291. 襲撃には備えがあります(本編)
空の旅を終えて、ネア達が海竜から降りたのは灯台の街の近くにある森の中だった。
さすがに海竜で乗り付けるのは目立つので、残りは徒歩での移動となる。
そしてネアは、先程から五分ほどしょぼくれた海竜を宥めていた。
「竜さん、ここまで有難うございました」
「…………ギャウ」
「あら、しょんぼりなのですか?」
「ギャウ……………」
「でも、竜さんはとても大きいので街には入らないでしょう?それに、これからは地上の海竜さんの戦があるので危ないですからね」
「………………ギャウ」
「ええ。先程お話ししたように、お仲間の皆さんと巻き込まれないようにしていてくれると、私も安心です。優しい竜さんが、怪我などしてはいけませんから」
「ギャウ!…………ギャウ」
「まぁ!これをくれるのですか?綺麗な石ですね」
「ギャウ」
「……………品質のいい海結晶だ。それ程見事なものなら、海中で呼吸も簡単に出来るだろうな…………」
海竜が前足に乗せて、どこからか取り出した青い宝石を差し出してくれた。
とてもいいものだとゾーイに教えて貰い、ネアは伸び上がって海竜の頭を撫でてやる。
撫でて貰った海竜は、目を細めて悲しそうにしたが、やっとここでお別れなのだと理解したようだ。
「ふふ、なんて素敵な贈り物でしょう。私はこんな素敵な竜さんと出会えて良かったです」
「ギャウ。………………ギャウ!!」
たくさん撫でて貰った海竜は、若干へろへろになりながら、ようやく飛び去って行った。
無事に帰ってくれてほっとしたネアは、振り返ってガッツポーズをしてみせる。
「…………おい、やめろよ。残酷だぞ」
「しかし、竜さんに乗るという目的を果たした今、あのような大きな竜さんが街まで付いて来たらじゃま………げふん!……大惨事なのでは…………」
「フキュフ……………」
「見ろよ、アルテアも渋い顔をしてるだろ」
「あら、アルテアさんはあの竜さんも一緒の方が良かったですか?」
「フキュフ!」
この姿になっても竜を飼うのは反対派の魔物なのか、ちびふわはふかふかの尻尾でネアをぱすぱすと叩く。
無事に地上に降りたので、先程からネアの肩に移動していた。
白いちびふわは最高の白もふでもあるのだが、さすがに白はと擬態してこのような柔らかな灰色になると、上品で高貴な獣のように見える。
ネアは水玉も良かったけれどと思いつつ、新たな装いのちびふわのお尻を撫でてやった。
「ふふ、灰色ちびふわも乙なものですねぇ」
「フキュフ」
「……………なぁ、そのアルテアは何を食べるんだ?」
最初はこれが高位の魔物の成れの果てだと知り、すっかり落ち込んでいたゾーイだが、途中から興味津々になってきた。
竜を降りてネアの襟巻きになったちびふわが、とても愛くるしかったからに違いない。
海賊のような装いの美しい男性が、もふふかの小さな生き物を撫でようとして、ふーっと威嚇される様はとても胸が温かくなる光景ではないか。
「ちびふわに決して与えてはいけないのはお砂糖の入ったものです。与えると、酔っ払いな甘えたちびふわが誕生し、あまりの愛くるしさに胸が苦しくなります………」
「…………お、おう。………それにしても、魔物ってのはよく分からんな。………っ、あんたは、それ以上は俺に近付くな?いいな?!」
「……………まぁ、すっかり怯えてしまいましたねぇ。林檎飴でも食べますか?」
そう尋ねたのは偶然だった。
先程の喪失の痛みを思い出しつつ、二袋目の林檎飴を取り出したので、どうせなら分けてあげようと思ったのだ。
なお、もう一つはシェダーにあげる予定で、必死にちびこい手を伸ばしているちびふわは黙殺する。
「…………仕方ないな」
「…………さては林檎飴がお好きな模様」
「っ、…………ま、まさか、そんな訳あるか」
「……………ゾーイさん、お耳が赤くなっていますよ?」
