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292. 灯台の街で過ごします(本編)




最初の敵を斃したネア達は、それから半刻程歩いて、無事に灯台の街に入ることが出来た。



灯台の街は七つの灯台に囲まれた半島のようなところに広がる大きな街で、灯台を点にしてひし形のような広大な土地を壁で囲み、七つの灯台の名前で区画ごとに整備されている。

街というよりは小国の規模だが、そこには、この影の国の中を細分化して国と名乗れない理由があるそうだ。


街は不思議な青みがかった砂色の煉瓦で出来た高い壁で囲まれているが、街そのものの規模があまりにも大きいので閉塞感はない。

七つの区画の中央に位置する貴族達の居住区からは、壁など見えないくらいなのだとか。



「やはり、あわいとしての不自由さがあるようだな。大きくこの地下の世界そのものを影の国と呼ぶことで、土地に残る災厄や呪いを全域に振り分けているらしい」



そう教えてくれたのはシェダーで、ゾーイに決してネアを怖がらせないようにとあれこれ言い含めると、壁の内側に入ってから少し内陸に移動し宿を取った後、一人で一時間程街に出ていた。

雑踏に紛れてあちこちで適切な質問をすることで、この影の国の秘密を収集してきてくれたようだ。




(ここは、第一の灯台の街アビルニアス………)



この街の灯台は赤い灯台で、流星の尾のような青白い光を灯す。

赤い花が多く咲いており、ひし形状の灯台の街の中の海沿いの区画の中の一つで、物価は高めであるが治安のいい区画なのだそうだ。



「あんたの読み通り、やはり一筋縄ではいかない土地ってことか………」

「特に今日は怨嗟の気配が濃い。特別な日だからなのだろうが、瘴気と言ってもいいくらいだ。…………壁を入ってすぐの黄色の灯台の区画ではなく、こちらに宿を取っておいて良かったとしみじみ思ったよ」

「シェダーさん、冷たいお茶でも飲みますか?」

「ああ、ちょうどそういうものが欲しかったところだ。有難う、貰うよ」



窓辺の椅子に座り、戻ってきたばかりのシェダーは、冷たい緑のお茶を飲みほっとしたように淡く微笑む。


壁の内側に入ってすぐ、シェダーとゾーイは、奇妙な怨嗟の気配の濃度の濃さに眉を顰めていた。

やはり入口近くの区画だといけないのかもしれないと、腹ぺこのネアに保存食を齧らせながら、黄色の灯台の区画を足早に通り過ぎ、午後も少し入ったところでこのアビルニアスに入った。



(少し疲れているような気がするけれど、大丈夫かな…………)



擬態を解いて白灰色の髪となれば、シェダーの持つ色には、明らかに特等の魔物という内側から光を放つような澄んだ透明感があるのだが、階位としては公爵の一つ下となる。

とは言え、以前の犠牲の魔物はその器用さで多くの稀有な魔術を扱い階位を公爵に上げたのだから、ここにいるシェダーも、白持ちの魔物達と同様かそれ以上に、大きな力を隠しているかもしれない。



そんなシェダーだからこそ、差異に気付いたのだろうか。

先程まで街に出ていたのは、この国の魔術の動きの中のふとした違和感に気付き、この国のことをもう少し深く調べようと思ったようだ。



「あんたに言われて幾つか魔術を練ってみたが、確かにおかしな動きをするものがある………。特に純粋な海の系譜を強く響かせる魔術が歪みやすい。もしかすると、それがこのあわいで海竜の戦をする理由かもしれんが、海の系譜魔術を持たないあんたがよく気付いたな…………」

「……………魔術の質や規則が、地上とは少し違ったからな」

「…………それは、魔術の扱いが難しくなるということ以外に、何か弊害があったりするのでしょうか?」

「俺たちが地上からの旅人だと知れると、異邦人として厄介ごとに巻き込まれる可能性がある。怨嗟や呪いがそこかしこに眠っているからには、この影の国では、贄が必要だったりすることも多いだろう。特に、今日のような大掛かりな禁忌の日には、足の付き難い旅人だということは隠した方がいい………」

