286. なかなかに諦め難いものです(本編)
最後のダンスの音楽が奏でられ始めた。
優雅に弾むような、けれど感傷に触れる物悲しくも美しい旋律に、踊りながら、ネアは大事な魔物を見上げる。
ディノの背後にダイヤモンドダストのような煌めきが見えて目を瞬いたが、遠くに飛んでいた妖精が、恋を成就させて妖精の粉を散らしたのがそのように見えただけらしい。
一瞬、魔物が光ってしまったのかと思ったネアは安堵し、再び滑らかな音楽の波間に心を浸す。
夏至のダンスの音楽は、夏至祭の為だけに作られた曲なのだそうだ。
表層だけに耳を傾ければ、夏至の夜の賑わいのように楽しく踊る為の曲である。
しかしながら、繰り返されるその旋律が重なると、ぞくりとするような不穏さや、胸の奥の郷愁の念が掻き乱されるような響きがあり、そんな二面性が、踊り終えた時には不思議な酩酊を胸の中に置いてゆく。
ウィームらしくも聞こえるがどこか異国風で、向こう側と繋がるあわいの日らしい美しい音楽であった。
『森から美しくて怖い音楽が聞こえてきたら、その夜は決して森に入ってはいけません』
子供の頃に、父親が読んでくれた絵本の一節を思い出し、ネアはくすりと微笑んだ。
あの絵本にあった森の中の妖精の国どころか、ここはネアの育った世界ですらなく、ネアの大事な婚約者はなんと魔物なのである。
「ネア………?」
「父が大好きだった、私の育ったところの夏至のお話を思い出していました。こんな風に美しい世界で、大切なディノと踊れて、私はとっても幸せですね」
「……………うん。君がここにいて、幸せでいてくれれば、私も幸せだよ」
「ふふ、それなら私は、これからもますます幸せになるしかありませんね」
「君が…………生きていたり、動いているのを見るのが好きなんだ」
「…………方向が怪しくなってきました。ぞくりとするのですが気のせいですよね………?」
「特に、眠っている君が寝息を立てていたり、呼吸するのを見ているのが可愛い」
「怖っ………」
「ご主人様……………」
くるりと優雅にターンをして、ネアはまたディノの腕の中に戻る。
乙女達が夏至の舞踏の怪物から逃げられるように、今回の音楽は少しだけテンポを上げてあるようだ。
ネアは、足によく馴染むお気に入りの春夏用ブーツで花びらの降り積もった石畳を踏み、足元の星屑のような煌めきを追いかけてステップを踏む。
ふわりとディノの三つ編みが揺れた。
(ディノは、なんて綺麗なんだろう………)
はらはらと降る花びらと、夜のリーエンベルクと、花輪の塔と。
そんな美しい情景の中を、素敵な盛装姿で踊る美貌の魔物を見ていた。
内側から光るような水紺色の瞳は幸せそうで、そんな風に瞳を煌めかせて微笑む姿だからこそ、何よりも美しい。
大切なものだからいっそうにそう思えるのだと考え、ネアはあの落ち葉を踏んで立ち尽くしていた見知らぬ森に呼び落とされた日を思う。
あの日も決して悲観的ではなかったが、こんな風に微笑みが溢れるような幸福が待っていてくれるとも思ってはいなかったのだ。
(だから、これからの為にもこのダンスは踊りきらないと!)
