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紫陽花と濡れ緑




ふっと、胸の底から吐息がこぼれた。

その深さと穏やかさに胸が潰れそうになり、夜明けのウィームの森を見ていた。

柔らかな雨に濡れた紫陽花の色に心が緩む。


穏やかな朝だ。

そう考えて窓を開け、禁足地の森からの清涼な風に目を細めた。




『今日はあなたの誕生日ね』



そう微笑んだのは、姉だっただろうか。

夫に短く裾上げしてしまったドレスの文句を言われながら、彼女は嬉しそうに目を細めて微笑む。


美しい人だった。



その微笑みを思い出したのは、あの日以降初めてだ。

なぜ唐突に思い出したのかは分からないが、数年ぶりにその健やかな微笑みを思い出して胸が軋んだ。



あの戦の時、殆どの女子供達はあの島から逃れたが、姉は、殺された小さな妹達に駆け寄ろうとして、ハルフィーラにその場で体を引き裂かれた。

首を落とされた父の亡骸に取り縋る母と、その母に逃げろと叫んだのは叔父だろうか。

ハルフィーラは、かつて自分の求婚を断った母を許していなかったのか、父を殺され詰め寄った妹達の次に殺されたのは母だった。


辛うじて息のある姉を任せ、彼女の伴侶であった従兄弟を何とか逃がし、自分は残って戦うと言い張った弟を無言で首を振ってやはり外に押し出すと、女子供達の脱出の指揮を任せると告げて扉を閉じた。



けれども、その誰もが、生きてあの島を出ることはなかったのだ。




戦いは長く続いたが、なぜかどこかから、もろもろと兵達が死んでゆく。

戦っても戦っても、能力的には有利だった筈の仲間達が勝つことはない。


その謎に気付いた時にはもう、戦は終わりに向かっていた。

とある国の王妃を乗せた船が港にやって来て、その王妃の守護をする精霊がこの戦に力を貸していたのだと知った時には、殆どの者達が拘束されていたのだろう。



ヒルド達が住んでいた島には、人間の国が三つあった。

決して狭い土地ではなかったものの、その船でやって来た国の女は大国の王妃で、彼等はその国に楯突くことを望まなかった。


(それを恨んだことはない。あの船が発つ日、港には無残に焼け爛れた森を見て、泣いている者達が大勢いた…………)


あれは恐らく、航路上の他の国々に向けた牽制でもあったのだ。

たまたまあの王妃が、他国の宴で、シーであることを隠し同じ島の人間の国の王女達をエスコートしていたヒルドを目に留め、そうして祖国を滅ぼしたのだとしても、また別のところでは政治的な思惑もあったのだろう。



現王の人となりを知るまでは、自分の振る舞いが祖国を殺したのだと考えていたが、ただの殺戮で他国の領内を侵すことをヴェルクレアの現王は許さないと知り、自分は最も不愉快な理由だけを聞かされていたのだと理解した。




捕らえられ、後ろ手に縛られて跪き、あの王妃の精霊のその手で羽を捥がれた。


全員が捕縛された場面で、王は自分であると声を上げたのは、妹の夫だった友人だ。

彼も確かにシーであったし、恐らく服従により国を残して再起を誓う為には、誰かがそうしただろう。

一族には王にしか使えない継承魔術が幾つもあり、王にしか守れないものも幾つもあったからだ。

王を合わせ、三人のシーが生き残りさえすれば、羽を落とした女子供に再び羽を授けることも出来る。

その為にヒルドが王となったことは秘されており、他のシーや騎士達以外の一族の者には、勇猛さで知られた彼が新代の王だと伝えられていた。



たった三人。

三人いれば国を再興出来たかもしれなかったのに。




『では、この妖精の隷属と引き換えに、お前達を見逃してやろう』



あの王妃が気に入ったというヒルドを差し出すことで、騎士達や王族の女達も見逃される筈だった。


自分は王だと名乗った友や彼の部隊の騎士達、そして弟達の中では唯一生き残った二番目の弟は、ヒルドの目の前で粛清されてしまったが、従兄弟達の伴侶に子供達、弱き者達を逃れさせる為に囮になったシーの女達は、隷属を誓う代わりに生き延びられると約束されていた。



