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夏至祭の夜と求婚の訪れ





夏至祭のその夜、ネア達は悲喜こもごもであった夏至祭のダンスを終え、和やかに晩餐をいただいていた。



窓の外はいつもの夜より明るく、遠くでちらちらと揺れる篝火が不思議な胸の痛みを投げかける。

感傷と言う程の感傷を呼び起こす筈のない光景なのだが、特に思い入れのない情景ですら甘く心を揺さぶるのも夏至祭の魔術なのだという。


その感傷があるからこそ、夏至祭には多くの恋が生まれるのだ。




今夜は、厨房の料理人達が夏至祭を楽しみに出ているので質素な食卓となるのだが、ネアはこの夏至祭の食事を昨年からとても気に入っていた。


今年もテーブルの上には、花輪の塔を模した可愛いお花飾りがあり、そんな気遣いも嬉しく思いながら、ネアはお待ちかねのスープの登場に唇の端を持ち上げる。



災厄ご飯のような、質素さに特別感の滲む晩餐に、ネアは自分でも子供っぽいなと思いながら微笑んだ。

隣の魔物も、そんなネアをちらりと見て一緒に嬉しくなってしまったのか、何だか楽しそうにネアの膝の上に三つ編みを設置していった。



膝の上の三つ編みは、ディノの気分を反映してかいつもよりきらきらして見える。



(私のもの、)



ネアが安心して慈しめたこの魔物は、こうしていつも、自分がネアの手の届く場所にいるのだと教えてくれる。

ちくちくするセーターに不信感いっぱいで縮こまっていたネアの心に寄り添い、安心して着ていられる素敵なセーターだと主張してくれた。



(ディノがいて、エーダリア様やヒルドさんがいてくれて、ゼノとグラストさんが優しく見守ってくれて、アルテアさんやウィリアムさんに出会って、狐さん……ノアがここに住むようになって………)



自分の輪として集まれる家族のような存在だからこそ、こんな風に夏至祭の質素な晩餐を一緒に食べられるのが楽しいのだと思う。

この素敵な輪は、ネアのものだ。



(普通は恋に弾むのが夏至祭の魔術のようだけど、私はこうやってはしゃいでしまうみたい………?)



でも、それは素敵なことだ。

そう考え、胸がいっぱいになったネアは、つま先をぱたぱたさせた。




「むふぅ!」

「…………これでも飲んで落ち着け」



すっかり夏至祭の雰囲気に飲まれてしまい大興奮のネアに、呆れ顔でそう言うのは、サーブを申し出てくれたアルテアだ。

個々にお鍋からと考えていたのだが、意外に几帳面な選択の魔物は、それは嫌だったようだ。


アルテアにサーブされてしまい、エーダリアがどこか恐縮したように視線を泳がせる。

隣に座ったノアが、苦笑してそんなエーダリアの背中をばしりと叩き、恨みがましく横目で睨まれていた。




「夏茜のスープです!」



ネアがご機嫌でそう言えば、このスープがお気に入りだったディノもこくりと頷いた。

エーダリアにとっては魔術師時代の懐かしいスープになり、アルテアは、そう言えばヴェルリアで飲んだことがあるなと呟いている。



この夏茜のスープとは、トマトの冷製スープなのだが、しっかりと味わい深く、涼やかな硝子のスープボウルに入った赤いスープは見た目にも鮮やかで楽しい。


赤ピーマンに玉葱に胡瓜、オリーブオイル、大蒜などの風味が爽やかさの奥によく馴染み、熟成させた甘酸っぱいお酢をたらりと回しかけたり、生クリームをお好みでかけても美味しいのだ。


焼きたてを保温魔術で留めておいたパンには、塗ったばかりのバターがじゅわりと溶け、このパンとスープの組み合わせだけで充分に幸せな気持ちになる。

今年の林檎のデザートは、ゼリーではなく軽い林檎のスポンジケーキに生クリームたっぷりのケーキになったようだ。



少し早めで今夜の晩餐をいただいたゼノーシュは、美味しいケーキにとても幸せな気持ちになったのだと、広場で擦れ違った際に教えてくれた。

とは言え酷く暗い目をしていたので、大事なグラストを守るべく、ゼノーシュにはまだまだ気の抜けない時間が続くのだろう。




「ほわふ。…………デニッシュなパンとスープの組み合わせが至高のお味です…………」

「厨房の料理人達が、何種類かパンを増やすと話していたそうだ。ベーコンとオリーブのパンもあるな。色々作ってゼノーシュを喜ばせたかったのだろう」

「今日のゼノには、たくさんの栄養が必要ですものね」

「ああ。グラストは、夏の系譜の者達には人気がある。特に最近は、表情も柔らかくなったからな」

「去年来た因果の精霊王が、今年はグラストを訪ねて来ていたみたいだね。ガジュラだっけ?」

「………まぁ。…………グラストさんは大丈夫だったのですか?ゼノは、ザルツの伯爵さんの一件からきりんさんの封筒は持っている筈なのですが、必要であればぬいぐるみも………」



