ヘルメネア
その日、死者の国の門が開いた。
ヘルメネアが待ち望んでいた復活祭だ。
この日を待ち詫びて、あえて収穫祭の夜には地上に上がらずにいた。
それもこれも、あの忌まわしい妖精の追撃を躱すためである。
「なんて軽薄な明るさなのかしら。地上はすっかり醜く思えるようになってしまったわ」
そう呟くと、従者のテメインがそのようなものですかねと薄く微笑む。
テメインは、ヘルメネアの元に唯一残った従者だ。
それ以外の者たちは人外者であったので、すっかり失われてしまい、いつもヘルメネアにお小言を言っては怒らせていた、初老の代理妖精も、髪結いをしてくれていた可憐な美貌を持つ魔物も、みんなもういない。
割れそうに青い瞳をしたあの残忍な妖精が、ヘルメネアの大事な家族たちを皆殺しにしたのだ。
「あの方をお救い出来れば一番だけれど、悪しき欲望の芽を摘むだけでも充分だわ。私達にはもうさしたる力はないけれど、幾つかの武器は残っている」
「ええ。ですが、……………お嬢様はもう充分に苦しまれました。これ以上、あの王子の為にあなたが傷付く必要があるのでしょうか」
その優しい言葉に微笑み、すっかり顔色の悪くなってしまった従者の手を取った。
この従者は心の優しい男で、大柄な体躯に似合わず、ヘルメネアのことを繊細に慈しんでくれる。
大事なお嬢様が心を痛めないようにとあちこちに気を使い、ずっとヘルメネアのことを守ってくれていた。
「困った従者ね、お前は。私のことはいいのよ。あの方を初めてお父様から紹介されたその日からずっと、私はあの方を思い続けてきたわ。あの方があの粗野で品性のかけらもない魔術師の男に憧れ道を踏み外してしまった時だって、陽の当たる道から外れてしまったあの方を突き放すことは出来なかった。……………可哀想な方なの。自分を正しく評価出来ず、周囲の評価やお兄様からの冷遇に苦しんでいらっしゃる一人ぼっちのあの方に、私はもっと早く手を差し伸べてあげるべきだった。…………でも、女の身で男性の方を案じるようなことははしたないのではと迷ってしまい、そんな身勝手な迷いがあの方をまた傷付けてしまった」
あの、全てが優しく輝いて見えた、幼い日々のことは今でも覚えている。
まだ正式な婚約を交わしてはいなかったあの頃は、公の場で会えることはあまりなかったが、王宮の広い廊下で偶然に出会ったその時には、彼はいつも澄んだ瞳に微かな安堵を浮かべて、ヘルメネアに優雅なお辞儀をしてくれた。
味方の少ない人だったのだ。
孤独な人だったのに、ヘルメネアは、浅はかな恥じらいなどのせいでその手を掴むべき時を逃してしまった。
彼が道を踏み外したその時も、彼は聡明な人だからすぐに自分で気付いて戻ってきてくれるとそう信じていた。
彼の孤独の深さとその血筋の闇を知らず、ヘルメネアは自分の愚かさを悔いることになる。
(邪悪な妖精が、………………あの方を狂わせてしまった)
ヘルメネアの大事な人を唆し、彼の魂をくすませたのは美しい一人の妖精だった。
妖艶な微笑みと狡猾さで彼を惑わせ、恐らくその孤独に毒を注いで彼を歪めたのだろう。
その結果、彼は自分を守ろうとした者たちの手を振り切り、ヘルメネア達との接触を断ってしまった。
それだけならまだしも、あの妖精はヘルメネア達の一族が、さも彼を傀儡にせんとしているかのように彼の耳元で囁き、本来であれば彼を守る筈だった者達を排除する許しを得た。
「……………もっと、お傍にいれば良かったのだわ。私の家族を殺され、私自身もこうして死者になり果てて漸く、そんなことが愚かな私にも分かった。ねぇ、テメイン、起きてしまったことはもう取り返しがつかないわ。であれば、殺されたお父様や私の従者達はただの被害者で済むでしょう。哀れだけれど恐ろしくはない。でも、彼は?…………心を歪められたまま、目隠しをされて、自分を守る者達をその手で殺してしまった彼は、この先どうなるの?」
「………………お嬢様」
「私はもういいのです。こうして死者になった今、これ以上に失うものなどないでしょう。けれども彼はまだ生きているのだから、どこからだってやり直しがきくわ。今だったら、私達だってこうして彼に会いに来てあげることも出来る」
「その為に、あなたは背負わなくていい苦難を背負うご覚悟を決められた」
「あら、愛する方の為よ。そして、私達の幸せを望んで下さったお父様の為。…………お父様には死者の国でも会えなかったわ。…………死者の国があんなに広いだなんて思いもしなかった。おまけに、カルウィの者達まで同じ街に暮らしているなんて、おぞましいことね……………」
