294. とうとう棄権者が出ました(本編)
翌日はからりと晴れた。
雲一つない青空を見上げて、ネアはあのような日の後は必ず晴れるのかなと唇の端を持ち上げる。
結局、夜明け前に目を覚ました時もまだ外は暗く、ネアは先程やっと入浴出来てさっぱりしたばかりだ。
洗いたての髪はさらりと軽くて気持ちがいい。
如何せん、こちらの人間は水着姿でどこかの離宮にぺたんと座り込む羽目になり、竜に乗って空を飛び、森を散策して海の怪物に出会った日にお風呂に入れずにいたので、体や髪を綺麗に洗えるとほっとした。
眠りの合間で、ホラーな出会いを思い出してむぐぐっと眉を寄せれば、一緒に寝ているちびふわが頬に擦り寄ってくれたし、誰かの優しい手に頭を撫でられたような気がする。
(頭を撫でてくれたのは、シェダーさんかな。きっとシェダーさんにとっての私は、大事なディノの敵をきりんさんで滅ぼせる頼もしい同志なのだと思うし…………)
これは謙遜でもなく、卑屈さでもない。
そんな前提の上で、大事な人を慈しんでくれる君が大切なのだという姿勢をきちんと見せてくれるのが、シェダーだった。
だからネアは、この影の国にまで来てくれたシェダーの善意は、一度だって疑ったことはない。
今後もネアがディノを大事にしない筈がないので、であればシェダーはずっとネアの味方なのだった。
その明確さは、家族の枠の外側にいる他の魔物達とは少し違う。
(だから、ディノの趣味がこれ以上専門的にならないようにしなきゃだわ。シェダーさんはその手の趣味に理解なんてないだろうし、あんまりなものを見たらショックを受けてしまいそうだもの…………)
そんなものは存在しないのだが、ネアの会とやらの存在にも気付かせてはならない。
そんな支持者を持つ人間なのかとシェダーを落ち込ませてしまったら、ネアも立ち直れない。
ピチチと鳥が鳴いている。
三人はホテルのレストランの外にある、テラス席に座って朝食を食べていた。
室内で食事をするお客が殆どで、今はテラス席にいるのはネア達だけだ。
つまり、内緒話にうってつけなのだった。
朝に開いたカードには、ディノ達から驚くべき情報が届いていた。
海竜の離宮に居座っている夜海の竜が聞いた話が、各方面を経由してリーエンベルクに届いたらしい。
昨晩の内に、今回の海竜の戦の参加者の一組が、海で亡くなったのだそうだ。
(どうやって勝敗を見極めているのかなと思っていたけれど、魔術的な反応で自然に今の戦況が分かるのだとか…………)
海竜の王宮にある、影の国の地図を模した魔術盤には、参加者達を示す駒がある。
それが自然に動き、現在の状況を示すのだ。
(海で巨大な生き物に食べられてしまったようだから、きっと海の怪物さんに出会ってしまったのではないかと言われているみたい………)
彼等を食べてしまった巨大な影が、昨晩の内にネア達の駒にも接触したというので、間違いはないだろう。
そんな報告を共有すれば、シェダーとゾーイも敵数が減ったことを喜んでいた。
「それにしても、海竜の戦は、森の怪物さんや海の怪物さんが現れる日に合わせて始められるものだったのですね………」
ネアがそう言えば、シェダーがふっと微笑みを深める。
「俺も初めて知った。…………海竜の戦は、元は海竜統一の為の戦いだった。後々に出来るだけ禍根が残らないよう、あの怪物を利用するのは苦肉の策でもあったんだろう………」
「確かに、他の一族の方に敗れたというより、影の国の怪物さんに食べられたという方が後腐れもないでしょうね………」
「案外、この影の国の手入れも兼ねているのかもしれんぞ。…………にしても、思ってたよりも、ずっと気の抜けた朝になったな」
そう呟き、ゾーイはくあっと欠伸をする。
それでいてどことなく楽しそうなのは、昨日の話を踏まえれば、好戦的だからではなく、陸地のあちこちを動けるのが楽しいからなのだろう。
ぐぐっと伸びをしたゾーイは、狼的な要素というよりも、気まぐれな大型のネコ科猛獣を彷彿とさせる。
