276. 新しい攻撃を覚えました(本編)
かちこちと、時計の針が動く音がする。
ネアは普段、この音のしない置き時計を愛用しているのだが、今日は客間なのでこのタイプの時計を相棒にすることになった。
時々、時計の針がぎぎっと音を立てて戻ったり止まったりするのは、時間の座の精霊達が何か問題を起こしている時らしい。
実はそれが気になって堪らないので、ネアは自室の置き時計を厳選して秒針の音の出ないものに変えたのだ。
「こちらは問題ないと言いたいところだけど、幾つかの本から詩篇が逃げ出しちまった。こちらに来た妖精は羽をむしり取ってあるから、後で色々と囀って貰うさ」
魔術端末から聞こえてくる声の主は、その向こうで青い瞳を眇めて残忍な微笑みを浮かべているであろうダリルだ。
このような事件の運用として、それぞれが待機となる場合には、こうして魔術端末を繋ぎっぱなしにして各支部をリアルタイムで繋いでおくらしい。
「と言うことは、古い病の呪いを使ったな」
そう答えたのはウィリアムだ。
彼は終焉の魔物として、病などの系譜をも統括するので病には詳しいのだが、残念ながら今日はとりわけ多忙な一日でもあり、あまり長くは滞在出来ない。
「まったくだよ。最近の疫病だと、書物や絵画には影響を出さないってのに、よくもこんな古いものを持ち込めたもんだ」
「そこに収められた蔵書を損なうことで、君の力を削ごうとしたんじゃないかな」
「馬鹿な奴だね。私の根幹を司る書庫を、私が地上なんかに置いておくものか。私自身に繋がる部分は隠してあるよ。何の為の写本技術だと思っているんだい」
ディノと話しているダリルの言葉から、ネアは、以前にノアから聞いた話は本当だったのだと驚きを噛み締めた。
ダリルは書架妖精だ。
ダリルダレンの書庫のとある書架から生まれ、書に向ける信仰や執着などの人々の心や魔術を糧に、人間の領域で生まれた妖精の中でも稀なる力を持つシーに匹敵する妖精だ。
しかしネアは、そんなダリルがあのダリルダレンの書架から派生したことを少しだけ案じていた。
自分の命の源をあのように明確な形として持つとなれば、その書庫を攻撃されたらダリルはどうなってしまうのだろう。
そう考えてハラハラしていたネアに、いつだったか、ノアがこのウィームの七不思議を教えてくれた。
ダリルダレンの書架妖精は、本人にしか入れない広大な影絵の世界を持ち、その世界には見たこともないような素晴らしい書庫が隠されているのだという。
それは、本が特定階級の者達だけに許された時代の名残で、書に記された叡智が隠されているものという区分になるという概念から派生した場所であり、その秘密の書庫までの道はとても難解な迷路になっている。
この迷路というのも、書から派生した概念なのだとか。
そこに入る事が許されるのは、ダリルの主人と恋人くらいのものだと、ウィームではまことしやかに囁やかれているのだそうだ。
(そっか。写本で該当の書架を再現しておいて、本物の本が収められている場所がどこか別にあるんだわ………)
ネアは、そんな秘密の書庫がやっぱりどこかにあるのだなと知り、興奮気味にふむふむと頷いた。
「…………あの死者はやはり知り合いかい?」
「ヘルメネアのことだね。ディノが届けてくれた従者を見てすぐに分かったよ。………あいつらはね、うちの馬鹿王子を傀儡に仕立ててこの国の王座を狙わせようとしていた、何とも馬鹿な一族の残党さ」
「…………まぁ、エーダリア様を………」
ネアは、そのような陰謀は何だかエーダリアにそぐわないような気がしてしまったのだが、よく考えなくても、エーダリアは元王子なのだ。
それも、兄弟の中では次男にあたり、年次順であればなかなかに優位なポジションではある。
(でも、エーダリア様を傀儡にしてと言われると、………何というか、最も王位からは遠いような………)
ネアがそう思うのは、エーダリア程にこの国の王位や王族としての立場に興味がなく、あの王都に執着もない王族はいないだろうと思うからだ。
幼い頃は違ったのかもしれないが、とは言え、エーダリアが王都にいた頃となると、今度は立場的にも擁立してはいけなかった人ではないのかなとも思う。