そこでヘルメネアは少し胸が苦しくなってしまい、華奢な手で今はもう鼓動を刻むことはない胸を押さえた。
(あれは、嵐の日のことだった………………)
屋根や窓に叩きつけるような雨音に、雷の音。
愛する者たちが屋敷に投げ込まれた祟りものに食い殺され、ヘルメネアは数名の従者達に連れられてなんとか逃げ延びることが出来た。
対外的には召喚魔術の失敗で甚大な被害を出したということになっているが、それは、ヘルメネアの大事な伯父が殺された時と同じ手法ではないか。
となれば、あの時からあの妖精は彼の近くに巣食い、彼を手駒にする為に画策していたのだ。
「旦那様たちを襲った獣は、第一王子を襲撃する予定でした」
「ええ。或いは、全てが王妃様の差し金かもしれないわね。あの方を王位から遠ざけ、彼を愛した我が一族を滅ぼし、そうして孤独になった彼をガレンに追い払った。あの妖精は、最初からあの方の代理妖精にするべく仕込まれていたのかもしれないわ。現に宰相の息子の一人を手駒にしているでしょう?」
「あり得ないことではありませんね。あの方は、とにかく気に食わない者たちを弄び、破滅させるのがお好きな方だ。邪魔な王子の運命をいいように操ることぐらい、造作もないでしょう」
そう呟かれた言葉の不穏さに身震いし、ヘルメネアは震える指先を握り込む。
こんな時、自分を支え励ましてくれた友ももういない。
彼女もまた、恐らくはあの王宮に巣食うおぞましい怪物達に殺されてしまったのだろう。
(アリステル様は、あの王宮の中で清廉過ぎた。生真面目で心優しく、醜い心を持った人たちには眩しすぎたのだわ……………)
彼女もまた、死者の国でも再会出来なかった大切な人だ。
淡い春の陽射しのように微笑む友人の姿を思い出し、ヘルメネアはすっかり乾いてしまった目元を撫でる。
ヘルメネアの最後は、父の政敵だった地方伯の雇ったならず者たちによって幕を引かれたのだが、あの時は、無念さに泣きながら絶命したものだ。
あの地方伯が黒幕なものか。
そうなるように仕向けたのは、あの妖精に違いない。
気付かれないように準備を整え、彼を救い出す手筈はようやく整い始めたばかりのところだった。
あと少し、あと少しで彼をあの澱んだ土地から連れ戻すことが出来たのにと無念に顔を歪め、そうして息絶えようとしていたヘルメネアに、最後の助言をくれたのは協力者だった一人の妖精だ。
『私は私の愛する方を守らねばなりません。あなたを救いにはいけないことを、どうか許してね』
喘鳴の中何とか繋いだ魔術通信の向こうで、そう言って泣いていた美貌のシーは、いつだって自分の立場を悪くしかねない危険を冒して、ヘルメネア達に支援の手を差し伸べてくれた。
彼女の仕える第四王子は、ヘルメネアの愛する人とは政治的に敵対していたが、それでも決して表に出せないだけで孤立してゆく兄を案じていたのだという。
だからこそレーヌは、そんな主人の為に、人目を忍んでヘルメネア達に会いに来てくれては、ヘルメネアの愛する人を救う方法を一緒に考えてくれていた。
『恨みを深め過ぎて祟りものになっては駄目よ。それではあの者たちの思い通り。…………死者の国に行ったら、一年は我慢なさい。そして、その後の収穫祭ではなく、復活祭の時に地上に戻って来て、ダリルの裏をかくの。リーエンベルクの近くの森に、私が幾つか仕掛けをしておきましょう。………あなたは死んでも、あなたの愛はまだ彼を救うことが出来る。どうか……』
薄れていく意識の中で、音が遠くなってゆく中で、そんなレーヌの声を子守歌のように聞いていた。
そうしてヘルメネアは、死者の国で時を待ったのだ。
(今のあの方には、アリステル様のお役目を継ぐ為に選ばれた歌乞いが、婚約者として宛てがわれているらしい…………)
さしたる力もなく、恐らくは平民上がりであろうというのが、後から死者の国に来た者の話だ。
金で買われ、或いは己の私欲の為に彼を繋ぐ枷として用意された、強欲な女。
聞けば、政治やこの国の統治に興味を持つこともなく、彼の補佐をするでもなく、日々を遊び暮らしているのだというではないか。
死者の国で同郷の死者に出会う度、無知を装って尋ねたその問いに返される新代の歌乞いの話を聞くだけで、ヘルメネアはあまりの憤りに吐き気すらした。
まただ。
こうしてまた、彼を食い物にする悪しき者たちが、彼を遠くに連れていってしまう。
