森と流星の酒と祝福の中
その日の明け方、ネアは胸の奥まで吸い込みたいような深い深い森の香りに包まれて目を覚ました。
あまりの素晴らしさにくんくんしてしまい、頬を緩めて微笑むとむふぅと甘い息を吐く。
幸せな時間だ。
首元に触れる何かがふかふかしていて、心地よくいい香りに包まれていて、まだ夜明けでもう少し眠れそうだ。
頬にあたる風は柔らかく、瑞々しい薔薇の香りもする。
(………………む。薔薇?)
そこでふと、ネアは眠っている筈なのにどうして頬に風が当たっていて、どうしてこんなにも豊かな薔薇の香りがするのだろうと考えた。
あまり知りたくないような気もするが、ここは是非に目を覚ましておいた方がいいような気がする。
「むぐる……………」
何かまずい状況になっていないか警戒しつつ、ネアは念の為にと威嚇の唸り声をあげながら目を覚ました。
すると、まず真っ先に目に飛び込んできたのは、吐息が触れそうな近さで眠っているヒルドではないか。
ぎょっとして変な汗をかきつつ視線を巡らせると、目覚めの幸福感の理由の一つでもあるのか、頬のすぐ横のところにムグリスディノがすやすや眠っている。
どんな経緯でムグリスになったのかは現在調査中だが、やはり状況としては普通ではない。
(でも、………………ヒルドさんがこんな風に寛いでいるのを見るのは珍しいな………)
よく分からないが何だか背徳的な眺めに、なぜかたいへん背筋の伸びる思いで眉を寄せ、清廉なヒルドの寝顔を眺めた。
さわりと風に揺れるのは、孔雀色の長い髪だ。
いつものように結んでいるのではなく、髪を解いているらしい。
なんて美しいのだろうと胸が微かに震えるのは、彼が、かつてのネアにとってはお伽話の中の生き物だった、妖精ということも一因なのかもしれない。
(綺麗……………)
人間と同じ形をしていても、例えばこのネア達の頭上で咲いている見事な薔薇や、ウィームの豊かな森と同じように、ヒルドには大いなる自然の持つような荘厳な美しさがある。
豊かな太古の森を見た人間が思わず感動に胸を押さえるような、底の見えないくらいに深く青い湖を見てその神秘的な色にぞくりとするような、そんな美しさがヒルドの持つ妖精としての美しさだった。
だから多分、ディノや他の魔物達に感じるような感嘆や魅力とは、心の中での動く部分が違うような気がする。
それに、これはネアの勝手な思いなのだが、家族の中では一番怒ると怖いのに、どこか柔らかで守らなければいけない母親のような不思議な近しさと慕わしさもある。
(こんな風に大事なものが美しくて、こんな風に安らかにしているのを見るのはなんて幸せなのかしら)
そう考えると胸がいっぱいになり、ネアはヒルドが眠っているのをいいことにその無防備な姿に微笑みかけた。
そして、そんなヒルドの向こう側に広がっているのが、壁紙でもカーテンの柄でもなく本物の紫陽花の花だと知ると、先程の危機感が戻って来てぞっとする。
どうやらネア達は、知らない間に外で寝ていたようだ。
時刻は夜明けであり、ここが例えリーエンベルクの庭だったとしても不用心にも程があるではないか。
「む…………………むぐぅ」
起き上がろうとすると、ネアの体は毛布の代わりにヒルドの羽がそっと覆ってくれており、その美しさにまたじっと見入ってしまう。
こんなことをしている場合ではないとはっとするまでにはまたしても数分を有した。
すやすや眠るムグリスディノを持ち上げて胸元に押し込むと、上に這い上がるようにしてヒルドの羽を動かさずに抜け出そうとしたが、残念ながらヒルドはネアの腰にも手を回していてくれたようで、ネアがもぞもぞするとヒルドの瞼が震え、鮮やかな瑠璃色の瞳が開いた。
素敵な寝顔をもう少し見ていたかったネアは、起こしてしまったことに少しだけがっかりする。
「…………………ネア様?」