あの、ちょっと人の話を聞かない系の橙色の髪に檸檬色と赤のまだらの瞳の精霊王の姿を思いネアはひやりとしたのだが、ノア曰く、去年よりも辛いものに強くなった自慢をしにウィームに来ただけなのだそうだ。

特に乱暴なところもなく、そんなしょうもない自慢を快く聞いてくれたグラストをすっかり気に入ってしまい、また一つ祝福を置いて帰っていったらしい。



「それなら良かったです。あやつを手懐けてしまうとは、さすがグラストさんですね………」

「だが、それが別の問題に波及してな。その様子を見ていた者達が、成就の祝福を強めたグラストがいっそうに良い伴侶候補だと考えたのだろう。求婚が殺到したようだぞ」

「……………そ、そんなことになってしまったら、ゼノが……………」

「うん。僕が見かけた時、妖精と精霊にはネアから貰った封筒を使うって話してたよ。ありゃ相当怒ってたと思うなぁ………」

「可哀想なゼノは、それであんなに暗い目をしていたのですね……………」



とは言え、グラスト自身も今は再婚などは考えていないようで、ゼノーシュがいるから今はそのような欲はないのだと、柔らかく苦笑して断ってしまうのだそうだ。


誠実な瞳を申し訳なさそうに曇らせ、丁寧に申し出を辞退するグラストの姿勢がまた好感度が高いらしく、随分と多くの求婚を断ってはいても角が立つことは殆どないようなのでもはや人徳なのだろう。



「あの雰囲気が僕にもあれば、刺されなくなるかな………」

「お前の場合は別れ方の問題だろ」

「呪われたばっかりのアルテアには言われたくないなぁ。僕のお蔭で三つの麦の祝福があったんだから、ちゃんと僕には感謝してよね!」

「妙だな。お前は付き纏われただけだった筈だが?」

「ありゃ。ネアからも、ちゃんと僕にお礼をするように言われてなかったっけ?」




わいわいするノアとアルテアを眺め、特に気にした様子もなく夏茜のスープを飲んでいるエーダリアに、ネアは、確かこの上司は、当初はディノの知恵を借りることにすら慎重だったのになと懐かしく思い出す。



今や、エーダリアは塩の魔物と契約をしており、そんな塩の魔物とボールで遊ぶ毎日だ。

顔や足を汚した銀狐がお風呂の介助を強請りに行くのも、ヒルドやネア達だけでない。

エーダリアの部屋には、どれだけ狐の玩具が揃っていることか。




「ディノ、そう言えば先程………」

「ネア?」

「先程、何か気になったことがあったのですが、………むぐぐ。忘れてしまいました。誰かに似ている方を見たような気がしたのですが………。やはり、門の前で見ず知らずの少年に、金鉱脈様との縁を奪われたのが悲し過ぎたのでしょうか…………」



そう呟いて悲しくパンを千切ったネアがずっと会いたかったのは金鉱脈の妖精なのだが、リーエンベルクの門の前に、そんな金鉱脈の妖精の一匹がミューミュー鳴いているのを発見したのだ。


