288. やっと相棒と向き合えます(本編)
ずざっと、靴底が石畳を滑る音がした。
ネアは暗闇から明るい場所に出てちかちかしている目を瞬き、大きな街の裏通りに出たらしいぞと周囲を見回す。
視界が固定されているのでなぜだろうと思ったが、そう言えばゾーイの小脇に抱えられているのであった。
体が不自然な形の圧迫を受け、ネアはだらりと下がった手足が地面に擦れそうでぎりぎりと眉を寄せる。
「解放を要求します」
「後にしろ」
「さすがに水着で街中にいたら痴女なので、私はそろそろ着替えたいのです。………そのあたりにある民家を襲って、お着替え用の部屋を貸して貰いますね」
「六しかない可動域で、どうしてその発想になるんだ…………」
ゾーイはそう低く呻いたが、ネアを解放する気はないようだった。
「……………このまま水着姿の淑女を抱えていると、ゾーイさんは人攫いのように見えますよ。それと、私の大事な魔物に攫われてしまったことを連絡したいので…」
ひやりと、喉元に指先が当てられる。
そう思ったのだが、視線を下げて見ると押し当てられているのは魔術で作った水の刃のようなものだった。
これはどのような意志表示だろうかと視線を持ち上げれば、氷のような目でこちらを見下しているゾーイと目が合う。
「……………あんたはお荷物でしかない。調子に乗って手間を増やすなら、静かになるようにするまでだが?」
「私には帰らなければいけない理由があります。その為には、他の参加者の方を早々に全滅させるしかありませんので、お荷物にならないように服を着たいのです」
「あんたに何が出来る?その可動域では、こうして俺に触れられ、生きているだけでも僥倖だという強度しかなく、魔術一つ使えないくせに?」
「魔術一つ使えないくせに、水着姿でいたら防御力は惨憺たるものではありませんか。ゾーイさんは私と組むことになりたいそう苛立たれていますが、仲間内でもしゃもしゃしているのは建設的ではありません。それよりもお互いに早く帰ることを目的としませんか?」
「………………喉元に刃を突き付けられたまま、よく喋るな」
「いつだったか、私を、怪我をさせた雪喰い鳥さんの巣に放り込んだ知人もいました。人外者の皆さんは、野生の方は獰猛で当然ですので、あらためて驚く程でもないのです。………くしゅん!」
水着姿のままの時間が長かったらしく、くしゃみをしたネアがじっとりした目になると、ゾーイも諦めたようだ。
周囲を見回してこの裏通りから入れそうな家を一つ選び出し、まるで自分の家に帰ってきたかのように裏口の扉を開ける。
ずかずかと入り込み洗濯室かなという部屋を見付けると、ネアをぽいっと放り出した。
「むが!………ぽい投げは禁止です。か弱い乙女が手足を痛めたらどうしてくれるのですか!」
「小煩い人間が少しは大人しくなれば重畳だな。……………貧弱な子供の着替えを覗く趣味はないから、部屋の外に出ていてやるが、逃げ出したら足を折るぞ?適当に後ろにあるものを着ておけ。言っておくが、お前の買い物に付き合う時間はない」
「むぐる………………」
投げ出されたシーツの山の上で小さく唸ったネアを残し、部屋の扉が閉じた。
ネアは、檸檬色のタイルが若干眩しすぎる陽気な雰囲気の洗濯室を見回し、奥に汚れ物として積み上げられている洋服の山を見て溜め息を吐いた。
この家の住人のもののようだが、ゾーイはそれを着ろというつもりであるようだ。
(だがしかし、私には金庫もあれば、着替えもあるのだ!!!)
