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300. 悪い竜には笛を吹きます(本編)



その時、海竜の王宮の王座の間では、アダンの行いを竜種の善とする一派の主張を、ノアとウィリアムが一蹴したところであった。


再三、氏族の数が多く一枚岩ではないことを懸念されていた海竜だが、これだけの数の氏族がいればそれぞれの環境下での嗜好が変わってくるのも、致し方ないことなのかもしれない。


肌の色や髪の色、角の有無や本数など、こうして見ていても、まるで違う容姿を持つ者達が多くいる。



けれども、それは贖わなければならないものなのだ。

どのような結論を出すにせよ、支払いは必要なのだと呆れた魔物達に、一度は怯えたように言葉を収めた海竜達が、また小さく何かを言い始めている。



円卓についていたウィリアムが、おやっという顔をして、どこか遠くを見た。

唇の端を持ち上げて微かに愉快そうに笑うと、おもむろに立ち上がり、同じ席についていた他の王子達を蒼白にさせている。



よく見れば、不平不満を言い立てているのは、この巨大な円形劇場のような王座の間の、客席にあたる席にいる海竜達ばかりだ。


塩の王や終焉の魔物近くの円卓についていた他の王子達は、それぞれに違う氏族の出であるにもかかわらず、自分の主張などはする気力もないものか、一様に顔色悪く黙り込んでいる。



「やめぬか!みっともない!!」


その直後、ずばんと円卓を叩いて立ち上がったのは、一人の大柄な男性であった。

王子達とはまた別の海竜のようで、この円卓についているからには、それなりの地位にある海竜なのだろう。


「力による支配に長けていたところで、アダンは一族に大きな損失を与えた。海の管理者としての権威の失墜に、塩の御方に支払わなければいけない対価を考えれば、我らに残された道がどれほど狭いのかおのずと分るだろうて!どれだけ強かろうと、アダンが作り上げた負債を、我々は今後長きに渡って支払っていかねばならぬのだ。それが、王に相応しい振る舞いだと思うのか!!」


ざらついた太い声はどこまでもよく響き、王座の間はまた一瞬の沈黙に包まれる。

厳しい顔をしてはいるが、ここではロキウスは何も言わなかった。


彼が何と言おうと、反対派からすればそれは彼が王位を得る為の詭弁に聞こえるかもしれない。

彼や他の王子ではなく、別の角度からこうして窘めることが出来る者こそが必要な場面だったのだろう。



「確かに、ロキウス様はいささか…………面白みに欠けますし、アダンはその強さで王位を得た竜だ。それは確かになかなかのものであるし、自身に関わりのないところから見れば、こういうものはそれなりに面白い。だが、彼の犯した罪を贖わなければならないとなると、そうも言っていられませんな。せめて少しでも多くの支払いを、ご自身でしていただきましょうや」


次にそう言ったのは、円卓についていた、また別の男性だ。

立派な髭が印象的な、どこか気障っぽい雰囲気の背の高い男性である。

一見、ロキウス陣営に対しても斜に構えているようなぶしつけな態度だが、これは巧妙な地均しの一環だろう。



(…………こういう風に、年長者としての機転で矢面に立ってくれたり、巧妙な言い回しで意思統一を図ってくれる人もいるのだわ)



であればロキウスの陣営は、思っているよりも頑強かもしれないとネアは安堵した。

清く正しいだけの王では、このような組織を纏め上げるのは難しいだろう。

だが、こうして部外者の目で見ていれば、思っていたよりも上手く役割分担が出来ているので、想像以上に層が厚いようだ。





「申し上げます!」



その直後のことだ。

大きな声を上げて、一人の騎士が王座の間に駆け込んできた。

ずたずたに引き裂かれた黒いケープを翻し、ぜいぜいと息を弾ませ、青い瞳を恐怖に見開いている。




「何があった?」



そう尋ねたロキウスに、騎士は一度、口元を押さえてえづいた。

ぐっと大きく息を飲むようにして顔を顰めると、気力で踏み止まったものか、顔を上げる。



「拘束されておりました暦王に、咎落ちの兆候があります!アデラ様とリドワーン様が抑えておりますが、このままでは、祟りものになるのも時間の問題かと………!!」



その直後の、海竜達の動揺は激しかった。

王座の間は、一度割れんばかりの怒号に包まれ、ずしんと揺れた不吉な揺れにぴたりと静まり返る。



(この揺れは…………)



