夏野菜と花輪の歌
ランシーンでは、夏至の二日後には夏至祭で乙女達を守った花輪の塔に鎮魂歌を歌う。
ルドヴィークは、草原を渡る風に祝祭用の長衣を揺らして、風に沿わせた歌声の余韻に、その鎮魂歌の魔術が煌めくのを見送った。
これは感謝の歌なのだから、心を込めて丁寧に。
そう思い捧げた歌だからこそ、上手く歌えて良かったなと、この身を育んでくれた土地の恩恵に感謝する。
「いい歌だったなぁ」
そう言ってくれたのは叔父のアフタンで、この儀式には危険も伴う為に母や兄は来ていない。
広場に集まったのは、魔術を扱う他の羊飼いや、いざとなれば戦える若者、そして花輪の葬送を行う乙女達くらいだ。
「花輪の鎮魂歌を歌ったのは初めてだったけれど、変じゃなかったかな」
「ああ。素晴らしかったぞ。お前の歌に送られるなんて、あの花輪も大満足だろうよ」
「あまり練習する時間がなかったけど、叔父さんがそう言ってくれるなら一安心かな」
今迄その役目を担ってきた羊飼い仲間が、雪喰い鳥の襲撃で命を落としてしまったので、今年からはルドヴィークがその鎮魂歌を歌うことになった。
羊飼いはよく獣除けの魔術を編む為に歌うが、こんな風に人前で歌うことはあまりない。
歌うのは好きだけどと少し緊張したが、上手くいったようでほっとしていた。
やっと肩の力を抜いて、夏至を過ぎて緑の色が濃くなった草原を見渡すことが出来る。
(ああ、綺麗だな……………)
カフタルの、岩肌が多く目につく草原は決して豊かなところではなかった。
まだ山の上の方には雪が残り、育てている作物も育てただけの収穫がある訳ではない。
足を滑らせて斜面から落ちた子羊が命を落とすこともあるし、山に現れた精霊や妖精が人間の子供を攫ったりもする。
だがやはりこの土地は強く美しく、ルドヴィークは自分の国を愛していた。
夏になっても朝は涼しく霧が立ち籠める草原の色が、ルドヴィークは大好きだった。
雪が降り始めたばかりの岩山や、真夜中に人ならざる者達が集まっているものか、誰もいない筈の山の尾根伝いに揺れる篝火を見ることも。
その翌日に火が見えたところを歩けば、見事な結晶石が拾えたり、見たこともない花が咲いていたりするのだ。
だからルドヴィークは、そんな愛するカフタルの為に心を込めて歌った。
歌に惹かれて良からぬものが集まることもあるので、叔父や他の羊飼い達に護衛されながら、精一杯の感謝と祈りを込めて。
(………こうして見ていると、少し前に僕が死にかけて、叔父さんが片手をなくしたのが嘘みたいだ。あの義手も、アイザックの見立てもあってぴったり合っているみたいで良かった………)
あの日、アフタンやルドヴィークが襲われたのはこの草原であった。
多くの命が失われ、ルドヴィーク達の家族もなくしたものがあった筈だったのだが、アイザックの助けで義手を得た叔父のアフタンは、自前の手があった時よりも魔術が編めると驚いている。
だが、勿論そんな事実は国には秘密なので、こっそり夜に家の裏にある窪地で魔術の新しい術式を増やしているようだ。
この前、大事な友人達と再会を果たしたことも、将軍として働いていた時に磨耗した部分の心の曇りを晴らしたようで、最近は驚いてしまうくらいに楽しそうにしている。
アフタンが二度と会えない友人達をどれだけ大切に思っていたのかを知っていたルドヴィークは、その変化を母親や兄と一緒に喜んでいた。
(国に仕えて力を振るうのだから、やりたくないこともあっただろう…………)
そう考えればいっそうに、あの稀人であったネアとの縁を有り難く思った。
彼女は、あんなにお世話になったのにその縁は自分が齎したものではないのだと、なぜか悔しそうに眉を寄せていたのだが、それでも全てが彼女から繋がった縁には違いない。
だがネアは、例えばルドヴィークの一家を襲っている怪物を自分の手で倒しただとか、そのような類の成果を上げたかったようなのだ。
