283. 早めの予防が一番です(本編)
悲しげに見上げるネアにこくりと頷くと、ディノはアルテアの方を見る。
ノアは既に、アルテアの手元をじっと凝視していた。
「うーん、手のあたりに侵食が顕著かな。今は黄昏だけだけど、夜の領域まで侵食が進むとまずそうだよね………」
「アルテア、シーの呪いだね?」
「…………っていうか、アルテアらしくないなぁ。何でまた正面からぶつかったんだい?」
「………夏至祭の約定だ。これで片付けるのが一番だからな」
アルテアがそう言えば、魔物達はああそれかと頷き、ネアは首を傾げた。
ディノはその隙に、ネアの頬に自分の頬を当てて何かを確認したものか、リツセラから何もされていないねと安堵の息を吐いていた。
「夏至祭の約定………ですか?」
「雪喰い鳥の試練みたいなものだ。異種族間の異性であれば、一度呪いを受けて、それを克服出来れば今後は一切、本人やそいつが残したものにも手出しをされることなく済む」
それは、異種族間の恋が育まれる夏至祭だからこその約定なのだそうだ。
結んだものが壊れた場合、それを切り離す為の仕組みもあるらしい。
「と言うことは、アルテアさんはあえてその方の呪いを受けたのですね?」
「本来ならあの女は、土地の誓約に縛られてウィームには来られない筈だったんだがな。寿命が近くなって手段を選ばなくなったらしい。今回のあわいの波で、こちらに押し流す波を利用してわざと巻き込まれてみたんだろう。それを、さっさと排除する必要があった。………それと、金色毛玉の祝福ってのは何だ。またお前は増やしたのか」
「…………アルテアさんは、その方をウィームから追い出してくれたのですね?」
「シーの呪いだから、死んだんじゃないかなぁ」
「まぁ、………他の問題が絡まなければゆっくりお話出来たかもしれませんね…………」
ネアは、足手纏いになるものがあることで排除を優先するしかなく、その結果失われたものがあるのではとしょんぼりしてそう呟いたが、すかさず言葉を挟んだのはノアだった。
「ありゃ、言っておくけど、最初にリンシャールの弟達を煙草にしたのはアルテアだからね」
「なぬ…………」
「まぁ、僕もその手の振る舞いは最悪だからさ、人のことは言えないけどね。自分の恋人の弟達を興味本位に煙草にして、取り縋ってきて泣いてるあの子の前でこの煙草はいまいちだなって言ったんでしょ、アルテア」
「言うだろ。吸えたもんじゃなかったぞ」
ネアはここで、ふいっと心配顔を真顔に戻した。
そんな事があればその黄昏のシーが荒ぶるのは当たり前だし、多少の報復は致し方ない。
「自業自得でした。本来であればその方の心を癒すべくせめて半月程は放置してみてからその呪いを解くべきなのですが、今夜のダンスを一緒に踊る予定なので、渋々手を打ちますね…………」
「…………まて、色々おかしいからな」
「私はとても身勝手な人間なので、自分の利益の為なら知らない人の都合はぽいなのです」
「いや、何でお前がシーの呪いを解ける前提なんだ」
「あら、アルテアさんは三つの麦の祝福をご存知ないのですか?」
「……………は?」
ネアがさらりと出した言葉に、アルテアは目を瞠って絶句した。
ディノはどこか困ったように首を傾げたが、小さく息を吐くと、こつんとネアに額を寄せた。
「………君に残しておきたいものだけれど、アルテアは君の使い魔だし、君は今夜のダンスで、彼が失われないようにしたいのだろう?」
「はい。こちらの使い魔さんは時折森に帰りたい衝動に駆られて、最近もザルツの伯爵さんと悪巧みしていましたので、荒ぶっても逃げないようにしっかりしつけないといけません!」
「…………ハーシェッドのことなら、俺は巻き込まれただけだぞ。ゼノーシュかほこりに何か聞いたな?」
こちらが知らないと油断したのか、なあなあにしようとした悪い使い魔に、ネアは邪悪な人間らしい微笑みを浮かべた。
この切り札はどこかに取っておいても良かったのだが、ひとまずハーシェッドの方は叱られて落ち着いたようなので、この辺りで明かしておいてもいいだろう。
