青い垂れ幕と音楽の妖精 1
ザルツは、ウィーム大聖堂前の大通りから真っ直ぐ歩いてゆけば着く、ウィーム領内ではウィーム中央に次ぐ大都市だ。
ウィーム中央の外れにある大きな川もザルツまで繫がっていて、冬場には長距離スケートや氷上ソリの商隊が行き交う。
雪熊などが出るのだが、真冬の森を抜けるよりは安全なのだと知り、ネアはあらためて転移の恩恵について感謝した。
「確か、音楽院と魔術の大学があるのですよね?」
「うん。世界的に有名なのは音楽院だけど、ザルツの魔術大学は、音楽の研究から派生した魔術に長けているそうだ。ザルツの魔術大学でしか行われていない授業や、研究があるらしい」
「そのような分野での研究がなされているからこそ、あちらの魔術大学も有名なのですね。……むむ、音楽関係の魔術となると、歌乞いもそうなのですか?」
「歌乞いは契約の魔術の一種だね。系譜や術式よりも魔物が気に入るかどうかだから 、歌の中にある魔術の技量は関係ないんだ」
「他にも、契約の魔術というものはあるのでしょうか?」
「ネアが浮気する…………」
「なぜにそこまで飛躍したのだ………」
ザルツには大きな大学や劇場などもあり、ダリルダレンの書庫には劣るものの大きな書庫があって、ウィーム領の観光に訪れる他領土のお客さんは、必ず行先に指定する都市がザルツなのだった。
ネアにとっては、一度は行ってみたい美味しいケーキのお店に、音楽堂の裏手にはネアがサムフェルですっかり気に入ってしまった布屋さんもある。
かなり憧れの地と言っても過言ではない。
(そこにやっと行ける!)
余談だが、ヴェルクレアの新婚旅行では、ウィーム中央に三泊、ザルツに二泊、シュタルトに一泊のツアーがとても人気なのだそうだ。
特に王都の住人からすると、日常の中にはあまりない景色を楽しめると好評である。
ウィーム領の者達はあまりウィーム領から出ることは好まず、シュタルトや、あえての異国、もしくは一部の外と繋がった妖精の国などが人気であるらしい。
「ウィーム中央の大きな川は、街の外れにあるだろう?ザルツは、街の中心をその大きな川が流れているのが特徴的だね。川には有名な橋がかかっていて、ザルツに貢献した様々な者達の石像が立ち並んでいる。あまりにも数が多いので、観衆の橋と呼ばれているそうだよ」
「どうして観衆の橋と呼ばれるのですか?」
「一人で歩いていても、観衆に囲まれているように感じるからだそうだ。霧の深い夜にその橋を一人で歩くと、石像が動き出して攫われてしまうこともあるらしい。橋には魔物も住んでいるしね」
「なぬ。そんなこともあるだなんて、なかなかのホラースポットです!なお、そのくらいのホラーなら私は怖くありませんからね」
「ほらーすぽっと……………」
夜明けや夕暮れは、その橋も観光客や、ロマンチックな雰囲気に浸りたいザルツの住人達で賑わう。
大きな川と、川沿いの瀟洒な街並みを楽しめるので、そこから望むザルツの景色は格別なのだそうだ。
ネアは、住まいを恋人達の聖地にされてしまう橋の魔物が気になったが、ガイドブックにあった在住者マークからすると三角帽子に一つ目模様なので人型ではないのかもしれない。
そのマークの尻尾的な絵柄が気になっていたが、それは後程詳しくディノに聞いてみよう。
そんなザルツは音楽の都としても有名で、最近特に有名なのが銀のバイオリンと呼ばれる美しいバイオリン妖精だ。
髪も瞳も銀色に見える美女で、夏の音楽祭ではリーエンベルク前の広場での公演もあり、ヴェルリアの王宮にも何度か呼ばれているらしい。
(他にも、ハープやフルートにも有名な奏者さんがいて、ピアノは有名な方はガーウィンとウィーム中央にいるみたいだけれど、有名な若手のピアニストさんがいるみたいだし!)