「フキュフ!」
「めっ!ちびふわは、お砂糖入りのものは禁止です!」
「フキュフー!!」
そこに、魔術の紐付けで、少し離れたところで牧場に鞍を返していたシェダーが戻ってきた。
海竜の背中に乗せた鞍は、牧場主の青年が無償で渡してくれたものだが、持って行くには大きいし、ここに置き去りにしてゆくのも心が痛む。
そんな風に持て余すことを見越したシェダーが、あの牧場に魔術の起点を置いてゆき、予め決めておいた手順を踏めばそこに引き戻されるようにしておいたのだという。
ネアは、ディノやノアが、犠牲の魔物がとても器用だったと話していたことを思い出し、すっかり感激してしまった。
(魔物さんなのに、こういうものをぽいっとやってしまわないで、最初から外した後の鞍をどうするのかを考えてくれていたりして、とても気の回る人だなぁ……)
空の旅の前にはお手洗いに行く必要はあるか尋ねてくれたし、到着地点には辛うじてその森が目視出来るくらいの距離で魔術を展開し、着地までの軌道を結界で目隠しする周到さだ。
(とても計画的で、…………とても戦い慣れている)
そんな、ふとした違和感に、ネアは心が揺れた。
今の彼は侯爵の魔物で、ネアの目にはとても穏やかに見える人だけど、その一挙動には戦慣れした特殊戦闘員のようなところも窺える。
シェダーの階位でこうして知略を巡らせて戦うようなことなどあるのだろうかと考え、ネアは漠然とではあるが、先代の犠牲の魔物が、数々の高位の魔物達と戦ったことを思い出した。
でも、その時の経験がここに秘められている筈がないのだ。
なぜならば、その彼はもう失われており、ここにいるのは新しい犠牲の魔物なのだから。
「おや、飴の争奪戦か。アルテアには決して渡さないようにな」
「フキュフ!」
「ええ。最近すっかり、甘いものへの欲求が抑えられなくなりましたね。………ちびふわは、このまま、お菓子大好きのちびふわになってしまうのでしょうか?」
肩の上のちびふわを覗き込み、そう言ってふにゅりと頬を当ててみると、灰色に擬態したちびふわはけばけばになって固まった。
自分がお菓子への魅力に屈し、魔物としての尊厳や自覚を失いつつあることに気付いたようだ。
「…………フキュフ」
「正気に戻りましたか?」
「…………フキュフ」
何とか魔物としての理性を取り戻してくれたので、これで大丈夫だろうとゾーイに飴をお裾分けすると、シェダーがすかさず繋ぎの魔術を切ってくれた。
それに気付いたからか、ゾーイがおやっと眉を持ち上げる。
「………ああ、今後は気にしなくていいぞ。俺達海嵐は、繋ぎを切る固有魔術を持っているからな。この手の縁を繋げない魔術は得意なんだ」
「それは知らなかったな。満遍なく退けるものではなく、扱って初めて発動するものなのか?」
「そりゃそうだ。そうじゃなかったら、海嵐の精霊の生涯は惨憺たる有様になっちまう」
「…………ネア、何か切ってほしい縁はあるか?」
「…………む?」
「食べさせた飴の対価として、今ならゾーイが無償で引き受けてくれるらしい」
にっこりと微笑んでそう言ってくれたシェダーに、ゾーイはぎょっとしたように目を丸くする。
「ちょ、……おい!」
「むむむ。…………最近はもわもわ妖精さんも捧げられなくなったので、特にはないような気がします。いざという時の為には、上司に差し上げておいた人魚さんの縁切り鋏を戻して貰って、持ってきてあるので、今はこれでちょきんと…」
「…………そんなものまで持ってるのか」
「しかしこれでは、呪いや幻惑などの形のないものとの縁は切れないのですが、ゾーイさんの魔術はそれが出来るのですか?」
「あのなぁ、それが出来たら俺は、そもそも海竜の戦には出てないだろうが」
「…………その通りですね。特に目新しい素敵な効果もなく、少しがっかりです………」
