275. 無事ではないという診断です(本編)
「あ、死者が森にいるよ。空から落として遊ぼう。そうだ、ハムハムのおやつにしてもいいかなぁ………」
「………………む?!」
ヨシュアがとんでもないことを言い放ち、しゃっと部屋から脱走したのは突然のことだった。
言葉の内容が脳に染み込み、愕然としたネアがすぐさま追いかけ、森の入り口のところでやっと追いついたヨシュアの後頭部をべしりと叩いて捕獲する。
「た、叩いた!」
「こらっ!死者さんで遊んではいけません!!」
「ふぇ、叩いた……………」
「当然ではないですか!…………ディノ、」
ネアはディノに声をかける間も無く部屋から飛び出してしまったのだが、隣室にネアに一筆書かせた書類を隠しに行っていた魔物も、慌てて追いかけてきたようだ。
後ろから拘束され、ヨシュアの腕を掴んだネアは振り返る。
ディノが隠しに行っていた書類には、ネアが今度お風呂でディノを洗うという、ネアの心を抉る一文を誓約として書かされていた。
自分の回はいつになるのだろうと質問したところ、ご主人様が曖昧にして逃げようとしたので、不安を覚えた魔物はその日の内に書面にして残すという暴挙に出たのだ。
「ご主人様が逃げた……………」
「まぁ、しょんぼりしないで下さい。これは、決してあの一筆を書かされたから逃げ出したのではなく、死者さんに悪さをしようとしたヨシュアさんを捕獲したまでなのです」
「死者が…………?」
そう呟き、ディノは空を見上げた。
死者の日の一つらしく仄暗い不思議な翳りがあるが、空の向こうは綺麗な青空なのがかえって異世界らしい奇妙な色合いだなとネアは思う。
とは言え、リーエンベルクのところにだけ、ぽわりとした雲が二個くらい並んで浮いていた。
ここはその雲間にあたるのだが、雲の影が丁度禁足地の森に落ちていて、そのあたりの一部分だけが薄暗くなっている。
(でも、曇り空だから暗いのではなくて、こんなに晴れていても全体的に薄暗いのだから………)
またどこかで、チリリと鈴が鳴った。
一度空を見上げてから視線を戻したディノの横顔には、どこかひやりとするような鋭さがある。
「…………ヨシュア、もしかして誰かが君をウィームに呼んだのかい?」
「雲呼びがあったんだよ。リーエンベルクのところだから、シルハーンかなと思ったんだ」
「私なら、そういう風に君を呼びはしないだろう」
「うん。すぐにそう思い至ったから、リーエンベルクの近くで昼寝をしたら帰ろうと思っていたんだ。ここに来るまでに疲れたからね」
「……………ふうん。成る程ね」
「ディノ…………?」
ひやりと冷たくどこか残忍な声音に、ネアはそっと魔物の名前を呼ぶ。
するとディノはこちらを見て、伸ばした指先でネアの頬に触れた。
微かな風に揺れる真珠色の髪に煌めきと、瞳に滲んだ白銀色の鋭さにネアは訳もわからずにはっとする。
(くもよび………雲……呼び…………?)
「ネア、少しだけヨシュアといてくれるかい?………ヨシュア、この子を少しだけ頼むよ。この子に何かあったら…」
「ネアは僕が守るよ!」
すっと低く平坦になった声に、びゃっと背筋を伸ばしてヨシュアが宣言する。
突然どうしてこんな流れになったのだろうとネアが目を丸くしていると、ディノはおもむろに体を屈めてネアの頬に口付けた。
「少しだけ守護を深めておくよ。………何かウィリアムの守護のあるものを身に着けているかい?」
「は、はい。靴紐に…………」
「それなら大丈夫だね。それを手放さずに、ヨシュアの………そうだね、この袖を掴んでおいで。ヨシュアは、いざとなれば地上から繋がりを断てる独自の領域を有する魔物だ。ヨシュアから手を離してはいけないよ?」
「ディノ……………?」
「すぐに戻るから、君達は部屋に戻っておいで」
それだけを言い残し、ディノはふいっと姿を消してしまった。
残されたネアは、ヨシュアの袖を摑まされたまま、途方に暮れて目を瞬く。
(何か、厄介なことが起こっているのかしら…………?)
