290. 海竜もなかなか悪くありません(本編)
「なぁ。………………俺はもういらないんじゃないのか?」
そう尋ねたのはゾーイだ。
海嵐の精霊王でこの海竜の戦におけるネアの相棒なのだが、そう言われてみれば、確かにこれだけのお知り合いが揃ったのなら、見知らぬ精霊と旅をする必要もない気がする。
ネアがむむっとそちらを向くと、まるで人生の意味探しに行く人のような遠い無垢な瞳でとても遠くを見ている。
放っておいたら、自分探しの旅に出てしまいそうだ。
「ですが、……………ゾーイさんのお立場では、最後の一人まで殺し合う必要があるのではありませんか?」
「そうなるだろうな。だからこそ、そういう意味じゃ、俺一人の方が無駄がない」
「……………さて、それはどうでしょうね。私はとても怖い魔物さんを知っていますが、その方は現在、このようにしてちびふわになり私の手の中ですやすや泥酔しています」
「…………………それ、魔物なのか。誰だよ」
「ちびちびふわふわで愛くるしいですよね。そんな風に見えない方がこうもなるので、ゾーイさんは私と一緒にいた方がいいような気がしますよ?」
ネアがそう言えば、海と雷光の瞳を持つ精霊は、困惑したように目を瞠った。
「…………人間に気遣われる程、軟弱なつもりはないが」
「私を殺せば、あなたを殺せるのです。敵さんはそこを狙ってくることでしょう。であれば下手に戦力を二分するよりも、せめてゾーイさんを囮にして、集まってきた者どもを殲滅する方が得策…」
「待て、何で囮が俺なんだ?!」
「む?か弱い私よりも、ゾーイさんの方が頑丈だからでしょうか。それに、こうして来てくれたシェダーさんは、あくまでも善意で来て下さった方に過ぎません。巻き込まれたのは私とゾーイさんなのですから、後は任せたとは言えませんし」
「ネア、そこは丸投げしてくれて構わない。アルテアはその通りだし、君に何かがあると困るからな」
「…………………アルテア?」
その名前に、ゾーイが呆然とちびふわを見ている。
ネアは、手のひらの上でフッキュウと満足げに息を吐いたちびふわの、ふわふわのお腹を見せてやった。
すっかりしどけなく眠っており、どれだけのお砂糖を食べてしまったのか謎が尽きない。
「しかし、………これが使い魔さんであったりすれば、私もさぁ任せたぞよと思ってしまいますが、シェダーさんにそこまでを頼ってしまうのは、ご負担ではありませんか?来ていただくというところまではご厚意に甘えてしまいました。であれば、例えば帰れるように知恵を貸していただくとか、死にそうな時だけ連れて逃げていただくとか、そのくらいの分量の手助けでも構わないのです」
ネアがそう言えば、目を丸くしてからシェダーはふわりと微笑んだ。
青みがかった濃灰色の装いは、端正だが実用的でもあるように見える。
膝下くらいまでのフロックコートのような上着は装飾が一切ないことで簡素にも見えるのだが、優美な体のラインを出す縫製の美しさに惚れ惚れしてしまいそうだ。
きっと名のある仕立て屋が作ったのだろう。
その代わり上品な上着のラインとは雰囲気を変え、ぴったりと腰回りから足までの形を見せるパンツは、バックルベルトのようなものがついていたりして、少しだけ軍人めいた仕様である。
(子供っぽい表現になるけど、貴族的な雰囲気もあるのに、戦ったら強そう…………)
素敵な雰囲気だと一言にまとめ、ネアはその微笑みの贅沢さに何だか誇らしい気持ちになった。
物悲しい雰囲気の素敵な人だが、ちょっと男性的な優雅な獰猛さもあるなんて、格好いいではないか。
「君が俺に助けを求めたのは、あの方の為なのだな?」
「はい。以前と違い、私の命は、私がちょっともう限界だからと放棄出来るものではなくなってしまいました。であれば、自分自身の為の備えとはまた別に、私の能力では及ばない脅威に対しての備えを、私の大事な魔物の為にもする必要があるのです………………」
