295. 海竜の襲撃を受けます(本編)
「…………はっ、っ、……むぐう!」
現在、ネアは諸事情から、息を切らして必死に階段を駆け上がっていた。
よく、映画などの襲撃で、なぜに逃げ場のない上の階に逃げて行くのだと主人公を叱りたくなることがある。
大抵は夜景などの綺麗な無人の屋上に追い詰められ、絶体絶命となるのだ。
(でも、階段だけが隔離されている設計で、下から敵に追いかけられたら、上に逃げるしかない!!)
つい数分前、ネアはゾーイと一緒にいたところで海竜の襲撃を受けた。
一緒にいた筈の頼もしい魔物達、シェダーと、我を忘れて海老を食べていたせいで自慢の毛皮をべたべたにしていたちびふわ状態ではあるものの、本体は選択の魔物であるアルテアは、その直前に影の世界の吐き戻し作用によって、この国から外に弾き出されてしまったばかりだった。
よりにもよってそこに、大きな海竜が飛来したのだ。
(二階の窓からゾーイさんを援護しようとしたのに、まさかの階段側にもう一人の敵が隠れていただなんて!)
大混乱のホテルの中に駆け込み、建物の中央にある客用階段ではなく、右往左往している宿泊客達で大騒ぎになっていない従業員用階段を使ったネアは、よりにもよって、その階段の踊り場の窓から、ゾーイを狙撃しようとしていた女性を発見してしまった。
はっとこちらを振り返ったのは、ちょっと悪い女性に翻弄されたい系の男性陣がめろめろになりそうな、腰までの金髪をハーフアップにし、ぴったりとした漆黒の膝丈のワンピースに、膝までのブーツを履いた美女だ。
女性的な肢体と、吸い込まれそうな藍色の瞳が印象的なのだが、残念ながらたいへん敵意に満ちた眼差しである。
そこからゾーイを狙っていたのだから、勿論、ゾーイと一緒にいたネアのことも見ていたのだろう。
階段を駆け上がる靴音で振り向かれ、目が合ってしまった瞬間にこちらでも戦争が勃発した。
(逃げおおせられると思ったのに!)
最大の敗因は、ネアがこのホテルの従業員用階段の構造を知らなかったことだ。
その女性が、ぐぐっと爪先に力を入れたのが見えた瞬間、ネアは下に逃げるのではなく階段を駆け上った。
案の定、踊り場からその直前までネアがいた場所に飛び降りた女性の攻撃をすり抜け、ネアはある程度の距離を稼ぐことが出来る。
しかし、すぐに次の階でフロアに出て宿泊客に紛れるつもりが、恐ろしいことにその階段は一階から屋上までの直通階段だったのである。
「……………っ、」
避けようのない悲劇として、今のネアは、まんまと屋上に追い詰められようとしていた。
このまま、映画のように、屋上で銃口を向けられて追い詰められてしまうのか。
「と言うか、屋上ですらない?!」
狩りで鍛えた脚力で最上階まで駆け上ると、やっと見えた扉はどうやら屋上に抜けるものではないらしい。
とは言え、まだ屋内だとほっとしながら、ばいんと木の扉を蹴り開けた。
この荒々しさには計算があって、ネアは素早くすり抜けられるが、反対側の壁に激突した扉が戻ってきて勢いよく閉まるので、追っ手は扉を開け直さなければならない。
これでも少しは時間を稼げる計算だ。
扉を開けて出たのは、深い青色の絨毯を敷いた瀟洒な廊下だ。
優しい水色の壁には絵がかけられ、室内灯の魔術結晶がゆらりと揺れる。
記憶にある光景に、ネアは目を瞠った。
(…………ここ、屋上ではなくて、最上階の貴賓室前の廊下に出る階段だったんだ…………)
それなら、この廊下を真っ直ぐに走れば、階の中央には客用の階段がある筈だ。
朝食を食べたら出る予定で、部屋の精算は済ませて鍵も返してしまっているし、階段の方に行けば、一階から避難してくるお客達もいて、他の人々に紛れることが出来れば、逃げ切れるかもしれない。
ネアはそう思っていたのだが、そもそもの身体能力に大きな差があったようだ。
死に物狂いで五階分の階段を駆け上ったばかりのネアは、あっさり追っ手の女性に追い付かれてしまったらしい。
「……………っ?!」
突然背中に物凄い衝撃を受けると、吹き飛んだネアは、べしゃりと絨毯の床に転がされた。
廊下に敷かれた絨毯は、靴で踏んで歩くものなので寝そべるにはごわごわしており、頬っぺたがちくちくする。
「…………あら、胴体に穴を空けたつもりだったのだけど、守護が硬いのかしら」
吹き飛ばされる程の打撃だ。
はくはくと息を刻み、その衝撃から立ち直ろうとしていたネアは、振り返ろうとして、追ってきた女性の手に猟銃のようなものが握られているのを見てぞっとする。
(わたし、…………もしかしなくても、銃撃された……………?!)