愚かな精霊めとそうほくそ笑みながら、ネアはまず近くあったシーツを広げてみる。
特に匂いなどはないことを確かめてからばさばさと振って綺麗にし、テント風になるよう片面を近くの棚に固定して、更には反対側を洗濯物籠で押さえてその中に入ってみた。
これから武装もしなければいけないので、その着替えの様子をゾーイに覗き見られたくはない。
見知らぬ家での着替えを恥じらっているように見せることで目隠しとし、このシーツが使用済みであるという不快感は我慢することにした。
(水着はそのままでいいかな。海の竜さんの戦いなのだから、水回りで動くこともありそうだし………)
プールに行ったときのまま、下着の代わりに水着を着た状態で上から服を着ると、元々戦闘用としてオーダーされたドレスのあちこちにある隠しポケットに、きりんグッズを大量に忍ばせた。
他にも、激辛香辛料油の水鉄砲を装備し、市販の転移門や、取戻しの結晶などもすぐに手に取れるような場所に移動させる。
傷薬については、小さな携帯用のパウチのようなものに小分けにしたものをブーツの足首のところに押し込み、反対側のブーツにはちびふわ符も忍ばせた。
これだけ武装しておけば、最悪、今回の参加者くらいは殲滅出来ると信じたい。
それらの準備を大急ぎでしてしまうと、ネアはすぐにディノと分け合ったカードを開いた。
“ネア、怪我をしていないかい?怖いことに巻き込まれてしまったのかな…………”
そこにはもう、ディノからのメッセージがぽわりと揺れていて、ネアの息を苦しくする。
このカードの向こうで魔物がどれだけ怯えているのかを考えると胸が潰れそうで、ネアはいつ痺れを切らすか分らないゾーイを警戒しながらも、慌ててそのカードに返事を書いた。
“ディノ、私は怪我もなく無事ですからね!とうとう海竜さんの戦に巻き込まれました。今いるのは影の国というところで、私の相棒は海嵐の精霊なゾーイさんです。こちらには五組いますが、これで全員かどうかは分りません。ウォルターさんの姿も見当たりませんでした”
ネアの書いたメッセージがぽわりと光って吸い込まれると、返事はすぐに来た。
“…………良かった。君はそこにいるんだね。やはり影の国か………”
実は事前の対策会議で、ネア達は影の国の話をしていたのだ。
アルテアが参加者で唯一の生還者を知っていたということが大きく、海竜の戦ではそんな海の底にあるあわいの国で選定が行われるのだという情報が、事前に得られていた。
ネアがすぐにディノの名前を呼ばなかったのも、入り口となる海竜の離宮、そしてこの影の国は部外者が転移で入り込むことが出来ない隔離地だと知っていたからなのだが、こうしてカードで大事な魔物の不安そうな様子が伝わってくると、声を上げてその名前を呼んでやりたくなってしまう。
“ひとまず、ゾーイさんを懐柔するまでは連絡が少な目になってしまうかもですが、私は大丈夫なので安心して下さいね。春告げの舞踏会の祝福もありますし、武器は沢山持っていますから。…………それと、ディノは暫く一人でいるのは禁止です。ノアやエーダリア様達、或いはアルテアさんやウィリアムさんの誰かと、必ず一緒にいて下さい。これは絶対にですよ!”