「……………くそ、何で万象はこんな獰猛な生き物を選んだんだ……………」
ゾーイは虚ろな声で低くそう呟いたが、そんなゾーイの様子を見て、シェダーはくすりと笑う。
ここからは森を抜ける道を歩くので、ネアのことは持ち上げずに一緒に歩く方式だ。
このような土地では、その方が死角が出来ずに、もしもの状況にも対処し易い。
うっそうと茂った森の木々は、椎の木やクヌギなどの堅い木の実をつけるような種類の木に見えたが、詳しい種類は分らない。
時折妖精らしき影が見えたりもするが、ウィームの森とは趣の違う、とても豊かではあるが普通の森に近いような景色に見えた。
「彼女でなければ駄目だったのだろう。…………あの方が、長きを彷徨って、やっと見付けた大切な婚約者だ」
「…………それはそうだろうが、趣味の問題だな。悪いが、俺はこの戦が終わったら、こいつとの縁は全力で切るぞ?」
「であれば、この旅が終わるまでには分かるかもしれない。もしくは、それでも君には分からないかもしれないが、ネアが誰かの目を惹くということは理解出来るかもだね。勿論、縁は切って欲しいけれど」
「…………まぁ、こんな人間はそうそういないだろうということくらいは、既に痛感してるけどな。……………おい!そのキノコを触るな!!」
何やらこそこそと話している男二人をそっとしておいてやり、木の幹のところに生えた美味しそうなキノコをつつこうとしたネアは、駆け寄ったゾーイに慌てて引き戻された。
「むが!…………このキノコは、食べられないのですか?」
「猛毒だ、食えん。そもそも、肩のアルテアが…………アルテアが?………ちび………ああ!くそっ!!アルテアが、…………必死に止めていたのを何で無視しやがった?!」
「塩胡椒をしてバター焼きにしたら、とても美味しそうな風貌だったのです。……………じゅるり」
「これから街に行くってのに、何で森の中に生えてるキノコを食う気満々なんだよ………」
「あら、私は狩りの女王でもありますので、森の恵みの収穫にもとても興味があるのですよ?」
そう言って手に握ったものをばばんと見せると、ゾーイはうっと呻いて後ずさる。
「………………カワセミだな。何で素手で鷲掴みにしてやがる」
「手でばしりとやって狩ったからですね。こやつはアクス商会で高く売れるのでとても気に入っているのですが、とても儚くて、狩る際に粉々になってしまうことも多いのが玉に瑕でしょうか」
「…………普通は、攻撃が通らなくて困るからこそ、高階位の肉食獣なんだからな?」
「…………このぺらぺらリボン生物が、肉食獣…………」
「弾丸や刃を通さないから、高く売れるんだ…………」
ネアは、やはりよく分からないなと手の中の薄っぺらいリボンを見下ろし、付加価値で売値が高くなるかもしれない影の国産だと分かるようにして、そっと腕輪の金庫にしまった。
この狩りは、シェダーも見ていたが特に止める様子はなかったので、ネアの狩人としての腕は知っているようだ。
(………舞踏会の時も一緒だったし、純白さん事件の時も見ているからかな………)
或いは、ウィームで働いているのなら、街の噂で知っているのかもしれない。
それであれば鼻が高いぞよと、ネアは噂に違わぬ狩人ぶりを見せられて嬉しかった。
こんなことも出来るので、時にはこの拳でディノを守ることも出来るのだと、なぜだかそう言ってあげたい思いに駆られてしまう。
「さて、街の入り口までは森の中を歩くことになる。周囲の警戒は俺達でするから、ネアは、いい獲物がいたとしても、狩る前には俺かゾーイに一言相談してくれるかな?」
「はい。隊列を崩さないように、いきなり獲物を狩るのはやめますね」
「…………おかしいだろ。なんで人間にその確認がいるんだよ……………」
「なお、ちびふわは、私の肩から落ちないように、しっかりと掴まっていて下さい。森で迷子になると怖いですからね」
「………フキュフ」