「だからシェダーさんは、このホテルの従業員さんの記憶に介入したのですね」



魔物はあまり得意としない侵食の魔術だが、シェダーは多少であれば扱えるようだ。

本人に負荷のかからない上層の記憶を書き直すくらいしか効果はないそうだが、ホテルの上役のような人物をフロントで見付け出すと、自分達は彼の恩人の、古い知人であるという認識を植え付けた。

本人も良く知らない程度ということが重要で、元々そこまでの情報を持っていない相手としてであれば、その記憶に侵食させることが出来るらしい。



「眠っている間に、贄として差し出されていたということは避けたいからな…………」

「………成る程な。海の精霊王があまり扉を開けたがらない筈だ。俺が子供の頃、あの扉の向こうに行きたいと押しかけたことがあってな。………ほら、海の中にある陸地となれば、俺達が自由に闊歩出来るだろ?」

「そうか、君達は陸地で過ごすのに制限や誓約があるのだったな………」



シェダーにそう言われ、ゾーイはふっと遠い目をした。

遠くに広がる美しい土地に焦がれるような、どこか切実で脆い眼差しにネアはどきりとする。


しかしながら、現在の脳内の半分は久し振りに話題に上がった魅惑の白もふの姿で占められていた。

あの白もふを欲望のままに撫で回したら、さぞかし素敵だろう。




「…………そうだな。前世界の終焉と、塩の王の祝福と呪いに縛られているのが、海の生き物だ。………原始の海に命を育んだ塩の魔物がいなければ、俺達は海で生まれることもなかっただろう」

「………まぁ、そうなのですか?」


思わぬところでノアが出てきて思わずそう尋ねたネアに、ゾーイが知らなかったのかと呟いてから、やれやれと苦笑する。



三人の間の机には広げられた地図があり、シェダーが外に出ている間はここで、ゾーイとネアは地図を挟んで作戦会議をしていた。



「…………でもまぁ、そうかも知れないな。海の民の俺たちとは違い、塩の王はどこにでも行けるから、そんなことを取り立てて語る必要もないんだろう。…………いいか、あれが司るのは生と死だ。呪われた海にも生まれるものがあるようにと祝福を与え、その代わりに新代の世界の中心となる陸地には住めないようにした」



そう呟いたゾーイの声は静かだったが、シェダーにそっと首を振られると、意外そうに目を瞠った。

シェダーの表情を見て、実は何か事情があるのかなと、ネアも首を傾げる。

家族の話であるので、聞き逃す訳にはいかない。



「それは少し違うな。………ノアベルトは、海の乙女達に頼まれて、自分の髪と祝福を分け与え、海に生まれた者達が生き続けられるようにした。海の生き物たちが陸地で生きてゆけないのは、その祝福と約束が届かなくなるからだ」



がたんと音がして立ち上がったゾーイの唇が、反論しようとしたように少し開き、ぎゅっと引き結ばれる。

その事実を知ったのは初めてなのか、瞳は驚きと困惑に揺れていた。



「…………そうなのか。………そりゃ、…………知らなかった」

「………彼はあのような性格だから、その時のことを語りはしないだろう。美しい海の乙女達に喜んで貰いたかったようだけれど、彼が海を豊かにすると乙女達は喜んで泳ぎ去って行ってしまった。失望した塩の魔物は海の生き物を暫く冷遇したので、海の生き物達は自分達が陸で暮らせないのは塩の魔物の呪いだと信じるようになった。…………俺が直接聞いた話ではないけれどね、高位の魔物達の間では有名な話だ。その時までの塩の魔物は、シルハーンと同じくらい長い髪をしていたそうだから」




(……………喜んでくれて、一緒にいられたら楽しいと思ったのだと思う……………)



そうしたらそこに居場所が出来て、誰かを深く愛せるかもしれないから。



そんな願いを抱いて長い髪を切り落としたノアが見えるような気がして、ネアは胸が苦しくなる。

海の乙女達に置き去りにされたノアの腕を引いて、帰るべきお家はこっちだと教えてあげたくなった。

膝の上に置いた手をぐぐっと握れば、気付いたシェダーがこちらを見る。




「…………ネア?」

「私の大事な弟を寂しくさせた者共など、絶対に許しません!海でその方達を見たら、へどろの精を放り込んでやるのです!」

「海の生き物の起源なんぞ、どれだけ昔のことだと思ってるんだ。どう考えてももう死んでるだろ」

「むぐぅ!…………であればこれはもう、カードから、ノアを慰める言葉を書き込んであげるしかありませんね」



ネアはそこで、ディノが荒ぶらないようにまずはディノに、灯台の街で宿を取ったことと、ディノがとても大事な魔物であると伝え、あえなくディノが死んでしまったところで、一緒にいてくれたノアへの手厚いメッセージを書いておいた。

