297. その血に触れるのを厭いません(本編)
先程後にしたばかりの牢獄に駆け付けたクフェルフは、ロキウスから離宮に押しかけてきているらしい魔物達の話を聞いて、真っ青になった。
最初の塩の王という言葉でそうなってしまったのだから、やはり海の生き物達はノアを恐れているのだろうか。
ネアからすると、それはとても身勝手なことに思えて、何だか不愉快に感じる。
けれども海の生き物達がみんなそう信じてしまっているのなら、今更、この男性にだけ文句を言っても仕方のないことなのだった。
そうして、ノアの素敵なところを知らないと荒ぶるのもまた、ネアという人間の身勝手さなのだ。
「すぐにここを出れないだろうか、大変なことになる」
「…………ご存知のように、この牢獄の鍵は、暦王だけにしか開けられないのです。私が開けることが出来れば、とうにあなたをお救いしておりますよ」
その言葉に、えっとなったのはネアとゾーイだ。
まさかそんな造りだと知らずにあっさり入ってしまったが、なかなかに堅牢な牢獄であったらしい。
(そっか、こうして王様だったような竜さんを閉じ込める程の牢獄なのだから、それくらいの頑強さは必要なのだわ………)
ネアはうむと頷き、腕輪の金庫からウィリアムの万能ナイフを取り出しておく。
これで鉄格子を切れないだろうかと、刃をあてがってみた。
言う程丈夫ではないのか、さくりと刃が沈んだのでよしよしと笑みを深めた。
牢の外では、海竜達が切迫した声音で話をしている。
そちらのやり取りにはゾーイが参加してくれているので、ネアは安心して鉄格子の切断に勤しんだ。
「……………であれば、誰かを伝令に立ててくれ。いくらあの方とは言え、相手が塩の王や終焉の魔物であれば、ここに通さざるを得ないだろう」
「それが、騒ぎが起きているのが離宮ですから、王は一族を守る為にと、何者もこの王宮に入れないように海封鎖の儀を行おうとしているようです」
「…………海封鎖だって?」
「海封鎖だと?!ふざけるな!!海だけの災厄じゃ済まなくなるぞ!」
ネアが海封鎖とは何だろうと首を傾げていると、険しい顔をしたゾーイが、大きな海水の繭を作ってしまい、一定期間この王宮を排他領域にしてしまうことだと教えてくれた。
そうなってしまうと、出ることはおろか、入ることも叶わなくなる。
(そんなことになったら、ますますディノ達が荒ぶりそうな…………)
ただでさえもう、ちょっと過激派な魔物になりかけているのだ。
この状況から重ねて道を閉ざされたりしたら、火に油という流れではないか。
ネアは慌てて手元に力を篭めた。
「一刻も早くここを出ましょう!!」
「だが、この牢獄は………………え………?」
がこんと、重たい鉄格子の棒が、床に落ちる音がする。
がらんと床に転がっていった鉄格子の棒を凝視し、そっと顔を上げたクフェルフはネアが手に持っている小さなナイフをまじまじと見つめた。
少しだけ震えているような気がするが、壊したらまずい高価なものだったのだろうか。
(しかし、お値段など気にしていられない現状!!)
