ダンダリオン
ふくよかな夜闇が落ち、ダンダリオンはふぅと息を吐いた。
目の前に広がる夜の海を眺め、海を明るく照らす満月の美しさにダイアナの微笑みを思う。
いかに美しいとは言え、定型通りの彼女を既に伴侶を持つ自分が個人的にどうとは思わないが、彼女の齎らす月光にこの世界が染まる様はえもいわれぬ美しさだ。
こんな夜は一人静かに海を眺め、美味い酒でも飲みたいものだと、夜の海風に帽子のつばを押さえる。
「やれやれ、坊ちゃんにも困ったものですな」
そう微笑んだダンダリオンに、背後でこつりと靴音が響いた。
誰がそこにいるのかは知っていたので、ダンダリオンは唇の端を緩め、古い知人を迎え入れる為の微笑みを浮かべた。
闇を踏み分け、海辺の人気のない桟橋に姿を現したのは、ダンダリオンより遥かに高位の魔物だ。
初夏の海辺に落ちる青い闇の映える白い麻の装いは、彼を良く知る者であればさもありなんと呟く彼らしい装いだが、何も知らない者が見れば、軽薄な洒落者にも、酷く不穏な生き物にも見えるだろう。
誰の目にどのように映るのかを計算の上、彼は器用に遊ぶ魔物の一人だ。
「相変わらず食えない男だな」
「アルテア様、ご無沙汰しておりました」
「してないだろ。お前とは直近でも何度も会ってるぞ」
「おや、それはあなた様の別の姿、別の名前でのこと。数の内に入れても宜しかったのですかな?」
「お前が気付かない筈もないからな」
そう呟き隣に立ったのは、選択の魔物。
魔物達の中でも特等の公爵の一人、同族ですら何かと手を焼く奔放な魔物の一人だ。
「であれば、あまり坊ちゃんを誑かされませんよう。あの方は聡明ですが、策に溺れないとは言えない。人間はどれだけ生きようともやはり我々よりはまだ若いのです」
「………お前が言えた口か?勝手にあの歌乞いを利用するなよ。あいつはシルハーンの歌乞いだ」
「おや、私があの方にお会いしたことをもうご存知とは、さすが耳が早い」
「俺が適当なところで破綻させようとしたものを、お前が獲物に警戒させないようにと擬態させた。誑かしているのはどちらだろうな」
「アルテア様に言われなくとも、シルハーン様はお気付きでしたよ。私をじっと見つめられて、この老いぼれから誓約を引き出した。………いやはや、あの方はやはり恐ろしい」
川から街まで吹き込んでくる風に揺れた、青灰色に擬態した長い髪を思い出した。
同行していた歌乞いがこちらに手を貸す姿を一瞥し、水面を揺らさない深淵のような瞳で淡く微笑んでいたあの姿を。
あの店の前で会った時からもう、王はダンダリオンに気付いていたのだと思う。
あえて言及しなかったのは、ダンダリオンの資質を考えたものだろう。
姿を変えていたから誰だか分からなかったと言われはしたが、契約した歌乞いがダンダリオンを助けた時、あの方は決して表情通りに微笑んではいなかった。
ひたりと静かな目を向けられ、ダンダリオンは自分の思惑の全てを見透かされているような気がしたくらいだ。
そうして、ダンダリオンがハーシェッドを窘めあの歌乞いの手から遠ざけた時、あの方は、彼女は自分の指輪持ちだと明かし誓約を求められたのだ。
(その通り、確かに擬態はさせた)
ハーシェッドを見た時に、あの歌乞いの少女は微かだが警戒するような眼差しを見せたのだ。
であれば一度は取るに足らない卑小なものに思わせ、それを受けたあの少女の下す評価がリーエンベルクに浸透する頃に、距離と時間を置いてから再び仕切り直せばいい。
そう思ったのは確かではあるが、こちらを見た王の瞳の冷酷さに、距離を取るだけではなく手出しをしないという誓約を吐き出してしまった。
それは階位によるもの。
或いは、この身では抗えぬ絶対的な畏怖によるもの。
姿や形を変えて隠すことを常とするダンダリオンとて、絶対的なその存在には服従せざるを得ない。
(可能だろうかとも考えないではなかったが、やはりあの方の目を見て、あの方には逆らえぬな…………)
さすがのダンダリオンとて、王の伴侶になるような人間には手出しはするまい。
標的を油断させるのに良い駒となりそうだったのに残念だ。