なお、ウィリアムも一緒にいたので、ちょっと拗れやすい終焉の魔物にもサービスでメッセージを書いておく。



「フキュフ!」


するとすっかり荒ぶってしまうちびふわがいたので、仕方なくこちらも、くたくたになるまで撫でてやった。

お腹を撫でまわされてくしゃりとなったちびふわを見て、ゾーイは自分も撫でたそうにしていたが、そろりと手を伸ばすとちびふわはまたしても威嚇して唸る。



「…………さてと、陽が落ちる前に各部屋を調べておいた方がいいだろうな。あんたの言うように、扱う魔術の質や規則が少しずつ違うなら、一般的な守り札なんかも案外危ないかもしれん」

「…………ゾーイ、それを君に頼んでいいか?その間に俺は、ネアの体を調べておきたい。俺達と違って身に持つ魔術で侵食や汚染を避けられないからな。この、影の国特有のものに影響を受けていないか、調べておいた方がいい」

「…………むむ。ちょっと怖い感じなのですか?」



調べなければ危ないのだろうかと眉を寄せてネアがそう尋ねれば、シェダーは微笑んで首を振ってくれた。



「直接の害は無い筈だ。君は、シルハーンの守護で完全に守られているし、そこには、他の沢山の守護もある。俺がこれからするのは、その外壁の掃除と汚れの調査だ。………この説明で分かるか?」

「はい。とっても分かりやすくて、その説明を聞いてほっとしました。お手数をおかけしますが、宜しくお願いします!」

「ああ、任せてくれ」



ネアはここで、ちびふわに極秘任務を与えた。


長いお耳をぺりっとめくって、ゾーイが寝室に悪さをしないか見張って欲しいと囁いてお願いしておく。

ちびふわはネアの側を離れるのを嫌がったが、ゾーイとシェダーならシェダーの方が安心ではないかと説得に入る。



「………最近は、踏まれたい系の海の方が出現したばかりです。ゾーイさんは素知らぬ顔をしていますが、実はそちらの趣味の方だったらと思うととても怖いですからね…………」

「フキュフ…………」

「…………おい、聞こえてるからな。それと、何だその踏まれたい系の趣味ってのは…………」

「私も誰かに説明して欲しいくらいなのですよ。………その方達は、私にたくさん踏んで貰う為に、私を攫おうとしていたそうです……………」

「そりゃ、自殺願望…………ん?………ああ、そっちのご趣味か。難儀なもんだな。………いや、……まさかあんた、俺にその疑いをかけたのかよ?!」



それは絶対にないから、今後決してそんな疑いをかけてはいけないし、そのように取れる発言を外でしてはいけないとネアに約束させてから、ゾーイは浴室や寝室などの、魔術を動かすことの多い部屋を調べに出かけていった。


一緒に走ってゆくちびふわの後ろ姿に、ネアはうむと頷く。




「さて、やっと二人っきりになれたことだし、お喋りでもしながら守護の外壁を調べよう」



そう言ってこちらを見たのは、夢見るような灰色の瞳。

その澄明さと深さにぞくりとし、雪の日の空の色のような儚い美しさに魅入られた。



(多分、この人は私の聞きたいことを知っている……………)




「シェダーさんは………」


それならばと、質問を口に出しかけたネアの唇に、そっと触れたのはシェダーの人差し指だった。

目を瞠ったネアに小さく首を振り、どこか悲しげな微笑みを深める。



「そうだね。………例えばの話だが、とある魔物が到底理解出来ないような奇怪な生活をしているとして、もしかしたらそれは、何某かの大きな魔術の対価だということもあり得るとは思わないか?そして、それだけの対価を支払って手に入れたものを、その魔物はとても気に入っているかもしれない」