「芽吹きの祝福で、アルテアさんがハーシェッドさんとお話しているのを聞いておりました」
「……………は?」
「悪い魔物さんです。芽吹きの祝福を持っているのが私だと知りながら、ハーシェッドさんの餌食にして、高みの見物をしようとしていました…………」
勿論、そうではなかったのだとネアはゼノーシュから話を聞いて知っているのだが、知らんぷりをして悲しげに睫毛を震わせてみた。
すると、とんだ誤解に焦ったのか、アルテアは狡猾な人間に手を伸ばそうとしてしまってから、自分の指先を煩わしそうに握り込む。
そんな姿に微かに胸が痛み、ネアは小さな溜め息を吐いて、理不尽に家族を奪われた人の痛みに背を向けてしまうことに心の中で小さく謝罪した。
(ご家族を煙草にされてしまうなんて………)
喪うというその痛みは、ネアも知っている痛みだ。
けれど、魔物というものはそのようなものなのだろうし、その女性はネアの知らない、ネアにとっては鮮明ではない見知らぬ誰か。
そこまでを思い悩むよりは、自分の手の届く範囲の者を守ることにしよう。
「妖精さんの呪いから解き放って差し上げるので、夜のダンスの前に髪の毛を素敵に結い直して下さい。それと、その祝福はノアが頑張ったから手に入ったものなので、ノアにもちゃんとお礼をして下さいね」
ネアがふんすと胸を張ってそう言えば、なぜかアルテアは少しだけ考え込む様子を見せた。
はらりとこぼれた前髪は、丁寧に後ろに撫で付けてあったのだが、色々あって崩れたのだろう。
そんなところが、妙に無防備で弱っているように見えてしまう。
「………それはお前の手元に残しておけ。俺が聞いた限り、その祝福を得たのはお前を含めて三人くらいのものだ。お前の事故率の高さを考えろ」
「…………なぬ」
それだけ珍しいものだと聞いてしまうと少し惜しくもなったが、とは言え後で後悔するくらいなら使っておこう。
(収穫というよりは幸運で貰えたようなものだから、ばっと使ってしまってもいいような気がするもの。ヒルドさんの一族の方を取り戻すのには使えないそうだから、アルテアさんで一つ、それから、考えているところで一つ使って、残りの一つだけ残しておこう…………)
実は、ヒルドに使えないと分かったことで、ネアはとあることにこの祝福を使おうと思っていた。
あの妖精は、三つの麦の祝福は派生を助けると話していた。
勿論、妖精のことがよく分かるダリルにこっそり相談してからなのだが、派生した雪の妖精の育成か、ダリルの書庫に司書妖精の派生をお願いしてみたいと考えている。
(ノア曰く、既に派生している妖精さんの成長は難しいかもということだから、やっぱりダリルさんの方かしら………)
そこには、かつてレーヌの手の者に殺されてしまった、ダリルの恋人がいたのだそうだ。
その後ダリルは、司書妖精を決して外部から雇わず、自分の書庫からの派生をずっと待ってるのだとか。
呪いを解くことに使い、一つを自分の為に残すのならば、せめて一つくらいは喜びとして得られるものがあればいいなと、ネアは思う。
(本当は、ヒルドさんの一族を取り戻すのに使えたら良かったのにな…………)
それが残念でならないが、ヒルドの故郷の森の、ヒルドの一族が派生した土地は徹底的に破壊されてしまっている。
また、以前に妖精の国に下りた際に調べたのだが、そちらで遠い昔にヒルドの一族の祖が派生した森も、もう千年も前に失われていた。
ヒルドの祖国の有様は、復讐を恐れ、その一族の復興を許さなかった森の精霊王の処遇だった。
それさえなければと悔しい思いだけれど、森は生き物だ。
失われてしまったものを、同じものとして取り戻すことは叶わない。
そうなるともう、どこからも派生の条件が失われてしまい、ヒルドの一族は属性が複数要素のある特殊なものだということもあり、同種の妖精の派生は叶わないのだった。
ネアがその無念さについて考えている間に、魔物達は何やら視線で難しい会話をしていたようだ。
ネアは、ディノがひたりと静かで鋭い一瞥をリツセラに向けたことに気付き、控えめに三つ編みを引っ張ってみる。
