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296. 突然投獄されました(本編)



ふわりと身を包む空気が変わった。


朝の港町の青空と海からの風であったものが、薄暗い地下神殿のような建物に変わり、ネアは目を瞬く。



気配を感じて振り向くと、そこには豪奢な金色の装束を身に纏う背の高く筋骨隆々とした男性がいた。

上手く言えないが、青い髪と瞳と黄金色の最も残念なコラボレーションという感じだろうか。

どの部位も美しいのに、妙に調子外れな感じがする。

黄金の装飾が何やら華美で尊大な感じで、冷やかで悪意を感じる眼差しでネアを一瞥した後、おやっというように、ネアの手にしている小海老サンド、そしてもう片方の手に持っている海竜の尻尾に視線を落とす。



その途端、瞳を割れんばかりに見開いた。



「………………そなた、その尻尾は」

「む。倒した竜さんの尻尾で、私の戦利品兼、大事な売りものです」

「……………三本角の黒い尾、……………まさか」

「あんた等のところの、特務隊の隊長のものだな」



しれっとそう言ったゾーイに、金色の装束の男性はふぅっと後方にのけぞってばたりと倒れた。



「王子?!」

「王子ー!!」



ネアは、そんな男性の護衛であったに違いない他の竜達が大慌てしている混乱の中で、ゾーイの背中に隠れてその特務隊の隊長とやらの尻尾を金庫にしまう。

大事な商品を取り上げられてしまうと困るからだ。



ひとまず、常備している油や水を通さない食品用紙袋に小海老のサンドもしまい、こちらも大事に金庫に隠した。

青い海でも見ながら美味しくいただくならともかく、この状況では美味しく食べれそうにない。



倒れてしまった男性は、護衛達に引き摺られて部屋の端に運ばれていた。

王子と呼ばれていたし、身なり的に高貴な人のようだが、ゾーイがそちらを一顧だにせずに続き間の向こうを見据えているので、あまり気にしなくてもいいくらいの人物なのだろう。



(それと、ここは、…………入口だった離宮とは少し違う場所に見えるけれど、どこなのだろう………)



そう考えたネアが首を傾げていると、ゾーイがそっと顔を寄せて囁いた。



「ここは、俺達が入った扉じゃないな。…………それどころか、暦王の住む海竜の宮殿の可能性が高い。王宮にも影の国へ繋がる扉があるとは知らなかったが、これが隠されている扉だとしたら、あえてそこに呼び戻されたかもしれん。厄介なことになりそうだな。…………この続き間の向こうに、誰かがいる。用心しろよ」

「……………むむぅ。転移で、しゅばっと脱走しますか?」

「いや、この部屋は転移封じの魔術が敷かれている。排他結界も俺の目で見る限り四重にはなっているな。あんたの魔物が呼べるか?」

「…………ディノ!」



ネアは、小さな声で短く大事な魔物の名前を呼んでみたが、その声は届かないようだ。

ゾーイ曰く、一族以外の者の立ち入りを禁じるような魔術が施されているので、そのせいかもしれないと言う。


事前にディノ本人やノアから聞いていたのだが、海の底の各施設は、海水そのものも遮蔽物となり、部外者の侵入を阻む防壁となっている。

海水の厚さだけ、ぶ厚い防壁が張り巡らされているようなものなのだ。



(そんな、ディノに声も届かないなんて…………)



やはり海とは地上とは違う環境下にあり、いっそ影の国のような地上の常識が少し通じない特殊な国であると認識した方が良さそうだとネアは考え、がっかりしながら少しでも助けになるように水鉄砲に手を伸ばす。


きりん箱が使えるようになるまではあと数時間だが、他にもきりん関連の武器開発は進んでいる。

すっかり迎撃態勢になったネアだったが、ゾーイに視線で窘められた。



「…………あの奥の兵の配置は、俺達を捕える気だろうな。誰かがそういう指示を出してあるんだろうが、ここでは抵抗しない方がいい」

「…………全てを討ち滅ぼせるかもしれないのに、いいのですか?」

「言っただろう。ここはあの離宮じゃない。海竜の王宮だとしたら構造上かなり厄介なんだ。下手に動くと、海の隔離魔術で海溝の底に落とされるぞ。既に王子を一人意識不明にしちまったしな」

