293. 怪物の訪問がありました(本編)
窓の外が漆黒の闇に包まれた後、ネア達はホテルの部屋で暫くとりとめもないお喋りをしていた。
ネアは、お風呂には入れるだろうかとシェダーに尋ねてみたが、誰かの立ち合いの下で手足を洗うことは出来るが、一人で入るのならば明日の朝に入った方が賢明だろうと言われ、それもそうだなと頷く。
襲撃されるかもしれない身の上とは言え、思ったより海の怪物が大きな脅威だと分った以上、さすがに今夜の内に襲撃されてこの宿から追い出されるということはなさそうだ。
であれば、この怪物は夜明け前には海に帰ってゆくそうなので、今夜は疲れを取る為にも早めに眠ってしまい、明日の朝早めに入浴すればいいではないか。
「まめに入浴するのは、シルハーンの意向かい?」
「ディノ自身もお風呂大好きっ子ですが、こちらには添付や侵食などの魔術が多いと聞いています。汚れを落とすという意味だけでなく、入浴するということは簡易の魔術洗浄にもなるのですよね?」
「うん。だから、良い習慣だと思った。特に女性は髪などを場にされやすい。今日は移動もあったし疲れているかなと思っていたけれど、それでも身を清めようとしてくれていて安心したよ」
そのような、入浴程度で流せる痕跡や添付であればと油断してしまう人間は多いのだそうだ。
だからシェダーは、ネアが普段からまめに入浴する人間だと知り、きちんと自分で安全対策が出来ていることに安心したらしい。
この魔物はどれだけディノが大好きなのだろうと微笑ましくなったネアは、お風呂繋がりの会話で、ディノの大好きな入浴剤などをこっそり教えてやった。
ウィームに住まいがあるのであれば、シェダーだって買うことは出来るだろう。
晩餐は、ルームサービスのようなものを取って美味しくいただいた。
本来であれば海の幸をふんだんに使ったメニューが有名なのだそうだが、今夜はあまり海のものを摂り込まない方がいいのだそうだ。
であればと全員で頼んだのは、チーズ入りのマッシュポテトを添えた香草風味の白いソーセージと、仔牛のカツレツのようなものに美味しいラビゴットソースをかけたもの、鴨肉の燻製などの陸の味覚だ。
せっかくなのでこの土地のものを食べたいなと思ったネアだったが、特別目につくような不思議なメニューはないようだ。
(青蝸牛のステーキというものがあるけど、これは却下!)
でも、怖いもの見たさで誰かが食べるのを見るのは吝かではないので、誰かが試さないかなとネアはゾーイに勧めてみたのだが、ゾーイは顔色を悪くして首を横に振った。
さすがのネアも、ステーキに成り得るサイズの青い蝸牛に挑む勇気はない。
そうして部屋に運ばれてきたのは、どれも普通に美味しそうな素敵な料理達であった。
しっかりとした白ソーセージには、焼き目がついていてなんとも美味しそうではないか。
フォークでぶつりと刺し、粒マスタードと一緒に素敵にいただく。
「むぐふ!このソーセージは美味しいですね」
「………冷たい白葡萄酒か、麦酒が飲みたくなるな…………」
「まぁ、海嵐の精霊さんは麦酒がお好きなのですか?ムグリスも麦酒が大好きなのですよね」
「……………何でそれと比べた」
「む?同じもふもふ的な括りで…………。そう言えば、私の知り合いの魔物さん達は、あまり麦酒を飲まないのですが、シェダーさんはお好きですか?」
「うーん、高位の魔物達の中では、あまり麦酒は好まれないことが多いな。麦の魔物は強欲で、麦酒にも彼自身の領域を敷いている。…………あまり影響はないが、麦酒を好むと絡まれるから面倒臭いんだ………」
「リザールさんであれば、秋告げの舞踏会で、アルテアさんに顔面をステッキでべしりとやられていました…………」