「ディノ、これからもずっと一緒にいましょうね」
「………………うん。………ずるい」
「ずるくはない筈なので、また活用法がおかしくなっていますよ」
「すごく懐いていて、可愛い……………」
「そして、首筋がすぅすぅしてますが、もしや私の背後に先程の怪物さんがいるのではないでしょうか?」
「おや、夏草の妖精かな。…………大丈夫だよ、壊しておいたからね」
「むむぅ。新手でしたね………」
「夏草の妖精は、他者の喜びや幸福に惹かれて寄ってくるものなんだ。君が幸せだと感じてくれたから、惹かれてしまったのだろう。………でも、君は私のものだからね」
美しい声で囁き、男性的な執着と艶やかさを滲ませてそう微笑んだディノは、ふつりと微笑みの形に唇をカーブさせ、ネアを愛おしそうに見つめる。
時々こんな表情をすると、いつもの魔物との違いにどきりとするのだが、紐などとは無縁の素敵な男性に思えて、ネアはとても気に入っていた。
しゃりんと、どこかでまた魔術が揺れる。
妖精の羽の音なのか、はたまた精霊の跳ねる音か。
そんな中を踊り進み、足元で手を伸ばしていた奇妙な生き物を踏み滅ぼした。
スカートの裾には、ぽわぽわ光る生き物が嬉しそうに飛び交い、楽団の方では立ち上がってバイオリンを奏でる妖精が見える。
「ネア、持ち上げるよ」
「………むむ?」
影は見えるものの、幸いにもまだ怪物はあわいから出てきておらず、この夜のこんな時間はなんて素敵なのだろうと微笑みを深めて踊っていたネアは、ふいにディノに持ち上げられた。
(足元………?)
ターンを利用してふんわり持ち上げられながら下を見れば、地面から這い出てきてこちらを見上げた平べったい熊のようなものと目が合う。
「む…………くまさん」
「ガ、ガオ……………」
白まだらの熊なので高位のものなのだろうが、面立ちはぬいぐるみのように可愛らしい。
ネア達の後方の恋人達が慌てたようにその部分を迂回するのだが、大きな熊の横を踊り抜けるのはとても怖いだろう。
(と言うか、スカートで踊るお嬢さん達の下から出てくるだなんて、よく考えたら変態が多いということなのかしら………)
そう考えたネアがじっとりとした目でその熊を見ると、熊自身も己の出現位置の危うさにはっとしたのか、気まずそうな顔をしてもそもそと地面の下に潜ってゆくではないか。
案外悪いものではなかったのかもしれない。
「くまさんは帰ってゆきましたね。………むぎゃ!」
少しだけ緩んだ心で顔を上げたネアは、花輪の塔の上に突如として現れた何かが、巨大な体の腰を屈めるようにしてこちらを見下ろしていることに気付いた。
いつの間にか、花輪の塔の上部にだけ霧がかかっている。
その生き物は器用に蹲り、花輪の塔の先端部分に乗っているように見えた。
そこから覗いている鉤爪のような鋭い爪のある手は、萎びた黒い皮膚に甲殻類の殻のようなものがへばりついていて、かなりのホラーだと言わざるを得ない。
確かに強敵を望みはしたが、ホラーは専門外であると、ネアは、ふるふるしながらしっかりとディノに掴まった。
「ディノ、………あちらに…………」
「うん。すぐに排除するから、君はそのまま踊っておいで」
「ふぁい………。あの手は怖いですね………」
「あれが、夏至祭に現れる舞踏の怪物なんだ。このような夏至祭のダンスに呼ばれるもので、森や山の方には海から、海には森や山の方から現れると言われている。最も厄介なのは砂漠の怪物なんだよ。……ただ、このように完全にあわいから出て来てしまうのは珍しいね」
「……………ほわふ。近くで見るのは怖いお姿なので、そちらを見ないようにします。ぎゅ……」
「あのようなものは苦手なんだね。私が一緒だから、君に触れさせるようなことはしないよ」
怖いものがあると、見ないようにしてはいても、ついついそちらを見てしまうらしい。
ネアは頑張って顔を背けていたが、つい薄目を開いて花輪の塔の上の怪物を見てしまい、こちらに手を伸ばしていた巨大な生き物がさらさらと灰になって崩れてゆく光景を視界の端に収めた。