「…………………ほぎゅ。儚いこの身では、深海の底は恐怖しかありません。………先程倒れてしまった方が王子様なら、ここで捕まってしまっても大丈夫なのでしょうか………………」

「安心しろ。海の中には地上から呼び寄せた者を捕縛してはいけない決まりがある。あんたは解放される可能性が高い。…………俺は無理だろうが、海竜は一枚岩の組織じゃないからな、さすがに即刻処刑などにはならないだろう。と言うか、俺はそもそも別の種族の王だぞ」

「処刑………………」



ネアはその言葉に滲むゾーイの海竜への不信感にぞくりとし、慌ててディノのカードを取り出そうとした。



(よく考えたら、ゾーイさんは海嵐の精霊の王様な訳で、そんな人をこんな扱いにしていること自体、海竜さん達が、常識や冷静さを欠いているという証拠なんだ…………)




ネアが首飾りに指先を入れようとしたその時、続き間の向こうの暗闇が揺れた。



ぎくりとしてそちらを見れば、ざっざっと、足並みを揃えてこちらに歩いてくる兵士達がいる。

明らかに先程までここにいた者達よりは統制が取れており、威圧感もある。

ネアは、ディノにメッセージを送るには間に合わないと判断し、カードを取り出すのはやめておいた。




(兵士達の中心に、誰かがいる……………)




周囲に居た者達が深々と頭を下げ、迎え入れるだけの誰か。



(あ、…………!)



途中でネアは気付いた。

兵士達に囲まれてこちらにやって来るのは、全く違う面差しに別人のようになってはいるが、確かにあのあわいの海辺で見た優しい海竜によく似た誰かだ。



年齢的に崩御が近いからこその代替わりの選定戦争となったのだろうが、見た目はネアの知っているイブよりは年長者に見えるものの、とても若々しく老化の翳りなども見受けられない。


こんなに堂々とした竜が、本当にそろそろ老衰で亡くなるというのだろうか。



濃紺に近い深い青色の神官服めいた長衣には、ストラのような布を首からかけてある。

豪奢な刺繍と宝石が縫い付けられているが、装飾らしいものはそれくらいだった。


けれども、イブが柔らかな南洋の海なら、この男性は厳しい極北の海だ。

同じ白がかった水色の髪でも、それくらいに身に纏う雰囲気が違う。



「これはこれは、暦王殿」



そう笑ったゾーイが、少しだけわざとらしくお辞儀をしてみせる。


本来であれば別の種族なので、決して海竜の王の方が高位という訳ではない。

それでも海の生き物達が彼に敬意を払うのは、古竜と呼ばれる長命の竜だからなのだとか。



優雅にお辞儀をしたゾーイは腹の底の読めない高位の生き物といった表情であったが、その視線を真っ向から受け止めて冷やかな面立ちに微かな嘲笑めいたものを浮かべた暦王は、高慢そのものといった感じであった。


王としては相応しい表情であるのだが、ネアは中身が本物ではないことを知っているので、何だかむしゃくしゃする。

何か支障がないのであれば、きりんのぬいぐるみでも投げつけたい次第だ。



「ゾーイ、海嵐の精霊王よ。そなたが、今回の海竜の代替わりの戦に、妙な呪いをかけているとは思いもよらなかった。そなたのような者を、我らの至宝に触れさせることは出来ぬ。早々に呼び戻したのはそういうことだ」



驚くような言葉が告げられ、ネアは目を瞬いた。



(……………言いがかりだ!………そうか、この人は、代替わりが正常に行われない理由を、誰かのせいにするつもりであれこれと画策していたんだわ)