“君は一人でいるのに……………”
“ディノがしょんぼり一人でいると思うと、こちらでも気になって胸が苦しくなってしまいます。私が安心して戦えるように、約束を守って下さいね”
“………………うん”
「おい、まだなのか?」
そこで、扉の向こうから苛立ったようなゾーイの声がした。
ネアは慌ててカードにこう書き込む。
“私は、大好きなディノのところに、必ず帰りますからね”
そう記したカードを首飾りの金庫に隠し、テント代わりのシーツを跳ねのけた。
首飾りはプールでつけていてもおかしくないように、ディノに見えないように擬態して貰っていたので、ゾーイに警戒される恐れはない。
シーツを元通りにすると、扉を空けて壁に寄り掛かって立っていたゾーイの横に立つ。
「………………目元が赤いぞ。病気じゃないだろうな」
「むむぅ。シーツを被って覗き見防止措置を取りましたので、蒸れただけではないでしょうか?」
ディノに少し気恥ずかしいメッセージを残したので、顔に出てしまったらしい。
しれっと誤魔化しつつ、ネアはシーツを剥いだ際にぼさぼさになった前髪を片手で撫でつけた。
(でも苦しい思いをして待っていてくれるのだから、少しでも心を緩めてあげたかったんだ………)
「…………そんな服をよく見付けたな」
「私の良さはたくさんありますが、収穫の才能には期待して下さい。………それと、ゾーイさんは…」
ネアはここで、火の慰霊祭で見かけたことがあるのだという話から事情を説明し、ノアの姉であると自己紹介しようとしたのだが、ゾーイは話を聞かずに動き出してしまった。
ネアが着替えに時間がかかったことが腹立たしかったのか、この海竜の戦が、かなり時間に猶予のない戦いなのかは分らないが、またすぐに小脇に抱えられてむぐっとなっている内に、ゾーイは着替え用に借りた家から素早く抜け出した。
外に出ると、表通りの喧騒が聞こえるような気がする。
まだこの影の国の住人とは遭遇していないのだが、地上の街と変わらないような人々が暮らしているらしい。
ゾーイが移動している石造りの家々と石畳の道には、ネアが気になる程の異国風なところもなく、ヴェルクレアの国内の街並みに近い。
ウィームよりは少し重厚な雰囲気なので、ガーウィンあたりの街並みに似ていると言えばいいだろうか。
十字路のところでは、表通りの街路樹の影がちらりと見えたが、どのような木が生えているのかまではこちらからは見通せない。
石畳は不透明な結晶石のようなこげ茶色で、内包物が砂金のようにきらりと光る。
何だか美味しそうな色だなと思ってしまい、ネアは自分の思考回路を叱咤した。
軽い靴音だけがどこまでも響く。
あまりにも住民と擦れ違わないので、もしかしたらゾーイは魔術の道のようなところを移動しているのかもしれない。
(それであれば、私も自分で走っても安全そうなものだけれど………)
「小脇に抱えずとも、私には立派な足があるのですが…………」
「人間の無能な女子供は、すぐに転んで悲鳴を上げるだろ」
「狩りの女王に対してなんという失礼な評価でしょう」
「何を狩るんだ?あんたの可動域じゃ、野兎にも逃げられそうだな」
「リズモが一番好きですが、その次によく狩るのが竜さんです」
「………………竜?」
ネアを抱えたまま裏通りを抜け、どこかに目的地があるような走り方をしていたゾーイが、その言葉にぴたりと立ち止まる。
まじまじとネアの方を見てから、無言で首を横に振り、唇の端を歪めて嘲るような微笑みを浮かべれば、美しい紫紺色の巻髪がふわりと揺れた。
「冗談も大概にしろ。……………よりにもよって、妄想癖のある子供なのか…………」
小さく呻いてそんなことを言うので、ネアは渋面になる。
そう言えば、精霊は種族的な気質で思い込みやすく暴走しやすいのだと思い出し、そろそろ若干強引にでも話し合わなければいけないのだと痛感した。
「私は、思い込みの激しい精霊さんと組まされています。名前を存じ上げている方で良かったと思っていましたが、そんな事情もまだお話し出来ないのでしょうか?」
その直後、ネアは一度地面に下された。
両腕を掴まれているので自由とは言い難かったが、ひとまず自分の足で立てることを感謝しよう。
