281. 夏至祭らしい問いかけです(本編)
正午に行われる、夏至祭の最初のダンスが終わった。
あわいの波が立ったこともあり、決して無事に終わったという締め方が出来る状態ではないが、最も被害の少なかったウィームは、この後は夕暮れから夏至祭の夜に向けて、いっそうに警戒を強めなくてはならない。
ウィームは人外者達の守護も厚い分、人外者達が集まり易い土地なのだ。
陽が落ちると夜闇に侵食されてしまい、ディノが繋いでいてくれる影も効果が弱くなるので、夜のダンスでは特に慎重にと言われている。
けれど、その夜のダンスが、最後の夏至祭のダンスになるのかなと少しだけしんみりしていたネアは、しょぼくれている魔物のところに戻るなり、ぎゅうぎゅうと抱き締められてもみくちゃにされた。
「むが?!………ディノ、どうしたのですか?」
「ご主人様…………」
そんなに寂しかったのかなと首を傾げたネアに、妙に遠い目をしているアルテアが、ディノがすっかり怯えてしまった理由を教えてくれる。
「お前な…………。あれだけ夏の系譜の好みには合致しないと油断させておいて、どうして黎明だけは引き寄せたんだ………」
「むぐぅ。責めるように言われても、ヒルドさんに滅ぼされてしまった、あの妖精さんの責任なのです…………」
「ネア、黎明のシーは、君が望めば、今持っている縁を切ることが出来るんだよ。私の指輪は奪えないだろうけれど、それでも多くの守護や繋ぎを引き剥がすことが出来るんだ」
「……………まぁ。それでディノは、不安になってしまったのですね?」
「あの妖精が君に触れずにいて良かった。…………ヒルド、この子を守ってくれて有難う」
「いえ、よりにもよってシーでしたか。とは言え、あわいの系譜の妖精達の気配は独特ですからね。こちら側に触れる前に気付いたのですが、取り逃がさないように境界を越えるのを待ってから、対処させていただきました」
「助かったよ。こちらからは手の部分しか見えなかったけれど、気配そのものが掻き消えたようだね」
「勿論ですとも。例え気紛れであろうとも、ネア様をあわいに引き摺りこもうとしておいて、生かして帰したりはしませんよ」
「………………ほわ」
ネアは過激な家族の行いに慄けばいいのか、何だか厄介な妖精だったのだと怖がればいいのか、そもそもそんな厄介な黎明のシーとやらを触れずして滅ぼしてしまったヒルドの能力に感動すればいいのか分らなくなり、まずはへばりついている魔物の頭を撫でてやった。
しょんぼりの魔物に対し、ヒルドは柔らかく微笑むと、優しくネアを労ってくれた。
「ネア様、これで正午の儀式は終わりですので、暫くは自室でお休みになられていて下さい」
「はい。………ただ、今年はゆっくり寝ているようにと言われて朝露を収穫に行かなかったのですが、何かお手伝い出来ることはありますか?」
「夏至祭の朝露は、昨年は特別にお願い出来たものですので、どうかお気になさらず」
「昨年は特別だったのですか?」
実は、今年はゆっくりと寝ているようにと言われたネアは、去年は危険を承知の上でも任せてくれた仕事を、積み重なった事故率を警戒されて取り上げられてしまったのかと、密かに落ち込んでいたのだ。
そうではなかったと知り、ほっとしてしまう。
「妖精の羽の庇護を得た者は、その年の夏至祭の朝は特別な祝福で守られます。そのような者、或いは新しい土地に移住してからの最初の夏至祭のとき、初めて夏至祭を迎える子供も、祝福に守られる対象になりますので、昨年は特別にお願いさせていただいたのです。顔見知りの者が摘んだ薬草や、集めた朝露の方が効果がありますしね」
「………………まぁ。では今年は、必要がないのではなく、収穫出来なかったものなのですね…………」
とは言え必要なものだったのではないかとネアは心配したのだが、今年はウィームに暮らし始めたばかりのエルトを連れて、エルトの宝物になった商家の青年が早朝の森に遊びに行ったのだそうだ。