「うん。それくらいのことをしても問題のない魔物じゃないかな、彼は。麦だからこそ多くの略奪や破壊を受け入れ、慈悲深く祝福を与えるような資質もあるが、基本的には収穫と引き換えに多くの対価を望む魔物でもある」
その点、他のお酒に関わる魔物達は、自分の領域の外に出たものまでを管轄することはなく、安心して得られる祝福だけを楽しく飲めるらしく、結果、魔物達はそちらを贔屓にしてしまうのだそうだ。
「その点、俺達は安心して飲めるな。麦の魔物の力は、海には及ばない」
「そのような線引きがあるのですね………」
「そうだろうね。だから港町などでは、よく麦酒があるだろう?」
「そういえば、ヴェルリアにも麦酒のお店がたくさんありました。…………むぐぅ。麦をたくさん食べるムグリスは、リザールさんに苛められたりはしないのでしょうか?」
「………………なんでそんなムグリスに拘るんだ?」
「それはもう、私の大事な魔物にはムグリス的な要素もあるからですね!」
そう言われたゾーイは、じっとネアの膝の上のちびふわを見たが、貰った鴨の燻製をはぐはぐしていたちびふわは、自分にはムグリス要素などないとつんとそっぽを向いた。
「ムグリス種に限り、リザールの上位になる。生き物としての階位はリザールの方が遥かに上だが、食物連鎖上で、捕食者の優位性というものがあるんだ」
「……………と言うことは、リザールさんに悪さをされたら、ムグリスの大軍を差し向ければいいのですね………」
「はは、それは嫌がりそうだ」
シェダーがそう笑い、思っていたよりもずっと和やかな晩餐が終わった。
ルームサービスのメニューにあった、美味しいお魚のクネルのチーズグラタンへの憧れは明日まで取っておこうと思いながら、ネアは席を立って部屋の壁際にある水差しのところに歩いてゆく。
グラスに水を注ぎ足そうと、綺麗な青銀色の貝殻のような素材で作られた水差しの持ち手に手を伸ばした、その直後だった。
バチンと、電気を落すような強い音が響いた。
「ほわ?!」
ネアが思わず立ち竦んでしまったのは、部屋がいきなり真っ暗になったからだ。
あまりの暗さに伸ばした自分の指先も見えない程で、ネアはそろりと手を戻す。
すぐに反応しそうなシェダーやゾーイの声は聞こえないが、襲撃だとしたら、あえて声を出さずにいるのかもしれない。
ざざんと、波音が聞こえた。
イブの浜辺で聞いた穏やかな優しい音ではなく、夜の岸壁に打ちつけるような荒々しく不穏な響きだ。
その音を聞いた瞬間、ネアはなぜか、これは海竜の戦を理由とした襲撃ではないと確信した。
猛烈な異臭と凍えるような冷気に、もっと異質なものの接近を感じたのだ。
「シェダーさん………」
か細い声で頼もしい仲間を呼んだが、なぜか応えはない。
慌てて振り返ったネアは、ぐっと喉を詰まらせたような声を上げることになった。
どこまでも闇色に塗りつぶされた視線の先に、ずぶ濡れの誰かが立っている。
長い足下までの白混じりの青い髪は、縺れてひどく汚れていた。
髪の毛の隙間からこちらを見ているのは、淡い金色の瞳だろうか。
そしてその瞳はなぜか、ネアのことを恨めし気に睨むのだ。
(こわい…………)
だからホラーは苦手なのだと、ネアは、じわっと涙目になり、はくはくと浅い呼吸を刻む。
咄嗟に心臓が止まってしまわないように胸を押さえ、今の心臓はもう大丈夫だったのだと安堵の息を吐く。
けれどもその異様な姿の生き物はまだ目の前にいて、本来であれば振り返ったそのあたりに居てくれる筈のシェダーとゾーイの姿はない。
深い、深い闇が、どこまでもべったりと続いている。
その中には、先程のずぶ濡れの誰かとネアしかおらず、キィンと耳が痛くなるような静寂の中、ざざんと胸が苦しくなるような波音が時折響く。
目の前の異様な生き物の足元には水溜りが出来ていて、こんな暗闇なのになぜだかそういうものは良く見えるのだ。