「ウィリアムさんのナイフが、ここでも活躍しましたね!ロールケーキを切るように簡単に切れます。………そして、自損事故でロールケーキが食べたくなってしまいました………………じゅるり」
「ああ、………………そうだよな。終焉の魔物のナイフか…………。そうだな、それがありゃ、このくらいのもんは切れるだろうな…………」
そう呟いたゾーイがなぜか項垂れている間に、ネアはさくさくと鉄格子を切り落とし、ネアとゾーイが出られるようにした。
切りながら、ついつい今迄の常識に囚われて鉄格子だと思ってしまったが、断面を見てみると鉱石のようにも見える素材だと、新しい発見に目を丸くする。
やがて、素敵な出口が出来たので、一時間も過ごさなかった独房をぴょいっと飛びだすと、すぐに隣の独房に向かう。
「ささ、ロキウスさんの方もやってしまいますね!」
「……………そんな風に出られるものなのか…………」
そこに居たのは、驚いたようにこちらを見た、優しい水色の目に白みがかった水色の髪の青年だった。
細い金色の筋が入る透明感のある水色の髪は、鎖骨ぐらいのところで綺麗に切り揃えられている。
思っていたよりも随分年若いので驚いたが、ネアがまじまじと見てしまうと、ロキウスは苦笑した。
「はは、若くて驚いたのかな。実は最近若返ってしまったばかりでね……」
「なぬ。若返ってしまうのですか………?」
「うん。大切なものを失くしてしまってね」
実は、持っていた海竜の宝玉を失ってしまい、このような姿になったのだと教えてくれるロキウスは、大きな織り柄のある布を重ね合わせて腰帯を巻いた長衣に、同じような形のガウンのような単色の上着を羽織っている。
それはまるで、自室で寛いでいるところを連れ出されてしまったような無防備さで、ゾーイと対面すると気恥ずかしそうに上着を合せているので、本当にそうなのかもしれない。
「あの夜は、他の氏族達との酒宴があってね。情けなくも僕は、そこで居眠りをしてしまった。酒は強かった筈なのだけれどよほど回ったのだろう。目を覚ました時にはもう、どこにもなかったんだ。…………あの宴席は海の上に設けられていたから、海に落としたのだろうとあちこちを探したが、見付からなかったよ…………」
「それは本当に落としたのか?……………あまりあれもこれもと言いたくはないが、今回のことが起こった以上は、罠だった可能性もあるぞ」
「……………そうだね、その可能性もあるだろう。僕はその前の月から、継承の正式な儀式が出来ていないことを、何度も祖父に相談していたから」
「そう言えば以前、海で遊んでいたら海竜さんの宝玉を拾ったことがあります。もう、他の方に譲ってしまいましたし、拾ったものはこちらのものなので交換条件次第ですが、ロキウスさんのものかどうか、確かめて差し上げましょうか?」
昨年の海遊びで拾ったものを思い出し、ネアはそのことを話してみた。
今回の一件にあたり、その海竜の宝玉をどこかで使う案も出ていたが、海竜達の状態が正常化するまではかえって危ないかもしれないと保留になっていた筈だ。
宝玉を失くした竜は、このロキウスのように力を失くしたり、その落胆のあまり死んでしまうことも多い。
かなりの切り札になる代わり、あまりにも特別なもの過ぎて、扱いどころが難しい品物でもあった。
「……………海竜の宝玉を?!」
「ええ。拾ったのはヴェルリアの近くの海なのですが、その宴席のお近くだったでしょうか?」
「……………いや、そうなると最も遠い海域と言ってもいい。恐らく僕のものではないだろうが、誰かのものであれば、相応の謝礼と引き換えに取り戻せると有難い」
「では、お持ちの方に伝えておきますね。ロキウスさんが交渉役で良いですか?」
ネアがそう言えば、なぜかロキウスは困ったような顔をした。
軽く両手を広げてみせ、自分の姿をネアに見せるようにする。