暴れたりはしていないので、ディノが動かなくしてくれているのか、或いは既に死んでしまっているのかのどちらかだろう。
周囲の観客達も固唾を飲んで見守っているので、こんな風に現れ、静かに夏至の怪物が滅びてゆくのを見守ることはあまりないのかもしれない。
「ネア、もう形が崩れたから怖くないよ」
「………花輪がきらきらしています」
「夏至の怪物の残骸が触れるからね、それを浄化しているんだろう」
「今年の花輪さんは、よく頑張りましたね………」
「かもしれない。複数の要素が重なったというよりは、今年は強い波がこの土地に立つことで土地の魔術基盤が動き、重なった要素も多いと思うよ」
「確か、ウィームには基盤の中心がないのですよね?」
「要所として作り付けたものはあるだろう。けれど、ウィームであれば、どこでも同じだけの役割を果たせる筈だ」
ウィームのように、土地全体の魔術が潤沢なところではそのようなものを敷かないが、大抵の都市や国には、その土地を守る為に最も魔術の集まる土地に、人工的な魔術基盤を置くのだという。
そこに魔術の地脈を集めて国や都市全体に行き渡らせ、土地が枯れてしまう時には魔術を流し込む。
そんな基盤があわいの波で震えると、その影響が土地の全域に現れるのは当然のことで、酷い場合は国の中央の魔術基盤が壊れたりして広範囲の守護が歪んでしまうことがある。
知らずに壊れていると、その国は良くないものが現れ易くなったり、戦争が絶えなくなったりするので、決して管理を蔑ろにしてはならないものだ。
(ウィームは、特定の基盤の中心を持たない代わりに、あちこちに少しずつ影響が出るから深刻な影響は出ないみたい。それでも、こうして普段は出てこない怪物さんが出てきたり、色々な生き物が最後のダンスに集まってきてしまったりもするのかな………)
夏至祭のダンスは誘蛾灯だ。
護りをかけて夏至祭の贄として踊り、踊り終えることで鎮めるその代わりに、夏至祭の祝福を一身に受け取る。
闇夜で浮かび上がる篝火のように人ならざる者達を呼び寄せるが、その多くは花輪の塔の魔術で排除されてしまう。
そうして、自我がなかったり、後先考えずに篝火に飛び込むような荒ぶる者達だけを退け、そこには近付かないだけの理性のある者達にまで、無差別に被害を出すことはない。
昨年の因果の成就の精霊王や、今年の舞踏の怪物や足元から現れた熊、アルテアが苦手そうにしていた毛皮キノコ達ですら、花輪の塔の魔術をすり抜けられるだけの階位であり、その中でも特に、あわいと繋がっている地面以外のところから現れ、あわいの系譜ではない者は非常に厄介だとされていた。
(そういう意味では、今年はそこまで厄介なものは現れていないということなのかしら………)
舞踏の怪物は見た目がとても怖かったが、あわいに連なる者なのであれば、ある種、出るべくして出た範疇とも言える。
夏至祭の、最後のダンスが終わろうとしていた。
ゆったりと音を沈めてゆく旋律に合わせ、ネアは最後のターンでスカートの裾を翻した。
くるりと回ってポーズを決めれば、今年の夏至祭は無事に最後のダンスを終えることとなる。
終わってしまうのは寂しいが、無事に踊りきれれば夏至祭の祝福を授かることが出来るのだ。
ちゃりりと鳴った細い鎖に、若干悲しい現実に引き戻されつつ、ネアは自慢の魔物の綺麗な瞳を見上げて微笑む。
ふわりと広がってスカートが落ち、夏至祭の祝福の淡い煌めきを帯びて足元で揺れる。
(ああ、終わってしまった………)
これでもう、ネアが踊る夏至祭のダンスはおしまい。
来年からは、観客か、或いは騎士達と同じように警備に回ることになる。
「……………これで、………む」
ダンスの前には失敗したので、ここで記憶に残るような素敵な一言を言っておこうと張り切ったネアだったが、またしても言葉が途切れたのは、前に踊っていた少女の髪の毛を掴もうと、虚空から伸ばされた手を見てしまったからだ。
