青い垂れ幕と音楽の妖精 3
無事に兎の森と呼ばれる、兎の展示スペースに辿り着いたネアは、現在魔物と戦っていた。
なんとそこには、仔牛サイズのふかふか兎がいて、その淡いラベンダー色の素晴らしい毛並みの兎は、背中に人型の精霊を乗せて戦う精霊であるという。
つまり、背中に鞍をつけて乗ることが出来るのだ。
ネアは是非ともその体験乗兎をしたいのだが、毛だらけの生き物へのご主人様の執着心をよく知っている魔物は、決してその体験を許さないのだった。
「う、兎さんに乗るのです!むぐる!………あの、青みがかった色合いの尻尾の短い子に乗るのです!」
「ネア、あの草原兎は精霊だからね。また今度にしようか」
「う、うささんに…………」
「何か毛だらけのものに乗りたいなら、今度ダナエに乗せて貰うといい。君は竜に乗りたかったのだろう?」
「…………ほわ、ダナエさんに乗ってもいいのですか?以前ダナエさんが乗せてくれると言った時には、ディノは毛布妖怪になりましたが……」
「あの兎よりは安全だと思うからね…………」
安全と言うからには獰猛だったりするのだろうかと、ネアは、乗兎を体験するお客様用の注意書きを読んでみた。
すると精霊兎は素晴らしい手触りの毛皮を持ち、生涯に一人だけ主人を決めるとあったので、このあたりが魔物の警戒した理由なのかもしれない。
ザルツで乗兎体験を許している草原兎の精霊達は、長年主人を得られなかった兎達であるらしい。
通いでこの動物園に来ていて、お試しで乗っかるお客さんの中から、主人を探しているのだそうだ。
よく見れば、奥のボードには祝卒業と書かれたお花が飾られており、運命の出会いを果たした兎もいるようだった。
(とは言え、兎さんと竜さんとなれば、竜さんの方が憧れの乗り物!)
ネアは悲しそうに儚く頷いてみせ、内心は狡猾に思わぬ収穫を喜んでいた。
以前、竜に乗るのが夢だったと話したネアに、ダナエが乗せてあげようかと言ってくれたことがあったのだが、魔物が荒ぶってしまい断念したのだ。
サラフも乗せてくれると言ってくれたことがあるが、サラフの場合は地面にどすんと落とされそうな危険を感じたので丁重に辞退させていただいている。
狡猾な人間が悲しむ様子にすっかり可哀想になってしまったのか、ディノはお土産コーナーでお気に入りのぬいぐるみがあれば買ってあげると言ってくれた。
ネアはその提案を喜んで受けることにして、いよいよお目当ての雪豹親子の展示区画に突入する。
精霊兎の体験乗兎のゾーンを抜けると、俄かに大きな木々が生い茂り始めた。
大きな木々の根元には可憐な初夏の花々が咲き乱れ、どこか絵本のような美しさがある。
木々のカーテンをくぐって見えて来たのは、森と岩山の景観の一部を切り取って移植したという、雪豹の特別飼育スペースだ。
「………………ちらりと尻尾が見えました。もふもふ尻尾に胸が苦しいです。…………むぎゃ?!」
「ネア、落ち着こうか。右足と左足は同時には踏み込めないよ。持ち上げるかい?」
「いえ、深呼吸をして自分の足で歩きます。ここはやはり、自分の足で近付いてこその、雪豹親子なのです」
「転んでしまわないように、三つ編みを離さないようにね」
「…………この場合は、手を繋いでくれた方が安心なのですが……」
「……………ネアが大胆過ぎる…………」
「むむぅ。やはりこうなるのですね……………」
そうしてネアは、魔物の三つ編みを持たされて念願の雪豹親子の展示室の前に立った。
雪豹父は、一瞬、艶麗な魔物の三つ編みを引っ張っている人間の姿に警戒したようだが、貰ったボールをあぐあぐして遊んでいる子雪豹はネアのことは気になっていないらしい。
仰向けになってボールを抱えている赤ちゃん雪豹に、ネアはじたばたと足踏みした。
「あ、赤ちゃん雪豹です!むちむちちびちびしていて、この上ない愛くるしさ!!見て下さい、口元がまだミルクやけしていてピンク色ですよ!!」
「ミルクに焼けてしまうのかい?」
魔物に不思議そうに尋ねられ、ネアは首を傾げた。
そう言えば子犬や子猫など、赤ちゃん動物の口元が淡いピンク色になっていることをミルクやけと言ってきたが、実際にはなんでそうなっているのかを知らなかったからだ。