「ディネイの伴侶………………。ディノルネイの伴侶はどこだ」
それだけでも充分に怖いのに、嗄れた声が聞こえてきて、ネアはびくりと体を揺らす。
がくがくと震えそうになった指先を握り合わせ、ネアは喉がぐびっと変な音を立ててしまった。
(で、でも、喋れるような理性がある存在だと分っただけ、随分いいかもしれない………)
「ディネイ………………伴侶。このせ、…………カイのものでは……ない魂。やっトミツケ…………た?」
反応するまでに時間がかかってしまい、もう一度、男性のものとも女性のものともつかない、がさがさとした囁くような声が聞こえてきて、ネアは慌てて首を振った。
反応出来ないことで襲われるのは嫌だ。
どれだけ怖くても、そんな人は知らないと、きちんと言わねばならない。
「私はその方の伴侶ではありませんし、その伴侶の方の居場所も知りません」
「…………………ディネイ………………の伴侶と同じ匂いが……………する。…………あの男…………あの男さえ生き返れば、……………ディネイがこの世界をまた新しくしてくれ………………る」
ずるりと音がした。
こちらに近付いてくるようなその音に、ネアは悲鳴を噛み殺し、萎えてしまいそうになった膝を叱咤して、ぐっと踏ん張り直す。
ずるり、ひたん。
不思議な音を頭の中で組み立てようとして、ネアは血の気が引いた。
ずぶ濡れの体を引き摺るような音の後に続いたのは、まるで、薄いビニールにゼリーでも詰め込んだような、この場で響くにはあまりにも不可解で恐ろしい音で、そんな音を脳内で分析してしまった浅はかさに、ネアは泣きそうになった。
ずるり、ひたん。
「……………っく」
こんな状況で気を失ってしまったりしたら大惨事だ。
触れられただけでも耐えがたい容貌をしているし、今迄に出会った祟りものなどのように、会話はしていても、こちらの主張を理解出来るかどうかも怪しいような言動でははないか。
何をされてしまうか、分ったものではない。
「私は男性ではありません。そ、その方は、どこか違うところにいるのではありませんか?」
「………………………サガ…………す。…………デハ、……目を見えるようにする………為に、マタ、良いものを…………食べル。ユウドウニン……は、どこだ」
(誘導人…………って、まさか、ね…………)
そんな言葉にぞっとしたネアだったが、くらりと意識が遠のきそうになったところで、ふと耳元を小さな舌でぺろりと舐められ我に返った。
(…………ちびふわ。……そう言えば、ちびふわが肩に乗っていた……………!)
なぜそんな大事なことを、今まで忘れていたのだろう。
首筋に寄り添うようにして、頼もしい使い魔がここにいてくれるではないか。
ネアはこの暗闇の中に一人ではないのだ。
「であれば、美味しいものを探しに行くべきでしょう。私はちっぽけな人間ですし、なんと可動域は六で、食べると祟ります。ここではないどこかには、あなたの望むような良いものがあるかもしれません」
ネアがそう言えば、ずぶ濡れの生き物は、ひっと小さく声を上げた。
なぜ怯えたのだろうと首を傾げたネアに、ずるずると音を立てて後退する。
「カド………う、域。低い可動域の生き物を食べる…………と、魔術を、失ウ………………。なんて、悍ま…し………イ」
そちら様の様子に失神しそうになっていたネアからすると、その言い分はちょっと失礼ではあるまいかと思わないでもなかったが、早く発ち去って欲しかったので厳めしく頷いておいた。
ずるずるという重たく湿った音は、今もこの暗闇に響いている。
ずるり、ひたん。ひたん。
ぷんと漂うのは、海水に漬けておいたものを野ざらしにしておいたような、不快な酸っぱい香りだ。