手を伸ばして、ディノを捕まえるべきだったのだろうか。
でも、邪魔をしてはいけないような雰囲気であった。
「ネアは僕から離れないようにするんだよ!僕は偉大だからね」
「はい。こうして掴まっていますね」
「…………あ、死者がこっちに来た」
「なぬ。この先は私有地なので、………と言うか、こちら側の禁足地の森もリーエンベルクの管理地です。森の生き物以外は忍び込まないと入れない筈なのですが、死者さんは別なのでしょうか?」
「僕には分からないよ。………捕まえて、ハムハムにあげてもいい?」
「…………ハムハムさんへの謎が深まりました………。そして、いけませんからね?」
「………ふぇ。ネアは意地悪だ。僕は、あの死者で遊びたいんだよ」
ヨシュアに魔物らしい気紛れな言葉で駄々を捏ねられ、ぷいっとそっぽを向かれてしまい、その魔物の袖を離してはいけないと言いつけられたばかりの人間は途方に暮れた。
ここに居ない方がいいのではと、ぐいぐいと引っ張ってみても、ヨシュアは部屋の方に戻る気配はない。
ディノの手前ネアを守ることには同意したが、森にいる死者が気になって仕方ないのだろう。
「ヨシュアさん、お部屋に戻りませんか?」
「…………あの死者は、咎人の匂いがするね」
「咎人…………?」
「死者には冒してはならない罪があるんだ。悪さをすると、…………ウィリアムが怖いんだ」
「そのようなものがあるのですね。…………もしかして、生者を傷付けてはならないという、あれでしょうか」
「うん。これからそんな死者の理を侵すのか、そこには触れない程度にその罪に関わるのかのどちらかな。死者はよく分からないことも多いけど、それをすると塵になって消えるんだ。だったら、その前にハムハムのお土産にしても…」
(つまり、そんな風に死者の理を侵そうとしているってことは、……何か悪さをしようとしているのかしら………?)
それともそれは、死者としての一線を超えようとしている他の理由なのだろうか。
この森に入り込んで来てしまっていることも謎であるし、ネアはむぐぐっと眉を寄せる。
ヨシュアが見付けた死者は今も一人でいるようなので、ディノはその死者の対処をしに行った訳ではないらしい。
「死者が来たよ」
「…………むむ」
がさがさと音がして、ネア達の視線の先に現れたのは、腰までの長い赤金色の巻き髪に青い目をした、儚げで美しい美貌を持つ女性だった。
(なんて綺麗な人かしら…………)
ネアは久し振りに感動する人間らしい美貌に、一緒に花火をした取り替え子の女性を思い出した。
彼女は妖精の取り替え子ではあったが、あの時も思ったように、人間の持つ美貌の種類は人外者のものとはまた違う美しさがある。
ネアは、そんな人間特有の美しさもとても素敵だと思っていた。
(でも、不自然に青白い肌で目の下には濃い隈がある。………こうして昼間に地上で見ると、死者さんなのだと一目で分かるものだわ……)
その女性はどこか悲しそうに見えた。
だからだろうか。
ネアは、その女性がこれ以上先に進んで、リーエンベルクの排除魔術に触れて怪我をしてしまわないように、この先には進めないのだと声をかけてしまったのだ。
「死者さん、この先は行けませんよ。迷子さんでしょうか?」
ネアの言葉に、はっとして、微かな動揺を隠したような暗い瞳がこちらに向けられる。
そうして関わってしまった死者の女性がネアに向けたのは、明確な敵意と憎しみであった。
「ウィリアムが怒ってた……………」
かたんと、扉の閉まる音が響く。
風に揺れるチリリと響く鈴の音が遠ざかり、逃げ沼騒動の後にのんびりしていた部屋に戻れば、何だか懐かしくさえ思えた。
「あれは、僕に怒ってるんだ」
「そうでしょうか。………どちらかと言えば、あの死者さんを見ていたような気がしましたよ?」
「………ふぇ。本当?」
「ええ。それにウィリアムさんが怒ってしまったら、私から、あの死者さんを最初に見付けてくれたのはヨシュアさんだと言いますからね」