元々ザルツは、ウィームが一つの国であった頃には、距離はあるものの王都までは一本道であり、川や鉄道などの交通網が充実していることから、ウィーム第二の都として栄えた街だ。
ウィームの中では商業都市の色が強かったのだが、物資の豊かさから音楽院や大学が出来、人が集まったことで更に増えた様々な商店がある。
(確か、第二の老舗と呼ばれているのだったかしら…………)
ウィームの王都であったウィーム中央都市の周辺にあるのが最古の工房であるのなら、ザルツにあるのはウィームの歴史の中では、一番の老舗のその次に生まれたというものがとてもが多い。
例えば、最も有名で古い陶磁器メーカーの本店は、窯や絵付け工房なども含めて全ての拠点がウィーム中央にあるが、ザルツにある窯もその次に歴史が古く、とても有名である。
老舗の陶磁器メーカーが王宮御用達の上品で繊細なものであるなら、こちらは絵付けの花柄が少し大きめで、若い人たちにも好まれるような華やかなものが多い。
ウィーム王都の流行を取り入れ、そしてザルツ独自の文化に生まれ変わらせるのが得意だったのだろう。
その結果、ウィームの文化はいっそうに深みを増したと言われていた。
(そして何よりも、ザルツには、ザルツにしかないお菓子が!)
ザルツのお菓子と言えば、お砂糖をじゃりっと感じられるようなお菓子が一度大流行したことがあり、その特徴を残したものがザルツ独自のものとしては有名なのだとか。
ザルツ銘菓として有名なクーヘンは、輪切りにした固めのバームクーヘンのようなものの表面にお砂糖を振り、それを火の魔術でじゅわっとあぶり焦がしたものであるらしい。
甘さ控えめの生クリームをたっぷりかけていただくそうで、ネアは一度でいいから有名店でそのザルツクーヘンを食べてみたいなと憧れていた。
「街としてはそこまで大きくはないんだ。大学や音楽院などがあるにせよ、あまり中心部を広げてしまうと、街を横断する大きな川があるから、防衛に不利だったのだろうね」
「その代わり、周囲には作物などを作る大きな農村があったりするのですよね?」
「ザルツだけではなく、他の都市への流通にも恵まれているからだろうね。…………あの、君と仕事で訪れたことのある、オリーブの魔術師がいた町もそうだよ」
ネアが一度訪れたことのあるカスティリオのように、ザルツの近くには大都市の繁栄を助けに育った小さな町や村も多い。
ザルツは、川沿いの土地は肥沃であるが、住居や商店などを作るのが精いっぱいで、その上で畑などを多く作るほどには広くないのだ。
唯一といってもいいのが名産品であるブルーベリーで、これはブルーベリーを司る妖精がザルツに永住しているので、甘く美味しい実が取れるからと修道院などで多く栽培されている。
「そして、今回の目的地である動物園ですね!!」
「うん。私は知らなかったけれど、動物園はとても有名なようだよ」
ネアがそう宣言すると、動物園は初めてであるディノも凛々しく頷いてくれた。
「お泊りセットも持ちましたし、戦闘靴もしっかり靴紐を結んであります。動物園の入場券をくれたノアには感謝しかありませんね」
「ノアベルトも動物園に行くのかな………」
「恋人さんと何回か行ったことがあるそうですよ。触れる動物さんもいるそうです!」
今回、二人がザルツの情報をおさらいしているのは、これからザルツの動物園に遊びにゆき、ノアの貸してくれた屋敷に一泊してくるという素晴らしい計画を実行するからだった。
それもこれも、エーダリアや特にヒルドが警戒しているザルツの伯爵が、この三日間をヴェルリアに滞在しているという情報が入ったからである。
件の厄介な人物が不在にしてしている間に、ささっと動物園で遊んでザルツの美味しいものを制覇してくるというのが、今回のネア達の任務なのだ。
そしてそれは、言葉だけでなく、本当に仕事という意味での任務にもなっている。
「ザルツで過ごし、何か気になるところがあるのかを調べるのだよね?」
「はい。ダリルさん曰く、ザルツはその規模からある程度独立している都市であるのと、独自の文化や流行り物などもあるそうです。私とディノで一泊すれば、問題があればきっと炙り出される筈だというのがダリルさんの考えのようですね」
そのようなやり取りがあったのも、先日ネアがその噂のザルツの伯爵の出てくる夢を見たからなのだ。
春告げの舞踏会で出会ったリズモ似な毛玉妖精から毟り取った祝福が発動したようで、本人が気付いていない出来事の芽吹きを知らせてくれる祝福なのだという。
ヒルドが確かめてくれた結果、やはり芽吹きの妖精の祝福が動いた痕跡があると知り、ネア達はその夢から得られた情報を精査した。
(そんな折に、そのザルツの伯爵が不在にする絶好のチャンスがやって来たので、観光をするだけでいいという素敵な条件の下に、ザルツに行けることになるなんて!)