「ルドヴィーク?」
「…………この土地は綺麗だなと思って。僕はここで生まれて良かった」
「それを聞いたらレンリが喜ぶぞ。お前がこのくらいのちびの頃、もっと大きな国で生まれたら、さぞかし名の通る魔術師になっただろうにって行商人に言われたらしくて、気にしてたからな」
そう言って笑いかけた叔父に、うんと頷く。
草原を渡る風に、鎮魂歌で浄化された花輪の塔を崩してゆく乙女達。
青い花びらが草原を渡る風に舞い、どこまでもどこまでも飛んでゆく。
「一度、王都や他の国に勉強に行きたいかって聞かれたよ。でも僕は今の生活が幸せだから、それは嫌だなって答えて、母さんは少しほっとしていたようだった。………旅行に行くのは好きだし、色々なものが見てみたいとは凄く思うんだ。………でも僕は、この土地からは離れられないんだろうね」
色々なものが見たかった。
ここにはないものに憧れ、色々と想像してみたこともある。
山に来た行商人や流しの魔術師達に、一緒に旅をしないかと誘われたことも。
けれど、広い世界を見てみたいという憧れよりも、生まれ育ったこの土地を愛おしく思う気持ちの方がやはり強かった。
ここで、季節の色に染まる景色を見ていたいし、毎朝この山の霧の中を歩いて羊達の世話をしていたい。
あの川の水に指先を浸し、山頂の雪の白さに目を細めていたい。
だからルドヴィークは、やはりどこにも行けなかった。
でも、それがルドヴィークにとっての幸福な人生なのだから仕方ない。
「それなら、ここに住みながら、時々どこかへ行けばいいさ。お前の友人は、お前をあちこちに連れて行きたいみたいだからな」
その言葉にルドヴィークは深く息を吐いた。
おやっと目を瞠ったアフタンに、そう簡単なことでもないのだと告白する。
「…………この前、アイザックと話をしたんだ。この時期は大切な夏の野菜の面倒を見る必要があるから、遊びに行ったりは出来ないよって」
「……………おお、言っちまったか。落ち込んでなかったか?」
「少ししょんぼりしてたかな。でも、アイザックは分かってくれたよ。それに、彼も忙しいからね。忙しいということに対する理解はあると思う」
「…………俺達にしようとしていたことをどこかでしているなら、どうぞお手柔らかにと願うばかりだな」
「叔父さん、彼は魔物だよ。僕達が想像もつかないような色々なことをするんじゃないかな」
淡く苦笑してそう指摘する。
彼は良き友人だが、やはり魔物という生き物でもある。
その資質は変え難く、ちょっとしたことでもお互いの意識や常識の差が浮き彫りになることもある。
「…………ヴェンツェルが引いてたぞ。お前の甥は大した傑物だと言われた。それ程にあの魔物は扱いが難しい魔物なんだそうだ。………だからな、お前のそういう考え方が、彼は気に入ったのかもしれない。自分を慕う者を悲しませてやるな。あの魔物はあんまり友達がいなさそうだから、冷たく当たらないようにしてやれよ?」
「うん。アイザックのことは大事にするよ。ただ、いきなり遊びに来ないで、事前に手紙をくれるといいのにね」
ルドヴィークは、アイザックとの友情をとても大切にしている。
だから、事前に連絡さえくれていれば、例えばその日は兄や叔父に仕事を頼んだりだとか、時間を空けるように調整することも出来るのだ。
それなのにアイザックは、いつもふらりと現れては、どこぞの国で特別な博覧会があるだとか、不思議な花が咲いているから見に行かないかと誘うのだ。
翌日の仕事に響かない程度であれば、ルドヴィークだって見てみたいものもあるのだが、いきなりの誘いでは応じるのも難しい。
その日に損なわれた労働に対する対価を支払うと彼は言うけれど、友人なのだからそれは違うとルドヴィークは思う。
