279. 夏至祭は少しだけ浮かれます(本編)
今年も夏至祭の当日となった。
ネアはどこからともなく聞こえるオーケストラの旋律に目を覚まし周囲を見回したが、勿論ネアの部屋の近くにオーケストラが潜んでいる気配はない。
(森の方から聞こえるみたい………)
これは、街のあちこちで演奏される音楽を、風の妖精や精霊達が森まで聞こえるようにと運んでいるのだと聞いたことがある。
思いがけず優雅な目覚めになったので、ネアは機嫌よくがばっと起き上がった。
「むぅ…………」
すると、いつの間にか隣に滑り込んでいたらしく、横ですやすやと眠る魔物がいるではないか。
本来なら無断侵入を叱るところなのだが、今回は夏至祭に入るということで警戒していた魔物なのだから、またご主人様がどこかに迷い込んでしまわないよう、昨晩はここで見張りをしていてくれたのかもしれない。
今回は不問に処すとして、真珠色の宝石を紡いだような長い髪に淡く陽光を煌めかせている魔物のおでこを、そっと指先でつついて起こしてやった。
そっと目を開いた魔物は、起こしただけなのにネアを見るときゃっとなってじたばたする。
「…………可愛い。ネアがつついてくる……………」
「い、いけませんよ!今日は戦争なので、朝から弱ってしまうのはいけないのです!」
「揺さぶってくる…………」
「ディノと踊るのも楽しみなので、素敵に踊ってくれる元気な魔物のままでいて下さい」
「……………ずるい」
どうやら魔物は、眠っているところに上から覗き込むようにしてご主人様にあれこれされるのが嬉しかったようだ。
すっかりはしゃいで恥じらってしまい、一時は深刻な防衛力不足が懸念されたが、一緒に顔を洗うと無事にしゃっきりしてくれた。
「ディノ、蛇口から出る水がいつもと違います………」
「これは夏至祭に合わせて地下水の中の祝福が増しているんだよ。いつもの水とは違うけれど、体にはいいから安心していい」
「なぬ!では、今日はいつもより顔をばしゃばしゃしてお肌を労わりますね」
どこからか、甘い花の香りがした。
視線を巡らせると、昨晩の内に用意されていた花冠が銀色のお盆の上に乗っている。
その美しい佇まいにまた少しだけわくわくとしてしまい、ネアは慌てて首を振った。
でも、美しいのだ。
夏至祭が怖いお祭りなのは分かってはいるし、既に婚約者のいるネアにとっては恋の祝祭という訳ではない。
けれど、一度夏至祭の夜を経験してその異質な美しさや賑やかさを知っているネアにとっては、この不思議で美しい世界がより輝くような、そんな高揚感が湧き上がる。
(イブメリアや、季節の舞踏会とはまた違う、………異形のものの祝祭という感じがするからかな…………)
勿論、夏至祭には魔物や竜たちも精力的に活動しているが、ネアには今のところ、妖精や精霊の色が強いように思えた。
そんなところも、夏至祭から覗く見慣れぬものへの好奇心を掻き立てるのだろうか。
今朝は入浴しない魔物に付き合って一緒に顔を洗った後は、沐浴も兼ねて丁寧に入浴した。
髪を洗うのでまた顔を洗うことになるのだが、先程の洗顔は魔物にお揃いの日常を切り分ける為の儀式なのである。
無事に入浴を終えると、浴室の外でご主人様の番をしていたディノが、濡れた髪を手早く魔術で乾かしてくれた。
(そろそろ、部屋を出た方がいいかな…………)
夏至祭の日は、花輪の塔を囲むダンスに参加する乙女はあまり早起きしないのが理想的とされるので、今日はいつもよりも遅い時間に朝食になる。
その分、昨晩は遅くまでエーダリア達との打ち合わせに付き合えたので、日付が変わって夏至祭の日に入ると、森のあちこちでぼうっと灯った青白い不思議な火を見ることが出来た。
花輪の乙女が早起きをすると、みんなが眠っている間に妖精や魔物に攫われてしまうという言い伝えが各地にある。
実際に、恋人と踊る夏至祭のダンスを心待ちにしてついつい早く起きてしまい、いつもとは違う景色に誘われて、ほんの少しだけだからと外に出た乙女が、そのまま戻らないということは多いのだそうだ。
