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282. その違いには敏感です(本編)




(この人は、誰なのだろう)



ネアは自分を抱き締めて笑っている妖精を、困惑しながら振り返った。


美しい妖精だ。

夏の強い日差しがぎらりと差し込むように、凄烈な黄金の色彩を震わせて笑う。


黄金の欠片のような瞳に、ばさりと長い金色の睫毛。

腰までの巻き髪は、その曲線の描かれ方すら溜め息がこぼれそうな程に美しい。

触れてみたらきっと、弾むようなウェーブの手触りは素晴らしいだろう。

でもなぜか、もしそんな風に触れたら、手が焼け落ちてしまいそうな、人の理を外れた生き物であるという気がするのだ。



「…………私の婚約者を、でしょうか」


おずおずとそう問い返したネアに、妖精は朗らかに微笑む。


「そうよ。万象の君のこと。お前には相応しくないし、私なら相応しいから私にちょうだい」



とんでもないことを言われているとは分かっていた。

それなのに、そうかもしれないと思わせる不思議な強さと正しさがあり、ネアはその眩しさに慄きながら、これがこの生き物の固有の魔術なのかもしれないと考えた。



(よく分からないけれど、反論したり抵抗したりするのが煩わしくなるような、不思議な圧迫感がある…………)


目が痛くて開けないとき、目を開いて何が起きているのかを確かめなくてはいけないのに、もういいやと諦めてしまうような。

すぐに起きなくてはいけないのに、酷く怠くて体を起こせないような。



(でも、………)



でも、と心が揺れる。

だからと言って投げ出してしまえるようなものではなく、この程度で挫ける程に素直な人間でもないのだ。



(それに私は、このひとの持つ何かが、とても苦手だ………)



それは、殆ど反射的に思ったことだ。

力に溢れていて眩く、何もかもが正しいようで無邪気に笑う。


明るい夏の日差しのようなその眼差しは、決して清廉ではないネアがとても不得手としている真っさらな美しさだった。

そうして、そう思ってしまった微かな居心地の悪さのようなものが、ネアに、その問いかけに反論するだけの力を戻してくれたような気がする。



「その申し出は受けられません。ディノは私の魔物ですし、私の婚約者なのです」



まだ、この美しい妖精に後ろから羽交い締めにされたままなので、正直にそう答えてしまうのには少しだけ勇気が必要だった。

とは言え、喉元に手をかけられたり、危害を加えられたりする気配もないので、ただ逃げられないように捕まえられているだけなのかもしれない。



(……………そうだ。ヴェルリアの海で見た、海のシーと似ているんだ………)



かつて、海の精霊王の神殿に行くのに、力を借りた海のシーがいた。

美しい人型の生き物だが、どこか人間とは違う異形の生き物に思えてしまったのだと後にヒルドに話したところ、妖精の中には、そのような特性を持つ一族が一定数いるのだそうだ。

妖精達の中でもそのような一族とは交流が難しいらしく、海のシーもその一つなのだと教えて貰った。


(だとすると、この獰猛な気配も、そのようなものかもしれない…………)



不安や混乱にざわざわしていた心が、自分なりに腑に落ちる答えが導き出せてようやく、すとんと落ち着いた。

そこでやっと、周囲を見回す余裕が出来る。



周囲には、ネア達の他には誰もいないようだ。



(……………湖の畔のようだけれど、ここは、実際のどこかなのだろうか………)



薄暗く、それでいて奇妙な明るさに包まれた場所に、ネアは立っているらしい。

羽交い絞めにされているのであまり良く見えないが、恐らく左手に広がるのは湖で、右手には深い森のようなものが見える。

どんよりと曇った日の夜明け前のような色彩に、ネアを捕らえた妖精の金色はさぞかし華やかなのだろう。


少し苦手な雰囲気の妖精だが、この女性がとびきり美しい妖精なのは確かなので、こんな風に背後にへばりつかれずにじっくりと正面から見てみたいなと少しだけ考える。

ふつりと姿を消すのを見たのだが、アルテアは本当にいなくなってしまったようだ。



(どうして突然、こんなことになったのだろう…………)


最後に彼は何と言ったのだろうか。

あまりにも唐突にどすんと突き飛ばされたのと、人見知りめな人間が突然見知らぬ美女に抱き締められたことへの驚きや動揺が勝ってしまい、言われた言葉の一部が、きちんと聞き取れなかった。