「………………僕は、この通り幽閉の身だ。恐らく、祖父の問題が解決しても、一族の決定権を持つのは難しいだろう。竜というものはね、一度弱さを示した者を王には戴かないのだ。………そうなると、弟のリゲか、シャンファル、そのあたりの竜が王になれれば良いと僕は思っている。決して独善的ではなく、柔軟で広い視野を持つ立派な弟達だからね。ただ、海竜の戦を行った以上、それはやはりその結果が決めるものだ。新代の王が誰になるかによっては、交渉出来る者をあらためて探すようにしよう」
ロキウスがそう言えば、クフェルフは少しだけ残念そうな顔をした。
彼こそが王であって欲しかったのだろうが、それでもと言わないのはやはり竜種なりの決まりがあるからなのだろう。
「暦王の息のかかった者達は、ナトかハザラを選んでいた筈です。弟君達のどちらかが、この二人を選んでいると良いのですが」
「むむぅ。本来であれば、我々の枠では夜海の竜の王子様が出る筈だったようです。その方は話を聞く限りは常識的な方のようですので、こんな陰謀には絡んでいない枠として、そのお二人の内のどちらかが選んでくれているといいですね」
ネアが話した言葉に、なぜか海竜達が過剰に反応した。
「……………夜海の竜…………、もしや、姿を隠されていた、リドワーン殿でしょうか?」
「お名前までは存じ上げていないのですが、今は急な選抜者変更の抗議の為に入口の扉のあった離宮を訪れ、そのまま、そこにいらっしゃるようですよ」
海竜達であっても、海竜の戦の正式な参加者を知るのは旅立ちの時くらいなのだと知り、ネアは驚いた。
それまでは海竜の戦の儀式に関わる最上位者しか関与せず、殆どの選抜や承認は事務的に魔術で行う。
参加者側の出場の意欲は反映されるが、能力の足らない者は選ばないようになっており、また、海竜の側の不正を防ぐ為に、選抜に携わる者を極限まで減らすという。
今回の暦王の介入は、そのような意味でもルール違反なのだ。
「…………あの方であれば、ロキウス様のお味方になって下さるかもしれません………」
「と言うよりも今は、そちらにいる魔物達ときちんと話し合うように、お婆様に助言してくれるかもしれないことが嬉しい。………リドワーン殿であれば、お婆様も耳を傾け真摯に向き合って下さるだろう」
「なぬ。その方は、ちょっと発言力のある竜さんなのですか?」
「夜海の竜は、僕達の一族からは離れた海竜の一族だけれど、そうして独立した一族を形成するだけの力を持っているからね。海竜の系譜の奇跡と謳われるリドワーン殿であれば、もしかしたら祖父よりも強いかもしれない」
「まぁ!そんな方なのですね。急に頼もしくなりました!」
がこんと、鉄格子が落ちた。
「これで、出られるのではないでしょうか?」
ネアの言葉に頷くと、水色の髪の青年は遮る物のなくなった窓を跨いだ。
外に出たロキウスは、まずは一度部屋の中を振り返り、万感の思いを噛み締めるようにして深く息を吸う。
ネア達のように、ほんの少し入ってみたというだけではない。
彼は、様々な絶望や諦めと向き合い、この独房の中にずっと一人でいたのだ。
その日々は、どれだけの失意の内にあり、どれだけの寂しさだっただろう。
ネアは少しだけ胸が苦しくなったので、金庫の中の小海老サンドをあげてもいいかなと考えたが、もし、海のもの同士で共食いのようになったら失礼だと、やめておいた。
「ロキウス様…………」
「クフェルフ?」
「ここで、私の忠誠を受け取っては貰えませんでしょうか?暦王様より離反するのであれば、特務隊の者達は私の敵となる。我らの氏族の長もいるのですから、この先の道は険しいでしょう。途中で果てるのであれば、私はこの命に背かぬようあなたの騎士でありたいのです」
「…………だが、僕はもう……」
「それでも、私はあなたでなければならないのです。多くの実を取る為に、望まぬ行為に手を染めました。……でも、あなたがここに居るのであれば、私はせめて一つは真実を手にすることが出来る」