まだ人々が目覚めていない時間帯は、そこが人間の生活圏であれ、人ならざる者達の場所である。
恐らく、夏至祭に浮かれて羽目を外すなという戒めからの風習の一つなのだろう。
(でも、外に誘われてしまうのは分かる気がするな。…………空気がはしゃいでるみたいだ………)
窓の外の朝露の煌めきに、胸の奥がことことと揺れる。
どきどきして落ち着かず、小さな子供のように何度も窓の外を覗いてしまいたいくらいだ。
(あ、また音楽が聞こえる…………)
今度の音楽は不思議な響きで、ディノ曰くこれは妖精達の音楽であるらしい。
この響きに誘われて森に入ってしまうと、もう二度と帰ってくることは出来ないのだとか。
夏至祭には、いつもの景色の中に様々な罠や門が出現する。
木の葉や小さな小花や小石などで、不自然に描かれた円には決して入ってはいけない。
円状に踏みならされた麦畑や、石畳に水で描かれた輪、ちらちらと揺れる光の影も。
あわいの生き物達は、夏至祭の日にはそこかしこに門を用意しているのだ。
(きっと、今年も遅くまであちこちで火が焚かれるのだろう…………)
夏至祭の日には様々な風習がある。
ナナカマドの枝とライラックを家の門に飾るので、リーエンベルクでも昨夜の夜遅くに、家事妖精達があれこれ準備をしてくれていた。
水辺には篝火を焚くのだが、念の為に井戸や噴水の横にも小さな魔術の火を燃やして、水鏡を使っての誘拐などに警戒する。
火を焚かずに水辺を放置すると、誰もいない筈の水面には小さな水飛沫が上がり、覗き込むと見たことのないような奇妙な世界が見えたり、こっちにおいでよと手を伸ばす美しい妖精が見えたりするのだそうだ。
水辺の邪気払いをする火の中には魔除けの香木を投げ込むので、近付くと辺りには香のいい香りが焚き染められ、その香りを気に入っていたことを思い出したネアは、ディノを誘って、ダンスの前に少しだけ噴水の周囲を歩いてみようと考えた。
足を踏み外さないようなところで少しだけ、この夏至祭の気分を満喫させて貰おう。
遅めの朝食を摂った後はそのまま外に出るので、ネアは夏至祭の淡い水色のドレスに着替え、今年もふわりと広がるようにたっぷりの布を使ったスカートに目を輝かせた。
くるりと回ってみれば、シンプルなデザインだが淡く透けるような生地をたっぷり重ね、微かにきらきらと光るスカートを持つこのドレスは、ネアのお気に入りだ。
「ディノ、このスカートを見て下さい!ふわっとなりますよ」
「…………かわいい」
「ふわん、しゅるん、すとんとなります。踊ると綺麗でしょうね」
ただし、肩が剥き出しになるこのドレスは、ディノが弱ってしまう危険性がある。
食事の間は隠しておこうと、白いカーディガンを羽織ってきたのだが、着替えて戻って来たネアを見る魔物の瞳は微かに不安そうだ。
「袖はあるのかい?」
「ディノの上着はとっても素敵ですね。刺繍の中に、きらきらする結晶石があるのがディノの髪の毛みたいで素敵です。婚約者の素敵な姿をくるっと回って鑑賞しますね!」
「……………ずるい」
しかし、そんなディノも微かに青みの光沢のある素晴らしい白灰色の正装姿で、ネアはその色合いはディノの真珠色の髪がとても素敵に見えると盛り上がってしまい、ひとしきり周囲を跳ね回った。
ご主人様に周囲をぐるぐるされた魔物はたいそう恥じらっていたが、髪の毛の色はこの後で外に出る前に白灰色に擬態する予定なのだそうだ。
全世界に向けてこの真珠色の髪の毛との素敵な合わせも自慢したいネアだったが、ディノの擬態がいつもよりも白めなのは、境界が曖昧になる夏至祭だからなのだろう。
「そろそろ会食堂に行きましょうか?」
「ネア、………いいかい?」
ふっと、視界が翳り淡い口付けが落ちた。
ふつりとほころんだ唇や吐息に混ざる男性的なあえやかさに混ざるのは、水紺色の瞳に落ちる微かな不安のようなもの。
背中に触れた手には魔物らしい強欲さのようなものと、微笑む艶やかさと暗さはやはり魔物らしい老獪さの欠片だろうか。
(あらあら…………)