すっかり楽しみになってしまい鼻息も荒いネアだが、ヒルドは心配そうな様子だった。
ザルツの伯爵と呼ばれるハーシェッドは、趣味である収集家としての側面では強欲で少し変質的なところがあるが、仕事となるとかなり優秀な商人の一面を持つ。
そんなアンバランスさがリーエンベルクの頭痛の種になっているのだが、聡明な地方伯としての能力から特にお咎めなく今まで来ている。
(死んでしまったり、心が折れてしまわない程度ならば、くしゃりとやるのもありだとか………)
ダリルに言われたことを心の中で復唱し、ネアは武者震いする。
誰かを案じて胸が苦しくなったり、その残忍さや理不尽さに途方に暮れるような問題ではない。
だが、ザルツ伯ともなればウィームの重鎮でもあり、蔑ろに出来る問題でもない。
その上でこうして任せて貰えるのだから、是非に期待に応えて何か成果を持ち帰りたいところだ。
(ダリルさんからは、観光しているだけでも、問題があれば問題の方から寄ってくると言って貰えたし)
ネアは怠惰な人間なので、観光しているだけで仕事に遭遇出来るのであれば、それ以上に楽なことはない。
通常の事故とは違い、ちゃんとした仕事である。
張り切り過ぎて、昨夜は異国でリズモ狩りをした。
西方の小さな国の森だが、まだ恐ろしい狩りの女王を知らないリズモ達はあっという間に捕まってしまい、悲鳴を上げながらネアに祝福をくれたのだった。
「アルテアも最近は時々ザルツに滞在していたようだし、君に影響のない範囲のものだといいのだけれど」
そう呟き、水紺色の瞳にかすかな憂鬱さを滲ませたディノに、ネアは首を傾げた。
「アルテアさんは、ザルツに滞在までしているのですか?」
「そのようだよ。ノアベルトから聞いたのだけど、ザルツの恋人と過ごすのに泊まった日の深夜に、明らかに自炊するような食材を抱えたアルテアを見かけたそうだよ」
ネアは、事故率低下の為にもその恋人とノアの関係が拗れていないかどうかも気になったが、アルテアが、滞在しながら何かをしているのだとすれば、それなりに腰を据えているのかもしれない。
「むむぅ。そう言えばこの前の復活祭の時も、あのようにしてうっかりザルツの伯爵さんのお名前を出していましたものね。それくらい日常的に接触を持たれているのだとすれば、少し困ったことなのかもしれません………」
「ザルツは、この国が国交のない国からの留学生を受け入れている土地の一つだ。楽器の作りで有名な土地として、そして音楽院が世界的にも有名だからヴェルリアの方でも容認しているようだが、そのあたりにも不安要素はありそうだね」
領内での問題であればいいのだが、そこに異国が絡むと話は変わってくる。
ネアは俄かに不安になって、隣に座った魔物の瞳を見上げた。
「それは、……………エーダリア様が困ってしまうようなことになるでしょうか?」
「いや、今のアルテアであればそのようなやり方はしないだろうし、ザルツを管理するその伯爵も、話を聞く限りは目をつけられるような事は寧ろ敬遠している傾向にあるのだと思う。あくまでも、そのどちらも、目をつけられて邪魔が入らない程度に遊ぶという嗜好なのだろう」
「………………とは言え、そのお二人の考える線引きによっては、こちらが思っているより厄介なことを企んでいる可能性もあるという感じなのでしょうね」
きりりとしたネアの頭を撫でてくれて、ディノはそろそろだねと呟く。
先程朝食の席で、エーダリア達には既に行って来ますを言ってあるので、あと半刻くらいしたらリーエンベルクを発とうと話していたのだ。