まだ少し眠そうだが、寝起きはいいのか、ヒルドの瞳には開くなり理知的な光が揺れる。
とは言えさすがにこの奇妙な状況をすぐに理解するのは難しいようで、少し掠れた声がなんとも凄艶だ。
「……………外にいるようですね」
「ヒルドさん、私たちはどうやらお外で寝ていたようなのですが……………」
「外で……………。……………っ、失礼しました」
そこでヒルドは、ネアを抱き締めて寝ていたことに気付いたようだ。
微かに目元を染め、気まずそうに手を持ち上げてくれた。
「む?………………ああ、いいえ。ヒルドさんは私を羽で覆ってくれていたので、夜の寒さから守ろうとして下さったのだと思うのです。そして、これはやはり、………………昨日飲み過ぎてしまったのでしょうか?」
「………………であれば、私も昨晩は相当羽目を外したということですね………………。やれやれ、年甲斐もなく飲み過ぎてしまったようだ」
「ふふ。昨日と今日が安息日で良かったですね」
「とは言え、明日に備える為の安息日ですから、あまり不摂生をしないようにしませんとね」
「…………そうでした。明日は戦争ですものね。……それと、今日は花輪の塔を建てる日なのです…………」
「…………幸いにも、時間としてはまだ夜明け前のようですが…………」
「なぬ。夜明け前なのですか?!」
ネアは慌てて周囲を見回したが、言われてみれば確かに、夜明けという明るさや朝靄を主張してきているのはこの不思議な場所だけである。
見えるものがその通りだとは限らないのだった。
(と言うことは、夜明け前なのに夜明けのどこかに迷い込んでいるということなのかしら………。ウィームから遠いところだったらどうしよう………)
ふぐぐと眉を下げたネアに、ヒルドが優しく頬に触れた。
「大丈夫ですよ。私が一緒におりますから」
「…………花輪の塔を見るまでに戻れるよう、私も頑張りますね」
「本来であれば、こうして二人でというのも悪くはありませんけれどね…………」
あえやかに気怠げに、頬にかかった結んでいない長い髪を掻き上げて苦笑して半身を起こしたヒルドは、何を見付けたものかぎくりと体を強張らせた。
「これは……………」
「ヒルドさん?……………ほわ……………」
体を起こして周囲を見回したネアは、思っていたのと違う光景に絶句した。
そこは、深い森の底だったのだ。
いや、それだけだと語弊がある。
ここはネア達がお酒を飲んでいたリーエンベルクの会食堂なのだが、いつの間にかその中に深い森が出現しているのである。
「…………屋内に森が出現しました」
「……………あの壁は、……いや、森が広がっているように見えているだけのようですが、念の為に近寄らないようにして下さいね」
「むぐ…………。迷子が怖いので注意します」
「……………ネア様」
ネアは途端に不安になり、ヒルドの腕をぎゅっと握った。
まだヒルドの羽の内側にいる状態だったので、ヒルドはたじろいだようだ。
先程までの無防備で綺麗な妖精に少し引かれてしまい、ネアはがっかりした。
起こしてしまう前に、あの綺麗な羽に触れておけば良かったと密かに後悔したが、そんな通り魔的欲望は隠さねばならない。
(それにしても、…………いつの間に森が………)
部屋の壁だった部分にはその奥に続く深く豊かな森を彩る大木が見えており、朝靄に包まれたその深い森は、どこまでも歩いてゆけそうだ。
ネア達が眠っていたところには、見事な大輪の薔薇を咲かせた大きな茂みがあり、隣には淡い水色と瑠璃色の花をつけたこれまた立派な紫陽花の茂みがある。
絨毯の上には柔らかな下草が生え、可憐な水色の花をつけていて、その花々が風に揺れるたびに淡く光っている。
(昨日、一緒にお酒を飲んだみんながいる)
ネアは、そんなことにも驚いた。
ここが会食堂の中なのだから当然だが、とは言えまさかいつもの部屋に森が広がり、ここにみんながいるとは思っていなかったので、まだ実感しきれていないのだ。
