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ネル




あの日、ネルはずるりずるりと足を引き摺って走った。

少しでも早く進みたいのに足が重い。

いや、一刻も早く駆けつけたいと思っているのに、本当はそれを拒んでいるのだろうか。



家が近付く程に足は重たくなり、最後には立ち止まる。



あたりには異様な匂いが籠っていた。



濡れた土砂と打ち砕かれた木々の匂い。

そして焼け焦げ、無残に失われた命や建物の匂い。



声にならない声で呻き、顔を持ち上げて空を仰ぐ。

胸が引き絞られるように痛くて息が止まりそうだ。

一度決壊したら二度と元通りにはならないだろう。



だから、決して泣いてはいけない。



家であった場所が失われ、そこで彼が買って帰る筈だった森葡萄のケーキを待っていた筈の家族が誰もいなくなってしまったのだと分かってはいても、ネルは泣いてはいけないのだ。



ざあざあと雨が降る。

目を閉じてその雨を頬に浴びた時、なぜだか、切り裂くような冷たさが気持ち良かったのを覚えている。

そしてその日から、ネルは一人ぼっちになった。






「よお、ネル。今日も酷い顔色だぞ。昼に魚の煮込みスープでも食いに行くか?」



毎朝、店に出る通り道で声をかけてくる女がいる。

多分女なのだろう。

噂では頬に大きな傷がある女だと聞いていたが、ネルはその通勤路の中で顔を上げたことは一度もない。



朝の市場は賑やかだ。

商売をせねば生きていけなかったが、命の営みに満ちて、誰かと過ごす誰かに溢れた市場を見るのは酷い苦痛であった。



だからネルはいつも、睨むようにして自分の足元だけを見ながら店に通うのだ。




「………………ふぅ」



その日も、ネルは薄暗いテントに帰ってきた。


本来ならここからもう出たくないのだが、そうはいかない事情がある。

ここはあくまでも店舗地であり、居住区ではない。

深夜になると、規則を無視してここに住みついている者がいないかどうか、見回りの兵士が来るのだった。


だからネルは、店を夕方で閉めた後は、店の奥にある寝袋で仮眠を取り、夜の間は川沿いの公園や、森の近くの広場などで時間を潰していた。



必ず、その夜に何をするのかを決めてそれを行うようにしている。

例えば、これだと決めた一本の木の葉っぱを夜通し数えていたり、ひび割れてしまった石壁の補修をしていたりと様々だ。


そんなことをしている内に、こいつは暇だと思われたのか、この近くに住む者達から夜間の小さな作業や、工事、閉鎖された店の見張りなどを頼まれるようになった。



なので夜も仕事をするようになり、仕事のない日は自分で決めた何かをこなす。



嵐などが来て、何もすることがないような夜になると、耳の奥で、楽しげな妹達の歌声や、朝食を作る母の呼ぶ声などが聞こえてきてしまうのだ。

それはとても恐ろしく、優しく肩を叩いて迎えに来た父の幻影を払う為に、嵐の中をがむしゃらに走って逃げまわったこともあった。




どこまでも、どこまでも、あまりにも眩しい過去は追いかけてきた。


その過去の豊かさや眩しさのあまりに現在は影となり、陽の光も差し込まない冷たく暗い場所を今日も歩く。



この国にはたくさんの人達が暮らしているけれど、あの大雨の日までのネルは、自分がその中でも指折りの幸福な人間だと信じて疑わなかった。


例えば、友人達はささいな不快感や不理解、不満を家族に抱えることがあったけれど、ネルにはそんなものは少しもなかった。


両親と妹達は大好きだし、家族からも愛されている自信があった。

ネルの家族は大の仲良しで、両親もいまだに恋人同士のように微笑み合う。

妹達は、所謂美人という顔立ちではないものの、笑うと世界で一番可愛かったし、笑わなくてもネルには世界で一番可愛い妹達だった。



(………………ああ、あのオレンジのケーキ)



家族のみんなが大好物のオレンジのケーキ。

週に一度は食卓に上がるシチューに、妹の得意な少しいびつなクッキーと、父の大好きな魚のサンドイッチは、母の得意料理でネルたちの大好物でもある。

細く細く糸のように切った野菜を酢漬けにして、粉をはたいて揚げた魚を甘酢に漬けたものと一緒にパンに挟むのだ。

熱い夏は保冷魔術の壊れかけた保冷庫に氷を詰めてきりっと冷やし、冬には揚げたてのものをさっと甘酢にくぐらせてあつあつで齧る。



夕暮れの鐘が鳴る頃には妹達と晩餐の準備をしたり、学校の宿題をする。


父の古書店は決して仕入れに力を入れてはいなかったが、ネルの家族の温かなもてなしにすっかり心を蕩かされてしまった仕入れ屋や冒険者達が、長い旅から帰ってくると必ず訪れる本屋でもあった。