首を傾げたネアの向いでディノも首を傾げてしまい、隣にやって来た他の来園客が不思議そうにこちらを見る。
「詳細は不明ですが、ミルクを飲むくらいの赤ちゃん動物達の口元が、このようなピンク色をしているのです。それをミルクやけと言ってきましたが、因果関係を含め、なぜそうなったのかを調べてみますね」
「実際に焼けてしまうわけではないのだね………」
ディノは、雪豹の赤ちゃんがミルクで口元を燃やしていないと知ってほっとしたようだ。
単純に可哀想かどうかというよりも、また不思議生物かと思って心配になったのだろう。
そんな疑問に首を傾げているネア達の前で、ボールで遊んでいた雪豹の赤ちゃんは、ボールがすぽんと転がり落ちてしまい、慌ててそれを追いかけようとしてずでんと転んでいる。
「きゃわわです!あまりの愛くるしさに抱っこしてなでなでしたくて堪りません!!」
「ご主人様………」
ネアはあまりの愛くるしさに弾むばかりだが、不穏な気配を感じて隣を見ると、三つ編みを持たれた魔物がどこか暗い羨望の眼差しで赤ちゃん雪豹を見ている。
父雪豹は何か感じるものがあったのか、我が子の前に立って、ディノの目から幼気な赤ちゃんを隠していた。
「ディノ、赤ちゃん雪豹を脅かしてはいけませんよ?」
「この雪豹には触れられないようだから、抱き上げることは出来ないと思うよ」
「だからといって、なぜに私を持ち上げようとするのでしょう。手を伸ばされるのが、とても謎めいています」
「ここは初めての場所だし、雪豹が三匹もいるからね」
「とうとう、穏やかに暮らしているだけの雪豹さんを、脅威として扱い始めましたね…………」
ネアはその後も暫く、赤ちゃん雪豹の一挙一動に振り回され、飛んだり跳ねたりして魔物をやきもきさせた。
けれど、途中から手をぎゅっと握られてしまっていた魔物は、荒ぶることも出来ずに目元を染めてずるいと呟いているので、ここは作戦勝ちである。
「むふぅ!雪豹親子を堪能しました。お母さん雪豹さんは美人さんで、足を引き摺る度に、お父さん雪豹がさっと駆け寄るのが素敵でしたね」
「雪山の一部を元の場所に繋げたまま移植してあったから、あの中にだけ雪が降ったりもするようだよ」
「まぁ、それなら元のお山の雰囲気も味わえるので、暮らしやすい工夫ですね」
次に二人が向かったのは、やはりここも目的地であった、音楽の精霊である獅子の展示室だ。
この獅子は劇場の屋根裏部屋に住んでいた精霊なのだが、老齢により急な階段のある屋根裏での生活が厳しくなり、一昨年から動物園に越して来た。
先住の音楽の精霊であるもう一頭の獅子と一緒に、今は穏やかな余生を送っている。
「む…………。動物園に、突然素敵なお部屋が現れました」
「このようなところで住んでいるのだね………」
どうやらこのあたりは、あくまで以前の生活環境を再現するという趣向であるらしい。
音楽の精霊である獅子の居住スペースは、なんとお洒落な屋根裏部屋が再現されていた。
二頭の獅子が暮らせるように広めの空間が取られ、来園者達は窓のようなところからそんな獅子たちの屋根裏暮らしを鑑賞出来る。
少しの背徳感すら覚えながらその窓を覗くと、獅子たちは音楽を流して貰い、恐らくその曲の楽譜であろう紙を二頭で覗きながら、うっとりと長椅子に寝そべっているところだった。
確かに白っぽい毛の混ざった薄青の毛並みは高齢に見えるが、まだ鬣も立派で堂々たる姿である。
ネア達の方にも漏れ聞こえてくる曲に合わせて体を揺らしており、ご機嫌なのか尻尾の先がぽわぽわと青く光る。
途中で一頭が何やら興奮気味に頷いたのは、その曲のお気に入りの部分が流れたからのようだ。
「…………ああして、一緒にのんびり過ごすのが楽しそうですね。幸せそうなのでこちらまでほっこりしてしまいます」
「音楽の精霊は種類が多いのだけど、獅子同士だから気も合うのだろうね」
「まぁ。厳密に種族が分かれていたりはしないのですか?」
「音楽から生まれる者は、同じ種でもその派生の瞬間によって形状が異なり易いんだ。同じような理由や環境で派生すると似たような形状になるか、もしかしたら時期を違えて、同じ曲から派生したのかもしれないよ」