その言葉にはどこか諦観に満ちた切実さがあり、ロキウスは綺麗な瞳をはっと瞠った。
(ああ、この人はいざとなったら自分の命をかけて、ロキウスさんを守りたいのだわ)
それは願いだった。
願いを叶えられずに死ぬ可能性が高いからこそ、この場で性急に願われた事であった。
ありありとそんな覚悟がこんなにも伝わってしまうのは、投獄されてからの日々を、この騎士に寄り添われ耐えたロキウスにとって、どれだけ苦しく悲しいことだろう。
けれど、ロキウスはすぐに眼差しを鋭くすると、クフェルフに頷いてみせる。
簡素な誓約を交わす為にがっしりとした体つきの竜の騎士に並ぶと華奢に見えてしまうが、そこには、確かにかつては海竜の王だったひとの威厳のようなものが窺えた。
(この人は、きっといい王様だったような気がする…………。これからだって、きっと素敵な王様になるのに…………)
ネアはそう思うのだが、竜達の見方はまた違うのだろうか。
ネアは身勝手な人間らしい執着で、自分が出会ったこの海竜をまた王様に戻してあげたくなってしまう。
(でもそれは、通りすがりの人間の我が儘でしかないんだ…………)
とても残念だが、後は彼が名前を出した弟の誰かが王に選ばれていることを願うのみだ。
その為にも、まずはどうにかしてここから出なければいけない。
ネアが自分の身を守ることが、即ち海竜の延命に繋がるのだから頑張ろう。
「この王宮を閉ざされる前に、何としても彼女を離宮に届けるぞ」
「その前に、あの海結晶を持って行かねば………」
「そうか、可動域が低いと海酔いが心配だからね」
そこで、ネアがすっかり忘れて牢獄に置いてゆこうとしていた青い宝石の入ったバケツが持ってこられた。
これは海結晶の一種で、海の深くに陸の生き物を押し込めておくと、可動域が低い人間や階位の低い生き物は海の魔術に酔って衰弱してしまうらしい。
また、もし事故などで海水が流入した時も、これを持っていれば呼吸が出来るそうだ。
(あの、狼牧場で出会った海竜さんに貰ったようなものかしら………)
あの石は透明だったが、こちらは色が強く少し不透明な部分もある。
であれば、良く似ているけれど違う要素もあるのかもしれない。
しかし、このバケツを抱えて移動するのは可能だろうかと眉を寄せていたところ、ゾーイが幾つかを掴み取ると、ネアに渡してくれた。
「何も、全部を持っていかなくても大丈夫だろ。ポケットに幾つか入れておけ」
「はい。では、ポケットに押し込んでおきますね。落してしまうと怖いので、二個ほど金庫にも隠しておきます。……………それと、こちらが離宮に向かうよりも、この王宮の中で部外者が入れるような場所があれば、私の魔物に迎えに来て貰おうと思うのです。その方が、安全を得られるまでの時間が短くなりますし、ロキウスさん達の安全も保障されそうです。この王宮には、転移が可能だったり、部外者が入れるようなお部屋や場所はあったりしますでしょうか?」
「転移の間……………」
その言葉に考え込むようにしてロキウスが頷き、暦王達の目に触れ難い穴場として、外からの業者達の出入り用で使う転移門があると教えてくれる。
クフェルフもそんな場所があるのは知らなかったと驚いていたが、ロキウスは小さな頃から王宮内であちこちを冒険したそうで、他の高位の竜達が知らないような場所を幾つも知っているのだそうだ。
理知的な目をした青年に見えるが、案外、子供の頃はやんちゃな竜だったのかもしれない。
「クフェルフ、東の海窓の方に向かいたい。………僕の騎士として、手伝ってくれるか?」
「勿論です、ロキウス様」
「護衛は任せて下さい!竜さんを斃すのは得意です!!」
どこか悲壮な眼差しで頷き合うので、ネアが意気込んで助力を申し出れば、ロキウスとクフェルフが困惑したようにこちらを見た。