「確か、街のざわつきが落ち着くのを見計らってからここを出るのですよね」
「ああ。今は昨晩の片付けなどで忙しないからな。………そんな混乱の中の方が目立たないと思うかもしれないが、災厄の訪れの後というものは、人々は注意深くなる。損傷や損失を調べる為に、いつもとは違う形や色のものを無意識にでも探したりするものなんだ。その最中ならともかく、こういう時はかえって動かない方がいい」
「そのようなことまでを注意したことはなかったので、勉強になります。………私はこういうものに巻き込まれることが多いので、覚えておきますね」
確かに、嵐の後などは街をよく見る。
あの木の枝が折れているだとか、あの草が倒れているけれどその前からだったのだろうかとか。
そして、いつもはさしてよく見てもいない景色の中に見たことのないものを見付けると大興奮し、非日常が齎した新参者をじっくりと観察する。
シェダーが警戒するのは、そんな、非日常というものの熱気なのだろう。
「…………お部屋に帰ったら、お風呂ですね」
「ん?あんたはもう入浴しただろ」
「ちびふわの様子をご覧下さい。大変なことになっています」
ネアは確かに入浴を終えてすっきりとした。
とは言え、この朝食の席でちびふわは塩焼きの海老にはまってしまい、夢中ではぐはぐ食べていてすっかりべたべたになっているので、今度はちびふわを洗わなければいけないようだ。
ゾーイもそちらを見て顔を引き攣らせたので、べたべたになりながら夢中で海老を食べるアルテアという認識なのかもしれない。
(…………ふふ、凄く嬉しそうに食べるなぁ………)
あまりにもちびふわが大喜びしているので、シェダーが今日のお昼は市場で有名な小海老のサンドにしようと言ってくれる。
昨日街を歩いた際に、そんな情報も仕入れておいたのだそうだ。
「ほわ、小海老のサンド!!」
「せめて君に、この土地のものを食べさせてあげたいからな」
「シェダーさんはとっても優しいです。張り切って食べますね!」
「……………あんたは今朝も、貝柱のタルタルと魚のクネルを食っただろ」
「あらあら、朝食と昼食というのは、別のものなのですよ?」
「……………それと、そろそろアルテアが海老を喰い過ぎだ…………」
「なぬ。ちびふわ!それで五匹目ですよ。ちびふわの本体の大きさをゆうに超えてしまうので、自粛して下さい!」
「……………フキュフ」
世を儚むような眼差しのちびふわの為に、ネアは塩焼きの海老の殻を剥いてやり、六匹目の海老の身を、少しだけ千切って与えてやった。
ぷりっとしていて甘い身には、殻の上から振ったお塩と焼くまでに漬けておいた香草の塩だれが絶妙に染み込んでいて、素朴な味わいながら手が止まらなくなる。
少しではあるが、また身を貰ったちびふわは夢中で海老を食べていたので、今度からちびふわになった時には海老の塩焼きを与えてみよう。
(お菓子に比べると思ったより野性的な感じだったけど、元になった動物は肉食なのかしら………。まさか、こんちゅう…………)
そんなところが少し気になったが、海老くらいであれば気軽に手に入るので、ちびふわが泥酔せずに食べれる大好物が見付かって一安心だ。
「今日は海の方に行くのですか?」
「…………そうだな、海沿いにある大きな博物館で、少し情報を得てみよう。他の参加者を排除するのは簡単だが、肝心な竜の至宝がまだ不明のままだからな…………」
「どんなものなのか、まったくの謎ですね。…………は!博物館と言えば、昨日買った人魚の笛を洗ったら、綺麗になったんですよ」
ネアがそう言ってポケットから取り出したのは、昨日、川沿いの街の市場で買った、人魚の笛だ。
人魚の笛ということだったが、ネアには竜に見えるし、お店の店主だった青年の祖父は、カワウソだと言っていたそうではないか。
そうなると、安易に人魚の笛と言っていいかどうかが悩ましいという問題もある。
(でも、暫定、人魚の笛で!)