ネアはぞくりとして天井を見上げたが、さすがにこの天井が崩れ落ちてくることはなさそうだ。



「…………他の騎士達はどうしたのだ?」



そう尋ねたロキウスに、伝令の騎士は困ったように笑う。



その笑顔は、その後も暫く忘れられなかった。

それくらいに、場違いで無邪気で、どこか狂っている悲しい笑顔だったのだ。




「暦王に忠誠を誓った我等騎士も、あの方との誓約に引き摺られて狂い始めております。……………ハモン叔父様、どうか私に私自身の心が残っている内に………」


その悲壮な願いを告げた直後、その騎士の胸にどすりと長槍が投じられた。


ネアであれば持つのも一苦労しそうなほど、太く重そうな槍だ。

騎士の顔には泣き出しそうな程の安堵が浮かび、一筋の涙がこぼれ落ちる。

微笑んで崩れ落ち、青く光る砂になったその騎士の残骸から、彼を安らかに送ってやった槍を引き抜いたのは、先程一族を窘め大きな声を出した男性だ。



円卓から離れ、ずしずしとそちらに歩いてゆくと、砂の山から引き抜いた槍を一瞥し一度だけきつく目を瞑り、すっとロキウスの前に跪く。



「……王よ、騎士達は最も戦闘に長けている、極北の海の氏族を中心に集められております。その全てが祟りものになったとすれば、この先は総力戦になりましょう。………お辛いでしょうが、我等にご指示を」

「……………ああ。一族から祟りものが出るとは悲しいことだ。王として命ずる。悪しきものに堕ちた仲間達を、解放してやって欲しい」

「は!………………ガコアの氏族よ!俺に続け!!一族の祟りものなど、外海に出してはならん。海竜の恥ぞ!!」



そう声を上げれば、彼が槍を掲げてみせた方角にいた海竜達が、いっせいに、おおおっと鬨の声を上げこちらに下りてきた。

その様子に頷き、彼はロキウスに一礼した。



「頑強さで我らに敵うものなどおらぬ。先陣を切らせていただく」

「ああ、頼んだぞハモン」

「…………兄上、俺達の一族も抑えに向かいましょう。魔術の扱いにおいては、西海の竜に敵うものなどありますまい」



次にロキウスにそう告げたのは、ネアの知らない膝裏までの長い水色の髪の海竜だ。

その様子を見ていれば、こちらの弟もロキウスとの関係は悪くなさそうに見えた。


第六王子か、第七王子だと思われる彼もまた、自分の氏族を率いて扉の向こうに消えて行った。



ベリス王子も立ち上がり、セレスティーアとゾーイと話をしている。

ゾーイはベリス王子に何やら首を振ると、立ち上がってロキウスの隣に立った。



「俺は残る」

「…………しかし」

「安心しろ、俺は悪変には強い種の精霊だからな。それよりもそっちを頼んだぞ」

「…………わかりました。…………兄上、私は避難されるセレスティーア様の護衛を。ここで祟りものの気配にあてられると取り返しのつかないことになりますから」



そう報告しているベリス王子にさっと抱え上げられ、どうやらセレスティーアはこの場から離脱するようだ。

ネアは思わず自分も抱っこしたいと手をわきわきさせてしまったが、そんな我が儘を言える時ではないので我慢する。



「むぎゅう。白もふさんは行ってしまうのです?」

「長命な精霊はね、属性や個体にもよるけれど狂乱や咎落ちなどに心を引き摺られやすいんだ。ここにいて汚染されると困ったことになるからね」

「ふぎゅ。そうなのですね。素敵な白もふさんが損なわれたら世界の損失なので、無事に避難して欲しいです………」

「浮気……………」


目をぎらつかせて最後に脳裏に焼き付けると言わんばかりにセレスティーアを見ているご主人様に、ディノは少しだけしょんぼりしたのか、持ち上げたネアに頭をぐりぐり擦り付ける。