それに、畑仕事に対しては魔術を使わない昔ながらの農法で育てるという拘りがあるので、出来ればアイザックには手を出して欲しくない。
そんなことを考えていたら、足元でブブさんが跳ね回っていることに気付いた。
先程まで母と兄の側にいた筈なのだが、一体どうしたのだろう。
妙だなと、首を傾げたその時のことだった。
「ルドヴィーク!!」
叔父の声に咄嗟に足元の結界を強化したが、伸ばされた手は横からだったようだ。
慌てて魔術の術式を書き換え、そちらからの侵食を排除し毒などの効果を無効化する術式を追加する。
「………おっと、素晴らしい歌声に獰猛な魔術、やはり愉快な人間の子よ」
あわいから姿を現して、そう嗤ったのは美しい青い瞳の女性だ。
長い黒髪がちりりと、熾火のように風に揺れる。
目元に鱗があったが、ウィームに叔父を送ってきてくれたあの火竜とは鱗の形が違う。
竜ではなく蛇のようだと思ったその時、足元で威嚇立ちしていたブブさんが、その女性に蹴り飛ばされた。
「ブブさん!!」
草原を転がってゆくブブさんに投擲されたのは、沢山の槍のようなものだろう。
自分の手元の魔術を削ってその第一波を防ぎ、その後の追撃は割り込んで槍を剣で切り捨ててくれた叔父が防いでくれた。
(良かった。一本も刺さっていない………)
大事な家族の砂小麦の体は、欠けてしまったりもしていないようだ。
少し凹んでしまったが、それならすぐに治療の魔術をと思ったところで、胸元にぞろりと硬い感触がある。
「…………っ、」
「余所見をするからよ、坊や。私の巣にいらっしゃいな」
耳元で囁かれたそれは、甘い甘い声音だった。
胸元に巻きつけられたのは、岩蜥蜴の尾のようなものだが、刃の通らない甲冑の装甲のような青く硬い皮膚で覆われている。
ぞくりとして幾つかの魔術を思案し、相手の属性が見えないことにまたぞっとした。
(こちら側の生き物じゃない。…………あわいの怪物?)
であれば、どんな魔術なら相手を怯ませることが出来るのだろう。
きっと、そんな迷いがその女性に時間を与えてしまったのだろう。
踏み止まり、連れ去られないように魔術を展開していた筈なのだが、ぐいっと首が捥げそうな勢いで後方に引っ張られ、そのまま踏みとどまれずに後方にどさりと倒れた。
「くっ、………」
慌てて立ち上がろうとしたルドヴィークは、地面が見慣れた草原の乾いた大地ではなく、じっとりと湿った赤黒い土であることに眉を顰める。
慌てて立ち上がったが、そこにはもう見慣れた草原や山々はどこにもなかった。
深い湿った森に囲まれ、石造りの街が広がっていて、その遠くに地鳴りのような音を立てて煙を上げている黒い山が見える。
「ここは………」
声が掠れ、魔術を編もうとした手がぱたりと落ちた。
土地を守る為に戦うことはあるけれど、如何せんルドヴィークは国の外を知らな過ぎる。
見たこともないような光景に驚いたのだ。
「私の巣にようこそ、坊や。またあの美しい歌声を聴かせてくれるかしら?あんなに美しく力に溢れた歌声があるだなんて、私は知らなかったわ。これからも毎日、お前の喉が潰れてしまうまで、私の為に歌って頂戴な」
別に歌くらい無理のない程度であれば歌ってあげるのだが、そこまで多くを望まれてしまうと流石に無理だなと考える。
あのような場で歌うことはないので、褒めてくれるだけであれば嬉しかったのだが。
(ここはどこだろう…………)
こちらを見る女性は、扇情的なドレスのその裾から覗く、硬い鱗に覆われた蛇のような長い尻尾がある。
ぐるりととぐろを巻いたその尻尾は、ルドヴィークが知っているような鱗ではなく、甲冑めいた硬い皮膚が重なるようになっていた。
(困ったな。属性が分からなくて、種族も分からない生き物に攫われてしまった。………今夜は山羊のチーズのパンと、野菜の香辛料煮込みなのに………)