「………ああ、ごめんね。帰ろうか」
「ディノ、このリツセラさんとはどのようなご関係なのでしょうか?」
「ご主人様…………」
「私は、ディノを下さいと言われてすげなくお断りしてしまったのですが、もしかしたら、私の知らない秘密の恋人さんだったりするのでしょうか?」
ネアがそう尋ねると、ディノは水紺色の瞳を瞠り、呆然としたままふるふると首を横に振った。
「母親のユニシラと、その母親を知っていたくらいかな。リツセラに直接会ったのは、まだこの妖精が小さな鳥だった頃だよ」
「…………ほわ、小鳥さん」
「黎明の妖精は、鳥として派生するんだよ。この形になってからは会ったことはないし、小鳥の頃も喋れないから会話をしたことはないと思うよ。ただ、………先程、リーエンベルクに私を訪ねて来た妖精がいただろう?あの妖精がユニシラなのだけど、リツセラがサムフェルで私を見て気に入ったようだと教えに来たんだ」
「まぁ、…………サムフェルで?」
困惑したようにそう教えてくれたディノが、先程、リツセラの母親だという妖精が、リーエンベルクにディノを訪ねてきた理由を教えてくれた。
そんなディノの説明では足りないと思ったのか、ノアがそこに言葉を足してくれる。
「正確には、自分の娘がもう一度シルを見たいと駄々を捏ねたから、仲間達とウィームの夏至祭に来たらその娘が失踪した。娘の性格だと騒ぎを起こす可能性があるから気を付けて欲しいってね」
「……………むぐ。それで私は、リツセラさんに捕獲されたのですね…………」
「………ネア、リツセラに何か言われたのかい?」
「自分の方がディノに相応しいと言われて、心の狭い人間はむしゃくしゃし、私より腰が細い妖精さんの綺麗さにまたむしゃくしゃし、ディノは渡さないと言っておきました」
「ご主人様!」
渡さないと言ってくれたご主人様に、ディノはぱっと目を輝かせると嬉しそうに目元を染めた。
もじもじしてから、また勝手にこつんと額をぶつける頭突きを忍ばせ、はしゃいだようにしっかりとネアを抱え直す。
ネアはその隙に、すいっと身を翻そうとして、なぜか足元を嫌そうに見たアルテアに気付いた。
立ち去ろうとしたのだが、どうやら転移が出来ないようだ。
(もしかして、体調が悪いのかしら………)
「…………それと、アルテアさんが脱走しそうなので、捕まえて下さい」
「大丈夫だよ。逃げないように繋いであるから。転移が出来ないようにしてあるよ」
「うむ!」
「おい、これを解け。シーの呪いが厄介なのはお前も知ってるだろうが。そいつの可動域は、六しかないんだぞ。近付けさせるな」
「むぐる!心配をしたご主人様に、なんたる暴言でしょう!!」
ネアは可動域を貶されてとても頭にきたので、荒ぶるままにアルテアを睨みつけた。
ところが、アルテアからは反省をするどころか冷ややかに見返されたので、これはもうと、強行手段を取る運びとなる。
「三つの麦さん、まずはアルテアさんにかけられた黄昏のシーさんの呪いを解いて下さい!!」
荒ぶるままにそう声を張れば、気付いたアルテアが咄嗟に制止の声を上げようとしたのを、すかさず手を伸ばしたノアが、むぐっと口を塞いでしまった。
ぱりんと、何処かで小さなものが割れる音がして、アルテアの手のあたりが綺麗な金色の光に包まれた。
そんな自分の手を見て、アルテアは苛立ったように低く呻く。
まるで絶望するかのように声を上げたアルテアに、ノアが肩を竦めてみせる。
「馬鹿かお前は!無駄に使うなと言っただろうが」
ノアが手を離すと、開口一番、アルテアはネアを叱りつけるではないか。
もしネアが冷静だったら、あまりにも低い声音に少しぎくりとしたかもしれない。
しかし、残念ながら心の狭い人間は絶賛可動域を貶されたことを根に持っている最中なので、そんなアルテアからぷいっと顔を背けてやった。
「アルテア、この子は君を案じていたんだよ」
「お前も、ろくでもない使い方を簡単に許すな。シーの呪いを受ける可能性は、これからもあるんだぞ?」