「…………そいつも、公爵の魔物にする確認じゃないわな……………」
かくして、さほど長い距離ではないが、深い森の中を抜けることになった。
幸い、獣道のようなものではなくしっかりとした道が出来ているので、人影はなくとも人が分け入らない森という訳でもないようだ。
ある程度木々が育ちやすいような間が開いて木が生えているので、手入れをされている森なのか、異世界的な効果でこのように綺麗に森が整うのかもしれなかった。
さわさわと、柔らかな風が吹く。
ウィームのようなひんやりとする心地いい涼やかな風ではなく、ごく普通の夏の風という感じだが、森のふくよかな香りがした。
丁寧につけられた道には下草などは生えないようだ。
しかし、煉瓦のようなもので補強された道の上に、さすがに掃除などはされないので降り積もってしまったらしい枝葉を、ざくざくと踏んで歩く。
三人は、細やかなレース模様のような木漏れ日を仰ぎ見たり、道を横切るように流れている小川を飛び越えたりしながら街へ向かう。
何度か妖精を見かけたが、カワセミや獰猛そうな熊などの方を多く見かけるので、ここは、獰猛的な生き物が多く住んでいる森なのだろうか。
とは言え、ぺらぺらしたリボンが森を飛んでいる様は、怖いというよりはファンシーですらあった。
ピチチと鳥の鳴く声がする。
肩の上に乗ったちびふわは、最初はきりっと周囲を見回していたが、のんびりとした森歩きに、ちょっと眠たくなってきたのか目が虚ろになってきている。
そのくせ、落ちないようにポシェットに入るように言うと、ぷいっとそっぽを向いて断固拒否するのだ。
落ちてしまったらと不安でならないのだが、その場合は、すぐ斜め後ろを歩いているシェダーが受け止めてくれるだろうか。
(街に近いところに下りたと言ってはいたけれど、この様子だと一時間くらいは歩くのかな………)
既に半刻ぐらいは歩いている。
背の高い木が多いから見えないだけなのかもしれないが、まだまだ街が見えてくる様子はないのでそんなことを考えていると、ネアはふと、ほんの先程まで聞こえていた小鳥の囀りがぱたりと途絶えていることに気付いた。
(……………何か変だ…………)
何かの予兆だろうかと思い振り返ると、シェダーが指を唇に当てて声を出さないようにと合図を送ってくれる。
思わず周囲を見回してしまいたくなる衝動を律し、ネアは小さく頷くと、ぐぐっと背筋を伸ばした。
首筋がちりちりとするような気配に、何か良くないものが迫っているのだろうかと思うものの、シェダーは穏やかな微笑みを崩さずにいてくれるので、どうにかしてくれそうだなという不思議な安心感もある。
(…………それに、いつの間にか擬態してるわ)
何時の間にやらシェダーは藍色の髪の男性に擬態していた。
すっと手のひらを水平に動かされたのは、そのまま止まらずに歩くようにということらしい。
先頭を歩くゾーイは、気にした様子もなくのんびりと歩いているのだが、先程までの退屈しきった様子とはまるで違う、どこか愉快そうな気配が伝わってくるので、この異変に気付いていないということでもないようだ。
少しだけ歩くその間に、ひゅっと黒い影のようなものが太陽を翳らせた気がした。
元々、森の木々に陽光が遮られているので、影が揺れるのは気のせいと言えないこともなかったが、何か大きなものが空を飛んでいるのかもしれない。
もしや、先程の海竜かなとも思ったが、シェダーとゾーイの表情を見る限り、あの海竜が帰って来てしまったとは思っていないようだった。
ざわりと、木々が揺れる。
決して風のせいではないその軋みに、足を止めて身構えてしまいそうになった。
「……………ネア、もしかして足が痛いのか?」
「………………む。…………はい、ちょっと」
不意にシェダーにそう話しかけられ、一瞬首を振ろうとしてから、ネアは慌てて頷いた。