「ふふ。そうなるともう、兄弟のようではないですか」
「確か、最も有名な音楽の精霊も獅子の姿をしていて、ザルツに住んでいた筈だよ。その獅子は喋っていたね」
「喋る獅子さん…………」
動物園には他にもたくさんの動物達がいた。
ネアの考える動物園にはつきものの、象やきりんはさすがにいないのだが、四角狼という、四角い毛玉のような狼がいたり、ディノが警戒していたパン狼は、コッペパンに狼の尻尾がついている奇妙な生き物だ。
パン狼が遠吠えを始めるとディノがすっかり弱ってしまったので、ネアはその区画はそそくさと早足に通り過ぎた。
「そうして、最後にムンムンの居住区です。ここは街の街路樹を再現してあって、背の低い木にたくさんのムンムン達がいるそうですよ」
「ムンムンが沢山いるんだね………」
「はい。現在の飼育数は、…………………百、七十二匹……………?」
展示室の前の説明看板を読み、ネアはぎくりとした。
にょろにょろしたものがそんなに沢山いると、視覚的には大丈夫だろうか。
「これは何だろう………」
「ムンムンの展示室へようこそ。このボタンを押すと、ムンムンが見られるよ!と書かれていますね………」
展示室の前にはまるで自爆スイッチのような赤いボタンがあり、ネアはそろりと指を出してそんなスイッチを押してみた。
するとどうだろう。
展示室の一画から、優しい響きのバイオリンの音色が流れ始める。
その途端に、展示室の様子は一変した。
「……………ほわふ」
「……………ムンムンかな………」
ネアの身長くらいの高さに切り揃えられた木々から、ずぼっと細長い毛皮の蛇のような生き物達が顔を出したではないか。
淡いピンク色や檸檬色、ミントグリーンに水色と実に様々な色の個体がいて、そんなムンムン達が音楽に合わせて揺れ始める。
背中には小さな小鳥の翼があって、そのちびこい翼を嬉しそうにぱたぱたさせた。
「こ、これがムンムンなのですね……………」
「ご主人様が揺れてる…………」
「は!なぜかこの光景を見ていると、ムンムン達に合わせてゆっくりと体を揺らしてしまいます。………他のお客さん達も揺れていますね…………」
百七十二匹のムンムン達は、メトロノームのような全く同じ動きで、住まいにしている木の枝の中から顔を出し、左右にゆっくりゆらゆらと体を揺らして音楽を堪能している。
その動きはいっそ整然としてさえいて、見ているといつの間にか一緒の動きをしてしまう、とても恐ろしい吸引力だ。
暫くして音楽が途切れると、いっせいにじわっと涙目になり、悲しそうにこちらを見るではないか。
ネアはその無言の訴えに負けてしまい、もう一度ボタンを押してしまった。
「……………もしや、ここにいると永遠にこの繰り返しになるのでは」
「ネア、ここから離れようか」
「ふぁい。危うく、ムンムン専属のボタン職人になるところでした…………」
ネア達は今流れている曲が終盤に差し掛かる前にその場を離脱し、動物園の出口の側にあるお土産屋さんに辿り着いた。
カランと鳴るカウベルのような鈴のついた扉を開けると、半円状のドーム天井の壁画が美しい建物内部に、ネアは目を瞠る。
天井が高く、壁画のある中央以外の部分は、蔦や藤の花が垂れ下がっていて、その隙間からきらきらと光る森結晶を動物の形にしたものがたくさんぶら下がっている。
(可愛い。子供の為の魔法のおもちゃ屋さんみたい………)
中には様々なぬいぐるみや、可愛い動物の絵の入った缶入りのお菓子なども売られており、いかにも動物園のお土産屋さんといった感じなのだが、ムンムンの抜け殻や、音楽の精霊の抜け毛のお守りなども売られているのがこの世界らしい部分だろうか。
珍しい松明鳥の羽は、火の加護を与えてくれるそうだが、火に悲しい過去のあるリーエンベルクに持ち帰るのは少し躊躇われた。
ネアは、ディノに赤ちゃん雪豹の手のひらサイズのぬいぐるみを買って貰い、自分では、ピンク色のムンムンとパン狼のついた小さなキーホルダーを買い、デフォルメされたイラストだと可愛さ爆発なパン狼のシールセットも購入した。