そう考えてやれやれと思い、ハーシェッドには、あちらの歌乞いには手を出さぬようにと言い含めておいた。
ハーシェッドは、聡明な子供だ。
家令としてのダンダリオンの言葉と、魔物としての忠告を巧みに聞き分ける。
彼は神妙な面持ちで頷き、芽吹きの祝福を有しているのはグラストだからと、あちらの少女には手を出さぬことを、そして彼女を用意した陰謀の道具にせぬことを誓ってくれた。
後はもう、どれだけ警戒されたとて、あの通りの少しうっかりな坊ちゃんのままで接していればいいのだ。
それがザルツ伯爵の纏う仮面の一つだと、あの少女がいつか知るとしても、今後あの歌乞いとは必要以上に関わらなければ問題はないだろう。
(これでいい)
勿論、あちらの騎士の方にも契約の魔物がいるが、見聞の魔物と言えば、心優しく穏やかな性質で、人付き合いなどもあまり好まない内向的な公爵である。
あの騎士の契約の魔物が公爵だとは今まで知らずにいたのだが、先日の会談の際に、ゼノーシュの方から自ら明かしたのだ。
ダンダリオンが秘密を司る魔物であるので、隠し通すのも煩わしいと余分を省いたのだろう。
(それがかえってこちらには有利に働いた。器用で狡猾な中階位の魔物より、好戦的ではなく穏やかな気質の高階位の魔物の方がどれだけ楽なことか)
公爵となればそれなりに力を持ってはいるものの、かの公爵の執着の範囲は食べることであり、他者との関わりをあまり好まない彼が、己の歌乞いになったとしても同性の人間の騎士に向ける執着などどの程度のものか。
彼が望み請うのは、まず間違いなくあの騎士に齎される食事に違いない。
(ウィーム領の不利益を望むことはない。であれば、リーエンベルクを損なうのは表向きは避けたいところだ。だが、ハーシェッドの交渉をことごとく受け流してしまうあの騎士は、このまま放置しておくのも厄介………)
グラストというあの人間は、何か強い祝福を得ているようだ。
その祝福が邪魔をして、なぜかあの騎士が交渉に立つと、ザルツの老獪な貴族達は馬鹿正直に対応してしまう。
これはどうしたことだとザルツ伯爵自らが交渉に臨んだが、結果は同じであった。
そうして、ダンダリオンがその理由を探ったのだ。
すると、春の系譜の妖精が、渋々であるが、つい最近ウィームの歌乞いが芽吹きの祝福を贈られていたと明かしてくれた。
芽吹きの祝福は何度か効果を得られる、表面化していない災難や不利益を知らせる祝福で、これを持たれていると今後も幾度となくこちらが損失を出すこととなる。
であれば剥ぎ取ってしまおうと考えていたのだが、ダンダリオンが思うよりも、得意とする交渉の場で身ぐるみを剥がされたハーシェッドの恨みは深かったようだ。
もう少しその歌乞いから何かを奪いたいと、この選択の魔物の道筋を辿り、彼にも一枚噛まないかと持ちかけたらしい。
(人間が関わるには、いささか手に負えない魔物なのだが………)
アルテアは、自身のそこまでのものをハーシェッドには見せず、ハーシェッドはこの魔物は厄介だが交渉は可能な者だと認識したのだろう。
このあたりが、アルテアの厄介なところなのだ。
(とは言え、過小評価させて動きやすくするのは、私もよく使う手だ。それに引っかかるのであれば、残念だが坊ちゃんにはまだこの相手を見定める技量がないのだろう)
かくして、ダンダリオンは久し振りに選択の魔物と相対することとなった。
ダンダリオンとて、この魔物とは余程のことがなければ接触したくないが、彼は幸いにもヴェルクレアの第一王子と懇意にしているという。
また、リーエンベルクでの儀式などにも顔を見せており、現在はリーエンベルクに滞在している王の手前、真面目に統括の魔物としての役目を果たしているようだ。
そのあたりの枷を使い、今回は少しの便宜を図って貰うこととしようか。
しかしながら、可能であればという範囲ではある。
元々、利益を上げるというよりは損失を防ぐ為に始めたことだ。
その為に損失を出してまでする調整ではないので、あまり反応が良くなければハーシェッドに手を引かせればいい。
そう考えて選択の魔物に向かい合ったその時、二人しかいない筈の海辺にもう一人の男が現れた。