「それは良い判断だ。どれだけの備えや知識があっても、その種類によっては死角が生じる。君が、そのように慎重に考えてくれるようになって良かった。だからこそ、こういう時は全部預けてくれて構わないよ」
「シェダーさん…………」
唇の端に淡い微笑みを浮かべ、優しく微笑んだ魔物は美しかった。
それはあくまでも彼の扱う魔術の資質の一端でしかないのだが、願い事を叶える魔術というものはこんな魔物にこそ相応しいと心のどこかで思う。
決して善良ではないだろうが、この魔物はいつもどこか物悲し気で、星の光が滲むような儚い美貌が心に残る。
(本当にそれぞれの魅力や雰囲気が違くて、魔物さん達は色々な人たちがいるのだわ……………)
司るものがあるというのは、そういうことなのだろう。
どこかで誰かに似ていても、その印象は決して重なり合わない。
「さて、俺も暫くは一緒に行動することになるから、彼を紹介してくれるかな?」
「はい。ではご紹介しますね。ゾーイさんは、火の慰霊祭にウィームに観光に来ていた、海嵐の精霊王さんです。最初はお話が出来ずに水着のまま連れ回されましたが、少しばかり短気なところ以外は比較的問題のない方でしょうか?」
「……………君を、水着のまま?…………指摘するまでもないが、彼は随分と着込んでいるようだし、上着の一つくらいは取り出せる階位の精霊だと思っていたが違うのかな………」
「………………誤解されそうな物言いだな。着替えられるところに連れて行っただろう」
ゾーイは不服そうだが、それは所詮精霊なりのタイミングでのことだ。
恩知らずのように思われるのは心外だったので、ネアは正しい経緯をシェダーに説明する。
「あら、見ず知らずの方のお家の洗濯室で、見ず知らずの方の汚れ物を着るようにというご指示でしたよ?競合相手の方の方が、出発前に新しい上着をくれようとする心の広さでしたが、……………とは言え、着替えられるような時間を与えてくれただけでも充分だと思っています。所詮は他人ですし、違う種族な相手のことまでを考えるのは案外難しいことですから。状況が改善されるまでは文句を言いましたが、こうして無事に服を着れた今は、ゾーイさんなりに誠実に対応して下さったのかなと思う次第です」
「君ですらそのように考えられるのだから、彼が、すぐにでも羽織るものを与えるという程度の手を打てなかったのは怠惰だと言わざるを得ないと思うけどな」
「うむ。きっと精霊さんだからかもしれません。精霊さんは、思い込みが激しくて周囲が見えないことの多い、若干空気の読めない方が多いと…」
「やめろ。なんだその偏った評価は」
「しかし、ゾーイさんもまさにそんな感じでしたので……」
ネアが首を傾げてそう言えば、海嵐の精霊は酷く遠い目をした。
「それなら、振り返るたびに食い物の店の前で立ち止まっているのが人間ということになるぞ……………」
「買う猶予を与えてくれるのであれば、その評価のままでも良いのですが……………」
「………………こんな感じだ。あんたが管理してくれるなら、俺は大歓迎だと言っておこう」
「言われるまでもなく、彼女のことは俺が面倒を見よう。その代わり、君は彼女の言うことをきちんと聞くようにな」
「………………待て。何で俺が従う側なんだ?」
「その方が効率的だからだ。勿論、俺達がしっかりと主導し彼女を守ることが前提だが、彼女の思考や判断は俺たちのものとは違う。恐らく、他の参加者達とも違う視点を持つ筈だ。その思考の相違こそが、今回この海竜の戦に巻き込まれた一因だとすれば、その特性を生かさない手はないとは思わないか」
「………………あんた、聞こえてくる評判とは随分違うようだが、ありゃ演技か」
シェダーの話し方は、穏やかで柔和だ。
