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眠れない夜と海の話




「僕はさ、ずっと昔から海の生き物は信用していないからね」



そう言えば、眠らずに座っていたシルハーンが振り返る。

ここは、ネアとシルハーンが暮らしている部屋で、ノアベルトも、今日はこの部屋に泊まる予定だった。

シルハーンは、ネアが大好きだという綺麗な真珠色の髪は心なしか艶が失われ、ネアが見たら悲しみそうなくらいにその眼差しは暗い。


大事なネアが、心配で堪らないのだ。



「でも、その中だったらゾーイはましな方だ。殆どの海の生き物には、浅はかなくらいに陸の生き物に対しての羨望や敵意があるけれど、彼は陸に生まれる筈が間違って海に落ちたみたいなところもあるし、少しアルテアに似てるしね…………」


ネアが心配でならないのだろうから、少しでも安心させないと。

そう思って話していたのだが、なぜだかシルハーンはこちらを見ると困ったように微笑んだ。



「ネアがね、君が海を嫌いになってしまわないように、今度三人でも海に遊びに行こうと言っていたよ」

「………………ネアが?」

「うん。夏にはみんなで海遊びをして、君の守りもある安全なあの王子の島で過ごすのだそうだ。それとは別に、私と君の三人でも海に行きたいみたいだね。……………君に、海の生き物はいまいちだが、海そのものは悪くないと思って欲しいようだ」

「………………ネアは、海というよりは森や山の方が好きだよね?それに、あの子が一緒にって行ってくれるなら、僕は勿論付いて行くから心配しないでいいのに…………」

「君に苦痛を齎す場所があるというのが、悲しいようだね。あの子は、君が海に苦しめられたことが悲しいんだよ」



そう言われて目を瞠った。

一瞬、どう反応したらいいのか分らなくなって、無言で頷く。

そうすると、シルハーンはほっとしたように微笑むのだ。

自分だって今はネアのことが心配で髪の毛もこんな風になっているくせに、どこか安堵したように。


窓の向こうにはウィームらしい庭と森が広がり、その夜の美しさに心がほどけてゆくような、気に入っている雪景色ではないのが残念なような、不思議な気持ちになる。

雪の季節は、みんなが膝に乗せてくれたり一緒に寝てくれたりするので、一番好きな季節だった。



「君を悲しませた海の乙女がどこかに残っているのなら、いつでも紙容器の精を投げつける備えはあるらしい。その時は、私も協力するのだと言われた。あの子にとって君が弟なら、いずれは私の義理の弟にもなるからだそうだ」

「わーお。…………僕、無事にお兄ちゃんになれるかな…………」

「どちらになるのかな……………」




あの日、大喜びで海に泳ぎ出した乙女達は、決して振り向かなかった。

陸に取り残されたノアベルトは困惑し、すぐに戻ってきてくれるのだろうと考えていた。

一人は当時の恋人であったし、毎晩素敵な歌声を聞かせてくれて仲良くやっていたと思う。

だからこそ、彼女と彼女の姉妹達が短い命だと怯えて暮らさなくてもいいように、長い髪を切り渡したのだ。



夜明けの青い青い海を眺め、誰かがすぐに顔を出す筈だと、夕暮れまでそこにいた。



けれども、何年も経ってもあの乙女達が、その夜砂浜に置き去りにした魔物のことを思い出すことはなく、ノアベルトは諦めた。

その後、彼女達はただの一度もノアベルトを探しはしなかったし、砂浜に立って、あの乙女達が自分をすぐに見付けられるようにと待ち続けていた日々にも、その姿を見かけることはなく。

そうして諦めたその日以降、海の生き物はあまり好きではない。


冷やかに接している内にいつの間にか、海の生き物が陸に上がって暮らせないのは、塩の魔物の呪いの所為だと海の生き物達が訳知り顔で語るようになっていた。

呆れもしたし苛立ちもしたが、呪われていると考えてその不自由さを嘆くのであれば、永劫にそのままでいればいいと少しだけ溜飲を下げたような気がする。



『海の生き物達に、大きな祝福を与えたのだね』



砂浜で立ち尽くしていたノアベルトに、そう声をかけたのはシルハーンだ。

そうなんだよと頷き、誰の姿もない波間を眺めていた。


美しい海はどこまでも続き、海の向こうの方で楽しそうに騒ぐ海の魔物や妖精達がいる。

夜になると海の精霊達が浮かれ騒ぐ声が聞こえてきて、自分はいつそちらに呼ばれるのだろうかと考えていた。



(……………そっか、あの女達がもしまだ海のどこかにいても、ネアとシルが、紙容器の精を投げつけてくれるのか……………)