これはなかなかに可愛いので、今度誰かにあげる手紙やカードに貼ってみよう。
少し悩んでから、ムンムン柄の七色ペンセットも購入しエーダリア達のお土産にしたのだが、これは政治的な駆け引きの道具としてどうかなと思ったのだ。
(エーダリア様達が好んで使うというよりも、ザルツの方との会議の時に持っていたりしたら、向こうの方が嬉しく思ってくれたりするんじゃないかな………)
平ぺた狐のコーナーもあったが、可愛さではなく獰猛さを全面に押し出した、ちょっと拗れた独立心に揺れ動く思春期の少年向けの商品開発のようだ。
その棚のあたりは速やかに通り抜け、ネアはお土産を会計して満足の溜め息を吐く。
「ディノ、初めての動物園はどうでした?」
「ネアが弾んでた…………ずるい」
「赤ちゃん雪豹は堪らなく可愛かったですね!そして、一緒に動物園を見てくれたディノに、この記念品を贈りますね」
「ご主人様!」
ネアがディノに買ったのは、窓辺に吊るすと澄んだ音を立てる、陶器製の風鈴のようなものだ。
ムンムンにパン狼、松明鳥と雪豹、そして音楽の精霊な獅子が可愛らしく行進する絵が描かれており、チリリと澄んだ音が鳴る。
草原兎の絵が入ったものもあったのだが、そちらには平ぺた狐がいたのでこちらにした。
ザルツにある有名な陶磁器メーカーが作っているもののようで、鈴そのものも青磁のような色合いでとても綺麗だ。
「宝物部屋でもいいですし、厨房の窓や、祝祭の薔薇などお花を保管しているお部屋でもいいので、好きなところに飾って下さいね」
「………………君に貰ったものだから、宝物部屋かな」
「あのお部屋にも窓がありますものね」
「うん」
ネアは、自分のお土産を首飾りの金庫にしまい、入ってきたのとは違う動物園の出口の門をくぐって外に出た。
不思議の森のような作りだった動物園から外に出ると、また絵画のような街が広がっている。
ちょうどお昼時なので通りは人通りが多くなっているが、ザルツの人々だけではなく観光客も多いようだ。
ここ数年で、ザルツの街中には観光客が自由に使えるザルツ観光用の転移門が幾つも設けられ、観光客はあちこちへの行き来が自由になった。
ネアは旅先での移動も楽しんでしまうのだが、限られた時間しか滞在出来ずに、そうそうザルツには来られないという観光客に大人気のようで、転移門の周囲には、わいわいと楽しげにお喋りをする女性達がいた。
(他国の人達や他の領の人達がザルツを気に入れば、ザルツの扱う品物にも好印象を持ってくれるからということみたいだけれど………)
確かに人間の心は単純でもあるので、普段の買い物の中で楽しかった旅先の都市が卸した品物があった場合、他の品と大差なければ名前だけでそちらを買ってしまうこともあるかもしれない。
観光で訪れてくれた人々の心を掴み、見知らぬどこかの畑のブルーべリーを買うなら、ザルツのブルーベリーを買うという風になれば、戦略的には当たりなのだろう。
ザルツには国の政治的な要所などがなく、街中を自由に行き来させても特に支障はない。
この無料転移門は、だからこそ設置出来たものでもある。
例えば、これが王都のヴェルリアや、各領の領主のいる都市などだったりすると警備上の問題となるので、どれだけ需要があっても設置は難しいのだ。
(でも、みんな嬉しそうに使ってる。坂道や階段も多いから、この転移門があるだけでお年寄りにも観光のし易い街になってるんだわ………)
好意というのは不思議なもので、いざと言う時にそれが利益にも盾にもなる。
例えば、あっては困る例えだが、他国がこの国に侵略した時に、あの街は素敵な観光の思い出があるから出来れば損ないたくないと思ってしまったりだとか、些細なことが命運を握る場面がないとも言えない。
無意識に浸透させ心を捕える為に、あの転移門は使い勝手以上の意味を持つのだ。
需要のあるものであろうし、少額でもお金を取って運営することも可能だろう。
だが、この設置を主導したというザルツ伯は、搾取するべきところと、奉仕するべきところの切り分けが上手いのだと思う。