ネアにとっては、出会った頃からこのような雰囲気の人なのだが、ゾーイはそれが意外だと思うらしい。
(評判……………)
それは、ネアも知るものなのだろうか。
この魔物が治めるとされる土地には、ウィームにまで聞こえてくるような恐ろしい統括の魔物の噂がある。
だが、大きな対価や生贄を好み、人々に畏怖される高位の魔物の冷酷さは、特に驚くべきこともない魔物らしい資質なのだと思う。
それはまた別の側面であると理解出来れば、そのようなこともあるだろう。
魔物は奔放で酷薄だ。
とは言え、それが関わる全ての者に向けられる訳ではなく、彼等にだって友人や恋人などの大切な相手がいるのだろうというだけの話に過ぎない。
「ああ、あちらの国での俺の評判を知っているのか。であればそれは、彼等がそのように求めているからそうなるんだろう。元より、統括の仕事は善行を積むためのものじゃない。任せられた領域を、平定することが目的だからな」
「へぇ、そういうことだったのか。俺はてっきり、水竜達のように人間たちを傅かせて悦に入る鼻持ちならない奴かと思ってたぜ」
「必要があれば傅いても貰うだろうが、愉快には感じないだろうな。………………ネア、市場に来ているということは移動の準備なのだろうけれど、足りないものはないのか?」
「転移門は危ないので、移動用の獣さんを買うようですよ!鷲さんも気になりますが、狼さんがいいです!」
「海嵐の精霊が狼に乗るのか。なかなか、記憶に残る旅になりそうだな」
くすりと笑って自分の方を見たシェダーに、ゾーイは嫌そうに顔を顰める。
「…………………ほわ。そう言えば、ゾーイさんにはお耳と尻尾がないようなのです。寂しいことですね」
「いや、擬態で隠しているんだろう。こうして雑踏に紛れるのに不利だからじゃないかな」
「なぬ。ふかふか尻尾を隠しているのですか?!」
目をぎらつかせた人間ににじり寄られ、ゾーイはぎくりとした。
まだこの人間の恐ろしさを知らないのだが、本能的な危険を感じたのかもしれない。
さっと隠れた先はなぜかシェダーの後ろだったので、シェダーは困惑したように振り返っている。
「……………それ以上近寄るな。いいな?」
「むぐぅ。夏至祭では、霧の精霊さんの尻尾を引っこ抜くのを諦めたので、もしゾーイさんが悪さをしたら、そこでもう一度挑戦出来ると分かって、少しばかりの期待を隠し切れません」
「………………あんた、本当に人間なんだよな?」
「まぁ、こんな可憐な乙女を前に、なぜそんな疑問を抱くのか分かりません。やっぱり精霊さんは、空気が読めない方ですねぇ」
「ふざけんな。関係ないだろうが」
自己紹介が無事に終わったので、ネア達は旅支度を整えることにした。
ネアはゾーイが転移を行えないだけだと思っていたのだが、どうやら影の国では個人の転移が出来ないようだ。
ゾーイはこちら側に来てすぐに一度試し、転移が出来ないので魔術の道に切り替えていたらしい。
「ネア、今はいいが、移動する時は俺の手を離さないようにな」
「はい。動く時はシェダーさんの手を離さないようにしますね。狼さんに乗って旅をするのは初めてです!」
「ああ、俺もだ」
「……………………俺は鷲の方が良かったと思うけどな」
ぶつぶつ言っているゾーイをちらりと見ながら、ネアは手に持ったカードにたくさんのメッセージを書き込んだ。
シェダーのことは本当に打つ手がなくなってから呼ぶつもりだったのだが、早くに駆けつけてくれたことで、こうしてディノへの連絡がしやすくなって助かっていた。
そんなシェダーは、ネアがカードに文字を書けるように、今はネアを持ち上げてくれている。
とても恐縮したが、ディノに早く連絡するようにと言われて、そちらを優先させるべきだと甘えることにした。
(どうしてこの人は、ザハで給仕さんをしているのかしら?)
