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海の底の優しい怪物





海の底には、海竜と海の精霊達に守られる影の国への扉があるらしい。



そんな話を聞いたのは、かつてヴェルリアで暮らしていた一人の将軍だ。

魅力的な男だとされその己の魅力を知り尽くした上で、何人もの女達を食い物にした不愉快な男だ。



自分の前歴ながら吐き気がすると思うのも、奇妙な話だろうか。




「と言うことで、少しの間出掛けてくる」

「ちょ!どうすればその言葉になるのか、さっぱり分かりませんからね?!」

「リソ、海底にある、前の世界の残骸から生まれた特別な国と聞いて、魔術師として見過ごせる訳がないだろう?」

「ニケ王子……………」

「そりゃ楽しそうだな。よし、行ってこい」

「お前はまた他人事のように…………!!」

「いや、こいつなら普通に無事に帰ってくるだろ?」

「…………それはそうだが…………」



上手くリソも落ち着いたので、ニケは早速、海竜の戦に出る事が決まっていた小国の騎士をリュツィフェールの餌にしてしまい、上手くその男に成り代わった。


一緒に組む筈だった海竜には少し訝しまれたが、この戦に向けて国の魔術師達から脆弱な魔物を食わされたのだと言えば、気質や言動が変わってしまったことへの追求は逃れられた。



『ああ、そのようなことは珍しくないな。人間は悍ましく低俗な生き物だ…………』



国の利益の為に、戦に赴く者が非道な魔術に補強されるということは珍しい事ではない。

それをこの海竜も知っているのだろう。



指定されたその日、指定された場所に集まったニケとその海竜は、迎えに来た海竜の貴族に導かれて海底の離宮に向かった。


光の差さない程に深い海底には海の森があり、その奥に素晴らしい青い宮殿がある。

中に入れば見上げて目を瞠るくらいに天井は高く、大陸最大の国と言われるカルウィの王子である自分が見ても、呆れるほどに豪奢な建物だ。



青い青い石材を積み重ね、その離宮は建てられていた。

よく見れば、これは宮殿というよりは霊廟に似ている。

この中にある扉を守り、その向こうにある影の国を鎮める為の役割があるのかもしれない。



影の国とは何なのだろう。

あらためてその成り立ちを考える。

聞いているだけのもので全てなのか、もしくはまるで違うのか。




(影の国への入り口を管理しているのであれば、このくらいの規模は必要なのだろうか…………)




大した施設なので、ここを見られただけでもこの海竜の戦に参加した甲斐はあったと、ニケは既に上機嫌であった。

そしてその喜びや高揚感の内訳は、かつて万象の伴侶であった男とは何の関係もない、ニケという魔術師としての心の動きだ。



あの男がここにいたら、失われた愛する者達の為に泣くだろうか。

それとも彼は、ただ静かに失われたものの上に育った影の国を眺めるのだろうか。



(それはさて置き、他の参加者達を見ておくか…………)



恐らく、今回参加のヴェルクレアからは、ヴェンツェルが知っている者が選ばれているだろう。

顔見知りだとやり易いのだが、そこまで都合良くは運ぶまい。

ニケの目的は勝ち抜くことではないので、適度に距離を稼ぎ、そちらの組とぶつかる前に影の国を堪能し、さっさと棄権してしまおう。



そんなことを考えていたら、一つ目の騒ぎが起こった。



立ち合いとして呼ばれた海嵐の精霊王が、突然、海竜の予言者に参加者として選ばれてしまったのだ。

しかも、その結果、既に選ばれていたヴェルクレアの参加者達が戦から外され、また新しく選抜されるのだと言う。


突然この戦から下ろされるのが自分ではなくて良かったという思いと、よりにもよってヴェルクレアかという思いに揺れ動きつつ、ニケはその後の動きを見守った。



(選ばれたヴェルクレアの人間が、第四王子側の者であれば、ひとまずここで排除しておくというのもありだな…………)



そんなことを考える。

この海竜の戦で得られるくらいの恩恵であれば、ヴェンツェルであればすぐに補完出来るだろう。

それならここで、友の政敵の力を削いでおいてやるのもありだなと思うのだが、場合によってはヴェンツェルが既に手駒にしている者の可能性もある。

相手の参加者を観察し、カードから尋ねてみて、ヴェンツェル自身からその人物の情報を貰った方が良さそうだ。




そう考えていたニケだったが、最後にこの離宮に呼び落とされた人物を見た時には、さすがに唖然としてしまった。




(……………ネア、だったか)