ネアは心配性な魔物に微笑みかけ、無防備に目を瞠ったディノに掴まって背伸びをするとこちらからも口付けを返す。
「ディノ、心配になってしまいましたか?」
「……………夏至祭は元々、婚姻や繋ぎの魔術に長けている。君は、何か目新しく美しいものに目移りをしていなくなってしまわないかな………」
「…………その設定だと、私はなかなかの悪女ですね」
「そういうものなのかい?」
不安がるのは、知っているからなのだ。
何も上手く飲み干せずに孤独だったとしても、心を満たされずとも多くが手に入り、その殆どにすぐ飽きてしまうということを、この魔物は知ってはいるのである。
「私の婚約者はディノだけですし、みなさんがどれだけ素敵でも、他の誰かではディノのようにはいかないのです」
「…………毛がいっぱいあってもかい?」
「毛皮生物は撫で回すだけで、婚約者にはしませんよ?私は、とてもとても我が儘な人間なので、せっかく見付けたこんなにも大事なディノを、毛皮生物ごときと取り替えるつもりはありません。毛皮生物など、通りすがりに撫で回して、後はぽいなのです!」
「ご主人様!」
ディノは、毛皮生物に勝てたのがよほど嬉しかったのか目元を染め、ふんすと胸を張ったネアに、柔らかくなった微笑みを返してくれた。
「そろそろ行きませんか?今日の食事には、夏至祭のプティングが出るんですよ」
「…………うん」
おずおずと爪先を差し出してきた魔物の爪先も踏んでやり、ネアは幸せそうなディノの三つ編みを引っ張って会食堂に向かった。
エーダリア達は朝のミサに出る為、今朝は夜明け前にリーエンベルクを出ている。
昨晩の内に連絡を貰っていたのだが、今年は懸案事項が多く、昨年より早い出立になったらしい。
ネア達が眠っている時間に出かけてゆき、そろそろこちらに戻ってくる頃合いだ。
「ディノ、後で噴水の…」
「禁止だ。お前は水辺には近付くな」
おもむろにそう声をかけてきたのは、交差する別の廊下を向こうから歩いてきたアルテアだ。
今日は夏至祭でダンスを踊るからか、こちらも既にいつもとは違う装いに身を包んでいる。
仄かに薔薇色がかった冷たく光る白灰色のジレに、同色のパンツ姿がはっとする程に華やかだ。
「なぬ。朝のご挨拶をする前に、使い魔さんからいきなり禁止事項を増やされました…………。噴水の横を通って、あの篝火に投げ込まれる香木の匂いを嗅ぐのです…………」
「やめておけ。あの香木は俺達も相性が悪いんだ。むやみに近付くな」
「…………ほわ、そうなのですか?」
ネアがしゅんとしてそう呟くと、淡く微笑んだディノが、自分は大丈夫だよと教えてくれた。
「私が君を持ち上げていてもいいのなら、噴水の横を歩いてみようか。君は、あの篝火の香木の香りを気に入っていたようだからね」
「…………ふぁい。でも、そうしてくれることで、大事なディノが弱ってしまったりはしませんか?」
「どこかで系譜などの線引きがあるのだろうね。アルテアもそうだとは知らなかったけれど、ウィリアムやノアベルトも不得手だろう。けれど、私やゼノーシュは問題ない筈だよ」
「まぁ…………。得意不得意があったのですね………。知らずにアルテアさんを弱らせてしまうところでした。………アルテアさん、その時は別行動にしましょうね」
「……………お前を野放しにすると、ろくでもないことを引き起こしそうだな………」
「ディノに持ち上げられているので、野放しではないのです…………」
夏至祭の日には、あわいから怪物達も姿を現す。
妖精や精霊、魔物達の動きが活発になるだけでなく、大晦日のような生き物達も現れるのが夏至祭なのだ。
そんな怪物達が姿を見せるのは夕暮れから夜明けになり、日付の変わる頃から夜明けにかけては厳密には夏至祭ではなくなるので、少し数が減るのだそうだ。
と言うことで、まだ危険度の高い生き物達が出現していないこの時間はまだ、人々は夏至の祝祭の雰囲気を楽しんでいるようだ。
