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298. たくさん来ました(本編)





「ノア!」


ネアの声に、少しだけ振り返ったノアが唇の端で淡く微笑んだ。

すっと手を持ち上げ、水晶の祭壇を指し示す。



「ここは祈りの場だからね。シル達は入れない領域でも、その祈りに呼ばれたことのある僕なら、誰かが呼べば入れるんだ」

「……………あ!」



確かにそうだと、ネアは目を丸くした。

ここで海竜達が祈る時、そこには海の生き物達を呪ったとされる畏怖するべき塩の王への願いも混ざることがあっただろう。


誰でもなくノアだからこそ、この礼拝堂とネアの呼び声が道になったのだ。




「……………ノア、ロキウスさんが………」

「ふぅん、海竜だね?」

「良い海竜さんなのです!」

「うん。じゃあ、僕に任せて。……………へぇ、かなりぎりぎりで繋いだね。辛うじて生きてるくらいだし、虫の息だ。シルの傷薬がなかったらもう死んでるよ」

「傷口にかけて、飲ませました!」

「だから君がそこにいるんだ。………ネア、こっちにおいで。………それと、他の海竜はもういらないよね?」



そう微笑んだノアはとても邪悪な感じがして、ネアはそんな魔物におやおやと微笑みかけた。

こんな冷ややかな眼差しのくせに、なんて心配そうにネアを見るのだろう。

ここにいるのは、ネアの大事な優しい魔物だった。




「ノア、ノアが来てくれたので、私はもう大丈夫ですよ。…………それと、あの王様はぽいしますが、ロキウスさんのように優しい海竜さんもいたのです。その方達の為に、ある程度でいいので許してあげる海竜さんも作ってくれますか?」

「うん。ある程度なら許してあげるよ。君が、僕にそれでいいかなって尋ねてくれるのはとっても正しい。僕達はね、君にこんな仕打ちをした海竜なんてこの世界に残さなくてもいいくらいなんだから」



そう微笑んだノアは、高位の魔物らしい美貌だった。

青系統の色味が混ざる白い髪に、鮮やかな青紫の瞳が燃え上がるよう。

凄艶で恐ろしく、美しくて獰猛に見える。





「塩の、……………王」




ひび割れた声は、暦王のものだった。

その声に暦王を見たノアのところまでぽてぽてと歩いてゆくと、ネアは伸ばされた腕にぎゅっと抱き締められる。



ノアが、ロキウス達のところまでネアを迎えに来なかったのは、海竜達の領域にネアを留まらせるということが不愉快なのだという、海竜達への意思表示なのだろう。

だからこそネアは、後方に置いてゆくロキウス達が少し心配になる。



立ち上がる時にクフェルフには頷きかけてやったのだが、彼はまだ、一瞬であっても鼓動を止めた主人が助かるのだということを、きちんと理解出来てはいないようだ。

かく言うネアも、砂になりかけた血が炎になってロキウスの体に戻ってゆくまでは、彼はもう助からないと思っていた。



(あの時………………)



手を濡らした血が砂になってゆくあの瞬間に一度、ロキウスの心臓が鼓動を止めたのを、ネアも感じていたのだから。



だから、ノアの腕の中に収まるととても素敵な気持ちになった。

ロキウスが死んでしまったと思った時に感じた泣き出したいような怒りを、この安堵で洗い流せる。


ふっと沈黙が落ちたので見上げると、ノアが静かな瞳でこちらを見ていた。

目が合ったネアに短く頷いて微笑みかけ、またぎゅっと背中に添えた手で抱き締めてくれる。




「…………この子はね、僕の大事な家族なんだよ。だから僕は、この子が望めばこんな海なんて滅ぼしてしまうし、望まなくても、この子を傷付けた海の生き物なんて滅べばいいと思ってしまうかな」



暦王にかけられたのは飄々とした口調と朗らかな声だが、そこには一片の温もりも感じられなかった。



礼拝堂の入り口の方で短く声が上がり、そちらを見れば、明らかに高位の竜達らしい複数の人影がある。

どこからか騒ぎを聞いて駆けつけてきたのか、礼拝堂の真ん中に立った塩の魔物を見て、よろめいて蹲ってしまった。




「なぜ、………御身が、………」



そう低く呟いた暦王は、ノアと相対しても倒れてしまう様子はない。

けれども、ネアはその手が小刻みに震えていることに気付いた。



「君はさ、愚かな男だよね。君が従兄弟の体を奪うのは勝手だけれど、君がここで傷付けたのは、僕の妹で、僕達の王の婚約者だ。まさか、こんな愚かな海竜の為に、海の全てが滅ぼされるとは他の生き物達も思いもしなかっただろう。君達海竜は、全ての海の住人から呪われて滅びてゆくしかないね。……………うん、そっちの道も開いたかな?」