片手でぐいっと突かれた場所に受けた衝撃を思い出すと、去年の夏のことをぼんやり思い出す。

勿論、あの時は攻撃の一環として蹴られたのだから、突き飛ばされただけの今日は、それ程に乱暴ではなかった。



(でも、私はこうして見ず知らずの妖精さんの手の中にいて、ここには頼りになるひとは誰もいないのだわ)



なぜだろう。

なぜここで、どうしてなのだろう。


そう考える部分の心は決して大混乱という程ではなく、寧ろ冷静にその場面の記憶を引っ張り出し、ネアは一つずつ丁寧にめくり直す。


今回の仕打ちは少し驚いたけれど、理由が分からないのでまだ怒りは感じていない。

少し魔物らしいことがしたいという揺り戻しにせよ、何か不快なことがあって荒ぶったにせよ、ネアはもう、あの魔物を使い魔にすると決めたのだから。


だから今は、なぜなのかをこそ、正確に理解するべきなのだと思う。




「まぁ、どうして?」


そこでようやく、ネアの返答が思いがけなかったようで、暫く固まっていた妖精が声を上げた。

思っていたより無垢な声音に、ネアはこれはどんな気質の妖精なのだろうと内心首を傾げる。

最初に受けた印象は高慢で冷やかなものだったのだが、どうもそれだけではないらしい。


「………私のものですし、とても大切で気に入っているので、手放したくないからです」

「あら、我が儘ねぇ。………小さな子供を甚振るのは嫌いだからあまり言いたくはないけれど、お前は弱いし、あまり美しくもないわ。あの方には不釣り合いよ?」

「かもしれません。けれど、そんな私を選んでくれたのもディノなのです。だから私は安心して、そんなディノを手放したくないと言えるのでしょう」



耳元で、ふうっと溜め息が聞こえた。

困った生き物だなと呆れられたようだが、この生き物の要求は乱暴過ぎると、その我が儘さに呆れてしまうのはネアの方でいい筈なのだ。


(それなのになぜか、ご要望に添えなくてごめんなさいと思ってしまうのが、ちょっと厄介な気がする…………)


万が一心に干渉するような魔術を使われると厄介なので、常に自分の言動に不自然なところがないか気を付けておこうと、ネアは頼りない自分に言い聞かせる。

魔物達が恐れていた妖精独自の侵食は、闇の妖精の時にその一端には触れた。

もしこの背後の妖精にもそのようなものがあるのだとしたら、何となくではあるのだが、光と影みたいに正反対のものという気がした。



しゃりんと、どこかで澄んだ音が聞こえる。

この音はリーエンベルクでも聞いたので、まったく別の場所に連れてこられたようでいて、案外まだあの近くにいるのかもしれない。

恨めしく空を睨んだが、だからといって助けが来る訳ではない。



(…………ディノを呼びたいのだけれど、会いに来たというあの妖精さんはもう大丈夫かしら。………それに、今、私の後ろにいる妖精さんとあの妖精さんは、髪の毛の色が良く似ている気がするのだけれど、何か関係があるのかな………)


まだ分らないことが多く、ディノを呼ぶべきかどうかも判断に迷うところがある。

シーの女性は愛した男を呪う事が出来るのだと、ネアはレーヌの事件で嫌と言う程に思い知らされた。


(さり気なく、会話の中でディノの名前を出して、その時に自分なりに呼びかけの響きを篭めてみたりするのはどうだろう…………)


他に妙案も思いつかなかったので、ネアはひとまずその方向で行くことにした。

幸い、夏至祭ということで警戒を強めており、きりんの備蓄は充分にある。

どうしようもなくなった時には、武力行使に出るしかない。



「………お前には分からないかもしれないけれど、あの方は、万象というものよ。万象は常に満ちていなければならないし、常に完璧でなければならないの。………確かに人間は細々していて面白いわ。無骨で必死で、並べて遊ぶには愉快だけれど、長く側に置くにはあまりにも脆くてみすぼらしい」

「…………それは、あなたの思うディノでしかありません。あなたはディノではないのですから、ディノがどうあるべきかは、ディノ自身が決めることなのだと、私は思います」



人間に対してどのような評価をしようと、それはこの妖精の考えだ。

そもそも種族が違うのだから、それはそれで構わないとネアは思う。

けれども、この妖精が思うディノの姿には、万象というものに望む身勝手な理想ばかりが透けて見えて、あの魔物の不器用な孤独さが置き去りにされているような気がした。



それが、堪らなく悲しくて、堪らなく腹立たしくて、胸がぐぐっと強張ってしまう。

冷静でいなければなのにと、心の底で悲しく呟いた。



(何度かディノの名前を連呼してみたけれど、来てくれる様子はなさそう…………)