正面から向い合い、大きな帽子で影になったその表情を窺った。
ここは不思議な場所だ。
大通りの方からは生活音が聞こえてくるのに、裏通りには誰もいない。
裏通りに伸びた街路樹の影は揺れているのに、木々を揺らす程の風もここでは感じなかった。
影の国というのは、海底にあるあわいの国であるらしい。
それ以上のことはあまりよく分っておらず、影の国の住人達もあまり地上のことは知らないそうだ。
あわいということもあり、行き来にも制限があるので、地上ではもう失われてしまったものが残っていたり、地上では当たり前のものがここにはなかったりもするのだとか。
「……………俺の名前を知っているのか。まさか、アクスの関係者か?」
「アクス商会でお買い物をしたことはありますが、あちらの関係者ではありませんし、ゾーイさんのお名前を耳にしたのは、あなたが火の慰霊祭の日にリーエンベルクに観光に来て、一緒にいたノアに叱られていたからです」
いい加減にその話をしないと、お互いの戦力確認すら出来ないと痺れを切らし、ネアは息を継がずに一気に話してしまった。
言い切ってからむふぅと息を吐き、呆然とこちらを見ている精霊の前でふんすと胸を張る。
「………………リーエンベルクの…………」
「はい。あの日、私の大事な魔物達は、あなたを私の武器の被験者にはしてくれませんでした」
「………………万象の魔物と一緒にいた」
「ええ。それが私です。このような形でお会いするとは思っていませんでしたが、初めましてと言うべきなのでしょうか?」
こちらをじっと見ているのは、琥珀色がかった水色の瞳だ。
逆光になっていると雷光を映した海のような不思議な色で、純粋に美しい瞳だと思う。
装いで海賊めいた雰囲気があまりにも強調されてしまうので容姿の系統を分類するのは難しいが、獰猛な獣のような美貌であるのは確かだった。
「………………可動域は、六なのか?」
「本当に六ですが、抵抗値はかなりあります。あなたが万象の魔物と呼ぶ魔物と契約をしている歌乞いで、私はそんなディノの指輪を貰っています。趣味は狩りで、竜の王様を狩るのも吝かではありませんし、実際に何人かは倒しました!なお、ノアは今年の年末には私の弟になる予定です!」
そう自己紹介を済ませ、この精霊には、場違いな水着姿に小脇に抱える麦袋的な姿しか見せていないことを思い出した。
どうせなら、ここで淑女的な一面も見せつけておこうと、貴族的で優雅なお辞儀の真似事をしてみる。
しかし、そんな可憐な姿を見ても尚、ゾーイがこちらを凝視したまま固まっているので、まだ情報が足りないのかなと首を傾げた。
「………………対精霊さんということであれば、因果の成就の精霊王さんにも勝負で勝っていますよ?」
「………………もういい。情報過多だ……………」
「高位の魔物さん達でも検証済の凶悪な武器を持っているので、その武器を見せれば大抵の方は滅ぼせる自信があります。ただし、悪食の方には効果が薄いような気もするので、その場合にはまた作戦を練り直さなければいけないかと…………」
ネアは、片手で目元を覆ってしまったゾーイを見上げ、また反対側に首を傾げ直す。
なにやら真っ青だが、高貴なる狩りの女王に対し、己の至らぬ過去を振り返り悲しくなってしまったのだろうか。
「ゾーイさん?」
「………………つまり、お前に何かがあれば、俺は万象の魔物に追われるのか」
(ああ、それで弱ってしまったのか…………)
どうしてゾーイの顔色が悪くなってしまったのか不思議だったのだが、彼の具合を急速に悪くしているのは、万象の魔物というものへの畏怖であったようだ。
確かに、一般的な魔物は、自分の指輪を持つ相手を損なったものを問答無用でくしゃりとやってしまうので、水着姿のネアを麦袋のように乱暴に抱えただけでも有罪にされてしまう可能性はある。
「何かがあっては困るのです。私は何としても無事にディノの下に帰らなければなりません」
「念の為に聞くが、万象の魔物は、あんたが海竜の戦に巻き込まれたことは知っているのか?無事にこの戦を切り抜けて地上に戻ろうとしたら、戻るべき地上が残っていなかったという可能性もあるだろ…………」