可動域六の人間なのに出しゃばってしまったような空気だが、こちらにおわすのは狩りの女王である。
すぐにゾーイが、ネアの戦歴を讃えてくれたので、ネアはふんすと胸を張った。
「ナトを斃したのはこいつだ。その前日には、波喰いの魔物もやってる」
「うむ。あやつは、とても儚い竜さんでした!」
「………………ナト様を?!」
「ナトが、は、儚い……………?」
「そういうことだから、あんたが特務隊の報復を恐れる理由がナトなら、もうどうにでもなるんじゃないか?」
ゾーイの言葉に反射的に頷いたクフェルフは、一同をこの牢獄のある区画の裏口から壁の内側にあるという使用人の使う細い隠し通路に案内しつつ、暫くはどこか呆然としているように見えた。
パタパタと小走りにそこを抜けながら、その途中でぽつりと呟く。
「…………ナト様は、海竜の王宮騎士達の王であり、…………我々氏族の枷や毒のようなものでした。私や、若い騎士達にとって、今の仕事は決して好ましいものではなかったが、あの方が居る限りは、歯を食い縛ってでも隊に留まっている方がナト様から多くのものを守れた。………我々は、やっと自由になれたのか……………」
「クフェルフ………………」
「ナトさんはもう戻って来ないので安心して下さいね。尻尾…ぎゅむ!」
「…………言うなよ。残酷だぞ」
「む?」
ネアは、不安であれば確かに亡くなったのだという証拠になる尻尾があるので、見るかどうか尋ねようとしただけなのだが、後ろに居たゾーイに片手で口を塞がれてしまった。
同族の尻尾となれば確かに残虐だが、確証のない人の話などより、物証を見てしまった方がその呪縛から解き放たれやすいのではないだろうか。
案外、海竜は繊細なのかもしれない。
ネア達が走るのは、天井は高いものの狭く暗い、雇用人達が仕事の為に使う通路だ。
掃除の為の移動や、洗濯物の回収に使うもので、汚れ物などを持ち運ぶので、高貴な者達の目を汚さぬよう、このような専用通路があらかじめ設けられている。
王や貴族達が行き交う表の廊下を、彼等は決して歩いてはならないのだとか。
そのような堅苦しい決まり事が苦手で、よくこの通路で冒険したと笑ったロキウスに、ネアはますます彼が好きになった。
使用人達にも友人がたくさんいたらしい。
過去形なのは、ロキウスが捕えられた際に、彼が親しくしていた使用人や従者達は、皆、殺されてしまったからなのだとか。
四人は、真っ直ぐで暗い通路をどこまでも走った。
距離で言えば、リーエンベルクの端から端くらいまではあるのだが、聞けば、やはりこの宮殿は竜の姿でも内部を移動出来るようにと、かなりの規模なのだそうだ。
じりりっと、隠し通路に灯された魔術の灯りが揺れる。
消えて真っ暗になってしまったと思うと、ネアはジアリノームに出会ったのは昨晩だったのだと、少しだけ怖くなった。
せいぜい二人が並んで歩けるくらいの広さの隠し通路は、窓もないので薄暗く息苦しい。
おまけに男達は足が速く、ぜいぜいしながら一緒に走ったネアは、絶対に今夜は海産物を豪勢に食べ尽くしてやると、海の生き物達への暗い怨嗟の思いを噛み締めた。
要するに、お腹が減ってきたのである。
(ディノ、………ディノ達は大丈夫かしら……………)
こんな風に息を弾ませて先を急げば、徐々に焦りにも似た思いが溢れてくる。
外部から入れるような部屋に移動してそこで呼ぶから、海竜を滅ぼしてはいけないと言ってあるが、ちゃんと待っていてくれるだろうか。
実際には十五分くらいなのだろうが、体感では遥かに長く感じられたその移動を終え、ネア達が出たのは、がらんとした青灰色の部屋であった。
灰色の石材には、縞目に青い鉱石が混ざり込み、この部屋に使われている建材全てとなると、かなり高価なものなのだろう。