「まぁ、荒ぶらずとも、私はせいぜい、あの方がアルテアさんのお嫁さんになれば、たくさん会えるのかなと考えるくらいで…」

「やめろ」

「アルテアの………」


ディノは困ったようにアルテアの方を見ており、ネアは鼻を摘もうとしたアルテアの指に噛みつこうとして低く唸り声を上げていた。


その間に、ロキウスは円卓についていた高位の海竜とおぼしき者達と、ゾーイも含めて話し合っており、幾つかの氏族の女達には退避命令が出された。

彼女達は悪変に弱い、清廉な海の竜なのだそうだ。





「……………シルハーン、来ます」



シェダーが、そう短く告げたのは、ネア達にも深々と頭を下げたセレスティーアが、ベリス王子に連れられて王座の間を出てすぐのことだった。



先程の騎士が駆け込んで来た扉が、がしゃんと吹き飛ばされてきて床を転がった。

扉とは言え、海竜が竜の姿のままでも入れるくらいに大きい。

物凄い勢いで床を滑りこちらに転がってきたが、アルテアの手前でざあっと黒い炎に包まれて霧散する。



扉の向こうの暗闇は、一瞬だけ奇妙な静けさに包まれていた。




(あの暗闇の向こうに、誰が………何がいるのだろう…………)




おおんと、その暗闇の向こうから遠く響いたのは唸り声だろうか。

狼の遠吠えにも似ていて、その声に海竜達の気配が一瞬にして強張る。



(そうか、………竜の声だ……………)



はっとして見つめたその先で、扉を壊されたその暗闇の向こうから、大きな力に吹き飛ばされたようにして誰かが滑り込んでくる。


漆黒のケープを翻し、じゃっと靴裏が床石に擦れる音を立てて体勢を低くし何とか踏み止まると、小さく息を吐き、背筋を伸ばしてからこちらを振り返った。



「リドワーン殿!」



そう声を上げたのは、円卓についていた王子の一人だろうか。

自分も迎撃に出ると声を上げたものの、円卓についていた誰かに思い留まらせられていた人物だ。

まだ青年と言ってもいい程の姿をしているので、こちらが第七王子なのかもしれない。



ネアは、格好良くてお気に入りになりつつあるリドワーンが怪我をしていないか伸び上がって見てみたが、幸いにも押し負けて傷付いている様子はない。




「リドワーン殿」


そこに駆け寄ろうとしたロキウスに、夜海の竜の王子は片手を上げて首を振った。



「血族のあなたは近寄らない方がいい。今、クフェルフに頼んで、抑えに出た他の王子にも、軌道上から退いて貰っている。………騎士達は皆狂乱に飲まれたが、彼はあなたと誓約を交わしたことで、難を逃れたようだ」

「…………ああ、クフェルフは無事か!それと、弟を逃して下さって助かった」


ほっとしたように微笑んだロキウスに、ネアもクフェルフが無事だと分かって胸を撫で下ろした。

とは言え、彼も怪我をした手の治療をしたばかりなので、体力的に保つのかがかなり心配だ。




「アダンは、まだ完全に祟りものにはなっていない。…………が、反応が妙だ。ロキウス、あの男は、既に悪食になっているのではないか?」

「……………おじ、…アダンが?」

「最初に悪変の予兆があった時に、拘束の任を引き受けていた女王が抑えようとなさっていたが魔術が届かなかったんだ。…………正規の術式を弾く為には、それに応じた守護が必要になるが、俺には、あれは弾くというよりは、魔術の効果が及ばないという反応に思えた…………」



聞こえてきた会話の内容に、ネアはシェダーの方を窺った。

恐らく、暦王の変化の一端には彼の介入があると思われる。

何らかの願いに応える形で、彼を排除しやすいような状況を整えたのだろう。



(でも、今の会話で悪食という言葉が聞こえてきた時、シェダーさんは眉を顰めていたような気がする…………)