そう考えるといい気分になり、ネアのカードを持って座っているシルハーンの隣に座った。

シルハーンは、すぐにネアからカードに貰った言葉を見せてくれる。



“三人で海に行く時には、月や星の綺麗な明るい夜や、空の色合いが素敵な夜明けの海を三人で散策しましょうね”



そんな言葉を読めば、胸の中が温かくなる。




(ほら、ネアとシルは、僕のことも連れていってくれるんだ……………)



「影の国の海沿いの街には、今夜はヴォジャノーイのような怪物が現れるそうだ。あの子はその怪物の訪問を受けてしまって、今夜はとても怯えているようだね。…………そんな怖さが吹き飛ぶくらいに楽しい予定を立てるのだと、こういう話になったんだよ」

「………………ヴォジャノーイみたいなって、…………怪我はしてないよね?」

「うん。アルテアが守ってくれて、シェダーがもう二度と入り込まないように、結界を張り直してくれたようだ。前の世界の遺物だから、魔術と魂が結びついていなかったらしい」

「………………魔術と魂が結びついてないって、…………そりゃ厄介だね。そんなにも僕達とは違うのか…………」

「私達は、魔術と魂が結びついて成り立っているのが当然として、結界を作ってしまうものだ。それをすり抜けて入ってきたらしい。…………でも、…………シェダーがその仕組みの差に気付いて、すぐに新しい結界を展開し直してくれたみたいだから、もう安全なようだよ」

「……………そっか。前の世界の生き物って、人間みたいだったんだなぁ。とは言え、人間も、死ぬ時に切り離すだけなんだけどさ、殆どの生き物はそうすると魂ごと消えちゃうからなぁ……………」

「前の世界の生き物は、命の作られ方が、今の世の人間に近かったのかもしれないね」



この世界で、人間は最も遅くに誕生した種である。


人間という種族の作られ方は、世界の転換期を越えてこの世界に残った、気体化した精霊達の意見を元にして生み出されたものだ。

その結果、人間についてのみ、生まれながら身に宿す魔術を持たず、大地や草花から様々な魔術を取り込んで循環させ生きるような形になった。


そんな形であるからこそ、魂と身に蓄える魔術を切り離せるということに気付いたのは、やはり犠牲の魔物だったように思う。


事象や草花からの派生など、生れ落ちる最初の要因を持たない人間の派生は難しかったそうだ。


様々な種族の高位者達が試行錯誤し、実はノアベルトも協力している。

そのようにして生まれたものなので、高位の者達の多くは人間を幼子のように庇護し、或いは自分の持ち物のように奴隷や家畜とし、まっさらな生誕を遂げた生き物への思いは様々だ。



(……………前の世界の在り方を参考にして生まれたものだからこそ、人間は、前の世界の生き物の成り立ちに似ているのか…………)



そう考えかけて、ノアベルトはおやっと眉を持ち上げた。



「…………でもさ、人間みたいに魂と魔術を分離出来るなら、前の世界の生き物はこちら側に残り易かったのかもしれないね」

「うん。私もそのことを少しだけ考えた。…………だからこそ、先代の終焉は、その殆どを砂と水だけにしてしまうまであの世界を滅ぼしたのかもしれないね。皆がいなくなるのに、残ってしまう者がいれば憐れだろう……………」



そう呟いたシルハーンはどこか物憂げで、あの、誰も戻っては来てくれなかった海辺で過ごした時間を思い出した。



「………………シルはさ、大丈夫だよ。僕もいるし、ええっと、………ウィリアムは多分どこにも行けなくてずっといるし、アルテアもいるんじゃないかな。ギード達だって、シルを二度と一人にはしないだろうし、……………ネアは、何度かに分けてずっと傍にいて欲しいってみんなで説得すれば、シルを置いてなんかいかないんじゃないかなぁ……………」