それを尋ねてみたいけれど、今はゾーイがいる。
今迄に一度も自分の居場所を明かすことはなかったので、何か話したくない、或いは話せない事情があるに違いないというのがネアの予測だった。
ディノやウィリアムには伝えてあるのかもしれないが、簡単に言えない理由はあるような気がする。
(あの給仕さんは、お店に行くたびに優しくしてくれた……………)
まだ、ディノとこれから先もずっと一緒に歩いてゆく覚悟を決めていなかった頃や、色々なことを考えてディノと少しだけ距離を置いた日。
彼はどんな思いであの店でネアやディノの給仕をしてくれて、いつからそこにいたのだろう。
シェダーに出会い、その特徴的な眼差しと同じものを持つ人がすぐ側にいると気付いた時には驚いた。
けれど、そうして見慣れた景色のように近くにいた人だからこそ、判断を誤って迷惑をかけないように慎重に対応しようと思っている。
尋ねてみたいことを口に出せるのは、多分、二人きりの時なのだと思う。
もしかして、ディノが気にしていたものが、そんな生活をしている理由だったりするのだろうか。
「シルハーンとは話を出来たか?」
「ええ。アルテアさんがスカートのポケットに入っていないか聞かれたので、無事に発掘されたと話しておきました。やはり、ウィリアムさんがちびふわにしたときに、ここに忍び込んだようです。ウィリアムさんに連行されてゆくちびふわが不憫でしたので、餞別の品として美味しい砂糖菓子を与えておいたのですが、そのお菓子を持ったまま脱走し、私のスカートのポケットに隠れていたようですね」
「………………そうか。その生き物になると、ある程度は獣としての本能に支配されてしまうんだな」
「まだ起きないのですが、…………酔い覚ましを与えてみますか?」
「岩狼に乗ってからにしようか。今は出発を優先しよう」
「はい。……………それとシェダーさん、ゾーイさんが勝手に鷲を買おうとしています」
「やれやれ、困った精霊だな。捕まえてこよう」
「うむ。ではその隙に、ここから動かないようにするので、私は狼さんを見ていてもいいですか?」
ネアがわくわくしながらそう言えば、シェダーは少しだけ顔を曇らせた。
ちらりと並んだ狼達を眺め、苦笑して首を振った。
「うんと言いたいところだけど、もし怪我などをしたら大変だからな。一緒に見よう。すぐにゾーイを躾けるから、このまま待っていてくれるかな?」
持ち上げたままだと疲れないかなと思ってそう提案したのだが、シェダーは安全を優先するようだ。
今のネア達がいるのが、移動用の獣たちが沢山いる牧場のようなところなので、万が一を警戒したらしい。
「はい。では一緒に行って、ゾーイさんを叱りますね。何なら踏みます!」
「……………おい、聞こえてるからな」
「ゾーイさん、一人だけ鷲さんで別行動するつもりなら、つま先を踏み滅ぼしますよ?」
「念の為に聞くが、そうなるとかなりの被害が出るような邪悪な仕掛けがあるんだな?」
「むぅ。………………つま先が、なくなってしまうかも?」
「………………そうだな、狼にしよう。ちょうど狼にも乗ってみようと思っていたところだ」
とても嫌そうにこちらに戻って来ると、ゾーイは売り物の狼達を暗い目で眺める。
ネアはそんなゾーイの背面を鋭い目で観察し、どこに尻尾が隠されているのかと探ってみたが、上着の下に尻尾が隠されている様子はない。
どこかでうっかり転んだふりをして、尻尾があるあたりにぶつかってみよう。
「ご利用は、岩狼で宜しかったでしょうか?」
そこにやって来たのは、この牧場の牧場主だ。
ロフェの店と教えられていたので、ここを見付けた時にはお店の後ろに牧場のような土地が広がっていて驚いた。
とは言え、売り物の狼達は小型の象くらいの大きさなので、確かにこのくらいの敷地は必要だろう。
先程までネア達の前に来ていた二人の青年に鷲を売っていたので、ネア達はここで順番を待っていたのだが、ゾーイが鷲を諦める良い待ち時間にもなったようだ。
いかにも牧場という感じのするつなぎの服を来て、なぜか腰にはふた振りの刀のようなものを下げた牧場主の青年は、爽やかな微笑みで利用するにあたっての説明を始めてくれる。
「お待たせしまして、申し訳ありません。この移動用獣達の牧場には、若く体力のある岩狼が沢山おりますよ。ただし、最初に指定した目的地までの往復が基本契約です。それ以降のご利用は、岩狼達にお尋ね下さい。無理な仕事をさせるのはご遠慮いただくよう、売買契約書で誓約をいただきます」