そして、そんな人魚の笛をネアが取り出すと、なぜか男達がぴしりと固まる。
食後の珈琲を飲んでいたシェダーの白灰色の髪が、体の動きに合わせてさらりと揺れた。
星空の瞳は見開かれ、唇が微かに開く。
「…………ネア、これをどこで買ったんだ?」
妙に低く慎重な声で尋ねたシェダーに、ネアはおやっと目を瞠った。
「………む。川沿いの街の市場の中で、かつての私のような境遇の店主さんがいまして、その方が売っていた唯一の品物らしいものだったのです。お話を聞いた時から買う気でしたが、買ってみたら少しだけ竜さんに似ているので綺麗に洗ってみたんですよ」
(あの方は、持ち直せるだろうか………)
指先で拭い取ってあげたいくらいの濃い隈を目の下に作って、薄暗いテントの下で項垂れていたあの青年。
失われたものに心が囚われている時に、そんな美しく愛おしい過去を置き去りにするような、不誠実な未来のことを考えるのはとても大変なことだ。
でも、ネアが素敵だなと思った古書店の店主がとても気にかけていた。
あの店主の雰囲気であれば、彼を温かく包んでくれそうだと思う。
後はもう、あの女性が向ける気遣いが、彼にとっての着心地のいいセーターでさえあれば。
(……………なんてね)
とても身勝手な期待に、ネアは苦笑する。
自分が幸せになったから他人も幸せになるべきだと言うほどに強欲ではないが、他人の幸せも願うくらいには我が儘になれた。
我が儘でいることを許してくれるだけの柔らかさを取り戻してくれたディノの為にも、ネアは許されるところでは我が儘でいたい。
(だから、この人魚の笛は、私がその我が儘を貫き通せたという、私にとっての大切な戦利品なのだわ)
手のひらに乗るサイズの、買った時は少しくすんでいた人魚の笛だが、まさか人魚の笛も、ここで見知らぬ人間によって泥汚れ用の洗剤でわしわし洗われるとは思ってもいなかっただろう。
ホテルの洗面台で、石鹸で洗ってみたが、ちっともくすみが取れなかったので、ネアは、金庫に持っていた逃げ沼用に購入してみた強力泥洗い用の魔物製洗剤を使って、わっしゃわっしゃ洗ってみたのだった。
すると笛はぴかぴかになり、売られていた頃はまったくなかった輝きを纏った素晴らしい笛に生まれ変わったのである。
相変わらず、手彫りのような無骨な魅力はそのままだが、買った時の工芸品のような雰囲気から一変、色合いも変わり、荘厳な佇まいの珍しい魔術道具のように見えた。
そして今、澄んだ藍色の内側で鮮やかな水色が燃えているようにも見える素晴らしい笛になり、ネアの手の中で朝陽を浴びてきらきらと輝いている。
「……………なあ、その色と形を見たら、海竜だとは思わなかったのか?」
「……………む。これは海竜さんなのですか?購入する際、頑なに人魚だと言われましたし、持ち主のお爺様は、カワウソだと思っていたようです」
「……………残念ながら、俺にも海竜に見えるな。………この笛を吹くとどうなるのか聞いたか?」
「ええ。何も起こらないようですが、綺麗な音が出るようですよ」
ネアがそう言ってもシェダーとゾーイは顔を見合せて固まってしまったままだったので、手の中にあるきらきらと光る綺麗な笛をじっと見下ろし、ネアは手をわきわきさせてみた。