けれども彼等がしたのは、ヒルドを船に乗せてしまった後、その場にいた全ての仲間達の首を落とすことで。


例えばせめて、もう一人くらいでいい。

一族を再興するのには足らずとも、それでも誰か一人くらい。

気に入っただとか、使えそうだからだとか、そんな下劣な理由であれ、せめて殺さずにいてくれればと何度思っただろう。

それなのに、ただヒルドの羽を捥いだ時に身動ぎしたからという理由で、彼等は皆殺しにされた。



ヒルドがその真実を聞かされたのは、ヴェルクレアに来てから数年後のことで、それまでの間、いつかの再起を夢見て屈辱に甘んじたヒルドは、その夜、ただただ、髪を掻き毟り声にならない声を上げて顔を覆っていた。




第二王子の母である妃を殺すようにと言われたのは、その後のことだ。




恐らく、仲間達が生きていると信じている限りはその命令を受けまいと思い、ヒルドに真実を明かしたのだろう。

或いはそれも、ただの戯れだったのか。




『まぁ、あなたはとても美しい妖精なのね。息子が熱心に見に行っていたという妖精かしら?』



あの夜、ヒルドが自分を殺しに来たと知っている筈なのに、その女性はこちらを見て淡く微笑んだ。

逃げ出す素振りも怯えることもなく、嬉しそうに微笑む人間に胸の奥の柔らかな部分が掻き毟られるような気がする。



『もう、わたくしに仕える者が誰もいないのは知っていてよ。…………それと、ご覧になって。わたくしはこの通りもう、長くはないの。あの精霊に、体が泥になって崩れてゆく呪いもかけられているのだから。…………だからどうか、あなたが殺して頂戴。幼い息子に、母親が呪い殺されてゆく様などは見せたくないのです。それにね、あの方にとって目障りなわたくしがいなくなれば、息子の身の回りも少しは安全になるでしょう』



その妃が死にかけているのは知っていた。

かけられたのは咎竜の呪いの一種で、誰にも解けないと言われた咎竜の呪いのかけられた箱を、わざと彼女に開かせたのだと。



『そんな目をしてはいけませんよ。わたくしの祖国は、妖精達にもとても愛された美しい国だったのだと聞いています。であればわたくしは、誰でもなく、あなたのような者の手でこの生涯を終えたい。ふふ、こんなに綺麗な妖精に最後に会えるだなんて、わたくしにもやはり、祖国の祝福が残っていたのでしょう』




細い指がヒルドの手に触れる。

この国に来て初めて女の手を悍ましいと思わず、微笑む緑の瞳を見返した。



『恥じる必要はありません。恐れず、そしてどうか苦しまずにお帰りなさい。あなたは愛する者を守る為に自分を差し出した誇り高い妖精なのだと聞いています。…………私の家族も、愛するものを守る為にあの北の離宮で死んでいったそうです。…………だからわたくしは、そんなお父様やお母様達が残してくれたものを繋ぐ為に旅立つのです。………一つだけ。わたくしを救ってくれたあなたには重荷でしょうが、どうか一度だけ、わたくしの息子に微笑みかけてあげてくれますか?あの子は、あなたを見かけたという日からずっと、妖精の本ばかり読んでいるの。………………この王宮では、声を発することの危うさを知って何も言わない子だけれど、あの子は聡明で優しい子です。そして、あなたが大好きなの』