とは言え観光予算はウィーム領全体の予算から捻出されており、ザルツの個別予算とはお財布が別である。
だからこそ可能であった戦略でもあるので、ダリルやヒルドは、予算の使い過ぎだと考えているらしい。
瀟洒な街並みはあちこちに手がかけられており、暗闇でぼうっと光るらしい看板や、先程ディノが教えてくれた光る石畳など、あちこちに過ごしやすく暮らしやすい仕掛けがあるのだろう。
「そろそろお昼を食べましょうか」
「うん。君が行きたいお店に行こうか」
「ゼノのお勧めのお店があるのですが、ディノもお気に入りのお店があれば、そちらも気になってしまいます…………」
「私が滞在していた時は、店に入ることはなかったかな。君がゼノーシュに聞いたという店でいいかい?」
「はい!では、離宮前の坂道にあるザルツパンと、スープのお店はどうでしょう?」
ネアの提案に、ディノは目をきらきらさせてこくりと頷いた。
この魔物は、宮廷料理のように手の込んだ美麗なコース料理が似合いそうだが、素朴で美味しい家庭料理的なものが好きなのだ。
二人はいいお天気のザルツの街をのんびりと歩き、通り沿いの商店の軒先にあるお花を満開にしたプランターや、道沿いの休憩所の噴水で居眠りしている川竜などを見ながら、無事にお目当ての店に辿り着いた。
「………………む」
さて昼食かと意気込んで扉に進もうとすると、お店の前のところに、遊ぼうよと跳ね回る狐の子供達に円状に囲まれて動けなくなった初老の男性がいるではないか。
こんな足止めには覚えがあるネアは、狐の子供達に持っていた小さな青いボールを見せると、ぽーんと奥の公園の方に投げてやりその男性を救出した。
ボールは先程の動物園でお土産を買った際におまけで貰ったもので、銀狐にあげようかなと思っていたのだが、ここは人助けであるし、そもそも銀狐はもうボールを相当数持っているのでいいだろう。
ボールを追いかけて去って行く狐の輪から解放された老紳士は、人が良さそうな目を細めてくしゃりと微笑むと、ネアに丁寧に頭を下げてくれた。
「お嬢さん、助けていただいて有難うございました。急ぎの用があって坊ちゃんのところに戻る途中だったのですが、あの通り囲まれてしまいまして。もう半刻は動けずにいたので助かりました」
ネアに頭を下げた後、男性はディノにも深々とお辞儀をしてくれた。
声音も言葉も柔らかいので、腰が低いだけでなく、こちらまで幸せになるような丸く優しい雰囲気だ。
「いえ、私のお家にも狐さんがいるので、あのような時の対処法を知っていただけですから」
「あらためていつか、お礼させていただきますね」
急ぎの用事があるのに半刻も捕まっていたのかとネアは少々動揺したが、そこは表情に出さずに淑女らしい柔和な微笑みを浮かべるにとどめた。
洒落た帽子に燕尾服姿の男性は、微笑んで会釈して立ち去り、ネアは、恨みがましい目をした魔物にじっと見つめられる羽目になってしまう。
「浮気……………」
「人助けですし、あの方は指輪をなさっていたでしょう?指輪が見えたので、手を貸して差し上げても大丈夫だと思ったのです」
「…………確かに伴侶を得ている魔物のようだ。でも、あまり不用意に関わってはいけないよ?」
「なぬ。魔物さんだったのですね……………」
「上手く擬態しているようだったけれど、中階位の魔物だね。恐らく、子爵くらいの魔物だろう」
「まぁ、そのような方だとは思いませんでした。…………むむ!ディノ、向こうの公園から子狐さん達が戻ってくるようです。捕まる前にお店に入ってしまいましょう!」
青いボールを咥えて大はしゃぎの子狐達が駆け戻ってくるのが見えたので、ネアは慌ててディノの腕を引っ張ってお店に滑り込んだ。
いらっしゃいませという気持ちのいい声が聞こえて、お店のおかみさんが奥の席が空いていますよと微笑んでくれる。
勢いよく駆け込んできたので満員にならない内にと焦っていると思ったのか、熱意を持ったお客に嬉しそうだ。
(そして、…………窓際の席には凄いお客さんがいるような…………)
店に入るなり、ネアは窓際の一番いい席でスープを飲んでいる、二足歩行の獅子が気になった。