そう言えば、イブメリアの夜のような瞳を瞠って、シルハーンはこちらを見た。

あの日の自分もこんな目をしていたのだろうかと考えても、決して気恥ずかしくはならないのは、リーエンベルクに来てから、誰かに甘やかされることの居心地の良さを知ったからだろうか。



「……………でも、あの子は人間だからね」

「うん。だからこそその人間らしい強さで、ネアは自分の大切な者の為なら、何とだって戦って守ってくれるんだ。あまり長いのが困るっていうなら、僕達で崩壊を経ないような代替わりの方法を模索すればいいさ」

「…………………ネアは、それまでに私に飽きてしまわないだろうか」

「え、シルに飽きたりなんかしないと思うよ?!」

「この前、以前は大好きだった山羊のチーズのスープを、もう飽きたのだと話していたんだ。また飲みたくなるようになるのか、もう二度といらないのか、ネア本人にも分らないそうだ……………」



そう言って悲しげに項垂れたシルハーンに、まず、食べ物と婚約者では違うよと言ってあげようとしたけれど、どれも所詮は同じだと言いそうなネアを想像したら、少しだけ怖くなった。

二人で顔を見合わせて震え上がり、ネアが飽きたりしないように色々と目先を変えてやろうと密談する。



「ほ、ほら、僕達は頭数があるからね。シルと僕でしょ、アルテアとウィリアムもいるし、エーダリアやヒルドもいる。ずっと二人きりで顔を突き合わせている訳じゃないから、ネアも飽きないんじゃないかな。…………多分。……………この海竜の戦が終わったら、あの子を狩りに連れていってあげようか?」

「……………うん。狩りなら喜んでくれるだろうか。それとも、チーズがいいかな…………」

「チーズもかなり手堅いよね。……………ウィリアムも、そろそろ竜にしておく?」

「うん…………………」



二人であれこれ話しながら夜が更けてゆく。


ネアのカードに浮かび上がる文字に一喜一憂するのは、妙に楽しかった。

隣の寝台にシェダーがいるのは複雑だけれど、ネアがシーツを魔術で繋げることで、触れずに守ってくれていると話しているので大丈夫だろう。

ちびふわはちびふわなので、その形の時は警戒しない。



“ジアリノームさんはやはり、………前の世界の万象さんの、その伴侶の方を探していたのですね。……………私と間違えたようなので、私はその方に何かが似ているのかもしれません。何だか不思議ですね”



そんなネアの言葉に、シルハーンがさらさらと返事を書き込む。

こちらの文字を書き終えて送ると、ネアの文字が消えてしまうのは寂しいが、そうやって行き来するからこそ、確かに繋がっているという感じもするのだ。



“同じようなものであれば、嗜好が似ているのかもしれないし、同じようなものでなければ、そのような相手でなければ駄目だったのかもしれないね”



そう語るシルハーンの言葉に、記憶の残滓から生まれる怪物と成り果てて、世界の代が変わっても彷徨うのは自分達だったのかもしれないと考えた。

いつかもし、ネアが望まれない形で突然取り上げられたら、こうして彼女の側に寄り添う誰かが同じような怪物になって、ネアを探し続けるのだろうか。


そう考えるとぞくりとして、ネアが前の年の春告げの舞踏会で貰ってきた、やり直しの魔術のようなものをこちらでも幾つか作るべきだという気がした。


事象や時間を操作する魔術は、世界の理に触れるので作り上げても残すのが難しい。

あの春告げの舞踏会でネアが貰ってきたものも、祝福として誰かに贈るという条件付けをしたことで、何とか形になった稀有な魔術であった。


あの魔術符を作った春の生き物達は、死を思わせる冬が明け、いっせいに芽吹く春の豊かさに胸を打たれてその美貌を奇跡に例えた。

そうして、そんな感動を胸に、春告げの舞踏会の中でも最高の贈り物として、同じように花開く美しい奇跡を思わせる祝いの品を作ろうとしたのだとか。



一度出来たからといって、二度目が容易な訳ではなく。

その時は、そんな素晴らしい奇跡を、春告げの舞踏会の女王に贈ろうと心を弾ませた者達の思いが、あの魔術を織り上げるに至ったのだ。



(でも、そんな一枚をネアが持っているのが、何よりなんだけど……………)