だからこそ、身内のような竜や、この暦王を知る女性が有利になるようにと先にあの影の国に入らせていた。

息を潜めて後からの者達が潰し合うのを待ち、最後に残ったネア達を襲うまでは、彼等の計画通りだったのかもしれない。



「あのなぁ、何で俺が竜共の争いなんぞに口を出す必要がある?王くらいお前達で勝手に決めろ。寧ろ、再三、俺を巻き込むなと言ってきた筈だが」

「そう言いながらも、そなたがここにいることこそ、その証。口先では何とでも言えよう。手を尽くして海竜の戦に紛れ込んだことこそが、雄弁にそなたの罪を語るものだ。何を企んでいるのか知らないが、そのせいで既に我らの予言や魔術には綻びが生じ始めている。…………異種族の王を捕縛するのは心苦しいが、海の総意が整うまで、お前には牢に入っていて貰おう」

「あんたこそ、まるで予め用意しておいたような筋書だな。俺を牢に放り込むのはあんたの勝手だが、冤罪だった場合は海竜の権威は地に落ちるぞ?相当の覚悟はあるのか?」



そう尋ねたゾーイに、海竜の王は瞬き一つせずに頷いた。



「勿論だとも。私はこの海の管理者としての矜持がある。全ての責任を負う覚悟で、そなたに罪を問うのだ」

「そうか。じゃあ、公平を期して、塩の王と雲の魔物も招聘するといい。精霊と竜じゃ当事者同士だろ。それに、事前の口裏合わせがあったらまずいだろ?あんたの公平性にも傷がつく」

「それであれば勿論、公平な立場で判断の出来る方にもお声掛けしよう。とは言え、高位の方々がお前の審問の為にだけここを訪れるかどうかは別だがな。…………クフェルフ、海嵐の精霊王を海闇の牢獄にご案内しろ。そちらの人間も一緒にだ」



そう言われた途端、ゾーイの肩が強張るのがネアにも分った。

ネアからすると、決まり事なんて放り出して当然そうなるだろうなという雰囲気だったのだが、海の決まり事に対する絶対性は、地上のネアには推し量れないものなのかもしれない。



「遭難者以外の者を、ましてやお前達の都合で陸地から呼び落とした者を、勝手に海に拘束することは出来ない筈だ。祟りものや悪食と同じになりたいのか?」

「そのような非難も甘んじて受けよう。だがこれも海の為だ。そなたと共にいた者を、無罪放免でここから出す訳にはいくまい」



誰かが、王の名前を呼んだ。


振り返った王が何かを短く言い、厳しい顔のまま頷いてみせたのは、先程指名された男性だろうか。


短い青い髪に淡い水色の瞳。

背が高く竜らしいがっしりとした体つきで、漆黒の騎士服のような装いから、彼がどんな立場の竜なのかは一目瞭然だった。

王の意志には背かないが、一族の王が祟りものの汚名を着せられるのは我慢ならないという気配が、ありありと伝わってくる。


しかし、王は自分の決断を翻す様子はなかったし、それ以上彼を振り返ることもなかった。

なのでその騎士が、王がそう決めたのであればと、苦痛にも似た覚悟を決めて表情を引き締め直すのがこちらからも見て取れた。




(……………その秘密だけが、この王様の罪なのだろうか)



だからネアは、そんなことを考える。


中身が本物ではないという罪に起因し、それだけに苦しんでいるのであれば、イブはもういないのだ。


彼は海辺の家で望むような余生を送り、正しい継承の為に力を貸して欲しいとは言ったものの、自分の体を奪ったものに復讐して欲しいとは言わなかった。



だから、もし目の前のイブの体を持つ海竜の王が、その罪以外のところにおいては善き王であるというのなら、ネアはあえて彼の罪を暴き立てずにいてもいいとは思うのだ。

きっとこの世界のどこかにいるイブの魂を持つ者をあの貝殻で探し出し、海竜の至宝をその者に一度手渡す。

それだけであれば、理由を伏せて行うことも可能に思える。



(例えば、この王様だけに本当のことを話して、周囲の人達には海竜の継承を正常化する為の儀式だとでも言えばいいのではないかしら…………)