くわんと、音が響きそうなその広大な空間には、海の青い光を床に降らせる大きな天窓があり、その光の下には小さな水晶の祭壇があった。
(……………わ、綺麗…………)
「ここは、礼拝の間だ。海の豊穣と安寧を願い、昔から多くの海竜の王族達がここで祈りを捧げてきた」
静かな声でそう言ったロキウスが、青い光に手を翳した。
白く滑らかな肌に天井から真っ直ぐに差し込んだ青い光が落ち、ロキウスの人外者らしい容貌と合わせ、まるでお伽噺の一場面のようなえもいわれぬ美しさに、ネアは胸がいっぱいになる。
ネアはそのまま劇場のような大きな空間をぽかんと見上げ、海の底にこれだけの空間を持つ王宮があるということに、そんな場合ではないのだが感動してしまった。
これはどんな不思議で、どんな技術なのだろう。
勿論立ち止まらずに移動しながらではあるが、ネアは何度もこの美しい礼拝堂を見回す。
(何て美しいのだろう。………ロキウスさんもこの青い光の中だと、儚げだけれど荘厳で、とっても綺麗だわ……)
普段は使われていないというこの礼拝堂を抜け、ネア達はこれから階段を下って更に海の底に向かうそうだ。
こんな世界でなければ、放り込まれたら一瞬で死んでしまう深い海の底。
そんな深淵に向かう為に、ネアはポケットの中の青い石を握り絞める。
海には恐ろしく悲しいこともたくさんあったが、こうして青く豊かな光を目に焼き付けると、輝くような美しいブルーが、胸の底の穏やかさを取り戻してくれた。
だからだろうか。
この礼拝堂を抜けて、また使用人達が使う階段の方へ素早く駆け込むのだと頷き合い、素早く礼拝堂の扉を開けようとしたクフェルフが凍りつく。
すぐに後退し、ロキウスを守るようにして、扉の外側の者達との間に立ち塞がったその瞬間もまだ、ネアはこんな場所で自分達が急襲されたことが信じられずにいた。
クフェルフがすらりと剣を抜き、その白銀の輝きが目を射る。
「…………っ?!」
ひゅっと、風を切る音がした。
どこからか、流星のように飛来したのは真っ青な槍。
ネアの指ほどの細さしかないその槍が、まるで石壁でも薙ぎ倒すような威力で、誰かの肩を刺し貫く。
吹き飛ばされ、その青い槍でひび割れ窪んだ床に縫い留められたのは、先程まで穏やかな声で話してくれていた、海竜の元王だったひとだ。
呆然と見守るその視線の先で、投げ出された白い手が、床に打ち付けられ弾んで、ぱたりと落ちる。
「ロキウス様っ!」
悲鳴のようなクフェルフの叫びに、ネアは胸が潰れそうになった。
喉の奥がおかしな音を立て、血の気が引いて視界が暗くなる。
ぞっとする程に赤い血が大きく床に広がり、自分が盾になって庇っていた筈のロキウスに駆け寄ったクフェルフが、流れる血の多さにがくりと膝から崩れ落ちる。
「………っ、ロキウスさん!」
「馬鹿っ!!離れるな!!」
すぐに手を打たなければ間に合わなくなる怪我だと、動転したネアも駆け寄ってしまい、ゾーイとの間に僅かな隙間が出来た。
それは、ほんの一メートル程の距離だったものの、ゾーイの声にはっとしたネアが戻ろうとしたその時には、またどこからか射られた弓矢が何十本も床石を割って突き刺さり、柵のようになって立ち塞がる。
あっという間に頼もしい仲間から分断されてしまったネアは、ぐっと奥歯を噛み締めると、そのままロキウスの下へ走った。
じゅわっと、肌の焼けるような酷い匂いがする。
苦痛の呻き声を上げながら、ロキウスを貫いた槍を両手で掴み、クフェルフが必死に引き抜いているのだ。
ロキウスの傷は、どこか大きな血管を傷付けたものか、脈に合わせて噴き出す血の勢いが止まらない。
ロキウスにはもう意識がないようだった。
ぐったりと目を閉じ、唇が紫色になってしまっている。
ネアはすかさずポケットからディノ特製の傷薬を取り出すと、震える手でそれをロキウスの傷口にじゃばりと注いだ。
(………で、でも、血を失い過ぎているから、体の内側が…………!)