そんな事を考えていると、ざらっと、黒っぽいものが扉の方から流れ込んで来た。




「ぎゃ…………」



ぞろりぞろりと這い出てきた生き物は異様な風体で、思わずネアがディノにしがみつくと、その隣をゆっくり歩いてシェダーがそちらに進んでゆく。

シェダーが近付いてきたことに気付いたリドワーンがこくりと頷く姿に、ネアはこの二人は知り合いなのだろうかと目を瞠った。



「その生き物を、王に近づけさせるな!北海の血を引く者は、魂を食われるぞ!!」



扉の向こうから、そう注意を促す誰かの、轟くような太い声が響く。


その声の主が先程の伝令に来た騎士にとどめをさしてやった男性だと分かり、ネアは王座の間の外で何が起こっているのか心配になった。

声しか聞こえないが、ハモンという名前の彼は無事だろうか。

ロキウスの元に必要な人物だと思うので、ここで喪われるようなことにはなって欲しくない。



そう考えてそわそわしていたネアの隣で、手帳をしまいこちらまで歩いてきたアルテアが、小さくおかしいなと呟いた。

おやっと思って、ネアは魔物達の様子を見る。



「アルテア、…………君はあの時、アダンに悪食の気配があったと思うかい?」

「…………いや、なかっただろうな。そうなると、拘束されてからのどこかで悪食になった可能性が高い。問題は、何が喰われたかだ」

「…………何が?」


思わずそう尋ねたネアに、ディノが教えてくれる。


「…………悪食はね、取り込むものによって異なる変化が生まれるものなんだ。………特に、愛するものや血族を取り込んだ悪食は、悪変が大きくなる。更にそこから先にまで壊れた場合、つまり、祟りものになった際に大きく階位を上げるのはそういう悪食達だからね」



祟りものとは、言葉の通りに祟り呪うその感情を糧に生まれる悪しきものである。

であるならば、愛するものや自身に紐付くような者達を喰らった者こそ、その身に宿す怨嗟は悍ましく濃くなってしまう。

変化の際に爆発的に階位を上げ、怪物のような姿に成り果てることもあるのだとか。



「あの砂の塊のようなものは、騎士の成れの果てだ。主従の誓いごと引き摺られて飲み込まれたな」

「シェダーさんとリドワーンさんで、大丈夫でしょうか?」

「あのくらいはな」



(その言い方だと、大丈夫じゃないものも来てしまうみたい…………)



アルテアの言葉には含みがあり、ネアはへにょりと眉を下げた。

慌てて、こちらも増員するべきかなとノアとウィリアムの方を振り返り、ネアはそちらを見て仰天する。


王座の方に戻ったロキウスの周囲で、十人程の男達が床に伏していた。

ロキウスの近くに居たノアがこちらを見て頷いてくれたので、この隙に乗じてロキウスを害そうとした者達を、ノアが懲らしめてくれたらしい。



(ウィリアムさんは………)



ウィリアムはどうしたのだろうと、ネアがさらに視線を巡らせると、少し離れたところで翻った白いケープが見えた。

裏地の真紅が鮮やかに揺れ、その色彩の不穏さに相応しく、その足元には折り重なり積み上がった多くの亡骸が見える。


まさか片っ端から海竜を減らし始めてしまったのではと慄いたネアだったが、近くで海竜同士の争いも見えたので、そちらでも諍いが勃発していたようだ。



(そうか、………これは合図なんだ)



ネアは、ここでやっと色々なことが腑に落ちて、周囲を見回した。



暦王が悪変とやらを始めた事で、海竜達は大混乱に陥った。

そうして場が揺らぎ、あちこちに隙が生じたことで、不安分子達がここが最後の勝機であると立ち上がっている。


彼等にとってこの事態は、まるで暦王の鬨の声のような、いざ行かんという明快な合図に思えたのだろうか。

けれども、そんな状況をあえて整えたのは魔物達なのだ。

ここで反旗を翻した竜達は剪定され、その粛清は魔物達にとっては良い牽制にもなる。



(自分の意思で行動しているように思えて、あの人達は誘導されるようにしてウィリアムさんやノアに向かって行ってしまう………)