イブがもういないのだから。


あの優しい海竜が非業の死を遂げた訳ではないのだから、ネアとて知らない人達の領域にずかずかと踏み込まず、そのような落としどころをつけるのも可能ではないかなと考えるのだ。


伴侶であるのなら、女王には話してあげたいところだが、これだけの時間を経て、その真実は寧ろ知るべきではないところまで来てしまっているのかもしれない。



であれば、滞りなくこの継承が行われるのが一番ではないか。



そんな風に考えたネアは、ひとまず捕まることにさしたる異論はなかった。

寧ろ、牢屋というよりはこの王様と少し話してみたいのだが、残念ながら彼は一度もこちらを見る素振りもない。

人間という生き物に、重きを置いていないのだ。



「………牢には、ロキウス様がいらっしゃるのでは?」



ふと、どこかでそんな囁きが揺れた。



「高貴な方ばかり、囚人が増える。我々はどうなってしまうのだ………」



誰の言葉かは分らなかったが、最初にこの場にいて倒れてしまった男性の取り巻きの言葉であるらしい。

そちらをちらりと見ると、暦王は呆れたように目を細めた。



「エッボはどうしたのだ?このような場で意識を失うなど……………」

「それが………」

「ナトが俺達に斃されたことに動揺したらしいぞ。王子だろ。気弱過ぎやしないか?」



誰かが金色の男性が倒れた理由を説明しようとして、ネアはひやりとしたが、すかさずゾーイがそう言ってくれて、暦王の視線はこちらに向いた。

無言で小さく溜め息を吐き、何やら残念なものを見るように倒れている男性を一瞥する。

小さく喉を鳴らし、そちらにいた護衛達が深々と首を垂れたので、王の落胆を感じ畏まってくれたようだ。



「クフェルフ………?」



その名前を呼ばれ、先程の騎士がこちらに向き直る。

海嵐の精霊王であるゾーイを拘束することに難色を示している部下を、先程から宥めていたのだ。


「は。………その、この二人は、同じ牢で宜しいですか?」

「死んだり暴れたりしても問題だからな。同じ牢でいいだろう」



その名にクフェルフと呼ばれた男性が頷くと、ゾーイがこちらを見た。

何とも言えないような複雑な眼差しに、ネアはひとまずこくりと頷いてみる。



(とは言え、ここに居る人達は私を知らない訳なのだし、少しくらいか弱い乙女だと主張しても………)



手荒に扱われると嫌なので、ネアは儚くよろめいてみせ、支えてくれたゾーイに、無事手を繋いで貰う。

これで、一人だけどこかに引き離されてしまったりもしないだろう。

離れていると万が一の時が怖い。



ネア達はすぐに、五人の海竜に囲まれた。

皆、漆黒のケープを纏っており、騎士服的な装いから見るに、ゾーイの話してくれた戦事に長けているという氏族の竜なのだろう。

全身が漆黒なので近付いて来る時には実務的な兵士のように見えたが、近付いて装備や装いの形が見えるようになると、皆美しい騎士達だった。



(でも、この人達は悪い海竜さん、なのかしら?)



暦王と呼ばれた男性は他の騎士達とその場に留まり、ネア達が戻されたのであろう扉の前に立っている。


拘束などはされずに周囲を囲まれてゆっくりと歩かされ、これから向かうのは大きな石造りの部屋を越えた更にこの建物の奥のようだ。

神殿のような部屋を二つ抜けると、そこにはどこまでも続く真っ直ぐな回廊がある。



黒水晶めいた黒色半透明の石材で作られた回廊は、余分な華美さはないものの、柱や壁に施された彫刻の見事さに思わず目を奪われる。


竜達が飛ぶ海底の情景を表現したもので、回廊全体に使われている石材を精緻に彫り込んだだけなのだが、複雑な陰影を落とし、なんとも趣き深い。

天井近くに一定間隔で並ぶ小さな四角い窓からは、深い海の青い光が筋になって床に伸びていた。



人型ではなく、竜本来の姿でもこの建物の内部に留まれるようにしてあるのだろうか。

どの部屋も天井が高く、周囲の調度品などとの縮尺感覚がおかしくなりそうな広さだ。

先程滅ぼした竜の大きさを考えると、一匹くらいなら、ここを飛んで移動出来そうではないか。




(何だろう、空気が重い)