夏至祭の朝の森の煌めきを喜び、転げまわってはしゃぐエルトと遊びながら、珍しい朝露や薬草をたくさん収穫してくれたらしい。
夏至祭ではそのような縁が生まれ易い日だからこそ、異種族間で結ばれた縁を大事にするのも夏至祭の風習の一つだ。
可愛いエルトに巡り合わせてくれたお礼にと、お散歩帰りのフェルフィーズから、たっぷりの薬草と朝露の差し入れがリーエンベルクにあったと教えて貰い、ネアは大好きな相手を見付けられた子竜が元気そうで、ほっこりあたたかな気持ちになる。
花竜のエルトは珍しい薬草をたくさん見付けたそうで、中にはエーダリアが長年欲していたものもあったそうだ。
「では、怠惰な人間は、夜戦までおやつでも食べながら窓の外を観察してごろごろ…」
「その前に、お前は魔術洗浄だな」
「……………なぬ」
「ネア、念の為に魔術洗浄しようか」
すっかり荒ぶる魔物達に連れ帰られながら、ネアは悲しい思いで眉を下げる。
ヒルドは、しっかりと相手の妖精を滅ぼしてあるのでもう安心だと言ってくれたのに、なぜか魔物達は殊更に妖精を警戒する傾向にあるようだ。
(そういえば、妖精さんの侵食は魔物さんにとっては脅威なのだと以前に言っていたような気がするから、それでかしら………)
侵食などの魔術で引っ張られる際には、男性も女性も、髪の毛が場になるのだそうだ。
何かに引かれている、あるいは呼ばれていると感じた場合は、侵食魔術の影響下にあることが考えられるので、髪を洗うとある程度の縁を切ることが出来る。
最悪の場合は髪を切ったりもするのだが、これは主に妖精に効果のある対策で、精霊の場合は相手の精霊を殺すしかなく、魔物や竜からの魔術の侵食はそもそも切るのが非常に困難だ。
お部屋に帰った後で、すぐさま着替えさせられて浴室に収監され、謎の魔術洗浄石鹸のようなもので髪の毛をわしわし洗われてしまったネアは、もう好きにしてくれ給えの心境でアルテアに頭を預けた。
今回は、魔術洗浄の得意なアルテアが洗髪をしてくれて、守護などの覆いが得意なディノが髪の毛を乾かしてくれるらしい。
つい先ほど自分で綺麗に洗ったばかりなのにとじっとりとした目で天井を睨みつつ、ネアは丁寧に頭皮を洗浄されている間に、うっかり心地良さのあまりに居眠りしてしまったようだ。
「……………ぐぅ。……………むぐぐう。…………むぐ?!」
勿論、居眠りなどする予定のなかった人間はそんな自分に驚いてしまい、はっとして目を覚ます。
そろりと視線を持ち上げると、疲れたような目をしたアルテアに見下されていた。
アルテアが気付いていなかったら目を閉じていただけだと誤魔化せたのだが、これは間違いなく気付かれている。
「お前は、この状況下でよく無防備に寝られるな」
妙に静かな声でそう言われ、ネアは微かな不安を抱く。
「……………むぐる。私のお顔や髪の毛に悪戯や悪さをしていませんか?」
「さてな。お前は呑気に寝てたんだろ」
「使い魔さんが、どうしてもご主人様の髪の毛を洗いたいと駄々を捏ねたのです。仕方あるまいぞの寛容な心で許可しましたので、悪さをしていたら許しませんよ!」
「……………するか。ここまで熟睡されると、その気も失せる」
「あら、私とは逆なのですね。ぐっすりすぴすぴ眠っているちびふわがいると、ついつい弄んでしまう自分の穢れた心を恥じるべきでしょうか…………」
「…………おい、何をした?!」
「……………むが!……頬っぺたを引っ張られても言えません。知らない方がいいことも、この世にはあるのです」
ネアがそう言えば、アルテアはぞっとしたような目をする。
絶望の眼差しを浮かべる選択の魔物というのも珍しいので、ネアはもう暫く黙っていることにした。
(あまりにも起きないから、尻尾にピンクのリボンを結んでみたり、檸檬汁をつけた指先をちびふわのお口につけて、眠ったまま酸っぱい顔になるのを見てるくらいなのだけど………)
「ディノ、髪の毛が洗い終わりましたよ」