鬣のような深い黄金色の髪は肩口まであり、その瞳は陽光の欠片のような琥珀色だ。
人間が見れば、彼をただ美しいと言うだろう。
だが、魅せられるかどうかと言えば嗜好が分れるに違いない。
堂々たる王のような振る舞いや造作には、翳りのような繊細さは微塵もなく、悪しき者達が纏うような仄暗さもない。
夜の海辺の景色を、豪奢な王の間に変えてみせるような精神圧は、彼が派生した交響曲そのものの鮮やかさであった。
「ダンダリオン、お前はまた悪巧みをしているのか」
「ゴーディア…………」
彼は獅子の姿をした精霊として派生したが、こうして高位の精霊らしく人型の姿を持っている。
音楽の精霊の王族の一人であり、最も古い精霊の仲間として、一族の中での階位は最高位に満たなくとも他の一族の精霊王にも匹敵する力を有している者であった。
お互いに司る領域や扱いやすいものが違うとは言え、ダンダリオンが決して敵に回したくない精霊の一人でもある。
「アルテア、久しいな」
「お前まででしゃばってくるとは思わなかったな。どれだけ過保護なんだ」
「そなたとて過保護さでは、私のことは言えまい。…………あれはな、ダンスとなると死にかけの駝鳥のようになってしまうが、バイオリンの腕は銀のバイオリンにも負けぬよい奏者なのだ。どれだけ手のかかる人間とはいえ、私は良き音楽を奏でるものには相当の守護を与えるのでな」
「その割には、音楽室以外のところに欲を出し過ぎたな。俺の手を借りたいと言いに来たのはあの男だ。それを、こうも保護者面で割り込むくらいなら、たかが祝福一つで不相応な野心を抱くなと学ばせた方がいい」
「すまぬ、それは尤もだな。それと、ダンダリオンについてもしっかりと手綱を握っておこう」
「………ゴーディア、あなたは関係のないことでは?」
「それがな、関係があるのだ。お前達は誤解しているようだが言っておくが、ハーシェッドとお前が話していた芽吹きの祝福を持っているのは、万象の魔物の指輪を持つ歌乞いなのだぞ」
(…………………あちらの?)
一瞬、その言葉を飲み込むまでに僅かな時間、返す言葉を失った。
であれば、自分とハーシェッドだけが噛みあわない会話をしていたのかと思えば、アルテアも意外そうにしているではないか。
それはゴーディアも意外だったのか、目を丸くする。
「…………なんだ。そなたも知らなかったのか。仮にも、使い魔になっているくらいの仲なのだろう?」
折角頭の中を整理し終えたところだったのに、今度はその言葉の齎す嵐に、ダンダリオンは翻弄される。
困惑したまま選択の魔物の方を見れば、片手で乱暴に頭を掻き、疲れたように溜め息を吐いた。
「………………成程な。春告げの時のあれか」
「ふむ。そなたもハーシェッド達が標的としているのはグラストだと思っていたのだな。やはり、危ういところだったようだぞ、ゼノーシュ」
「もう僕のグラストを狙ったりしないかな」
涼やかな声が聞こえたのは、その時だった。
ゴーディアの後ろから顔を出した少年に、ダンダリオンはぎくりとする。
ダンダリオンが知っている見聞の魔物は、いつもどこか眠そうな目をして何かを食べている魔物だった。
こんな風に、魔物らしく檸檬色の瞳を翳らせ、目の前の魔物を引き裂けなくて残念だという表情をするのは見たことがない。
「……………ゼノーシュ様」
思わず愕然とその名前を呼べば、じっと見上げる淡い色の瞳にはどこか嫌悪にも近い鋭さがある。
「ゴーディアに、ダンダリオンとあのザルツの伯爵が、僕のグラストに悪いことをしようとしてると教えて貰ったんだ。だから僕はね、僕がここにいるよってダンダリオンに言ったんだよ。…………僕ね、あんまり戦ったりするのは好きじゃないから、魔物を一瞬で殺せるものを貰ってきてあるの。……………あ、アルテアは死なないように避けてね」
「…………その封筒はあれだな。いいか、くれぐれも中身を出すなよ」
そう言って見聞の魔物がポケットから取り出したものはただの黒い封筒にしか見えなかったが、なぜかそれを見た途端、アルテアがじりっと後退する。
(第三席の公爵を怯えさせる程のもの……………?)