「…………刺されないかな」
戻って来た部屋でそう呟くのは、顔色の悪いヨシュアだ。
あの数分後に、ダリルに呼ばれたというウィリアムが駆けつけてくれて、ネア達の遭遇した死者の女性を引き受けてくれるまで、ネアは、どうやらネアがまだエーダリアの婚約者だと勘違いしていたらしい女性から鋭い言葉で詰られる羽目になった。
話を聞いてみれば、色々な勘違いがあるようだったが、放たれた言葉の全てがネアと全くの無縁と言う訳ではなく、ネアは心をしわしわにして、ヨシュアを連れてリーエンベルクに戻って来たばかりだ。
(…………びっくりした)
森で見付けた死者が、ネアを探してここに来ていたのだとどうして思うだろう。
外に出たのも偶然だったのに、あんな風に出会ってしまうなんて。
そんなことでちょっと動揺してしまい、ネアは、ヨシュアの袖を掴んだまま静かに窓の外を見ていた。
ヨシュアはヨシュアで、ひやりとするぐらいに機嫌の悪かったウィリアムに遭遇してしまい、先程からすっかり怯えてしまっている。
ネアに袖を掴まれたままだが、ヨシュアの方もぴったりと隣にくっついて離れない。
(ディノに言われた後にすぐ、ヨシュアさんを引き摺ってでもすぐに屋内に戻れば良かった………)
そんな後悔を噛み締め、ネアは爪先を丸める。
綺麗な絨毯の床の上に、ぐぐっと丸まった自分の爪先の影が落ちた。
(なのに、綺麗な女の人だったから、私も迂闊に近付いてしまったんだわ)
ディノの只ならぬ様子だけではなく、ウィリアムまで駆けつけたとなると、きっとあの好戦的な死者に関わることに違いない。
何が起きているのかと不安に感じないでもなかったが、どうにも気持ちがしゃきんとしなかった。
出来るならば、甘いものをお腹いっぱい食べてディノの手を握ってふて寝したい。
「…………ネア?」
ぎいっと庭に面した扉を開き、ディノが戻って来たのはそこから更に十分くらいしてからのことだ。
一仕事終えて戻って来たディノは、すぐにネアの変化に気付いたのか、ふっと水紺色の瞳を瞠ると、困ったようにこっちにやって来る。
「……………ディノ、先程、ウィリアムさんが来てくれたんですよ」
「うん。外で話をしたよ。ダリルから連絡が入ったようだね」
そうあらためて聞き、ネアの麻痺した心でも、やっとその言葉の意味の重さに気付いた。
ダリルがウィリアムに支援要請をかけたのであれば、ダリル達やエーダリア達の方でも何か事件があった可能性があるのだ。
ぎくりとして立ち上がりかけたネアに、ディノは、他のみんなは無事だと教えてくれた。
そして、あえて隣に座らずにネアの正面に屈むと、すっかり精彩を欠いてしまったご主人様の顔を覗き込む。
「ネア?」
「…………むぐ」
「何か、怖いことがあったのかい?」
伸ばした手でふわりとネアを腕の中に収めてしまうと、ディノはネアが律儀にその袖を離さずにいたヨシュアの方を見る。
「ヨシュア、何があったんだい?」
「死者が、この子にあまりよくない言葉をぶつけていたよ。だから、あんな死者はハムハムのおやつにしてしまえば良かったんだ。ネアはイーザとは違うけれど、僕にアヒルをくれたからね」
「むぐ………」
「………………ネア。死者に、何か言われたのだね?」
ヨシュアの言葉に小さく息を飲む気配があり、ディノの声が気遣わしげになる。
ネアは、上手く説明出来ない胸のつかえのことを説明しようとして、深く深く息を吐いた。
理由も状況も単純明快なのだが、なぜか上手く言葉にして説明するのが難しい。
(…………久し振りに、あんな風に強い敵意や憎悪を向けられて、鋭い言葉で真っ直ぐに私の駄目な部分を差し貫かれた………)
あの女性は何か誤解をしていたようだし、であればあの言葉を真に受ける必要はないのかもしれない。
けれども、その中に含まれた言葉は決して的外れなだけではなく、この強欲で身勝手な人間を改心させるには至らなくても、心の奥のどこか柔らかな部分をざくりと刺したのだ。