怖くなって自分の胸に手を当てたが、銃弾が貫通したような様子はなかった。
その打撃としてよりも、撃たれたかもしれないという恐怖で血の気が引く。
高位の生き物との遭遇も経験しているネアだが、どこかお伽話の中の登場人物めいた彼等よりも、苦痛と効果を想像しやすい猟銃を持つ敵の方が怖い。
「であれば、………次の弾丸は、流星と溶岩の十三番。このあたりの弾が良さそうね」
ネアが動きを止めたその隙に、追っ手の女性は次の弾丸を胸のホルダーから引き抜いて、銃にセットしている。
ぎくりとしたネアは、倒れていることで死角になった部分で小さな包みと、水鉄砲を握る。
外に居るのが海竜であれば、この金髪の美女は人間の可能性が高い。
きりんやネアの歌声では、あまり効果が出ないかもしれないのだ。
「立ち上がれないところを見ると、骨や内臓くらいは損傷したかしらね」
「……………あなた達も、海竜の戦の参加者なのですね?私が棄権すると言えば、見逃してくれるのですか?」
(もう少し、近くに来てくれないだろうか………)
実弾入りの猟銃と水鉄砲では、飛来の速さに差が出そうだ。
せめて避けられないくらいの距離にと思って会話を持とうと、ネアは苦しげな声を出してみる。
「その通り、参加者よ。あの鯱の精霊はなかなかに面倒だったけれど、後から参加したあなた達は、あまり脅威とは言えないわね」
「……………後から?」
「あら、知らなかったのね。王も酷なことをなさるものだわ。………今回の海竜の戦はね、私達の組とゾロリアスの組が大本命。後から入れるのは、他の王子達を黙らせる為の数合わせよ」
「…………王と言うと、海竜の王様がそれを企んだのですね?」
「ふふ、王妃は相変わらず何にも知らないみたいね。あの女は自分が今でもあの暦王の良き友人で伴侶だと信じているのかしら?愛されたことなど、一度もないのだというのに哀れなこと」
(………………あ、)
そう笑った女性の眼差しに見えたのは、女としての優越感のようなものだった。
であれば、この女性は海竜の王の寵愛を受けたのかもしれない。
(そして、れきおうって、何だろう?)