その夜、ヒルドは初めて敵意のない者を殺した。

無垢で優しく、愛する者を残してゆく憐れな人間の母親を殺した。

彼女が目を覚ましていたとは誰にも言わず、眠っている間に殺したと言うに留めた。



心が崩れてしまいそうな思いでその部屋を後にする時、扉の外で涙を流しながら頭を下げた者達がいた。

ウィーム最後の姫を、眠るように終わらせたヒルドへの感謝だったのだと思う。


その日の夜、殺し方が依頼と違うとヒルドの目を抉り出そうとしていた虐殺の精霊を止めたのは、正妃だ。

彼女の息子が、王に目をつけられていると母親を説得してしまったらしい。


ヒルドの目を食べるのだとご機嫌だった精霊達をも説得してしまい、まだ少年であった彼は、ヒルドをその部屋から連れ出すことに成功したのだ。



『……………苦しまずに死なせてやったのか。……………あの方が惨いことをさせたな、すまなかった。……………いや、こんな言葉では足りないのは分っている。だが、私にはそのような言葉しか選べないのだ』



そう言った王子の指先は震えており、後から、彼はあの妃も救うつもりだったのだとドリーに聞かされた。

鎮魂の鐘が鳴り響く王宮で、小さな弟に何と言葉をかけるべきか思い悩み、契約の竜に背中をさすられていた第一王子は、あの正妃がこの世に与えた唯一の善なるものなのかもしれないとぼんやり思う。



その考えをあらためたのは、あの夜に命を奪った第二王妃の息子王子を庇護するべき者だと認識してからだ。



あの正妃もまた、この国にとっての他国に対する盾であり、かけがえのない抑止力である。

エーダリアを自分の弟や妹達のような目に遭わせたくないと思ったその日に、あの正妃の力はこの国には必要なのだとようやく理解した。

そのような意味において、彼女が正しいものとして受け入れられているからこそ、この国の民たちは彼女に眉を顰めはしても拒絶はしない。


彼女という盾を飼い馴らす為の地位が正妃であり、あの荒事を好まない王が彼女の行き過ぎた振る舞いにある程度目を瞑るのは、正妃という名の獣を飼う為の餌なのだろう。


言ってしまえば、エーダリアの母親が殺されることを許したのはあの正妃への贄であるのと同時に、あの正妃ならばという認知の下、国を分割しかねない不安要因を上手く排除したのだとも考えられる。


好々爺のように見える宰相の狡猾さはダリルとて舌を巻く程であるし、人間にしか持ち得ないしたたかさや周到さ、そして国を生きながらえさせるのには不向きな僅かな繊細さに懐の広さという意味では、現王と宰相の組み合わせは秀逸であった。


良きものばかりが正しい訳でもなく、悪しきものが全て排除されても成り立たない。

塩の魔物に呪い殺されてゆく父王の下で、あの女を娶った時から現王にも相当の覚悟はあっただろう。



(……………随分、遠くまで来た)



あの小さな子供が禁術を使い、ヒルドを自由にしてからここまで。

それでも常に足元を気にし、息を潜めて暗がりを歩くこともあり、この手は随分と汚れた。


想定外や不手際もあり、胸を掻き毟るような罪をも背負い、守るべきものを見付けたその後からだって眠れないような夜は随分あったと思う。



(だが、今は穏やかだ)



過激な物言いをするのはダリルだけではなくなり、エーダリアやネアを守る為だったら、どんな悍ましいことだって平気でするよとからりと笑う友人は、勿論ヒルドも守るからねとたくさんの術符やお守りを持たせてくる。

