花瓶の底と芽吹きの祝福
深い深い闇の底に、光の筋が落ちる。
艶やかな、ふくよかな。
それでいて冷え冷えとする闇が揺れた。
ネアはその闇の底に裸足で立っていて、闇が震えるその様をじっと見ていた。
(薔薇の花がたくさんある……………)
そう思いながら、闇の淵に揺れる美しい花々を見ていた。
闇のほとりで咲き誇る薔薇たちは、青みがかった深紅に、淡いラベンダー色、赤紫。
やはり自分の瞳の色に似たものが好きなのだろうかと、ネアはこの闇の主をそっと窺う。
(ファムファタール、マリーローズ、イヴシルバ、イヴパッション…………)
懐かしい品種名を頭の中で並べたが、きっとここでは違う名前があるのだろう。
よく似ていてもここは生まれ育った世界ではないのだと考えかけ、この異質な場所はよく考えなくても異世界だなと一人で頷く。
ざあっと風が吹いた。
すると薔薇の茂みがざわざわと揺れ、闇に映った影もゆらりと揺らめく。
(ヘデラベリー、クリスマスローズ、ライラックにランティスト)
ネアが立っている闇のほとりは不思議な場所だった。
真っ暗な闇の底に闇色の光を放つ湖があって、そのほとりには花瓶に生けてある花のような様々な草花が生い茂る。
(ああそうか、ここは花瓶の中なんだ……………)
なぜか唐突にそう考え、ネアはまた夢の中らしい曖昧さでそう頷いた。
そう、ここは恐らく夢なのだと思う。
けれどもこの世界の夢にはその全てに意味があるというので、ネアは夢の中とは言えど気が抜けないのであった。
またざわりと風が揺れ、ネアは濃密な花々の香りを吸い込んだ。
甘く華やかなその香りには、やはり闇の冷ややかさが混ざり込む。
「で、そちらの手駒は何だ?」
そう尋ねたのは、よく見知っている魔物であった。
豪奢な天鵞絨張りの椅子が二脚置かれていて、古びた金の装飾が剥がれ落ち、ひび割れて木の肌が覗いたものに座るのはアルテア、そして、同じように古びて塗装のひび割れた銀の椅子に座るのは見慣れない誰かだった。
金の椅子には深紅の天鵞絨が、そして銀の椅子には青の天鵞絨が張られているので、恐らくこの二つは対になったものなのだろう。
(確か、夢の中で対になったものを見るのは、意味があるらしい…………)
それは、とても象徴的なもの。
或いは、あまりにも印象に残るものも同じである。
であれば、ネアの目の前で向い合わせになった椅子に座り、水晶の杯を持つ男たちは何をしているのだろう。
「僕の手駒はこのインクだ」
そう、アルテアの問いかけに答えた男性は、淡い銀髪の巻き髪に、冷たく光る琥珀色の瞳をしている。
まるで身の内に金と銀をもっているようで何とも華やかだが、整った印象の言動とは裏腹に、彼の眼差しに窺えるのは、どこか気怠げなぞんざいさであった。
「鍵穴のインクか。また厄介なものを取り寄せたな」
「僕はこういう、美しいけれど残忍なものが好きだからね。でも、別にこれであの掴みどころのない坊やを虐める訳じゃないよ。僕が腹を立てているのは、一人の歌乞いだ」
「………………ほお?」
「太陽のような目をして僕を見たあの歌乞いを、僕は少しだけ不愉快に思っていてね。このインクを使ってエーダリアと遊ぶのもいいのだけれど、ダリルを怒らせるとまた大事な収蔵品を持っていかれてしまう。それで君と組もうとしたんだ。…………それにほら、君はそういうものを壊すのは好きだろう?」
「興味を惹く程に複雑さがあればだな。だが、退屈しのぎにその遊びには付き合ってやる」
ひたひたと足元で揺れる闇色の水を感じながら、ネアはまたこの魔物は悪さをしているようだぞと眉を顰めた。
おまけに話をしている相手は、エーダリア達をよく知っているようだ。
銀髪の男性は、そんなアルテアの返答に、優雅に口元を片手で押さえて笑った。