「君を使い魔にした以上、リンシャールの問題はいつかこの子にも波及した可能性がある。それをここで処理したに過ぎないのだとは、考えられないのかな?」
ディノの声は穏やかだ。
王らしい、静謐で無色の声をネアは美しいと思う。
こんな時にふと、ディノはアルテアよりも永きを生きた魔物なのだと、あらためて実感するのだ。
「…………ひと月もあれば、こちらで手を打てたものだ。横着をして貴重な祝福を削っただけだな」
「けれど、その目算が崩れることもある。君が、リーエンベルクの中でも私達に事情を話さずに今回のことを処理しようとしたのも、想定外を避ける為にだったのではないかい?君の固有領域に退避しなかったのも、自身が既に侵食されている可能性すら考えたからだろう。………妖精の侵食は同族間ですらなされていて、ふと気付けば思いがけないところまで根を伸ばしている。私の時も、思いがけないことは幾つもあったよ。だからこそ、早めに手を打った方がいい。………例えば、君が不在にしている間に、君にしか対処出来ない問題が起こることだってあるだろう」
夏至祭は、境界そのものが揺らぐあわいの日だ。
特に力を強めるのが妖精や精霊であり、その中でもあわいの系譜は、それ以外の日より遥かに多くのことを可能にしてしまう。
(そっか。アルテアさんが何も話さずにいたのは、リーエンベルク内の妖精さん達すら信用出来ずにいたからなのだわ………)
ディノの言葉のように同族間の侵食を警戒するのならば、遮蔽室に入るくらいしか手はないし、そうしたとしても遮蔽室に入ったという情報が漏れるかもしれない。
知られたくないことは、自分の頭の中から出さないのが一番なのだ。
「って言うかさ、今回のアルテアは自損事故な訳だから、ネアにあれこれ言う資格はないよね?寧ろ、巻き込むなって叩かれてもいいくらいだよ」
「……………うむ。殴ります!」
「…………は?」
「え…………?」
「ネア………?」
強張りかけた空気を壊す、ネアの唐突な暴力への傾倒に、魔物達は絶句する。
ネアはじたばたして魔物の乗り物からぽこんと飛び降りると、呆然とこちらを見ているアルテアにててっと駆け寄り、そのお腹をばすんと拳で攻撃した。
特に強くもない打撃を受けた腹部と、攻撃したネアを見下ろし、アルテアは目を瞬く。
「……………ネア?」
こうやって、アルテアがネアの名前を呼ぶのは珍しい。
冷ややかな苛立ちを払拭し、こちらを唖然として見下ろす瞳は綺麗な赤紫色で、先程感じた不自然な疲弊の翳りのようなものは、もうなかった。
だから密かにほっとしたのだと、ネアは微笑みかけてしまいそうな自分を律し、きりりと厳しい目をしてみせる。
「困った使い魔さんに罰を与えました。感謝の印として、夜のダンスの前に、洗われてしまった髪の毛をふわっと結い上げて下さいね。出来れば、可愛いくお花を編み込みたいです。時間がないので、さっさと帰りますよ!」
「ずるい。アルテアをお仕置きするなんて…………」
「ディノは、このような時にまでお仕置きに憧れるのは控えて欲しいのです………」
「…………アルテアなんて」
ディノは軽くではあるが、拳の洗礼を受けたアルテアがとても羨ましかったようだ。
悲しげにネアを追いかけてくると、後ろからへばりついてくる。
荒ぶる魔物を背負ったままネアがじっと見上げていると、アルテアは、そんなネアを静かに見下ろし、ぽつりと呟いた。
「……………馬鹿だな、お前は」
その声の静かさに映るのは、諦観と、呆れと、そして裏側に潜む苛立ちの残滓と。
きっと、アルテアにはアルテアなりの考えがあり、ネアがしたことを正しいとは思わないのだろう。
それでも、その声音を聞けば、彼が諦めたのがネアにも分かった。
「むぐる!!今の暴言で、トマトクリームソースのミートパイも加えます。今日追加された注文の数々を覚えていて下さいね」
「……………ったく」