「……………私はかつて、咎竜さんから、呪われたことを言えないという呪いを課されました。なので私はどうしても自身の身に起きたことを例題に考えてしまいますが、そういうものだとすれば、それは不自由さではありませんか?」

「それは多分、あの方の望むものが、壮麗な城や決して揺るがない崇拝や忠誠などではなく、歌乞いの魔物として働き、愛するひとに買ってもらったリボンを慈しむ毎日だったということに近いのかもしれない。もの足りなく見えたり窮屈に見えるものの全てが、不幸せだと限らない」



穏やかな声でそう言って微笑んでくれたシェダーに、ネアは頷いた。

ディノのリボンの話を出すのだから、この人は今の生き方を気に入っているのだ。

それが決して最良ではなくとも、充分だと感じて受け入れている。



(それなら…………)



「…………私の大事な魔物のお誕生日が秋にあるのですが、シェダーさんを呼んだらご迷惑ですか?」



ではこちらはどうだろう。

断られませんようにとじいっと見上げてそう言えば、シェダーはその灰色の瞳を瞬いた。

ゆっくりと揺れる眼差しの複雑さは、儚く繊細な深い霧のようにも、胸を騒つかせるような詩的で秘密めいた夜明けの星空にも似ている。



「…………俺には秘密が沢山ある。君も知っての通り、この名前も通り名の一つだ。あの方も知らない秘密とてあるし、俺がそれを明かすことは、……………生涯ないのだと思う。………だとしても、君は俺を呼びたいのか?」

「あなたの秘密がどんなものであれ、あなたがあなただと言うだけで、心を震わせてしまう大事な婚約者が私にはいます。……………それはきっと、過去がどうだからということではなく、今のあなたがこのような方であることも、あの魔物の喜びや安堵なのでしょう。私はそんな婚約者にとても甘いので、ディノが喜ぶことをしてあげたいのです」

「……………俺が、訪れることが?」

「あなたの秘密が制約を課すものであるなら、ちょいっと顔を出してあげるだけでも、ディノはとても喜びますよ。そんなディノを見れたなら、私もとても嬉しいのでこれは即ち私の我が儘でもあるのですが…………」



困ったように優しく微笑んだシェダーに、ネアはぐいぐいと押してみた。

ふうっと短く息を吐き、とても強引な人間に呆れたように白灰色の魔物は笑う。



「やれやれ君は、とても優しくてとても困った人間だね。あの方も君も、俺にとってはとても特別な存在なんだ。…………約束は出来ないけれど、…………うん。善処してみよう」

「はい!」



ここまで言わせたら、後はもう罪悪感などもぐりぐり押して絶対に逃すまいと、ネアは喜びに弾んだ。

そんな邪悪な人間の様子を見て、悪戯っぽくこれはしまったかなと苦笑して首を傾げてみせたシェダーには、何も企んではいないとしれっと言っておく。




「ところで、シェダーさんは格好いい剣を使うのですね!」

「…………ああ、あの剣か」



あの後、森で襲撃者を撃退した大剣をふわりと消し去ったシェダーだが、見たことのない恰好いい武器に実はずっと興味津々だったネアがそう言えば、あの剣は特別な武器ではないのだと教えてくれた。


(あんなに凄い武器だったのに?)


驚いたネアが首を傾げると、犠牲の魔物は苦笑する。


「あれは、擬態のようなものかな」

「…………擬態?あの恰好いい武器は、シェダーさんの固有の武器という訳ではないのですか?」

「そうだね。形のあるものの方が扱い易いということもあるが、擬態をしている時にはああして目に留まるような武器を扱っていた方が、敵の目を惹きつける。あの剣さえ凌げばという認識を持たせた方が、実戦では有利になるだろう?」

「むむ!そうすると、敵さんは注意を剣にだけ向けてくれる訳ですね!」



しゃりっと、窓の外で庭の木が揺れる音がした。

風が出てきたのだろうかと、ネアは少しだけ窓の方を見る。


ネア達が泊まっているここは、リゾートホテルと言ってもいいくらいの贅沢な施設で、こうしてのんびり宿泊する羽目になったのは、この街まで来たところで、今日はこの灯台の街におけるヴォジャノーイ的な悪い奴の出現日だと知ることが出来、そうせざるを得なくなったからだった。