また白いケープが翻り、今度は大きな竜がウィリアムの剣に両断された。

振り返ったアルテアの見立てでは、あえて精神圧を押さえて恐怖で相手が逃げ出さないようにして楽しんでいるということであった。



勿論、正面でも戦いは続いていた。



ざらりざらりと、黒い砂が凝ったような生き物がまた一匹、また一匹と扉の向こうから這い出て来る。



シェダーとリドワーンがそれぞれの剣で素早く両断してゆき、真っ二つになるとただの砂になって動かなくなった。



どおんと、背後から大きな音がした。

びゃっとなって忙しくそちらを向いたネアは、見たことのない水色の美しい竜が、濃い青色の竜の首筋を踏みつけて打ち倒している姿を目撃して胸が熱くなった。

思わずディノの三つ編みをぎゅっと握りしめ、迫力の光景に見入る。



倒された竜は動かなくなり、水色の竜は深い青色の水が渦巻くような光に包まれて、軍服姿のロキウスになった。



(ロキウスさんだったんだ………!)



打ち倒された青い竜も人型に戻ったが、力なく倒れたまま動く様子はない。

倒れている男性は大柄で、華奢な青年姿のロキウスと比べると、その体格差は一目瞭然だ。

それなのに苦労した気配もなく、涼やかにしているロキウスはやはり、王に相応しい強さを兼ね備えた海竜であるらしい。



「ネア、大きなものがこちらに来るから、離れないようにね。怖かったら目を瞑っておいで」

「………ふぎゅ?!」



耳元に唇を寄せそう言われ、ネアはまた視線を正面に戻した。

先程までぞわぞわ動いていた黒い砂の生き物は、いつの間にかもう居なくなっている。


けれども、動くものがいなくなって静かになったその暗がりこそが、例えようもなく不穏に思えた。




ずおん、と闇が動いた。

ぞるるっと闇ごと動き、また闇の向こうから咆哮が聞こえた。



ずしっと、漆黒の大きな手が扉のなくなった壁の縁を掴む。

その手は大きな蜥蜴と人の手の間のもののようで、竜というよりは怪物の造形に近しい。



「ああ、北海の竜だね。あの竜種は、通常の竜のような形から、千年も育てばあのような形になる」

「ほ、ほわ、…………あの姿は、祟りものだからではないのですか?」

「うん。あれはまだ悪変を始めてはいるけれど、アダンとしての形だよ。意識もある筈だ。でも、既に契約は交わされてしまっているから、ここからは狂うばかりだろうか」

「……………た、立ちました」



体を屈めて王座の間に入ってきた生き物は、確かに造形としては竜なのだが、後ろ足で立ち上がり、床にまで引きずるような大きな前足が人間の両手のようになっている、ネアの生まれた世界の知識で表現するならこれこそまさに合成獣である。



(立ち上がった熊、の怪物………のような感じ?)



背中に翼はなく、ずしん、ずしんと地響きを立てて歩く。

長い尾は太く、漆黒の棘が並んでいて振り回されたら大変なことになりそうだ。



扉の向こうに赴き、抑えに当たっていた他の竜達はどうなったのだろう。

ネアは、彼等の無事を心から祈った。



「ほお、あの姿で現れたとなると、誰かがイブの体からアダンを引き摺り出したな」

「肉体を失っても形が崩れないのは、確かに悪食の効果だろうね。困ったものだ」

「成る程、体から引き摺り出された状態だと理解した上で、あいつは祟りものになる為の約定に応えてやったのか。本来なら凝りの竜程度の祟りものになる筈が、悪食の要素のせいで実体化するとは思ってもいなかったんだろうな……」

「魂だけの状態であれば、祟りものにしてしまった方が、他の体に逃げ込まれないし、壊すのが楽だからね」



魔物達のやり取りに、ネアはこの状態がただの祟りものよりは厄介なのだということ、そして、シェダーにとってはやはり想定外だったということを理解し、あらためてごくりと息を飲む。