窓からは青い光が差し込んでいるので、ここは海の中というだけなのだろう。


だが人間であるネアには、地中深くに押し込められているような何とも言えない閉塞感がある。

小さな窓しか明かりのない回廊はどこまでも暗く、先頭を歩く竜はこの先がきちんと見えているのだろうかと不思議になった。


コツコツと天井の高い回廊に響く靴音を聞いていたら、演技ではなく本当の眩暈がした。

それに気付いたゾーイが支える腕に力を入れてくれ、ネアは足が縺れたものの何とか踏みとどまった。



「…………こんなに脆そうな生き物を、あの牢に入れて大丈夫なのだろうか」

「王の命令だ。お前は余計な疑問を持つな」



後ろを歩く騎士達が、小声でそんな会話をしている。



ネアは、ディノが上手に擬態で隠してくれている指輪をそっと撫で、大事な魔物がどこかで不安がっていないだろうかと心配になった。

今日は銃撃もされていることだし、何か異変を察している可能性もある。


ここで、自分は偉い魔物の婚約者なのだと荒ぶることも出来るのだが、ネアがこうして大人しく連行されているのは、ここが敵の領土内で海の底であるということを警戒したのと、牢には何やら事情を知っていそうな人物が収監されていそうだという期待からであった。



(さっき名前の出ていた、ロキウスという人は誰なのだろう………。その人と話してみたいな………)



そう考えながら長い道のりを歩かされ、ネア達が辿り着いたのは暗い監獄であった。



扉を開けて階段を少しだけ下りれば、ぐっと天井は低くなり、真っ直ぐな廊下沿いには幾つもの部屋が並んでいる。


監獄とは言え、鉄格子の窓のある小奇麗な部屋が並んでおり、独房よりは少し贅沢な感じだろうか。

ただし、部屋の中には灯りはなく、廊下の反対側の壁に並んでいる壁灯からの光で過ごさなければならないようだ。

おまけに表の廊下に面した部分に丸い大きな窓があり、鉄格子でその部分から内側の部屋がいつでも隅々まで見通せるようになっている。



「…………入れ」



ネア達が案内されたのは、灰色の壁の部屋で、部屋の中には小さな机と二人掛けの長椅子、他には寝台が一つあるきりだ。

いかにも牢獄めいてはいないが、泊まるとなると大きな問題がある。




「…………あの、浴室などはどうするのでしょうか?」



ネアがおずおずと尋ねると、竜達は困惑したように視線を彷徨わせた。

何人かの騎士達に視線を向けられ、クフェルフと呼ばれた男性が顔を顰める



「囚人でありながら、入浴の希望までするつもりか」

「私は人間ですので、他の生き物さんのように自然に綺麗にはならないのです。それに、お手洗いもありません………」



ふにゅりと眉を下げてそう言えば、クフェルフはなぜか驚愕の眼差しでこちらを見る。

さては人間を捕まえておきながら、そのような問題は考慮していなかったなと、ネアは半眼になった。



「はは、それはそうだね」


すると、隣の部屋から愉快そうな柔らかな笑い声が聞こえるではないか。



「クフェルフ、人間は毎日入浴しなければならないし、彼女が言ったもう一つの施設は必ずなければいけないものだ。特にそこにいるのはまだ幼い少女ではないか。そのような手配がなければ、すぐに死んでしまうよ?」

「ロキウス様…………」



どこか詰まったような声でそうクフェルフが隣の部屋の囚人の名前を呼んだ時、ネアは、あの暦王の為なら岩でも齧ってみせると言わんばかりの鋭い目をしていた黒衣の騎士が、隣の独房にいる男性をとても大事にしているのだと分った。