何か動きをつける為の口実なのだと察して、伸ばしてくれた手を取る。
「ほわ?!」
そうして、重ねた手を掴まれてぐいっと引き寄せられたその直後、ざあっと視界にいっぱいに白銀のものが降り注いだ。
どどどっと地響きのような音が響き渡る。
もの凄い勢いに地面の固く踏みしめられた土が千切れ飛び、道を整えてある煉瓦が砕け散った。
(雨、……………じゃない。もっと鋭いものだわ…………)
じっと体を固くしてその雨が降り止むのを待ってから、ネアは、ようやく轟音が止んだところで、しっかりとコートの内側に抱き込んでくれたシェダーの腕の中で、恐る恐る身じろぎする。
「うん。もう大丈夫だ」
「……………何が降って来て……………ぎゃ!針!!」
「波喰いの魔術かな。………ゾーイ、俺を雇っておいて良かったな」
「そうだな。値段に見合う働きをしてくれよ!」
「はは、では叱られない程度に頑張るとしよう」
針に降られた後とは思えない穏やかさでそう微笑んだシェダーに、振り返ったゾーイがにやりと笑う。
そんな二人のやり取りを聞き、そういうことにしておくのだなと頷いたネアは、襟巻なちびふわを鷲掴みにするとずぼっと胸元に押し込んだ。
この交戦中に落ちてしまったりしたら、踏まれてしまいそうで怖かったのだ。
「フキュッ?!フキュフ?!」
いきなり胸元に押し込まれたちびふわは大混乱でじたばたしているが、今は我慢して貰うより他ない。
ポシェットは金庫の中なのだが、この状況で金庫から何かを取り出すのは躊躇われた。
「ネア、少しだけ動くからな」
「はい。では一緒に走ります………むぐ?!」
「しっかり掴まっていてくれ」
「むぎゃふ?!」
一緒に戦うぜという気分であったネアだが、シェダーにひょいっと片腕で持ち上げられ、慌ててシェダーの首に手を回して掴まった。
視界を遮らないようにむぎぎっと体を逸らしていたら、くすりと微笑んだシェダーに、それよりも落ちないようにしっかり掴まっていてくれて構わないと言って貰える。
(さっきの針がなくなってる。………ということは、魔術で象ったものだったのか、或いは氷などだったのかしら………)
そんなことをしている内に、襲撃者が姿を現したようだ。
視界の端で漆黒の影がひらりと過ぎり、黒いケープが翻って揺れた。
ネアの目ではそこまでを追うのがやっとだったが、その直後、ばちんと魔術が弾けるような爆風が上がる。
その風に目を細めていた間にもう、少し離れたところでゾーイは交戦に入ったらしく、鋭いナイフのようなものを持った襲撃者をがつんと片足で蹴り飛ばすのが見えた。
ぶわりと、ゾーイの足元に空気の渦のようなものが湧き上がる。
はっとする間もなくシェダーが動いてしまい角度的に見えなくなったが、今のは、海嵐の精霊らしい魔術が動いたのだろうか。
ネアは持ち上げられることに専念しているので見えないが、こちらにも、もう一人の襲撃者が来ているらしい。
くつくつと喉を鳴らす低い笑い声が木の上から聞こえ、森の中だというのにどこからか波音が聞こえたような気がした。
空気が先程より格段に重く感じる。
べったりと肌に張り付くような重さは、急激に周囲の湿度が上がったからだろうか。
「成る程、……………早々に傭兵を雇うとは、ゾーイも中々に考えたものだな」
その声には聞き覚えがあった。
ネアが、きりん箱の被験者にと考えていた、波喰いの魔物の声だ。
「……………おや、君が話に聞いていた波喰いの魔物かな。確かに厄介な相手のようだから、早々に排除しておいた方が良さそうだね」
その刹那、がぎんと、固い刃物同士が触れ合うような音がして青白い火花が散った。
ぞっとしたネアが視線だけを動かして頭上を見上げれば、身の丈ほどの大剣を手に持ったシェダーが、その剣で波喰いの魔物の攻撃を防いでいるではないか。
(ど、どこから…………)