華やかな儀式で歌う日なのだからと、母が張り切って得意料理を作ってくれたのだ。
山羊のチーズが練りこまれたふかふかとしたパンは、三つ編みのように形成することから三つ編みパンと呼ばれている。
ルドヴィークの、子供の頃からの大好物だ。
それなのに、こんなところに攫われてしまうなんて。
(でも、攫ってきたから油断したのかな。街が近いし、ここから少しだけでも離れられれば…………)
「歌が好きなのかい?じゃあ、歌おうか。僕も歌は大好きだよ」
微笑んでそう言えば、その女性は驚いたように目を瞬いた。
よく見れば、ちりりと黒髪の内側が揺らぐその髪は、熾火のように見えるというだけではなく実際に内側が燃えているようだ。
「おかしな子だね。泣いたり叫んだりはしないのだね」
「そうした人もいるのかい?」
「前に攫って来た画家は、その場で首を掻き切って死んでしまったよ」
「………でも、画家ということだから、絵を気に入ったんだよね。一枚も描いてくれなかったのは、寂しくないかい?」
「………おかしな人の子だ。私はお前が喉を潰して死ぬまでここから出してはやらないんだよ?」
「それは困ったなぁ。僕が心を込めて歌うのでは、許してくれないのかな?」
「ははっ!どうしてそれっぽっちの奉仕でお前を逃してやらなきゃいけないんだい。お前はもう、私のものなんだよ」
「……………うーん困ったな。一曲歌うくらいなら、ちっとも構わなかったのに」
そう呟いて首を傾げながら、自然な形で腕を組んだ。
組んだ腕をぎゅっとさせると、袖の中でもぞもぞと動く気配がある。
(この土地を見てやっと分かった。水を含んだ森と火山の系譜みたいだ。と言うことは………)
「よし!」
「ミュウ!」
小さなその鳴き声に、蛇の尾を持つ女性がはっとしたように振り返った。
けれどもその時にはもう、ルドヴィークは反撃の魔術を整えていたのである。
「………でも、ここからどうやって帰ろうね」
「ミュウ?」
数分後、ぼりぼりと先程斃した生き物の尻尾を齧っているミュウさんにそうつぶやけば、袖の中に入って眠っていた小さな砂兎から、本来の大きな姿に戻っていた家族が振り返って首を傾げる。
ミュウさんは少し前に砂漠の中にある国の王宮で拾って来た砂兎の魔物で、一緒に暮らし始めてからだいぶ大きくなった。
実は最初にルドヴィークが可愛い名前をつけたのだが、家族全員と当人にも反対されて、ミュウさんという名前になったという経緯がある。
手のひらくらいの砂兎から、今ではもう馬くらいの大きさにまで立派に育ってくれた。
ふさふさとした尻尾には縞模様があり、耳と尻尾の形以外は虎という獣に似ているようだ。
最終的にはもう一回り大きくなるらしいが、砂兎の魔物は自由に幼い頃の姿にもなれるそうで、普段は小さな砂兎の頃の姿でルドヴィークの袖の中や鞄の中で眠っていることが多い。
最初はルドヴィークの服にへばりついて眠っていたのだが、一度羊にもしゃもしゃと齧られてしまってお尻の毛がなくなったことがあったので、安全の為に寝る場所を変えたのだ。
「ミュウさん、街の方に行ってみようか。………乗せてくれるの?」
「ミュウ!」
街に行けば、転移門などの施設があるかもしれない。
公共の門の使用料金が幾らなのかは分からないが、ひとまずその値段を見てみて、あまりにも高かったらアイザックに借金の相談をしてみよう。
それに、どんな土地にもアイザックの商会の支店があると聞いている。
いざとなればそこに駆け込むのもいいかもしれない。
ミュウさんに跨り、風のような早さでそれまでいた森の中を駆け抜けると、あっという間に石造りの街に出る。
「うーん………」
けれどもそこは、想像していたような喧騒はなく、それどころかしんと静まり返っていた。
「ミュ?」
「………もしかしたら、さっきの人が襲ってしまったのかな」
「ミュウ………」