海竜の戦の影が落ち始めた時、ネアはそれをディノに預けた。

自分に何かがあれば、それで取り戻して欲しいということであったが、そんな言葉に頷いてこうして待ち続けるシルハーンは、どれだけ恐ろしくて寂しいことだろう。


海竜の戦は、海竜の氏族たちがその役目を放棄しないよう、魔術の理で縛られているのが厄介なのだ。




「………………これは何だろう?」


そんなことを考えていると、シルハーンがネアから届いたものを見せてくれる。



「ありゃ。ムグリスと、狐の僕かな………………」

「………………ムグリス」


そこに描かれた絵には、よく見れば、ムグリスには小さな三つ編みがある。

言葉だけではまだ不安がるシルハーンの為に、ネアが絵を描いて送ってくれたのだろう。


「わーお、これ、どうにかして取っておけないかな。シルと僕だよ……………」

「……………何かに写すかい?」

「それだ。エーダリアが、模写用の紙を持っていた筈だから、エーダリアの執務室に行こう!」



もう一度覗けば、小さなカードの中に、ムグリスのシルハーンと、見慣れた狐がいた。

ネアは、こういう絵は上手なのだ。

上手だからこそ、細部まで再現されてしまうあのきりん達の絵が、世にも恐ろしくなるのかもしれなかったが、こんな風に描いてくれると嬉しくなる。




「エーダリア、写し紙を分けてくれる?」



そう言いながら入ったエーダリアの自室は、いつからか出入り自由になっている。

シルハーンを連れてそこに乗り込んだノアベルトに、驚いたように振り向く姿があった。


この契約者は、夜遅くまで魔術書を読み耽ってしまい、ついつい夜更かしする癖があるので、いつもかなり遅くまで起きていることを、ノアベルトは勿論知っているのだった。




「ノアベルト?!…………何かあったのか?まさか、ネアに…」

「シルがネアに描いて貰った絵を、残しておきたいんだ。写し紙に写し取ろうと思って」


勘違いしかけていたので慌ててそう言えば、エーダリアはほっとしたように溜め息を吐く。



「…………ああ、それならあちらの抽斗にあった筈だ。一枚でいいのか?」

「うん。上に重ねて、鉛筆でなぞればいいんだよね?」



そう言えば、なぜかエーダリアはこちらを見て難しい顔をした。

まるで査定でもするような目でじっくり観察された後、エーダリアは何か決意に満ちた眼差しになり、絵を写す作業は自分がやるからと言ってくれる。



「ありゃ、いいのかい?」

「………………私がやった方が、早く終わると思うが、それでいいだろうか?」

「シルは分らないけど、僕は結構器用なんだけど……………」

「だが、写して残しておきたいくらいに、大事なものなのだろう?それに、カードでのやり取りなら、早く終わって会話に戻れた方がいいではないか」



何も特別なことではなく、当然のようにエーダリアはそう言う。

シルハーンと顔を見合わせて頷くと、抽斗から薄い茶色の紙を取り出し、新規の魔術陣制作用の細い鉛筆を取り出してさらさらとネアの絵を写してくれるエーダリアに、また胸が温かくなる。



(……………ほら、エーダリアもやっぱり、僕を置いていかない人間だ)



それは、どれだけ疲れている夜であっても、汚れた銀狐が訪ねて来たらお説教しながらではあるが、必ず綺麗に洗ってくれるヒルドもそう。


何かに追いかけられたり、捕まっていたりすると、すかさず助けに来てくれるグラストや、騎士達もそう。

アルテアは銀狐の為にあれこれ道具を揃えてくれるし、あまりそれが自分だとは考えたくないが、最近ではウィリアムもボール遊びをしてくれる。




(……………だから、シルだけじゃなくて僕だって、ここの棲み家をどこにもやりたくなんてないんだよなぁ……………)