「…………ネア」
掴んでいたヨシュアの袖から指先を剥がされ、悲しげな目をした魔物に宝物のように持ち上げられる。
ネアを持ち上げて立ち上がった魔物にこつんと合わされた額に、ネアはふすんと息を吐き、頑張って唇の端を持ち上げて、上手く言葉に出来なかっただけなのだと首を振った。
「でも、それでも君は傷付いたのだろう?」
「…………その方は、勘違いして私に厳しい言葉をぶつけたのです。駆け付けてくれたウィリアムさんによると、どうやらエーダリア様に縁のあった方なので、私がまだエーダリア様の婚約者だと思っておられたのでしょう」
ネアがそう話せば、ディノはどこか不愉快そうに目を細める。
それは自分の領域なのにと揺らがせる心の一端は、やはり魔物らしい動き方なのだろう。
「そのことで、君を傷付けたのだね」
「…………私がその方の婚約者を奪ったという前提で、尚且つ、私がその婚約者さんの孤独に付け込み、手練手管を使って籠絡した悪い奴だと言いたかった模様です。でも誤解だったので、私はそんな言葉など、心から綺麗に洗い流してしまうべきなのでしょう…………」
「後でウィリアムと話をしよう。ウィリアムのことだから、もう残っていないかもしれないけれど、念の為にね。ごめんね、ネア。君を巻き込まないようにして、急ぎ確認しなければいけないことがあったんだ。私が押さえた方が仕掛けられた魔術の入り口だったことと、そのようなものがなければ死者は基本的に生者を傷付けられないから、君はヨシュアに任せれば安心だと思ってしまったんだ。………そんな風に君が傷付けられるだなんて、思いもしなかった………」
そう言って器用に片手でネアを持ち上げたまま、そっと頭を撫でてくれる魔物にもう一度ふすんと息を吐いた。
「………………偶然ですが、その方の言葉の中には耳の痛いこともありました。自分の嫌なところを指摘されて、心の狭い人間はじたばたしたくはなりましたが、それくらいならぽいっと捨て置けるのです」
「他に何か、聞き流せないことがあったんだね…………」
「………………でも、この不快感は私の我が儘でしかありません。本来なら胸の中にしまっておいて、あえて報告するようなことでもないのですから」
「それでも言って欲しいな。………そうだね。言葉に良くない魔術を隠されていないかどうか、調べる為にもね」
敢えてそんな風に言ってくれた優しい魔物に、ネアはむぐっと声を詰まらせた。
ディノがネアの心の揺れに気付いてしまった時から、話すべきだとは思っていたのだ。
でも、恐らくディノが思っている以上にしょうもないことなので、ネアはそんなやり取りで自分の心が動いてしまったのだと告げることに、どうしても気が引けてしまう。
「………その方が、生まれた時から自分が婚約者だったという言葉を発した時に、私は、それがエーダリア様ではなく、ディノのことだと思ってしまって…………それが悲しかったのです」
ネアがそう言えば、まだよく飲み込めないのか、ディノは困ったように首を傾げる。
「私の………かい?私の婚約者は、君だけだよ?」
「………ふぁい。しかしその時は、ディノにはかつてそんな方がいたのかと思ってしまいました。………そしてそんな過去を、ディノだけではなく、ウィリアムさんやアルテアさん、ノアまでもが、私には話してくれなかったのだと思ってしまうと、なぜか勝手に仲間外れにされたようでとてもむしゃくしゃしました」
「可哀想に。………悲しくなってしまったんだね」
「…………むぐぅ。なぜ、ご機嫌なのだ」
なぜか突然、魔物がもじもじにこにこし始めたので、ネアは渋面になる。
ご主人様はこんなに複雑な気持ちなのに、こちらの魔物にはどうしてご機嫌になるスイッチが入ってしまったのだろう。
ネアが低く唸ると困ったように微笑みを緩めたが、それでもとても嬉しそうではないか。
「君がそのような事で悲しくなってくれたのは、初めてだろう?」