(であれば、最有力候補の人達を盛り立てる輪からは外れた人達か、余程に傀儡を使う側としての己の力量に自信があったのかも…………)
「エーダリア程に王位継承から遠い王子もいなかっただろうから、まずはその発想自体で馬鹿さ加減を晒してるようなもんだね。おまけに、あの馬鹿王子が一番苦手とする気質の娘を勝手に婚約者だと公言していたらしいじゃないか。お陰でエーダリアは女嫌いの素養を育てちまったし、エーダリアを擁立されたら目障りな連中にも煙たがられていたよ。その結果、そんな曲者どもから退屈しのぎのいい駒にされちまったのが、今回の奴等なのさ」
ダリルは、こんな風にもう王子ではないエーダリアのことをまだこうして馬鹿王子と呼ぶ。
でもそれは、もう妻子のいる主人を昔から知る家人が坊ちゃんと呼ぶような、そんな温かな響きがあって、ネアは何だか好きだった。
ダリルがどれだけエーダリアを大事にしているのか、それが分かる呼び方だと思うのだ。
ダリルが唇に乗せる王子という響きは、エーダリアを利用しようとした者達が思い描く王子というものとはきっと違う、ダリルだけのエーダリアに向けられる執着が表現されている名前なのではないだろうか。
「エーダリアは、ヴェルリアが最も危険視したウィームの血族だ。そのような者達が擦り寄ることで、エーダリアにも影響はなかったのかい?」
「あっただろうね。あいつらが騒ぎ立てれば騒ぎ立てる程に、当時のエーダリアの立場は悪くなった筈だよ。…………おまけに、あの一族はあれでも侯爵家の血筋なんだけどね、正式な後見人となることを申し出て断られた本家の者達が、うちの馬鹿王子の暗殺を企てたこともあったらしい。………ノアベルトが通りがかって気紛れに手を貸したっていう、あの事件だ」
「うむ。一族郎党滅ぼしてよいと思います」
「ご主人様……………」
「ふぇ。ネアが怖い……………」
ダリルの説明は続いた。
背後で誰かの声やそれに答えるダリルの言葉、動き回るような音も聞こえるので、弟子たちにあれこれと指示を出しながらネア達とも会話をしてくれているのだろう。
「当時の侯爵だったヘルメネアの伯父がその事件で命を落とした後にも、その妻が余計なことをして激昂したヒルドに排除されてね。弟だったヘルメネアの父親が家名を残す為にと爵位を継いだんだ。幸いというべきか、少しはましだったと言うべきか、弟の方が気が弱くてエーダリアを取り込む方針に戻したが、娘を勝手に婚約者だと公言して、あの思い込みの激しい娘の方もそれを頭から信じ込んでいた」
「エーダリアは、その女性には興味がなかったのか?」
そう尋ねたウィリアムに、通信の向こうからふんと鼻で笑う音が聞こえた。
「初対面で、哀れなあなたを穢れたウィームの血の呪いから救ってあげますと、手を握って泣かれたらしい」
「………それは災難だったな」
「まったくだよ。それ以来、エーダリアはあの女が大嫌いだ。エーダリアはね、頑固だけど心は柔らかいんだ。けれども、ウィームのことを貶めた相手だけは許さないだろう。……………あいつのウィームへの憧憬は、一種の激しい恋みたいなもんだ。あの女は、一番言っちゃいけないことを言ったのさ」
その後もヘルメネアは、エーダリアのところへ押しかけては、高価な贈り物を欲しがったり、勝手に王子の婚約者としての王宮での権利を主張したりと、何かとエーダリアを困らせていたらしい。
この女性の存在と、ヒルドを道具扱いしていた王宮の女性達への嫌悪感を溜め込んだことで、エーダリアは貴族の女性達と個人的に関わることを苦手としているらしいので、ダリルは、家族相当とは言え完全に女っ気ゼロにならずに済んだ功労者として、ネアには何かと感謝していると付け加えられた。
(ダリルさんは、エーダリア様本人と同じように、ウィーム王家の血を繋ぐ子供を残さない方針を取っているというから……)
ダリルからすると、女性に対するリハビリになり、エーダリアに色恋の感情を向けないネアはとても便利なのだろう。
エーダリアがウィームの領主である間は、また、ヴェンツェルが王位を継承した後その治世が安定し、彼が王として後継をもうけるまでは、エーダリアは婚姻や子をなすことは難しい立場とされる。
きっとまだまだ政治に纏わる分野での人の心のおぞましさを知らないネアからすると、それはちょっと寂しいことに思えた。