「ほわ…………………」



その直後、ざっと何人もの人々が折り重なって床に倒れるような音がした。

驚いたネアが慌ててそちらを振り返れば、見たことのない一人の男性が、入り口付近を固めていた海竜の騎士達を、いとも容易く薙ぎ倒してしまったようだ。


まるで大きな手のひらでばしんと払いのけられたように、成す術もなく騎士達は打ち倒される。




「リドワーン……………!」



憤怒すら滲む暦王の声に、ネアはこの人がそうなのだと、初めて見た夜海の竜に目を凝らす。


短い髪はほとんど白に近く、そこに鮮やかな青紫色のインクを落したような毛が混ざっている。

アダックスのような銀色の捻じれた二本の角が人外者らしく目を惹き、紫がかった水色の瞳は儚くも見えるのに鮮やかで、ネアの見知った魔物達と並べても遜色のない美貌だ。


白を持っているだけでなく、美貌でもその階位を分ける人外者なのだから、この竜はかなりの高位だとネアにも一目で分った。

どこか華やかな漆黒の軍服めいた服装が、独特な美貌に映える。




「海の理を犯し、海の誇りを穢す下賤な咎人め。貴様の愚かな振る舞いの所為で、海の精霊王は万象の君に頭を下げたのだぞ」



そんなリドワーンの断罪の言葉に暦王は目を細めて剣呑な顔になり、またざわりと海竜達がどよめく。

ネア達が入ってきた方の入り口にいた騎士達は、そんな夜海の竜を恐れてか、じりじりと反対側の壁面に下がってゆく。



視線を戻せば、ネア達が出て行こうとしていた扉から入って来た華やかな装いの海竜達は、どうやら暦王の一派という訳ではなさそうだ。


何人かは、ノアの精神圧にあてられ這いずるようにではあるが、必死にロキウスの元に行こうとしている。

なのでネアは、くいくいっとノアの袖を引っ張ってみた。



「ノア、あちらの方々は悪い竜さんではないようです。お鍋にする予定はないので、ロキウスさんのところに行かせてあげて下さいね」

「…………え、鍋にするの?海竜なんか食べても美味しくないよ?」

「しかし、よく考えれば最も大きい海産物ではありませんか。案外、鯨さんのように食卓に上る可能性もあるかもしれません」



ネアのその言葉を聞いた竜達は、ひどく驚いたようだ。


口々に、あの人間は海鯨を食べているのかと震える声で囁き合うのだが、何かまずかっただろうか。


しかし、ネアは前の世界で美味しい鯨料理を食べたことがあったので、鯨が害獣であるというこの世界なら、保護団体などに睨まれることなく美味しくいただけるのではと考えていた。