「それと、アルテアさんからの忠告を真摯に受け止められなくてごめんなさい。危ないことをするなという意味だと捉えていて、お外に出ることがいけないのだとは理解出来ていませんでした。………なのでそのお詫びとして、妖精さんに襲われて怖かったのなら、ちびふわになれば一緒に寝て差し上げますよ?」
「…………なるか」
わざとうんざりな渋い顔をしてみせたアルテアを見てふすんと息を吐くと、ネアはちらりとディノを振り返った。
「ご主人様…………?」
「ディノ、あの後ろで倒れている妖精さんは、きりんさんで滅ぼして埋めても…」
「ありゃ、何で殺す気満々なのかな………」
頑なにその提案をするネアにノアは慄いていたが、ディノは、そんなネアの様子に自分がいなかった時間に何があったのかと、不安になったようだ。
羽織りものを解除して、向き合ったネアの頬をそっと指の背で撫でると、気遣わしげに瞳を覗き込む。
「………君は、リツセラに傷付けられたのだね?」
「むぐる。ある程度は他の妖精さんにも言われた範囲なのです。ただし、ディノがあの細い腰を気に入ると困るので、滅ぼして埋めるか、たっぷりと太らせて解放するかの二択しかありません」
「…………ネア以外はいらないよ?」
「………腰がぎゅっと細い妖精の王女様でもですか………?」
「…………リツセラは好きじゃない」
「嘘を吐いていません?私の腰があんな形にならないことを、内心呆れていたりしませんか?」
「君が誰よりも可愛いし、君でなければ駄目なんだ。それに、黎明の妖精はあまり好ましくないかな…………。彼等はね、一方的であることも資質とする妖精なんだよ。側にいるととても疲れるし、言動にも不愉快なことが多いからね」
その瞬間、背後でぐはっと潰れたような声がした。
ばっと振り返ったネア達が見たのは、起き上がろうとしてまた潰れてしまったリツセラの姿だ。
心なしか、先ほどより深く地面にめり込んでいる。
「…………む。意識を取り戻した直後にまた儚くなりました」
「アルテア、戻り時の毒を使ったのではなかったのかい?」
「惚れた記憶がなくても、今の言葉で衝撃を受けたんだろ。余分なことを耳にしたかもしれないから、もう一度記憶を掃除しておくか………」
そう言われたディノは不思議そうだったが、ノアがどこか人の悪い顔でにんまりと微笑んだ。
「そりゃ、シルは万象だからね。万象に拒絶されることを好む生き物なんてあまりいないと思うよ。しかもほら、女の子だからさ」
「むむ、と言うか、小鳥さんの頃に会ったことは覚えているのでは?」
「黎明は好きじゃない…………」
「と言うことは、黄昏さんの方がいいのですか?」
「……………黄昏も好きじゃない」
意地悪な人間に過去を掘り起こされた魔物は涙目になってしまい、ぐりぐりと頭を擦り付けてくる。
「ディノ、髪の毛がくしゃくしゃになってしまいますよ?」
「君は私の婚約者なのだから、その指輪は外せないよ。今夜には、もう一度一緒に踊るのだろう?」
「婚約破棄をしたりはしませんよ?………あらあら、困りましたねぇ。…………ノア、ディノがしょぼくれました」
「ほら、ネアが虐めたからだよ。レーヌはね、シルが、自分にも嫌悪感ってものがあるのかなって試しただけだから、気にしなくていいよ」
「そんなお付き合いの理由もどうかと思いますが、今の質問は、好きな女性の傾向があるのかなと思ってのことだったのです。なので、ディノはちょっと落ち着いて下さい」
「ネアが虐待する……………」
「まったくもう。ほら、爪先を踏んであげますからね」
「ご主人様……………」
めそめそしているディノを羽織り、髪を少しだけ乱したアルテアと、あの合体壁の精霊を滅ぼした後からは一人変わらずに朗らかなノアとでリーエンベルクに戻ると、ネア達を探していたらしいヒルドが駆け寄ってきた。
となると色々と報告しなければということで、ひとまずネア達は気象性の悪夢用の遮蔽部屋に入ることになる。
(こういうところも、夏至祭の大変さなんだな…………)
アルテアも気にしていたことだが、リーエンベルクの内部には一定数の無害な生き物達の受け入れがある。