羽の庇護を与えた少女は、ヒルドが胸の底を波立たせている時には、そっと抱き締めてくれた。



当然のように。

ずっとここにあったように。



でもこれは恩寵で、その豊かさを噛み締めては指先で辿る。


失われないようにと自分が巡らせたその先で、あの策が実ったと安堵の息を吐くエーダリアがいて、あのブーツで敵を踏み滅ぼしたと微笑むネアがいる。


良い守り手だけではなく良い武器が揃い、先日こちらに自分の主人の不手際を詫びにきた霧雨のシーとは、お互いの一族が多く失われていることを少しだけ話した。



多くを失い、愛する者の全てを喪った者もこのウィームには少なくない。

エーダリアとネア、ヒルドが守ると決めた二人の人間も、一度はその手の中の全てを奪われたことのある傷を抱えて生きている。

そうして、彼等を守らんとする者達もまた、同じような痛みや絶望を知っている者が多い。



エーダリアが母を殺した妖精に向けて伸ばした手が、どれだけ嬉しかったか。

王都を出て行く時のエーダリアが、時間がかかってもいつか必ずお前を迎えに行くと言ってくれた時、どれだけ誇らしかったか。

アリステルの話をしたとき、ネアが見せた反応にどれだけ安堵したか。

ダリルからヒルドの王宮での扱いを聞いたネアの目を見て、どれだけ救われたか。




「ヒルド、僕はさ今日の夕方から時間が空くんだけど。一時間くらいどう?」


欠伸をしながらそう声をかけてきたのは、つい今しがたまで狐姿で寝台に寝ていたネイだ。



昨晩、夜食か何かで汚したものか、トマトソースまみれの顔で部屋の前に立っていたので、仕方なく洗ってやり、乾かされている間に寝てしまったので泊めてやった友人である。


人型になるとかなり不本意そうな顔をするくせに、狐の時は寝台に入れろと煩く鳴くので、どこからか諦めて一緒に寝るようになってしまった。



「ボール遊びであれば、十五分までですね」

「…………ヒルドが冷たい」

「昨晩、眠っているあなたを洗ったのは私ですよ?」

「…………あれはさ、夜の警備中に夜食を分けてくれた騎士達のせいだよね」

「人型に戻ってから顔を洗えばいいでしょうに。………それに、今日の夕方の仕事を片付けてしまったのは、ハーシェッドがザルツに帰らないかどうか警戒しておきたいので、あえて時間を空けてあるんです」

「それなら大丈夫かな。僕から、彼の育ての親に彼の悪事をばらしておいたから。ゴーディアはあれで君が大好きだからね、もう大丈夫だよ」

「……………ゴーディアと知り合いだったのですか?」

「僕があのヴェルリア王を呪い殺した後、わざわざお礼を言いに来た一人だよ。彼はエーヴァルト王やウィーム王家の人間達が大好きだったみたいだね。守るべき家がなければ、自分があの王を殺しに行ったと話してくれた」

「…………そうでしたか。ゴーディアの知るところであれば、安心かもしれませんね」

「政策の上での意見の相違は、勿論自分の守護を与えた子供に味方するだろうけどね。大好きなヒルドや、大好きだったウィーム王家の最後の一人を煩わせることは許さないさ。………今回は、もの凄く厄介な魔物と組んで悪さをしようとしてるって言っておいたしね。ザルツ伯の家令はダンダリオンだから、まぁ、アルテアがどれだけ厄介かは伝わると思うよ」



こういう時、ヒルドはこの友人の頼もしさをあらためて思う。

彼はこちらから頼んだりしなくても、自分の大切なものを守る為に手を打ってくれ、その手の及ぶ範囲はヒルドより遥かに広い。


同じ者を守る仲間であればダリルやグラスト、騎士達もいるのだが、今迄はいざと言う時に手を汚す覚悟でいるのは自分だけで充分だと思っていた。

ダリルも充分に悪辣な手を使うが、彼はやはり、エーダリアの唯一の代理妖精という肩書と、あの書庫の守り手であるということが足枷にもなる。


だから、いざとなればそれは自分の役目だと考えてきたのだけれど。



(……………今は、ネイがいる)



あの咎竜の事件の時に、彼はヒルドより深い叡智を見せ、ヒルドを止めてくれた。

エーダリアが王宮に赴かねばならない時、ヒルドに明かしてくれた様々な罠は、今もあの王宮やヴェルリアの領海、そしてこの国の各地に張り巡らされ、もしあの王宮の者達がここにあるものを損なう為に手を伸ばしたなら、彼等の命や尊厳を残忍に奪うだろう。