生臭さと、塩っぽさと、そこにこの生き物の本来の香りなのか、不自然なくらいに甘く香ばしい香りが混ざっている。
最後に、ずるんと一際大きなものが引き摺り動かされたような音がした。
大きな蛇のようなものが、こちら側に残っていた尾を勢いよく引き抜いたような。
その瞬間、ネアは、体が傾くような強烈な眩暈に襲われる。
ぞぞぞっと、何か大きな質量のものが押し寄せてくる不吉な音が聞こえた気がした。
「シェダー!軸を置いた場を繋げ!」
懐かしい誰かの声が、耳元でそう叫んだのが聞こえる。
押し寄せてきた音が周囲まで届いたかと思ったら、ネアは目には見えない大きな奔流に巻き込まれたような衝撃を受けて、思わず目を瞑った。
(ああ、水の底だ…………)
ふっと眩暈にも似た瞼の暗闇の向こう側で、深い海の底からかすかな光の射す水面を見ている。
淡い光の帯は海の底までは届かず、ただ寒く、そして恐ろしい程に孤独であった。
けれどもそんな静謐さは一瞬で消え失せて、ネアは荒波に飲み込まれたように振り回されたが、しっかりと腹部に回された誰かの腕が、どこかへ押し流されてゆくのを防いでくれているようだ。
「…………もう少しだけ、息を止めて目を閉じていろよ。絶対に離さないから、安心していい」
耳元でそう囁く声に無我夢中で頷き、ネアは言われた通りに息を止めた。
ますます波は強くなり、肌に触れる水もないのに不思議なことだが、嵐の海か渦潮の中にでも投げ込まれたような激しさできりもみになる。
やがて、どぉんと、打ち寄せ砕け散る波めいた、大きな音が響き渡った。
(……………今のは、…………アルテアさん?)
ぱたりと、全ての音が絶たれ、幻の荒波が通り過ぎる。
そうすると、そこはもう、先程のがらんどうの暗闇なのだった。
まるで今迄の騒ぎが夢か何かだったかのように、ネアはぜいぜいと息をしながらではあるが、海や波などの気配もない、真っ暗な部屋に立っていて、あまりの疲弊感に膝から崩れ落ちそうだ。
けれども、相変わらず誰かの腕がしっかりと腰に回されていて、その人がネアを守ってくれたのだろう。
ふーっと、誰かの深い溜息が頭の上で聞こえた。
「すぐに向こうと繋がる。……………もう来訪者は去ったぞ」
「…………ふにゅ。アルテアさん…………?」
「ああ、ここにいる。………軸を起点にもう一度向こうと繋がったら、俺はすぐに擬態に戻るが、また何かあっても側には居てやるからな。……………安心しろ」
そろりと振り返ると、こちらを心配そうに見てるアルテアの姿があった。
赤紫色の瞳は暗闇で光るようで、片手にはステッキを持ち、どうやらそのステッキを床に突き刺して、あの奔流に攫われそうなネアを抱えたまま体を支えていたようだ。
「ふぐ!」
ぼふんと、ネアは我慢出来ずに体を捻ると、そんなアルテアの胸に顔を埋めた。
この暗闇の中の寒さでは温かく感じる手を首裏に回され、しっかりと抱き寄せられる。
むぐぅと小さく唸り、大嫌いなホラー的展開に巻き込まれた悲しみを精一杯伝えた。
「……………今のが、海からの怪物とやらだろう。本体が近くを通り過ぎるのに合わせ、魂だけがこちら側を向いたんだな。…………前の世界の亡霊だからか、張り巡らされた守護結界を突きぬけて入って来れたらしい」
「………………ふぎゅ、ほ、ホラーなものは大の苦手です。綺麗な形で出現してくれれば、すかさずきりんさんで滅ぼしましたが、とっても苦手な形で現れました!!」
「……………ったく。こんな不安定な場所で泣くなよ?………ずっと俺が一緒だっただろうが」
「…………肩に乗っているちびふわが、あまりにもちびふわなので、すっかりアルテアさんだということを失念していたのです……………。むぎゅ」
「あのなぁ……………。…………ああ、もう繋がるな。さすがに仕事が早い」
ふわりと、清涼な空間の香りとも言うべきか、周囲を取り巻く空気が変わった。