幸いにも、エーダリアの寿命はかなり長い。

それは、可動域が大きく常に身の内に多くの魔術を巡らせる者の宿命でもあるし、だからこそ人間の社会の中では孤独な晩年を送る者が多いと聞く。


でもここには、ヒルドもいるし、自分達も、シルハーンの伴侶になるネアも、きっとゼノーシュが離さないグラストや、何だか年々可動域を上げているゼベルも、多くの者達が普通の人間が得られるよりは多くを共に過ごす。



こんな夜だからか、これからも続くであろうここでの暮らしを思う。


エーダリアはこうやって、ネアが描いてくれた絵を嫌な顔一つせずに写してくれて、それをシルハーンと一緒に息を詰めて見守る。

照明の灯りを落した部屋は薄暗いからこそ温かく、胸の奥の柔らかな部分が掻き毟られるような、えもいわれぬ甘やかさがあった。



「ほら、これでいいだろう。我ながら上手く出来た」

「わーお、エーダリアは上手いし早いなぁ。シル、ネアがまた絵を描いてくれたら、エーダリアに頼もうよ」

「……………ネアの絵が増えた……………」



貰った写し紙を持って目を輝かせているシルに、絵の感想を送らないととエーダリアが言ってやっている。

慌てて、写し紙にその絵を残したことをシルハーンが告げると、ネアは何だか嬉しそうだった。



“ちびふわと、ウィリアムさんな竜さんも描きますね!”



「ありゃ。止まらなくなった……………」

「ここにいれば、エーダリアがまた写してくれるのかい……………?」

「そ、それは構わないが、せめて座ったらどうだろうか。それと、そろそろヒルドが……」

「私が何でしょう?」



いつの間にか部屋にいたヒルドの姿に、エーダリアがぎくりと背筋を伸ばす。

ゆっくりと振り返った先にいたのは、こちらも寛いだ室内着になっているヒルドだ。

何も考えずに起きている筈だと押しかけてしまったが、二人で何か約束があったりしたのだろうか。



「…………もしかして、ヒルドと飲んだりする予定だった?」

「まったく……………。こんな時間から飲んだりはしませんよ。エーダリア様は、新しいことを知り得た日には、夜通しの魔術書の読み直しに入ってしまうことがしばしばありますからね。そのような夜は、こうして見回りに来るようにしているんです。…………あなたや、ディノ様もいらっしゃったのは想定外でした」

「遅くに来てしまって心配をさせたね。ネアが描いてくれた絵を、エーダリアに写して貰っていたんだ」

「おや、ネア様が絵を?」




目を瞠ったヒルドが、シルハーンが持った写し紙を覗き込む。

お腹を出して転がっている姿が描かれた銀狐の絵を見て、ふっと唇の端を持ち上げて微笑んだ。




その夜は、何となくみんなで輪になり、ネアが描いてくれる絵をエーダリアに写してもらったり、ネアと一緒に寝るらしいちびふわをどこに設置するかの指南を、ネアにしたりした。

ネアからはエーダリアとヒルドは早く寝かせてやるようにと叱られてしまったが、そもそも本人達が寝ないのだ。


海の怪物に出会ってしまったネアをヒルドが案じ、エーダリアは、その怪物に自分も会ってみたかったと言ってしまい、ヒルドに怒られている。



(柔らかな夜だ…………………)



不思議なことに、ネアが影の国なんてところに落とされているのに、柔らかく静かな夜だった。



みんなで寄り添い言葉を交わすその様は、まるでほんとうに家族のよう。

かつて、仲良く暮らす海の乙女達を見て、自分ともそんな風に一緒に暮らすのだろうかと考えたあの頃を思い、苦笑して首を振った。




(でもここは、ずっといいところだ。僕が欲しかったのは、こういうものの方だった)



夜もだいぶ更けた頃に、エーダリアがまずヒルドに寝かしつけられ、ヒルドも部屋に帰ったので解散となった。

魔物はあまり眠らなくても平気なので、その夜はシルハーンと話しながら、ネアがカードに何かを書いてこないか気にかけつつ、ゾーイとシェダーが案じているという海竜側の事情の不透明さについて議論する。