優雅に本を読みながらスープを飲んでいるのだが、どこをどう見てもただの獅子である。
少し薄暗いところが目に優しい店内に、そんな獅子の鬣を淡く煌めかせる陽光の筋が伸び、床には大きな獅子の影が伸びていた。
触りたくてむずむずするが、これは多分、通り魔が撫で回してもいい獅子ではなさそうだ。
「今日のお勧めスープは何でしょうか?」
「お野菜たっぷりの、肉団子のスープですよ。具材の表記だけでスープの種類が書いていないものは、濃厚な牛コンソメのスープだと思って下さいね」
「まぁ、美味しそうですね。有難うございます」
本日のお勧めスープを教えて貰い、ネアは出して貰ったお水をごくりと飲んだ。
他の国に出るとこのようなサービスも有料になるが、このあたりはウィーム中央と同じでザルツも無料であるらしい。
お水にも色々あるので、勿論有料のものもあるが、最初の一杯や普通の水ならばと無料で振る舞ってくれることが多いのが、水に恵まれたウィーム領のいいところでもある。
(山に囲まれているところだからかな。ザルツのお水は美味しいな…………)
きりっと澄んでいて癖がなく、体に沁み渡るような美味しいお水だ。
このようなものも、きっと他国からの観光客や留学生には嬉しいものだろう。
「……………ふむふむ。このお店のザルツパンは、二種類あるのですね」
「バターが入ったものにしようかな」
「少し固めで細長く伸ばしたパンを、くるっと捻って形にしてあるものなんですね。中にバターが入っているなんて、美味しそうで気になってしまいます」
ディノが選んだのは、プレッツェルのようなパンの中に、バターが入っているのだそうだ。
千切りながらもぐもぐと食べれるので、このザルツパンは街歩きにも大人気であるらしい。
中のバターも、ふわっと軽いホイップバターに濃厚バター、じゃりっとお塩が入った岩塩バターなどがあり、歩いている時にもあちこちで売られていた。
(このパンも美味しそうだけど、ふかふかザルツパンも気になる………)
ふかふかザルツパンは、牛乳の甘みと、ブリオッシュのようなバター感のある、柔らかいフランスパンのようなものだ。
ザルツっ子はこのふかふかザルツパンを紙袋で買い込むそうで、お買い物袋からザルツパンが覗いている人達を見ると地元の住人なのだなと一目で分る。
ノアが目撃したアルテアも、このパンを持っていたらしい。
ネアは少しだけ唸った後、プレッツェル風ザルツパンはお土産で買ってゆくことにして、ふかふかの方を注文することにした。
「では、私はこの今日のお勧めスープとふかふかパンにしますね」
「…………クレープ生地とチーズのスープにするよ」
こんな時、ディノがちらちらっとネアの方を見るのは、自分の食べたいものにネアも興味を示した場合、分け合いの儀式が発生するからだ。
あまり外食ではそのようなことを好まないネアだが、場合によっては吝かではないことを、老獪な魔物は知り尽くしているのである。
「むわふ。チーズコンソメ……………」
「君も飲んでご覧。パンも試してみればいい」
「……………ふぐ。そのような魅力的なお誘いには応じずにはいられません。こんな素敵な魔物が婚約者だなんて、私はなんて幸せなのでしょう」
「かわいい……………ずるい」
二人は注文を済ませ、その後で歩いてみようと考えている通りのおさらいなどをしながら、動物園で見た生き物達の話などを楽しんだ。
ディノが、ネアが触ってしまうことを警戒して獅子の方の椅子に座ってくれたのだが、そうなるとネアからはディノの後ろにふわふわの獅子の背中や鬣が見えることになる。
(あの鬣やおひげで、どうやってスープを飲むのかしら…………)
そう思ってしまうのはネアだけではないのか、観光客らしき老夫婦も不安そうにちらちらと獅子を見ていた。
しかし、美味しいスープとパンが運ばれてくるとネアの脳内からはすっかり獅子のことが抜け落ちてしまい、食事に専念するしかなくなってしまう。
一通り食事も終わりナプキンでお口を拭いて満足の溜め息をついていた頃だろうか、俄かにお店の入り口あたりが騒がしくなった。
(何だろう。あのちび狐さん達が悪さでもしたのかな?)