群れからはぐれてしまったのか、悲しげに鳴いている姿にネアは己の幸運に感謝した。

しかし、喜び勇んで駆け寄ろうとしたところでネアよりも先に一人の少年が拾い上げてしまい、金鉱脈の妖精はそんな心優しい少年のものとなってしまったのだ。


幼気な少年から金色毬を奪い取る訳にもいかず、少年が金鉱脈の祝福を受けるのを横目で眺めつつ、ネアは悲しい気持ちで帰ってきた。



その絶望のあまり、何か大切なことを忘れてしまっているような気がする。


とは言え、あまりにも儚くもろもろと記憶の中から失われてゆく違和感に首を傾げ、ネアは眉を寄せた。

上手く言えないのだが、こうして崩れていってしまう効果のあるもののような気がして、もはや残っているのは心がざわついたという記憶の残滓くらいだろうか。



そんな曖昧さに暫く首を傾げたまま温かいパンを美味しくいただいていたが、手の中のパンを食べ終えてしまい、いよいよケーキかなというところでやっと思い出した。



白い髪色と、美味しい生クリームで記憶の回路が繋がったらしい。



「………………そうでした。砂漠の予言者さんに似た雰囲気の方を、広場で見たような気がするのです」



ネアがそんなことを言い出した途端、がたんと音を立ててアルテアがグラスをテーブルに置き、エーダリアがげふんと咳き込んだ。

隣のディノは水紺の瞳を大きく瞠って、ネアの方を見る。

ノアは、エーダリアの背中をさすりつつ、青紫色の瞳を細めた。



「………サリガルスが、ウィームにいたのかい?」

「いえ、視界の端にそんな雰囲気の方が見えたような気がしたのですが、振り返ったらどなたもいませんでした。あの方は砂漠の方の方ですし、そう容易くお会いするような方でもなさそうなので、見間違いだとは思うのですが、…………」

「………………砂漠の予言者というと、あの凶兆の予言をする者のことだな?」

「ええ。以前お話しした、嘘の精さんの事件の時に見た、前の世界の書の魔物さんです」



不安そうに尋ねたエーダリアにネアが頷けば、アルテアがきっぱりと首を横に振った。

もうダンスが終わったからか、クラヴァットを解きすっかり寛いだ様子だ。



「お前の豪運がどこに傾いているにせよ、サリガルスに複数回会うことはない筈だ。それが理の規定だし、そもそもあいつが繋がる領域は砂の魔術だからな。ウィームに砂漠がない限りは、他人の空似だろ」

「……………だとしても、近しいものを感じたのであれば、聞き流してしまうことは出来ないね。ネア、彼に何かを言われたりはしたのかい?」


アルテアは懐疑的な様子だが、ディノは静かに考え込む様子を見せた。

ネアは明瞭な記憶すら残っていないことを申し訳なく思いつつ、美味しいパンをもぐもぐしてから飲み込む。


「……………ディノ。…………それが、何かの言葉が聞こえたような気もしたのですが、さっぱり思い出せないのです。或いは、誰かをサリガルスさんと見間違え、その間違いを前提に、あの場で耳に飛び込んできた言葉が明瞭にならないまま気になってしまっているのかもしれません…………」

「…………言葉が記憶に残らなかったんだね?」

「…………ふぁい」


少ししょんぼりしたネアに、魔物達がどこかほっとしたような表情を浮かべた気がした。

ネアがその変化の理由を尋ねる前に、魔物らしい優雅さで微かに首を傾げたノアが、そこに至る推理を話し出してくれるようだ。



「うーん、ってことは、もしサリガルスがウィームの、あの広場にいたのだとしても、ネアに向けられた予言を成しに来たんじゃないかもね。ほら、他人の予言を偶然耳にすると、知らない間に記憶からこぼれ落ちて忘れてゆくって言うからさ」

「そんな風になるのですか?」

「予言の魔術ってさ、閉鎖的なものなんだよ。特にサリガルスみたいな対象者にしか見えないようなものは、かなり間口が狭い。瞬きをする間にも、その時の感覚が輪郭まで曖昧になるみたいな感じはある?」

「むむ!まさにそんな感じで、覚えておこうとしても記憶のお皿の上からさらさらと崩れ落ちてゆくようで、どんどん輪郭が曖昧になっていってしまうのです…………」



ネアのその言葉に、ディノはほっとしたように息を吐いた。

伸ばした指先でネアの頬を撫で、真珠色の睫毛をそっと伏せる。



「崩れ落ちるように、というのがまさしく予言の魔術の理だね。自身に向けられた予言というものは、その逆で忘れ難いものとされる。告げられた予言を理由なく短時間で失うのは不自然なんだ。………ごく稀に、敢えて忘れるようにという呪いも一緒にかけられることもあるけれど、そこにいたのがサリガルスなら、それはないだろう」

「サリガルスさんは、そのような酷いことはしない方なのですね…………」

「と言うより、彼はこの世界に落とす予言に心を添わせないんだ。彼にとってそれは、あくまで自分の書庫にある本を読み上げるだけのものだからね」

「そうそう。それにサリガルスは、予言を与えるという役割の存在だからね。サリガルスの予言が上手く覚えられないなんてことはないかな。………うーん、夏至祭のあわいの揺らぎで、誰かの予言に繋がったのかもね」



(であれば、…………サリガルスさんがそこにいて、あの時近くにいた誰かが予言を受けたということなのかもしれない?)