「そう思っていた方がいい。………まずは、楽器店を見るのかい?」
「はい。ザルツに着いたらまずは、ザルツという街が出来た頃からある、有名な楽器店に行きます。そこで毎朝恒例の、楽器店所蔵の有名楽器の妖精達の目覚めを拝見し、楽器妖精さん印のお土産を買うのです」
「うん。ザルツの楽器妖精は美しくて有名だ。君には一度見せてあげたかったんだ」
「ふふ。では一緒にそんな妖精さんを見て下さいね。……そしてその後は、有名な橋を渡って歩き、動物園です!」
「君の好きな雪豹もいるそうだね」
その言葉にネアは深く頷いた。
白けものも雪豹の形をしているが、豹柄のある雪豹を見るのは久し振りだ。
年始に赤ちゃんが生まれたらしく、きっと親子の雪豹はとても可愛いだろう。
なお、こちらの世界の動物園は、自然の中で生活が難しくなった個体を保護する意味合いが強い。
その雪豹の母親は、足を獰猛な精霊に噛まれてしまい、雪山での生活が困難になったのだとか。
保護担当の妖精に自分も一緒に行くと申し出があり、伴侶の雄の雪豹も一緒に動物園にやって来た。
今は無事に赤ちゃんも生まれ、ほかほかの仲良し雪豹家族として来園者達のハートを鷲掴みにしている。
「はい。たくさん凝視して、雪豹さん一家の絵の入ったカードを買い占める予定なのです。そして、音楽の精霊である獅子さんな精霊さんや、お触り自由な愛くるしい平ぺた狐に、ムンムンを見ます!」
「ムンムン…………」
「ムンムンというのは音楽を食べる妖精の一種で、見た目は毛皮に小鳥の羽がある蛇さんだそうですよ。音楽を愛する街の街路樹に住んでいるそうですが、時々珍しい色の個体が出るので、動物園で保護されているのだとか」
本来は焦げ茶色のムンムンの中に生まれるパステルカラーな珍しい色の個体は、他の種族に餌や魔術の材料などとして狙われ易い。
本人の為にも、仲間達の為にも動物園に保護されるのだが、三食昼寝と音楽鑑賞付きの動物園はムンムン達の憧れの地だ。
毎回、保護をする時には、普通のムンムン達も何とか動物園に住もうと荒ぶるらしい。
保護のあった日の夜には、動物園に行きたくてわんわん泣く焦げ茶ムンムン達の為に、音楽院の生徒達が彼等を宥める為に路上演奏会をするのだとか。
優秀な生徒達で行われる演奏会の為、遭遇出来れば幸運なのだそうだ。
「では、行こうか」
「はい!」
そんなムンムン達の住むザルツへ、二人はふわりと転移で降り立った。
二人がまず訪れたのは、ザルツの南にある丘陵地帯だ。
ぶわりと涼しい風が吹き、ネアは口元を緩める。
(わ、川からの風かな。とっても気持ちいい…………)
メテオベルクの丘と呼ばれているそこには、まだまだ現役で使えそうな立派な城塞跡があるが、その城塞跡は様々な商店や、屋台などの壁代わりに上手に利用されている。
近くには小さな教会や修道院、墓地などを囲むような雑木林なども点在しているので、転移の目隠しとしては立派なものだった。
転移で出た場所から二十メートル程歩くと、丘の上の展望台に出る。
するとそこからは、深緑色の鉄柵の向こうに広がるザルツの街が一望出来るではないか。
「ディノ!見て下さい。空の向こう側がはっとする程に青い青空で、こちら側にある白い雲と街の色合いの対比がとっても綺麗ですよ。………川の色は、ウィーム中央とは違って深い青緑色に見えるのですね………」
「川の中に森があるそうだよ。だから、川の色が違うのかな」
「川の中に森が………!」