そのお陰か、珍しい本や人気のある本が集まり、またその本を目当てにあちこちから人が集まってくる。

父も母も、美男でも美女でもなく、誰かをやり込めてしまうような知恵者でもない。

それなのに、あの店に行くとみんな幸せな気持ちになると言って貰い、ネルはそんな両親が誇らしくて堪らなかった。



『お兄ちゃん。仲良しのメリシャムが、可愛い青いリボンをしているの』


一度、妹達がしゅんとしているのでその理由を尋ねると、お昼前に一緒に遊んだ友達が髪に結んでいるリボンが、とても綺麗で羨ましかったらしい。

であれば買って来てあげようかと言ったのだが、そういうことではないようだ。



『あんな青い綺麗なリボンで髪を結んでみたいわ。………でも、お母さんから貰った水色のリボンや、お兄ちゃんとお父さんが買ってくれた銀色の髪留めが大好きなの。………青いリボンが来ても出番がないと思う…………』



双子の妹が真剣にそんなことを悩んでいるので、ネルは笑ってしまった。

買って欲しいと言えば、妹達もそれが誕生日や新年の贈り物、お手伝いのご褒美として手に入ることは知っている。

どんなものでも好きなだけ買えるという裕福な家ではないが、リボンくらいであれば、ネルも、両親も、おこづかいの中から買い与えてあげることが出来るのに。



『青いリボンも買ってあげるから、交代でつけたらどうかな?』

『お母さんのリボンと、お父さんとお兄ちゃんの髪留めで交代にしてるの。三つも使えないもの…………』

『持っていたら、使うかもしれないよ?』

『お兄ちゃんは分ってない。三個あったら、他の二個の出番が減っちゃうのよ』



くすんと鼻を鳴らした妹達にそう主張され、困り果てたネルは母親に相談してみた。

すると母は、青い綺麗なリボンをどこからか買ってくると、妹達がハンカチや飴などを入れている小さなポシェットの紐にきゅっと綺麗に結んでやった。

大喜びの妹達を見ながら、父と、やっぱり敵わないなぁと笑い合ったのを覚えている。



幸せな家だった。



古い屋敷ではあったが、曾祖父は男爵の家の出だったのだという。

その素敵なお屋敷があちこちの修繕が必要なぼろ屋になってしまっても、父や母がきちんと手入れをしている家はとても住み心地が良く、廊下にはいつも、ポプリや生けられた花のいい匂いがした。