とすれば、中には何が入っているのだろう。
術符の類か、紙面に添付した呪いのようなものかもしれない。
そう考えてみることは出来たが、それにしてはやはり、アルテアの反応が過剰過ぎる。
「ダンダリオンが反省すれば出さないよ。…………それとね、こんな悪い奴がいるんだって話したら、ほこりも来てくれたの」
次にゴーディアの後ろから顔を出したのは、白に薄桃色の髪と淡い水色に金色の斑の瞳を持つ、ぞっとする程に美しい魔物だった。
膝上までの青いフードつきのケープを纏い、フードを深く下している。
だが、覗いている部分の面立ちを見ただけで、ダンダリオンはその凄艶さに膝が萎えそうになってしまう。
白持ちだが、見たことのない魔物だ。
美貌と言う点に於いては、最高位に近しい者達には及ばないかもしれない。
だが、こちらを見ているその魔物の美貌は、ダンダリオンが知っているどんな魔物にも似ていなかった。
こんな美しいものが存在するのかと思い、じわりと額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。
その肉体の反応の不自然さに眉を持ち上げ、目の前の美しい魔物に視線を戻す。
すると再び、背筋に冷たい汗が浮かぶではないか。
(……………悪食か)
この本能的な恐怖を掻き立てるものが、他にある筈もない。
だが、抱いた嫌悪感とは裏腹に視線はその美貌に釘付けになってしまい、ダンダリオンはかなりの努力の末、何とか視線を持ち上げた。
「おい、何でお前がここにいるんだ」
「アルテアが悪さをしたら食べる為?」
「食うのはダンダリオンだろ。やめろ」
「グラストとネアを苛めるのは、この魔物?」
「うん。でも、ダンダリオンが悪さをしようとしてたのは、グラストだよ。ネアのことも困らせるかもしれないから、もうやめるって言わないなら食べちゃってもいいかも」
「ちょっと骨っぽいけど、美味しいかな」
「これこれ、まだ彼を食べないでくれ給え。私がきちんと反省させるからな」
少し慌てたように、ゴーディアが自分の後ろにいる魔物達を窘めた。
瞳の色や背格好の似ている二人の魔物は、顔を見合わせて首を傾げている。
華奢な肢体に無垢な眼差しをしているが、交わされている言葉を考えてダンダリオンはぞっとする。
この魔物達は今、ダンダリオンを悪食の魔物の餌にするかどうかを思案しているのだ。
ゴーディアの言葉に、見聞の魔物が眉を顰めた。
「反省してるのかな?僕、まだ謝られてないよ」
「骨っぽくてもいいや。お腹に入れば一緒だもの。食べちゃおう」
「ダンダリオンには、私からしっかりと謝罪させよう。その上で、そなた達の心を宥めるだけの詫びの品を用意させる。それなら、許してくれるだろうか?」
同僚を食べられてしまうと困るなとゴーディアは苦笑し、二人の魔物の頭を撫でた。
二人の魔物達は勝手にゴーディアのポケットを漁り、彼がいつも持ち歩いている珈琲味の飴を奪い取っているが、音楽の精霊は叱るでもなく好きにさせていた。
案外、元々の知り合いなのかもしれない。
「僕、お菓子!ネアの分もね」
「祟りものがいいなぁ」
「お菓子と祟りものだな。………ダンダリオン、待たせずに手配するのだぞ」
「…………………ゴーディア、念の為に確認をするのだが、芽吹きの祝福を持っているのは、王の歌乞いの方なのだな?」
「そうだ。それなのにそなたとハーシェッドは、何を勘違いしたものか、人違いであの騎士を損なうところだったのだぞ。…………そうだな、どうしても芽吹きの祝福が気になるのであれば、そなたの王と、ここにいるほこりと話をするがいい。その場合、アルテアも黙ってはいまいがな」
「冗談ではない。王の指輪持ちなど、損なえるものか」
痛む頭を片手で押さえ、ダンダリオンは美しい満月を見上げた。
今年は、時間石を持ち出した者がいたという事件があり、時間の座の精霊が時間をずらしているので、夏至祭は明後日の夜からとなる。
それまでに、こちらを見ている二人の少年への謝罪を済ませ、ザルツでの夏至祭での対策にあたらねばならない。
(妻の仕立てた夏至祭のドレスの受け取りもまだだった………)
何と忙しないことだろうと溜め息を吐き、呆れ顔でこちらを見ているゴーディアから顔を背けた。
ふぅっと息を吐き、深々と頭を下げた。
ゴーディアがその奏者としての腕に惚れ込んでいるように、鍵の魔物は代々ザルツ伯という者に惚れ込んでいるのである。
ハーシェッドの代理妖精を妻に持つダンダリオンは、更に今まで以上にあの一族との関係を深めてもいる。
(妻が溺愛する坊ちゃんの為だ。腹を括るか…………)
長い夜になりそうだと、溜息を吐いた。