「この周囲には山が多いだろう?ザルツの街があったところも、元々は川辺に生い茂る雑木林だったようだよ。その雑木林を治める森の妖精が、川の精霊と伴侶になって川の底に引っ越したことで、街を作れるような土地が人間達に渡ったんだ」
「……………こ、呼吸的な問題はなかったのでしょうか?川の底に移住するのは、人間の感覚では少し難易度が高いように思えてしまいます…………」
「どうだろう。………引っ越せたのだから、大丈夫だったのではないかな」
「……………あの深い色合いが森の色合いだと思うと、思わずじっと見てしまいますね…………」
少し小高くなっている場所なので、きらきらと午前の光に煌めく大きな川や、川沿いの美しい街並みがここからはよく見えた。
全体的に青緑色の屋根や白っぽい灰色の壁の建物が多く、蛇行して曲線を描く川の向こうに見えるのは、かつてザルツの離宮だった建物だろうか。
眼下に広がる大聖堂を有する教会群、正面の対岸に見えるのは有名な修道院で、今は修道院としての機能を縮小し、美術館や博物館として開放されている区画もある。
その奥に広がる豊かな森には、ザルツの固有種である妖精や精霊がいるのだろう。
「あの青緑の屋根の塔が三つあるところが、ザルツの離宮だ。元々はこちらを王都にする予定であったそうだから、リーエンベルクと同じくらいの規模なんだよ」
「塔のような建物に青緑の屋根が映えて、ここから見ると絵のような美しい建物ですね。………確か、今はザルツ伯のお屋敷と、共有の公共施設の両方を兼ねているのですよね?」
「中央棟が公共の施設になっているようだね。会議室と書庫、そして魔術大学の一部の研究室も入っている。東棟には郵便舎と病院、商工会議所があるそうだ」
「あの美しい建物をみなさんで分け合って使っているのが、何だか合理的なようでとても素敵です。病院に行くにしても、王宮の美しい建物だときっと怖いばかりではないでしょう」
「そうなのかな。…………右側に、山竜がいるのが見えるかい?」
「むむ!緑色の綺麗な竜さんがいます。………ここからではよく見えませんが、赤い布を巻いています?」
「あれは鞍なんだ。あのようにして赤い鞍をつけた山竜が、ザルツの病院に勤める山竜達で、ザルツの周囲を囲む山々での遭難者や怪我人達の救助にあたる。商人の出入りが多いところだから、そのような契約があるのだろうね」
山竜はとても耳がいいので、山の生き物達の声を聞き、いち早く要救助者を発見してくれるという。
あの仕事に就くことで、ザルツの一等地に素敵なお家を貰い、かなりの高給取りでもあるのだとか。
(…………こっちを見ているような気がするけど、さすがにここまでは見えないかな)
ネアはそんな赤い鞍の山竜から視線を左にずらしてゆき、西棟の方をじっと見つめた。
「確か、西棟がザルツ伯のお住まいのところなのですよね…………」
「青い布をバルコニーから垂らしているのが、領主不在の報せなのだそうだ」
「うむ。しっかりと不在にしていますね。この隙にザルツ観光が出来ます!」
ザルツには、ウィームのかつて栄華を残す華やかな暮らしを続けている貴族も多い。
王族の直系ではないことで統一戦争を逃れた一族なのだが、中でもザルツ伯と呼ばれる、名前にザルツを持つ伯爵家と、ザルツノッケルという名前を持つ伯爵家が二大勢力だ。
ザルツ伯は政治や商業などを取り仕切り、ノッケルの一族が音楽家の支援を行っていたそうで、それぞれの派閥にまた多くの有力貴族が所属している。