街を歩いて調べる為にミュウさんの背中から降りようとしたが、ふさふさの尻尾でばしりと叩かれた。
まだ降りないようにということらしいので、重たくないのかなと思いながらその首回りを撫でてやる。
「ミュフン…………」
大好きな首撫でをして貰って、ミュウさんはすっかりご機嫌で鼻をすぴすぴさせた。
こんなに大きな体をしているが、とても甘えん坊で可愛い家族だ。
夏至祭でも、現れた悪い精霊を斃し、母を守ってくれた。
ルドヴィークにとても懐いているが、母と兄のことも大好きになってくれてほっとしている。
ただし、残念ながら叔父とは恐ろしく気が合わない。
「…………誰もいないね」
「ミュウ…………」
静まり返った街は、がらんとしていた。
人の気配がなく、広い通りには割れた陶器の鉢が落ちていて、商店の前の柱には、千切れた旗のようなものが引っかかってばたばたと風に揺れている。
(この規模の街だと、二百人くらいの人がいた筈なのに…………)
決して大きくはないが、立派に整えられた街だ。
大通り沿いには商店が立ち並び、公共の施設らしい大きな建物もある。
広場には美しい噴水があって、住人が誰もいない不気味さを引き立てていた。
「ミュウさんを拾った国の様子に似ているね」
「ミュウ」
「そうなると、何かに襲われたりして住人が逃げ出してしまったのかな?この街の感じだと、次の通りのところが街の中心になると思うから、そっちに行ってみようか。…………ミュウさん?」
誰かが残っていないか調べようと思ったのだが、前に少し進んだところで、ミュウさんが激しく震え出した。
慌てて頭を撫でてやり、と言うことはこの先には良くないものがいるのだなと警戒を強める。
「………そっちは避けようか。街の外側に行ってみよう」
「…………ミュ」
そう話し、進路を変えようとしていた時だった。
(……………あ、)
不意に、ぐわんと目眩のようなものに襲われた。
空気が質量を増してのし掛かってくるような息苦しさに、喉元に手を当てて体を折り曲げる。
冷たい汗が額に滲み、手のひらにも同じように汗が滲んだ。
ルドヴィークを乗せたままのミュウさんも、全身の毛を逆立てて震えている。
足手纏いになってしまわないようにその背中から降りようとしたが、また尻尾でぐぐっと押し戻された。
「…………っ、……ミュウさん、僕を乗せたままじゃ早く走れないよ?」
「キシャー!」
「…………守ってくれるのは嬉しいけれど、ミュウさんは大事な家族だからね。怪我をしたら嫌なんだ。…………大丈夫だよ、もし手に負えない生き物が来ても、僕には人面魚があるからね」
「……………ミュッ?!」
苦手な生き物の名前を出され、ミュウさんは尻尾をくるりとお尻に巻き込んでしまった。
前に一緒に川遊びをしていて人面魚を見てしまい、こてんと倒れて三日寝込んだことがある。
けれど、それがあるならと安心はしてくれたようで、ルドヴィークが背中から降りるのを渋々だが許してくれるようだ。
まだ、先程の異様な重苦しさは続いている。
ぐらぐらと揺れる頭に片手を当て、慎重にミュウさんの背中から降りようとした。
「妙な客がいると思ったら、見知った顔だな」
「…………っ?!」
その声が聞こえたのはすぐ後ろで、ルドヴィークはぞっとして慌てて振り返る。
すると、自分達が歩いて来た筈の道の真ん中に、豪奢な椅子に腰掛けて煙草を吸っている美しい魔物がいるではないか。
ずっと気配には注意していたつもりなのだが、いつの間にそこに現れたのだろう。
「……………あ、」
幸いなことにと言っていいものか、その姿をルドヴィークは知っていた。
ネアの使い魔で、アイザックの知人でもあるアルテアという魔物だ。
あの時は擬態をしていたが、かつてアイザックと共にルドヴィーク達を駒にしようとしていた魔物でもある。