花瓶に生けられているのは、そのあたりの森で摘んできた野の花だ。

庭で育てている薔薇が生けられる季節は、妹達が大はしゃぎで薔薇の匂いを嗅ぐ。

花瓶の置かれた小さな棚には、森で拾ってきたどんぐりや、海岸で拾った綺麗な石や貝など、様々な妹達の戦利品が飾られている。



大事に大事に直した雨どいは、本を持ち込んでくれた旅人が一緒に直してくれた。

古い雨どいではあったが、くすんだような瑠璃色がとても綺麗で家族のお気に入りだったのだ。



タタンと落ちる雨音に耳を澄まし、我が家の雨どいには妖精がいるかどうかを、妹達と議論した霧雨の日。



母は、誕生日には父から綺麗な絵皿を買って貰う。

古いが元は男爵の屋敷なので部屋はたくさんあり、母は宝物の絵皿を飾る為の部屋を作った。

そんな母の絵皿の部屋に入ると素晴らしい美術館に来たようで、ネルは密かにそこを、母の美術館と呼んでいた。




匂い、音、笑い声。



くるくる回るスカートの色に、風に揺れた長い髪。

古い本の匂いと書架のざらついた手触りに、雨漏りする部屋に置かれた綺麗な赤い鉢。


庭にはたくさんの花が咲き、その花を摘んでポプリを作る日曜の朝。



きらきらと、きらきらと、過去は眩く彩りに満ちていて、いい匂いがするばかり。



あんなに美しく愛おしかったものが、土砂に埋もれ粉々になり、焼け爛れて雨ざらしになっていたのだと思うと、胸が潰れそうだ。




『おはよう、ネル』



眠る度に、母の優しい声で呼ばれる夢を見る。

妹達に頬をつつかれて目覚める朝や、たくさん本が届いたから、今日は忙しくなるぞと呼びに来る父。

けれど、目を開けるとそこは簡素なテントの中で、ネルは一人ぼっちで声にはならない呻き声を上げて体を折り曲げる。




もう充分だ。




もう充分だと思いながら、今日も俯いて店に通う。

夜が明けて朝が来ると、そこには今日も変わらず世界が続いていると信じ切った安らかな目をした人達が溢れ、ネルの胸は例えようもなく重たくなった。




けれどもその日、ネルの店には不思議なお客がやって来て、ネルの店の唯一のまともな商品だった人魚の笛を買っていった。

ごろんと拳くらいの素晴らしい祝福が込められた宝石を残し、換金しやすいようにと小さな宝石までおまけにして。

そんな二つの宝石を眺め、ネルは先程から呆然と固まっていた。



(…………………こんな大きな宝石、見たことがない…………)



ネルの生まれ育った家は、事故の後はもう修復が不可能なくらいに壊れていたので、今後の生活資金と引き換えにあの土地は手放すしかなかった。

街を出るその時に、決して利便性のいい土地ではないその一帯を買い上げてくれた塗りもの屋の主人は、二束三文にしかならないその土地を少しでも高く買い上げて、ネルを何とか再起させようとしていたのだと知った。



(でも、自分の家を借りれるような蓄えにはならなくて、テントしか買えなかったんだ。…………これだけの宝石があれば、…………またあの土地に、家族の家そっくりの家を建てられるだろうか)



歯を食い縛って台車やスコップでどかし、胸が張り裂けそうな思いで捨てた家のかけらは二度と元には戻らないけれど、あの場所に似たようなものがあれば、ネルの心は少しでも安らかになるだろうか。



(でも、あの女の子は、美味しいものを食べて休むようにと言っていた…………)



その時のネルは、思っていたよりもずっと疲れていたのだと思う。


ひどく混乱していてどうしていいか分らないまま、言われた通りにしなければいけないのだと思い込み、夕方になると、おずおずとあの少女に言われたように頬に傷のある古書店の主人のところを訪れた。




「……………ネルじゃないか?…………どうした?」



店じまいをしていた店主に声をかけようと、その店の前で固まっていると、彼女は、こちらに気付き気さくに声をかけてくれた。


確かに頬に大きな傷があるのだが、木漏れ日の欠片のような瞳は鮮やかで美しい。

初めてその顔を正面から見て、ネルはなんて綺麗な人なんだろうと思った。

振り返った顔は嬉しそうだし、微笑んだり喋ったりする様がからりとしていて、父によく会いに来ていた旅人の一人を思い出した。

あの魔術師も笑顔がとても素敵で、ネルの大好きなお客の一人であった。



「……………あの、………初めまして」

「初めましてじゃないだろう。一度、この近くで織物屋をやってたおやじと、一緒に昼食を食べたのを忘れちまったのかい?」

「……………そ、そうでした」


そうだったと返事をしたものの、ネルはその時のことをまったく覚えていなかった。

誰かに無理矢理食事に誘われたことは何度かあったし、ネルを訪ねてこの市場に来てくれた商人も何人かいる。

けれども彼等も、すっかり性格も変わってしまったネルを見ると、どこかいたたまれないような悲しそうな顔をして立ち去ってゆくのだ。



そんなことを考えていたら、ひょいと顔を覗き込まれた。



「どうしたんだい?何か困ったことでもあったか?……………なぁ、今夜は灯台の街のように怪物は現れないけれど、それでも夜が軋む日だ。一人でいるのもなんだし、一緒に食事でもしないか?近くに出来た店に、美味い蟹料理が出るらしい」

「…………………食事」

「………………ネル?」



そう言えば、食事をしなければいけないのだった。


そう思ったのに、もう随分と人に自分から話しかけていなかったせいか、どうやってその相談をすればいいのか分らない。

言葉を彷徨わせると、彼女は不思議そうにこちらを見る。

まだ言うべき言葉を探せないネルに気付いたのか、にっこりと笑うと、大きな木の箱に本をしまい、敷物の上にどかりと胡坐で座り込む。



「まずは、茶でも飲もう。仕事終わりには、薬茶を飲むようにしているんだ。一緒にお茶を飲めば、もう仲間だと父さんが話してくれたもんだよ。さぁさぁ、一緒に茶を飲んで、ネルの話を聞かせておくれ」