なお、その場合の鯨は、確かにほくほくで美味しかったものの断じてあのきゅうり鯨ではない。


なぜか暦王までが微かに青ざめたので、海の鯨はネアの知らないような生き物なのかもしれない。




「兄上!」


ノアが精神圧を緩めてくれたからか、何とかロキウスに駆け寄れた一人の男性が、倒れたままのロキウスに取り縋っている。

その傍らには青い槍が無造作に転がっており、兄の名を呼ぶ青く長い髪のその海竜は、忌まわしそうにその槍を蹴りどかすと、涙をいっぱいに溜めた目できっと暦王を睨んだ。




「シャンファルを殺したのは、やはり、あなただったのですね……………!」



鋭い声で成された言葉に、海竜達はそれまでになく動揺した。

そう尋ねられた暦王は、ロキウスを兄上と呼んだ男性を、目を細めて睨むようにする。



「…………お前までそのような嘘に惑わされているのか。誰がそのようなこと言ったのだ」

「お婆様から、あなたに気を付けるようにと言われても、私はまだ信じられなかった。………それなのに、こんな…………ロキウス兄様を……………」

「………………アデラが?」




その問いかけは、ネアがはっとしてしまうくらいに、まるで別人のような頼りない響きだった。



自分を糾弾する孫を愕然と見返した暦王が、何かを感じたのか、ゆっくりと振り返る。




「ええ。あなたがシャンファルを殺したと、その子に教えたのは、私です」



その声は、静かでさえあった。



カツンと、踵の高い靴で床を鳴らして歩いてきた姿がある。

人間の女性と比べるとかなり背が高いが、その動きは優美で繊細だ。

ネアは、やって来た女性を見て、暦王が無防備なほどの動揺を目に浮かべ、激しく狼狽している姿を見た。



その視線の先には、ネア達が海竜の戦に向かわされた時に立ち合った、あの海竜の女王が立っている。

いつの間にか、離宮からこちらにやって来ていたらしい。



足下までの長い髪は海の色で、同じく深い海の青い瞳。

ネアが初めて見たその時のまま、海竜の女王は静かな眼差しで暦王を見据えていた。




「アデラ……………」



その名前を低く呼んでしまった時、暦王はそれまでの超然とした振る舞いに初めて、温度のある心を覗かせたのかもしれない。

不仲だと言われていた海竜の王と王妃だが、ネアの目には、暦王はまだこの女王に心を寄せているように見えた。



「……………あなたは、私の可愛い孫が、誰も知らないままに海溝の底で死んだとお思いですか?珊瑚の魔物の心に毒を注ぎ、あの魔物の崩壊にシャンファルが巻き込まれるように画策し、あなたは私の大事な孫にすら手にかけてしまった。…………それも、兄の姿が見えないことに気付き、手を尽くしてその消息を追った心の優しい聡明な子を………」

「…………誰がお前にそんな………」

「シャンファル本人です。珊瑚の魔物の崩壊から、あの子は辛うじて生き延びていた。体の殆どを石にされながらも私の下に辿り着き、兄上を助けて下さいと言い残して、私の腕の中で砂になりました。その日から、………私は、あなたが何をしているのか、調べ始めたのです」




背筋を伸ばし女王らしい威厳を失わないままにそう教えたアデラに、暦王は僅かによろめいた。



(…………その人は、王に相応しい一人だと話していた。ロキウスさんは、弟さんが亡くなっていたことを知らなかったのだわ)



だが、そうなると不思議なことが出てくる。

八人の王子に対して、海竜の戦で用意されたのは七人の枠のみ。


ネアは、その差し引かれた一人分の枠を、幽閉されたロキウスのものだと考えていた。

しかし、良く考えてみれば、血族が不祥事を起こして今回の継承を放棄したという候補者については、それがロキウスだとはまだ誰からも言われていないのだった。



(シャンファルさんの不在の理由も噛み合わないけれど、確か、珊瑚の魔物さんが亡くなったのは、海竜の戦が始まる前のことだった……………)




そんな事件すら、この暦王の手の内だったとは。

もしかしたら、まだまだそのような秘密が隠されているのかも知れない。




「シャンファルを殺しただけでなく、牢獄に幽閉したロキウスの意志を封じたまま、あの子をもう一度王に選び直し、折を見てその体を奪うつもりでしたね?」

「な、…………何を………………」

「この海には、最も潤沢な音の魔術の力を持つ方がいる。その方の魔術の庭に、あなたの企みが漏れ聞こえていたの」



今や、海竜達のざわめきは今迄以上になく大きくなり、漆黒の騎士服を着た者の何人かは離反することにしたものか、倒れたままのロキウスと、そんな主人を大事そうに守護しているクフェルフの下に駆け寄って、彼等を守るように暦王を睨んでいた。




「それは、あなたがこの礼拝堂を密会の場にしていたから、露見したことなのですよ。アダン」




(ああ、……………)



また新たな声にその名前が呼ばれてやっと、ネアは、暦王と呼ばれるイブの体を奪った者の名前をきちんと知った気がする。

それは病で亡くなったという、イブの従兄弟の名前ではなかっただろうか。



ぎりっと奥歯を噛む音が聞こえ、暦王は今迄の冷静さが嘘のように憎々しげにその声の主を見た。



(アデラさんを見るときとはまた違う。………この方とも、何か因縁があるのだろうか………)