ディノやアルテアの会話には緊迫感はないが、このような会話を持つくらいなのだからそれなりに困った状況なのかもしれない。




「前にいるシェダー達でも、これを壊すのは難しくはないだろうけれど、あまり戦いが激しくなると、この建物が壊れてしまいそうだね。………私がやった方がいいだろう」

「……………ディノ?」

「心配しなくていいよ。私が手を下した方が、戦うというよりは解いて崩してしまうようなやり方だから、周囲に被害が出ないからね」



ディノはそう微笑むと、持ち上げていたネアをアルテアに受け渡した。

ネアは目を瞠ってそんなディノを見返し、ディノは、もう一度微笑んでネアの頭をふわりと撫でてくれると、ネアが握り締めていた三つ編みをそっと手放させた。



(……………ディノが、)



これはやはり、ディノが動かねばならないくらいのことなのだろうか。

ネアは胸が苦しくなって、アルテアの腕の中でぎゅっと両手を握り締める。



「…………安心しろ。シルハーンの精神圧で、魔術の根源を砕いて解体するだけだ。生命の強制的な崩壊や魔術そのものを取り上げる権限は、万象しか持たないものだからな」



アルテアはそう言ってくれたものの、ネアはアダンだという大きな黒い竜がディノを認めた瞬間、その足元がざわりと漆黒の炎に包まれたのを見て息が止まりそうになった。


イブの体を手放したからか、色を違え、爛々とした青く冷たい瞳がこちらを見ていた。




「イブ………………」




軋るような低い声は歪んで濁っていて、その悍ましさは例えようもない。

悪しきながらも美しいものもいるが、これは醜悪に狂ってゆくものだと、ネアは意味も分からずにそう思う。




「そこに隠れていたか、イブ」



その声が向けられたのは、なぜかディノで。



「おや、私を誰かと間違えているのかな」



そう微笑んだディノに、その瞬間、物凄い衝撃が襲いかかった。




「………っ!」



ネアは悲鳴にもならない声を上げて、両手で口を覆った。



漆黒の異形の竜姿のアダンが、その大きな手をディノに叩きつけたのだ。

あまりの衝撃に、こちらにまで、ぶわっと強い風が肌を打つ。

打撃の強さに凍りついたネアの背中を、アルテアが宥めるように強く抱き締めた。




「………っ、あの種が祟りものになると、さすがに凄まじいな。…………おい?」



アルテアが、訝しげにネアの方を見る。

けれどもその時ネアが見ていたのは、ぱらぱらと結界の破片のようなものを零しながら、アダンが大きな手をどかした、その下にいるディノの方だった。




(ディノ……………!)




勿論、叩き潰されてしまったりはしない。

だが片手を持ち上げてその打撃を防いでおり、その美しい手は折れてしまっていたりもしないものの、つつっと一筋の赤い血が見えた気がしたのだ。



ネアはびりびりと体を強張らせ、その光景を凝視していた。


ふつふつとお腹の底に怒りが込み上げ、大事な魔物を傷付けた大きな黒い怪物を睨み付ける。

今やもう、アダンの体は黒い靄のようなものに包まれ、その靄が表皮に渦巻き、見たこともないような悍ましい生き物になりつつあった。



「おい……………」



ネアの異変に気付いたアルテアが、声をかけて揺さぶるが、こちらの人間は今、怒り狂っているのだ。



「…………許しません。よくも、……………よくも、私の大事なディノを傷付けましたね」




地を這うような低い声に、シェダーとリドワーンも振り返る。



次の瞬間、ネアは怒りに震える手でポケットの中の笛を掴み取ると、容赦なく吹いた。



ピッ!