それは聞いていなかったと慌てて避難出来る宿を探し、最初はあまり目立たないような安宿なども視野に入れたが、今夜が特別な夜で部屋の完全遮蔽が求められる以上は、やはり堅牢な部屋が望ましい。

また、万が一襲撃などが計画されても、このような宿泊施設だと、客室のある区画への侵入を見張ってくれる従業員の目がある。

それならばいっそと言ってくれたゾーイの大盤振る舞いで、ネア達は、灯台の街の高台にある貴賓室のようなところに宿泊することになった。



(海嵐の精霊さんは、お金持ちの方が多いのだとか…………)



ネアは知らなかったが、海嵐の精霊は海で難破した船などの財宝を持っていることが多く、そんな海嵐の精霊の王であるゾーイもかなりの資産家であるらしい。

海嵐の精霊の領域で事故った船は、魔術勝負で負けたという扱いになることから、その財産や命が海嵐の精霊達の管理下に入るのだそうだ。



そんなゾーイは今、憧れのもふもふとの共同作業で、少しだけはしゃいでいるように見える。



調べ終えた寝室から戻ってくるゾーイは、前を歩くちびふわを微笑んで見ていた。

見た目に似合わず小さな毛皮生物が好きなようだし、リーエンベルクに観光に来ていたことといい、少し変わった精霊なのかもしれない。




「……………こっちは問題なしだ。それにしても、こんなことなら、海沿いじゃなくて山間部にいい都市がありゃ良かったな。………だが、灯台の街程に大きい都市は死の森とやらの向こう側にしかなかったか………」



そうぼやきながら戻って来ると、ゾーイはどこか海の男らしい優雅な粗野さで、どさりと椅子に腰かける。

あの大きな帽子を外したのでネアは先程から頭を凝視しているのだが、残念ながらまだ耳は見えないようだ。


ててっと床を走ってきたちびふわは、するするとネアの足をよじ登って膝の上に鎮座した。



「お帰りなさい。ゾーイさんの見張りを有難うございます」

「フキュフ!」

「ふふ。それに、部屋におかしなものがないか、悪く作用するものがないのかを調べてくれたのですよね」

「……………いや、大部分は俺が…」

「フキュフ」


じっとりとした目で振り返られ、なぜかゾーイはぴたりと黙る。

ちびふわの見事な尻尾を複雑そうに見ているので、この魅惑のもふもふには抗えないのかもしれない。



カチコチと、ゆるやかな時計の針の音が聞こえた。



大きな窓にはカーテンを下してあるが、これは室内が見えることを警戒しているというよりは、今日この街に上がってくる怪物をやり過ごす為のお作法である。

ここもやはり、ヴォジャノーイの回避方法に少し似ていた。



(怪物…………か。窓の外はまだぼんやり明るいみたいだけど、ホテルの人曰く、あっという間に陽が落ちるそうだから…………)



この影の国には、海を見てはいけない日と、森に入ってはいけない日があるそうだ。


世界が生まれる前のその古の残響の中から、怨嗟や怨念のような良くないものが形を持つ日なのだと言われていて、今日の海の日には、実際に巨大な蛇とも竜ともつかぬ怪物が海からやって来る。



海の怪物はジアリノームと呼ばれ、森の怪物はトファイノームと呼ばれ、良く似た形をしているものの性質はまるで違う。

海の怪物は、海から這い上がって来ると地上の生き物を食べたり祟ったりするが、森の怪物は地上に住む穢れた心の生き物を滅ぼすのだ。

こうなると、森の怪物は何やらいい存在のように感じられるのだが、殆どの生き物は生きてゆく為に大なり小なり罪を犯しており、トファイノームはそんな些細な罪すら許さない。

食べてゆく為に収穫することも罪となるので、結果的には無差別に襲われているのと相違なくなる。



「噂の海の怪物さんが出てくるまで、もう少しでしょうか…………」

「話を聞く限り、海の怪物は咎竜のようなものが変異したのだろう。祟りものに近いが、かつて海に暮らし信仰を集めていた生き物の痕跡や記憶が、年に一度だけ凝って祟るようだ。こうして陸に上がってきて食事をすることが贄を捧げられたのと同じ効果となって、また翌年も顕現する。悪循環だが、さすがに前の世界の遺物に手を出す程暇じゃない」