「まぁ、狼さん達の為にとても考えられているのですね」
「ええ。彼らは穏やかで忠実な隣人です。時々、生き物ではなく道具として扱おうとする方がおりますので、共に仕事をする仲間の為に私も誠実でなければなりません」
「成程なぁ。行き先が変わった場合は、どう契約をすればいいんだ?」
そう尋ねたゾーイに、狼牧場の主人はこちらを見ている狼達の方を見た。
眼差しは優しく、狼達を大切に思っているのがよく分かる。
「そのような場合は、狼達に報酬を支払って下さい。食料や酒で構いませんし、上質な飴なども好みます。報酬を見せて交渉すると、頷いてくれますよ」
「それであれば、私が美味しい飴や、お酒を持っていますので、再交渉の際には言って下さいね」
狼選びが始まった。
やはり同じように尻尾があると見る目も違うのか、ゾーイを中心としての選別となる。
シェダーも意見を出し、毛並みが良く足の丈夫そうでこちらに好意を持ってくれている狼を何頭か選んだ。
上に乗るので、やはり最終的には相性であるらしく、この後は気に入った狼を呼び寄せて貰い、個別の面接で選ぶのだ。
そんな面接に進む狼が決まるまでは、ネアはシェダーの足に掴まってしゃがみ込みながら、大人狼達の足元にちょこちょこしている子狼達の鼻先を、柵越しに撫でてやっていたりした。
子供とは言え、立ち上がるとネアの背丈くらいになりそうな大きさではあるが、甘えん坊な声でクーンと鳴いていて愛くるしい。
ディノとカードで話してアルテアだと判明したちびふわはまだ泥酔していて、シェダーが市場で買ってくれたポシェットの紐を短く縛り、そこに入れて首から下げれるようにしてくれてある。
ポケットよりは落ちなさそうなので、これで一安心だ。
(と言うか、ゾーイさんに運ばれている時や、市場でお買い物をしている時とかに、ポケットから落ちないでいてくれて良かった………)
危うく、アルテアと二度と会えなくなるかもしれなかったので、ネアは何だか気持ち良さそうに眠っているちびふわが愛おしく感じる。
落ちないように胸元に突っ込んでおきたかったのだが、シェダーから、尻尾がはみ出るからと止められて今のポシェット運用となった。
「ネア、ちょっといいか?この狼達の中で、気の合いそうな子を選んで欲しいんだが……」
「はい。…………む?!」
「おい、…………ありゃ何だ?」
それは、ネアが、選抜された狼達の最終面接をシェダーから任されようとした時だった。
ばさりと大きな翼の音がして、突然視界が翳った。
慌てて上を見上げると、大きな影と共に飛来した青い竜がいる。
逆光になって姿はよく見えないが、鱗がぎらりと光り、尻尾が長めではあるものの、にょろにょろ系でないどっしりとした一般的な竜らしい形をしていた。
「…………くそっ、海竜だな!」
ゾーイの鋭い声と共に、ネアは再びシェダーに抱き上げられる。
その肩に、交戦するかもしれないシェダーの動きを制限しないように注意して掴まった。
(あれ、……………?)
これで支障なく動けるだろうかとシェダーの方を見たネアだったが、何やらシェダーの様子がおかしい。
灰色の瞳を眇めて空を見上げていたシェダーが、おやっと拍子抜けした様子で眉を顰めたのだ。
ゾーイの方を見ると、彼も帽子のつばの部分を摘んで空を見上げ、訝しげに飛来した竜を見ている。
「………俺達が目的じゃないな。狼達を狩りに来たのか………。ネア、まだ下ろせないがそこまで心配なさそうだよ」
「…………狼さんを狩るのですか?」
「ああ。………あれは海竜だが、人型にはならない方の種族だな。…………影の国に住む海竜の一種かもしれない」
「…………やれやれだ。驚かせやがって」
「狼さん………」
難を逃れたネア達とは対照的に、大騒ぎになっているのは牧場であった。
居住区の上を旋回する青い竜に、岩狼達は牙を剥き出してぐるると唸る。
岩狼達は岩山や大きな岩から派生する魔物の一種らしく、番いになって子供を産むことはない。
けれどもここには、同族の幼い狼達がいるので、大人の岩狼は何とか竜を追い払おうとしているのだ。
牧場には空を飛べる鷲もいるのだが、彼らは鳥舎の方に入っているので屋内にいる。