「…………とは言え、私は最近もリズモを沢山狩って収穫の祝福を蓄えてあるので、良いものを収穫した可能性はあると思います!今度、海竜さんがいる場所で、ぴっとこの笛を吹いてみますね」
「ネア、その実験は必要だと思うが、絶対に一人ではやらないように。何が起きるかわからないからな」
「うむ。シェダーさんか、ちび…………ふわは保留として、ゾーイさんのいるところで吹きますね」
「フキュフ!」
「でも、ちびふわの大きさと竜さんの大きさを比べると、ちょっと……………」
「フキュフ!!」
頼りにされないと分かったちびふわは怒っているようだが、ネアからすれば守ってあげなければいけない愛くるしいもふもふだ。
昨晩の事件の際には、あの海の怪物の領域が特殊だったので魔物の姿に戻れたが、そのような場所でもない限り、魔物として動くのは難しい状態にある。
そしてアルテアは気付いていないが、昨晩の事件があったことで、アルテアは自らちびふわになれるということを、この残忍な人間に知られてしまっているのだが、本人はまだ気付いていないようだ。
これは秘密にしておいて、いつか自らちびふわになって欲しい日がきたら、厳かに告げてみよう。
爽やかな海沿いの街の風に、甘い花の香りが混ざる。
ネアが昨晩あの怪物の香りだと思ったこの甘い香りは、怪物避けの為にホテルの周辺や街の至る所に植えられている、百日紅のような赤い花の香りだと、今朝、あらためて気が付いた。
怪物避けと言っても怪物が嫌がるようなものではなく、この花を好んで食べるので、その間は人が襲われるのを防ぐ効果があるのだそうだ。
「そう言えば、他の客達が灯台守の話をしているな…………」
「ジアリノームさんの姿を見て、心を壊してしまったという?」
「躓いて窓辺のカーテンを毟り取るとか、運のなさも大概だろ」
朝食の前に街に出てみたシェダーによると、街は、古参の灯台守が辞職するという話で持ちきりになっているそうだ。
悲しい事故により、昨晩の怪物を灯台の上から見てしまい、あまりのおぞましさに心神喪失状態になってしまったらしい。
ネアはその話を聞き、自分のところには人型で出てきてくれて本当に良かったと胸を撫で下ろした。
そう考えていると、海老を食べ終えて我に返ったのか、べたべたの己を見下ろし愕然としているちびふわがいたので、じゃぼんとフィンガーボールに浸けたお絞りで拭いてやっていた。
「グレアム、私も混ぜてくれるか?」
ふいに、柔らかな男性の声が落ち、ネアはおやっと顔を上げる。
「む!敵です!!」
そしてその声を発した人物を見た直後、ポケットから取り出した激辛香辛料油の水鉄砲を向けようとしたネアは、間に割って入ったシェダーに慌てて銃口を下げる。
ここで、恩人のシェダーを殺してしまったという事故だけは避けたい。
(それに今、グレアムって……………)
今更ながらその名前に気付いてまた驚き、ネアは呆然とそちらを見た。
そこに立っているのは、あの海竜の離宮で、ネアに上着をくれようとした男性だ。
あの時とは違い、今ははっとするほどに深く鮮やかな青い瞳をしている。
するとその瞳は、まさしくこの人のものだという気がして、しっくりきた。
(それに、髪の毛の色も、少しだけ違うような気がする?)