知らない言葉が出て来たが、名前なのか通り名のようなものなのか、そのどちらかだろうか。
気になったがそれを尋ねるのは後にして、ネアは両手に握り締めた武器をもう一度確認した。
(目隠し、攻撃……………どちらかで、)
「……………さて。可哀想だけど次で死んでくれると嬉しいわ。暦王は一人の棄権者も出したくないのよ。その為に私達が別に選ばれたのだもの」
「……………棄権者を出したくない?」
「理由を私に聞いても無駄よ。あなたには必要のないことだし、私も知らないの。………きっと、あの方が、海竜の統一こそをと尽力された偉大な王だからでしょうね。不安要因を残したくないのよ」
現在の海竜の王は、本来ならイブの体を奪った王の二代先の王となる。
しかし、先代の王は他種族との戦で亡くなり、今代の王は、一度は自身の一族の問題の責任を取る形で継承した王位を放棄し、あらためて、この海竜の戦で正式な王として選ばれることを望んだ。
つまり、イブから体を奪った海竜が、王に戻っているということになる。
(一度は王座を手放した王様という意味で、暦王と呼ばれるのかもしれない……)
ネア達に、そんな海の事情を教えてくれたのはゾーイだった。
ゾーイはそれでも海嵐の精霊王としてかなり海の事情には明るいが、やはり他の種族のことなので知らないことも多いのだそうだ。
突然の予言による参加者の変更や、なぜか継承権のある王子達の人数に合わない参加者など、シェダーと行程などの確認をしながら、何かが妙だと話していたのがネアにも聞こえた。
正統な継承が出来ていないことが影響しているのかもしれないが、その秘密は暦王とやらが握っているのかもしれない。
ガチャリと、音がした。
先程の守護を警戒してから、三歩ほど距離を詰められ、弾丸を籠められこちらに向いた無機質な銃口が見える。
金髪の女性が狙いをつけるのと、ネアが手に持った小袋を投げつけるのはほぼ同時のことだった。
「来ないで下さいっ!!」
「…………はぶっ?!」
顔に向けて投げつけられたものを咄嗟に避けようとして、女性がはっと警戒に目を細め、直後微妙な顔になったのが見えた。
ネアが投げつけたのは少女趣味なレースのハンカチの塊で、中から溢れたのは小さな紙片だった。
それに気付き、攻撃ではなく取り乱して所持品を投げつけただけに見えたのだろう。
しかし、失笑するように緩んだ表情のまま、金髪の女性は襲いかかってきた膨大な紙吹雪に顔周りを包まれた。
「お祝いされるがいいのだ!」
そう捨て台詞を残し、ネアは女性一人くらいはゆうに包んでしまえる紙吹雪達を残し、慌ててその場から離脱する。
背後からは視界を塞がれた女性の怨嗟の声と、陽気な応援ソングが聞こえて来た。
へいっと弾んでいるところで、取り乱したような悲鳴が聞こえてくる。
(良かった。ダリルさんに持たされていた武器が大活躍した!!)
ネアが投げたのは、以前にアルビクロムで家宅捜査した魔術師の館から発見された紙吹雪の魔物だ。
対象物をみっしり取り囲み、舞い散り歌って弾んでお祝いしてくれる。
魔物の第二席と第三席を無力化したこともある恐ろしい生き物だが、一枚ごとの保有魔術がとても低く魔術的な攻撃だと認識されない利点もある。
悪意ではなく祝福として守護結界もすり抜けることから、このような時に煙幕代わりに使うことも出来るのだ。
ウィームでは持ち帰られた紙吹雪の魔物をダリルが研究し、増やすことに成功している。
ネアが持たされたのはその試作品の一つで、ハンカチの塊に見える特殊結界の中に、一掴みに見えるが実際にはバケツ一杯ぐらいの紙吹雪の魔物が圧縮されて詰め込まれていた。
お祝いだ!という一言を聞かせた紙吹雪の魔物達を昏睡状態にして詰め込んであるので、ああして外に出した途端に祝い出す、恐ろしい武器なのだった。
「…………っ、………むぐ!」