そう教えてくれたシェダーに、ネアもこくりと頷く。


どこかで断ち切れるかも知れない怪異だが、以前にディノから、災厄であろうとその世界や土地の均衡の一端を担っていた場合は、また同じようなものが派生してしまうのだと教えられていた。

であれば、苦労してこの怪物を倒してもまた同じような怪物が現れ、おまけに今度は情報がないからこそ備えが難しく、大きな被害を出しかねない。

新たな災厄が引き起こされる可能性があることを知っているからこそ、人々は安直に滅ぼすのではなくやり過ごすという選択を取るのだろう。




しゃりしゃりと、窓の向こうで百日紅のような花を咲かせた木の枝葉が風に揺れる音が聞こえた。

海が近いからか、カーテンを引くまでは、窓から茶色っぽいカモメのような鳥が灯台の周りを飛ぶのが見えた。

淡い檸檬色と淡い水色の内装は海辺のリゾートホテルのようで爽やかであるし、ネアはどこかゼノーシュを思わせる彩りを気に入っている。


(いい雰囲気のホテルだし、カーテンを開けて、綺麗な街とあの百日紅のような素敵な赤い花を眺められたらいいのに………)


そう思わないでもなかったが、怖いものが出るのであれば致し方ない。

思っていたよりも整備された大きな街で、街に入るのに特に難しい手続きもなかったのですっかり安心していたら、よりにもよってという日にここを訪れてしまったようだ。



余談だが、地上ではモナだけではなくカルウィにも、海の日と呼ばれる同じような障りの日があるらしい。

シェダーに教えて貰ってぞっとしたのだが、カルウィではその日を祝祭日とし、逆に、民達に海遊びなどを推奨している。

そちらに現れるのが明確な姿を持たない怪物であることを幸いとし、海に遊びに行く者達の中から無差別に贄を捧げて鎮めるという方策であった。



(忌避するのではなく、知らせずに犠牲にしてゆくというやり方もあるのだわ…………)



海での犠牲者は一定数出るものの、民衆は、みんなが海で遊ぶ日だから事故が多いのだろうと考えるくらいで、今はもう、その祝祭が制定された経緯すら伝えられなくなったのだとか。

貴族達の中にも、その日の本来の意味を知らずに海に出掛けてしまう者がいるらしい。



であれば、こうして避難を促して生贄などを公に差し出していないだけ、この灯台の街は良心的な者達に治められているようだ。



「海の怪物と、森の怪物は形状的にはよく似ているのですよね?」

「そうなると、森の怪物はさながら光竜の顕現だな。似たような形状で正反対の資質。この世界の前の世界では、咎竜に相当するものが海に、光竜に相当するものが森に住んでいたのかもしれん」

「…………前の世界は、そのそれぞれが、どこか今の世界とは違うのですよね。そう考えると不思議な思いがします…………」

「どっからそんな……………、そうか、あんたは万象の指輪持ちだったか。そんな話も聞けるからには、知りたいことの多くを知れる環境なんだろう。なかなかに羨ましいもんだな」

「ゾーイさんは、前の世界の話を聞きたいのですか?」



ネアがそう尋ねると、ゾーイはふっと自嘲気味に笑った。

出会ったばかりの頃の厄介そうな精霊の眼差しではなく、寛いだ瞳の色にはどこか傷付きやすい少年のような無防備さが覗き、ネアはおやっと眉を持ち上げた。

帽子をとり、ぶ厚い上着を脱いでバンドカフスのドレスシャツ姿になると、海賊めいた鋭さが緩和されるのか、少しだけ年若く見える。



(先程の話しぶりといい、この人はあまり海が好きではないのかしら………)



ネアがそう考えたのがわかったのか、ゾーイは小さく笑って白状した。



「前の世界もそうだし、森や湖、山や沼地。どんな話でも興味がある。…………俺は海に住む者で海を美しいとは思うが、残念ながら嗜好としては陸を好む。陸の話はどれも興味があるんだ」

「…………だからあの日は、リーエンベルクに来ていたのですか?」

「…………ああ。大義名分を持った上で、全く系譜の相容れない土地をうろつけることはあまりない。……………普段は、一族の者達や副官が煩いからな。いや、一族の仲間達は気に入っているが、仲間を気に入っているということと俺の趣味とはまた別の話だ。…………俺は陸にある城や宮殿、………その中でも特に森や湖に面しているものを見るのが好きで、暇さえあればそういうものを見に出掛けていたい」