あの時よりもしっかりと頭を布で隠しているが、微かなこめかみの翳りが白藍色とは思えない。
大振りな耳飾りはしているが、服装はとてもシンプルだ。
そして、そんな男性にシェダーが声をかけた。
「……………ニケ、ここで何をしている?」
先程はまるで彼を庇うようにして、ネアとの間に立ち塞がったシェダーだが、そんな彼にかける声は低くて冷たい。
ネアはスケート場で見た時の、完全に他人として出会ったアルテアの怜悧さを思い出し、魔物達の身に纏う気配の多彩さに少しだけ感心する。
このシェダーを見たなら、ネアは、優しい人だとは思わなかっただろう。
「いや、この影の国に興味があってな。他人に成りすまして紛れ込んでみた」
「……………それが、どれだけ危うく浅はかなことだと分かった上でか?」
ネア達のテーブルの横に立った男性は、ニケという名前のシェダーの知り合いらしい。
(……………むぅ、とても該当する人を知っているような…………)
シェダーは、カルウィの辺りを統括している魔物だ。
そしてそのカルウィには確か、そんな名前の御仁がいた筈だった。
ネアはもしやという思いで渋い顔になり、どこかのんびりと微笑んでいるニケと、落ち着いているように見えてかなり怒っているらしいシェダーを見比べる。
ニケは簡素な漆黒の長衣を着ていて、ネアの忠告を聞き入れてくれたものか、足元はしっかりしたブーツになっていた。
(無事に、死の森は抜けられたみたい…………?)
「勿論だ。だが、魔術師としては逃せない好機だと思わないか?…………この影の国には、いつか来てみたかった。昔に見たものがどこかに残っていないか、確かめてみたかったからな」
「それであれば、そのような欠け残りはないと話しただろう。ここにあるのは、残ったものではなく残骸から生まれたものが殆どだ。…………まさか、昨晩のジアリノームを見に来たのではないだろうな?」
「はは、実はその通りだ。…………だが、あれが誰だかも分からなかった」
最後の一言は、囁くような言葉だったのだと思う。
ふっと自嘲気味に微笑んだその横顔を見た時、ネアは何かを思い出しかけたような気がしたが、それが何なのかはよく分からなかった。
どこか、記憶の遠い遠い場所で、誰かが振り返ったような影が浮かぶ。
であればこの男性は、ネアの知る誰かによく似ているのか、或いは実際にどこかで出会っているのか。
(この方が、みんなが話していたヴェンツェル王子のお友達なニケさんだとしたら、ヴェンツェル王子の周囲や、カルウィに行った時に…………例えば擬態していたのだとしても、既に出会っている可能性もあるのかもしれない……………)
そんな推理の隣で、彼が先程囁いた言葉も気になっていた。
この男性は、もしや、あの海の怪物に会う為に、ここまで来たのだろうか。
「あの怪物さんは、青に白混じりの長い髪をしていて、金色の瞳だったように思います。………でも、影絵のようなものだと、そう聞いているのでお探しの方ではないのかもしれません」
ネアがそう口を挟んだのは、ちょっとした知り合いの知り合いかもしれないという親しみと、彼の眼差しのひどく複雑で深い織りのせいかもしれなかった。
けれど、ネアが伝えた言葉で、男性が目を瞠ってこちらを見れば、その眼差しにはネアがそんな情報を得ているということよりも、まるでその人物を知っているかのような驚きがある。
「……………そうか。有難う」
そう呟き、ニケは小さく微笑みを深める。
ふうっと息を吸い込むと、まだ怖い気配を漂わせたままのシェダーに向かって肩を竦めてみせた。
「これでも友人は大事にしている。目的を達した今、ここに残って友人の国の安寧を脅かすようなことはするまい。私はここには来なかった。そういうことにして、速やかに立ち去るさ。………あまり、睨むな」
「そうであれば、早々に辞退して貰いたい。君の相棒はどこだ?」
そう尋ねられ、ニケはふっと艶やかに微笑んだ。