そこにいたのは、自国の領域を統括する魔物から決して損なってはならないと誓約を求められもした、ウィームの領主の館に暮らす歌乞いだ。

しかも、哀れなことに突然引き落とされたのか水着姿で、たいそう困惑している。



ほんの少し、心が騒いだ。



影の国に過去の証跡を追いかけて入らんとするその日に、いつかの誰かに面差しの似ている彼女に出会うのは、果たしてただの偶然なのだろうか。



(残念なことだ。ここでヴェンツェルの友人だと名乗り、この少女と少しでも会話を出来れば良かったのだが……)



そんな欲が疼いたのだろう。

少しだけ、差し出した上着をきっかけに会話を持つことにする。

このような時に、彼女のパートナーとなる海嵐の精霊王が、敵となる人間が差し出す上着を受け取らせないであろうことは、最初から予測出来ていた。

だから、それは彼女と話す為に、無駄だとわかりながらも差し出された小道具であった。



こちらを見る灰色の瞳は、無防備で静謐だ。

見た目の通りに脆弱な少女ではあるまいと見通すことは出来ても、それが、自分の最も遠い前歴の男が心を奪われた女なのかどうかまでは分からない。



とは言え、まさかそんなという失笑めいた諦観があり、姿形すら違う少女と短く言葉を交わす。



(そんな事などある筈もないし、………もしそうだとしても、微かな驚きや満足感以上に彼女に思うことがある訳でもない…………)



それはきっと、遠い昔に見た古い映画の中のお気に入りの登場人物に出会えたような、窓枠の向こう側の執着と好奇心である。

それでもと考えてしまうのは、魔術師の性としての部分も大きいだろう。

ニケ自身の探究心なのだ。



(自分に関わるものとしてであれば、寧ろ前の世界の痕跡こそを探してみたいものだ………)



この、ネアという少女との邂逅が古い映画の記憶なら、先代の万象の証跡探しは遠い祖先の記録を辿るようなもの。

なぜ、自分という人間がここにいるのかを知る為に、時折その時代のことを知りたくなる。



(それと、影の国にあるという、海湖の叡智の魔術書を探してみたい。………前の世界の魔術の残骸にだけ咲くという薔薇や、幻の海底樹を持ち帰れば、魔術道具に出来る……………)



欲しいものや知りたいこと、影の国への興味は尽きない。


ニケは、意気揚々と影の国に踏み込んだ。





「おい、…………なぜに木の根元ばかり見ている?敵がそんなところから出てくるとは思えないが」

「薔薇の花を探しているんだ。見たら教えてくれるか?」

「…………それが、戦に関係あるのか?」

「ああ、そうだ。これでも階位の低いものであれ、魔物を取り込んでいるからな」

「……………頼りになるんだろうな」



途中までは、何とか誤魔化せたのだが、死の森に投げ込まれながらも呑気に薔薇を探している人間に、気の短い海竜が我慢出来たのは二時間が限度であった。



「…………貴様の振る舞いには我慢ならん。縛り上げてでも連れてゆくぞ」



とうとう彼がそう言った時、ニケは立ち上がって手をはたくと、静かに微笑んだ。

どの人物に成り代わるかを選定した時に、ニケはいなくなっても支障のない人物を選ぶようにしたものだ。


目的の為に犠牲にするのであれば、僅かに残った主人の良心が痛まない相手が好ましい。

そう考えたのはリソであり、寧ろ排除するべき相手をと意地で探し出してきた。



『あの男もそうですが、組んでいる海竜も排除して問題ありませんよ。海竜の一氏族の長の息子ですが、彼は魔術師狩りをしています。とは言え、自身の守護を与えた土地の外の魔術師ですが、かなりの人間を殺してますから、ニケ王子の経歴にも傷は残りません!』



経歴に傷云々は、兄弟達で殺し合うカルウィの王子に今更気にかけさせるものだろうかと思わないでもなかったが、魔術師狩りをしているのなら将来的には邪魔になる可能性はある。

まぁ、この世界に、魔術を扱う魔術師達を好んで殺す人外者はとても多いので、海竜一人くらいなんてことはないのだが、気分的な問題だ。




「それは残念だ。では、俺も自衛せねばならないな」




そう言ったニケの姿を、彼はどれだけ見ていられただろう。

驚愕に目を瞠り、どうっと倒れた海竜はすぐに事切れた。



質量の大きな海竜の姿で暴れないよう、その海竜には予め毒の魔術を仕込んであった。

敵対しなければ殺さないというものではなく、棄権する為にはこの竜を殺す必要が初めからあったのだ。



(それなら、準備は早く済ませておいた方がいい)