決め台詞をいいところで邪魔をされるのは二回目なので、ネアは初回の恨みも一緒に込め、その手をべしりとはたき落とす。
ぎゃっと声が上がり、なかなかに美しい手はぱたりと下がった。
そんなご主人様を慌てて抱き締めたディノが、何者かを叩いてしまったネアの手をそっと自分の手で握り締める。
「ネア、危ないから狩ってはいけないよ。地下から上がってくるもの以外で、夏至祭の花輪の塔の近くで顕現出来るのは、高位の生き物だけだからね」
「むぐぅ。女性の髪を掴もうとする愚か者など、滅びて当然なのです」
私怨も混ざる憤りに弾んだネアだったが、ふと、叩かれた手をぱたりと下げ落とした生き物の影に、気になるものを見付けて目を瞠った。
「まぁ!ふさふさ尻尾です!!!」
「あっ、ご主人様!」
さすがのディノも、捕まえた筈のご主人様が突然脱走して、誰かの尻尾をむんずと掴んで引っ張ることは想定外だったのだろう。
驚いて声を上げた時にはもう、ネアはそんな尻尾のある生き物をあわいから引き摺り出してしまっていた。
ぼさっと音がして、誰かがあわいから転がり出て来る。
「……………な、何をする?!」
ずるりと出て来てしまったのは、ゼノーシュよりは少し背が高いくらいの、切れ長の水色の目をした美しい青年だった。
頭には見事なイヌ科の耳があるのだが、手を叩かれた上に尻尾を掴んで引き摺り出されたのが怖かったのか、すっかりその耳は寝てしまっている。
ネアに掴まれた尻尾もぴるぴると震えているので、何だか幼気な雰囲気だ。
「女性の髪を掴んではいけませんよ。罰として、この尻尾をふかふかにぎにぎします!」
「ネアが浮気する…………」
「む。ディノ、これは悪さをしたことへの正当な措置であって、決して私利私欲の為にふかふか尻尾を愛でている訳ではないのです」
「し、尻尾から手を離せ………!」
「こらっ!逃がしませんよ!!」
「ぎゃ!!」
ご主人様と婚約者の騒ぎに乗じて尻尾を取り戻そうとした青年は、恐ろしい人間に爪先を踏まれてぱたりと倒れた。
そうなってもネアが尻尾から手を離さないので、絵面としては、本当に狩られてしまったようになる。
「あ、有り難うございましたっ!」
「いえ。気を付けて帰って下さいね」
ダンスは無事に終わった後だったので、狙われた少女は、ネアの方を向いて涙目でぺこりと頭を下げると、真っ青な顔で恋人らしい青年に抱き締められて戻って行った。
すると、入れ替わりですぐにその少女のご家族らしき男性がこちらに駆けてきて、尻尾のある青年を捕獲したまま魔物に荒ぶられているネアに、わざわざお礼を言いに来てくれた。
「ネア様、娘を助けていただいて有難うございます」
「いえ、お嬢さんの綺麗な髪の毛を掴もうとした犯人は、私がしっかりと叱りつけておきますからね」
「はいっ!どうぞ宜しくお願い致します」
男性は深々とお辞儀をしてから戻って行ったが、ネアは、今の御仁はどこかで見たことがあるぞと、首を傾げた。
「むむ!思い出しました。今の方は、お花の綺麗な席が楽しい、レモンパイのあるお店のご主人ですね」
「………ネア、その精霊を離そうか」
「ふさふさ尻尾をわしわししていないので、少しだけ待って下さい。しっかり叱らねばなりません!」
「ご主人様…………」
悲しげにぺそりと項垂れたディノに、ちょっぴり罪の意識を感じないこともないネアが、可哀想になった魔物を撫でてやろうと伸び上がった時だった。
「ネア様…………そちらの精霊は、私に任せていただけますか?お手を煩わせぬよう、私の方で厳しく罰を与えておきますので…………」
人型の精霊を捕獲してしまったネアに声をかけたのは、ざわざわしていた観客達を掻き分け、こちらにやって来てくれたイーザだった。
ネア達がいるのが花輪の塔の魔術の中なので、部外者であるイーザは一定の距離より近くには来られない。