まったく気質が違うそうで、ノッケル派の貴族達は皆大らかで音楽をこよなく愛し、その代わり生活力に欠けるような危うい部分もあって、所謂、音楽馬鹿と呼ばれてしまう貧乏貴族なども存在しているらしい。
「この背後に見える、メテオベルクの城跡の、………ほら、あそこに古い城があるだろう?あの城を住まいにしているのがザルツノッケルの伯爵家だ。あまり裕福ではないけれど、古い音楽の固有魔術などを有しているので、ザルツの有力者でもある」
「むむ。質素な円筒形の建物ですので、お城ではなく修道院のようなものかと思っていました。ディノは、ザルツには詳しいのですか?」
「最近ではないけれど、調停を任されてひと月程滞在していたことがあるよ」
「まぁ!それは頼もしいですね」
ディノ曰く、ノッケル家には指揮台の魔物が一人、代々の守護を与えて一緒に住んでいるのだそうだ。
青い髪に銀貨色の瞳を持つ美しい乙女なのだと知り、ネアは是非に一度会ってみたいなと思ったのだが、今代のノッケル伯が大好き過ぎて女性が近付くと荒れ狂うそうで、ネアの婚約期間が終わるまでは会うのは控えた方がいいと言われてしまった。
少女版のゼノーシュという雰囲気であるらしく、大好きなノッケル伯に近付く女達は全て滅ぼす勢いということで、ノッケル伯の弟達は、既に伯爵の直系の子供は諦めているらしい。
この情報はヒルドから聞いたそうなのだが、ディノもその魔物についてはよく知っているのだとか。
「リーチェは、普段はおっとりしているそうだけれど、恋人が出来るととても狭量になるようだね。三百年程前にノッケル伯が女性だったことがあってね。その時のノッケル伯にも恋をしていて、友人だったウィリアムが会いに行こうとしたら、ザルツの地に足を踏み入れたら許さないと叱られたらしい。とは言え、ウィリアムは仕事でザルツに用事がないとも言えない。そのような場合は許可するようにと、私が調停したことがあったんだ」
「………………まぁ、女性の方が恋人だったこともあるのですね」
「彼女の愛情は音楽への愛情のようなものであるらしい。美しい旋律に恋をするのであって、些細なことは気にならないのだそうだ」
(芸術家気質、…………なのかな?)
ネアは、少しだけ未練もあったものの、敵を排除するときのゼノーシュの獰猛さを知っているので、その指揮台の魔物に会うのは機を見ることにした。
銀のバイオリンと呼ばれる妖精もこの一族に庇護を受けているそうだが、あくまでも社交界での人脈作り程度の助力を得るに留め、彼女自身はザルツにある音楽妖精達の共同住宅に住んで自立しているのとか。
「風が気持ち良くて、この先の階段の道も、きっと楽しく歩けてしまいますね」
「石畳で、色が変わっているところが見えるかい?」
「はい。少しだけ青っぽいところでしょうか?」
「夜になると、そこを踏むと光るんだ。ザルツでは夜の演奏会に出かけてゆく者達が多いから、あちこちにその仕掛けがあるよ」
「まぁ!素敵ですね」
このメテオベルクの丘から市街地までは、ゆったりとした坂道に時々急な階段を挟み、川沿いまで下ってゆく。
その途中にあるのが最初の目的地である楽器屋なのだが、そこまでの道も立派な彫像の立てられた美しい墓陵があったりと、なかなかに目に楽しい。
「あの淡い檸檬色の壁のお宅は、有名なチェロ奏者さんの生家だったそうです。今は記念館になっていて、お喋りするチェロさんが暮らしているのだとか」
「リンゲオールのチェロだね。その奏者はね、祟りものになった楽器を使うことで浄化させ、チェロの魔物にしてしまったんだ」