ネイがヴェルリアとの和解をあえて口に出さないのは、塩の魔物の呪いをこの国に残し続ける為でもあった。



「…………ザルツの者達の発言力は、やはり無視しきれないものです。あなたが手を打ってくれて良かった」

「うん、僕がいるんだからヒルドはもっと肩の力を抜きなよ。ボール遊びなんか、肩の筋肉がほぐれていいと思うなぁ」

「……………やれやれ。せめて昼過ぎにして下さい。その時間であれば、ハーシェッドは絶対に王都を離れられませんからね」



そう言ったのだが、その日の午後にはエドラから急ぎの私信が入った。

国際会議の控室からハーシェッド達が姿を消しているらしく、内密に動き、彼等の持ち時間までに連れ戻して欲しいというのだ。


深い溜息を吐いてボールを置くと、ヒルドはまずはザルツ領に向かうことにする。



「ありゃ。どうもネア達の近くにいるみたいだね。僕さ、こっそりネアの服裾の裏側に毛玉を潜ませてあるんだ」

「…………助かります。ハーシェッドとは、一度しっかりと話をした方が良さそうですね」

「それ、他の誰かに任せてあげた方がいいんじゃないかなぁ。どうも彼、ゴーディアがヒルドのことを褒め過ぎて拗れている可能性もあるような気がするんだよね」

「とは言え行いは彼自身の責任ですから、きちんと責任は取っていただきますよ」



その日の午後は、会場を抜け出したハーシェッド達を連れ戻し、代理で講演を行う彼の原稿を一緒に確認する羽目になった。

ザルツ単体での参加とは言え、それでもザルツはウィーム領なのだ。

音楽の精霊を見たがる他国の者達の為に、急遽ザルツからは引退して動物園に暮らしていた音楽の精霊と、楽器屋の楽器妖精達が会場に招聘される。

昼間は眠っていた楽器妖精達は、今回の講演の為に魔術で強引にたたき起こされた。



幸いにも、様々な種類の楽器妖精達が加わったことで、講演は無事に成功したらしい。

楽器妖精がここまで多様に派生することは珍しく、他国の者達はその種類の多さに感嘆したのだとか。

見たことのない楽器妖精と触れ合えたことで、彼等はそれだけで満足したらしい。


単純なことだが、そういうものなのだろう。




「ヒルドさん、今度お時間が取れる時に、エーダリア様とノアと、砂風呂に行って来て下さい」



そんな風に言われ、藍色の封筒を差し出されたのは翌日のことだ。


「……………ネア様?」

「このチケットは、いつでも使えますから安心して下さいね。その際にエーダリア様がご一緒でも安心して寛げるように、ディノとノアの共同開発の繋ぎ魔術があります。ノアが下見しつつ現地に工作してくれましたので、何かあってもすぽーんとリーエンベルクにトンネルを落ちるように戻れるんですよ!」

「…………ネイと、ディノ様が?」

「はい。具体的にはディノがノアとの足元の魔術を繋げているそうで、直通専用通路が常に開いているような状態なのだそうです。なお、現地ではシシィさんのご主人が面倒を見てくれますし、どうもルグリューさんは地竜さんは地竜さんでも少し特殊な方らしく、何か困ったことがあってもお任せ下さいとのことでした。勿論、ダリルさんにも根回し済なので、安心して下さいね」


ルグリューは、仕立て妖精のシシィの伴侶だ。

地竜の姿をしているが、彼は元々は終焉の系譜の精霊である。

最高位に等しい精霊の履歴がある以上、地竜になっても彼の扱える魔術は複雑だ。

確かに協力者ともなれば心強いだろう。



「しかし、……………これは一体?」


エーダリアが行きたがっていたのは知っているが、その流れだろうかと思えば、ネアは首を横に振った。

これはあくまでもヒルドへの贈り物であるらしく、この前、エーダリアやネイ達と立ち寄ったシュタルトでのことを楽しそうに話していたので、このような贈り物にしたのだという。