飛びかかろうにも届かず、狼達は吠えて威嚇するしかない。
「お前達、こちらの退避壕に入るんだ!」
牧場主の声に、子狼達が慌てて地面に掘られた穴の中に逃げ込んでゆく。
大人の岩狼達は、そんな子供達を守るようにして、素早くその地下壕と竜との間に立った。
しかし、その中の子狼の一匹がすてんと転んでしまったではないか。
先程までネアが鼻の頭を撫でてやっていた、ちょっとぽわんとした穏やかそうな子狼だ。
それに気付いたネアは、悲痛な声を上げた。
「お、狼さん!!」
逃げ遅れた子供を見付け、空の海竜が滑空する。
ごおっと風を切る音が耳を掠め、ネアは慌てて首飾りの金庫の中を探った。
「てりゃっ!!」
「ギャイン?!」
ちょうどネア達の目の前を飛んでくれたお陰で、紐を掴んで投げつけたものが見事命中し、低空飛行で子狼を攫おうとした海竜は、べしゃりと地面に落ちる。
岩狼達は、落下してきた竜を慌てて避け、その中の一匹が、すっかり怯えきってしまっていた転んだ子狼の首筋を咥えて避難壕に連れて行ってくれた。
「……………うむ。倒しました」
あの愛くるしい子狼が食べられてしまうかと思ってぞっとしたので、ネアは安堵の息を吐いて手の甲で額を拭う。
間一髪、間に合ったようだ。
「ネア、今投げたのは、………靴かな?」
「はい。室内履きなのですが、ウィリアムさんに貰った靴紐を飾り紐に編み込んでいます。戦闘靴よりは殺傷能力が落ちますが、竜さんを落とすくらいなら………」
「…………なぁ、こいつは本当に人間なのか?…………その、祟りものという可能性もあるだろ」
「おのれ、祟りものではありません!」
「…………軽く当たった靴で海竜を落としておいて、殺傷能力が落ちるとはどういうことだ。…………まさか、俺を踏もうとした靴は、その殺傷能力が高い方なんじゃないだろうな?」
「ええ。咎竜さんも踏み滅ぼせる方の靴ですよ」
「………………咎竜」
ゾーイがそこでまた頭を抱えてしまったので、ネアはシェダーに頼んで投げつけた靴の回収に向かいつつ、倒した竜を見に行くことにした。
牧場主は、竜を倒したネアにとても感謝してくれて、快く竜の落ちた柵の中に入れてくれる。
狼達は、何で落ちたのかが分からない竜には近付かないようにしたのか、地面にくしゃりとなった竜と、その傍に落ちた片方の靴を遠巻きにして怖々と見ていた。
「むむ。お亡くなりになってしまったのでしょうか?」
「…………いや、気を失っているだけだな。…………おっと、目を覚ましたから離れようか」
「シェダーさん、ちょっといいですか?」
「ネア…………?」
不思議そうに目を瞠ったシェダーに頷いてみせて、ネアは、シェダーが魔術で拘束してくれたという、海竜のおでこにごつんと拳を乗せてみた。
目を覚ましたばかりでおでこを攻撃され、ぎょっとしたように青い目をこちらに向けた海竜は、ネアと目が合うとふきゅんとなる。
「ギャウン……………」
「愛くるしい狼さんを襲おうとした、悪い竜さんです!」
「ギャウ……………」
「いいですか?もしまたここの狼さん達に悪さをしたら、もう一度この靴を投げつけますよ!」
「ギャイン!」
びゃっとなってしまい、羽で顔を覆ってぶるぶると震えている海竜を見下ろし、ネアはふんすと胸を張る。
今回は防げてもまた襲われたら大変なので、身の内にある竜の媚薬の効果も使って、この捕食者を調教してしまいたかったのだ。
「これからは、この牧場の外にいる獲物を捕まえるのです。私達を灯台の街にまで送ってくれる、優しい狼さん達に悪さをしたら許しません」
「……………ギャウ?」
「……………む?なぜに目をきらきらさせたのだ」
「ギャウ!」
「……………シェダーさん、竜さんから背中を向けられたのですが…………」
ネアが何となくわかる仕草に困惑してそう言うと、シェダーは困ったように優しく微笑んでくれた。
「……これは、すっかりネアに屈服してしまったみたいだ。灯台の街まで送るということなんだろう」
「ほわ…………。ゆ、夢だった、竜さんに乗れるのですか?」
「…………俺とゾーイもいるんだが、………案外、乗れなくはなさそうだな…………」
「竜さん、私を送るということは、シェダーさんとゾーイさんもいるのですが、全員を乗せて飛べるのですか?」
「ギャウ!」
大きな羽をばさりとさせて、一生懸命頷く海竜を見て、ネアはそろりとゾーイの方を振り返る。