「ははっ、君は他人のふりが上手だね。君だって生い茂り過ぎた茂みは剪定したい方だろう?あまり元気に育ち過ぎても、その枝には晴れやかさばかりで魅力がなくなってしまう。生き物というものは、少し損なわれていたほうが物語があっていいと思うし、君にこの舞台への拍手を貰うには、そのくらい作り込んだものにしないとね」
健やかだから損なうのだと、彼は言う。
どんなものに興味を覚えるのかは人それぞれだが、そんな理由で騒ぎを起こされるのであれば堪ったものではない。
「あれは頑強な人間だぞ?お前にその枝を切り落とせるのであればいいけれどな」
そう呆れたように肩を竦めたアルテアに、男性は静かに微笑みを深めた。
(何だろう。……………上手く言えないけれど、アイザックさんに似ているような………)
老獪で冷静で、浮かべている表情はまるで怜悧な作り物の仮面のよう。
それはどこか、商売人としてのアイザックの表情に似ていた。
椅子に座った状態だが、アルテアよりは少し身長は低い。
とは言え男性としては十分に高身長だろうし、どこかエーダリアや、他に出会ったことのあるガレンの魔術師に似た気配もあった。
(となると、魔術に長けている人なのかもしれない………)
黒に紫紺の縁取りの豪奢なケープ。
華美な装いでも違和感がないのは、彼が生まれながらにしてこのような装いに馴染んだ者だからに違いない。
であれば貴族だろうかと考え、ネアは不思議な銀色のブーツを記憶に留め置く。
(あのブーツは、普通のブーツじゃない気がする…………)
こんな厄介な話をしているのが誰なのか知りたかったが、魔物と向かい合っている時に自分の名前など呼ばせないだろうか。
ネアがそう考えながらも引き続き観察していると、男性は手に持った華奢なインク瓶を指先でくるりと回してみせる。
「このインクはね、使ったものが決して明かしたくはなかった秘密を一つ、暴いてしまうんだ。なんて単純でなんて美しいのかと思わないかい?でも、君がもう少し派手な演目を見たいのであれば、魂の秘密にまで触れてみようか」
「やめておけ。運命に触れるには稚拙な道具だ。お前は、自分を損なう遊びは嫌うだろう」
「そうだね。確かに僕は、自分の仕事や日常を損なうものは嫌いだ。蒐集は、あくまで僕の趣味だからね。趣味は趣味の領域で暮らすべきだし、趣味だからこそ僕の蒐集はどこまでも悪食である。…………何しろほら、趣味というものは日常からの脱却を図るものでなければならないから」
「お前のその趣味への傾倒は、日常を損なうという領域には、既に踏み込み済みな気がするけれどな」
「そう?僕はきっちり区別はつける方だよ。どれだけ優秀な魔術解析の瞳を持っていても、災害復興で訪れたガレンの魔術師の瞳は奪わないし、友人の竜の鱗を剥いでしまうこともない。これでも常識人だからね」
空を見上げると、どこまでも暗い闇色の向こうに見事な星空が見えた。
ふくよかな薔薇の香りにうっとりと目を細め、ばさりと茂みから飛び立つ鳥の翼の音を聞く。
(…………………あ、)
ネアはふと、アルテアの足元に積まれているのが、革袋などではなく人間の皮を洗濯物のように畳んだものだということに気付いた。
出会ったばかりの頃だが、以前にもアルテアのそばで見たことがあるので、彼自身の魔物としての資質から決して無縁の悪さではないようだ。
(確か、仮面の魔物というのは、人間の中身を入れ替えて悪さをしているということだから、その関係で外側のものも集めているのかしら…………)
おぞましいだとか、残酷だとか思うにはそれは見知らぬ誰か過ぎて、ネアは特にそちらは問題視せずに視線をもう一人の男性に戻す。
(と言うか、会話の様子からすると、アルテアさんは、そろそろまた私に悪さをしかけてくるのかしら?)