(このような問題では、余計な口実を与えないことが、最大の防御だとダリルさんは言うけれど………)
残念ながら、仄かな想いを抱いていた風竜の女性への恋が砕け散ったばかりのエーダリアも、絶賛ウィームと魔術書が最優先なままだが、ネアは、また新しい恋もして欲しいと思っている。
「…………少ししかお話ししませんでしたが、あの方は真摯なようにも見えました。もしかすると、そのお父様の意向がなければ、悪い方ではなかったのでしょうか?………とは言え、ダリルさんはそう思っているようには思えないのです」
ネアがその事を尋ねたのは、やがてはリーエンベルクに戻ってきて今回の事件の話を一緒にするであろうエーダリアの手前だ。
万が一、自分に不利な時でもとても公正なものの見方をしてしまうエーダリアが、ヘルメネアの顛末を哀れに思う部分があれば、こちらでも報告の仕方に配慮が必要になる。
「………短い昔話をしようか。エーダリアをガレンに逃がすにあたって、協力的だった商人上がりの大臣が一人いてね。ウィーム王家と懇意にしていた時代のヴェルリア王の知人だった彼は、隠れたウィーム贔屓だったのさ。その大臣の働きかけでもう少し早くエーダリアをウィームに帰してやれた筈だったんだけど、あの女が自分の婚約者を惑わせたと難癖つけて、その大臣の孫娘を、大臣ともども嬲り殺しちまったんだよ。エーダリアかヒルド、私でもいれば良かったんだけど、誰もいない時をあえて狙ったんだろうね」
大臣とはいえ商人上がりの彼よりは侯爵家の系譜のヘルメネアの方が地位が高く、周囲の者達はその行いを止められなかったのだそうだ。
婚約者を惑わせたという疑惑をかけられた大臣の孫娘がまだ八歳だったと知り、ネアはぐるると低く唸った。
「うむ。完全に滅ぼしていいという結論に達しました」
「ネア、安心していいからな。もう跡形もない」
「…………ほわ、跡形も…………」
にっこり微笑んだウィリアムから、それは死者に対する状態説明として合っているのだろうかという怖い言葉が出て来たが、ネアは困惑しながらもお礼を言った。
(ウィリアムさんは多分、もう怖くないよという意味で、しっかりどうなったのかまでを言ってくれたのだと思うから………)
きっとウィリアムのことなので、ネアが気に入っていた幻惑の世界の中の天使像のように、ばりんと壊してしまったに違いない。
「まぁ、身勝手ではあるが真摯ではあるだろうし、残忍だが誠実でもあるだろう。私は妖精だから、邪魔にさえならなきゃそういう愛し方も差別しないよ。でも、それとこちらの益になるかどうかは別の話だ。その一件があって、あの家を潰さないとまずいということになってね………」
結果、その侯爵家は侯爵の不慮の事故で取り潰しとなった。
家名まで消されたのは、侯爵が第一王子の暗殺を企て、正妃の逆鱗に触れたからなのだという。
とは言え対外的には刺激が強すぎないように、事故ということで内々に処分され、生き残った娘や家人達も、少し時間を置いてから追って処分されたのだそうだ。
「と言うことは、第一王子暗殺を計画させたのは、君だったのかな」
「いんや。第一王子本人だよ。あいつは、エーダリアを自分の見えない腹心にしたいのさ。ウィームが力をつけ、見えない相談役や隠れ家として機能することこそが第一王子の狙いだ。…………それは自分を説得する為の建前で、甘ったるい執着でエーダリアが弟として可愛いという部分が本音なのは間違いないけどね。………とは言え、そんな計画に向けて水面下で動いてたヴェンツェルにとって、あの一族はこの上なく邪魔だった」
「自身を囮にする程にかい?」
そう尋ねたディノのどこか魔物らしい穏やかな言葉に、ダリルは声を上げて笑った。
はしたなくも思える程の大笑いなのに、この妖精はそんな様子がぞくりとする程に美しいのをネアは知っている。
通信越しに聞こえる笑い声ですら、どこか謎めいていて嗜虐的で、ひどく魅力的に思えるくらいに。
「私も知恵を貸してやったけれど、囮になる本人が同意の上じゃないと、さすがに正妃までを動かすのは難しいねぇ。とは言え、私はあんな若造の心を転がしてやるくらい、簡単にやってのけたかもしれないよ」
(さ、さすがダリルさん!)