ネアがあわいから持ち帰った、イブの魂の欠片は、ダリルを介してリーエンベルクに戻り、今はディノが持っていた。

海竜の戦に参加するウォルターに預けられていたが、ネアが巻き込まれた以上は、こちらに戻した方が良いだろうと最終的な判断が下されたらしい。




ネア達が影の国から帰れば、海竜の戦の中の、理の魔術に閉ざされる時間が終わる。


その後も勝者の願いを叶えてやったり、次代の王に決まった海竜のお披露目があったりはするのだが、部外者が完全に弾き出されることはなくなるので、ネア達が帰ってきたらすぐに、シルハーンと二人で海竜の離宮に押しかけるつもりだった。




「ありゃ、鳥籠はどうしたのさ?昨日の夕方に開戦したばかりだったよね?」



翌朝、爽やかな顔でウィリアムがリーエンベルクに来ていて、思わずそう尋ねてしまう。

昨日の今日で終わるような内戦ではなかった筈なのだが、この様子を見ていると、かなり大急ぎで片付けてきてしまったようだ。



「ウィリアム、鳥籠はいいのかい?」

「ええ。革命軍に属する騎士と、王が和平交渉に入っていますから、今日いっぱいくらいは。…………上手くは行かないでしょうから、明日にはまた悲惨な戦場に逆戻りでしょうね……………」

「そのまま鎮静化に向かうのは難しいのだな……………」



エーダリアがそう物憂げに呟き、ウィリアムが頷いた。

運ばれてきた朝食は、ウィリアムの分もある。

お客が増えたことをいち早く察して、料理人が増やしてくれたようだ。


こういうことが度々あるので、面倒じゃないのかと思うこともあったが、ヒルド曰く、様々な高位の者達が自分の料理を食べてくれることを、リーエンベルクの料理人達はたいそう喜んでいるらしい。



「で、今日はこっちに居座るのかい?」

「ネアが心配なんだ。当然だろう。………シルハーン、今日はこちらに居ても?」

「いいのかい?…………今のところは問題ないようだから、戦を守る海竜達を排除する程のことはないようだが、何かがあった時に、海竜を少し減らしてしまうかもしれないからね…………」

「ええ。そういう時は、俺がいた方が手っ取り早いですからね。前回は三日でしたが、ネアがいれば今日くらいに終わっても不思議では………………シルハーン?」




不意に顔を上げたシルハーンが、瞳を眇めてどこか遠くを望む。

その眼差しの鋭さにエーダリアが青ざめ、ウィリアムが立ち上がった。




「…………………シル?」

「………………あの子の守護に、大きな魔術が触れたようだ。…………人間の使う道具のようなものの魔術だけれど、竜の祝福を得ている。…………守護がなければ、ネアの命を奪っていたものだ」



その言葉を聞き、呆然とした。



ネアの側には、ゾーイだけではなく、擬態状態とはいえアルテアも、それにアルテアにも劣らず器用かもしれない今代の犠牲の魔物も一緒にいる筈なのだ。


そんな状況下で、誰がどうやって、ネアにその攻撃を届かせたというのか。




「シル、…………場合によっては、門を守る離宮は壊せばいいよ。海竜の国に行こう」

「………………そうだね。アルテアや、…………シェダーがあの子を守れないような状態にあるくらいなら、何かが起きている筈だ。海に下りようか」

「俺も行きましょう」



そう言ってウィリアムは微笑んだが、ヒルドの提案でウィリアムについては擬態してゆくことにした。


アルテアやシェダーを退ける程の事態が起こっているのなら、一人くらいは手の内を伏せておいた方がいい。



「ヒルド、シルがゼノーシュを呼んでくれているから、僕達が不在の間は無理をしないようにね。それと、僕達が戻れそうにないってことはまずないと思うけれど、何か厄介な状態だったら、イーザ経由でヨシュアを働かせてくれるかい?」

「ええ、勿論です。…………恐らく、海竜の離宮に留まってくれている夜海の竜の王子からも、イーザには連絡が入るでしょうしね」

「うん。じゃあ、行ってくるよ」




不安そうにこちらを見るエーダリアにも頷いてみせて、転移を踏んだ。




眼下に広がるのはいつか憎んだ青い海で、もう一度この海を憎むようなことにはならないよう、祈るような思いで海竜の離宮の前に降り立った時、海竜の戦の終わりを告げる大きな鐘が鳴り響いたのだった。




誰が勝者なのかは、まだ誰にも分からなかった。












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