ネアはこんな場面でありながらも、ふらりと新たな登場人物の方に体が傾いてしまい、慌てたノアにしっかりと抱え上げられ、誰かにひょいっと渡された。



「むぎゅ、楽園から遠ざけられました………」

「ネア、怪我はないか?」

「……………ウィリアムさん?」



姿形が違うので気付くのが遅れたが、ネアが手渡されたのは、どうやらウィリアムであったらしい。


「ああ、……擬態のままだと落ち着かないな。だが、海竜以外の者が入れないようになっているこの場所に全員が来るとなると、さすがに場が崩れそうなんだ。今はノアベルトが魔術基盤を整えている。俺は擬態をしているから、一足早く駆けつけられたんだ。すぐにシルハーンも来るから安心していいぞ」

「ふぐ!」


頼もしい言葉にネアは頷き、海の生き物に囲まれたノアの精神状態が心配だったので、伸ばした手でその腕をそっと撫でてやった。



「ありゃ、ネアは心配症だなぁ」

「大事なノアを誰かが苛めたら、きりんさんを投げつけます」

「僕も死んじゃうから、その武器はやめて!」

「むぐぅ……………」



ノアはネアをウィリアムに預けて安心したのか、きちんと暦王達の方に向き合った。



(でも、ウィリアムさんも来たらもう安心だわ。………何だろう、武力的に?)



そこでネアは、持ち上げてくれているウィリアムの耳元に、あそこにいるのはネアの理想の白もふこと、毛皮の会の会員には必見の海の精霊王であると耳打ちしておき、握りしめていたきりんの絵をそっとポケットに戻した。


視線は、ずりずりっと床を移動して暦王の近くにやってきた、真っ白な赤ちゃんアザラシな海の精霊王に釘付けだ。



ポケットをごそごそとやったネアは、代わりの武器として無事に人魚の笛を手にして満足の息を吐く。

ノアにだけ負担を強いるつもりなどないので、何かがあったらすかさずこの笛で応戦するのだ。




「…………ネア、あの男がネアを傷付けたのか?」



静かな声が耳元で聞こえた。

そう尋ねたウィリアムは、冷ややかな目で暦王を見ている。


「ふぁい。私と言うよりも、私が海竜の王様はこの方がいいなと思って密かに応援していたロキウスさんを、槍で殺そうとしたのです。ロキウスさんは一度心臓が止まってしまったので、ディノの薬がなければ危うかったですし、私も胸がぎゅっとなりました。それと、あやつには牢屋に入れられました…………」

「そうか、分った」



そう頷き、ウィリアムは擬態した栗色の髪の、端正だが特徴のない男性の顔でにっこりと微笑んだ。

これはもう、元の姿に戻ったら剣でばっさりとやってしまいそうだが、今は真実の解明の一番重要なところなのでもう少し待ってくれるだろうか。




「ロキウス…………」


背後で小さなゾーイの声が聞こえ、ネアは慌てて振り返った。

そこには漸く薄らと目を開けたロキウスの姿に、クフェルフが小さく歓喜の声を上げ、ロキウスを兄と呼んだ男性が目元を覆って男泣きしている光景がある。


ゾーイは、困惑したように目を瞬いた友人に微笑みかけ、こちらに気付いてネアの方を見ると、深々と頭を下げた。

慌てたように、クフェルフやその周りにいる他の竜達もネアに頭を下げる。



無事にロキウスが目を覚ましてくれて嬉しくなったネアは微笑んだが、どうやらまだ立ち上がれるような状態ではないらしい。


ノアの言葉を聞く限り、ネアが投入した傷薬も辛うじて命を繋いだ程度だったようだ。

そこからノアが手を貸してくれて目を覚ませたのだろうが、彼がこの先普通の生活を送れるのかどうかは、まだ不透明だと言わざるを得ない。


あの槍はきっと、そこまでのものだったのだ。




一方で暦王は、セレスティーアと、伴侶であるアデラと向き合っていた。


セレスティーアは悲しげに首を振ると、自分を睨んでいる暦王に語りかける。



「この礼拝堂は、その思いを届ける祈りの場。人払いが出来るからとここで密談したのでしょうけれど、その声はとうとう昨晩になって、私の神殿まで届いてしまった。………あなたはその時、投獄で弱らせたロキウスの体を乗っ取り、次の代でも長きを王として過ごすと、そう話していた」