そんなことが少し気になったが、自分に向けられたものでないのなら忘れてしまおう。

けれど、そこに関わったことを忘れずに警戒するのであれば、ここで、ネアよりも記憶や知識の確かな魔物達に話すことが出来て良かった。



何となくひやりとしたので、ふぅっとみんなで深い息を吐き、ネア達はもそもそと林檎のケーキにとりかかることにする。




「申し訳ありません、遅れました」


そこに来てくれたのはヒルドで、イーザが広場で厄介な妖精を見付けてくれたので、その身柄の引き渡しで時間を有していたらしい。

それでも急いで戻ってくれたのは、夏至祭の風習に則り、みんなで林檎のものを一緒に食べる時間に間に合わせてくれたのだろう。



「すまない、ヒルド。後を任せてしまったな」

「いえ。イーザと幾つか確認があっただけですから。今夜だけで、彼が居てくれてよかったと思うことが何回かありました。今年の夏至祭の地として、ウィームを選んで訪問してくれたことに感謝するばかりですね………」

「夏至祭が明けた後で、何か謝礼の品を私の名前で贈ろう。ダリルともこの前、霧雨の一族との縁は先々まで続くものであれば幸いだと話していたのだ」

「今日もふかふか尻尾さんを引き取って貰えたので、私からも用意出来るものがあれば言って下さいね!」



ネアがそう言えば、なぜかエーダリアとヒルドは顔を見合わせた。

不思議な微笑みを浮かべ、ヒルドが頷いてくれる。



「…………であれば、私もご一緒しますので、品物に添えるカードを選ぶのを手伝っていただけますか?彼に贈る物につけるのであれば、堅苦しくリーエンベルクの刻印のあるカードをつけるよりも、友人としての飾らない感謝も伝わるような市販のものの方が良いのではと思いますから」

「では、カード選びは任せて下さいね!イーザさんのカードであれば、張り切って選びます!」

「イーザも喜ぶと思いますよ」



なぜかその会話の間、アルテアとノアが何とも言えない表情で顔を見合わせるので、ネアはカード選びのセンスくらいそれなりに持ち合わせているのだと、強く主張しておいた。

何を懸念しているのか分らないが、ネアだって、いくら何でもイーザにきりんカードを用意したりはしないのだ。



(きっと、イーザさんが喜びそうな素敵なカードを選んでみせる!)



そう考えてふんすと胸を張ったネアは、隣の魔物が悲しげにこちらを見ていることに気付いた。

せっかくなのでディノにも暑中見舞いなカードを買おうかなと提案すると、魔物は嬉しそうに目元を染めた。



「夏至祭のダンスも無事に乗り越えられたので、その記念にディノにも何か夏らしい素敵なカードを送りますね」

「ご主人様!」



夏至祭の後も暫く、ウィームでは夏至祭の花輪の塔のカードが売られている。

それは、夏至祭の夜に育んだ恋を覚えていますかということをやりたい者が多いからの需要なのだが、せっかくならそんな夏至祭の絵柄のカードを買って、記念にしてもいい。


(イーザさんには、妖精さんが喜びそうなきらきら光る結晶石や魔術の込められた細工カードがいいかな。リーエンベルクとして差し上げるものであれば、記念に取っておけるようなものでもいいかもしれない………)



そんなことを考えながらいただいた林檎のケーキは、ふんわりとしていてとても美味しかった。


優しい林檎の風味が食欲をそそるシフォンケーキ風のケーキに、たっぷりと甘さ控えめの生クリームを乗せ、煮林檎を添えて食べる。

シンプルだが、こんな風に体を動かした日にはその素朴で優しい美味しさが際立つケーキだ。



「俺は、日付が変わった頃合いに帰るぞ」

「あら、ちびふわは今夜は泊っていかないのですね?」

「その形状指定をやめろ」

「ネア、ほら、………アルテアもデートとかがあるんじゃないかなぁ」

「むむ!そんな新しい恋に向けての活動があるのなら、私もアルテアさんを応援しますね。折角なら、林檎を持って会いに行かれてはどうでしょう?」

「夏至の買い出しがあるだけだ。妙な勘繰りをするな」

「むぅ。照れ屋さんですねぇ」



そんなやり取りがあり、ネアは勿論、ディノやエーダリア達も、アルテアは今日は泊まっていかないものだと考えていたと思う。


本人が宣言したのだからそう思うのも当然なのだろうが、そんなこんなですっかり油断していたのである。



エーダリアは本日の報告会を兼ねてヒルドと一度執務室に行くようで、二人が働き過ぎないように僕が面倒を見るよと、なぜかノアはボールをポケットに詰め込んでついて行った。