「うん。では乾かそう。それとネア、…………あの黎明の妖精以外に、シーとの接触があったかい?」
ふいに、ディノがそんなことを尋ねた。
ネアが目を瞠って首を振ると、困ったように淡く微笑む。
擬態を解いて真珠色の髪に戻ったディノは、胸を打たれるような、不思議な澄明さを纏う美貌が目を奪う。
こうして色味が似た装いで並べば、やはり、アルテアとは美貌の温度や質感がまるで違った。
「……………何かされてしまっているのですか?」
「そこまでのものはないけれど、ヒルドと踊っていた時に、誰かが私の守護に触れたんだ。帰って来た君に触れても、こうして今触れていてもその気配が残っていないから少し気になってね」
「………………そう言えば、ダンスが終わった後で、どなたかに見られているような気がしたのです。ヒルドさんから、高位の方は、眼差しにも魔術が宿るので、ディノに相談するようにと言われていたのでした」
するとディノは、悲しげに目を瞠ってこちらを見るではないか。
「どうしてその場で言ってくれなかったんだい?」
「私を洗髪するべく、お部屋に引き摺っていってしまった魔物さんの一人に言われたくないのです…………」
「…………その視線の主がシーだとすると、あの時近くにいた高位の妖精か。夏影、蔓薔薇、鈴蘭、夏椿、木漏れ日と向日葵、後は霧雨だな。他にもいたが、魔術を添わせることが出来る程には近くない」
「…………そんなに沢山のシーの方がいたのですね。個人的に、夏椿の妖精さんが気になります」
「…………ネア、夏椿の妖精は女性だよ?」
「ふむふむ。であれば尚更、お友達になれたら嬉しいですね」
「…………虐待」
「そして、霧雨の妖精さんがいたということは、イーザさんがいたのですか?」
「うん、君が踊っている間に挨拶に来たよ。ウィームであれば安心だと、夏至祭に妹達を連れて来ているそうだ」
「まぁ。妹さん達を!」
(アルテアさんがいても平気だったのなら、ルイザさんはいなかったのかな。…………そっか、ルイザさんは、寧ろオズヴァルト様の所に行っているのかも?)
せっかく挨拶に来てくれたのだし、きっとイーザの妹達ともなれば綺麗な妖精だと思うのでネアも会いたかったのだが、踊っている時に来てしまったのであれば仕方ない。
「……………む」
「…………ネア?」
「きっと、ディノとアルテアさんがいたのなら、イーザさんは、妹さん達を素敵な魔物さんにご挨拶させてあげたかったのかもしれませんね」
ネアがそう言えば、なぜかディノは悲しい目をするではないか。
「……………ひどい」
「ディノ?………イーザさんの妹さんに、ディノを差し上げてしまうということではないのですよ?ただ、ディノは、年頃のお嬢さんや小さな娘さんが憧れるような、とても素敵な魔物だと思ったのです」
「………………虐待する」
「まぁ。こういう話題も苦手なのですねぇ…………」
そんなことを話していると、妙に暗い眼差しのアルテアがこっちを見ているので、ネアはおやっと首を傾げた。
アルテアはこの手の話題は受け流せそうだが、それでも嫌だったのだろうか。
案外、女性に人気があり過ぎて、そのようなご新規のお客様は苦手としているのかもしれない。
「まぁ…………アルテアさんは、女性関係は器用そうでしたのに意外ですね」
「……………何の話だ。お前は、俺が強行手段に出る前に、眠っている時に何をしたのかを話しておいた方がいいぞ」
「むぅ。ちびふわの話の方でしたか。…………気になって仕方がないようなので告白しますが、尻尾に可憐なピンク色のフリルリボンを結んでみたり、小さなお口に檸檬汁を入れて、むきゅっと顔を顰める寝顔を楽しんでいます」
「………………そうか、その程度なら……………いや、やめろ。二度とするなよ」
「何を想定していたのかは知りませんが、私は善良な人間です。そんな酷いことはしませんよ?」
「ほお、それなら今度、寝ているお前の口に檸檬を入れておいてやる」
「なぬ。なぜに固形物に進化させたのだ。窒息すると怖いので止めて下さい。なお、かじつぼうの檸檬味や、美味しい檸檬ゼリーなら可とします」