彼等は土地の誓約でこちらに悪さをしないのだが、とは言え夏至祭ともなると、そんな無害な生き物たち用の隙間から、普段はいないようなものが入り込むことがある。
魔物達は、そんな生き物達の目や耳も警戒するようだ。
「ネア様、ご無事でしたか………」
まずはそう案じてくれたヒルドに、ネアは微笑んでこくりと頷いた。
ディノを訪ねた黎明のシーのことは騎士から聞いたようで、気になって探したネア達がいなかったので、とても心配してくれたようだ。
「ありゃ。僕が、ちょっと出かけるよって連絡したのに」
「あなたは、それだけを言って連絡を切ってしまったでしょう?」
「ごめんなさい…………」
どうやらノアは、大事なことを伝え忘れていたようだ。
叱られてしゅんとしたが、遅れて部屋に入ってきたエーダリアを見付けると、すすっとその隣に避難する魔物らしいしたたかさを見せる。
エーダリアは、夏至祭に領主として参加する為の華やかな装いではなく、少し寛いだ服装になっていた。
ネアはその服装を見て、貴重な休憩時間を削らせてしまったと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「何があったのだ?」
もし問題が大きいものだと、説明を分けることで後手に回る可能性がある。
そう思ったエーダリアは、わざわざ休憩時間にここに駆けつけてくれたらしい。
ネアはまず、そんなエーダリアと、心配してくれたヒルドにお礼を言った。
「ご心配をおかけしてごめんなさい。まず最初にご説明すると、問題は恐らくもう解決されましたので、ご報告だけしますね」
「…………それを聞いてほっとしました」
「ああ、安心した。損なったものなどはないのだな?」
「はい。………順を追ってご説明すると、まずはノアが合体壁の精霊さんに付きまとわれ、その精霊さんを滅ぼしたところ、その精霊さんに悩まされていた金小麦の妖精さんから、三つの麦の祝福を貰いました!」
「三つの麦の祝福をですか………?」
「三つの麦の祝福をか………」
だいぶ最初のところで、ヒルドは目を瞠って固まってしまい、エーダリアは遠い目をしている。
「そして、暴走する系の黎明のシーさんに捕まり、その方は、アルテアさんの戻り時の妖精さんの毒でここ数年分の記憶を失い先程ディノとノアから黎明のシーさん達に返却されました」
「ま、待て…………黎明のシーはそんなにいたのか?!」
「うん。団体で来てるみたいだよ。十九人だっけ?」
「一人はヒルドが壊してしまったから、十八人かな…………」
エーダリアはそこで頭を抱えたが、一足先に落ち着いたヒルドが続きを促してくれた。
「なぜ黎明のシーに、ネア様が捕まるようなことになったのでしょう?」
「黄昏のシーさんから守ろうとして、アルテアさんがそちらに私を預けたのです。そんなアルテアさんは、夏至祭の約定とやらを使う為にあえて黄昏のシーさんの呪いを受けてしまっていましたので、その呪いは三つの麦の祝福でぽいしました」
「…………おや、わざわざネア様を黎明のシーに?」
「で、でも、アルテアさんは手が黒っぽくなってしまう大惨事でしたが、私はリツセラさんに灰色だと貶されたくらいで済んだのですよ?」
「しかし、その妖精は、一族に戻されてしまったのでしたよね?こちらに引き渡していただければ、後腐れなく処理させていただいたのですが…………」
「ヒルド…………」
そこで怖い微笑みになってしまったヒルドに、ネアは慌ててそうしなければならなかった理由を拙い言葉で説明した。
このような時、アルテアは自分への疑いを晴らす為だろうが、あまり多くを語りたがらないのだ。
「シルはさ、母親の方を警戒してたみたいなんだ。ネアをそっちに会わせないようにしてたんだけど、まさか娘が来るとはなぁ………」
「そう言えば、ディノはリツセラさんのお母さまやお祖母様とお知り合いなのですよね?」
「…………黎明は好きじゃない」
「隠して拗れるとあれだから僕から話すけど、祖母の方はシルに求婚して断られてたよ。母親の方は、ネアみたいな女の子が好きなんだ」
「……………む?」