「エーダリア様達は、早めにリーエンベルクを出て朝のミサで大聖堂に行かれていますが、正午の儀式の際にはご一緒する予定です。こちらはリーエンベルク前の広場で行われるのですが、正午のダンスではまずディノと踊りましょうね」
「君のことは必ず守るから、安心していいよ。それと、やはり今日はエーダリア達の動きは早いようだね」
「ええ。………よりにもよって、昨日から向日葵の妖精さん達が遊びに来ているということで、エーダリア様はものすごく嫌な予感がすると、とても遠い目をされて仰っていました………」
夏至祭のこの日には、異種族間での婚姻が実る数少ない赦しの日でもある。
ウィームでは夏至祭ではなくとも聞く話だが、妖精や精霊達は見初めた相手をダンスに誘い、そのダンスの終わりに口付けを贈って自分の恋人にする。
美しい美しい夏至の夜に、結ばれる恋人達は多い。
人ならざる者達は容易く心を奪う程に美しく、そんな生き物に心を寄せる人間達にとっては、境界が曖昧になるというのは決して悪いことではないのだろう。
だからこそ、夏至祭は恐ろしくも美しい。
特に美しく力のある妖精は、精霊などよりは扱いやすいと思われている為に人気があり、現在たまたまウィームを訪れているという向日葵のシー達の動向は、多方面からかなり注視されていた。
「向日葵の妖精は天真爛漫だが、高慢で我が儘だ。一方的に気に入られると、連れ去られる可能性が高い」
「そんな向日葵の妖精さんに見初められたくて、その妖精さん達の周りを昨晩からうろうろしている方も多いそうです。出来ればそんな立候補者の中から選んでくれるといいのですが…………」
「あいつ等は、気に入らない人間は容赦なく喰らうぞ」
妖精や精霊達が甘い恋の言葉を囁くのは、決してその人間に思いを寄せている時ばかりではない。
言葉巧みに甘い言葉を囁き、愚かな人間を森に引き摺りこんで食べてしまうことも多く、夏至祭では毎年そのような被害がかなり出るのだ。
捕食者は心を駄目にするくらいに美しい生き物達であり、甘く魅惑的な言葉が餌になるとかなりの破壊力なのはネアにも想像がついた。
そうして誘われた者達は、領主やガレンの注意喚起を忘れてしまい、家族や友人達からの制止を振り切ってそちら側に踏み込んでしまうことが多く、そうして自らそちら側に入っていってしまう人々を守るのは難しい。
良くも悪くも、その行いは双方共に自然の中のもの。
そうして連れ去られた夏至祭の獲物を、人間が無理矢理取り戻すことは出来ないのだった。
「お前も向日葵の系譜には注意しておけよ」
「恐らく、絶望的なくらいに評価を得られない相手だと思われます。向日葵さんが私を気にかけることはなさそうですね…………」
ネアがしょんぼりとしてそう言うと、ディノはどこかほっとしたようにしつつも、もてない可愛そうなご主人様の頭を撫でてくれた。
ネアは、どうやら夏の系譜の人外者達からはたいそう受けが悪いらしく、なんてつまらない容姿だとか、醜いと貶されることはあっても、攫う程に興味を持って貰えることはないに等しい。
特に夏至祭は、噛み付いたり悪さをするにせよ、気に入った相手だからこそちょっかいをかける日でもあるので、ネアは貰い事故さえなければ高位の生き物からのご指名はなく、比較的安心だと考えていた。
(とは言え、貰い事故もあるだろうし、誰でもいいから齧ったりするという小さな生き物達の悪さも多いのが夏至祭だから、気を付けて行動しなければ…………)
今回は、本来であれば六月の最後の日に行われる夏至祭が、時間石の持ち出し事件でずれ込んでいる。
その分、あわいの向こう側には怪物達がお腹を空かせて待ち構えているので、昨年よりも注意をしておかねばならないだろう。
夏至祭で揺らぐ境界の向こうには、怪物達がたくさんいるのだ。
会食堂にネア達が到着すると、ちょうどゼノーシュが席を立って出てゆくところだった。
給仕妖精に何やら紙袋を貰ってきりっと頷いており、ネア達に気付くと凛々しい顔のままおはようと言ってくれる。
「おはようございます、ゼノ。もしかして、それは今日の戦に備えてですか?」
「うん。僕のグラストは絶対に誰にも渡さない………」