大木の根元にある穴に収まるようにして寄り添って眠っているのがゼノーシュとグラストで、転がり倒れて水仙の茂みに覆われてしまっている椅子の横で眠っているのが、エーダリアと銀狐だ。
立派なテーブルや部屋の扉、そして窓から見えるリーエンベルクの中庭などはまったくそのままだが、この会食堂の中にだけ深い森が出現しているようだった。
そうして、確かに窓の外はまだ真っ暗だ。
(…………時計があった。………まだ夜明けまで二時間くらいあるんだ…………)
ネアは飾り棚の上の時計を発見し、その時間に驚く。
先程のヒルドは、この時計を見たのかもしれない。
「………………森と流星の酒は、森の美しさを見せてくれる酒ですから、何か他のものと反応して、このようなことになった可能性がありますね。ネア様、お体に異常などはありませんか?」
周囲を見回してそう分析したヒルドに問われ、ネアは自分の体の異変に気付いた。
またしてもへにょりと眉を下げると、ヒルドが少し不安そうにこちらを見る。
「……………それが、草地になってしまってはいますが、床に寝た筈なのに、とても気持ちのいい寝台でぐっすり眠ったように気分爽快なのです。このまま狩りに出たら山一つ襲ってしまいそうなくらい、元気いっぱいの爽やかな気分です!」
「……………言われてみれば、私も随分と体が軽いですね…………」
「もしや、この素敵な深い森に癒されてしまったのでしょうか…………」
「そうであるならば、これは祝福のようなものかもしれませんね」
みんながぐっすり眠っているのも、何だか不思議な光景だった。
胸元に突っ込んだムグリスディノも目を覚ます様子はないし、エーダリア達も起きだす様子はない。
ネアの手を握って離れないようにしてくれたヒルドが、眠っているエーダリアの肩を揺すってみたが、ぐっすり眠っているままだ。
少し考え、ヒルドは一つの結論を出した。
「ここは、あの森と流星の酒が見せる祝福の中なのかもしれないですね」
「祝福の中……………」
「ええ。祝福などの魔術が視覚化されることがあるといいます。高位の魔術師などは己の編んだ術式の中を歩けるそうですから、そのようなものかもしれませんね。恐らく、……ここで寝ている全員が目を覚まし、齎された祝福が定着すれば我々もここから出るのでしょう」
「……………まぁ。……と言うことは、本来なら私達も眠っている筈だったのですね?」
「ええ。………飲んだ量が少ないということはないようですし、特に多かった訳ではありません。…………私と、ネア様だけが飲んだものは…………」
「…………あ、目にいい薬草のお酒でしょうか?」
「…………あの中の薬草の一つが、覚醒に繋がるものだったのかもしれませんね」
「…………………ふぁ」
ネアは壁の向こうに広がる森を眺め、ヒルドの羽が微かに煌めいていることに気付いた。
唇の端が持ち上がっているので、怒っているのではなく、思いがけず迷い込んだ祝福の中の世界を楽しんでいるような気がする。
ふくよかな素晴らしい香りは、森と花の香り。
風のあまりの心地よさに、ふにゃんと崩れ落ちてしまいそうだ。
「……………心地よいところですね」
「ええ、胸の奥まですんとするような、不思議で素敵なところです。一人だけだと不安になってしまったかもしれませんが、ヒルドさんが一緒にいてくれるので、安心してここにいられますね」
そう言って繋いだ手をぎゅっとすると、ヒルドはふわりと微笑んで悪戯っぽく目を細めた。
「おや、そう言われてしまいますと、また少し羽目を外したくなってしまいますね」
「…………む。危ないことでしょうか?」
「時には危ういものに手を出すのもいいかもしれませんね。…………こうして、二人きりなのですから」
「……………むぐ」
すいっと伸ばされた手に顎を持ち上げられ、頬に祝福の口付けが落ちる。