「…………むぐ。ただ普通に、ディノにお付き合いされていた方がいたというお話なら、気にならないのですよ?」
「…………ご主人様が虐待する」
「そもそも私の生まれる前の話になるでしょうし、そうしてどなたかを大事に思っていた時間がディノにあったと考えるのは、なかなか悪くありません」
「………………虐待する」
「でも、生まれた時からとなると、ディノや、皆さんが話してくれた最初の頃のお話の中から、その方が意図的に隠されていたことになります。………仲良しになった筈の皆さんが、同じ事を申し合せて内緒にしていたのかと思ったら、………そうすることも皆さんの自由だと分かっていても、何だか寂しくてむしゃくしゃしたのです…………」
「困ったご主人様だね。私が指輪を贈ったのは君だけだし、そもそも、あの人間のことは知らないよ」
「……………ふぁい」
ぎゅっと抱き締めて貰い、ネアは勘違いでむしゃくしゃしてしまった心の皺を、丁寧に伸ばした。
ディノが優しい目をしてこちらを覗き込むので、ネアは、もう少しだけしょうもない弱さを曝け出してみた。
「………そして、私のような人間は、自分の欲望の為に家族を犠牲にすると言われました。それはとても心外で悲しかったです。そんなことがあり、温存していたおまんじゅうを一個食べてしまいたいくらい、胸が苦しくなっていました。おまけにあの方の認識には誤解があったので、私のこのむしゃくしゃは、完全なる無駄な事故なのです…………」
「…………そんな事を言われたのだね。………ネア、夕方にはアルテアが来るだろう。今夜はちびふわを用意してあげるよ。それと、おまんじゅうの他に食べたいものはあるかい?」
「ふぐる。…………かじつぼうが食べたいです」
「では、それもアルテアが来たら用意させよう」
「…………ディノ、アルテアさんが来てくれると頼もしいのですが、それよりも、ディノを今日は外出禁止にします!私の気分がむしゃくしゃした時に、お側に居て下さい……………」
「………………かわいい。どうしよう、ご主人様が可愛い………」
口に出してしまうと、苦しみは少しだけ楽になった。
これは多分、作り話のホラー映画でも怖くなるのと同じ仕組みなのだ。
何だ勘違いかと受け流してしまうには、一度心の中に入り込んだ言葉やイメージは深く重く、ネアは返却してもいいはずの勘違いの糾弾で心をばたばたさせてしまったのである。
(そんな不器用さも、何だか悔しかった)
昔のネアであればやれやれと聞き流せたかもしれないと思うと、緩んでしまった心の形が少しだけ怖くなり、そんな怖さを自覚させたあの女性を、ほんの一瞬だけ憎みたくさえなる。
でもこれは八つ当たりなので、かじつぼうとちびふわのフルコースで頑張って浄化しよう。
(…………………ううん、そうじゃない。…………昔は聞き流すしかなかったんだ。でも今は、こうしてディノに話せるようになったから、心が聞き流すのをやめてしまったのかもしれない)
そんな自覚は、不意に訪れた。
そうすると格段に気持ちは楽になり、ネアはすっかり苦しみを呑み込んでしまうことが出来た。
「……………ディノ、ディノが私を遠ざけようとしてくれたのは、何だったのですか?」
やっと調子を取り戻してそう尋ねると、ディノはどこか酷薄な魔物らしい不快感に目を細める。
座ったままこちらの成り行きを窺っていたヨシュアが、ふぇっと小さい声を上げた。
「………一定の条件を満たすことで発動し、一定の条件を満たした獲物を狩る魔術式だよ」
「………獲物を狩る……」
「…………とは言え、その魔術そのものは、私が昨年取り払ってしまったものだったのだけど、あの死者はそれを目当てに来たようだから、隠してあった仕掛けがなくなっていると知って仲間を呼び寄せたりすると厄介だからね。………雲呼びが出来る仲間がいた筈だろうし、他にもどこかに罠を隠していないのかを調べる為にも、それを準備した者が自分達の計画の失敗に気付く前に、そして出来るだけその場で捕まえたかったんだ」