それも悲しくて、ふすんと鼻を鳴らした。



「そうかもしれないけれど、あの方の考えることはだいたい分かるのよ。………私に似ているのだもの」



落ち込むネアの一方で、妖精は一度ネアから体を離し、くるりとネアを回すと、自分と向かい合わせた。

ぐりんと動かされたネアは驚いたが、こうして体を離してくれたことにほっとする。



(やっぱり、なんて綺麗な妖精なんだろう……………)



目の前に立っているのは、本物の黄金から金糸を紡いだような髪を持つ美しい女性で、ネアよりずっと背が高く、豊満な肢体は匂い立つような女性らしい魅力に溢れている。


甲冑とドレスの間のような装いは、金属を薄く薄く叩き伸ばして布のようにしたシャンパン色の不思議な素材だ。

ぐっと深くくれた胸元や、剥き出しの腹部に、同性のネアでもどぎまぎしてしまう。


特に、ぎゅっと括れた腰の細さにネアは羨ましさでいっぱいになり、世界の不平等さへの恨みを心の内で呟くしかなかった。


ネアがどれだけ腰肉を落とそうが、あの曲線の角度は、人外者くらいにしか実現出来まい。

そう考えると、あまりの残酷さにくらりと眩暈がした。




「私は、リツセラよ」

「…………リツセラさん」

「黎明を司るシーの一人。人間は黎明を好むと聞いていたのに、お前は私の名前を知らないのね…………。では、黎明の妖精を知っていて?」



(…………黎明の妖精さんというと、………さっきのダンスの時の?)



その時の個体とは別の妖精のようだが、であれば今日のウィームには、珍しい筈の黎明の妖精が少なくとも二人はいたことになるではないか。

ディノを尋ねてきたあの妖精も黎明の妖精だとしたら、案外団体さんでお越しいただいている可能性もある。



「いえ、存じ上げていませんでした。………………リツセラさんは、とても綺麗な妖精さんですね」



腰の及ばない人間の誇りにかけてつんと澄ましていたかったのだが、我慢出来ずにネアがそう言ってしまっても、リツセラは喜ぶでもなく、恥じ入るでもなく、まるでおはようとでも言われたようにそうねと頷いた。


「そうね。黎明ですもの。でも、黎明の妖精は男が強くて美しいのよ。たくさんのシーの殆どが男ばかり。私はね、黎明の時間の座を司る精霊王の騎士となる為に育てられた、数少ない王女なの」

「ということは、リツセラさんは、王女様で騎士さんなのですか?」

「ええ、黎明の姫に仕える騎士でもある。だからこそ、そんな私の中の戦士としての部分が、この状況を見過ごせずに万象の方の気紛れを諌めに来てしまったのかしら」



(…………あ、駄目だ戻ってしまった………)



ネアは密かに、何でもない会話をして時間を稼ごうとしていた。

何となくだが、この妖精は話は通じないけれど、対処のしようによっては悪いものにはならないのかもしれないと考え始めている。


その場合、交渉の為に必要になるかもしれないこのシーの情報を少しでも多く得ておきたかったのだが、名前が知れただけでも良しとするべきか。



「例えそれが気紛れだとしても、それを終わらせるかどうかを決めるのもやはり、ディノなのです。あなたは、どうして私にこのお話をしに来られたのですか?…………例えば、問答無用で滅ぼしてしまおうとするのであれば、私を探すのは分るのですが………」


ネアの返答に、リツセラは肩を竦めた。

金色の巻き毛が肩口から滑り落ち、豊かな胸の横でくりんと揺れる。

一目見て、シーだと分るくらいの美貌には圧倒されるばかりだ。

けれど、あまりにも眩くて陽光の気配が強すぎて、ネアのように、その美しさや気配を苦手だと感じる人は他にもいるような気がする。


(どちらかと言えば、私はヒルドさんや、ディートリンデさんにイーザさん、あのダイヤモンドダストの妖精さんの方が好きだなと思ってしまう。…………強いて言うなら、あまり良い関わり方をしなかったのだとしても、ユリウスさんの方が個人的には好きかもしれない………)