「そしてこれです!!」

「…………森と流星の酒ですか」

「はい。とても珍しいものだそうで、これを今日の晩餐の後から日付が変わるまで、みんなで飲むのです!!」

「今夜?」

「はい。今夜………と言うか、日付が変わるその瞬間はなぜか、みなさんがヒルドさんとこのお酒を飲みたいそうなので、覚悟しておいて下さいね!」



ネアが掲げてみせたのは、古い森の一族が流星雨の夜にだけ仕込んでいた特別な酒だ。

その森の一族はとある妖精の一族が殲滅されるよりも早く、流行病で滅びてしまい、それより前に出荷されたものが最後のものになったと聞いている。



夏至祭の前夜、ヒルドに微笑みかけた姉は、あなたの大好きなお酒を用意出来なくてごめんなさいねと謝ってくれた。


そんな姉に微笑みを返して首を振ったあの日、ヒルドの誕生日の宴に呼ばれていた精霊王が裏切るまで。

その瞬間までが、家族で過ごす最後の幸せな時間になるとは知らずにいたのだと、話したとすればネイだろうか。

或いはダリルだったのかもしれない。




ヒルドの誕生日の翌日にある夏至祭は、様々な生き物達の領域が曖昧になる、人間にとっては危うい日である。



そんな日の前日に何かを案じ心を揺らすことのないようにと、ヒルドの生まれた日は、エーダリアに尋ねられても曖昧にしか知らせていなかった。

以前にネアから仮の日をという話があり、今年の夏の閑散期にでもという話はしたのだが、未だ日程を決めるには至らず返答を決めかねていたのは、かつてこの日を祝い喜んでくれた家族のことを覚えていたからだ。




「………………まぁ」

「…………少しだけいいですか?」

「勿論ですよ。幾らでもどんと来いなのです!」



懐かしい酒を持って微笑んだネアを抱き締め、遠い愛おしい森を思った。

あの森は管理する者達を失くしたことで、すっかり様変わりしてしまったのだという。

もし機会を得るとしても、仲間の残っていないあの森をヒルドが訪れることは二度とないだろう。


けれどもこの、今のリーエンベルクでなら、この酒を飲んであの美しい故郷を思うことが出来る。




(……………そうか、出来るようになったのだ)



そう思って微かな驚きを噛み締めていると、その後に廊下ですれ違ったネイに悪戯っぽく微笑みかけられた。



「もう大丈夫かなって思ったんだよね。ほら、もう僕がいるからね」

「……………あなたでしたか」

「でも、そのままお祝いって感じにするのは今年は避けたよ。ヒルドに負担が大き過ぎてもいけないから、ネア曰くのリハビリだね。別に明日を誕生日にする必要もないけれど、どこかで思い切らないとヒルドは代替の日も決めないんじゃないかなぁと思ってさ」

「…………そうでしょうか。………いや、そうだったのかもしれませんね………」




窓の向こうには豊かな森が広がっている。


祖国の森とは随分と趣きが違うが、いつからかここがヒルドの愛する土地になった。

勿論、エーダリアが心を傾ける土地としての思い入れはあったが、自分がここに住むようになってからはまだ一年程なのだと思えば、そんな己の認識には驚くばかりだ。


雨に濡れる森の緑の鮮やかさに、ウィーム領主となったばかりの頃のエーダリアが、山猫の使い魔がお前の瞳の色をした紫陽花をくれたのだと手紙に書かれていた、その紫陽花から株を分けた花が咲いているのが見える。



「ま、夏至祭前日ってなっても僕とシルがいるし、念の為にアルテアも明日から来るみたいだからさ、安心してのんびりすればいいよ」

「………………ええ。今夜は良い酒が飲めそうですね」




この国に守りたいものがある限り。

彼等が、こんな風に自分の隣にあるが故に。



だから、今だけはこう思うのだ。

この国を守る盾として、あの王妃には永らく壮健でいて貰わねばと。



やっと、再び守りたいものが出来たのだ。



部屋に帰って愛剣にそう語りかけると、月光の剣は満足したように輝いたのだった。















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