ネアは、あの二度と会いたくない精霊を従えた正妃まで動かしてしまったダリルの手腕に感動した。
ヴェンツェル本人の協力がなければ、正妃を動かすのが難しいというのは本音だろう。
しかしながら、エーダリアの側だけで排除するには、侯爵家というものはやはり厄介だったに違いない。
「でも、手を離し、及ばない部分があったからこそ起きたのが今回の事件だ。強者らしい高慢さで適当に処分をしたからこそ、あの女は死者になった。こちらとしてはもう少し上手く処分して欲しかったが、あの時期は高官や爵位の高い貴族達の脱落が相次いでいたから、第一王子の周辺でも、幾つかの粛清や間引きの必要があったんだろう。国を傾けない程度に体裁を整えておく為に、ああいう手段でしか排除出来なかったのかもしれないね」
ネアは知らないその時代では、統一戦争を終えても決して平和ではない頃もあったのだろう。
良くも悪くもこの国の戦後を終わらせ、新たな時代の新たな問題を定義したのがアリステルの事件だったのだと、エーダリアから聞いたことがある。
彼女が引き起こし、或いは浮かび上がらせた頭の痛い問題によって、ヴェルリアの人々はこの国のこれからの在り方について考えなければいけない時期になったのだと実感したらしい。
(エーダリア様は、国を平定するべき新芽の時代ではなく、国が熟し過ぎてその実を腐らせてゆく時代に生まれていたら、アリステルさんは、一つの組織を解体して新たなものを作り上げることの出来る英雄になっただろうと話していたっけ…………)
何だか今回の事件は、政治的目線で歴史を覗いて見る為のきっかけでもあるなと考えていると、ウィリアムがディノの方を振り返った。
「シルハーン、リーエンベルクの周囲は問題ないですが、終焉の範囲外で俺に手伝えることはありますか?」
「あの死者達がネアをおびき出そうとしていた道具も破棄したし、もう心配ないよ」
「…………私を、おびき出そうとする為の道具があったのですか?」
「うん。君が森まで出て来てくれたのは、死者達にとっては予想外だった筈だ」
(私をおびき寄せる為のもの…………)
「因みに、どんな道具だったのでしょう………」
「ドレスに紐をつけて振って見せ、囮にしようとしたみたいだね」
「……………もしや、私はとても馬鹿にされていたのでしょうか…………」
「時々、人間の考えることが分からなくなるな…………」
あんまりな手段にウィリアムも愕然としていたが、ヨシュアはひらひらしてたら見に行くよねと断言したので、案外引っかかる者は引っかかるのかもしれない。
(紐に結んだリズモなら兎も角、………ドレス………)
ネアがさっぱり理解出来ずに首を傾げていたら、ふっと笑ったウィリアムが頭を撫でてくれた。
「俺にもさっぱり分からない。これはさすがに、分からなくていいんじゃないか?」
「…………はい。それが高貴な女性達の一般的な感覚でないのを祈るばかりです……」
ここで、ウィリアムが時間になったようだ。
ばさりとケープを揺らして座っていた椅子から立ち上がると、ネアがせっかくだから今の内に休憩をと用意したサンドイッチのお皿の横に、軽く畳んだナプキンを乗せる。
リーエンベルク特製のローストビーフサンドをものの数分でぺろりと食べてしまったので、やはりお腹が空いていたようだ。
ネアは、ウィリアムに贈った特製のお食事用金庫のスープ水筒も確認し、空っぽだったので新しい補充を入れておいた。
「さて。俺はあまり長居は出来ないが、ネアに危険が及ぶと困る。ダリルの方も、これ以上の問題はなさそうか?」
「死者絡みがないなら、ひとまずはここまでだろうね。洗い出した中には何人かまだ所在が不明な奴らがいるけど、それは、エーダリアがこっちに来る筈だ。ネアちゃんはひとまず安泰だろう」
「それならもう良さそうだな」
ふと、短い沈黙が落ち、ダリルがふーっと深い息を吐く音が聞こえた。
「…………ディノ、今回は私の対応が遅れた。ネアちゃんを危険に晒してすまなかったね」
「ここがこの子の居場所である限りは、私もこの場の手入れはするよ。…………あまり度が過ぎるようであれば、他の方法を考えもするだろうが。…………ウィリアムの手を借りる程ではないにせよ、今回はもう大丈夫なのかい?」
「ああ。この先はこっちの仕事だ。…………そうだね、きっと今夜は最後のウィームでの儀式を終えて帰ってくるヒルドは相当機嫌が悪いだろうから、それを先に謝っておこうか」
「なぬ。…………ヒルドさんが……………」