と言うことは、このような陽の気質のものを好む者にとっては、リツセラの魅力や力は抗い難いものになったりするのだろうか。



「でもあの方は、お前に指輪を贈ったのでしょう?それにお前は、歌乞いとしての誓約を振りかざして、あの方が自分のものだと言う。であれば、お前に諦めさせるのが一番だわ」

「…………確かにあの魔物は、私の大切な魔物ですので、私は身勝手にも私の魔物だと言い張ります。けれども、ディノの心はディノのものなのですから、あなたが望むようなことは、ディノ本人に言うべきなのかもしれませんね」

「……………もしかして、それでもあの方が自分を選ぶと思っているの?」



若干不憫そうに言われると、心の狭い人間はこの妖精を、うっかりきりんで滅ぼしたくなった。


しかし、荒ぶる自分を宥める為にも印象を整理すれば、こうして話してみる限りはリツセラには、悪意のようなものはないようなのだ。

こんな突撃は困ったことではあるのだが、会話が噛み合わないのは、価値観と常識があまりにも違うからなのだと思う。


(これは、人間が、自分の領域だと思う場所に住みついてしまった小さな獣に、そこから出て行きなさいと声をかけるようなものなのかしら………)


獣はなぜ指図されなければいけないのだとむしゃくしゃするが、リツセラは、こんなところに入り込んだ困った獣だなと、ただ呆れているのである。



「はい。今はそう思っています。そうでなければ、怖いことを嫌う私は、不誠実だったり、手に負えなかったりするものは困ると考え、この指輪をディノに返したでしょう。なので私はそう信じているのですが、これはあくまでも私だけの思いですので、ディノにだって勿論、これではなく、あちらの方がいいと言い出す可能性はあるのだろうなとも思うのです………」


ネアが暗い目で自分の腰をじっと見たからか、リツセラは微かにたじろいだ。

羨ましさいっぱいで、優美に括れた腰を凝視する人間は気持ち悪いのだろう。

けれども、ディノが自分を選ぶと思っていると答えたネアに対しては、高位の者らしい高慢さで困惑する様が見て取れた。



「………困ったわねぇ。自分を選ぶと思い込んでしまっているのね。………でも、お前にはあの方の考えていることなど、分かりはしないでしょう?人間に許された領域を外れて、不相応なところに入り込んでいることを自覚なさい。そして、あの方の守護という恩寵を得ることが出来たことに感謝をして、あの方の在り様を知らないのに、不必要に多くを望んでは駄目よ」



そこできっと、リツセラは言葉選びを間違えたのだろう。


知らないのにと言うのではなく、滔々と、例えば、自分とネアの女性としての魅力の違いについて比較すれば、腰の造形の違いで精神に過大なダメージを受けていたネアは、ぽきんと心が折れたかもしれなかった。

けれどもそう言う意味においては、この妖精はこの妖精なりに善良だったのかもしれない。



(………知るということは、そんな簡単で素晴らしいことではないのに…………)



ネアにだって、決して踏み込みたくもなく、知りたくもなかったことが沢山あるのだが、あの魔物と歩いてゆく為にぐっと踏み留まって、そんなたくさんの飲み込み難いものを飲み込んできた。


知らないから手放さないのではなく、知っているから手放さないのでもない。

そんな事にかかわらず、ただ手放さないと決めたのがあの魔物なのだと、どうしたら伝えられるだろう。



「万象は美しく魅力的な方だもの。表面的なものだけであれ、心を奪われてしまうには充分でしょう。理想的な契約の魔物、理想的な婚約者として執着するのは当然だわ」



その言葉を微笑んで聞き流せず、まだ未熟なネアが心を揺らしてしまうのは、リツセラが魅力的な女性の姿をしていて、ネアの大事な魔物を欲しがっているからだろうか。


むぐぐっと唇を噛み締めて押し黙ろうとしたのだが、胸が苦しくて息を吸い込んでしまい、ほろりと押し殺した筈の言葉がこぼれ落ちてしまう。



「…………あなたは、あの綺麗で稚い魔物が、心の中にどんな特殊な欲望を抱えているのかを知りません」

「……………特殊?」

「そもそも、私の理想の方は、安定してはいるもののあまり重要度の高くない地味な職業に就く、お顔も階級も中の下から中の中くらいのとても一般的な庶民の方なのです。心にゆとりのある穏やかな方で、笑うとお顔がくしゃっと太陽の下の干し草のようになる素朴な方が良く、狩りが上手で本が好きな方だと申し分がありません」