ネアは、これはまさか祝福を贈らねばならないような危険なことをするのだろうかとひやりとしたが、こちらを見て淡く苦笑したヒルドの表情を見るに、純粋に家族としての祝福であったようだ。
ばさりと音を立て、ヒルドが羽を広げた。
「ほゎ…………きらきらです」
「そう言えば、ここ暫くネア様に妖精の粉を差し上げていませんでしたからね。……せっかくの時間ですから、有意義に使いましょう」
「お、美味しい粉!」
ネアは喜びに弾むと、とは言え離れると危ないですからねとくすりと笑ったヒルドにひょいと持ち上げられた。
魔物達よりは儚げに見えるが、ヒルドはかなり力持ちでもある。
それに、こうして持ち上げて貰うと、ヒルドが広げた羽に近くなるのだ。
(……………痛くないようにしないと)
妖精の内羽はかなり敏感で、触れられるととても痛い筈なのだが、ヒルドはこの給餌の時には内羽の粉をくれることが多い。
ネアはいつも外側の固そうな羽に手を伸ばすのだが、ヒルドがそっと内羽にネアの指先を導くのだ。
妖精の羽は、触れてみるととても柔らかいし、温度もある。
ネアは一度しっかり触らせて貰ったことがあるのだが、宝石を削ったように見えるのに薄い皮膜のような手触りで、尚且つ触れたところの色がざわりと変わるのが不思議で美しくて、いつまでも触っていたいくらいの特別な体験だった。
「……………むぐ。……痛い触り方ではないですか?」
「………………ええ。全くそんなことはありませんよ」
指先でそっと撫でるようにしたのだが、ヒルドがどこか悩ましく息を詰めたので、ネアは心配になってしまった。
(…………と言うことはやっぱり、ヒルドさんは痛いのが好きな方だから、あえての内羽なのかな…………)
妖精の羽は、怒りや喜びに応じて光るのだそうだ。
妖精の粉は羽が光っている時にしか落とさず、痛みを好む彼が羽を光らせてネアに妖精の粉を与えてくれるには、その需要と供給が成り立っている必要があるのだろう。
(となるとこれは、ディノの三つ編みを引っ張ったり、爪先を踏んでいるような状態でもあるのかしら…………)
この危険な趣味を助長しても良いのだろうか。
そんな可能性にも苛まれたが、ネアは不都合な真実は忘れ去ることにした。
妖精の粉はとても美味しくて、あまり頻繁に食べられないものだ。
ネアにとっての禁断の果実のようなものなのだが、ここで食べ過ぎて夢中になり、大事な家族でもあるヒルドを、常備おやつとして厨房に軟禁してしまったりしないように己の中の残忍な心を鎮めておかねばなるまい。
「……………っ、」
「む!…………食べ過ぎてしまいました。こなこながなくなると、飛べなくなってしまったり…」
「いえ、今のは………そうですね、少し擽ったかっただけですから。それと、飛べなくなったりはしないのでご安心下さい」
「……………でも、ヒルドさんは大事な家族のような方なのでふ。………それなのに、自分の食欲が恐ろしくなりました。ヒルドさんに嫌われないように、自制します…………ふぎゅ」
「おや、家族なのであれば、少し我が儘を言っていただけた方が、私は嬉しいですよ?」
「……………ほぎゅ」
ネアの目が未練がましく羽に釘付けなのに気付いたのか、ヒルドはそう言って微笑んでくれる。
脆弱な自制心しか持たない残念な人間はその言葉に甘えてしまい、その後もまた、美味しい妖精の粉をいただいてしまう。
みんながお酒の祝福から目を覚まし爽やかな夜明けに目を瞠っているその時、ネアは名残惜しく口をもごもごさせてしまい、エーダリアにどこか疑わしそうな目で見られてしまう。
なお、今回のお酒の効果は魔物達の方が強かったようで、幸せそうに眠りこけていた魔物達が起きるまでには人間より時間がかかった。
妖精の粉のおやつをいただいた人間は、魔物に内緒のおやつタイムがばれずにほっとしたのであった。