貢物であればやむなしと判断したネアであったが、どこまでも強欲な人間に対し、ご主人様のお口に気軽に食べ物を放り込めるのは自分だけなのだと、ディノが拗ねてしまうのでその運用は廃案となった。
最近のディノは、ネアにおやつを与えるのが楽しくて仕方がないのだ。
しゃりんと、どこかで水晶の鈴が鳴るような音がする。
微かに聞こえるオーケストラの旋律と、浮かれ騒いでいるような、いつもとは違う賑やかな森。
(部屋にいてもいいけれど…………)
無事に髪の毛の魔術洗浄も終えて窓の外の森の方を見れば、楽しげに揺れる草木や、風とは違う動きではらはらと舞い散る花びらがあったりする。
淡く光る木々の葉に、森の奥の方を駆けてゆくのは、いつもは見ないような獣達の影だ。
夏至祭らしい美しさに森は色彩を深め、きっとこんな日は、ネアが見たこともないような生き物達がたくさんいるのだろう。
ネアは、このまま部屋にいてもいいのだろうが、何かあった時にエーダリアや騎士達が声をかけやすいようにと、会食堂に移動していることにした。
決して、隙あらば夏至祭のプディングを食べたいということではないと、誓って言える。
「ディノ、こんな日ですから、会食堂の方にいましょうか。昨年のように疲れ切ったエーダリア様が来たり、煤けて真っ黒になったノアが出現するかもしれません」
「ノアベルトなら、昨晩の内に何かあったようだから、もう大丈夫だろう。君は疲れてはいないかい?」
「………………ノアには、既に何かが起きていたのですね。私はまだまだ元気いっぱいなので、お部屋で休んでいなくても大丈夫なのですが、ディノは疲れていませんか?」
「私は平気だよ。……………何を持ったんだい?」
「特に何もすることがないようでしたらと、お仕事手帳と、塩の魔物の転落物語の二巻を…」
「ネア、その本は置いてゆこうか。私が側にいるのだから、それがなくても大丈夫だよ」
「…………………むぐぅ」
アルテアは少しの野暮用があるそうで、ネアにくれぐれもリーエンベルクの屋内から出ないようにと五回は念を押してから出掛けていった。
夏至祭には魔物達の動きも活発になるので、統括の魔物としてもすることがあるのかもしれない。
そう思いながら会食堂に入ったネアは、目に飛び込んできたあんまりな光景に飛び上がってしまう。
「むぎゃ!!」
「ネア、大丈夫だよ。怖くないから安心していい。ノアベルトだからね」
「ち、違うのです!窓の向こうが真っ黒になっています!!」
二人で訪れた会食堂は、ぎくりとする程に薄暗い。
そしてその薄暗い部屋の中に、テーブルに突っ伏して座っているノアがいるではないか。
何よりも恐ろしいのは、窓の向こうに緑色の毛だらけの壁のような巨大な生き物が、べったりとへばりついて、こちらを見ていることだ。
ネアはまず、この異常事態を何とか受け止め、すっかり目の光が失われているノアを、ディノに揺さぶって貰った。
「…………ノアベルト?」
「………………シル、……あの生き物に好かれたんだ。僕はもう、ここから一生出られないのかな………」
「窓の外のものなら、私が壊してあげようか?」
「…………シル、あれは集合体なんだよ。崩しても崩しても、ああして集まって来るんだ。因みに全部を壊していると、残っているものが分裂して増える」
「…………分裂して増える」
悲しく暗い眼差しで語ってくれたノアによると、正午のダンスが終わった後で、一緒にいたエーダリアに突進してきて浄化されてしまいそうだったあの精霊を、手のひらで受け止めて助けてやったのだそうだ。
「…………ほわ、あの巨体を?」
「ネア、あれは集合体だよ。一匹だと、かなり小さいから」
それは勿論その精霊を気に入ったからではなく、エーダリアが、偶然ぶつかってきただけなのに土地の誓約のせいで浄化されて消えてしまう小さな生き物達の多さに、胸を痛めていたからであるらしい。
