茶葉の部屋と香水
青みがかった艶やかな灰色の長い髪が揺れている。
談話室の隣にある、来客用の茶葉の保管庫で、ネアが居眠りしていた。
魔術で管理されていて冷たくはないので、雪に半ば埋もれた窓に寄り掛かって、気持ちよさそうに寝息を立てている。
こんなところで一人で寝ていると体を壊しそうなので、部屋に持って帰ってあげるべきだろうか。
(でも、変に嫉妬されても嫌だしなぁ)
ディノは時々狭量になってしまうので、あまりあの方の心を騒がせるようなことはしたくない。
呼んで来てあげようと思って離宮の方まで行ったけれど、王はまさかの入浴中だった。
僕たち魔物は入浴なんてしなくても、ある程度の清潔を保つことは可能だ。
それなのに、ディノはネアに髪を洗って貰って以降、すっかりお風呂好きになってしまっている。
いささか長風呂の傾向があるので、あまりふやかさないようにと今度ネアに言って貰おう。
やはり自分で運ぶしかないかなと、茶葉保管庫に戻ると人影があった。
「………ヒルド?」
「ああ、ゼノーシュ様。ここに守護の檻を張ったのはあなたですか?」
「うん。ネアが寝てて、不用心だから」
「少し見慣れない魔術の痕跡があったもので、気になって来てみたんです」
僕は少しだけ困っているのを隠して、
ネアの髪の毛を丁寧に巻き取ってから、肩の上に戻してあげているヒルドを見た。
居眠りで頭が揺れたせいか、髪の毛が顔の前に落ちてしまったのだろうけど、その親密さに少しだけの独占欲が見えたから、困ったなぁと思って思案する。
ヒルドはシーだ。
シーだからこそ、彼が与える守護には、僕たち魔物にはない要素が幾つもある。
だからディノは放置しているような気もするけれど、妖精はとても狡猾なものだ。
ヒルドにはそんな印象はないけれど、妖精としての本能にぐらりとくることもあるかも知れない。
そうなってからではヒルドも可哀想なので、早めに駄目だと言ってあげればいいのに。
「ヒルド、ネアはディノのものだよ」
僕がそう言ってしまったのは、ヒルドがネアに向ける眼差しが優しかったからだろう。
少しだけグラストのことを思い出して、そんなヒルドにあまり酷い目に遭って欲しくなかった。
それに、グラストは、ヒルドのことを友達だと話していたのだ。
「存じておりますよ。心配して下さったのですか?」
ほら。ここで、邪魔をしようとしたのかではなく、心配したのかと僕の言葉を理解してくれるヒルドは鋭い。
言いながら、指の背でネアの頬を撫でたのは感心しないけど。
「だってヒルド、ネアと誓約したでしょう」
「ええ。あえて公の場で誓約を交わしたくらいですから、止めようとされれば、止める心積もりでした。でもあの方は、きっと構わないだろうと思いましたので」
「ディノが止めないと思ったの?」
「私とネア様の関係は、ネア様とディノ様の関係とは明らかに違うものです。だから、………そうですね、ディノ様にとっての私は、畑を荒らす虫を駆除する鳥のようなもの。ある程度の報酬を与えることを良しとし、決して同等ではないからこそ許す。そんな存在だと思いますよ」
「ふうん。ディノは結構ずれてるから、そんな風に考えるのかなぁ」
僕はとても我儘なので、ヒルドのような立場で満足出来るとは思わなかった。
一枚だけと食べ始めた缶のクッキーみたいに、最後まで食べたくなってしまったらどうするのだろう。
もしかしたら、それで充分だと思えてしまうくらいに、ヒルドの世界は暗かったのだろうか。
「誓約は私だけのもの。それを彼女に告げることはありませんし、私はこの誓約の事実だけで満足です。だから、あなたの大事なご友人を傷付けることはないので、安心して下さい」
「ディノは友人じゃないよ?」
「ネア様のことを指したつもりでしたが」
僕はここで少し考える。
ネアは僕にとっての何だろう。
クッキーをくれて、頭を撫でてくれて、いつもふんわりと優しい。
僕たちの王のとても大切な人。
そして、同じ屋根の下に住んでいる仕事の仲間。
「うん。多分友達。背中は触らせてくれなかったけれど」
あの日怒られたのが結構悲しかったので、しょんぼりとそう言うと、ヒルドは優しく微笑んでくれた。
「今度は手が綺麗な時に頼めば、普通に触らせてくれると思いますよ」
「そうかな?ちょっと嫌がってたよね」
「ある程度は、個人的な領域ですからね」
「ヒルドもまた触りたい?」
そう聞くと、羽が揺れた。