ゾーイはなぜか、青い顔をしてよろよろと後退していた。
「ゾーイさんは、もしや高所恐怖症…………」
「そんな訳あるか。海竜を容易く調教したお前が悍ましいだけだ!」
「…………あまり淑女に向けていい言葉ではないような気がするので、爪先を………」
ネアが渋面でそう言えば、またしてもゾーイはシェダーに救いを求めるような目を向ける。
得体の知れない能力を持つ人間への恐怖から、すっかりシェダーに懐いてしまったようだ。
そんな、すっかり竜の媚薬の効果が出た海竜と、海竜の背中を憧れの眼差しで見るネアに挟まれ、シェダーは優しく微笑んだ。
ゾーイは、ゆっくりと首を横に振っている。
「…………じゃぁ、海竜で移動しようか」
そう言ってくれたシェダーの微笑みに、ゾーイががくりと肩を落とし、ネアは勝利を確信した。
竜の背中に乗って空を飛ぶという夢が、やっと叶うのだ。
「……………フキュフ?」
暫くした後、ネアが、びゅおるりと風を切る音と素晴らしく青い空を楽しんでいると、首から下げた袋の中で、ちびふわが目を覚ました。
眠たそうな目で周囲を見回し、馬に乗るようにしてネアの体を後ろからしっかりと抱き寄せてくれているシェダーを見て、みっと尻尾をけばけばにする。
「フキュフ?!」
「まぁ、やっと目を覚ましたのですね。ちびふわが眠っている間に、ここはもう影の国でして、現在は灯台の街に向けて海竜さんの背中にいるんですよ」
「フキュフ…………?………フキュフー?!」
一瞬、言われた事が理解出来なかったのか、胡乱げに周囲を見回したちびふわは、今の自分が海竜の背中に乗り、尚且つ空の上にいると知って驚愕の声を上げた。
ふるふるしながらこちらを見上げるので、ネアはこのような状態に至ったまでの経緯を丁寧に説明してやる。
あの騒ぎの後、海竜の背中に鞍を乗せてくれたのは、牧場主の主人だ。
竜退治のお礼だと、鷲に乗る時用の鞍を二つくっつけて、三人で海竜に乗れるようにしてくれた。
この鞍は飛行に耐えるための防御魔術をかけてあり、見えない結界が半円形に覆ってくれるので、風圧でぼろぼろになったり、鞍の上から落ちてしまったりはしない。
海竜は胴体部分の背中には棘があるので、ネア達が首元に鞍をつけ、ゾーイは少し離れた海竜のお尻あたりに乗っている。
振り返ってみれば、空の旅を楽しむつもりはないのか、ゾーイは目を閉じて居眠りしているようだ。
「…………という事で、シェダーさんとちびふわも私の旅の仲間となり、海竜さんは私達を灯台の街まで送ってくれることになりました」
「…………フキュフ」
「まぁ、すっかり不貞腐れた目をしていますが、脱走してお菓子を食べ、酔っ払いになったのはちびふわなのですよ?」
「フキュフ…………」
「…………俺からも提案させて貰うが、暫くはそのままの姿でいた方がいいだろう。元の姿に戻って排除魔術で弾かれる可能性がある以上、元に戻るのは、彼女に危険が迫ったりした場合などの、そうせざるを得ない時にした方がいい。そのことを彼女にも伝えて、先程、ひとまず状態保持の魔術をかけさせて貰った。君が擬態を解こうとすればいつでも解けるが、その時期を考えてみてくれ」
ネアの後ろから、シェダーがそう説明してくれる。
「フキュフ」
ちびふわはたいそうやさぐれた表情になったが、シェダーの説得はとても巧みであった。
「俺やゾーイがいても、ネアは不安だろうし寂しいだろう。その点、例えその姿でも君が一緒にいれば、彼女はほっとすると思うんだ。………勿論、このようなところにいられないと言うのであれば、俺やゾーイでも充分に彼女を守ることは出来るが……」
「フキュフ……………」
腹立たしげにつんとしてみせたが、ちびふわはもふもふちびちびと体を動かし、ネアの首から下げたポシェットにすとんと落ち着いてくれた。
なにぶん空の上にいるので、今は肩などではなくこのポシェットに入っているようにと、先程伝えておいたのだ。
「ふふ、ちびふわが一緒なら、もう寂しくはありませんね」
「………………フキュフ」
ネアは、アルテアがここに留まってくれそうなことにほっとして、そんなちびふわの首のあたりをそっと撫でてやった。
灯台の街への移動もだいぶ短縮されそうであるし、この旅は今の所とても順調に進んでいる。
ふわふわの毛皮の仲間を撫で、ネアは満足の笑みを浮かべたのだった。