はっとして振り返ったネアの目に、先程までいた部屋と、こちらに駆け寄ってきてくれたシェダーの姿が見えた。
「ネア!」
「ふぐ、シェダーさん………」
こちらを見た灰色の瞳が、安堵に緩む。
そのほっとしたような微笑みにネアもほにゃりとしたところで、後ろから大きな手がぽすりと頭に乗せられた。
わしわしっと撫でられて振り返ると、そこにはもうアルテアの姿はない。
「ほわ、使い魔さんが消えました」
「ネア、足元に居るよ」
「フキュフ!」
「まぁ、ちびふわです!!」
足下にぽてりと落ちたちびふわは、ネアが伸ばした手をちょこちょこと駆け上がると、いつものネアの肩の上にすとんと落ち着いた。
ネアがちびふわを拾い上げるとすぐに、シェダーが、ネアの手をしっかりと掴んでくれた。
もう安心だ。
「暗転した瞬間に、咄嗟に君の体を魔術で押さえたのだけれど、意識だけあの生き物の領域に攫われるところだった。アルテアがいなければ危なかったところだ…………。すまない、怖かっただろう」
何が起こったのかを教えてくれたシェダーに、ネアはふるふるしながら頷く。
てっきり体ごと攫われてしまったのかと思ったのだが、どうやら意識だけという、またそちらの厄介な方法だったらしい。
「…………アルテアさんが、前の世界の亡霊だからというようなことを言っていました」
「ああ。彼が言うように、魔術の質がだいぶ違う。この影の国のものも異質だが、先程のものは俺達が属する世界とは全く異なる配列の魔術だ。…………一度こちらに触れていったことでどんなものなのかは分ったけれど、その違いに気付かずに君が一人の時だったら危なかったな……………」
「と言うことは、もう大丈夫なのでしょうか?」
怖々とそう聞けば、シェダーは微笑んで頷いてくれた。
さらりと揺れた白灰色の髪の色になぜだかほっとして、ネアは先程まで浸されていた暗闇の欠片を、心の中から払い落とす。
リゾートめいた爽やかな室内の配色が、とても素晴らしいものに思えた。
ここの部屋の中にはもう、あの暗闇の気配は残っていないと一目で分かるからだ。
「今の世界とは違って、あの生き物は、魔術と魂が結びついていないようだった。魔術介入を排除する一重の結界ではなく、両方を弾くような二重の結界でこの部屋を遮蔽したからもう大丈夫だ。………とは言え、あの怪物自身も、もうここからは去ったらしい。………まるで、何かを探しているような動きだったな……………」
「………………ふぐ。もう海の怪物さん対策の結界を張って下さったのですね」
仕事の早いシェダーに感動し、肩の上のちびふわを振り返れば、ちびふわは赤紫色の目を真ん丸にして固まっているではないか。
アルテアから見てもやはり、シェダーの魔術の技量はかなりのものなのだろう。
「ネアも、海の怪物だと分ったんだな」
「途中で、あの引き摺るような音や匂いで気付きました。…………海の怪物さん…………と言うか、あの方は、誰かを探していて、私がそうだろうかと思っていたようです……………」
そう呟き窓の方を窺う。
外は、今もまだべったりとした漆黒の闇に包まれており、何か大きなものが這いまわるような音が微かではあるが聞こえていた。
「そう言うということは、言われているような形状ではなかったのかな?」
「ええ。………とても怖い姿になってしまっていましたが、白混じりの青い髪の人の姿をしていました。ディネイさんという方の伴侶の男性を探していて、その方が生き返れば、世界が元通りになると思っていたようです」
そんな説明を聞き、ふっと、シェダーの双眸をよぎったのは、絶望だろうか。
あまりにも脆く鋭い苦痛の影が通り過ぎ、すぐに消え失せた。
ネアは、かつての犠牲の魔物がどうして狂乱しなければならなかったのかを思い出し、微かにぎくりとする。