返答はなく、暦王は射殺さんばかりの眼差しでセレスティーアを見るばかり。



「…………アダン。私はあの日、何とか延命をと取り縋ったあなたに、それは天命であると話しました。それなのにあなたは、悍ましくも従兄弟のイブの体を奪い、彼の健全な魂をどこかに追いやってしまった。アデラも私にすぐに相談すればいいのに、こんなに長い間、自分の夫が別人になってしまったということを隠しているなんて」

「…………申し訳ありません、セレスティーア様。この男はイブではないと気付いてはおりましたが、とは言え王としての責務を果たしているのであればと、私はその真実を飲み込んでしまった」

「…………アデラ、……………?」



呆然としたように自分を見た暦王に、海竜の女王は怨嗟にも近い苛烈な眼差しを向けた。

そこには女性のものらしい、嫌悪感がありありと滲み、アダンと呼ばれた男は一歩後退する。



「勘違いしないで。私は、お前を受け入れた訳ではないわ。かつて、私の大事なイブが、己の願いを殺し望まない戦いをしてでも平和を願ったこの海を守る為に、お前が王の務めを果たす限りはと、大嫌いなお前がそこに居ることに耐えただけ。イブのふりをしてお前が私に微笑みかける度、私は吐き気がしてならなかった!」



限界だったのか、アデラの、それまでの女王らしい言動が崩れた。


あまりにも生々しい拒絶の言葉を浴びせかけられ、アダンの顔がくしゃりと歪む。

するとアデラは、美しい眉を顰めて悲しげな顔をするのだ。



「…………ああ、私は、イブの体にそんな顔をさせたくなかった!だから私はお前を受け入れ、愛する人を殺したお前の罪を暴き立てはしなかったのよ。私がお前を受け入れたのは、そこに愛しいイブの面影があったから。そしてイブの治めようとした海を平定させるのに、イブであり続ける誰かの犠牲が必要だったから。ただそれだけの為にその存在を許したお前が、私とイブの大事な孫を殺すだなんて!」



激昂を滲ませた言葉とは裏腹に、その声はいっそ静かですらあった。


だからこそ切っ先は鋭く、ネアは、この人はイブの体だったからこそアダンとの間に子供をも設け、そこにはアダンという人物の存在を認めてはいなかったのだろうと考える。

彼女の言う大事な孫とは、魂不在のイブの肉体と、イブを愛した自分の血を継ぐ者のことなのだ。



(………そして多分、アダンさんは、アデラさんを愛していたのではないかしら…………)



だからこそ彼女に知られたことに絶望し、こんなにもその言葉に呆然としている。



あまりにも苛烈な二人のやり取りにネアが眉を下げていると、白くもちもちふわふわした生き物がずりりっとこちらを向いた。




「久し振りね、人の子。私達、海の生き物の醜い争いに、あなたを巻き込んでしまってごめんなさいね」



こちらを向いてそう言ってくれたセレスティーアに、ネアは夢中で頷いた。

愛くるしい白もふがむちむち動いているのを見れたので、もはや万感の思いである。



「もう一度、素敵なセレスティーアさんにお会い出来たので、今迄のむしゃくしゃが吹き飛びました!」

「あら、今でもそんな風に言ってくれるのね」



そう笑い、海の精霊王は嬉しそうに目を細める。

笑っているような顔になった赤ちゃんアザラシの破壊力に、ネアはもう一度抱き上げてしまいたいような、そのまま連れて逃げてしまいたいような、いけない誘惑に駆られた。



「でもまぁ、この子が許しても僕は許さないけどね。海竜には、それ相応の罰を受けて貰おう」



ノアのその言葉を、ネアは遮ったりはしなかった。


例えネアがもういいと言ったところで、魔物には魔物の、彼等の領域を侵されたという不快感がある。

その矜持や権威を守る為に、残酷だと思えるような措置とて必要だろう。

そんな彼等の規則や理は、人間であるネアとは違うものだ。

例えばここでネアが、自分の自己満足の為に彼等を許して欲しいと言うのなら、それは、大事な魔物達にその我慢を強いることなのである。



「罪であれば、私も自身の罪を贖いましょう。元より、アダンの企みが露見し、異種族の王であるゾーイを巻き込んだその時から、いずれはこの命で一連の騒動の責任を果たす覚悟はしておりました」