「まぁ、…………中の下でもいいのね」


リツセラに妙なところで驚かれてしまい、ネアは会話の到着点を一瞬見失って、重々しく頷いた。


「うむ。真面目でさえあれば、そのくらいの方の方が良いのです。国家の危機や世界の滅亡、はたまた悪の組織の陰謀とは無縁で済みますものね!」

「世界の滅亡はそうそう訪れないのではないかしら……………」

「ところがしかし、そんな危機とも無縁ではなく、おまけに縛られたり踏まれたい系の特殊な趣味を持つ魔物がディノなのです………」

「え……………?」


ネアが悲しい声でそう言うと、さすがにその趣味は想定していなかったのか、リツセラは目を丸くして絶句した。


「それでも、その大きな壁を乗り越えて、私はディノを大事に思うようになりました。踏まれたいとか言わない方がいいなという幼く無垢な理想を捨てて、やっと心を通わせた婚約者なのです。あれだけの苦労をして、やっと私の婚約者だと思えるようになったのですから、見ず知らずの方に、ではどうぞと差し上げることは出来ません」

「………それは、結局あの魔物の持つ恩恵が惜しいのではなくて?」


頑張ったつもりなのだがぴしゃりと言い返されたネアは、自分の言葉の拙さに、悲しい思いで小さく足踏みした。


理想ではないものだからこそ、ここまで育んだものを手放すことは出来ないのだ。

とても不思議な巡り合わせでぴたりと収まり、いつのまにかこれではなくてはと思えたものなので、他のものに替えられる筈がない。


「私が惜しいのは、あなたという見知らぬ方の思う恩恵というものではなく、ディノと一緒に、共にいることを育てた大事な婚約者というものなのです。やっと腰紐で縛って連れ歩けるようになり、やっと踏んだり叩いたり頭突きする度に、壁に頭を打ち付けて己の記憶を消してしまいたいという苦しみに苛まれることもなくなりました。そんなことが可能になったくらい、大事な大事な魔物になったのです。手放せる筈がないので、その申し出は、やはりお断りさせていただきます」



とても専門的な部分が、黎明のような清廉な系譜の妖精には難しかったのだろうか。

リツセラは、あの方がそんなと小さく呟いてから、はっとしたように首を振る。

けれどそれもディノの大切な部分なので、どうかなかったことにはしないで欲しい。



「…………そう。いい子に聞き分ければ、ちゃんと帰してあげようと思ったのに残念だわ」



ややあって、踏まれたい系の願望を持つという情報の処理は後回しにしたのか、リツセラはとても怖い顔で微笑んだ。


美しく艶やかだからこそ、リツセラの微笑みは冷たく感じられるのだろうが、どこか妖精らしい、したたるような酷薄さを滲ませて宣戦布告をされてしまうとなると、ネアとて婚約者の意地がある。



(こんなところで、見ず知らずの、それも腰がぎゅっとした妖精さんに負けてなるものか!)



「リツセラさん、…………事前にお断りしておきますが、あまりこの手の浮いた話に縁がなく、先程通りすがりのちびこい妖精さんから醜いやつめと虐められた人間は、たいへん心が荒んでおります。悲しく傷付いた心を抱え、私より腰の細い美人な妖精さんに婚約者をくれと言われれば、心中は穏やかではありません。…………私は心の弱い邪悪な人間なので、目撃者のいない内にそんな妖精さんは滅ぼしてしまうかもしれませんよ」

「お前は確かに、見栄えのしない小さな子供だわ。灰色で地味で美しくもない。でも、美しさなどは人間に望むべきものではないのだから、それは諦めなさい」

「む、むぐぅ……………」

「…………やはり、人間に、己の身に過ぎたるものを手放すように説得するのは難しかったわね。夏至祭の理と誓約に則って、あなたが手放すようにと持ちかけてあげた交渉だけど、やはり、その愚かな執着は壊してしまうしかないのかしら」

「……………灰色で地味で子供……………むぐぐ…………」


その言葉は、とても深く胸に刺さった。

ただでさえ子供だと断言されているのに、万が一可動域を知られたら、今度はどんなことを言われてしまうのだろうか。

たいへんに心がくさくさするので、ここはもう早々に滅ぼしてその辺りに埋めておこう。



(………………あ、)