あの海竜の離宮に辿り着く前から、そんな仕掛けがあったのだとは、この竜は気付きもしなかったのだろう。




「…………ほお。早々に植物の苗床になるのか。影の国独自の反応だな…………」



倒した海竜の亡骸は、あっという間に草花の苗床になり、亡骸が塵になって崩れるまでの短い時間でこの国の生き物に最後の奉仕をしたようだ。


それを興味深く見守り満足すると、ニケはまた森を歩き始めた。



ざくざくと、深い森を分け進む。

陽の光のあまり差さないような深い森には、光る苔や花々が多く自生していた。

時折、大人二人が両手を広げたくらいもある太い枝の上を駆け抜けてゆくのは、栗鼠のような生き物か。


垂れ下がって揺れているのは、漆黒の藤の花めいたもの。

念の為に、それも採取してみたが、茎を折るとさらさらと砂になってしまう。

その砂を苦心して集めると、細やかに輝く美しい漆黒の砂に暫し見入った。



また深い森を歩く。

森はひんやりとしていて、多少のことでは汗をかくことはなさそうだ。



(あの少女に言われたように、靴を履き替えて良かったな)



忠告を聞き入れ、ニケはすぐにサンダルを履き替えた。



恐らく彼女は、水の瞳のような能力を持っているのだろう。

ニケに履き物についての忠告をした時、ネアは扉の一箇所に視線を投げた。

まるで扉を見てそう思ったような視線の動きに、ニケは彼女にだけ見えている何かがあるのではないかと考えたのだ。



(水の瞳を持つ魔術師に、一度だけ出会ったことがある……………)



その時のことを思い出し、ニケは彼女のその能力が周囲の者達に気付かれないように忠告しておいた。

聡い少女だと思うので、その後は警戒してくれたと思う。



それが守護でも、生まれ持ったものでも、自分が異端だと気付くことは必要だ。

彼女はまず間違いなく、ニケやリアと同じような異端の才を持つ者だ。

とは言え万象の伴侶として得たものに違いなく、まだあまり自覚がないのかもしれない。



ニケが出会った水の瞳を持つ魔術師は、ある日、忽然とその屋敷から姿を消したそうだ。

屋敷には彼の両足だけが残されており、その事件を調査した魔術師によると、そこには高位の魔物の痕跡があったという。


仮面の魔物に殺されて煙草にされたのだとか、欲望の魔物に囚われ、瞳だけにされて翻訳機代わりに使われているだとか、様々な噂を聞いた。



異端さで受ける差別などは可愛らしいものだ。

希少品や獲物として目をつけられることほど、厄介なことはない。



がさりと、危うく木の根に躓きそうになって苦笑する。



「…………っと。考え事をしながらの森歩きは危ないな。薔薇はそう簡単には見付からないようだ。…………街を探した方がいいかもしれない」



幾つかの植物と木の実を採取し、小さな鉱石も五つほど集めた。

採取箱を見て満足の溜め息を吐くと、次は魔術書だと街に向かう。





一番近くにあったのは、灯台の街という大きな街だ。



大木ほどの高さの堅牢な壁に囲まれている割に、街に入る為の特別な通行証などは必要ないようだ。

他国という概念がないので、これだけ緩いのだろうかと肩透かしを食らいながら壁を抜けた。


街で手に入れた地図を見れば、この街だけでカルウィくらいの規模はありそうだが、各灯台を領主館のように扱い、灯台守を最高権力者とするのがなかなかに面白い。



ニケがまず訪れたのは、青の灯台の街であった。



そこですぐに耳に飛び込んで来たのは、海から上がってくるジアリノームという怪物のことだ。

清しい香りに誘われて立ち寄った果物屋で、新鮮な果物をジュースにして貰って飲んでいると、その店主から教えられたのだ。



「海から…………」

「ああ、やっぱりあんた内陸の人間だね?こっちはさ、海から来るんだよ。そっちは森だろう?」

「…………ああ。そう言えばそうだったな。すっかり失念していた。森から離れれば安心という訳ではなかったな」

「やっぱりか!死の森を超えて来る旅人が、よりにもよって安全な森から海沿いに来るなんておかしいと思ったよ。まぁ、森のものが現れるのは来月だ。そいつに怯えて出てきちまうのは仕方ないか。とにかく、こっちは海沿いが危ないからな。今夜は早く宿を取れよ!」



気のいい果物屋の主人は、そう笑ってニケの肩を叩いてくれた。

遮蔽された屋内にいれば問題ないようだが、そんな生き物が出現するということにニケは興味を持った。




(過去から生まれる怪物か…………)