「それであれば、何だか巻き込まれそうな予兆があちこちに散りばめられていたので、元より一緒に警戒していました。……………とは言えまさかの水着の時に誘拐されたので、あの瞬間を指定した方は許しません…………」
暗い目でぼそりと呟いた人間が恐ろしかったのか、ゾーイはその時間指定について事情を教えてくれた。
「他の者達には、開戦の時間の指定が今朝にはあった筈だ。ヴェルクレアの参加者だけ、海竜達の思惑で急遽交代になっている。お前の国の候補者は、今頃慌てているだろうな」
(初めて、この人が対等に話をしてくれたような気がする………)
それは、視界を遮っていた霧がすっと晴れるような感覚で、ネアは、あらためて高位の人外者と対等に言葉を交わすことの難しさを思い知らされた。
ネア自身も一刻も早く着替えたくて気にしていなかったが、ある程度は普通に会話をしているようでも、これまでのゾーイにはネアの言葉を聞き入れるという姿勢はまるでなかったのだ。
改善されてみればその違いは一目瞭然なほど、ゾーイの話し方はがらりと変わる。
それは、高位の者の庇護下にあるネアに対して媚び諂うというようなものではなく、犬猫と話していたものが、人間と話しているように変化したと言ってもいいくらいの変化だった。
「……………それは、あの海竜の女王さんが話していた、予言のせいでしょうか?」
「どうも、夏至祭の夜に予言が書き換わったらしいな。あわいの波で正しい予言が正しい者に届かないという事件があって、その結果ヴェルクレアの候補者が予言の道から外れたそうだ」
「………………その夏至祭の夜に、私は、どうも他の方宛の予言を聞いてしまったようなのですが…………」
「そうか、俺が巻き込まれたのはあんたの所為か……………」
低い声で呟き、がくりと項垂れたゾーイを見ながら、ネアはぎりぎりと眉を寄せた。
「……………お届け先を間違った予言者さんの所為ではありませんか。私だって、巻き込まれたくはなかったのです…………」
「急に立会いが必要だと言われて呼び出され、妙だなと思ったら、こちらの方が高位にも関わらず、お前が予言に選ばれたと言いやがる。あの竜どもは、海の管理者にでもなったつもりか…………。あまつさえ、万象の魔物の指輪持ちを巻き込みやがって、世界を終わらせるつもりか…………」
「困った竜さんですね。私は知り合いの方から、最低でも百匹残ればいいと言われているので、場合によっては懲らしめてしまいます?」
「………………ひゃっぴき」
「海竜さんは、…………何と言うか、お庭で飼いたいような雰囲気ではありませんでしたし、万が一お庭が磯臭くなると困るのでちょっと………………」
「………………そうか、万象の魔物の庇護下にあるということは、そういうことなのか…………竜は家畜の範疇なんだな…………」
片手を目元にあてて、ゾーイはやけに深い溜息を吐いた。
幸いにもすぐに立ち直ってくれたのか、真っ直ぐにネアを見据え、目を細める。
「…………自分で走れるのか?」
「はい。立派な足がありますし、私はこう見えても足は速い方です。ただし、やはり精霊さんとは違いますのでそれではまずいと思ったら抱えて下さっても結構です」
「………………仕方がないな。ある程度はあんたの意志を尊重してやる。だが、他の参加者が見えたら、あんたはすぐに身を隠せよ。さっきみたいに不用意に近付くな。くれぐれも世界を終わらせるような軽率な行動は慎んでくれ」
ネアは、世界が終わるという言い方は何だか大げさなような気がしたが、そのくらいに狩りの女王を恐れてくれるのであれば結構なことだと頷いた。
「はい。今後はそうしますね。先程は、死の森に挑むあの方が心許ないサンダルでしたので、コートを差し出して下さったことを踏まえ、善良な人間らしく一声かけてみたのです」
「…………死の森だと?…………そうか。妙に落ち着いていると思ったが、あの扉がどこに繋がっているのか、あいつ等はある程度の予測を立てていたのか…………」
ここでネアはおやっと目を瞠った。
「というか、全ての扉には行き先が書かれていましたよね?」
「………………何の話だ?」