「可動域の低い人間の女の子が大好きで、妖精に作り変えてたくさん集めてるからさ、それでシルは警戒したんだよ」
「ほわ……………」
「そう言えば、可動域の低い子供は黎明の城に呼ばれるという話が、ガーウィンの外れの方に伝わっていたな………」
黎明のシーの一人の思いがけない趣味が発覚し、ネアとエーダリアは複雑な思いで顔を見合わせた。
とは言え、黎明の系譜の妖精達は他のシーとの契約のある者は奪えないという約束を持つ種族なのだそうだ。
ヒルドがふわりと微笑んで、私の耳飾りがあるので安心ですよと言ってくれたので、ネアはちょっと苦手な雰囲気の妖精に攫われないと知ってほっとした。
「……………では、もし引き続き黎明の妖精達に懸念があるようでしたら、イーザから時間の座の精霊王への伝言を頼んでおきましょうか」
「そう言えば、あわいは真夜中の時間の座が統括だったっけ?」
「ええ。イーザの知り合いに、真夜中の座の精霊王がおりますからね。彼経由で黎明の女王を動かせば、黎明の妖精達は従わざるを得ません」
黎明については妖精もとても高位ではあるものの、黎明の系譜の全てを庇護する精霊が、圧倒的に強いのだそうだ。
黎明の女王であるその精霊王に、他の種族の黎明達がそこに仕えるという形を取っているので、女王の言葉にはみな大人しく従う。
ある意味、終焉の系譜におけるウィリアムのようなものらしい。
「…………とても助かることですが、ご負担をおかけしないでしょうか?」
「問題ないでしょう。真夜中の時間の座の君は、ネア様には好意的なようですからね」
「……………む?」
「ああ、お前の会にそんな奴がいたな」
「か、かいなどありません!!」
ネアは恐ろしい言葉が聞こえた気がすると、慌てて首を振った。
そんなものはこの世に存在しない筈だし、ましてや、雪の魔物だけでなく真夜中の座の精霊王までいる筈がない。
イーザの知り合いがそんな危険思想を持っているだなんて、あの優しい霧雨のシーが知ったら驚いてしまうではないか。
「ひとまず、無事に解決したようで良かった。………だが、ウィームにその黄昏のシーが入り込んでいたことを知らなかったのが、ひやりとするな。呪いを残す終わり方は良いことではないが、被害を出さずにいてくれて何よりだ」
「リンシャールは寿命が近かった。同族の妖精達ですら、気配を辿るのは難しかっただろうな。…………それで?どんな髪型にするんだ?」
面倒そうにこちらを見たアルテアに、ネアは期待に弾んで、正午のダンスで見た少女のように、髪の毛にお花を編み込むのだと興奮して説明した。
エーダリアとヒルドには、残った三つの麦の祝福の使い道について相談したところ、やはり雪の妖精の育成には使えないのだそうだ。
「と言うかな、雪の妖精達の派生を助けたのも、その三つの麦の祝福なのだ。ヒルドの一族についても、その時に同種族の派生は難しいと分かり断念している」
「まぁ。そうだったのですね…………」
その時にはまだ、ダリルの恋人だった司書妖精は存命だったらしい。
そんな会話をしていたら、魔物達がなぜか、若干引いたような目でこちらを見るではないか。
「どうしたのだ?」
「エーダリア、ってことは、リーエンベルクの誰かが三つの麦の祝福を持ってたってことだよね?!」
「ああ。グラストだ。道に倒れていた金小麦の妖精王を拾って介抱したことがあったようで…」
「うわぁ、ウィームってえげつないなぁ……」
「ノアベルト…………?」
殆ど報告のない三つの麦の祝福を得た人物があまりにも近くにもう一人いたと知り、魔物達はとても困惑したようだ。
グラストの時が二百年ぶりだったということなので、近年になって、金小麦の妖精に他者を頼るような不幸が続いたのか、祝福を与える頻度が上がったのかもしれない。
(でも、そのくらいのことで貰える祝福なら、もう一回貰えたらいいな…………)
それを知り、邪悪な人間は金小麦の妖精を迫害してから祝福を毟り取る悪事を企みかけてしまったが、美味しいパンが食べられなくなったら一大事なので、渋々諦めることにした。