身勝手な人間が、己の心の平安の為に、黎明の妖精を滅ぼす覚悟を決めた時だった。



ふわりとリツセラの背後に立った魔物の姿に、ネアは微かに目を瞠る。



音もなく転移から降り立ち、空中に弧を描くようにくるりと回されたのは白いステッキで、その先端が、背後の気配に振り返ろうとうしたリツセラの首筋を突く。


その途端、くるっと瞳が返って、リツセラは糸が切れたように地面に崩れ落ちた。



「………………むぐる」


ネアは、念の為に威嚇の唸り声を上げて敵を威嚇したが、こちらを見たアルテアは、そんなネアの様子を気に掛ける気配もなく、地面に倒れたリツセラをステッキでひっくり返して、何かを確認しているようだ。

暫くすると、何か満足のいく確認が出来たのか、短く息を吐き、こちらに視線を向けた。



(………どうしてと、問いかけてもいいのだろうか)



ネアを見据えた選択の魔物は、まるでこちらの反応を窺うような、静かな眼差しを向ける。


ふっと唇の片端を歪めて微笑めば、そこにいるのはかつてはよく見た爪も牙もある魔物にも、最近見慣れてしまったあまり森には帰らなくなった魔物にも見えた。



「お前でも、このくらいの時間なら、大人しく待っていられたようだな」

「…………いきなりあの妖精さんに捧げられたのは、また私に悪さをしたくなったからですか?」

「……………まさか、俺の言った言葉を、理解してなかったんじゃないだろうな?」



ネアが注意深く問いかければ、なぜかアルテアは、ぎょっとしたように赤紫色の瞳を瞠る。


「…………む。きちんと全部聞き取れませんでした。悪いなと言って放り出されたのですから、虐めとして認定しても良さそうです………」

「………………去年の夏の事件を覚えているな、と言ったんだ。それで状況を理解するだろうと思ったが、………くそ、聞こえてなかったのか…………」



それは、敵に思えてもそうではないだとか、事情があってこう動かざるを得ないという暗号だったようだ。

ネアはそうだったのかと思う程度で、特に怒ってはいなかったのだが、アルテアはかなりひやりとしたのだろう。


アルテアは慌てたようにこちらまでやって来ると、ネアを持ち上げようとして、なぜか躊躇った。



(……………え?)



こちらに伸ばそうとして、何かを思い出したように短く舌打ちをしてから引き戻したアルテアの手に、手袋の下から肌が黒ずんだ部分が見えた気がして、ネアはぎくりとする。


アルテアも、ネアがその異変に気付いたことが分ったのだろう。

何があったのかを答えるつもりはないのか、無言のまま手袋を引き下げてその部分を覆う。



「……………アルテアさん、何かあったのですか?」

「あれだけ屋外に出るなよと言っておいたのに、のこのこと出てきやがって」

「もしかして、それも今回のことに関係があったのですか?…………私は、危ないことをしないようにという程度のことだと思っていたのです。ディノとノアも一緒でしたし、それでも危うい何かがあったのですね?」



そう尋ねたネアに、アルテアはあまり答えたくなさそうだった。

しかしネアが、そんなアルテアにさっと手を伸ばそうとすると、指先が触れる前に自分の手を引込めつつ、顔を顰める。



「勝手に触るな」

「……………誰かに、何かをされてしまったのでしょうか。アルテアさんは使い魔さんですので、深刻なことであれば報告していただきたいのです…………」

「放っておけ。ひと月程でどうにか片をつける」

「……………むぐる」

「それと、お前をリツセラに預けたのは、こちらで起きていた問題を遮断出来るのが、この黎明のシーしかいなかったからだ」

「問題とは?」



頑固にこてんと首を傾げたネアに、アルテアはとても嫌そうにではあるが、事件の一部分を少しだけ明かしてくれた。



「………黄昏のシーの一人が、あわいの波に乗ってウィームを訪れていた。そいつが俺にかけた呪いが、使い魔の契約のせいでお前に波及しかねなかったからな。呪いを定着させるまでの間は、黄昏の魔術の及ばない、黎明のシーの領域に、そのシーの意思で閉ざされている必要があったってことだ。さてと、帰るぞ」

「…………ふぐ。今の言葉だと、アルテアさんは呪われてしまったようです………」



ネアが悲しい目でそう呟くと、アルテアは微かに呆れたような微笑みを浮かべた。

夏至祭用の盛装姿のままだが、微かな疲弊が目元に滲み、しっかりとはめられた手袋の下の手がどうなっているのかは分らない。



「言っただろ。ひと月程度でどうにかするから、お前が気を揉む必要はない。後で、リツセラからおかしなものが添付されていないかどうかは調べてやる。…………ただ、今夜のダンスはシルハーンにもう一曲踊って貰え」