なんだなんだと伸び上がってお店の入り口の方を見るお客さんに混ざり、ネアもそちらを覗き見る。
すると、ずばんと扉を開けて誰かが入って来るではないか。
「ゴーディア!!なぜ、こんなところで呑気に食事をしているんだ!!!!」
入って来た男性は、ずかずかとネア達の席の方にやってくると、窓際の席の獅子にそう声を荒げる。
ネアは、入って来た男性の姿を見た途端、手を伸ばしてディノの三つ編みをしっかり掴んでおいた。
「音楽は名誉を得るための手段、もしくはただの道楽だなどと言う者達と、音楽と教育について話し合うのは無駄ではないか。音楽は生活だ。根本からしてあの者達には音楽を嗜む才能が欠けておる」
「だからと言って、四か国間の会議を抜け出してもいいということにはならないだろう!」
「騒がしいぞ、ハーシェッド。異国や他の土地からの御客人もいるのだ。伯爵たるもの常に優雅であれと教えただろう。だからお前は、ダンスの才能がないのだ」
「…………僕のダンスの才能については、今は問題にしていない」
「あのお粗末なステップに、無骨なターンの悲しさを思うだけで、私は胸が張り裂けそうだよ。………そういうことだ。私はあの会議から降ろさせて貰う。先程、ダンダリオンにも話したのに、どうせお前は彼の説得に耳を傾けなかったのだろう。またここに戻ってくるなど、時間の無駄ではないか。困ったものだ」
「どの口でぬけぬけと……………」
どうやら、視線の先で頭を抱えているザルツ伯は、王都で行われている音楽と教育のシンポジウムから、ネア達の隣の席の獅子に逃げられてしまったらしい。
ネアは何だか同情しかけてしまいながら、こちらに注意が向かないようにと出来るだけ気配を殺していた。
ザルツ伯は、何やら意味を成さないような言葉を呻きつつ、店内の同情的な視線を一身に集めている。
ゴーディアと呼ばれた獅子は、そんなザルツ伯を気にした様子もなくのんびりと寛いでいるようだ。
ぶ厚い獅子の前足が、籠に入ったパンを取るのを見ながら、ネアはもう連れ戻すのは無理なんじゃないかなと思わずにはいられない。
「坊ちゃん、そろそろ会場に戻りませんと。恐らく、このような状態でゴーディアを連れ戻すのは無理でしょう。確かに、ここで時間を無駄にするより、午後からの講演をどうするのかを考えた方が宜しいかと思いますよ」
「……………ダンダリオン、狐の子供達に囲まれて時間を無駄にしたというお前に言われたくはないぞ………」
「坊ちゃんも十五分はボール遊びに付き合わされていたでしょう。………それと、後ろの席に座っておられるお嬢様が私を助けて下さったので、是非にザルツでの便宜を図って差し上げても構いませんか?」
「……………ああ、好きにしろ。…………………っ?!リーエンベルクの歌乞い?!」
ハーシェッドはちらりとこちらを見て視線を外した直後、もの凄い勢いでネア達の方を振り返った。
髪色などは若干擬態しているのだが、やはりザルツ伯ともなればこちらの情報も収集しているに違いなく、ましてや芽吹きの祝福を狙っているのであれば見逃す筈もないだろう。
ネアは善意による言及で気付かれてしまったことを残念に思いつつ、寧ろ今迄気付かなかったことも凄いのかもしれないと、苦難続きのザルツ伯を不憫に思った。
(でも、この方にお会いするのは初めてだし、知らんぷりをしておこう………)
ネアはひとまず、リーエンベルクの歌乞いは私ですがあなたは誰でしょう的な仕草で首を傾げてみせ、そんなネアの姿になぜかがくりと肩を落としたザルツ伯は、一度壁の方を向いてしまう。
そんなザルツ伯に朗らかに語りかけたのは、先程、ネアが狐の輪から助けた初老の男性だ。