歌乞いでアルテアが頑強だと評価するのであれば、恐らくそれはネアのことだろう。
何となくだが呆れたような物言いで語られる言葉の響きに、ネアはそう考えて溜め息を吐く。
牙を剥くのであれば返り討ちにするばかりだが、その騒動でリーエンベルクに迷惑をかけるのは御免であった。
それに、あの男性が手に持っているインクの効能もいまいち気に食わない。
秘密というのは、秘めておいた方が皆の為であるものも多い。
あのように無責任に美しいと言うばかりで、それが下劣で無粋なものだとは思わないのだろうか。
美しいかどうかなど、その秘密のはらわたまで覗かないと断言は出来ない。
醜くみすぼらしいものや、醜悪で手に負えないものも人間の心の中には眠っているのだ。
ひっそりと沈め、その水面を澄み渡らせ、そうして静かに眠らせてしまったものの方が、ネアは美しいと思うのだけれど。
「とは言え、嫌がらせがお前の趣味でもないだろう。収集家であるお前であれば、何かに目を付けたな?」
「君の目は誤魔化せないな。…………そうだね、僕はあの歌乞いが持っている、芽吹きの祝福が欲しいと思っている」
「………………春の系譜の祝福だな。まぁ、その手の者には好まれそうではあるのか」
「祝福を剥ぎ取る為に、少しばかり痛い目を見て欲しいと思うのは、我儘だろうか。でも、僕は商人でもあるから、損失を利益で補うのは必然だと思ってしまうんだ」
「…………………好きにしろ」
アルテアはもう興味を失ってしまったのか、しっしっと追い払うように手を振る仕草をした。
アルテアの足元にある皮のようなものには、紙製のタグがついているようだ。
ペンを取り出してそこに何かを書き込んでゆくと、皮は黒い砂のようなものになってざらりと崩れる。
「頑強ならば、目の一つや、腕の一つくらい無くなってもいいよね」
「さてな。それを欠くことが利益に繫がるのかどうかは、お前の問題だ。俺の領域に手を出しさえしなければ、勝手にしろ。………それと、いい加減に帰れ。ここは獲物の為の捕獲路だ。お前が居座っていると罠に獲物がかからない」
「それは失礼。…………そうだ、それと、君のツテで魔術欠損の標本箱を買えないかな。奪った体の一部を標本にしておこうかと思って」
「アクス商会にでも依頼しておけ」
「つれないなぁ………。アクス商会は、何だかんだと中央贔屓だからね。ザルツにも支店があるのだから、僕を優遇してくれることもあってもいいのではないかな」
「その上お前は好事家だ。それなのに上得意としての扱いを受けていないのだとしたら、余程気に触るんだろうよ」
「それは困った。…………では、友人の標本の専門家に頼むしかないか………」
ざわざわと薔薇の影が揺れる。
ひたりと揺れた闇の香りがたなびき、ネアは瞬きをするとその深い闇の底ではなく、いつもの寝室に寝ていた。
「………………むぅ」
夜は穏やかで、天井はいつもの天井のままだ。
眉を寄せて今見た夢のことを考えていると、横から伸ばされた手が、そっとネアの頬を撫でる。
「夢を見たのかい?」
ネアが目を覚ましたことで起きてしまったのか、元々起きていたのか、ディノがこちらを見ていた。
「……………ディノ。なにやら曰くありげな夢を見ました。………ここにちびふわが寝ているからかもしれません」
「アルテアの夢だったのかな?」
そこでネアは、すやすやと眠っているちびふわのお口に、念の為に小さな砂糖菓子を押し込んで寝惚けたままむぐむぐさせてしまい、熟睡に泥酔が入ってこてんとお腹を出したちびふわがいっそうの深い眠りに落ちるまでを見てから、先程見た夢のことを話した。
「………やれやれ、どの程度関わるつもりなのかは知らないけれど、その道を知られている程度には深く関わっているのだね」
ネアの話を聞いたディノは、どこか思案深げにそう呟く。
「その道というのは、私が見た花瓶の底のようなところですか?」
「うん。アルテアが幾つも仕掛けている、魔術の中にある迷い道のようなものだ。夢を媒介にして近付き、良い獲物がいれば印をつけておく。椅子が二脚あったのは、そこに招かれる者がいるからだろう」
「………あの皮だけになってしまった人達のように………?」
「それは、………多分だけれど、素材なのだと思うよ。いつか、誰かを使って細工する時に使う、加工用の材料だね。様々なものを収集しておき、用途に合わせて取り出せるようにしてあるのではないかな」
「……………困った使い魔さんですね。そのようなことは、こちらに火の粉が飛ばないところでならお好きにしていただいて構わないのですが、私に悪さをするのであれば、くしゃっとやります」
ネアがそう言いながら、酔っ払って熟睡しているちびふわのお尻を撫でると、お腹を出してしどけなく寝ていたちびふわは、うっとりとした様子で長い耳をぴくぴくさせた。
「…………彼はもう選択したのだから、君を傷付けるという意思はないだろう。であれば、そのやり取りが君を標的にしたものであればいっそうに、気に入らないような展開になった時に排除出来るように、アルテアはそこにいることにしたのだろうね」