鋭いその音が響き渡った瞬間、ずとんと凄まじい音が王座の間に響き渡った。

祟りものと化した巨大な怪物が、子犬のようにぺしゃりとお座りしたのだ。



扉の側にいたリドワーンも、尻餅をついたように座り込んでしまって目を丸くしていた。

獰猛な獣のような目で周囲を見回したネアは、この王座の間にいる全ての海竜達が巻き込まれてお座りをしてしまったことを確かめ、これで邪魔者も無力化したぞと、きりりと頷いた。



「降ります」

「…………おい、シルハーンなら…」

「今の私を止めたら絶交です!」


手のつけられなくなった人間の暴言に呆れてしまったのか、アルテアはじたばたするネアを渋々ではあるが、床に降ろしてくれる。

とは言え、離れることはなくネアのドレスのウエストリボンを掴んだまま、すぐ後ろに付いてきた。




「ネ、ネア…………」



おろおろとしているディノは、こちらに向かってくるネアを慌てて止めようとしたが、ネアは構わずつかつかとそんなディノに歩み寄り、先程、一筋の赤い血が見えた方の手にそっと触れた。


後ろにいたアルテアが少し離れるのが分かる。

ネアがディノに触れたので、安心したのだろうか。




(………どこも傷付いていない)



ネアは、傷一つない綺麗な手に胸を撫で下ろし、不安そうにこちらを見ている美しい魔物を見上げる。



「ディノ、どこも痛くありませんか?」

「…………うん」



そこでぞろりとアダンが動きかけ、ネアは容赦なくもう一度笛を吹いた。



「お座り!」



びしっと重ねてそう言われ、アダンが転じた祟りものは、憎しみの咆哮を上げながらもべたんと先程より深く床に沈む。



「先程、怪我をしていましたね?」

「…………ネア、この種の祟りものは厄介なんだよ。周囲に穢れや災厄を残さないように壊すには、少しだけその魔術の織りに触れてみる必要が…………ご主人様………」



ネアの暗い眼差しに、ディノはふるふるしながら声をなくした。

ご主人様の激怒に気付き、怯えてしまったのだ。




「…………やはり、私の魔物を傷付けたのですね。…………そんな生き物など、一思いに滅ぼすものですか」



そう宣言したネアがポケットから取り出したものを見た瞬間、ディノはびゃっとなった。

そのまま一度蹲りそうになりながらも、ネアを守るために必死に踏みとどまってくれる。



「ネア…………」

「あの獣は滅ぼします。どうせ壊してしまうつもりなら、構いませんよね?」

「…………うん。でも、君は近付くと危ないだろう?私が壊してしまうから…」

「簡単に滅ぼすだなんて、優し過ぎませんか?…………あやつは、獰猛な人間を決して怒らせてはいけないのだと、魂にまで刻みつけてから滅びて貰います。ディノは、怖いなら後ろを向いていて下さいね」

「…………ご主人様」




怯える魔物を優しく撫でてやり、ネアはまた少しだけ前に進むと、こちらを見て体に響くような唸り声を上げているアダンに向けて、小さな紙の箱を放り投げた。



「えいっ!」



次の瞬間、投げられた小さな箱を目で追った祟りものは、その青い瞳を張り裂けんばかりに見開いた。



それ自体が嵐のような絶叫を上げ、ぎゅんと広がった箱に飲み込まれると、そこでまた、くぐもった絶叫が王座の間中に響き渡る。

元の小さな紙の箱に戻ったその中からも、悲鳴は何度も何度も続き、やがてごぼりと詰まったようになって途絶えた。




全ての音が途切れ、王座の間は恐ろしい程の沈黙に包まれる。




「うむ。滅びました」



ネアはふんすと胸を張って頷き、くるりと振り返った。

すぐにでもディノを労ってやりたかったのだが、残念ながらその魔物は現在、すっかり怯えて羽織ものになってしまっている。

背中にへばりついているので、振り返っても顔が見えないのだ。




「わーお、一瞬だったなぁ」



そこにやって来たのは、ノアだ。

けれどもなぜか、ネアを見てはくれず、視線を不自然に彷徨わせている。



「………む?なぜに目を逸らしているのですか?」

「ネア、あれだけの質量のものを飲み込む為に箱が広がるとさ、僕達にも中身が見えそうになるんだ。ちょっと、死ぬかなと思った」

「なぬ?!」



はっとしたネアが慌てて周囲を見回すと、円卓に片手を突いて、もう片方の手で目を押さえて項垂れているウィリアムがいる。

ぞっとして最も角度が危ういシェダー達の方を見ると、一度その箱の威力を見て知っていたシェダーは、リドワーンの目を手で覆い、自身も目を閉じていてくれた。

同じように、こちらに近い位置に来てしまっていたゾーイも、隣のロキウスの目を覆ってくれつつ、自身もしっかり目を閉じていた。



(よ、良かった…………!!)