「…………あの方達は、そんな怖い魔術式を、あの禁足地の森に隠していたのですね…………」
「その罠を仕掛けたのは、レーヌだ」
久し振りにその名前を聞いたような気がする。
ネアが小さく息を飲むのが分ったのか、ディノはネアの背中をそっと撫でてくれた。
久しく感じないくらいに冷やかな空気を纏っているのは、そんな今は亡き黄昏のシーの残した悪意に再び触れたからなのだろうか。
「レーヌさんが……………」
「彼女では起動出来ない仕掛けだったからね。排除した時に奇妙だなと思って気になっていたんだ。…………今日はまだ、死者達が地上に上がってくる時間ではないだろう?それなのに、こんなに早く死者があの場所にいるということも、かなり不自然だからね」
「そ、そう言えば、今日は、王都やガーウィンでしか、死者の門が開かない筈です!」
「うん。だからあの死者達は、陽のある内に外に出るだけの危険を冒し、しっかりとした目的を持ってウィームにやって来たのだろう。イーザなどの手配ではなく、ヨシュアがこの辺りにいるのも珍しいことだ。それも気になってね…………」
ネアはそこで、ディノが別行動を取る前に確認していたことを思い出す。
確か、雲呼びというものでここに来たのかと尋ねられ、ヨシュアはそれを肯定していた筈だ。
(………………今回の事に関連して、ヨシュアさんをあえてウィームに呼び寄せた?)
なぜだろうと首を傾げ、ネアははっとする。
「あの死者さん達が動けるように、太陽光を遮る影が欲しかったのですね?」
「うん、そうだと思うよ。雲呼びは、日差しの強い土地で影を求める為の儀式だからね。本来であれば、ヨシュアはもっと広範囲に雲を広げるのだけれど、今回はリーエンベルクだから控えめにしたのだろうし、逃げ沼にも落ちた後だしね」
「そうだよ。僕は呼ばれたからリーエンベルクの近くに来たのに、誰も待ってなかったんだ……。それに、昼寝してから帰ろうとしたら、ドロドロしたのに落ちたんだよ………」
しゅんとした声でそう呟き、ヨシュアは不安そうに窓の方を見る。
先程からさかんに窓の外を気にしているのは、よほどウィリアムが怖いからなのだろう。
ネアがディノに持ち上げられてしまったので、くっつく相手がいなくなったらしく、悲しそうに眉を下げている。
「……………ディノ、その雲呼びというものは、死者さんでも出来るのですか?」
「いや。死者には出来ないものだ。今、ダリルがアイザックに確認を入れているが、私がレーヌの残したものを確かめた時には、そのような予約は入っていなかった筈だよ。アクス商会を使っていないとなると、誰か、それを可能にする者があの森を訪れた可能性があるね」
ディノは、仕掛けを動かしに来た死者を捕まえてしまうと、この事態をすぐにダリルとノアにも共有してくれたようだ。
その死者は今、ウィリアム監修の魔術で囚われ、ダリルに届けられているらしい。
ダリルの方でもやはり何か仕掛けが動いたそうだが、疫病の類の仕掛けだったらしく、そのようなものに敏感なエメルがばたんと倒れてしまい、ダリルはいち早く異変に気付けたのだそうだ。
なお、有事の際の備えはあちこちにあり、すぐにその仕掛けと、エメルの症状は無効化されている。
「…………もしかすると、アルビクロムで屋敷の捜索をした、あの魔術師が関係している可能性もあるかな」
「むむ。確かにあの方であれば、直近でジュリアン王子と組まれていたくらいですものね」
「とは言え、そのようなことであれば、ダリルが真っ先に調べるだろう。レーヌが導線を敷いたのは死ぬ前のことだろうけれど、まだその成就を望む者達がどこかに残っていたのだね」
静かな声でそう呟き、ディノはまたネアの背中を撫でた。
持ち上げられた至近距離で覗き込む瞳は酷く冷たく、しっかりとネアを抱き締めている。
「ディノ、…………私はすっかり私自身のことでもやもやしていましたが、ディノも不安だったのですよね。……でも、ディノが事前に危ないものを除去してくれていたので、私はこの通り無事なのです!」