そうしてその日の夜、お茶をしただけでもう仲間になったらしいネルは、エリシアと一緒に美味しい蟹料理を食べた。



海沿いの街に住んでいたのにネルは初めて蟹を食べたし、エリシアが海竜の血を引いていることも、温かい食事を誰かと食べることが、こんなに必要なことなのだということも初めて知った。



必要なことを話しているだけなのになぜか泣けてきて、その夜、ネルは家族が死んでから初めて泣いた。



あの土砂降りの雨の中、土砂崩れで裏の土手にあった物見の塔が崩れ落ちてきて、獣避けの火が家と家族を焼き尽くしてしまったと聞いた。

手に持っていたケーキをどこかに落としてきたまま、必死に家までの道を走っていた時も、焼け焦げて無残に壊れた家の下から家族の亡骸が出てきた時にも、ネルは一度も泣いてはいなかった。


泣いてしまったらもう、自分が正気ではいられないと、心のどこかでわかっていたのかもしれない。




その時に泣くべきだったそのように声を上げて喉を枯らし、蹲って咽び泣いた。


泣きじゃくる自分を抱き締めてくれたエリシアは、ずっと一緒に暮らしていた弟を、祟りものの討伐の際の誤射の事故で失っていた。

エリシアの弟を誤って撃ち殺してしまったのは、彼女の父親代わりの魔術師だったそうだ。

三人で旅をしてはあちこちの街で店を出し、なんと、ネルの父親も知っていたのだとか。



そうして、かつてネルの家で温かな食事でもてなされたというエリシアが、同じように自分以外の全てを失くしてすぐ側で店を開いていたのは、運命だったのだとネルは思っている。




あれから五年が経った。




「…………父さんは、あの事故の翌日に自分で命を絶った。…………あたしは一人で残されてしまったとも気付かないまま、谷間の村で大怪我でひと月も寝込んでいたらしい。父さんは、あたしも助からないと思ったんだろうねぇ。…………祟りものの毒が抜けて目を覚ましてからその話を聞いて、………………ふらふらと、いつだったか温かくもてなしてくれた古書店を訪ねたら、そこも事故でみんな死んじまったって聞いてね。…………一人だけ生き残った長男が、この街に移り住んだって聞いたんだよ」



預かった本の修繕をしながら、エリシアがそう呟く。


初めてその話をしたときには泣いていたが、今はもう、穏やかな優しい目をして話してくれるようになった。

彼女がそんな話を聞かせているのは、エリシアに求婚しに来た旅の若者で、ネルは、場合によってはこの気のいい青年を、こてんぱんにして窓から放り出さなければいけないと考えているところだ。



「つまりさ、私がこいつをこの街まで追いかけて来たんだ。悪いけど、他の誰かに乗り換えるつもりなんざない。今は、ネルとミルスっていう立派な家族がいるからね」



きっぱりと断られると諦めがついたのか、旅の若者はフライパンを片手に立っていたネルにすまなかったと詫びると、礼儀正しく宿を出ていった。

宿の外でミルスにも威嚇されているのが分り、ネルは少しだけ愉快な気持ちでくすりと笑う。



顔を上げてこちらを見たエリシアが、ふっと微笑む。




(君は、すごく美しい)