「ふぇ……………」
ネアはその発言にぎくりとし、ヒルドを怒らせないためであれば、もう少しこちらでも手伝ってもいいのにという気分になる。
ヨシュアも、リーエンベルクに滞在した時に怒ると怖いヒルドも見ているので、正しくその怒りを恐れることが出来るようだ。
そろりとネア達の方を見上げると、そろそろ帰ると言い出した。
「僕はもう乾いたし、べたべたしないから帰ろうと思うよ」
「ヨシュア、逃げ沼に落ちる以外には、少しは何か役に立ったのか?」
「ふぇ…………………ネア………」
「ウィリアムさん、ヨシュアさんがあの死者さんを発見してくれたのです。今日はお手柄だったのですよ!」
「そうか、それは珍しいな。だが、お蔭でネアが妙なものに巻き込まれずに済んだなら良かった」
ウィリアムは微笑んでそう言ったのだが、ヨシュアはぴっとなった後で、ネアの影に隠れながら、よせばいいのにぼそぼそと文句を言い始めた。
「……………ウィリアムは、もっと僕を敬うべきなんだ。偉そうだし、怖いし、………今日の僕は、ネアに洗って貰ったし、シルハーンにだって褒められたんだよ」
「すまないな、ヨシュア。よく聞こえなかったが、気になる発言があったな。もう一度聞かせてくれるか?」
「ふ、ふぇぇぇ!」
「あらあら、最後の一言がなければ、穏やかに帰れそうでしたのに…………」
ネアは、ウィリアムに再び微笑みかけられただけなのに、恐怖のあまり泣き出してしまったヨシュアが、庭に続く扉を開けて逃げ去ってゆくのを見送った。
ディノは、そんなヨシュアを、走って帰るのかなと心配そうに見送っている。
リーエンベルクの敷地内では転移の許可を持たないヨシュアは、このままだと禁足地の森を自分の足で踏破してから転移を踏むことになるのだが、大丈夫だろうか。
「ネア、俺はもう行くが、本格的に死者達が地上に上がってくるのは夕刻からだ。念の為に今晩はこれを預かっておいてくれるか?これがあれば、死者はネアに悪さが出来ないからな」
「む。ウィリアムさんの格好いい帽子です!」
ネアは、ぽすりと自分の帽子をかぶせてくれたウィリアムに目を丸くした。
この帽子は、格好いいお仕事モードなウィリアムの象徴ともいうべき物だが、こんな風に預かってしまって構わないのだろうか。
思わずディノの方を見ると、ディノも驚いたのかウィリアムを見ている。
「いいのかい……………?」
「ええ。俺はなくても特に支障がありませんからね。死者の日の今日が明けると、ネアには少し重いでしょうから、その後は預かっていていただけますか?」
「それは構わないよ。ノアベルトがこちらに戻った後ならば、私が届けようか」
「いえ、自分で引き取りに来ますので、ネアの側にいてやって下さい」
(このやり取りの感じだと、やっぱりウィリアムさんにとってはかなり大事なものなんじゃ…………)
ネアは少し心配になってしまい、出ていこうとするウィリアムに、一枚の小さな黒い封筒を渡した。
駆け寄ってきたネアに突然封筒を渡されて、ウィリアムはどこか無防備な驚きの目を見せる。
そうすると、今日は終始魔物らしい酷薄な眼差しだったのが、いつもの優しいウィリアムのものになった。
「ネア……………?これは?」
「お守りですので、念の為に持っていて下さい。封筒の開け口に裏面を向けた形で、きりんさんの絵を描いたカードが入っています。危なくなったら、これで敵を殲滅して下さいね」
「…………………あ、ああ。……………凄く頼もしいお守りだな」
「はい。効果は期待して下さい!」
特にやり取りをしている時ではなかったのだが、このやり取りが聞こえたダリルも心配になったのか、くれぐれもカードを取り出すときに自滅しないようにねと、ウィリアムに注意を促していた。
「では、俺はこれで」
「ウィリアムさん、有難うございました!」
ウィリアムも行ってしまうと、部屋は途端に静かになる。
ダリルとの通信は繋いだままだが、どちらかが合図の言葉を口にするまでは音声を繋がないという、なかなかに便利なステータスに変更された。
「ディノ…………?」
ネアは、妙にきりりとした眼差しでネアがかぶったウィリアムの帽子を直してくれたディノに、こてんと首を傾げる。
「君がウィリアムを頭に乗せているのは複雑だけれど、………日付が変わるまでは、出来るだけそうしておいで」
「…………私の方は、ウィリアムさんをかぶっているという表現に、とても複雑な気持ちになりました…………」
(でも、この格好いい帽子………!)