「その結果、恋をされてしまったのですね…………」
「良く分らないけど、あの生き物は集合意識みたいだね。一つの個体の意識を共有するのか、或いは群れたがるような生き物なのかもしれないけど。……………ネア、僕が手で受け止めて払ったのは、指先くらいの生き物だったんだ。それなのにさ、あれを見てよ…………」
「見事に合体して巨大化していますね。合体壁の精霊さんと名付けましょう」
「……………ネア、君はあまり近付かない方がいいようだね」
「………………む」
その合体壁の精霊は、ネアが、どうなっているのかなと窓の方に近付くと、ネアが美味しそうなご馳走に見えるのか、じゅるりとよだれを垂らしてこちらを見る。
けれどもノアが顔を上げると恋に溺れる乙女の眼差しになって、窓の向こうで息を荒くしてこちらを熱く見つめてくるのだ。
ネアは試しに、ささっと近付いてカーテンを引いてみようとしたのだが、その途端、合体壁の精霊が鬼の形相になったので怖くなってしまい窓辺から逃げてきた。
「ディノ、………どうしましょう」
「結界で隔離してしまって、壊してしまった方がいいかもしれないね」
「どこかに会談の場を設けて、とても残念ですがご要望にはお応え出来ませんと、あの精霊さんとノアとでじっくり話し合って貰うという方法もありますが………」
「うわ、絶対にやめて!」
「…………確かに、あの精霊さんにノアがもみくちゃにされる未来しか見えませんね………」
「………というか、あれは何の精霊なのかな?」
「合体壁の精霊さんではなく………?」
「ご主人様…………」
ノアにも何だか分からないそうだが、恐らくはあわいの生き物の一種であろうと言う。
属性を見極めようにもそちらを見るとはしゃいでしまうので、怖くて三秒以上はそちらを見れないらしい。
ネアがきりんさんの出動を打診してみたものの、相手は精霊なので、攻撃の意図が見えると厄介なのだそうだ。
「では、見せつけるのではなく、見たくて仕方ないものがそれになってしまえばいいのですね?」
「う、うん………?」
「やれやれ、仕方がありませんね。………ノア、ほんの少しだけ目を閉じて動かずにいてくれますか?」
ネアが腰に手を当ててそう言えば、どこか儚げな眼差しでノアがこちらを見る。
あの合体壁の精霊から逃げて、ネア達がいるかなと逃げてきた会食堂でこの状況になり、逃げる力も無くして一人で震えていたのだという。
すっかり弱ってしまっており、夏至祭らしい盛装姿の美貌の魔物が悩ましい目をすると、妙に背徳感がある。
「ディノも目を閉じていて下さいね」
「あ、何だか分かった」
「…………ご主人様」
「ノアについては多少動かしますが、私に身を任せ、ただひたすらに目を閉じていることです」
「え、僕、何されちゃうの?きりんになるのは嫌なんだけど………」
「特殊な防御服を纏うだけなので、安心していいですよ」
「……………わーお、ちょっと分かってきたぞ……………」
ここでネアは、ディノを椅子に座らせて目を瞑るように命じ、同じく固く目を閉じたノアに、首飾りの金庫から取り出した試作品を被せる。
すぽんと被せられたのは、この季節には不似合いな黄色いニット帽だ。
ただしこのニット帽には、頭頂部にきりんのぬいぐるみを縫い付け、ご主人様渾身のきりん風被り物への改修が施されているのである。
つまり今のこの状況だと、窓の外の合体壁の精霊にとって、愛しいノアは、頭にきりんを乗せているように見えるのだった。
帽子の奇妙な重さに何かを感じるのか、ノアの顔色は悪く、隣の椅子に座ったディノの腕を縋るように掴んでいる。
「ノア、私は敵の視界を妨げないように一度退避しますので、目を閉じたまま、ゆっくりと窓の方に体を向けて下さいね」
「…………うん」
ノアが震えながらネアの指示に従い、窓の方に体を向けようとしたその直後だった。
「ほわ……………」
窓の外の合体壁の精霊は、早くも端からさらさらと砂のようなものになって風に解けてゆくではないか。