「むふぎゅ。良い湯加減です…………」



ネアは、そんな夏至祭の夜の締め括りに、ウィームの雪と森の香りの入浴剤を放り込んだ浴槽で、余は満足じゃの至福の息を吐きながらゆったりと入浴していた。


まだ夏至の夜なので、浴室の扉を薄く開いた場所にはディノが椅子ごと陣取っていて、ご主人様の不慮の事故がないように見張っていた。

ほんとうは、ゆっくり寛げる自室の浴室が良かったのだが、万が一がある時に部外者が救助に来られないので、そんな気遣いにはそつがないノアによって、今夜の入浴は客間でお風呂に入ることを提案されていた。

ここならばいざと言うときにも、ノア達が駆けつけることが出来る。

そこまでして入浴せずともいいようにも思えるが、夏至祭のダンスを踊った乙女は、どんなものに触れられているのかが分らないこともあり、しっかりと身を清めることが必要なのだ。



ぽわぽわと漂う湯気にむふんと息を吐き、ネアは浴槽の縁に顎を乗せた。

ぽわぽわもわんとした湯気が白いキノコに見え、夏至祭で色んな生き物を見過ぎたのが、極彩色の強い光を見た後のように瞼の裏に焼き付いたのだなと苦笑する。



「妾は、あのお方に求婚するのじゃ」


湯気のぽわぽわキノコがそんなことを言った気がした。

とろんと目を瞠ったネアは、気持ちのいいお湯に浸かり、みんなの恋が成就しますようにと寛大に祈っておく。




「ネア…………?」

「…………む?お風呂が気持ち良くて、うとうとしてしまいました!……寝惚けていたようでふ」

「溺れないように、洗ってあげようか?」

「こ、こちらに入って来てはいけませんよ!浴室は現在、私の占領下にあるのです!!」

「転んでしまったり、沈んでしまったりはしないかな?」

「どうか、今日まで無事に生き延びてきた私の入浴技術を信用して下さいね。…………むぎゃ?!」



その直後だった。


誰かが、ネアが、伸び伸びとお湯を堪能していた浴槽にじゃぼんと落ちてきたのだ。

大きな水飛沫が上がり、ネアは目を丸くして慌ててお湯に沈み込む。



「ネア?!」


大きな物音に慌てて駆け込んで来たディノも退場し給えなのだが、それよりも大きな罪を犯したのは、まさかの着衣のまま、浴槽に転移で飛び込んで来たアルテアだ。

ネアは、不法侵入者がアルテアだと気付くと、慌ててじゃばじゃばとお湯をかけて攻撃した。



「おのれ、懐き過ぎです!!淑女のお風呂に不法侵入するだなんて、万死に値しますよ!今すぐお部屋に帰るのだ!!…………む、アルテアさん?」

「………………お前がよりにもよって入浴してただけだろ。いいか、そっちは見ないでおいてやるから、もう少しの間、大人しく浸かってろ」

「……………その言い分も分りませんし、妙な運用は到底採用出来ませんが、…………お顔が真っ青です」



ネアは、顎先まで乳白色のお湯に潜りつつも、酷い顔色のアルテアを観察する。

こちらも浴室に入って来てしまったディノが、少し冷ややかな気配を纏いながら、お湯に隠れたネアに素早くバスタオルを渡してくれた。

お湯に浸かるのでこのバスタオルはびしゃびしゃになるが、それでも何もないよりましではある。

ネアはお湯の中でバスタオルを体に巻き付け、向かい合わせになっているアルテアをじっと窺う。



「アルテア、どうしてこんなところまで来てしまったのかな。すぐにここから立ち去るように。…………アルテア?」

「ディノ、アルテアさんの様子がおかしいのです…………」


まともな返事が返ってこないどころか、アルテアは小さく項垂れている。

ネアとディノは顔を見合わせ、首を傾げた。

罪の意識に打ちのめされた浴室侵入犯というよりは、怯えて避難して来たといった感じではないか。



「…………アルテアさんがこんな風になるのは、ボラボラに崇められた時くらいですね」

「…………とは言え、このままにしてはおけないから、君は一度出られるかい?」

「はい。………アルテアさん、お洋服のまま入浴したくて堪らない病気なのだとしても、私は一度上がるのでちょっとだけ壁の方に動いて下さいね」