ネアはそこで我慢できなくなると、特別を切り出してくれて手を繋いでいるディノを引っ張っていそいそと鏡のところに行き、格好いい軍帽をかぶった自分の姿を確認した。
「むむ!なかなかに勇ましく見えますね。お昼を食べるときには、落としてしまうと怖いので、魔術で固定してくれますか?」
「……………浮気?」
「解せぬ」
なぜか、魔物が俄かに拗ね始めたではないか。
ネアは、膝の上に置いておくと辛いスープの染みをつけてしまいそうで怖いので、礼儀作法的にはゼロ点だが、あえて被ったままで食事をしようと思っているからだと、一生懸命説明したのに、めそめそしている。
「でも、君は食事中は三つ編みを持ってくれないだろう?」
「それは、手が塞がってしまうので食事に支障が出るからなのです」
「……………ずるい」
「ウィリアムさんの帽子をかぶるのは、安全上の為だった筈なのですが、いつの間にか領土問題に発展しました…………」
「では、紐で繋いでおくかい?」
これはまずい展開になったぞと焦った人間は、慌てて対応策を探して緊急自分会議を開催する。
(こ、ここはやるしかない………!)
「……………ディノ、私は、ディノに知らない婚約者がいたのではないかと考えた時、とても悲しかったです」
「……………可愛い」
若干、悲しかった理由がごっそり抜け落ちている答弁なのだが、魔物には効果覿面だったようだ。
途端にもじもじし始めた魔物は、ご主人様の頭を撫でて唇の端を持ち上げる。
「…………私の婚約者は、君だけだよ」
「いたとしても、その時は隠さないで教えて下さいね?」
「…………虐待する…………」
「む。…………で、では、他に婚約者の方がいたら、ゆ、許しません!……許しません?」
「ご主人様!」
やっと頑張った成果が出て、魔物はくしゃりとなってネアをぎゅうぎゅう抱き締める。
あまりにも大喜びで、食事中のウィリアムの帽子を許してくれたばかりか、今日を記念日にするとはしゃぎだし、この手法は相当に効果が高いようだと邪悪な人間に教えてしまっていた。
(このような我が儘だけれど、ディノは嬉しいみたい。………魔物さんは独占したがることが多いから、そうされるのも嬉しいのかしら?)
すっかりその効果に味をしめてしまった人間は、遅い時間になってしまったお昼で美味しくなった辛いスープを飲みに行く途中、思っていたよりも早くリーエンベルクに来てくれたアルテアにもその戦法を試してみることにした。
「…………おい、その帽子はなんだ」
「は!さては、美味しい辛いスープ目当てで早く来てしまいましたね………?」
「なんでだよ」
「今年から、復活祭のスープは特別な味付けによりとても美味しいやみつきスープになったのです。あまりにも美味しくて、きっと噂になってしまったに違いありません………」
「お前が事故るから以外に、ここに来る為の理由が必要なのか?」
「………ちびふわとかじつぼうのフルコースの為では………?」
「……………は?」
知らない間にフルコース接待が決められていたアルテアは少しだけ意地悪そうな目をしたので、ネアはそんな使い魔の袖を掴むと、じっと見上げてその効果を確認したばかりの攻撃をしてみることにした。
「き、今日は、どこにも行っては駄目なのです」
結果、アルテアはその攻撃が気に入ったのかとても甘やかしてくれた。
とても邪悪な人間はほくほくと勝利を噛み締め、今度はウィリアムやノアにも使ってみようと思っている。