なので、その境界のぎりぎりに立ち、美しい長い髪を揺らしてネアに一礼する。
後ろには、妹達とおぼしき美しい少女が二人いて、その二人も、ネアと目が合うとどこか恥ずかしそうに可愛いお辞儀をしてくれた。
「まぁ、イーザさんです!ウィームの夏至祭はどうでしたか?………それと、この乱暴な精霊さんはお知り合いなのでしょうか?」
ネアがそう尋ねると、イーザは美しい眼差しを曇らせて、せっかく上げた頭をもう一度丁寧に下げる。
「…………お恥ずかしながら、叔父でして」
「…………まぁ、………この方は、イーザさんの叔父様なのですね…………」
「と言うことは、これは霧雨の精霊なのだね」
ディノもこの繋がりは意外だったのか、目を瞠って、ネアの足元で倒れて呻いている青年を振り返る。
「ええ、この体たらくですが、霧雨の精霊王の弟の一人でして。………とは言え、仲間達との暮らしを嫌って旅をしておりますので、我々の霧雨の城で暮らしている者ではありません。この有様では分かり難いでしょうが、短絡的で残忍なところがあり、父が、随分と長く見かけないと気にかけていた矢先、まさかこのような愚かな振る舞いでご迷惑をおかけしているとは………」
「ほわ、…………叔父さんが見付かって良かったのです。………とは言え、悪さをしようとしたので、爪先を踏んでしまいました………」
「幾らでも踏んでいただいて構いません。羨ま…………いえ、相応しい報いですからね」
「悪い奴でしたが、とてもふかふかの尻尾でした」
「おや、気に入られたのであれば、尻尾だけ差し上げましょうか?」
「……………と言うことは、ちょん切られてしまうのでしょうか…………」
そう呟いたネアが足元を見ると、呆然とした顔の青年がこちらを見て、ふるふると首を振っていた。
とても悲しい目をしているのだが、手の中にあるのは確かに魅力的なふさふさ尻尾でもある。
「や、やめろ。精霊の王族の体の一部を切り落とすなど、なんて野蛮な…」
「あなたは黙っていて下さい。我々が懇意にしているウィームの土地で罪を犯すなど、身内として恥ずかしい限りです。ネア様がお望みになるのであれば、尻尾くらい我慢していただきましょう」
「み、身内などなものか!お前は妖精ではないか。そもそも、妖精と精霊が共に暮らすなど……」
「うむ。その尻尾は切り落としましょう!」
「…………や、やめてくれ」
「ご家族に迷惑をかけるような方に、こんなふかふか尻尾は過ぎたるものです。私が、冬用の鞄につけて素敵な装飾品にしておきますね」
ネアがそう言えば、青年は絶望に耳を震わせた。
ぴるぴる震える耳も可愛いなと邪悪な人間に凝視され、慌てて両手で耳を隠してしまう。
外周では、どうやらあの精霊は尻尾を切り落とされるらしいぞと、観客達がざわざわしていた。
「管理責任者がイーザさん達であれば、悪さをしないという誓いをいただいて解放することも出来たのですが、仲良くするおつもりはないのですものね。残念です………」
そう言ったネアが、さて尻尾をと言わんばかりにイーザの方を見ると、まだ尻尾を掴まれたままの青年は激しく震え出した。
「イーザ…………」
「あなたは、我々を家族とは思っておられないのでしょう?ここにはディノ様もいらっしゃいますし、助けるのは難しいですね」
「お、お前の主人は雲の魔物だろう!その魔物を呼べば……」
「なぜ、あなたの為にヨシュアを呼ばなければいけないのか疑問ですが、そもそも、ヨシュアはネア様には逆らえませんので、無意味なことかと」
「…………雲の魔物が?」
そろりとネアの方を見て、自分の爪先と、はたき落とされた手を、そしてまだ掴まれたままの尻尾を見てから、青年はがくりと肩を落とした。
「…………し、城に戻る。そこで暮らす!だからイーザ、助けてくれ…………」
「その前にあなたがするべきなのは、ネア様や、あなたが傷付けようとした方に、心から謝罪することでしょう。そんなことすら出来ないのであれば、その愚かさで災いを持ち込みかねないあなたを、我々の城に入れる訳にはいきません」