「…………蛇のような尾を持つ生き物に、この近くの森に連れて来られてしまったんです。この街は、あなたの街なんですか?」
ネアの使い魔だからといって、侮ってはいけない。
彼は魔物なのだから、ルドヴィークに好意的であったり、ルドヴィークを助けてくれるとは限らない。
だから礼儀を欠くことがないようにきちんと頭を下げ、事情を説明してみた。
(確か、この魔物はネア以外の人間に対してはとても残忍だった筈だ。高位のものだから人面魚が効くかどうかも分からないし、やっぱりアイザックを呼んだ方がいいかな………)
「別に俺の街じゃないが、中身を譲り受けたからな。畳み終わったところではあるな」
「…………この街を、壊してしまうんですか?まだ綺麗だけれど、あの火山が危ないのかな………?」
であれば住人たちはやはり避難したのだろうかと考えていたら、赤紫色の瞳をした魔物ははっとするくらいに暗く艶やかな微笑みを浮かべる。
よく見れば、手元には大きな皮袋のようなものがあり、彼は煙草を咥えたまま、それを畳んでいるのだ。
「お前の話しているのは容れ物だ。俺が畳んだと話したのは、ここに住んでいた人間達のことだな」
「…………人間を、………その手にあるのは、人間の残骸なんですね?」
「言っておくが、賭けに勝って得た正当な報酬だぞ?この街を治めていた女が、街の住人達を担保にした愚かしい賭けを申し出てきた。どれだけ楽しませてくれるのかと思えば、こうなるまでに十日もかからないときている」
「…………上に立つ立場のひとが、守るべき人達を守れなかったんですね」
それは悲しいことだったが、叔父が話してくれたように、人間の治世者には時として我欲や、稚拙な理想で迷走してしまう者がいるらしい。
ルドヴィーク自身も、大勢の人達と同時に話すのが苦手なので、集落を治めるようにと言われたら大失敗する気しかしない。
その女性も、そうして人々を守り導くことが不得手な人だったのだろうか。
(この人は作業の邪魔をされることは嫌いそうだから、早く立ち去ろう…………)
「…………お仕事中を承知で尋ねさせて下さい。この街に公共の転移門はありますか?」
「ないだろうな。ここは、あの火の山の魔術の恩恵を受ける代わりに、この土地から離れる事を許されない人間達の街だった。ここで生活をすることこそが贄としての役目を果たしていたからな」
「………もしかして、あなたとの賭けに負けた女性が望んだのは、この街から自由になることでしょうか?」
そう尋ねたルドヴィークに、赤紫色の瞳の魔物は片方の眉を持ち上げ、こちらに冷ややかな眼差しを向ける。
「さてな。俺にお前とのお喋りに付き合う義理はない。迎えと一緒にさっさと帰れ」
「………迎え?…………アイザック!」
視線で示された方を振り返ると、漆黒の長い髪を風に揺らして、アイザックが立っていた。
目が合うと何とも言えない顔をされたので、もしかしたら少し怒っているのかもしれない。
「…………お騒がせしました、アルテア様」
「俺の作業場に無断で入ったなら、本来はこいつも畳んでも良かったんだがな。………とは言え、色々と面倒だ」
「ええ。彼はネア様の友人ですし、あなたの統括する土地の王子の親友の甥でもありますからね」
「それと、お前がこれでもかと気にかけている人間でもあるからな。…………俺の結界を割り砕いて、無理矢理ここに駆けつけるぐらいの熱心さだ」
「それはもう。ご存知の通り私は友人が少ないので、彼は大事な友人なんですよ。…………アルテア様、彼を傷付けずにいて下さって有難うございました」
「まぁ、厄介だった森の獣の駆除に免じて、俺の領域に踏み込んだことは許してやるさ。お前の友人とやらは、その砂兎と一緒にあの森に住んでいたケルツァルを駆除していたぞ?」
「ケルツァルを…………?」
ぎょっとしたようにこちらを振り返ったアイザックの眼差しに、ルドヴィークはぎくりとした。