「扉には、子供のような文字でしたが、行き先が書かれていました。あのご老人は、火の海に向かうようで胸がすっとしました!きりん箱に入れられないのは残念ですが、ぼっと燃えてしまえばいいのです!」
ネアは己の残酷さを正直にそう告白したのだが、なぜかゾーイは訝しげに眉を顰める。
華やかな色彩を持ってはいるが、その容貌から受ける印象は相変わらず鋭い。
少しでもどこかの造作が変われば、耽美な感じや女々しい感じにもなりかねない色合わせなので、ネアは何がそうさせるのだろうと思って見てみたが、気配が鋭いとしか言いようがなかった。
そして今回も、残念ながら耳や尻尾があるようには見えない。
「…………俺はそんなものは見ていない」
「まぁ。では見過ごしてしまわれたのでしょうか?」
「…………いや、あの扉に仕掛けや贔屓があっても癪だからな。全ての扉を最初から観察していた。その上で、開くまでは行き先が分らないものだと判断したからこそ、他の奴らに好きに選ばせたんだ」
「………………と言うことは、他の方にも行き先は見えていないのでしょうか?或いは、人間にだけ見えているとか、そのようなことは…………」
「ないだろうな。お前が呼び落とされるまでに、他の参加者達も扉を調べていた。誰もそんなことは話していないし、様子がおかしい者もいなかったぞ。……………まさか、あんたは水の瞳か?」
「…………む?水の、瞳でしょうか?」
また知らない言葉が出てきたぞと首を傾げたネアに、ゾーイが水の瞳というものについて教えてくれた。
ごく稀に、知らない言語でもすらすらと読んでしまう、言語読解の祝福を瞳に宿した者が現れるそうで、かつてウィームにもそのような魔術師がいたのだそうだ。
(砂の耳のようなものなのだろうか…………)
ネアの生まれた世界にも、そのような能力があるとされていた。
ただし、砂の耳は聞く能力に長けており、知らない筈の言語でもなぜか内容がわかるというような意味合いだった筈だ。
「あの離宮を作ったのは海竜の王だ。あいつは水の瞳を持っているからな。あいつにしか分らないような文字で行き先が記されていた可能性はある」
そう言われて考えてみれば、ネアは確かに文字や言語で苦労したことはないのだった。
「……………水の瞳というものとは違うかもしれませんが、私は、私の魔物が知っている言語の殆どは読んだり話したり出来るようです。ただし、ワンワンミュウミュウ鳴いているような言語は聞き取れませんので、そのような種族の方とのお喋りはあまり芳しくありません…………」
「万象の守護か…………。そりゃ、殆ど水の瞳と変わらないだろ……………」
「うむ。であれば、あの扉の文字は、私にしか読めなかったという可能性があるのですね。なお、お隣の二人は死の森でしたが、ご老人のところが火の海、そのお隣の青い髪の女性のところが岩山、短い髪の毛の女性のところが海と書かれていました」
「……………海か。あの二人は、波竜と海竜の血を引く人間の王女だからな、一番有利な引きかもしれない」
「……………波竜さんというと、あの波打ち際に遊びにくる、ぺらぺらの…………」
「その薄っぺらいのは生まれてから三百年くらいまでだ。成体になると、ああなる」
「………………もう、波打ち際にいたぺらぺらの竜さんしか思い浮かびません。再会した時に、撫でてあげたくなったり、餌をあげてしまわないように気を引き締めますね!」
「……………………餌」
「あのぺらぺらな時には、穏やかでキュンと鳴く愛くるしいやつだったのですよね?」
「…………あ、ああ」
「……………………あの姿でなくて良かったです。愛くるしい生き物を滅ぼすのは、さすがに罪悪感が………」
そう呟いたネアに、ゾーイは奇妙な程に静かな目を向けた。
何かを測られているような気がしたのでそちらを見返すと、人ならざる者らしい静謐な瞳は、やはり不思議な色合いだった。
ゾーイだけでなく、人外者達の瞳は、どれも表情豊かだ。
潤沢な魔術を持つ高位の人ならざる者達の眼差しには、単一の色では表しきれないような、不思議で美しい彩りと物語がある。
ネアはそれが大好きで、魔物達の瞳を見るのがお気に入りだったが、このゾーイの瞳の不思議な色合わせはついつい目を奪われてしまう。