「アルテアさんは、痛かったり辛かったりはしないのですか?それと、避難所だったと知ったら若干もうどうでもよくなりつつありますが、この黎明の妖精さんは、きりんさんで滅ぼしてどこかに埋めておいてもいいでしょうか?」

「やめろ。戻り時から抽出した毒で記憶を削ってある。後は放っておけ」

「…………しかし、腰がぎゅっと括れた素敵な美女さんで、ディノを欲しいと言うのです」

「……………は?ノアベルトじゃないのか?」

「………もしかして、ノアの関係の妖精さんだと思ったのですね。しかし、この方はディノをご指名なのでした…………。やはり、人知れずこの地に葬って……」




そこまで言った時のことだった。



「ネア!」

「ほわ、ディノ?!」


ふつりと空間がたわみ、清廉な真珠色の輝きが揺れる。


ネアは転移で降り立ったディノにすぐさま抱き上げられ、しっかりと抱き締められた。

ネアは持ち上げてくれた魔物の腕の中で、やはりこれは誰にも渡せないものだとふすんと息を吐き、真珠色の三つ編みをぎゅっと握った。



「…………良かった。守護の相性があるから、リツセラが君を損なえないことは知っていたけれど、………だとしても、怖かっただろう」

「むぐ。………ディノ、アルテアさんが…」



呪われてしまったのだと言おうとしたが、ディノにはそれよりも先に、アルテアに尋ねたい事があったようだ。



「アルテア、どういうことだい?」

「連絡した通りだ。厄介な奴が近くにいたから、ひとまずリツセラの領域に移動させた。そこを破らないように言ったのは、ここが避難壕だったからだ。黎明のシーは他のシーの庇護のある者を傷付けられないし、他のあわいの妖精の侵食を退けられるのは、同階位同性のあわいのシーくらいだからな」

「だからと言って、この子に怖い思いをさせる程だったのだろうか。他のあわいの妖精がいたのなら、私を呼べば良かっただろうに」



そう言ったディノの眼差しにひやりとして、ネアはリツセラには譲れない大事な魔物の三つ編みを引っ張った。

ディノはまだ、アルテアのあの手を知らないのだ。



「お前は、ユニシラの対処をしていただろ。それと、あわいの波間からこっちに来ていたのはリンシャールだ。夏至祭は妖精の耳が多いからな。下手にこちらの意識を擦り合わせると、そこからあわいの各所に情報が漏れかねない。あの女に姿を隠されても厄介だ」

「……………わーお、アルテアを殺すってあちこちで公言してた、あの黄昏のシーかぁ………」

「黄昏だったのだね。…………とは言え、………いや、私がそのことに気付いていれば、君に負担を強いることもなかったね」



当初、ディノはアルテアの行いに不愉快そうにしていたのだが、アルテアが出した名前を聞くと、それならばと納得してくれたらしい。

自分が及ばなかったのだと、静かに目を伏せる。

ネアは、今度は悲しげにそう呟いた魔物が可哀想になってしまい、慌てて撫でてやった。



(リンシャールさんは、確かアルテアさんの前の恋人さんで、黄昏のシーで………)



黄昏のシーは狡猾で厄介な上に、美しいシーとしての信奉者も多い。


下手にこちらの相談事が漏れると、警戒されてしまい、かえって手の込んだ罠を用意されてしまう可能性がある。

アルテアはそれを警戒して、その妖精の問題を手早く解決する為の荒業に出たようだった。



「リツセラは、ノアベルトの関係じゃなかったのか」

「ありゃ。僕はさ、どうしてだか黎明にだけはもてないんだよね。前の黎明の妖精の女王に嫌われてたからかな…………」

「…………ネア?」


ひとまずは、これがどうやら致し方ない措置であったのだとディノ達が納得するまで待ち、もう一度三つ編みを引っ張ったネアに、ディノがこちらを見てくれる。



「ディノ、アルテアさんが呪われてしまいました。先程の黄金毛玉さんの祝福を使ってもいいですか…………?」

「…………アルテアが?」



そして、ネアがしょんぼりと伝えた言葉に、美しい瞳を瞠ったのだった。







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