これは、帰った後でお小言を貰う時の目ではないか。
「ルドヴィーク、帰ったらゆっくりと話しましょう。いいですね?」
「…………うん。でも僕は、攫われたから反撃しただけなんだよ」
「………また私を呼びませんでしたが?」
「あの女性はどうにか出来たから、この街に公共の転移門がなければアイザックに声をかけてみようかなと……」
「……………やれやれ、それでは遅いと、もう一度説明しなければなりませんか」
「遅いのだろうか。人面魚も持っているけれど、駄目だったかな?」
ルドヴィークがそう言った途端、魔物達は俄かに顔色を悪くした。
「…………おい、そいつをさっさと連れて帰れ」
「…………ええ。アルテア様、壊した結界の修復は後程させていただきます」
「もういらん。そいつが、あの森の主を駆除しちまったからな」
「成る程、ケルツァル除けでしたか」
優雅に腰を折って一礼したアイザックに、ルドヴィークも慌ててミュウさんから降りると赤紫色の瞳の魔物にお辞儀をした。
どんなことをしていようと、ここが彼の領域なのだとしたら、断りもなく入り込んでしまった非礼を詫びなくてはならない。
それが終わると、アイザックに腕を掴まれた。
転移で連れ帰ってくれるようだが、見間違いでなければ、凄くミュウさんと睨み合っている。
困ったことに、この二人も仲が悪いのだ。
「さて、帰りましょうか。あなたの叔父上が連絡をくれなければ、私は、今回のことを知らずにいる可能性もあったようですね」
「どうしようか、ミュウさん。凄く怒ってるね………」
「言っておきますが、その砂兎程度では守りになりませんよ」
「キシャー!」
「こらこら、ミュウさんもアイザックを威嚇してはいけないよ?」
「馬車を牽く労働力としてであれば、使えるかもしれません。預けていただければ、躾けますが?」
「キシャー!!」
「すぐ喧嘩になるなぁ…………」
なお、ルドヴィークを攫った生き物は、あの森の主だったようだ。
石造りの街の人々を、火山の生贄としてあの土地に縛り付けた、火の山から生まれ千年も生きた怪物だったらしい。
ルドヴィークは、誰かに攫われたらその場で呼ぶようにと、アイザックからまた新たな約束事を増やされてしまい、暫くはゆっくり休むようにと、夏野菜の世話にはアイザックの職場から優秀な人材が派遣された。
そんな風に世話を焼かれてしまうのは不本意なのだが、母からも心配で堪らない様子だから、優しくしてあげるようにと言われてしまい、その日だけはアイザックの提案に甘えることにした。
(友達が少ないみたいだし、友人との距離感をはかるのが苦手なのかな…………)
魔物にそんなことを思うのは失礼なのだろうが、そう考えると何だかこの年上の友人が可愛く思える。
ルドヴィークも、もしアイザックが困っていたら、駆け付けてあげられるといいのだが。
「あなたが、花輪の塔に鎮魂歌を歌うことすら、私は知らされておりませんでしたが」
「葬送の儀式だから、あまりお客は呼ばないんだよ。アイザック、今夜は山羊のチーズのパンを母さんが焼いてくれるんだ。食べていかないかい?」
「…………やれやれ、私を懐柔しようとしていますね?」
「友達が助けに来てくれて嬉しかったんだ。あのネアの使い魔の魔物は少し怖いね。君が来てくれてほっとした」
「…………そう感じることが出来るのであれば、少し安心と言えるでしょうか。…………ところで、その手に持っているものは?」
「ああ、これは戦利品だよ。初めて見たものだったから」
「…………戦利品」
ルドヴィークのテントには、誰かが建材に使うかなと思って持ち帰ったあの怪物の鱗が、咎竜の骨の横に飾られている。
とても硬いので、いつか何かに使えそうだ。
けれどもアイザックはその鱗があまり好きではないようで、遊びに来るたびに早く捨てるようにと言うのだった。