ネアは念の為に窓の向こうの壁が完全になくなり、部屋が明るくなるまで魔物達には動かずにいて貰い、もういいかなと思ったところでノアのところにゆくと、被せていたきりん帽子をすぽんと取って金庫に戻した。
「もう大丈夫ですよ」
「……………本当にいないや」
「うむ。姉は良い働きをしましたので、たくさん崇めて下さい」
「任せて。いいことしてあげるよ」
「………むぐる?」
「ありゃ、唸られるようなことはしないよ」
「…………ご主人様」
「は!ディノも、もう目を開けて大丈夫ですからね。怖いものはいなくなりましたよ?」
ディノは窓の外の合体壁の精霊が消え失せたことよりも、音もなく敵を滅ぼした武器がとても怖かったらしい。
「頭突きをするかい………?」
「なぬ。突然甘えたになりましたが、怖かったのであれば仕方がありませんね………」
ネアが、復活の儀式を求めた魔物にごすりと頭突きをしてやり、怖々と窓の外を覗きに行き、ストーカーが死滅したと知ったノアが歓声を上げる。
「やった。自由を取り戻したぞ!」
「…………爪先も踏むかい?」
「ディノ、恐怖をご褒美で紛らわすのはよくありません。頭突きをしましたので、後はまた今度にしましょうね」
ご褒美の過剰摂取を止められたディノは、悲しげに頷くと、ネアにぴったり寄り添う。
まずは厳しい戦いに勝利したお祝いとして、三人でプティングを食べることにした。
「でも、ノアも食べてくれるのは珍しいですね」
「ほら、この食べ物には夏至祭の守りとしての効果もあるからね」
「すっかり警戒心が強くなってしまいましたね…………」
「これは分け合わないのかい?」
「分け合わない代わりに、取り分けてあげますね。………はい、どうぞ」
「……………ずるい。かわいい」
「未だにどこでこの反応になってしまうのかが分からない、謎の多い婚約者です…………」
まだ時間は、午後になったばかりの頃である。
夏至祭は、夕暮れから夜にかけてがもっとも危険とされるので、ネアはその時はまだ油断していたのだろう。
どれだけ慎重にと自分に言い聞かせていても、避けられない事故というものはあるのだ。
そして、夏至祭そのものも、事故や事件が起こりやすい傾向の祝福と呪いを持つ。
「…………ディノ、きらきら光る黄金の毛玉がいるので、あやつを捕獲したいです」
「黄金の毛玉…………」
まず、窓の外にそんな珍しい生き物を見たネアがすっかり強欲になってしまい、ディノにそう強請ったことから始まった。
ディノは少し躊躇ったが、その黄金の毛玉がなぜかネアの方を見ると崇め奉るので、不思議に思ったらしい。
ディノとノアに挟まれるような完全防御の状態で庭に出ることが許され、ネアはその黄金の毛玉と対面する。
近づいてみると、まん丸毛玉ではなく、雫型を横倒しにしたような形状のようだ。
ふさふさの毛並みは見事な黄金で、ネアを見るなり厳かに喋り出した。
「この度は、吹き溜まりの精霊を討伐していただきましたこと、我ら黄金麦の妖精一族より心より御礼申し上げます。つきましては、我らからの祝福をお贈りさせていただいても?」
そう言ってディノの方を見るのだから、かなり良識のある妖精なのだろう。
「この子を損なわず、我々を退けず、益のあるものであれば構わないよ」
「では、三つの麦の祝福を」
「うわ、僕ですらそれは初めて見るなぁ。三つの麦の祝福って、実在したんだ」
「滅多に授けるものではないのです。一族を滅亡の危機から救った救世主にのみ、与えられる古の祝福ですから」
「……………三つの麦の祝福というのは、どのようなものなのですか?」
「妖精にまつわる願いを、三つ叶える事が出来ます。不可能なのは、殺す事と死んだ者を蘇らせること。とは言え、麦は再生の祝福を持つもの。例えば、滅びた種族を再興することは叶いませんが、派生の条件が整ったものの場合であれば、新しい派生の手助けは出来ますので、とても素晴らしい祝福でございます」
「まぁ!そのような素敵なものであれば、是非に欲しいです」