攻撃が繰り出されるのはもう、先程声が聞こえた木の上からではないようだ。
上下左右と目まぐるしく入れ替わり、やがて黒い影が正面に下り立つ。
そこで漸く、ネアにも波喰いの魔物の姿が見えた。
海などない筈の深い森の中で、大きくうねる波を纏って立つ老人の姿はひどく禍々しい。
漆黒のコートの下には、洒落た黒のスーツのようなものを着ているようだ。
波で立つ風でコートが揺れる度、スーツの襟元にはっとする程に鮮やかな青色のシャツが見える。
彼は腕を組んで立ったまま波を動かしており、その波は、こちらに襲い掛かるとどうやら硬化するようだ。
そして、そんな刃のような波を、シェダーは巧みに剣で弾いている。
(大きい…………)
ネアは、不穏な波を纏うご老人の姿にも驚いたが、シェダーが使っている剣の大きさにも驚いてしまった。
一般的な剣の形とは違い、専門的な武器の知識がないネアには、平べったく大きな剣を柄の部分で合せて真ん中を持つ、両剣のような代物に見える。
ただ、身の丈程の大きさはあるものの、ひやりとする程に鋭利な刃は暗い藍色に輝いていて、決して力任せに使うような武器にも見えない。
その剣をシェダーは片手で巧みに扱い、正面からの大きな攻撃には、片方の刃を地面に突き立てて腕の力だけで押し留める盾のようにする。
「……………っ、」
最初に短く呻いたのは、波喰いの魔物の方だった。
全ての攻撃を防がれるとは思っていなかったのだろう。
目を瞠って片手を持ち上げたが、威力を強めた波の攻撃も、シェダーは難なく防いでしまう。
直後、ネアの心臓の止まりそうな巨大な波と渦潮のようなものが襲い掛かってきたが、シェダーは、ぐぐっと押し込まれた剣を片足の爪先でも固定し、そのまま片手で押し切るようにして両断してしまう。
「系譜の異なる森の中で、これだけの魔術を扱うとなるとなかなかの腕だな」
愉快そうにそう言う声は穏やかなままで、決して苦戦しているようには聞こえなかった。
刃の部分が光っているくらいなので何か魔術的な効果があるものか、押し寄せた鈍色の波は両断されて砕け散ると、熱せられたかのようにじゅわっと霧散した。
「………………お前の魔術の扱いは、生粋の人間には思えんな」
「そうかもしれないし、違うかもしれない。だが、森の中に海を持ち込むのは、あまり褒められたものではないかな。森の木が悪くなってしまう」
「その武器は、魔物の魔術で補強したものかね。………そのようにして、安易に下位の者達に手を貸してしまう魔物達が多いのは困ったことだ」
出現した直後のこちらを見下すような嘲笑の眼差しから一転し、波喰いの魔物の相貌には、微かな焦りが浮かんでいた。
それでも尊大な物言いは変わらないが、そもそも彼が戦っているのは、かなりの高階位の魔物なのである。
そう思えばこの言動はどうなのだろうと、何だか悲しい気持ちで波喰いの魔物の方を見たネアは、そう言えばこの獲物は真正面に立っているではないかということに気付いた。
「……………シェダーさん、あの魔物さんを狩ります!」
「え…………?」
慌ててそう宣言すると、珍しく犠牲の魔物は驚いたように目を瞠った。
視線の向こう側で、ちっぽけな人間の唐突な宣言を受け、波喰いの魔物も、えっと目を丸くする。
可動域六の人間めが何を言っているのだと、たいそう困惑した様子の波喰いの魔物にぽいっと投げつけられたのは、ネアがずっと被験者を探していたきりん箱だ。
手のひらサイズの紙の箱だが、隔離魔術の仕掛けで選択範囲の獲物をぱくんと飲み込んでしまう。
このきりん箱は軽量化を目指した四代目で、希少動物などの捕獲に使う為の魔術の箱の内部を、きりんの楽園に改造したものなのだ。
箱が小さな入り口をぱかっと開いた瞬間、波喰いの魔物は失笑していたような気がする。
こんな小さな箱で自分を捕まえられるものかという余裕がその表情に見て取れたが、それも一瞬のことだった。