階段登りの全力疾走で疲弊したものか、ネアはよろよろしながら、階段を下りる。
四階から下に向かう階段となると、外で海竜が暴れているからと非難して来た人達が多くなってきた。
ネアとしては、五階にもこれくらいの人達が流れ込んでいて欲しかったのだが、どうやら宿泊客達も貴賓室のある最上階には行かないだけの分別を持っていたようだ。
ネアの生まれた世界とは違い、この世界でそれをやると、そこに宿泊している相手によっては不敬罪で簡単に死罪にされてしまうこともある。
人ならざる者達のご機嫌を損ねたりしたら、海竜の襲撃に遭遇するよりも恐ろしいことになるのは間違いない。
ガシャンと何かが割れる音が聞こえる。
こちらも逃げるのに時間がかかってしまったので、その隙にここから移動されてしまうと厄介だったが、まだゾーイは、最初に襲われた場所で戦っているようだ。
レストランのテラス席がL地型にこの建物に面していたので、空から襲ってきた海竜としては敵を追い込み易く、場所を変えさせたくないのかもしれない。
(窓、…………ゾーイさん達がいる方向に開いている窓は……………)
また、どおんと大きな音がする。
ネアはパニックになりかけている人々を避けながら、丁度いい角度の部屋を探し、中にお客がいるかもしれないものの、緊急時につき押して通るの思いでていやっと扉を開けた。
千切れた砂色のカーテンが、風に揺れた。
「……………良かった。誰もいない!」
窓は割れて粉々になっており、寝台が乱れ椅子などが倒れた部屋は、幸いにも無人だった。
よく考えれば、窓はこの有様であるし、窓のすぐ外には青い羽が見えるくらいに暴れている海竜がいるのだから、この部屋に宿泊客がいたのだとしてもすぐにここから避難してしまっただろう。
ネアは割れた硝子に気を付けながら窓際まで行くと、交戦中のゾーイの視界を塞ぐきりんなどは避け、激辛香辛料油入りの水鉄砲を握り締めた。
これなら、避けてと叫ぶだけでどうにかなる筈だ。
「………………む」
水鉄砲を取り出そうとして、かちりと指先に触れた硬い質感に、ネアは眉を寄せた。
取り出して眺めたのは、磨き上げて綺麗になった人魚の笛。
シェダーやゾーイが、どう見ても海竜に見えると言った、不思議なあたたかさを感じる青い笛だ。
「…………むぐぅ」
ネアは外で暴れている海竜を見て小さく唸ると、片手に水鉄砲を持ったまま、特に念入りに歯ブラシまで使って磨き上げた笛の吹き口を、一度唇に挟んでみた。
(………うん、いけそう。これなら咥えたままで手を離しても吹けそうだから、ゾーイさんに声をかけた瞬間に笛を咥えて、攻撃と同時に吹く…………)
大変罪深いことに、味方の援護もしたいがこの笛の実験も行いたいというとても残忍な人間は、笛を吹くことと水鉄砲の攻撃を同時に行おうとしているのである。
また外では、ばりばりっと物凄い音がした。
稲妻のような光が走り、海竜が咆哮する。
その響きだけで壁までびりびりと揺れるのだから、かなり高位の竜なのかもしれない。
(……………良かった、ゾーイさんは怪我はしていないみたい…………)
壁沿いに近付いて慎重に外を覗けば、ゾーイは、そんな海竜に押されている様子もなく戦っていた。
魔術の動きが見えないネアの見立てではあるが、優勢という訳でもないのだが、何かきっかけがあれば勝てそうなくらいに見えるので、これがその手助けになればいいと思う。
(……………よし!)
意を決して、ネアは体を反転させると、まずはすうっと息を吸い込んだ。
「ゾーイさん、避けて下さい!!」
上から響いたネアの声に、はっとしたように顔を上げるゾーイが見えた。
海竜も素早くこちらを向いたが、ネアは窓の真横を飛んでいる青い竜がこちらに向かって来る前に、水鉄砲の引き金を絞り、同時に手を離して口に咥えたままにした人魚の笛に息を吹き込んだ。
ピルリ!