ネアも喜んだが、魔物達も揃って頷いたので、警戒している妖精への切り札になると、かなり喜んでくれたようだ。
かくしてネアはそんな素晴らしい祝福をいただき、彼等が恐れていた吹き溜まりの精霊は、先程ノアを震え上がらせた合体壁の精霊だったと判明した。
あの精霊は、風で角や壁沿いなどに溜まってしまった落ち葉やごみなどから生まれる精霊で、排除しても排除してもまた集まってしまう性質がある。
黄金麦や露草を食い荒らすので、すっかり参ってしまっていたらしい。
「ノアが恋をされたことで、結果としては良いものを貰いましたね!」
「僕の犠牲が無駄にならないで良かったよ…………」
「この祝福で、知らない妖精全てを追い払うことは出来るのかな………」
「ディノ、私の社会生活を奪ってはいけませんよ?」
お礼を済ませた黄金毛玉がふわりと風に乗って帰ってゆくのを見送り、ネア達はそんな話をしながらわいわいしていた。
すると今度は、ディノにお客があると正門を守っている騎士から連絡が入り、慌ててそちらに向かうことになる。
「申し訳ありません。お呼びするのもどうかと思ったのですが、事情を窺うとお会いした方がいいのではないかと思いまして………」
そう事情を説明してくれたのはアメリアで、門の近くには、なぜかアルテアも一緒にいる。
ちょうど帰ってきたところでこの訪問客と遭遇したようだ。
ネアは相手から死角になる位置に立たされていたのだが、門の向こうで深々と頭を下げたのは、見事な黄金の髪を持つ美しい妖精だった。
陽光の煌めきのような檸檬色の瞳をした美女にネアはおおっと興奮に足踏みしたが、その女性を見た途端、ディノはぎくりとする程に冷やかな目をした。
「…………ディノ、困ったお客様なのですか?」
「どうだろうね。ここに来られるのは、あまり気持ちのいいものではないかな。けれど、アメリアが必要だと判断したのであれば、少しだけ話をしてみよう」
そこで少しだけ不安になったネアは、ノアの腕をちょいっとつついてみた。
ノアはすぐに気付き、にっこり微笑んで頷いてくれる。
「シル僕も行くよ。ネアが心配するから、万が一がないようにね」
「…………ノアベルト」
ディノはそう言って隣に並んだノアに目を瞠り、不安そうに眉を下げたネアの方を見て頷いてくれた。
「そうか、これからは、こういうことも出来るのだね………」
「勿論だよ。僕は細かい魔術の動きに敏感だからね。呪い避けも得意だし、隣にいると便利だよ」
「…………ネア、アルテアの側を離れないようにしておいで」
「はい。アルテアさんの側にいますね」
そう答えたことは、きちんと覚えている。
ご主人様の警護を任されたアルテアに、またお前は妙なものを増やしてないかと、訝しげに尋ねられたことも。
門から少し離れているように移動しており、木立の方からふわふわと舞い落ちてきた花びらが綺麗で、思わず手のひらに受け止めたような気もする。
そうして瞳を瞬くとそこはもう、見知らぬどこかだったのだ。
(最後に見たのは、私を強く押した手だった…………)
「………を、覚えているよな。………そういうことだから、悪く思うなよ」
突然のことだった。
おもむろにそう言ったアルテアが、ネアを片手でどんと突き飛ばしたのだ。
突然のことで驚いたのだが、ネアは地味にととっとよろめいて後退し、誰かの腕に収まる。
それを見届けた魔物は、薄闇で赤紫色の瞳が光るようで、その眼差しの冷淡さにネアは目を丸くする。
どうでも良さそうに顔を背け、アルテアはその場から姿を消した。
(後ろにいるのは、………誰なのだろう)
男性とは違う柔らかな体の質感に振り向けば、黄金を懲り固めたような美しい女性がこちらを見て満足げに笑った。
「ああ、やっとあなたを捕まえたわ。ねぇ、お嬢さん。あなたの婚約者を私にちょうだい?」
目が合うなりそう言った美女に、ネアは事態を上手く飲み込めずに呆然とする。
美しい妖精は、ネアを抱き締めたまま愉快そうに笑った。