「ああ、あの海竜は入ってすぐに排除した。魔術書や地図を買うのに文句ばかり言われて、心底邪魔だったからな」
「……………君らしいことだ」
「魔術師らしいと言ってくれ。ここには、過去の証跡を辿ってのこともあるが、買い出しに来たんだ。…………さて、そろそろ棄権しよう」
ネアの方を見て会釈の代わりにか淡く微笑んだが、公の場ではないからかニケは必要以上に挨拶めいたことなどはしなかった。
ネアもお忍びなのだなと理解したので、特にこれ以上は声をかけたりしないようにする。
そうしてニケが何かをしようとしたその時、ぶるりと世界が震えた。
「…………っ、」
地震だろうかとネアは立ち上がりかけ、慌ててネアの肩に駆け上ろうとしたちびふわが、海老のべたべたでつるりと滑る。
テーブルの上で転びそうになったちびふわを咄嗟に片手で受け止めてくれたのは、シェダーだった。
「まずい!吐き戻しか!グレアム……、」
その瞬間にそれが何なのかを理解していたのは、恐らくニケだけだったのだろう。
ネアには、世界が小刻みに振動したように思えた。
「ネアっ!!」
シェダーが声を上げ、手を伸ばす。
ネアは確かにその手を取ったし、シェダーはネアをしっかりと抱き締めてくれた筈なのだ。
それなのに。
「……………ほわ」
それなのに、世界の震えが収まれば、そこにはもうシェダーの姿はなかった。
ニケの姿もなく、勿論シェダーが掴んでいたちびふわの姿もない。
ネアとゾーイだけが、呆然としたまま取り残される。
「……………シェダーさん?……ち、ちびふわ?!」
あまりにも突然のことに狼狽し、ネアはそう名前を呼んだが、何の応えもない。
いないのだと理解するまでに、かなりの時間を有した。
(……………いなくなってしまった)
ゾーイはいるのだから、最初の二人に戻っただけなのだ。
だが、頼もしい仲間が来てくれたと思ってすっかり心が緩んでいたこんな時に、その味方を剥ぎ取られたショックは大きかった。
扉の向こうの店内も騒然としてはいるが、それは唐突な揺れに対するものであるようだ。
ネアのように、誰かを探している様子はない。
「ふにゅ。…………い、いません。……シェダーさんと、ちびふわさんが、いなくなってしまいました……………」
「……………これが、吐き戻しか。ここに来たこと自体初めてだから当たり前だが、初めて体験した」
「吐き戻しというのは何なのでしょう?…………ゾーイさん、皆さんはどこに…………」
思わず声が震えてしまったネアに、ゾーイは自身も動揺が隠しきれないようで、視線を忙しなく彷徨わせる。
「この影の国特有の、在らざるべきものを排除する自浄作用だ。………海の精霊王から聞いたことがある」
「排除…………」
その言葉に真っ青になったネアに、ゾーイは慌てて首を振った。
その動きに合わせ、帽子の羽飾りが揺れる。
「いや、排除って言ってもな、この影の国から扉の外に吐き出されるだけだ。海の精霊王の部下の一人が、以前にやられたことがあると聞いた。……………この影の国は、資格を持たずに入り込む者を、定期的に吐き出すようになっているらしい…………」
「………と言うことは、怪我をしたり、………いなくなってしまったりはしないのですね?」
「ああ。吐き出されて扉の外側に転がされるくらいで、あいつらが怪我をすることなんざないだろう。あの、ニケとかいう奴は知らんがな……………」
胸を押さえ、ネアは深く息を吐いた。
お腹の底がむかむかとして、一瞬怯えてしまった嫌な顛末の気配に吐きそうだ。
(…………そうだった。私なんかよりも、よほど頑丈な人達なのだ…………)
ヴェンツェル王子の友人も大丈夫だろうかと少し考えたが、確かその人物はとんでもない魔術師だった筈だ。
それも、今回の海竜の戦に乗じて、ここに無理やり乗り込んでいたと言うではないか。
であれば彼も、きっと無事だろう。
「…………ゾーイさん、カードから私の魔物に連絡をしてもいいですか?…………ゾーイさん?」