ネルが絶世の美女だと思うエリシアは、男性のような短い髪を腰まで伸ばすと、はっと目を惹く美しい女性になった。


ここにネルが大きな屋敷を建て、屋敷の一階で古書の修繕や目利きなどの店を始めると、定住する家があることで安心して髪を伸ばせるようになったのだと言う。

でもそれは、失われた家族を悼みあえて頬の傷が良く見えるように髪を切っていた日々が終わり、エリシアの中でも、やっと何かの区切りがついたからだとネルは知っている。



ネルも、灯台の街へは戻らなかった。



人魚の笛の代金に受け取った宝石についてエリシアと相談し、二人はまずその宝石の換金の為に奔走することになる。

やがてその宝石は、これもまた良い偶然が重なって森に住む魔物がたいそう気に入り、目が飛び出るような額で買い上げてくれた。



この川沿いの街で家を建てたのは、この街で出会った一匹の海竜がいたからだ。

今はもう家族の一員になったミルスは、戦って負けた人間の女の子が恋しくて仕方ないと、もう一度その子に会いたくて川の畔で項垂れていたのを、エリシアが拾ってきたのだ。

寂しがり屋のミルスは、また人間を背中に乗せて飛ぶのが夢だと言う。

その女の子と旅をした思い出がとても素晴らしく、あんな風に空を飛びたいのだとエリシアに熱く語ったのだとか。


そんな話を聞いたネルとエリシアが閃き、この土地に海竜亭という宿を、自宅を兼ねて建てることにしたのだった。



幸い、ネルは母親仕込みで料理や家事が得意であったし、かつての暮らしのお蔭で他人を敷地内に入れることに抵抗がない。

とは言え、あまり手を広げても失敗しそうだったので、一日に三組までのお客を取り、灯台の街までであればミルスが背中に乗せて送っていってくれるということを売りにしたのだが、これが大当たりしたようだ。


海竜に乗れる宿としていつの間にか有名になり、高い乗竜代を払って灯台の街まで急ぐお客だけではなく、海竜に乗ってみたい裕福な旅人や商人達も集まるようになった。


色々な人々を背中に乗せて飛び、ミルスもすっかりご機嫌で今の仕事を気に入っている。

お気に入りの少女には再会出来なかったようだが、その代わりに出会ったエリシアを溺愛していて、エリシアに近付くネル以外の男性は許さない。


どうやらネルのことはエリシアに相応しいと認めてくれたようで、早くどうにかしろと急かされるようになったのだが、ネルにも都合というものがあり、求婚するのは二人が初めて美味しい蟹料理を食べた日と心に決めているのだ。



今では、かつて父や母に会いにあの灯台の街の古本屋を訪れていた商人や旅人達が、今度はネルの宿にやって来るようになった。



灯台の街に住むかつての友人達や両親の知り合いと提携し、お客を灯台の街に送った後のミルスは、先に送金してあるお金の中から買える限りで、灯台の街の市場に売られている新鮮な海の幸を購入して持って帰って来てくれる。

その海の幸を海竜亭で美味しく料理し、宿泊客に振る舞うことにした。




「今日は、父さんの親友だった古書収集家の魔物が泊まりに来るんだ。すごいおじいさんだけど、話が面白いからきっと君も気に入るよ」

「ああ、夏にネルの家族の墓参りをしてくれた、あの魔物か」

「うん。後百年は生きるそうだから、ずっと海竜亭のお客になってくれるって」

「はは、そりゃあいい!それならぜひ、いずれ我が家に生まれる子供の為にも仲良くしておかないとだな」

「こっ、…………子供?!」

「ネルの妹達の分、あたしの弟の分、三人は産まないとだから、五日後の記念日を楽しみにしてる。ただ、ネルの両親とあたしの父さんの分は勘弁してくれ。さすがにそんなに多くは無理だ」

「………………は、…………はいっ!!僕も頑張ります!!!」

「あはは、なんで敬語になっちまうのかね」




灯台の街の実家のあった場所は、あの宝石を売ったお金の一部で綺麗な公園にした。


あの事故で亡くなった、ネルの家族と、物見の塔で働いていた人達のお墓がある。

花壇にはたくさんの花が咲き、子供達が集まる素敵な公園で、公園の名前は妹達の名前にしておいた。


エリシアの弟と父親が亡くなった峠には、祟りものなどに襲われた時に逃げ込める避難壕を作った。

今年の春にもそこに逃げ込んで助かった旅人がいたようで、避難壕の中にある旅人ノートには、たくさんの感謝の言葉が書き連ねられている。




あの日、あなたが新しい大切なものを探しに行く手助けの為の投資だと、あの女の子は言った。



法外な値段で売り付けた人魚の笛が、ほんとうに特別なものだったのかどうかは分らない。


元々は祖父のものだったあの笛は、子供の頃に貰ったネルの玩具の一つであった。

吹けば綺麗な音が出るが、特別なことは何も起こらないあの笛だったが、もしかしたらそこに宿った祖父の思いがネルを助けてくれようと、あの不思議な少女を遣わしてくれたのかもしれない。



実は、小さな宝石の方は売らずに残してある。


エリシアが、高価な魔術書が売れたばかりなので、大きな宝石を売るまでの当面の生活費ぐらいは任せろと言ってくれたこともあり、あの少女に出会った証として何となく売るのが躊躇われてしまい、ネルたちの手元に残ったのだった。


子供達や孫達の代で困難に見舞われた時、いつかどこかでこの宝石が助けになればいいと思う。



その宝石は今も、居間に置かれた綺麗な宝石箱の中で、きらきらと澄んだ輝きを放っていた。



















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