微笑みに苦さが少しだけ混じり、ヒルドはまたネアの頬に触れる。
「私では、頼んでも断られてしまうでしょうね」
「………うん、確かにそんな気がするね」
「だから、私は少しだけ、あなたが羨ましいのかもしれません」
「僕が?」
それは意外な言葉だった。
僕とネアの関係は、ヒルドが手を伸ばそうとしているものとは随分違う。
「ゼノーシュ様のように関われる立場であれば、私はそれで満足だったような気がします。でも、そもそも人格も履歴も違うのですから、同じものにはなれないのですが」
(そっか………)
僕は薄らと理解したような気がする。
多分、ヒルドが少しズルをしてでも手に入れようとしたのは、
“関わりのある存在”という、ネアと同じ箱に入れる資格だったのだろう。
何かあったとき、一番ではなくても必ず案じるもの。必ず振り返るもの。
「僕にとってのネアみたいに?」
「ええ。あなたにとってのグラストが、ネア様にとってはディノ様であるように。それでもあなたは、ネア様を思い気に掛けるでしょう?そのようなものですよ」
そこまで考えて、僕はふと、ヒルドが敵かもしれないのだと思い至った。
「クッキーはあげないよ?」
ヒルドは一瞬呆気に取られてから、小さく笑って頷いてくれた。
「ええ。ゼノーシュ様のお菓子は奪いませんので、どうぞ安心して下さい」
「頭を撫でて貰うのも」
「…………頭を撫でる、ですか」
最後の返答には迷いがあったので、鋭い眼差しでじっと観察していると困った顔になった。
ここは譲るわけにはいかないので、ちゃんとした返事を貰おうと思って待っていたら、
くしゅんと小さなくしゃみが聞こえた。
「…………おや、囲まれている」
寝起きで魔物と妖精に囲まれたせいか、ネアは起きるなり眉を顰めた。
「ネア、こんな場所で居眠りしちゃダメだよ」
「ゼノ、おはようございます。これでも一応施錠したのですが」
「ゼノーシュ様、鍵はかかっていましたか?」
「うん。閉まってたから、開けた」
「………ネア様、不特定多数の目がある場所で、眠るのはやめて下さい」
「施錠の意味とは……」
ネアはなぜだろうという顔をしていたが、少し考えてから渋々と頷いた。
反論が面倒臭くなったらしい。
「そもそも、どうしてここで寝ようなどと思ったのですか?」
「果実と葡萄酒の茶葉が入荷したからです。あまりにもいい匂いで、この部屋は、一躍癒しの場所になった次第です。屋敷妖精さんにも、一時間程お部屋を借りるとお伝えしました」
「ネア、手回ししたんだ……」
「ディノ様には?」
「書置きを残してきました。そもそも、ディノのお風呂が長いので暇になってしまったんです。なので、責任を取って置き去りにされるべきでしょう」
「書置きの内容が気になりますね……」
「ネア、早く部屋に帰った方がいいよ」
「大丈夫ですよ。私の魔物には、こんな仕打ちもご褒美です」
あまりにも自信満々に言うので、ディノは一体何をしたのだろうと考える。
きっと、置いて行かれるのは普通に好きじゃないと思う。
「…………おいたわしい」
その後、ネアは少し寝起きでぼんやりしたまま、自分の部屋に帰っていった。
ヒルドが何かを考え込む様子があったので、ネアのことかなと見ていたら、
「同じ公爵位でも、やはり、ディノ様の方が階位が上なのですね」
「ヒルド?」
「あなた方は、持つ白の範囲で階位を上げるのでしょう?」
「ディノは王だよ。…………ちょっと変わってるけど」
「…………王?」
僕がそう答えると、ヒルドは暫く動かなくなった。
魔物は階位が同じであれば、力の差が歴然としていても相手に膝は折らない。
それは、国同士の付き合い方ととても良く似ている。
「ネア様はそのことを?」
「知らないんじゃないかなぁ……」
「そうですよね………」
その日の午後、ヒルドがさり気なくネアにディノの階位を聞いていた。
流れるような自然な動作で薬瓶を箱に戻しながら、ネアはにっこり微笑む。
「さあ、わたしはぞんじておりません」
声があまりにも平淡なので、僕とヒルドは顔を見合わせた。
これは確実に知っている。
その数日後、ネアはヒルドから茶葉の香りの香水を貰っていた。
これで茶葉の保管庫で匂いを堪能する必要はなくなったと、とても喜んでいた。
ネアの好きな、甘い葡萄酒の香りの茶葉の香水は、とてもよく出来ている。
クッキーの香りはないのかと聞いたら、ヒルドはなんだか困った顔をした。