その通りだなとネアは頷き、イーザは、ちょっと困った精霊らしい叔父から視線を外し、こちらの騒ぎに気付いて駆け付けてくれたヒルドに再び頭を下げている。
こうして代わりに謝ってくれているのだから、多分、ネアが捕獲した精霊も完全に匙を投げられてはいないのだろう。
「ネア様、お怪我などはありませんか?」
「ヒルドさん、来て下さって有難うございました。この通り、悪者は尻尾を掴んで制圧済ですので、私は大丈夫です」
「ネア、もうヒルドに任せよう。この尻尾を離そうね」
「むぐぐぐ。やはり、尻尾だけ引っこ抜いてさっと逃げれば…」
「イ、イーザ!早く助けてくれ!!!尻尾を引き抜かれる!!!」
「リーロ、謝罪はしたのですか?」
種族違いの甥っ子に手厳しく叱られたリーロという名前の精霊は、その後はもう、可哀想になるくらいに震えながらネアに謝った。
離反していた叔父を優しく受け入れてくれた妹達に付き添われ、ちょっと涙目になりながら、先程の少女にも謝りに行ったようだ。
ネアが、理想的なふかふかの尻尾が失われた手を厳しい眼差しでじっと見ていたからか、リーロはすっかり怯えてしまい、こちらに戻って来てからはイーザの背中の影に隠れて震えている。
どうやら、イーザはこの獰猛な人間から守ってくれる人だと認識されたようで、すっかり懐いてしまったらしい。
「…………また余計なものを増やそうとしたのか、お前は」
「む。アルテアさんです……」
こつんと頭を手の甲で叩かれ、ネアは、じっとりと凝視していた、イーザの後ろからちょこんと覗いているリーロの尻尾からようやく視線を外した。
ディノは尻尾への執着が強すぎるご主人様の羽織ものになって何とか荒ぶる人間を鎮めており、エーダリア達が夏至祭の儀式の仕上げに取りかかる為に、ネア達は一度、花輪の塔の側から離れていた。
広場には、最後の詠唱が響いている。
ヒルドがこちらに来たので、入れ替わりでノアがエーダリアの隣にいるようだ。
アルテアは、ネア達が参加者以外は入れない花輪の塔を離れたので合流してくれたらしい。
「増やそうとしたのは、本体ではなく尻尾なのです」
「精霊の王族のだな」
「ふかふか尻尾……………。いささかもふり具合が足りませんが、白けものさんに会いたいです。狐さんはすっかり夏毛になってしまいましたし…………。は!ち、ちびふわの尻尾ならば!」
「ネアが尻尾に浮気する……………」
「それは後にしろ。ダンスが終わったなら、中に戻るぞ。お前を外に出しておくと、どうせどこかで事故るだけなんだろ」
「もちうさで、毛皮キノコなアルテアさんは……………」
「やめろ」
しかし、渋面で自分は事故になど遭っていないという澄ました目をしてみせた魔物は、帰り道に見事に事故ってしまったようだ。
イーザとの後処理で残っているヒルドを残し、儀式納めなエーダリアとノアも合流しての帰り道に、一緒に歩いていたネア達から少し離れたその隙に、アルテアはモキュモキュ鳴いている二足歩行な狸たちに囲まれてしまったのである。
「ほわ、アルテアさんが囲まれました…………」
「踊り狂いの精霊だね…………」
「魔物でも、標的にされてしまうものなのだな………」
「わーお。アルテアは踊るのかなぁ」
踊り狂いの精霊はとても邪悪な狸で、二足歩行の愛くるしい狸姿で両手を擦り合わせながら現れ、獲物を踊りの輪に引き摺り込む。
一度踊りの輪に引き込まれると、踊りで勝つまではその輪から抜けられなくなり、夜明けまでには憑り殺されてしまうのだと言われていた。
そんな恐ろしい精霊に囲まれてしまうなんてとネア達が固唾を飲んで見守る中、アルテアはどこからともなく取り出した白いステッキで地面をこつんと叩いた。
すると、狸たちはきゃっとなって慌てて逃げてゆくではないか。
しかし、恐ろしいことに彼等は、ネア達の方に向かって来るようだ。