(人型になる時の、ほこりの瞳に似ているかもしれない。ほこりも同じような色味だけれど、ゾーイさんの色合いの方がくすんでいるけど奥行きがあるという感じかしら………)
「あんたは簡単にそう言うが、自分に上着を差し出した他人の足元を案じるような人間だ。実際にそうするしかなくなった時に、本当に相手を殺せるのか?」
柔らかな海と雷光の色の瞳を眇めて、ゾーイはそう尋ねる。
ネアは穏やかな微笑みを崩さないようにつとめて、きっぱりと頷いた。
ずっと昔、その覚悟を鏡の中の自分に問いかけたことがある。
そしてネアは、それをやってのけられるくらいには身勝手な人間であったと自分で証明した。
「そうすることはとても不愉快でしょうが、あの方達は、所詮見知らぬ他人なのです。見知らぬ人達のことを思って躊躇うよりも、私は私を大事に思ってくれる人達を悲しませないことの方を優先します。どうせなら、自分と、自分の大切な方達の為に振るう残酷さの方が分りやすいですからね」
「口先ではそう言っていても、いざという時に躊躇うようでは始末が悪い。そこは預けておいて大丈夫なんだな?」
「……………では、これは狩りだと思うようにしますね。狩りはとても残酷なものですし、私はよく大きな生き物も滅ぼします。高位の竜さん達は狩った後に持ち帰れば、高く売れるのは間違いありませんから、その後の儲けを思えば罪の意識など消えてしまうことでしょう。…………ただ、やはり私も所詮は善良でか弱い乙女に過ぎません。経験がないとは言いませんが、同族の人間の方を手にかけることには躊躇いがありますので、棄権していただくか、ゾーイさんにお任せするかのどちらかになりそうですね…………」
「善良な乙女の台詞としては、だいぶ添削されそうな様子だがな…………」
そうだろうかと首を傾げ、ネアは、とは言え人間にだってやられてしまったりはしないのだと、ゾーイを安心させる。
「なお、襲い掛かってきたものを滅ぼすのには、一寸の迷いもありません。先制攻撃をされたら、何の躊躇いもなく滅ぼせます!」
「…………………そうか。良く分らんが、あんたがどういう気質の人間なのかは、充分に理解出来た気がする。俺が知っていた人間の魔術師にもあんたみたいな奴がいた。ただし、可動域は千近くあったけどな」
「………………せんのかどういき…………………」
「……………おい、息をしてるか?」
「せん、……………せんのかどういき……………」
そこでうっかりネアの心が少しだけ死んでしまったので、ゾーイはまた暫くこの人間を抱えて移動することになったようだ。
若干心の闇に囚われてしまった人間は、友達ではない可動域の高い人間など世界から死に絶えるべしと呟き続けているので、とても怖かったそうだ。
「……………まぁ!」
ゾーイがネアを連れて来てくれたのは、大きな市場だった。
まずはここで旅支度を整えつつ、情報を集めるそうだ。
前の海竜の王に纏わる品物であれば、あちこちで噂になっているような宝である可能性が高い。
竜に纏わる宝物の情報を、収集家のふりをして集めるということのようだ。
ちゃぷちゃぷと船着き場に揺れる波音が聞こえる。
ここは大きな港町のようだと思って遠くを眺めたら、どうやら大河に面している土地のようだ。
海からの船を受け入れ、交易が盛んな都市であるらしい。
(もう少しだけ、様子を見てみよう)
ネアはそう思い、ゾーイの前で首飾りの金庫からカードを取り出すのは暫く我慢することにした。
このような心構えはアルテアから伝授されたもので、秘密の共有などの仲間になるようなイベントが終わった後に、かえって裏切りなどが誘発される可能性が高まることがあるという。
ネアがすっかり油断したと思った頃に本性を現すかもしれないので、しばし様子見だ。
あわいの海辺でイブに明かされた海竜の危機を共有するかどうかは、その後で考えよう。
『影の国はね、前の世界の大きな大陸や都があった場所に派生する、魔術的な隔離空間なんだ。かつて栄えた土地の殆どは海に沈むか砂漠になってしまっているけれど、その上で、そんな海の底に再び栄えて残った場所も少しはあるようだね』
そう教えてくれたディノの言葉を思い出す。
と言うことは、ここには既に滅びた前の世界の遺産が、眠っていたりもするのだろうか。