安堵のあまり、ネアは床に座り込みそうになってしまう。



「あ、危なかったです!危うくここにいる仲間達まで殲滅するところでした…………」



ほっとしたネアがそう言うと、へなへなと座り込んだノアにぎゅっと手を掴まれた。



「僕も死ぬから、今度から使う時は事前に教えてね…………」

「…………ふぎゅ、ごめんなさいノア。……むぐ?!格好良く決めたばかりのご主人様に何をするのだ!ゆるすまじ!!」



直後、つかつかと歩み寄って来たアルテアに頬っぺたを摘まれ、ネアは再び怒り狂った。

しかし、唸り声を上げてアルテアの方を見ると、凄艶な美貌の使い魔は、ちょっと涙目になりかけているではないか。



「……………アルテアさん、泣いてます?」

「ふざけるな。そんな訳ないだろ」

「ネア、寧ろ泣いてるのはシルだから!」

「ディノ?!………ディノ、怖くて泣いてしまったのですか?!」

「ご主人様…………」

「…………僕も泣きそう………」

「ノア?!」




祟りものは一瞬にして駆除されたが、また別の惨状を引き起こしてしまい、ネアは途方に暮れた。

素早く目を閉じて心まで完全に無傷でいてくれたシェダーの存在がなければ、その後の処理は滞ってしまったのかもしれない。




なお、その事件の事後処理はとても速やかだった。



ネアがロキウスの側に立っているだけで、海竜達が震え上がってしまい、こんな恐ろしい人間の好意を勝ち取ったロキウスは、どれだけ偉大なのだろうかと考えを改めたらしい。


この場にいなかった弟王子達や、クフェルフ達などの他の海竜達は、仲間達から震える声で語られた恐怖の時間の体験談に困惑しながら頷き、とは言え一族がまとまったようで良かったと言ってくれた。



アダンをイブの体から追い出したのは、伴侶であった海竜の女王だったそうだ。

アダンが食べたのは、彼を逃がそうと忍び込んだ、愛妾だった海竜の貴族の女性だったらしい。

アダンがイブの体を道連れに悪食となろうとしていることに激昂し、アデラは大きく命を削ってイブの体からアダンを追い出した。

その際にアダンに片腕を喰われ、それがアダンがあれだけの力を持つ祟りものに転じた理由だろうと、魔物達は話していた。


アデラは、魂を失って砂に戻ってゆくイブの体を抱いて事切れたそうだ。

その最期を看取ったのは第六王子で、やっと愛するひとと二人になれたと、彼女はとても安らかに微笑んで旅立ったと話してくれた。

悲しい幕引きだが、アデラもアダンの秘密を隠匿したという罪を犯している。

命を対価とするような処分は免れられなかっただけに、これで良かったのかもしれないとロキウスは悲しげに微笑んでいた。




「アダンが体の乗り換えを可能としたように、同じ氏族のアデラも魂を弾き出すような魔術を可能としたようだね。イブの体を持ったままアダンが悪食になっていたら、もっと良くないことになった筈だ。イブは、海竜の統一を可能としたくらいの力を持った、特異体の海竜だったからね。微かに、光竜に似た属性も持ち合わせていた。………だからこそ、陸に焦がれてしまったのかもしれないけれど」



ディノのその言葉に、ネアは頷いて深い海の青く美しい光を眺める。

確かにここも美しいけれど、それはやはり、陸とは違う空気で美貌の種類なのだった。

ディノがイブと親しくしていたのは、そんな海竜の王の持つ孤独が、どこか自分のものに似ていたからかもしれない。




その夜は、海の中の王宮で新しい王が決まったお祝いが催されるようだ。


とは言え、正統な継承が叶うようにと、イブの魂を持った者を見付けなければとネアが言えば、ディノとノアはなぜか顔を見合わせて少しだけ曖昧に微笑んだのだった。







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