ぎゃーと、もの凄い悲鳴が響いた。
少し先で交戦中だったゾーイも、ゾーイと戦っていた青年も、あまりにも悍ましい絶叫に、ぎょっとしたように振り返る。
彼等が見たものは、ぱかりと口を広げた箱の中に何を見たものか、立ったまま失神したのか、或いは既に儚くなってしまったのか、動けないまま箱に飲み込まれた憐れな獲物の姿だった。
そのまま箱は波喰いの魔物を飲み込むと、元通りの大きさになってぽこんと地面に落ちた。
てんてんと地面を転がった箱を、みんなが凍りついたように目で追う。
森は、恐ろしい程の静寂に包まれた。
ネアが、あまりにも固まっているけれど、敵はもう一人いるので油断してはならないと声を上げるその前に、シェダーが手に持っていた大剣を華奢な槍か何かのように投じた。
すぐさま、くぐもったような声が聞こえ、ゾーイと交戦していた青年が湿った音を立てて地面に崩れ落ちる。
そしてまた、森は静まり返った。
「………………え?」
小さな声を上げたのは、ゾーイだ。
自分が戦っていた相手をシェダーが斃したことなどは気にならないのか、それよりもと、地面に落ちた箱をじっと見て顔色を悪くしている。
「フキュフ!」
そのタイミングでいい感じに空気を変えてくれたのは、ネアの胸元からすぽんと顔を出したちびふわだ。
頭から突っ込まれてしまったので、中で反転して顔を出せるようになるまでに時間がかかったらしい。
そして、顔を出すなり、静まり返った森と、みんながじっと見ている地面の上の小さな箱を見て、みっと声を上げるとけばけばになった。
開発には関わっていないものの、材料となった捕獲器の為に使用した魔術を一つ提供しているアルテアは、あの箱がどんなものなのかを知っているのだ。
「……………ネア、あれは?」
「きりん箱です!悪いやつを中に閉じ込めて滅ぼす道具ですが、飲み込まれる前に儚くなってしまうなんてなんと脆弱な生き物でしょう。正しい使用法ではないのでがっかりだと言わざるを得ません…………」
「…………そうか。それは、残念だったな」
「ふぁい。頑張って作ったので、中のきりんの群れに囲まれ、箱が閉じたところで降り注ぐ激辛香辛料油のところまで、あの魔物さんには頑張って欲しかったのです…………」
「…………なぁ、俺はこんなものがこの世にあるってことを、今後どうやって受け止めていけばいいんだ?」
「ふむ。私を怒らせないようにと、清く正しく生きて受け止めていって下さいね」
ピチチと、小鳥の囀りが森に戻り始めた。
ゾーイはとても嫌がったが、シェダーは地面から拾ったきりん箱をネアに手渡してくれて、ふわりとネアの頭を撫でてくれる。
「さすがだな。助けられてしまったみたいだ」
「シェダーさんはとても強かったので、あんな魔物さんはくしゃっとやれた筈です。それなのに、私はこの箱を早く実用化したいあまり、我慢が出来ませんでした………。あの魔物さんは、滅ぼしてしまっても良かったのですか?」
「ああ。助かったよ。…………ただ、その箱はそのままでいいのか?……中身が入ったままだろう?」
「魔物さんは塵になって消えてしまうので、このまま持っているうちに中は綺麗になっています。中をひたひたにした激辛香辛料油も、一日で綺麗に放出管に戻ってくれる仕組みなんですよ。なお、中のきりんさん達は防水加工です!」
「それは凄いな…………ほんとうに」
ふっと目元を緩め、シェダーはなぜか嬉しそうに笑った。
あまりにも嬉しそうに綺麗に笑うので、ネアはこてんと首を傾げる。
すると彼は、また優しくネアの頭を撫でてくれた。
「…………あの方は、なんて素敵な伴侶を見付けたのだろう。シルハーンが選んだのが君で、本当に良かったよ」
そう言ってくれる人だからこそ、ネアも願ってしまうのだろうか。
この人がまた、大事な魔物の大切な友達に戻ってくれたらどれだけ嬉しいかと。