ネアがそう言えば、転移で飛び込んだ際に上がった水飛沫で濡れた睫毛を瞬き、アルテアは訝しげな顔をする。

ネアをまじまじと見てから、やっと状況を理解したのか、微かにたじろいだ様子だ。



「…………お前な、何て格好をしてるんだ…………」

「まぁ。私が浸かっている浴槽に飛び込んで来た使い魔さんに言われたくはありません。懐き過ぎだとしても、こんな触れ合いはお断りさせていただきますからね?」

「……………は?ここは俺の部屋だぞ。何を言ってるんだ?」

「良く見回してみて下さい。確かに客間の一つですが、アルテアさんのお部屋ではありませんよ?」

「……………じゃあ何なんだ、この状況は」

「………ディノ、アルテアさんが軽度の記憶喪失です…………」

「アルテアが…………」




取り敢えずネアは浴槽から上がり、タオルにくるまってむぎぎと警戒している間に、ディノが浴室からアルテアを連れ出してくれた。

アルテアは、自分が入浴中にネアが入り込んで来たのか、二人でどこかに落ちでもしたのかと思っていたらしく、自分が侵入者であるという自覚がないようだ。



その後、部屋に駆け付けてくれたノアの熱心な聞き取り調査と、ディノによる穏やかな自白の強要によって、アルテアが乱心したのは、借りていた客間にボラボラ風毛皮キノコが大量に押し寄せたからだと判明した。



ちびちびした毛皮キノコに囲まれ、その女王の新たな伴侶に選ばれたと高らかに宣言されたらしい。

求婚については所有者の許可を得ていると言われ、アルテアは魔術的な繋ぎを取られる前に全力でその場から離脱したようだ。




「そう言えば、私も浴室でぽわぽわキノコな湯気の夢を見ました」

「ありゃ。じゃあ、本気で許可は取ったのかな?」

「どなたかに求婚にゆくと話すぽわぽわに、みんなにとっても幸せな夏至祭になりすようにと祈っておいたのです」

「わーお。それだね…………」

「ネア、その生き物は白かったのだね?」

「夢だと考えていましたが、実在するものを見たのであれば、かなり白っぽかったと言わざるを得ないですね…………」



ノアがエーダリアとヒルドに聞いてくれたところ、それは湯気の妖精ではないかと言われたそうだ。

高位だが人間や住人達には害を与えない妖精で、お風呂を冷めにくくしたりお料理をほかほかにしてくれる良き隣人だ。



普段は地熱に暖められた地下の国に暮らしているようなので、もしかしたら夏至祭のダンスの時に現れたのもこの妖精だったのかもしれない。



ひとまず求婚はお断りすることになり、アルテアは、ディノとヒルドに付き添って貰って、滞在していた部屋にひしめく湯気の妖精達と話し合いに行った。



暫くするとよれよれになって戻ってきて、ネア達の部屋の、ディノが今はもう使っていない寝室に立て籠もるようだ。

ディノも若干よれよれになって戻ってきたくらいなので、一人で部屋にいるのも怖いのだろうと、アルテアはそのまま近くで寝かせてやることにした。

侵入者に荒ぶるディノは、ネアが隣に寝るようにと言えばぴたりと鎮まる。



「アルテアさん、浴槽に落ちたままなので、お洋服や髪の毛がこわこわになりませんか?」

「……………放っておけ」

「冷たく冷やした桃のシロップ漬けを食べますか?」

「おい、…………勝手に顔を拭くな」

「濡れタオルです。入浴剤の成分がこなこなすると嫌でしょう?」



ちょっとだけ世話を焼いてやれば、アルテアは夜半過ぎには疲弊しきって眠ったようだ。

きっと明日にはいつものアルテアに戻ってくれると信じつつ、ネアはディノと一緒に選択の魔物すら脅かしてしまう、この世界の不思議について語らいながら、深い眠りに落ちた。




夏至祭が終わっても、夜明けまで森は賑やかだったようだ。

湯気の妖精は心優しい隣人らしく、求婚を断られても荒ぶらずに納得してくれて、寂しそうにではあるが静かに帰って行ったという。







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