その過去は、どこまでニケの中にある履歴に残っているものなのだろう。

案外、そう言われているだけのハリボテで、何の関係もない祟りものかもしれない。



(だが、それを見ずに帰る訳にもいかないな…………)



ここにリソがいたら大騒ぎしそうだが、魔術師としての血が騒いだ。

まだかまだかと待ち続け、ようやく宿を抜け出したのは、真夜中をだいぶ過ぎた頃で、夜明け前の一番暗い時間である。



それでも、街灯も月もない街は、街路樹や家々が不自由なく識別出来るくらいには明るい。

星空が明るいこともあるが、灯台の灯りが、一定間隔で街を照らしているからだ。



ゴーンと、灯台近くの鐘楼が、怪物の接近を知らせる鐘を鳴らしている。



今年の怪物は、灯台の国の中の黄色の灯台の区画、東の端から上陸し、最も遠いこちらに向かって来ているらしい。


地図を見ておおよその距離を測れば、この時間にここまで辿り着くのだから、かなりの距離を移動してきているし、随分な速さだ。



(かなり大きいか、………運動量の問題か………)




ゴーンと、また鐘が鳴る。

風が強く吹き始め、何とも言えない臭気が風上から漂って来た。


甘い香りと饐えたような腐臭に顔を顰め、身の回りに張り巡らせた結界と、祝福と呪いを撚り合せた防壁を調べ直す。

これは溜め込んだ中でも上質なものばかりだが、それを手放してでもこのジアリノームという怪物に会ってみる価値はある。



影の国に来ることなど、もう二度とないだろう。




「…………やれやれ、それでも、対面して正気が保てるのは、長くても十五分か」



白樺の魔物から得た白持ちの髪を晒し、ニケの手持ちの多くを消費して稼いだ時間だが、捕まったりしたらすぐに失われる時間しかない。


そんな足止めを警戒し、白樺の魔物が持っていた鹿の祟りものの毛皮を手に持っていた。

この毛皮に水を注げば鹿の祟りものになり、目についた動くものを襲うようになる。

ニケの姿は見えないように魔術防壁で目隠ししておき、あの怪物の前に放つことで、逃げるだけの時間稼ぎは出来るだろう。


祟りもの同士であれば、怯えてしまって役に立たないということもあるまい。




ゴーンと鐘が鳴った。

これで十二回目だ。



街は恐ろしく静まり返り、真っ暗な悪夢のような闇がするすると天上から降りて来る。

それは不可思議な明度の変化で、天頂の一点から半円形の夜空に漆黒のインクを流すようにも見えた。



その夜空のインクが流れてくると、灯台の灯りも塗り潰されたように見えなくなる。




(ああ、やって来る…………)



息を詰めて暗闇の向こうを見据えていると、やがて、ずるりと巨大な体を引き摺り、闇の向こう側から巨大な蛇のような生き物が現れた。

蛇の頭頂部にあたる部位には、歪に捻れた角のようなものがびっしりと生えている。

その隙間から垂れ下がっているのは、髪の毛か、毛皮か、もっと悍ましいものか。




ずるりという音の後に、不可思議な音が続いた。


皮袋に水を満たし、それを地面に投げ落とした音に似ている。

その音が聞こえると、魔術的な反応か心理的なものか、ぞぞっと肌が粟立った。



こちらに向かってくるのは、悪しきもの。

ひどく壊れて狂ったものだと、五感の全てがここから退くように訴えてきた。

けれども、それをさらりと受け流せるのが、魔術師というものなのだ。




(となると、あの巨体の内側は液体………?海から現れるのであれば、海水ということもある……………)




「………………ここにいたの」

「……………っ、」




その大きな体ばかりを見ていて、すぐ目の前にまで近付いた小柄な影に気付くのが遅れた。

突然、耳元で囁くような声が聞こえ、ニケはぎくりとする。



視線をゆっくりと下に向けると、そこにはなぜだかその輪郭以外は認識出来ない、奇妙な影絵のような生き物がいる。

背格好的に、人型の女性のようだが、足下までの長い髪を引き摺り、こちらからは影になっていて漆黒に塗り潰されたようにしか見えない。



どこにも光源などないのに、逆光になっているように感じるのが不思議でならない。





「……………ジーク、今日は雨が降るから、早く帰った方がいい」




再び響いたのは、理知的で澄んだ女の声だ。

語られた言葉に一瞬頭が真っ白になり、じっとこちらを窺う気配にはっとした。




「…………そうなのか。では早く帰ろう」

「ディネイと海に来る時には、また迎えに行くから…」



直後、水が地面に落ちるように、ばしゃんとその影が崩れた。

夢から醒めたように目を瞠ったニケの頭上で、山くらいもある巨大な生き物がおおんと鳴いた。



(いつの間にここまで……………!)