「ゼノ、お顔が!」
「……………向日葵の妖精達は、グラストをすごく気に入ってるんだ。声をかけたりしたら、塩水をかけて、僕がどこかに捨ててくる…………」
「…………ほわ、確かに、グラストさんは夏の系譜な皆さんに人気がありそうな………」
「グラストは僕のなんだから!」
ネア達は、慄きながら荒ぶるクッキーモンスターに同意の頷きを返し、植物の系譜の妖精達の嫌がる祝福付きの塩水をたっぷり用意して殺気立ったゼノーシュが、グラストのいる騎士棟に戻ってゆくのを見送った。
少しでも鎮まり給えとネアが献上させていただいた檸檬クッキーをもぐもぐしながら、いつもは愛くるしい見聞の魔物は、向日葵の妖精達を撃滅してしまったりするのかもしれない。
ちらりと窓の外を見ると、いつもの朝よりも緑が瑞々しく、花々は色鮮やかに見える。
夏至祭の日には様々な生き物達が生命力を強めるのだが、冬の系譜のものは一年の中で一番力を弱める日とされていた。
幸いにも、あわいの者達が入り込み、或いは影響するのは生き物に限るので、冬の系譜の要素を多く使い展開されているウィームの結界などには綻びは生じない。
また、王や領主などの特定の権威を持つ者は、その役目に就いた時に交わす土地の誓約から損なえないようになっているので、その点に於いて、エーダリアの身の安全は保障されているのだった。
「だからこそ、王族達が使い魔を得るには一番いい日なんだがな………」
「エーダリア様は、自分はもう充分だと昨年仰っていましたよ。というか、ヒルドさんとノアが許さないのでは………」
「ダリルも許さないだろうね。ああ見えて、彼はエーダリアをとても大事にしているようだ」
「ふふ、エーダリア様もグラストさんも、大事にされ過ぎているのでご新規さんは難しそうですね。でも、そうだと分かってはいても、みなさんはやきもきするのでしょう」
ネアが何だか誇らしい気持ちでそう言えば、魔物達にじっと見つめられるではないか。
なぜだろうと首を傾げ、ネアは美味しいビシソワーズに視線を奪われる。
我慢出来ずに一口飲んでみたところ、ゴボウの冷製クリームスープだと分かり、ネアは幸せな気持ちで美味しい朝食をいただいた。
勿論、デザートにはエルダーフラワーのシロップをかけたプティングだ。
「今年も袖がないんだね…………」
食事を終えると、そう言ってネアのカーディガンをちょびっとめくる悪い魔物がいる。
ディノは、ネアの夏至祭のドレスが袖無しなのが気になって堪らないようだが、どこで、もっと露出のある舞踏会などのドレスとの線引きをしているのかがネアにはさっぱり分らなかった。
「夏至祭のドレスは、基本的に形が変わらないそうですよ」
「ネアが虐待する…………」
「あらあら、一緒にプールにも行くのに、どうして袖なしのドレスくらいで荒ぶってしまうのでしょうか?」
そんないつものやり取りをしていた時のことだった。
どこか遠くでどかんと音がして、わぁっと人々が声を上げるのが聞こえ、ネアはびゃんと立ち上がる。
「な、何事ですか?!暴動ですか?!」
「妖精の輪があったんだろう。その駆除の音だな」
「……………妖精の輪というと、あの、夏至祭には決して踏み込んではならない輪っか状のもののことでしょうか」
「そういうものがあると、作られていた門を破壊するようだよ」
「……………思っていたより激しい破壊方法だったことに動揺が隠しきれません」
まるで地雷の駆除だとネアは慄いていたが、幸いにも見付かった輪は一つだけだったようで、その後はもう爆発音は聞こえなかった。
朝食を終えた後は、カーディガンを脱いで素肌の部分を祝福と守護のある特別な水で洗う。
これは花輪の塔の周りで踊るのが初めてではない乙女達に義務付けられていることで、僅かではあるが穢れなどを浄化する為のものなのだそうだ。
割合大雑把なネアがびしゃびしゃやっていると、溜め息を吐いたアルテアに作業を奪われてしまった。
ハンカチのようなものを濡らし、それで拭うことでドレスがびしゃびしゃにならずに済み、ネアは、ほほうやるではないかと目を丸くする。