「まぁ。そんなお話があったのですね?………奏者さんは、祟りものなチェロを使っても大丈夫だったのでしょうか?」
「使い始めは無事ではなかっただろう。やはり祟りものだし、奏者は人間だったようだから。けれど、身に馴染み、浄化したチェロが魔物としての力を以って演奏に応じるようになると、音楽の魔物の多くは浄化や癒しの力を持っているから、少しは心身の損傷部分を治癒出来たのではないかな」
「ガイドブックには、陽気なチェロさんが、その有名奏者さんのお話をしてくれるとありました。いつまでもその方のお話をたくさんの方と出来るように、あのお家を記念館にしたのだそうです」
三十年前に亡くなった奏者は、ヴェルクレアだけでなく世界各国にファンがいる。
そんなファン達が記念館を訪れ、記念館を守っているチェロの魔物と、奏者について語り合うのだそうだ。
大好きな奏者の話をしながら、チェロの魔物はただのチェロに戻るまでの日々をゆっくりと過ごしているという。
「恨みを残さずにいる品物の魔物は、そのようにして時間をかけてただの品物に戻ってしまうことも多いんだ。特に生まれたばかりのものは、魔物として残るか、特定の持ち主だけを思い元の品物に戻るかが、派生後の百年くらいで決まってくる」
楽器の魔物は特定の個体が魔物に転じる為、例えばチェロの魔物でも、何種類かのチェロの魔物がいるらしく、このザルツのチェロの魔物は、リンゲオールのチェロの魔物というのが正式名称になる。
楽器としての銘ではなく奏者の名前を持つあたり、そのチェロの魔物がどれだけ奏者を愛していたのかがネアにも想像出来るのだった。
(リンゲオールさんは、小太りの男性で、底抜けに明るくて音楽が大好きで、音楽の系譜の生き物達はみんなリンゲオールさんが大好きだったと言うから………)
扱いが悪く祟りものになった楽器を憐れみ、バイオリン奏者だった彼は、一つのチェロに己の人生を捧げた。
二人が仲良しになってからは、国内外のあちこちを旅して、幾つもの記録や記憶に残る素晴らしい演奏を残している。
(…………………あの時に暮らしていた街も、音楽が溢れていたな…………)
石造りの簡素な扉の向こう広がった廊下には、あちこちの練習室から素晴らしい旋律が零れていた。
そんな音楽の見えない帯を踏み、新しく過ごす街の空気を吸い込んで希望に満ち溢れていた頃。
真っ青な空を見上げて微笑んだのは、いつだったか。
「ネア、あの店ではないかな?」
ディノの声で意識を引き戻すと、ネアは見付けて貰った緑の看板のお店を確認して、笑顔で頷いた。
緑の蔦に覆われたクリーム色の石壁のお店の前には、既に観光客とおぼしき人達が四、五人、開店を待っていた。
近くにあった時計屋の時計を確認すると、開店までもう五分程だ。
時間配分が上手くいったので、ネアは、ご機嫌で魔物の三つ編みを引っ張り、お店まで歩いてゆく。
(今のところ時間通りだし、お天気もいいし、何だかいい滞在になりそう!)
この調子で、ダリルにお土産を持って帰り、もしザルツ伯が何か企んでいるのであれば、不在の内に地の利と有用な情報を得ておこうとネアはほくそ笑んだ。
ところが、見えていたよりも楽器屋が遠かったようで、ネアは途中からのんびり歩く余裕がなくなった。
ゴーンと、どこか遠くで教会の鐘が鳴る。
「むぎゃ!楽器屋さんの扉が開いてしまいます!ディノ、走りますよ!!」
「ご主人様…………」
ともあれまずは、観光優先なのである。