「……………どういうことだ?」



そう尋ねたゾーイの低い声に、アデラはふわりと笑ったようだ。

イブと同年代であれば、彼女も古い竜なのだろう。

どこか悲しげな眼差しは、飲み込んでいた秘密を晒したことで、少しだけ晴れやかさも滲ませる。



「可愛い孫の今際の際の言葉で、私は自分一人で背負っていた筈の秘密が、息子や孫達にも影を落としていることを知った。…………情けないことね。そしてその全てを、海竜の予言者に託し、アダンの恐ろしい陰謀を阻止するのに相応しい者を、予言の魔術で探してもらったのです」

「…………………だったら、なぜ俺にそれを言わない。もっと早く、他の一族の者達に助けを請えば、こんなことにはならなかった筈だ」

「その通りですね。………けれど、アダンにより宣言され動き出してしまった海竜の戦は、もはや魔術の理の道筋から動かせない。全ての罪が公になれば、調停者たちは海竜の戦を中止し、アダンの断罪に入るでしょう。そうなれば、アダンが隠してしまったのかもしれない海竜の至宝の行方は、永劫に分らぬまま。…………遅かれ早かれ、海竜は滅びてしまう」

「知ったことじゃないよね。そんなのは君達の膿で、君達の罪だ」



にべもなくそう切り捨て、ノアは肩を竦めてみせる。

アデラはそんな塩の王に、深々と頭を下げた。



「塩の王よ、私はその罪の形を理解した上で、私自身のつまらぬ矜持や欲望の為に、あなたの庇護を受ける者を巻き込んでしまった。勿論、その罪には相応しい対価を支払いましょう」

「アデラ……………」



諦観の滲む謝罪に女王の名前を呼んだのは海の精霊王で、ネアはふと、この二人は仲良しなのかもしれないと考えた。

どこか姉妹のような視線を交わし、海竜の女王は、そんな海の精霊王に微笑んで首を振る。



「………おっと、そろそろ基盤が作り直せたかな。ネア、シルが来るよ」

「まぁ、これでディノを安心させてあげられますね!」

「ウィリアムも、シルが来たら擬態を解いて大丈夫だからね」

「ああ、助かる」




ノアの言葉に、アダンが短く息を飲むのが分った。



夜海の竜が蹴散らしてしまった騎士達の方を素早く見て、落ち着きなく視線を彷徨わせる。

けれども、勿論逃げ出せる隙などある筈もなく、すぐにがくりと肩を落とした。

そんな暦王を冷やかに睨みつけている女王と、どこか悲しげに頷いたセレスティーア。

万象が訪れると知って、怯えたように身を寄せ合うロキウス達。

入口の扉の近くに立っていたリドワーンは、恭しく膝を折ってその瞬間を待つようだ。




ふわりと、青い闇が揺れた。



まるで色彩の支配を塗り替えるように深い青色は残酷に拒絶され、削ぎ落とされていって、炎が燃え上がるような鮮やかで厳格なその白さが浮かび上がった。

それは、ふわりと魔術の風に翻る服裾や、光を孕むような鮮やかな真珠色の長い髪になり、その眼差しに触れただけで命を落としそうな程、冷やかな断絶を纏った美しい水紺色の瞳になる。



壁際に居た騎士達の何人かが、どうっと音を立てて床に倒れた。


ノアが出現した時にもう大きな負荷がかかっていたところに、万象に出会ってしまったのだ。

倒れたまま砂のようになってしまう者の姿も見えて、ネアは先代の白夜の城で見た凄惨な光景を思い出した。




「ネア」



こちらを見た魔物が、ほっとしたように水紺色の瞳を柔らかくする。

すぐにウィリアムがネアを手渡してくれ、ネアは、何だかとても久し振りに感じる大事な魔物を抱き締めた。


ディノが一歩踏み出したその途端、ピキピキと音を立てて青い鉱石が芽吹き葉を茂らせると、美しい花を咲かせて朽ちて砂になる。

それを歩く度に繰り返し、その美しさにネアは見惚れた。

真珠色の長い髪は、海の底の礼拝堂の深い青に、光の尾を引くようだ。



「ディノ、やっとディノのところに戻って来れました。怖い思いをさせてしまってご免なさい。でも、この通り無事ですから安心して下さいね」

「…………………君を影の国で襲った者は、ここにはもういないのだね?」

「ええ。私を銃撃した女性の方は、ゾーイさんがやっつけてくれました!それに、その時に一緒に襲ってきたナトさんという竜さんは、私の水鉄砲で一撃です。爪や尻尾をお土産に持って帰って来たので、これを売り払って、美味しいものでも食べに行きましょうね」