「坊ちゃんが何を企んでいるのかは知りませんが、この方は私の恩人ですのでご迷惑をおかけしませんよう。…………お嬢さん、もし当家の坊ちゃんがご迷惑をおかけすることがありましたら、私にご相談下さい。………どうかご安心下さいませ、我が君。坊ちゃんは私がしっかり見張っておきますので」
「君はすぐに体を変えてしまうから、その音楽の精霊が名前を呼ぶまで分らなかったよ。そうであれば、君に任せよう。この子は私の指輪持ちだからね」
「御意。お見苦しいでしょうが、幾たびも姿を変えることをご容赦下さいませ。……………坊ちゃん?」
「その呼び方はやめてくれ。………それと、勝手に妙な約束をするな…………」
「させていただきますとも。あなたは、危なっかしい方ですからね。それに、許可されたのはあなたでしょう。…………さて、そろそろ会場を出て二時間になりますが…」
ぱちんと、上着の内ポケットから出した懐中時計のようなものを開いた老紳士に、ハーシェッドはさっと青ざめた。
色々な対応をどう振り捌くべきかを決めかねているのか、もしゃもしゃした後、静かにネアに向き直ると、とても不本意そうにちょびっと頭を下げる。
「僕の家令が世話になったね。出来れば、今回のことはヒルドには言わないでくれるだろうか」
「いえ、困っている時はお互い様ですので、どうぞ気にしないで下さいね。ただ、ヒルドさんへのご報告については、私も雇われの身ですので、ご報告しない訳にもいかず…」
ネアがそう答えるとハーシェッドは絶望しきった幼気な眼差しを向けてきたが、優雅にパンを食べている獅子から、またヒルドに見栄を張っているのかと叱られてしまい、声にならない声で呻いていた。
とは言え、彼の苦痛を更に大きなものにしたのは、この後の出来事だろう。
「おや、ハーシェッド様、ここにおられましたか。ザルツからの参加者が消えたまま戻らないと一報を受けまして、探していたのですが」
ネアは扉を開けて入店した時から気付いていたのだが、反応を見る限り、ザルツ伯は気付いていなかったのだろう。
音もなく後ろに立ってそう言ったヒルドに、ハーシェッドはひどくゆっくりと振り返る。
「………………ヒルド」
「他国の方々が気付く前に、会場に戻りますよ。下手をすれば国際問題になりかねません」
(あ、連れて行かれた…………)
その後のネアは、にっこりと微笑んだヒルドに連行されてゆくザルツ伯を生温い気持ちで見守り、隣の席の獅子からは、あの子が騒がしくして迷惑をかけたと美味しいザルツクーヘンをデザートに奢って貰った。
このクーヘンはお店にいるお客全員に振る舞われたので、きっとみんなこの獅子が大好きになって帰るのだろうなと、ネアは美味しいクーヘンをもぐもぐしながら幸せに頬を緩める。
奢りによって生じる魔術の縁は切ってあると獅子が言えば、それは残念だと笑った男性がいて、音楽の精霊はただいまその男性と楽しいお喋りに興じているところだ。
「ディノ、私は知らなかったのですが、この店のクーヘンは老舗のお店と同じレシピだそうですよ。この固めのクーヘンがぎゅっと詰まっている感じが癖になる味ですね」
「うん。…………美味しいものだね」
「ゼノに、このお店はクーヘンも美味しかったと、素敵なお土産話が出来ます!」
しかし、どうやらそこで運を使い果たしてしまったものか、ダリルからリーエンベルクに帰還するように連絡が入ったのはその一時間後のことである。
ザルツ伯と出会ってしまったのは想定外の事態であったので仕方のないことなのだが、悲嘆に暮れたネアは、ザルツのお土産を大急ぎで買い漁り、慌ててリーエンベルクに戻ることになったのだった。
ザルツにあるノアのお屋敷に泊まれるのは、また少し先のことになりそうだ。
編成上、本日更新のお話がだいぶ長くなってしまいました。
お付き合いいただきまして有難うございます。