それは、エーダリアの名前を呼ぶヒルドや、騎士達のような心ごとそちらを向くような優しい声音だったのだ。




「クフェルフ様………」


他の騎士達はすっかり動揺してしまい、クフェルフはその場で部下の一人に何かを言うと、小さなバケツのようなものを取りに行かせた。

なぜか、そこには綺麗な水がなみなみと入っており、それだけのものだ。



「ほわ…………」

「これでどうにかしろ。そもそも、お前達は我等の継承の儀式に呪いをかけた、咎人ではないか。我儘を言うな」

「バケツにお水…………………」

「………………おい」



あんまりな原始的な仕打ちに怒気を含んだ低い声をゾーイが発し、その場の雰囲気はかなり険悪になったが、ネアはそんなゾーイの袖を引っ張ると、ゆるゆると首を振った。

案内された独房の内側に、隣の個室と繋がっていそうな鍵付きの扉を見付けたのだ。



(と言うことは、ディノから貰った厨房への鍵が使えるかもしれない)



それに、ネアとしてはここで暮らすつもりなど毛頭なく、少しの間お隣さんと会話が出来ればそれで充分な情報収集になりそうだと考えていた。

どうせ用済みになったらさっさと脱獄するのだ。

あまり我が儘を言わず、このあたりで引いておいてやろう。



「今はこれで我慢をしますが、いずれこの恨みは晴らします。婚約者のいる淑女を、無実の罪で他の男性と同じ部屋に押し込んだばかりか、お風呂もお手洗いもないというこの仕打ち。人間はとても執念深いので、海竜などいつかすべて竜鍋にしてくれる」

「いや、その前にあんたは可動域が六しかないだろ………………」



ネアは怯えて夜も眠れなくなるといいという思いを込めて邪悪にそう宣言してみせたのだが、ゾーイが呆れた顔で余計なひと言を挟んでしまった。


しかし、その一言を聞いた騎士達はまた慌て出し、クフェルフに何かを命じられた騎士がどこかに走ってゆくと、今度はバケツ一杯の青い宝石を持って来てどしんと置いた。




「なぜ可動域の話をしなかったのだ。あやうく、この牢に入れた途端に死なせてしまうところだったではないか…………」



苦々しくそう言われるのだが、それも妙な話だ。

死んでもいいくらいの勢いで牢に入れるからこそ、浴室もお手洗いもないのだと知っている筈のクフェルフなのである。



(…………と言うことは、あまり長くここに入れておくつもりはないのかしら?)



そんなことを考えている内に、ネアとゾーイはその個室に押し込まれ、水の入ったバケツと青い宝石の入ったバケツを残し、騎士達はそそくさと去っていってしまった。




「うむ。あの竜さん達は、お鍋にします。お酢と唐辛子たっぷりの、夏らしい辛い鍋にしてくれる」



ネアが腰に手を当ててそう呟くと、隣の独房からまた愉快そうな笑い声が聞こえてきた。

牢に入れられる前にも声は聞こえたが、その姿までは見えなかった。

この人は誰なのだろうかと首を傾げていると、ゾーイがどきりとするくらいに穏やかな声を出す。



「ロキウス。やはりそういうことか。お前が王位を返上したのは、何かがおかしいと思っていた」



おやっと目を瞠ったネアに小さく頷いてみせ、ゾーイは壁に遮られて見えない隣の独房を見つめる。

やああって聞こえたのは、どこか困ったような優しい声だった。



「久し振りだな、ゾーイ。…………いや、正当な継承の儀式がどうしても出来なかったから、僕が王座を退いたのは本当なんだ。実は、竜の至宝も父の代から見付からないままであったし、少し強引に戴冠式を迎えてしまったからね。…………けれど今は、王位を退いたことを後悔している。王の力と海への誓いが継承されないのは、どうやらイブ王に問題があるらしい」