そのことに気付き、小瓶の底に残った液体を、血で手が汚れるのも構わずロキウスの顔をむんずと掴むと、その口に無理矢理流し込んだ。
涙を堪え、胸が潰れるような思いでその回復を祈る。
悲しいことは幾らだってあるだろうけれど、先程までふわりと微笑んでいた人が、こうして希望や未来を思ったその直後に死んでしまうなんて耐えられない。
けれど、そんな風に必死になっているネアにかけられたのは、氷塊を含んだような無機質な声だった。
「傷薬を与えたところで無駄だ。人の子よ。その槍は、代々我等海の咎人を屠る為に使われてきた。もはや助かるまい」
背後から聞こえてきたのは、暦王の声だろうか。
ネアは血溜まりの出来た床に座り込んだまま、汚れていない方の手で、そっと知り合ったばかりの海竜の髪を撫でる。
堂々としていかにも王族らしく見えたのに、こうして目を閉じて横たわっていると、まるで少年のようにあどけなくも見えた。
低く、啜り泣く声が聞こえる。
床に蹲ったクフェルフが、ロキウスの力をなくした手を握り締めて泣いている。
目を開かない主人の姿に、彼はもう立ち上がる気力もないのかもしれない。
よく見ればクフェルフの手も酷く焼け爛れ抉れていて、槍を強く掴んだ片方の手は骨が見えている部分さえあった。
あらためて、ネアはロキウスを襲った槍の異様さを思い知らされ胸が悪くなる。
ゆっくりと振り向けば、そこにはゾーイが立ち尽くしていた。
あの牢獄での会話を聞く限り、ロキウスとは友人だったのだろう。
ゾーイは、血だらけで倒れているロキウスを虚ろな眼差しで見つめ、強く強く拳を握っている。
ネアはもう一度青い青い礼拝堂を眺め、小さく息を吐いた。
「なぜ、あなたの罪に気付いてしまっただけのこの優しい方を、あなたは咎人だと言うのでしょう」
床に座り込んだままネアがそう言えば、ちっぽけな人間に真っ直ぐに見つめられ、暦王は微かに眉を顰める。
「…………私の、罪だと?」
「ええ。あなたがイブさんの体を奪い、王様になってしまったことです」
ざわりと、竜達が揺れた。
暦王はこちらを真っ直ぐに見据えはしたが、微かに目を細めただけで特に動揺する様子もない。
「………………不可解なことを言う。私が、……………私の体を奪った?」
「ええ。本当のイブさんは、穏やかで優しい方で、釣りが好きで陸に憧れる素敵な海竜さんでした。あなたは、あなたが体を奪ってしまった後、イブさんがどんな風に暮らしたのかをご存知ですか?」
ざわざわと、漆黒の騎士服の竜達が顔を見合わせどよめく。
けれどもその中で唯一人驚きもしない暦王は、その冷静さが故に、仲間達の中では酷く孤独に思えた。
「知る筈もないし、知ろうとも思わん。そんな戯言で、ロキウスはお前達を利用したのか」
「いいえ。私がロキウスさんにお会いしたのは、今日、この王宮の牢屋でのことです。私はただ、あの穏やかな浜辺で暮らしていた、優しい海竜の王様に出会っただけなのですから」
「…………ほお、イブと名乗る竜に出会ったと?」
「あの方はただ、あなたの犯した罪のせいで、正式な継承の叶わない仲間達を案じただけでした。あなたに復讐をして欲しいとすら言わなかったのです。だからこそ私には、あなたとゆっくりお話が出来れば、その為の手助けをする準備がありました。……………それなのに今の私は、あなたのような酷い人は、相応の報いを受けるべきだと思ってしまうのです……………」
ネアはそう言うと、ふすんと鼻を鳴らした。
猛烈な血臭の中、冷たい海竜の王宮の礼拝堂の床に座り込み、指先についたロキウスの血を握り込む。
するとその血は、どろりとした生温かさから、さらりと乾いた砂のようになってさらさらと崩れ落ちた。
床に零れた赤い砂は、淡く煌めくとそのまま燃え上がって消えてしまう。
「謀の為に整えられた妄言に過ぎん。愚かで強欲な人間よ、我らの海を貶めた罪をせめてその命で贖うがいい」
騎士達の動揺を鎮める程の朗々たる声は確かに王のもので、でもそれはイブの持ち物だったのに。
ネアは暦王の声の美しさを口惜しく思いながら、ポケットの中の紙を握り締めた。
倒すことは出来る。
多分それは、簡単なのだろう。
(けれど、滅ぼすばかりの私ではなく、守れる力のある人が、ここに居てくれればいいのに。ディノ、………ノア、…アルテ…)
頼もしい魔物達の名前をお守りのように胸の底で呟いた時、ぞっとするような白い影が、青い礼拝堂に揺らめいた。
「僕の大事な子を、誰かが傷付けたのかい?」
その声のあまりの暗さと、冷ややかさに、ネア達を取り囲んだ海竜の騎士達がよろめいた。
中には昏倒してしまう者や、喉を掻き毟るようにして苦しみもがく者も。
暦王の視線を遮るように立ってくれたその影に、ネアは思わず立ち上がった。
さらさらと赤い砂が零れ落ち、また燃えて消える。
そうして、頼もしい家族の名前を呼んだ。
「ノア!!」