まずは落ち着いて、地上の仲間に連絡をと考えたネアは、どきりとするくらいに厳しいゾーイの眼差しにはっとする。
立ち上がった海嵐の精霊王は、刃物のような海と雷光の瞳を眇め、どこか遠くを見ていた。
「…………吐き戻しがあるのは、国内で、招かざる者や地上の者が大きな力を使った時だ。毎回ではなく、その周囲を限定的に震わせ、言葉通りに影の国の中にある異物を吐き出す。…………ここで、誰かがそんな力を使っていたか?」
そこで漸く、ネアもゾーイがひどく警戒している理由に思い至った。
確かにニケは突然現れたが、転移は出来ない土地なので、そのような魔術を使ったということはない。
「……………残っているのは、鯱の精霊さんの…………」
「ああ。近くにいるぞ。………それと、俺達には何の変化もないこの状態で、吐き戻しの条件を知っているあいつ等が、何の為にそれだけの力を使ったと思う?」
「…………他の参加者さん達はもういません。…………誰かが生き残っているか、こちらの生き物に襲撃を受けた。…………或いは、他にも私達の知らない参加者がいる?」
「…………そういうことだ」
「…………気を引き締めます」
二人はすぐにでもホテルを出ようとしたのだが、それだけの猶予もなかったようだ。
すぐに、ネア達の前にもその脅威が訪れた。
突然、ぐわっと空気の塊のようなものが空から降ってきたかと思ったら、ネアはいつの間にかゾーイに力一杯蹴り飛ばされていた。
「……………っきゅ?!」
体を折り曲げて吹き飛ばされるネアにも、ゾーイの真上に飛来した、真っ青な大きな竜の姿が見える。
ゾーイは、ネアをその場から離脱させようと咄嗟にネアを蹴り飛ばしたのだった。
(ゾーイさん!!!)
現れた竜はこちらを見ていないようだ。
それに、力一杯蹴り飛ばされた筈なのだが、どこも痛くない。
なぜだろうと思いながら、ネアはそのままどしんと床に落ちると、それでは勢いを止められず、ごろごろとホテルの外回廊の方まで転がってゆく。
「…………ぷは!」
何か硬いものにごつんとぶつかってやっと転がらなくなると、ネアは腕立て伏せの要領で慌てて立ち上がる。
「……………酷い」
店外席の方は、惨憺たる有様だった。
それも当然だ。
いくら外のテラス席とはいえ、トラックくらいの大きさの竜が飛来し、よりにもよってここで戦闘行為に至っている。
レストランや、ホテルの二階の窓も粉々に割れていて、あちこちで悲鳴や怒号を上げる人々が見えた。
ばさりと青い羽が広がり、ゾーイのものか、ぎらりと蒼銀色の魔術の輝きが弾ける。
吹き荒ぶ嵐のような風と、千切れ飛ぶ海水の飛沫。
生身の、それも可動域六の人間が近付くには過酷な状況に思える。
(…………でも、残っていた参加者は、鯱の精霊さんだった筈。海竜さんはみんな亡くなってしまったのであれば、あれは新しい参加者なのかもしれない…………)
ガシャンと大きな音がして、ネアは身を竦めた。
そちらに駆け付けたかったのだが、今のネアには空を飛ぶ相手と戦うだけの準備がない。
そして、この海竜の戦の決まりでは、ゾーイは、ネアが死んだら道連れなのだ。
(ここで、自分を過信してゾーイさんの努力を無駄になんてするものか!)
先程、あんなに強く蹴飛ばされたのにネアがどこも痛まなかったのは、きっとディノの守護のお陰だろう。
けれども、椅子やテーブルを薙ぎ倒しながら店内を転がっても擦り傷一つなかったのは、ゾーイが何か手を打ってくれたに違いないのだ。
(まずは身の安全を優先。その上でゾーイさんの援護射撃を……………)
目に留まったのは、ホテルの二階の窓だ。
幸いにもここには立派な建物がある。
建物の上の部屋から攻撃すれば、竜との体格差や相手が飛べるのに自分が飛べないことへのハンデをどうにか出来るだろうか。
「…………怖がっていたり、怯えているような余裕なんてないんだ」
もう、アルテアもシェダーもいないのだ。
ここからは、ゾーイと二人でこの海竜の戦を勝ち抜けなければいけない。
ネアはぎゅっと唇を噛み締めた。