「そりゃそうだろうな。どうやら、あの王は別人らしいぞ」



その瞬間、この牢獄に落ちたのはぞっとするような重い沈黙だった。


ネアはその沈黙の重苦しさにひやりとしたが、恐らくゾーイは、ロキウスという男性の人となりを知った上で、あえて簡単に言ってみせたのだろう。

ここは任せておけ的な目で見られ、ネアはこくりと頷いた。


この隙にと首飾りからカードを取り出し、さっそくディノに告げ口をすることにする。



(でも、牢屋と聞くと荒ぶりそうだから、個室に隔離されているくらいに言っておこうかな………)



だが、開いたカードには既にディノからの言葉が揺れていて、ネアはおやっと目を瞠った。




「……………ゾーイ、それはどういうことだ?」

「とある者達が、あわいの向こう側で、イブ王の魂の欠片に出会ったらしい。何者かに体を奪われ、魂だけになって晩年を過ごしたかの王は、海竜の継承の儀がままならないことを案じ、その解決策をその者達に託したそうだ。俺がこの話を聞いたのは偶然だが、こうして俺なんかを海竜の戦に出場させてみたり、勝ち抜けて帰ってくりゃ冤罪を着せて問答無用で投獄ときたら、さもありなんと思うばかりだな」

「……………………体を?……………では、お爺様の体を、何者かが使っているということか?まさか……………いや、…………だが、それであれば辻褄が合うことがある。父上が殺された時も、あの方の反応は何かがずっとおかしかった………………」



深く考え込む様子のお隣さんに、ネアはくいっとゾーイの袖を引っ張る。



「どうした?具合でも悪くなってないだろうな?」

「……………いえ、実はこちらの事情であまり時間がなくなりそうなので、そちらにいる方に確認をしておきたいことがあるのです」



そう言えば、ゾーイはどこか思わしげに顔を曇らせると、まずは自分に、ロキウスに何を尋ねるのかを話してみるようにと言う。



「…………まぁ、お隣さんを苛めたりはしませんよ?」

「わからんだろうが。あんたなら、脅迫ぐらいするだろ」

「とても疑い深くなってしまいましたね。………私がその方にお聞きしたいのは、今の王様の罪は、イブさんの体を奪ったことだけなのかということです。これはあくまでも身内の問題ですし、私は海竜さん達を全く知りません。もし、あの暦王さんがかつては罪を犯し、その罪を隠すためにこのような暴挙に出ているのだとしても、海竜の王様としては立派な方であるのなら、正しく継承を執り行える方法をお伝えして内々に処理するだけでもいいのではないでしょうか?」



ネアがそう言えば、ゾーイは絶句したようだ。


海と雷光の不思議な色の瞳を瞬き、途方に暮れたようにネアを見下ろす。

海賊めいた豪奢な装いが紫紺の巻き髪によく似合い、決していかにもな牢獄ではないが、こんな独房に押し込められているような人には見えない。



まだ、昨日出会ったばかりの精霊なのだが、いつの間に、こんな風に気遣わし気な眼差しを向けてくれるようになったのだろう。



「あんたは、それでいいのか?こんな扱いを受けて、過去の乗っ取りは事実だと知っている。それでも?」

「むぅ。竜さんですしねぇ…………。このように荒ぶるのも仕方はないのかもしれません。イブさんがまだいらっしゃるのなら、あの方の願いを最優先させますが、そもそもあの方は、復讐をして欲しいとは言っていませんし、海竜という生き物が滅びないようにして欲しいと願っただけなのですから」



そう言い切ったネアにゾーイは額を押さえて呻いていたが、海嵐の精霊王のそんな煩悶をきっぱりと断ち切ったのは隣の独房にいる、かつて海竜の王であったらしい人物であった。