(でもそれは、やはり絶望なのだわ…………)
伝聞で知り得た同じように見える他の誰かの記録ではなく、もしかしたらそれは、彼自身の記憶なのではないだろうか。
そう思えば、驚きや困惑よりも、いっそうに目の前の魔物をぎゅっと抱きしめてやりたくなる。
でも、秘密なのだ。
きっと隠されたものを彼は明かさないだろうし、もしどこかでその秘密が暴かれるとしたら、そんな真実を真っ先に知り得るのは、ディノやウィリアム、ギードなどの彼の大切な友人だった者達であるべきだ。
だからネアは、強張ってしまいそうな表情をむぐぐっと固定して、ふすんと頷くに留めた。
「………………それを聞けば、確かにあの生き物は、前の世界のもののようだ。前の世界は、その世界の万象の魔物の伴侶が死んだことで、万象の魔物が狂乱して世界が終わったとされている。恐らく、ジアリノームが探しているのはその伴侶なのだろう。……………しかし、本人も含め、もう誰もここにはいないだろうし、見付けても誰も生き返らせることは出来ない。……………痛ましいことだな」
「…………魂という言葉が出てくるのであれば、ジアリノームさんは、まだこちらに魂を残しているのですか?」
そう尋ねたネアに、シェダーはそっと首を振った。
「例えこの影の国の中であろうとも、本体は残ってはいないだろう。生き物の影絵のようなものだ。…………それでも、土地の欠片や残響の中に残った思いが強すぎて、こうして年に一度彷徨い出てしまう。贄をなくせばやがては薄れてゆくかもしれないが、既に随分と長きに渡って糧を得てしまっているからな。完全に消し去ってやること自体、もう難しいのかもしれない……………」
「………………そうなのですね。お気の毒に……………。…………む?」
そこでネアは、ゾーイが椅子に座ったまま目を瞠って固まっていることに気付いた。
おやっと首を傾げてそちらを見ると、ネアの手を掴んでくれていたシェダーも、ネアの肩の上のちびふわもそちらを見る。
「…………ゾーイ?」
そっと、そう呼びかけたのはシェダーだ。
名前を呼ばれてはっとしたように、紫紺の巻き髪の海嵐の精霊は瞬きをし、小さく呻いた。
「ゾーイさんも、怖いものを見たのですか……………?」
「………………その生き物は、本当にアルテアなんだな」
「…………………む」
「フキュフ………………」
どうやらゾーイは、先程一瞬ではあるが人型のアルテアを見てしまい、このちびちびふわふわした愛くるしいばかりの生き物が、高位の魔物であるという事実を突き付けられてしまったようだ。
呆然とするあまり足元がおぼつかなくなり、どすんと椅子に座り込んでしまったらしい。
「……………アルテアは、あんな風になるのか」
「………………フキュフ」
あまりにも呆然としているので、ちびふわも暗い眼差しになる。
少しだけけばけばになると、急に恥ずかしくなってしまったのか、ささっとネアの髪の毛の中に顔を隠してしまった。
「あらあら、恥ずかしくなってしまいました?良質な白もふであるのは、とてもいい事だと思いますよ?」
「………………フキュフ」
「それから、先程は私を守って下さって有難うございました。アルテアさんがいてくれたから、あの怖い生き物の巻き起こした、見えない荒波のようなものに攫われてしまわずに済んだのです」
そう言ってみても、すっかり不貞腐れたちびふわはこちらを向かなかったが、尻尾がふるふると揺れてしまっているので、褒められたことは嬉しかったようだ。
背後では、ゾーイが、さっき使い魔という単語が聞こえたのだが幻聴だろうかと、シェダーに尋ねている。
この旅が終わった後には、アルテアに対する印象をがらりと変えてしまいそうだが、懸念されているように、きりん箱で捕獲したりはしていないので訂正しておこう。