「…………………ネア」



しっかりとネアを抱き締め持ち上げた魔物に、ネアは手を伸ばしてその頭を丁寧に撫でてやった。

瞳に浮かんだのは安堵と煌めくような喜びで、どれだけお留守番が怖かったのだろうと不憫になってしまったネアは、ごすりと小さく頭突きしてやる。



「……………頭突き」

「ええ。影の国に放り込まれた私と、カードでお喋りしてくれて、頑張ってお留守番していてくれて、そして、海竜さんを百匹に減らすのを少しだけ待ってくれて、有難うございます」

「ネア、…………君がそう望んでも、許してあげられない者もいる。それでもいいかい?」



ディノは、酷く不安そうにそう尋ねた。

それでいて、その眼差しには人外者らしい酷薄さが滲むのだから困った魔物ではないか。

ネアはそんな魔物の姿にくすりと笑い、力強く頷いてやった。

そうすると、この魔物はほっとしたように微笑むのだ。



「悪い奴はぺしゃんこです!でも、ディノに会えるようにしてくれようと、一緒に牢屋から逃げた方達もいますので、その方達を巻き込まないであげて下さいね」

「あちらにいる竜だろうか。傷薬を使ったのだね?」

「まぁ…………!!」



ロキウスの方を見たネアは、息を飲んだ。


服や体に零れた傷薬が反応したものか、ロキウスの周囲には鉱石の花が咲き乱れている。

立ち上がったロキウスは呆然としており、彼を囲んでいた仲間達も目を丸くしていた。

怖々と、ロキウスが自分の服にも咲いてしまった花に触れると、その花は淡く光り、砂になってざあっと崩れ落ちる。



「傷薬に繋がった魔術が、私へと彼を繋げたようだ。体や命があちこち痛んでいたけれど、傷薬の効果を介して元通りになったようだね」

「わーお、シルは凄いなぁ。僕は、動きが悪そうだから後で丁寧に治してネアに褒めて貰おうと思ってたけど、ここに来ただけで治しちゃうんだ」

「でも、ノアが繋いで守ってくれたのでしょう?…………あの方は、この王宮を出るよりディノに来て貰えるような場所に移動した方がいいのではと、私が提案をしてしまったので、この礼拝堂を通る羽目になったのです。ですから、………」

「ネア、竜は飼えないよ?君にはもう、アルテアがいるだろう?」

「なぬ。なぜに突然その話になったのだ」

「………………おい、何の話だ」



嫌そうな声が聞こえ、ネアはぱっと振り返った。


するとそこには、アルテアとシェダーが立っているではないか。

そちらも、いつの間にかこちらに駆け付けてくれたらしく、ネアは引き離されてしまった二人が無事で笑顔になった。



「アルテアさん、シェダーさん!良かったです、ご無事だったのですね…………」


ディノの腕の中で安堵にそう弾めば、アルテアは呆れたような顔をし、シェダーはほっとしたように微笑んだ。


ふわりと魔術の風が回り、鮮やかな深紅の裏地の純白のケープが視界の端に翻る。

ここでウィリアムも擬態を解いたことで礼拝堂のお客は驚きの白さになってしまい、あんまりな隠し玉に、ロキウス達に寄り添っていた騎士の一人が、泡を吹いてばたんと倒れてしまった。



「ネア、海竜を飼いたいのかい?」

「む。まだ忘れていませんでしたね…………」

「ご主人様……………」

「海竜さんは飼おうとは思わないので、安心して下さいね。お庭で飼うには、ちょっと海水要素が問題になりそうですし、新しい王様を選んだりと忙しくなりそうですからね…………」

「それなら良かったよ。君が残したいものを教えておくれ」

「……………まさか、飼う危険がある場合は、まとめて滅ぼしてしまうつもりだったのでは…………」

「さて、どうだろう」



暦王はひとまず放っておいて、まずはご主人様の説得に入った魔物が向き直ると、イブの姿をした海竜はまた数歩よろめいた。



「君は、私の婚約者を、牢に入れたのだね」



そんな静かな問いかけの持つ力にまた打ちのめされ、アダンはがくりと膝を突いた。

体を支えようとした片手がもろもろと崩れ、その肌の一部が砂になる。

イブの体を纏ったその裏側から、イブではない誰かの恐怖や絶望が見えた気がした。



(あれ、まだ話していない筈なのに………)