そんな告白にふと、ネアは、陸が好きだったのだと微笑んだイブの眼差しを思い出した。

もしかしたらどこにだって、そんな風にここではないどこかへの憧れを抱いてしまう者はいるのかも知れない。



「…………同じようなことを仰っていた竜さんに会ったことがあります。その方は海竜さんで、ご自身の役目や生まれを理解はされていましたが、それでも陸での暮らしに憧れがあったそうです。私がお会いした時には、体を奪われて魂だけの存在になってしまった後の、更にその残滓のような状態でしたが、体を奪われたことで陸に暮らすことが出来た晩年を、あの方はとても幸せだったと仰っていました……………」

「………………ああ、そうだな。自分だけでは捨てられないものは多い。いっそ、そうやって弾き出されちまえば、晴れやかに陸に上がれるだろう。…………とは言えそいつは幸運だ。この身に魔術を宿し、海のものとして生まれたその時から、俺達はあまり海から離れては暮らせない」


そう呟いたゾーイに、そうだろうかとシェダーが首を傾げた。


「勿論、王である君が放棄出来るものは少ないだろう。だが、それなりの階位や系譜の固有魔術を持ってはいても、上手く遣り繰りすれば陸に暮らせる者もいる。………………知人に夜海の竜がいるが、自身の身の内に持つ他の系譜、………彼の場合は夜だな。そちらを主軸にする紐付けを行って、上手くやっているようだ」

「………………そいつは、ずっと陸に暮らしているのか?」

「ああ。足元の土地に自身の性質を浸透させないような靴を履き、アクス商会から仕入れた海水を一日に一度浴びる必要はあるそうだが、今のところは無事にな。とは言え、海を訪れることもあるようだ。住む場所を変えただけで、海を捨てた訳ではないようだから」

「…………………いい話を聞いた。俺もいつかは、王座を誰かに譲るだろう。その時には上手い具合に陸で隠居生活を送れるかもしれないってことだな」



そう呟き、ゾーイは唇の端を持ち上げる。



(魂だけになっても海辺からは離れられなかったイブさんとは違って、シェダーさんのお友達の方は、陸で暮らす術を見付けたんだ…………)


今日ここで出会い、シェダーからそのやり方を聞いたことで、いつかゾーイが陸に暮らせる日もくるのだろうか。

そう思うと何だか素敵なことに思えたので、ネアはこれもまたいい出会いだったのだろうかと嬉しくなる。




その刹那、闇が落ちてきた。




「…………いきなり暗くなったな」



窓にはカーテンを引き、灯りをつけた屋内にいるのに、急に部屋が暗くなったのだ。

シェダーのその言葉にネアは思わず窓の方を見て、先程までカーテンの隙間から零れていた夕暮れの青い光が漆黒に塗りつぶされていることを知る。



「まるで、気象性の悪夢が落ちて来るときのようですね………」

「ここまで変化があるものだとは思わなかったな。…………となると、かなり影響を及ぼすものなのか…………」

「海の魔術の気配が強くなった。こりゃ、夜の前に上がって来るんじゃないか?」

「ま、窓に外側に向けて、きりんさんの絵を貼っておきます?」

「効果があるかもしれないが、相手は祟りものの上に、その亡霊のようなものだからな。下手に刺激しない方がいいだろう。住民達も遮蔽が確かな屋内にいれば問題はないと話していた。とは言え俺達は全員が初めて対面するものだ。………………ネア、今夜はアルテアを離さないようにした方がいい」

「はい……………」




ごおんごおんと、どこかで遠い鐘の音が聞こえる。


住民に屋内への退避を促す警鐘のようなものだろうかと考えながら、ネアは不安な思いで影の国での初めての夜を迎えた。




(そう言えば、あわいの列車の向こうで、私とノアを呼んだ何かがいたというけれど…………)




ふと、ディノが心配していたことを思い出し、ぞくりとする。

あの日、ネア達は無事に列車を降りることが出来たのだが、その先にはどんなものが待ち構えていたのだろうか。












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