「むぅ。アルテアさんは、野生のアルテアさんを捕まえてきた訳ではないのです。ちゃんと最初はディノのお友達として……………ほわ、しかし出会いは捕獲でした……………」
「……………やっぱりじゃねぇか。どうやって捕まえたんだ?」
「むむ?…………椅子ごと抱えて…………?」
思わずそのままのことを告げてみると、ゾーイは小さく呻いて不憫そうにちびふわのお尻を見た。
ネアの髪の毛の中に顔を突っ込んでいるので、ゾーイの方からはふかふかのお尻と尻尾しか見えないのだ。
ネアは指先でそんなちびふわのお尻を撫でてやり、外の物音に耳を澄ませていたシェダーは、随分と遠くに行ったようだと息を吐き、ずっと握っていてくれたネアの手を離した。
「………………怖い思いをしたらお腹が減ったので、おまんじゅうを食べますね」
「おい、さっきさんざん食ったばっかりだろ……………」
「甘いものは別腹ですし、これは頑張った私へのご褒美です。なお、こっそりこちらを見たちびふわは、甘いものなのでいけませんからね?」
「フキュフ…………」
本当は魔物の第三席でとても怖い魔物の筈のちびふわは、そんなもの欲しくないしというような表情をしてみせたが、長い耳がぴるぴるしているので、本当は欲しいのだろう。
ちょっと不憫になったネアは、苦笑しているシェダーに、こんなちびふわは何を食べれるだろうかと尋ねてみた。
「うーん、酒や塩、後は雪や氷かな」
「……………だそうですよ、ちびふわ」
「………………………フキュフ」
「あら、不貞腐れましたね………………」
「ただ、こんな場所だからな。酒は少し控えようか」
「ちびふわ、先程は助けてくれたのでお礼をしたいです。美味しいお塩でも舐めますか?」
ネアのその質問にちびふわはたいそう荒ぶり、塩しかくれない残酷なご主人様への抗議なのか、ネアの頭の上を占拠してしまった。
大きな尻尾が顔の真ん中に垂れてきて前が見えないので困っていたら、こちらに来たシェダーが鷲掴みにして撤去してくれる。
ちびふわは、負けずにふーっと唸って威嚇していたが、何やらシェダーに窘められて大人しくなると、再びネアの肩の上に戻ってきた。
その夜、ネアはシェダーと同じ寝室になり、魔術の帯というものでシーツをシェダーのものと繋いで貰った。
なんと、上に乗って眠っているだけでシェダーの庇護下にあるのだそうだ。
大変心に優しい仕様なので、足紐などを持ち出す魔物達には是非に見習ってほしい。
“前の世界の亡霊さんのような、怖い生き物に会いました。アルテアさんが荒波に押し流されないように、守ってくれたんですよ”
寝台に上がってからカードでそう報告すると、魔物は心配になったようだ。
“可哀想に。怖かっただろう……………”
“アルテアさんがいなかったら、泣いてしまっていました。でも、アルテアさんが側に居てくれて、シェダーさんがささっと入れないようにしてくれたので、もう大丈夫ですからね。すっかり安心なのですが、今夜はその怪物さんが徘徊しているので、このホテルのお部屋から動けないのです。早く終わらせて、私の魔物にまたフレンチトーストを焼いてあげたいので、頑張りますね”
“無理をしてはいけないよ。怖いことや、不安なことを我慢してしまわないようにね”
“本日は、波喰いの魔物さんをきりん箱で滅ぼしたので、あと三組ですからね!”
“え……………”
影の国で、とうとうきりん箱が使われたと知り、ディノは怯えてしまったようだ。
慌ててノア達が呼ばれてしまい、ネアは思いがけずみんなとお喋りが出来た。
ネアが、海竜の離宮に押しかけたまま居座っている夜海の竜の王子経由でディノ達にも情報が入り、海の怪物と遭遇してしまった一組が命を落としたと知ったのは、翌日のことだった。