それは耳の奥に残るような、不思議な低音の響きで、なぜだか分からないが息が止まりそうになり、ニケは胸を押さえる。



ゴーンと鐘が鳴り、その響きに重なるようにして、また怪物が鳴いた。

先程までの異臭はなく、純粋な水の香りとふくよかな花の香りがする。




「……………海に、帰るのだな」




ずるりと体を捻り、海に帰って行く巨大な蛇は、海水に頭が浸かったと思われるあたりで、ざあっと淡い金色に光ると、細やかな光の粒子になって空気に解けてゆく。



そんな光の粒を見送り、ニケは理由のない衝動に駆られ、海に向かって深々と頭を下げた。



魔術師として生きると決めたその時から、このような大いなる自然の叡智には敬意を払うようにしている。

けれど、それとは違う何かに突き動かされて。




「あなたに、会えて良かった」




それでもきっと、そう言ったのは魔術師であるニケの言葉だろう。

その中に幾ばくかのかつての誰かの感傷があるとしても、それは物語に感情移入してしまうようなもの。



その男は、もうどこにもいないのだ。



(でも、…………そうだな、少しだけジークとして見送るのも悪くはない…………)




光の粒子が完全に消え去るのを見送って、どれだけそこに立っていただろう。

やがて、ここからも見える水平線の向こうに朝日が煌めき、空が柔らかな藍色と菫色を滲ませる。




(……………あれは、誰だったのか)




美しい夜明けの空を眺め、覚えていなくて当然なのだが、そんなことを妙に残念に思った。

名前が分かり、その姿を思い浮かべられたなら、あのように気遣われた理由が分かるだろうか。


その後、長い時間をかけて海岸沿いの砂浜をどこまでも歩くと、欲しかった樹の枝が波打ち際に打ち上げられていた。

光の粉をまぶした鉱石のような枝を拾い上げ微笑むと、また海の方を見る。




その後、ニケは赤の灯台の街を訪れ、そこにいたネアと海嵐の精霊王の二人と、どういう事情か手段でか一緒にいた、統括の魔物に遭遇した。



どうせ棄権するなら、ヴェルクレアの二人の手助けでもしてやろうかと思って探していたのだが、まさかグレアムがいるとは思わず、ひやりとしたものだ。

姿を隠したまま棄権することも出来たが、秘密にしておいて後から誓約違反だと難癖をつけられても面倒だ。


それなので、あえて声をかける。

そして棄権をするその直前に、吐き戻しで影の国から追い出されたのだ。




一緒に影の国から追い出された魔物達と、海竜の離宮に放り出され、その混乱の隙を縫って女王に棄権する旨を伝えてそこを出た。




海竜の青い青い離宮を出ると、海中でも呼吸の出来る海の祝福結晶を握り、深い海を見渡す。




『あの怪物さんは、青に白混じりの長い髪をしていて、金色の瞳だったように思います。………でも、影絵のようなものだと、そう聞いているのでお探しの方ではないのかもしれません』




そう教えてくれたのは、ネアだ。



かつて、前の世界の万象の魔物の伴侶だった男には、他にも指輪を送った魔物達がいた。

彼が伴侶としたのは、ディノルネイアという名前の万象の魔物一人だけであったが、彼を慕う他の魔物達とも、比較的良好な関係を結んでいた。



片手を額に当て、白混じりの青い髪に淡い金色の瞳をしていた、海の魔物を思う。

万象の魔物の友人の一人で、あの男を慕ってはいたが、同じように友人である万象の魔物のこともたいそう大事にしていた。




「セレスティエル…………」



小さくその名前を呟き、こちら側の新しい世界の海の底で、あの優しい怪物を思う。



あの怪物はいつも、海から現れ海に帰って行くそうだから、今は影の国の海の底に眠っているのだろうか。

勿論、出現時以外は存在しない影絵のようなものだと分かってはいるが、まだあの海の底にいるような気がしてしまう。



あの後、影の国では雨は降らなかったが、ジークという名前の男が馬車の事故で命を落としたのは、激しい雨の降る日だったことをニケは知っている。




「………そうだな。あなたの忠告を忘れず、雨の日の事故や怪我には気を付けよう」




そう呟くと、ニケは雨などそうそう降らないカルウィの屋敷に帰ったのだった。






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