澄んだ笛の音が響き、こちらに向かって来ようとしていた海竜が目を瞠る。
次の瞬間、なぜか羽を畳んでどしんと地面にお座りをするように着地してしまい、その頭上から激辛香辛料油が降り注ぐ事になった。
「なぬ?!」
ネアは動きを封じる為にと目を狙ったのだが、海竜が地面に着地してしまったせいで、狙いが外れて頭頂部から降り注いだ激辛香辛料油が、たらりと海竜の頬を伝う。
失敗したと青ざめたネアだったが、海竜は垂れてきた液体の香辛料の風味が気になってしまったのか、ぺろりと頬についた赤い液体を舐めとってしまった。
「グキャ?!」
そして、どしんと地響きを立ててあえなく倒れてしまう。
泡を吹いて失神している青い竜を見下ろし、何だか想像していた倒し方と違ったネアは、とても悲しい気持ちになった。
「…………自滅しました」
そう呟いたネアが、とはいえ勝利したのだと笛をポケットにしまいながら手の甲で額の汗を拭っていると、外壁の装飾を足場にして素早くこちらに上がってきたゾーイが、窓から入って来る。
じゃりっと割れた硝子を踏み、ネアの手を取るのは、シェダーの影響だろうか。
「…………無事か?」
「ふぁい。あの後、綺麗な女性の方に銃撃されました」
「ああ、ナトの相棒が見えないから、あんたのところに行ったんだと思った。すぐにそっちに行きたかったんだが、ナトがでか過ぎてな…………。………撃たれたのか?」
「むぐ。背中をどしんとやられたのですが、私の背中を見て貰ってもいいですか?穴があいてなければいいのですが…………」
「…………いや、穴があったら、普通は動けないだろ。…………何ともなってないぞ。あんたの守護があまりにも頑丈なんだな」
「なお、その女性の方は五階で紙吹雪の魔物さんで足止めをしてあります。そこから逃げることが出来れば、猟銃のようなものを持っているので厄介な敵になるかもしれません。従業員用の階段の窓から、ゾーイさんを狙っていたんですよ」
ネアの言葉に眉を顰め、ゾーイは紫紺の巻髪を肩の後ろに払う。
戦闘の邪魔になりそうな大きな帽子も、人外者にとってはそうではないようだ。
「…………ナトが連れていて、猟銃を持つ女か。…………金髪に夜空の色の瞳か?」
「ええ、その方だと思います。ご存知なのですか?」
「……………ああ。いよいよきな臭くなってきやがったな。ナトの奴が、鯱の精霊とハザラを斃したと話していたから、こいつらに勝てば俺達で決まりだ。…………だが、地上に戻っても安心するな。妙な事が多過ぎる」
「ハザラさん………?私が出会った女性は、ゾロリアスというお名前を出していましたが…………」
「ハザラは海竜だ。恐らく、そっちは組んだ人間の名前なんだろう。そんな名前の船乗りがいたな。確か、西の方の島国の出身者だった筈だが……………」
そこでネアは、外に倒れている海竜がまだ動かないことを確かめてから、先程の女性の話していた言葉をゾーイに伝えてみた。
「……………暦王が?………今代の王に選ばれた奴の王位の返上の仕方もおかしかったようだし、暦王と女王の確執で陰謀があるなら、巻き込まれる俺達は分が悪い。海竜のお家事情なんぞ、知らないからな…………」
「……………もしかして、海竜さんが、正統な継承が出来ず、滅亡の危機に瀕していることに理由があるのでしょうか?」
「………………は?」
「そろそろゾーイさんは良い仲間という感じになったので、今日の出発前にでもお伝えしようと思っていたのですが、…………実は、海竜の王様の中身が入れ替わるという事件がありまして……………」
ネアはここで、あまりいい条件下ではなかったが、周囲の状況の変化に気を配りつつ、ゾーイにあわいの海辺で出会ったイブの話をした。
先に敵を斃してからでも良かったのだが、そうすると、勝敗がついたということで外に戻されてしまう可能性がある。
今の内に伝えておかねば、いざという時に対処出来ないかもしれない。
とんでもない秘密を教えられてしまったゾーイは頭を抱えてしまったが、幸いにも戦闘中であるので、すぐに立ち直ってくれた。
