。

彼は多分、止まり木のようなもので、長く飛び、或いは泳ぎ戦う竜達にとって、心を緩ませ気を許す場所のようなものだったのだ。



けれど、それだけが彼ではなく。



(恐らく、イブはそれなりには戦える筈だ。だが、この軟弱な竜は戦うのが嫌なのだろう……)



それは、アダンだけが知る秘密だ。

一度戦ったからこそ、アダンはイブの秘密を知っている。

だからこそ、アダンはこの身勝手な竜の為にも、王になってやらなければならないことがある。




けれどもそんな夜から半年後、開催された海竜の戦には、アダンが想像もしなかった参加者が並んでいた。




「アダン、怪我の具合はどうだい?」

「イブ!…………まさかお前が、この戦に出るのか?!」

「…………はは、何でだろうね。出る羽目になってしまった」



アダンは勿論、海竜の戦に出るつもりであった。


だが、思ってもいなかったことに、同じ北の海の氏族として出場を競った者の中に、アダンでも到底及ばないくらいの力を持った海竜がいたのだ。


アダンはあらためて世界の広さを実感し、その竜との戦いに惨敗した。

辛うじて生きて帰り、氏族の看護の甲斐もあって、この場に来られるぐらいには回復したものの、今回アダンがここに来たのは、あの殺すことだけを好む残忍な北の海竜を誰かが負かしてくれることを祈る為にであって、争い事の嫌いな友人がその死地に送り込まれるのを見る為ではない。



「やめておけ、お前では敵わない!」

「辞退出来るならしたいよ。でも、俺と組むのはあのひとの血を継ぐ者なんだ。あの子供を死なせる訳にはいかないからな」

「……………イブ」



その頃の海竜の戦では、愛するものを守る為の力を問うというふざけた規則があり、海竜の相棒として選ばれるのは、その竜の愛するものや庇護を受ける者であった。

選定基準は人間であったが、他の海竜達と違い、イブは誰よりも自分自身に近しい者を選ばれてしまいどう見ても不利としか言いようがない。



(恐らく、参加者の中で最も弱く、参加者の中で最も己の相棒を愛している。開始早々、真っ先に狙われるではないか………!)



勿論、中にはイブと親しくしていた海竜もいる。

だが、彼等もまた一族の悲願を背負って来ており、手加減など出来はしないだろう。



戦地になるという影の国で、嬲り殺しになるイブを思ってアダンは青ざめた。

慌てて、ここに来ていたアデラに駆け寄る。



「アデラ、イブが…………アデラ?」



アデラは既に泣いていた。

啜り泣き、死地に向かう友人から身を隠すようにして、イブに必死に背を向けている。

そうこうしている内に海竜の戦は始まってしまい、アデラはその美しい瞳から涙を零した。




「…………私のせいなのだ」

「…………アデラ?」

「南海の海竜達で、誰を選ぶべきかという話をしていた時に、私がイブにするべきだと話してしまった。彼は、………戦わないだけで、本当はとても強いのだ。イブが会わせてくれた光竜の王子が、自分とて敵うか分からないくらいだと話していたから…………と」

「……………なぜ、イブが戦わないのかを、お前は考えなかったのか」



思わずそう言ってしまい、アデラの瞳には絶望が揺れる。




(だが、そうではないか…………)




イブが戦わないのは、ここから逃げ出す為だ。


それなのにこの統一の為に尽力したのは、自分が捨てる者達のために、せめて海竜達の暮らしを安定させてゆきたかったからだ。

やがて海が統一され、海竜達が平和になれば、彼は命を投げ出す覚悟で海を捨てるだろう。



そうして、己の夢と幸福の為だけに、陸に小さな家を建て花を育てて暮らすのだ。




そんなイブの小さな幸せを、アダンは王となり叶えてやりたかった。




「泣かずとも大丈夫ですよ、アデラ。イブは長らく、わたくしの母と共に影の国の門の守り手をしておりました。自分の愛した者達が暮らすその土地を、誰かに傷付けさせることは許さないでしょう。彼は優しい竜ですが、そんな彼にも竜としての矜持はあります」

「セレスティーア様…………」



泣いていたアデラに声をかけたのは、代替わりしたばかりの海の精霊王だ。

どうも、アデラがイブの参加を何とか止められないかと直談判し、その時に顔見知りになったらしい。



「愛する人が苦しむ姿を見るのは辛いでしょう。けれど、こうなってしまった以上、イブは戦います。今は、その帰りを待ち、彼が帰ってきたら、もう一度心を尽くして謝ってみては?」

「…………でも、イブはもう、決して私を愛さないでしょう。私が彼から、その願いを奪ってしまった。彼が王になりたくないのだとは、考えてもみなかった…………」




(………………え?)




聞こえてきた会話が、耳を滑る。

アデラと精霊王の会話には、アダンが知らない言葉が幾多も折り重ねられていた。




(アデラが、……………イブを愛している?)




それは初耳だ。

初耳だし、おかしいではないか。



アデラにとって、イブは気弱な弟のようなもので、憧れの光竜達に会わせてくれる友人程度のものなのだと考えていた。



(影の国の管理を…………?)