ネアはそこで、牢屋に入れられたと話したのはウィリアムだけなのにと少し不思議に思ったが、あれだけ心配していたのだ。

いつだったか後頭部に仕込まれた髪の毛などこかから、ディノはご主人様を見守っていてくれたのかもしれない。




「シルハーン、後は俺が片付けておきましょう」

「ありゃ、僕がやろうとしてるんだけど?」

「魂だけでもしぶとく同族の体を奪った者なんだろう?周到に均しておいた方がいい」

「でもほら、僕だったら祝福を取り上げるだけでも、海の生き物は簡単に壊せるよ」

「であれば、他の海竜達からその祝福を取り上げればいいだろう。これは、俺向きの仕事だ」



俄かに内輪揉めが始まり、シェダーが片手を額に当てて溜め息を吐く姿が見えた。


海竜の女王は、床に崩れ落ちた伴侶を見つめているが、その眼差しには悲しみや焦りはない。

泰然としているその姿ではなく、恐怖に顔を引き攣らせ、怯えたようにあちこちを見ている姿ともなると、どれだけその入れ物がイブの体であっても、まるで違う人物という感じがするからだろうか。



ノアとウィリアムがそちらへと離れたからか、アルテアとシェダーがこちらに来てくれた。


シェダーは、心配そうにネアの姿を確認してから、ほっとしたように淡く微笑む。

対するアルテアは、なぜかネアのおでこをべしりと叩いた。



「むぐる……………」

「どこも損なってないだろうな?投獄に関わったのは、あの王だけか?」

「むむ。海老大好きな使い魔さんは、なぜに取り調べ風なのでしょう」

「海老はやめろ……………」

「ネア、守りきれなくてすまなかった」

「シェダーさんには、たくさん守って貰いました!ディノ、シェダーさんは、足紐ではない素敵な繋ぎ方で守ってくれるんですよ」

「浮気……………?」

「あらあら、浮気ではなくて、足紐撤廃運動の推進なのです。そして、あちらにいる素敵な海の精霊王さんに、特別にご挨拶してもいいですか?」

「ネアが虐待する……………」

「解せぬ。またしてもアルテアさんで気を惹き、その隙に少しばかり撫でるだけですよ?」

「虐待………………」

「ぐぬぬ……………」




海竜達の中に深く根を下ろした王の入れ替わりの問題は、早急に解決に向かっているようだ。



このようなことでは慎重なノアが、逃亡など許さないとアダンを不思議な白い紐のようなもので拘束してくれる。

その紐が体に巻き付いた途端、アダンが呻き声を上げたので、何か特別なものであるらしい。


ネア達とは別れ、まずはその処遇について早急に話し合われるようだ。

そこには、ノアとウィリアムの前でも少しは動ける高位の海竜達、ゾーイ、そしてセレスティーアやリドワーンも加わるらしい。




(これで、海竜の戦はおしまいかな…………)



持ち上げてくれているディノに、ネアはぼふんと寄り添う。


いつもの乗り物な安定感に、これでやっとこの魔物が寂しがらないという安心感。

すっかり幸せな気持ちになったネアは、すっかり夜は美味しい海鮮ご飯の気分で、どこでお昼ご飯な小海老サンドを頬張ろうかなとばかり考えていた。


暦王がどのような罪を犯し、どのような陰謀を描いていたのか、女王の言葉から明かされた、ロキウスの体を狙っていたという案件も含め、まだまだ解明しなければいけないことは多いだろう。


だが、これからは事後処理なのだとどこかで思ってしまっていた。

それはもう、ネアが踏み込まなくてもいい、海竜達の問題なのだと。




なので勿論、あの人魚の笛の活躍の場が訪れるとは、まったく考えていなかったのである。

とは言えそれは、イブの魂を持つ人物を浮き彫りにした、良い機会だったのかも知れない。



その日、海の生き物達は、とても恐ろしい人間の荒れ狂う様を目撃する羽目になった。















今日のお話も、構成上だいぶ長くなってしまいました。

お付き合いいただきまして有難うございます。(まだ本編続きます!)

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