踊り狂いの精霊の接近に慄いていたネアだったが、そんなネア達の前に、一人のよろよろしたご老体が立ち塞がった。
「ハツ爺さんだ!!」
「おお、ハツ爺さんじゃないか!」
どこからともなく声が上がり、近くにいた領民達がわぁっと盛り上がり始めた。
ご老体は、エーダリアの方を見て小粋に会釈をしてみせると、自分を取り囲んだ踊り狂いの精霊達と、激しいダンスバトルを開始する。
昨年、ヒルドすら呆然とさせた素晴らしい踊りは今年も変わらず、つむじ風のようなステップが目にも留まらぬ早さで繰り広げられる。
「………………何だあの人間は…………」
踊りを回避して戻ってきたアルテアは、人間離れした踊りを披露するハツ爺さんの姿に唖然とした様子だ。
「あの方は、昨年も踊り狂いの精霊さん達に勝ってしまったのですよ」
「彼はウィームでは有名でな。ここ三十年は負けなしだ。あの踊り狂いの精霊との勝負で生計を立てていて、夏至祭の夜に一年分の稼ぎを得るのだそうだ」
「………………わーお。もう一匹負かしたぞ……………」
「あの精霊は魔物も憑り殺すんだぞ…………」
「………………飛んだ」
「まぁ!素晴らしいジャンプも織り交ぜて、何て凄い踊りなんでしょう」
夏至祭には、このハツ爺さんの勇姿を見る為だけにウィームを訪れる観光客もいるようだ。
ハツ爺さんは、業界では踊りの聖人と崇められているそうで、大盛り上がりでその姿を見守る一団もいた。
その中にはやっとハツ爺さんの踊りを見ることが出来たと、涙を流している青年達もおり、彼等は自分達もあのようになりたいと、目を輝かせて対戦を見守っている。
やがて、踊り負けた狸たちは、ぽこんぽこんと財宝の山になってしまい、ハツ爺さんは無事に今年の夏至祭の目標を達成したようだ。
横に置いてあった台車にその財宝を積み込むハツ爺さんには、惜しみない拍手が送られる。
大盛り上がりの領民達の中で、ネアも笑顔で踊りの聖人に拍手を送った。
来年の夏至祭まで、ハツ爺さんは踊りの技術を磨きながら、飲んだくれて一年を過ごすそうだ。
鬼気迫る勝負を見届けた魔物達が若干よろよろしているので、高位の魔物の目から見ても凄い才能なのだろう。
「ちょっとだけ、踊りの勝負をするアルテアさんも見てみたかったですね」
「やめろ…………」
「ウィームには凄い人間がいるなぁ。僕、ああいう踊りは出来ないよ」
「私も初めて目撃した時には驚いた。あの技術が衰えるどころか、年々技術を磨いているのが凄いのだ」
「ディノは、もしあの狸さんに囲まれたら踊れますか?」
「ご主人様…………」
悲しげに項垂れた魔物を羽織りながら、ネアはみんなでリーエンベルクの正門に向かう。
広場や森の方はまだ賑わっており、不思議で美しい妖精達の音楽が聞こえてくる。
楽しそうな喧騒を背に、ネアは夏至祭の晩餐をいただくべく、夏茜のスープに思いを巡らせた。
今年も、ダンスを踊りきって夏至祭を無事に乗り切れたことを感謝しよう。
そんな安堵と喜びに魔物の方を見ると、ディノは二人の間に繋がった細い鎖を嬉しそうに持ち上げた。
来年は踊らないので、この手枷の運用が今年だけで終わるのは幸いである。
ネアは、心からそう思い、ちゃりちゃりと揺れる鎖はあまり見ないことにした。
ふっと、引き摺るような白く長い髪が視界の端に揺れる。
「もうすぐお前は、見知らぬ土地へ旅に出ることになるだろう。その旅路には、お前を守護するべき者達の姿はない」
そんな囁きにネアは慌てて振り返ったが、そこにはもう誰の姿もなかった。
ここに在るべきではない何かという違和感に、靴の中に入った砂粒のようなざりりっとした不快感がある。
視界の端に揺れた影は、赤い目をしていたような気がしたが、気のせいだったのだろうか。
何かを囁かれたような気もしたのだが、その囁きは雑踏に紛れ、音としてネアの耳に届く前に崩れていってしまう。
夜には夏至祭らしい騒ぎが勃発したので、すぐにその時の違和感は曖昧になってしまった。