「うむ。良きにはからえなのです」
「お前な……………、去年の二度目のダンスの前はどうやったんだ………」
「む。もちろんこのようにやり、濡れたドレスはディノが魔術で乾かしてくれましたよ?」
「……………ったく」
ネアの腕や足が綺麗に清められた頃、疲れた顔をしたエーダリア達が戻ってきた。
せっかく森と流星のお酒で疲れを癒したばかりなのだが、どうやら既にあちこちで問題が起き始めているらしい。
「エーダリア様、ミサで何かあったのですか?」
「…………いや、ミサでは…………特に問題は起きなかったのだが、魔術大学の方から、昨晩の内に使い魔を得ようと森に入った若者達が五人行方不明になっているという一報が入った」
「愚かなことですし、どうなったのかはおおよそ想像がつきますが、とは言え一度調査をしなければいけませんからね…………」
他にも頭の痛い案件はあるようだ。
ヒルドは片手を額に当てて深い溜息を吐き、ネアはなぜに夜に森に入ってしまったのだろうと学生達の軽率さを恨めしく思った。
「それと、先程リーエンベルク前広場でも、ひと悶着があってな。向日葵のシーの一人が、やはりグラストに手を出そうとしたようだ」
「まさか、ゼノが滅ぼしてしまったのでしょうか…………」
「いえ、幸いにもそのようなことにはならなかったのですが………」
ヒルドが困ったように口籠り、その続きを引き取ったのはノアだ。
朝のミサでの警備で同行しており、今は珍しくミルクをたっぷり入れた濃い紅茶を飲んでいる。
今日は菫色がかった灰色の正装姿で、シャツと髪を結んでいるリボンが雪のように白く、ノアの青紫色の瞳によく似合っていた。
「ゼノーシュが凄く嫌がったらさ、グラストが、今はゼノーシュがいるからそのような申し出には興味がないって断っちゃったんだよね。丁寧に謝り過ぎてその妖精の矜持はずたずただ。あれって多分、ゼノーシュに比べると魅力に欠けるって聞こえたんだろうなぁ………」
「あの妖精は、後半、なぜだか可愛さを競い始めたからな…………」
「その領域で認められれば、グラストの関心を引けると思ったのでしょう」
「困った妖精さんですねぇ。ゼノに可愛さで勝とうとするだなんて、あまりにも無謀なのです」
結果、すっかり心が折れてしまった向日葵のシーは、抜け殻のようになって広場に座り込んでしまった。
正午のダンスがあるので、残念ながらその場で落ち込み続けて貰う訳にはいかないので、騎士達が心の折れてしまったその妖精を広場から運び出したのだとか。
今回ウィームに来ている向日葵のシーは五人だが、アメリアの調査では、その内三人がグラストに恋をしているらしい。
今後の波乱が予想される開幕戦だ。
「…………さて、こちらもそろそろか」
「ありゃ。もうそんな時間?」
「正午と同時に踊り始めなければいけませんからね。…………ネア様、今年も、不埒な輩がいたら排除していただいて構いませんからね。何かをされたということがなくとも、おかしな動きをする者がいれば、事前に危険を取り除いていただいて結構です」
「ヒルド……………」
「わーお。過保護だなぁ…………」
「………とは言え、事故になるよりはいいのかもしれないが」
エーダリアは、立ち上がってどこか遠い目で窓の向こうを見ている。
心配になったネアがノアの方を見ると、事前に発覚して事なきを得たが、今朝のミサを取り仕切る筈だった教会関係者が、昨晩お目当ての精霊にふられてしまい、ショックのあまりに部屋から出てこなくなったという事件が起きていたのだとか。
ミサの段取りを書いた紙を持ったままそうなってしまったので、仲間達が何度も扉を叩き、ようやく扉の隙間から紙を押し出して貰うまでに三時間かかり、かなりぎりぎりの代役交代劇だったらしい。
「では、まずは正午のダンスに行きましょう!」
立ち上がって手を差し伸べると、ディノが優雅にエスコートしてくれた。
正午のダンスでは、ディノとヒルドと踊ることになっている。
夏至祭の戦いはこれからであった。