それにアダンは、そんなことをイブから聞いたことはなかった。

それが真実であれば、なぜ自分に言わなかったのだろう。

それだけのことを、なぜ言ってくれなかったのだろう。




急にイブが見知らぬ男に思え、アダンはじわりと冷たい汗の滲んだ手のひらを見る。



(だが、…………イブはここで死ぬだろう。俺ですら惨敗したあの男が相手なのだ。………隠し事をしてはいたが、可哀想な奴だった)



そう考えると不思議に胸が落ち着き、アダンは深い息を吐いた。

イブが死ねば、全てが元あった場所に落ち着く。

アデラにはアダンしかいないし、イブは元のままの哀れな友人としてこの心に残るだろう。


最後に心を騒がせたが、きっとイブはもう二度と戻らない。





けれどもその日、アダンの予想に反してイブは一日もしない内に無傷で戻って来た。

泣いて詫びるアデラに困ったように微笑み、セレスティーアには影の国を荒らさないように、出来るだけ早く片をつけたと告げて。




「アダン、………俺は王になるしかないようだ。どうか君が共に来てくれないか?さぼり癖のある俺一人では重荷に違いない。君の持つ強さが必要なんだ……………」



そう言って、こちらに手を伸ばすイブが見える。

その手を振り払おうとしたのだが、なぜだか出来なかった。

どうせこの男はもう、どこにも行けない。

それならば隣にいて、その苦しみを最後まで見守ってやろう。



そう思い、共に海の底に建てた壮麗な王宮で暮らすようになった。

忙しい日々であったが、嫌いではない。

ただ、常に胸の底でちらちらと燃えるような羨望と苛立ちを、どんな時も感じていた。




「…………海の仲間達が落ち着いたら、俺は王座を下りようと思っている。その時は、君が王になってくれないか?」



とある日の夜、イブがそんなことを言った。

あの選定の戦からは何年か経っており、イブは名実共に海竜の王となっていた。


驚いてそちらを見ると、困ったように微笑むエメラルドグリーンの瞳がある。



もうアダンは、その海の色をよく知っていた。



イブが王宮から出られない夜や朝に、一人で美しい南海の海を泳ぎ、彼が得られなくなった自由をわざと満喫してみたことがある。



何回も。

何回も。




けれども心は晴れなかった。




「そうしたら君は、老兵は執務の邪魔だとか何とか言って、俺をここから追い出してくれないかな?」

「…………冗談にしては笑えないな」

「冗談じゃなかったら、協力してくれるか?………勿論、君が望まないのならこの話は二度しない」

「…………そうだな。冗談ではないのなら、受けてやっても構わないぞ。決してお前の為ではないが」

「良かった………。うん、君が俺の為にその話を受けたのではないということは、俺にも分かるよ。友を犠牲にするつもりはない。君が望まないのであれば、この計画を持ちかけはしなかった」

「まったく、なぜに早くそうしなかった。俺が王になった方が、嫌々王をしているお前より余程いいだろう」



そう言えば、イブは困ったように、けれども嬉しそうに笑った。



「ああ、やっぱりだ。君は上に立つことに向いている男なのだろう。君の支配欲や獰猛さは、相手より上位に立つと途端に不思議な優しさになる。他の種族であれば倦厭されるだろうが、俺たちのような海竜の王には最も相応しい気質なのだろう」

「…………何だ、その分析は」

「間違ってないと思うよ。俺はね、あちこちの海を旅をして、ずっと、王に相応しい竜を探していたんだ。………アダン、俺の最後の秘密を聞いてくれるかい?………俺はね、本当は第一世代の海竜の、最後の一人なんだ」



もうみんな、きっと生まれ変わって新しい体や魂で陸で暮らしているよと、イブは悲しげに笑う。



第一世代の海竜として生まれたものの、イブの卵は海溝の底に事故で落ちてしまい、セレスティーアの母親が拾い上げて孵したのは彼の世代の竜達が死ぬ直前の事だった。

その結果、イブは第二世代の竜達と同世代で育つ、最後の始祖竜となったのだ。



本当は、始祖竜達の中の末っ子だった筈なのにと、イブは悲しげに笑う。

ああ、だから王には向かないのかと、アダンは妙に納得した。



「だから、影の国の扉を任されていたのか」

「だろうね。…………でも、もう俺は向こう側には行かないことにした。あの二人の子孫たちはもう、俺を知らない世代になった。そろそろ、俺も彼等を解放してやるべきだろう」

「それなら、さっさと至宝の笛を取り返して来い。その海竜が最も力をかけて作った道具が海竜の至宝になるんだ。いつまでも影の国に置いてはおけないだろう」

「それはもういいんだ。アダンが王になれば、アダンの作ったものが至宝になるんだろう?」

「…………それもそうだな」



その夜は二人で酒を飲み、アダンはこれから先のことを考えてその日から暫くの間は幸福であった。




イブは、アデラを伴侶にするつもりはないらしい。


彼女を友人以外の思いで認識したことはないと言うし、そもそも彼が愛するのは同族の女などではなく陸の生活で、その足枷となるような家族を作るつもりはないのだ。

身勝手な男である。



だが、これで全てが元通りになる。



アダンが王となってアデラを伴侶にし、王の慈悲として、イブを陸に行かせてやる。



陸で幸福になったイブを、アダンは心穏やかに見守るだろう。

イブが陸で死んでも、いつまでも、いつまでも、友は陸で幸福に死んだのだと、忘れずにいるだろう。





そう考えて海を眺めると、微かに胸が傷んだ。


先日から少し痛みがあるので、この前の内乱の制圧で痛めた部位が、治癒し損ねて残っているに違いない。




「まぁ、このくらいならすぐに治るさ」




そう呟いて、微笑みを浮かべた。

イブと内密に取り交わした約束の日は、一年後である。



アダンは、今からその日が楽しみでならなかった。







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