「……………それでか。暦王は、王になってから随分と非道な政策に切り替えたという噂があった。共に王座を争った従兄弟が死んだことが心の傷になっただとか、王である為にはそのように変わらざるを得なかったとも言われてはいる。…………今の女王はな、暦王を幼い頃から慕っていたが、王は幼馴染の友に重責を担わせたくはないと彼女を選ばずにいたと聞いている。それなのにある日突然、彼女を王妃にと言い出して驚いた者達も多かったそうだ」
「…………そのような方であれば、内側が変わってしまったことには気付かなくても、慕う方の変化に愛想を尽かした可能性はありますね…………」
慕っていたのなら、女王は本物のイブが好きだったのだろう。
そんなイブを体から追い出すような相手では、本物のイブとは恐らくかなり気質が違う筈だ。
「…………暦王も、己のしたことが継承に影響を与えていることに気付いている可能性もある。だとすれば、不信感を持ちそうな者達は排除したいんだろう」
「一度は息子さんに王位を継がせたのですから、継承そのものは可能なのですよね?」
「だが、イブ………その王は、暦王という肩書きを作って新しい王の補佐に就いた。これは異例だったんだが、海竜は幾多もの氏族がいて統一が厄介だからな。安全の為の措置だろうと特に怪しまれることはなかった………」
そこで言葉を切って首を振ると、ゾーイは窓の外を見た。
「一晩くらい考察して作戦立てしておきたいところだが、あいつが目を覚ますと厄介だな。………あの竜は、海竜の王家に仕える外敵の殲滅に特化した頑強な海竜の氏族だ。かつて、イブ王の従兄弟であったアダンという竜の氏族で、今は王家の守り手をしている一族の精鋭だ」
「特殊部隊的な………」
「それは知らんが、飛び抜けて戦闘に長けた竜だと覚えておけ。外に戻った時に、漆黒の鎧の騎士達が現れたら其奴らだ。竜の姿だと、あの通り………赤くなっちまってるが、額に黒い角がある」
「…………はい。そのような方が現れたら、警戒しますね。外に戻されたら、私の魔物を呼んでみます。海竜さんのところに、夜海の竜さんが押し掛けていられるのなら、ディノだって来られる可能性がありますから…………」
「ああ。俺の為にも世界の為にも、それがいい。とは言え、夜海の竜も元は海竜の氏族の一人だからな、外部の者達とは違うかもしれん。………もし、呼べないようであれば、俺から絶対に離れるなよ?」
「はい!」
まずは倒れたままの海竜のとどめを刺す為にと、二人は外に出た。
部屋からホテルの内側を通って一階に出る方法もあったが、先程の女性がいる可能性のある館内を避け、ゾーイが、登ってきた窓からネアを抱えて飛び降りる。
「こちら側から動くな」
すぐに、狙撃を警戒して遮蔽物となる大きな木の陰に入り、ゾーイはネアの手を離さないまま、ゆっくりと倒れた海竜に近付いた。
(……………こうして見ると、すごく大きい……)
倒れた竜は、家一軒分くらいの大きさはあるだろう。
ネアはあらためて、そんな竜とこのテラス席の角に追い込まれながらも互角に戦っていたゾーイを凄いと思う。
(竜さんは海から離れても竜の大きさと羽で圧倒出来るけれど、ゾーイさんは本来なら不利なばかりの陸地での交戦だったのだもの…………)
森や湿地などの水辺ならまだ良かったそうだが、ここはホテルのテラス席で、地面はしっかりと石畳で舗装されてしまっている。
もしかしたら、敵はそれを見越した上で、発見するなり襲撃に切り替えたのかもしれない。
「……………おい」
「む。…………とどめを刺さないのですか?」
なぜか、海竜に向かっていたゾーイが暗い目で振り返る。
おやっと首を傾げたネアに、顎で示すようにして倒れたままの海竜を見せた。
「……………死んでるぞ」
「……………まぁ、なんと儚いのでしょう。詰めてあった激辛香辛料油は、確かに一度抜いて更に百倍精度を上げておきましたが、ちょっと舐めただけで、あっさり死んでしまうのですね…………」
そう呟いたネアが海竜の体に近付くと、ゾーイはぎょっとしたように掴んだままでいたネアの手を引っ張る。
「何をするつもりだ、あんた!」
「私が斃したとなると、これは立派な狩りの獲物なので、魔術の理の上でも所有権が発生します。せっかく消えてしまわないのですから、鱗や尻尾を持って帰れないかなと思ったのです。特殊な竜さんのものであれば、私の上司のお土産や、アクス商会にも高く売れますしね。………えいっ!」