「……………無事というのは、何事も無いと言うことだ。君の心を傷付ける誰かがいたのだから、これは無事というものではないのだろう」
「ほぇ……………シルハーン、僕のこと怒ってる?」
そっとそう尋ねたヨシュアに、ディノは瞳を瞠って小さく首を傾げた。
「君は、この子の側に居てくれたのだろう?」
「………………あの死者の口を縫い付けてしまうべきだったのかな?」
「けれど、私はそこまでを頼むことを失念していたんだ。君のせいではないよ」
「…………うん」
「この子の側にいてくれて有難う、ヨシュア」
ネアは、嬉しそうに頷いたヨシュアを見て、そんな雲の魔物がお散歩を放棄する犬のように、その場から動かなくなってしまっているので帰り損ねたのだとは言わずにいることにした。
全くの部外者なのに、アヒルをくれたネアの為に、あの死者をハムハムのおやつにしてしまおうと言ってくれて、実はちょっぴり嬉しかったのだ。
(そもそも、あのアヒルは逃げ沼に落としてしまったお詫びも兼ねているし、ハムハムさんが死者さんをおやつにするという戦慄の事実も浮上したのだけれど…………)
そうこうしている内に、森で悪さをしかけた死者のお仕置きが終わったのか、ウィリアムが戻って来た。
ぴっとなって震え上がったヨシュアがディノの影に隠れてしまい、ネアはディノに持ち上げられたまま、怯えるヨシュアを撫でてやる。
ウィリアムはそんな光景を一瞥して、やれやれと呟き、ネアに微笑みかけてくれると、すぐにディノに向き合った。
「シルハーン、こちらは終わりました。念の為に街の方にも範囲を広げて捜索してみましたが、幸い、どこかに死者の門が仕掛けられていたり、死者の門を隠し持つ者も今のところはいなさそうですね。…………まぁ、アイザックの手持ちは別でしょうが、釘を刺しておいたので今日は使わないでしょう」
どうやらウィリアムは、あの死者のお仕置きだけではなく、他にも仕込まれた罠がないかどうかの探索にあたってくれていたようだ。
ディノは助かったよと頷いたが、まだネアから手を離そうとはしない。
(……………死者の国に落ちてしまった時の事や、レーヌさん絡みで咎竜のことも思い出してしまったのかしら………)
ネアはそう考えたが、事態はまだ収拾がついたわけではない。
であれば、気を緩め過ぎても良くないのだろうし、あまりほぐしてしまい過ぎないようにしよう。
「ネア、あの死者はファービットが引き受けてくれたからな。もう安心していいぞ」
「…………と言うことは、あの死者さんはファービットさんのおやつに…………」
誤解して暴走しただけであれば何だか可哀想な気がしたのだが、そもそもファービット達の方が好感度が高いので、ネアは素直にぺこりと頭を下げた。
「ウィリアムさん、助けて下さって有難うございました」
「シルハーンが仕掛けを排除してくれていて良かった。死者の日に上から落とされると、殊更に厄介なことになるんだ。正規の門は地上に上がる死者達で賑わっているから、より遠くの死者の少ない区画に飛ばされやすいし、地上に上がれない死者達や、鴉になった死者達の気も立ってる」
そんな話を聞きながら、ネアはあの死者の女性の青い瞳を思い出した。
(死者の国からここまでやって来て、あのひとは、エーダリア様に会いたかったんじゃないのかな………)
そんなことを考えていた時に、エーダリア達に同行しているゼノーシュから連絡が入った。
王都での儀式参加を終え、エーダリア達は、次のガーウィンでの儀式の為に移動するそうだ。
件の死者達は、やはりエーダリアも知る人物であったらしく、警備を強化しているので安心して欲しいという。
(エーダリア様達に、何もありませんように…………)
大事な家族の無事を祈り、ネアはまず、怯えきってしまっているヨシュアの為に、家事妖精にお茶とお菓子を頼むことにした。