「…………とは言え、それで煩わしいことに巻き込まれるのであれば、事前に手を打っておきたいのですが…………」
ネアがそう言うと、ちびふわを挟んで横になっている魔物が、ふつりと微笑んだ。
その微笑みの凄艶さにどきりとし、ネアはふと、ここにいる魔物が万象というものを司る者なのだと意識する。
それは酷薄でしたたかな恐ろしいものなのだが、息を止めたくなるくらいには美しいものだった。
「もし、その者が君を損なうような思惑を持つのならば、今回、このような形で君に興味を持ってくれて良かったのではないかな」
「…………む、………そうなのですか?」
「うん。何を思って何をしているのか出方を窺うくらいであれば、害のないところで行動を起こさせて早々に誓約で縛ってしまおう」
(言われてみれば…………)
確かにその通りだなと考え、ネアは拍子抜けした。
手の内はもうバレているのだ。
簡単にくしゃっとやれそうであるし、こちらの思惑通りに動かせられそうだ。
「そう言われてみると、まさしくその通りですね。…………ディノは、アルテアさんが一緒にいた男性が誰だか分かりますか?」
「会話の内容からだと、それが恐らくザルツの伯爵だろうね」
「……………なぬ。ヒルドさんにも言いつけます」
「……………そうだね、エーダリアやヒルドにも言っておいた方がいいかもしれないよ。彼の表現には少しだけ気になるところがある。標的が君ではないということもあるだろう」
「…………そうなのですか?」
「君の眼差しを、太陽のようだと言ったのだろう?」
「はい。太陽のように偉大で輝かしい私のことではないのでしょうか?」
「…………ご主人様」
なお、ネアが居たのは本当に花瓶の底であったらしい。
花瓶の内側というのは、入り口の輪の形と水、魔術的な意味合いをそれぞれに持つ花々、人々の視線を集め心を動かす装置的な役割などの様々な要素が重なり、とても良い魔術の扉となるのだそうだ。
アルテアはよく利用していると聞かされ、そんな癖を見付けたのは先代の犠牲の魔物だと知ったネアは、今は亡きグレアムのことも考えた。
あのちびふわの呪いといい、先代の犠牲の魔物は、なかなかにアルテアを良く知っていたようだ。
「芽吹きの祝福というのが、何だか気になりますね」
「リズモに似た妖精で、その王だけが与えられる祝福なんだ。祝福を与えられた者が知らない、芽吹きかけている大きな事柄に纏わる秘密を一つ、とても明瞭な形で教えてくれるらしい。危険を防いだり、富を与えたりもするが、あまり良くない秘密を知ることもある」
「ふむふむ。危険が迫ってきていることを教えてくれたりするのですね………」
そこでふと、ネアは何かが思考の片隅に引っかかって、こてんと首を傾げた。
(明瞭な形で…………知らなかった危険を…………?)
「…………何だか、私が先程見た夢のようなものですね」
「…………もしかして、使ってしまったのかな?」
「むぅ。…………それに、春告げの舞踏会でリズモに似た妖精さんを狩りました。祝福も貰ったのです…………」
「そうだったのかい?」
「と言うことは、あのザルツの伯爵さんが欲しいものはもうないのでは…………」
「うん……。なくてもやるのかな………」
「………お会いした事は無いはずなのですが、私の眼差しが不愉快だったということなので、恨みもあるような気がします」
「であれば、そのようなものはやはり排除しておこう」
「ええ…………む?」
「フッキュウ…………」
ここで、ちびちびよろよろした酔っ払っいちびふわが目を覚まし、ネアの指を探してうろうろすると、差し出してやったネアの指をあぐあぐと噛みながらまたこてんと眠ってしまった。
ちびふわは本来夜行性なのだが、今日はきりん事件で疲弊していたらしく、よく眠っている。
「……………アルテアが度の過ぎた遊び方をしないのが一番なのだけれど、時々はそのように過ごした方がいいような気がするね」
「すっかり、野生の甘えん坊ちびふわになってしまいましたものね…………」
「うん…………」
ちょっとしょんぼりしたディノに三つ編みを渡され、ネアは三つ編みとちびふわを抱き締めて眠った。
ディノは、再び眠る時に、ヘルメネアに言われた事が気になっていないのか心配してくれたが、うっかり見てしまった花瓶の底でのやり取りの方が気になってきたと告白すると、それなら良かったとまたネアの頬を撫でてくれた。
「君が悲しい思いをしていなくて、良かったよ。そのザルツの伯爵の件は、起きたらエーダリア達と話そう」
「はい。…………ふにゅ。……話しまふ。ぐぅ……………」
ネアは、そんな優しいディノの声を聞きながら、ちびふわと三つ編みを抱いていたことですっかり満足してしまい、こてんと眠りに落ちた。
あの深い闇の底は、今もどこかの花瓶の中に隠れているのだろうか。
もしかしたら、生けてある花であの湖のほとりの風景も変わるのかもしれない。