「すまない、ゾーイ。そちらの会話は全部聞こえてしまった。…………その少女が案じてくれたように、あの方が罪人であれども、善き王であればどれだけ良かったことだろう。決して、………悪しき王ではないのだが、…………それでも、今聞いた事が本当であるのなら、あの方は恐らくもう殺し過ぎている。その秘密を守る為に、真実に近付いた者を粛清し続けていたのだろう。前の王が、…………私の伯父上と、その補佐であった私の父が南方の海での反乱で殺された時、手を下したとされるその領域の氏族の長は、最後まで自分は何も知らないと訴えていた。………伯父と父はあの戦に出る数日前から様子がおかしかったし、祖父を避けていた。…………私はずっと、あの時に首謀者の一族を根絶やしにした暦王の様子に、何か只ならぬものを感じ疑問に思っていたのだ………………」



ロキウスは胸の奥に溜め込んでいたのであろう言葉を、一言ずつ確かめるようにゆっくりと吐き出していった。



「そうだったのか。もしかして、だから………」

「そうだね、僕が王になったのはその事件があったからだ。しかし、そこまでしなければならないくらい、王というものが孤独で恐ろしいものなのだろうかと考えたからだった。僕が生まれたばかりの頃、イブお爺様は優しくて楽しい人だったとみんなが話していた。そんな人を変えてしまうくらいの重責であれば、僕が支えになって、あの方にかつての穏やかさを取り戻して差し上げたいと思ったのだけれど……………」

「近付いて、こうなったのか?」

「何かがおかしいということに気付いたのは、二カ月ほど前のことだ。今回の海竜の戦では、余計なことに気付かない者を王にするべきだと、ナトと祖父が話しているのを聞いてしまってね…………」



その話を聞いてしまったことに気付かれ、ロキウスは心を病んだということにされてこの牢獄に幽閉されてしまったのだそうだ。

ここには、ナト率いる海竜の特務隊しか入れない。

ロキウスが何を言おうと、誰にもその声は届かないのだと。



だからこそ、海竜の選定には七人の王子の枠しかなかった。

ロキウスは、候補者から外されたのだ。




「でも、幸いにもクフェルフは僕の友人だった。彼との友情は、祖父…………あの王には隠していてね。粛清部隊などは早々に抜けて、いつかは僕の近衛騎士になりたいと話してくれた、本当は優しい男なんだ。今は、僕と外界を繋ぐのが自分しかいないと気負い、あのように融通が利かなくなってしまっている。これだけ部屋があるのに、あえて君達を僕の隣の部屋に入れてくれたのも、彼なりの抵抗だと思わないかい?だからどうか、鍋にはしないでやってくれるか?」

「そのような事情があったのですね、では、………クフェルフさんという、特務隊の竜さんは、滅ぼしてはいけないと言っておきますね」



ネアが頷きそう答えると、牢獄には不思議な沈黙が落ちた。

その隙にネアは、淡い金色の文字が揺れるカードに、クフェルフの名前を書き込んでおく。



「……………おい、そのカードでやり取りをしている相手は誰だ?」

「私の婚約者と、皆さんお馴染みの塩の魔物なノアです。なんと海竜さんの離宮にいるようで、海竜さんの戦が終わったという鐘が鳴ったのに、私が帰って来ないので荒ぶり始めました。訳あって隠れていますが、一緒にいる終焉の魔物さんは特に武力行使で解決しがちな方なので……」

「終焉の魔物……………」

「塩の王に、終焉の魔物…………」

「私も、もう少し穏便に動くつもりでここまで大人しく連行されたのですが、お留守番組な魔物さん達が、我慢出来なかったようです。出来ればその場に駆け付けて宥めたいのですが、何か手はありませんでしょうか?」

「…………………クフェルフから、僕が内々に処刑の運びになるなど、何か緊急の事態が起こった場合にと預けられている、彼の鱗がある。すぐに彼を呼ぼう…………。このままでは、ぼ、僕達の一族が滅びてしまう…………」



あまりにも声が震えているので、ネアは可哀想になってしまい、そこにはご立腹の選択の魔物と犠牲の魔物もいることは伏せておいた。

クフェルフを大急ぎで呼び出してくれたので、間に合えばいいのだが。


ネアは、荒ぶる魔物達の姿を思い浮かべ、眉を下げた。









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