金庫から取り出した万能ナイフを使い、ネアは片手ですぱんと儚くなった海竜の爪を切り落とした。
呆然としているゾーイが思わずネアから手を離してくれたので、これ幸いと、ナイフを使って鱗を何枚も削ぎ落とす。
「うむ。二十枚もあれば、おやつ代にはなりそうです!本当は額の角が欲しいのですが、あのあたりは激辛香辛料油に汚染されていますし、本体を持って帰るには重すぎて引っ張れません…………。尻尾の先っちょだけ、輪切りにすれば………ゾーイさん?」
ネアがあまりにも静かだなと思って振り返ると、ゾーイは真っ青になって固まっていた。
「………そうか、やっと分かったぞ。あんたが魔物達に好まれるのは、その残忍さか。…………それと、簡単に海竜の爪を切り落とせるそのナイフは何だ」
確かに、切り落とした海竜の爪はネアの手首くらいはあり、ネアの持ったナイフは、人差し指くらいの大きさの万能ナイフに過ぎない。
淡い銀色だが硝子のように透明で、見た目は儚くすら見える代物だ。
「ウィリアムさんに、………終焉の魔物さんに、作って貰いました。竜さんの硬い鱗や爪も、さくさく切れるそうです!」
「…………終焉の、魔物に」
「はい。お友達なのですよ。それに、言われた通りさくさく切れるので、尻尾も…………」
「やめろ、俺の前で海竜を腑分けするな…………」
うっと口元を覆ってよろめいたゾーイは、はっとしたように顔を上げる。
そこには、ゾーイと同じようにして真っ青になり、斃した海竜の爪をもう一本切り落としている邪悪な人間を凝視している金髪の女性がいた。
先程の襲撃者だと、ネアが立ち上がろうとすると、なぜか悲鳴を上げて逃げ出してゆく。
「なぬ。なぜに逃げるのだ………」
「お前はここにいろ。俺が片付ける」
ゾーイが素早く追いかけてゆき、ネアからは見えないところで、短く絶命の声が聞こえた気がした。
(……………お仲間さんの爪を切り落としていたから、驚いてしまったのかしら?)
いたいけな乙女を銃撃するような人物に、まるで怪物でも見たかのように悲鳴を上げられるのは心外だが、上手く無力化出来たのであれば良かったのだろうか。
ネアはゾーイが戻ってくるまでが勝負だと、しゃっと竜のお尻の方に移動すると、さすがに肉を断つ覚悟はなかったので、尻尾の先っぽにある棘のような部分をばっさり切り落として手に持った。
これでも、小さな庭木を一本引きずっているくらいの荷物にはなるが、何とか持って帰れそうだ。
「やめろと言ったのに、聞いてなかったな…………」
とても暗い声に顔を上げれば、やはり顔色の悪いゾーイが後ろに立っている。
こちらを見ている精霊王がなぜか怯えているので、どうしたのかなとネアが首を傾げた時だった。
ずしんと、体に不思議な負荷がかかった。
「ほわ?!」
「…………引き戻しの魔術か。その尾っぽはどこかにしまえ。海竜の心象が最悪なことになる」
「うむ。獲物用の金庫に入れますね!」
「入れて大丈夫なのか?」
「ええ。他の竜さんや、グリムドールさんも入ったので…」
「グリムドール………………」
足下に複雑な魔術陣が浮かび上がり、ぱかりと地上への帰路が開いた。
まだ美味しい小海老のサンドを食べていないネアは焦ったが、幸いにも、誰かが注文したらしい小海老サンドが、従業員がテーブルに届ける途中で置いて逃げたものか、送り出し用のテーブルにお盆ごと置いてある。
(こんな大きな獲物を置いてゆくのだから、火事場泥棒にはならない。うむ!)
「ゾーイさん、はぐれそうであれば、私の髪の毛でも掴んでおいて下さい!」
「………は?…………おい!」
「尻尾をしまう前ですが、この瞬間は小海老のサンドも手放せませんので、両手が塞がってしまうのです」
「だったら、その食い物は置いていけ!!」
かくしてネアは、尻尾をしまう余裕もないまま、片手に小海老のサンド、片手に倒した海竜の尻尾を持ったまま、海竜の離宮に引き戻されることになった。
引き戻されたネアを最初に見たのが、そんな尻尾の持ち主に密命を下していた海竜の王子の一人であったのは、不運としか言いようがなかったのかもしれない。