「………あの者の言う通りに、この辺りだけ陽が陰っているわね。でも、思ってたより随分狭い範囲だわ」
「街の方も曇っていると聞いていたんですが、天候が変化してしまったのかもしれません。美しい街ですが、あちこちに嫌な匂いのする火が焚いてありますね」
「……………あの方が捕らわれたこの街は、こんなに美しく見えるからこそ、なんておぞましいのでしょう」
死者の足では、王都からウィームまでの道は遠い。
陽が落ちてからの移動では警戒されかねないので、ヘルメネア達はまだ陽の高い内に地上に上がり、協力者達の手を借りて、身を焼く陽光を何とか逃れながら決死の思いでウィームまでやって来た。
ヴェルリアからウィームまでの遠さを考えると心が折れてしまいそうだったが、だからこそ、あの狡猾な妖精の目を欺くことが出来るのがこの復活祭だ。
ウィームにも死者の門が開くその日となれば、きっと彼の憂いを晴らすだけの猶予はあるまい。
勿論、死者だけでここまで来るのは難しく、死者には死者だからこそ不可能も多い。
力を貸してくれたのは、かつて志半ばで斃れた伯父の代理妖精だったという一人の女であった。
その妖精からレーヌが亡くなったことを聞き、ヘルメネアは胸が潰れそうになった。
(出来ればその鎖の全てを。…………それが難しければ、少しだけでも。…………エーダリア様、ヘルメネアがあなたを自由にして差し上げますね)
死者は生者に仇なすことは出来ないが、考えることは出来る。
生者と話をし、その真意を問うことが出来る。
更には、生前に仕込んだ罠に誘導し、生者自身の足で、その者を滅びへ誘うことが出来る。
(誰もが皆、死者は死者でしかないと考えている。だからこそ、誰にも死者の言葉は聞こえないし、死者の姿は見えないのだわ)
もう涙の流れなくなった青い瞳に、リーエンベルクの全景が映った。
美しくそびえる、かつては北の一族の王宮であったその建物は、統一戦争でヴェルリアが勝利をおさめるまで、残忍で狡猾な魔術師たちの国であった。
陰謀と計略に長けた悪しき血に苦しめられてきた彼を、もう一度この野蛮な地に縛り付けたのは誰だろう。
(もう、戦争は終わったのに)
それなのに、この土地から解放されて生きてゆくことの出来た筈の彼を、新しい時代に生まれた彼を、もう一度この土地に縛り付けてしまうだなんて残酷過ぎる。
彼は王位を継承する筈だった人だ。
苦難と偏見を乗り越え、その身に流れる悪しき血に打ち勝ち、ヘルメネアやヘルメネアの父に支えられ、ヴェルクレアの新しい時代の象徴となるべき人だった。
(可哀想なひと。……………可哀想な、私。…………でも、どうかいつかあなたが、大事なものを失ってしまったけれど、自分の人生は悪くなかったと、そう思って生きられるようになるのならば、私はその為にならなんだってするわ。死者の国から、あなたの王妃になることだって出来る)
これは贖罪だ。
愛する者を守れなかったのは、愚かなヘルメネアなのだから。
「まぁ、本当ですね。こんなところに死者さんが」
その時、不意にそんな声が聞こえてきて、ヘルメネアはぎょっとして立ち竦んだ。
はっと視線を巡らせると、こちらを不思議そうに見ている灰色の髪の少女がいる。
(これは……………)
聞いていた話通りの配色に、その少女が誰なのかすぐに分かった。
平民らしく、供の者もつけずに森まで入り込んできたのだろう。
好機とも言うべき迂闊さだったが、ヘルメネアは胸の中で荒れ狂う怒りを鎮める為に、暫く声を発せずにいるしかなかった。
「死者さん、この先は行けませんよ。迷子さんでしょうか?」
重ねてそう声をかけられ、無邪気さを装ったその狡猾な微笑みに苛立ちがつのる。
例え目の前の少女が何も知らされていないのだとしても、この少女は彼を苦しめる棘の一つだ。
「……………私はずっと、あなたは美しいのだと思っていたわ」
「……………む。どなたかと勘違いされていますか?それとも、あなたが見て問いかけているのは、私なのでしょうか?」
「リーエンベルクの新代の歌乞い。それは、あなたではなくて?」
そう問いかければ、彼女は微かに目を瞠り、では、それは私のことなのでしょうねと微笑む。
「残念ながら、このような感じなのです。あなたは、私を訪ねていらっしゃったのですか?どなたか会いたい方がいるのであれば、お呼びしますねと言えるだけの権限はありませんが、伝言することは出来ます」
(ああ、この女はまさしくあのダリルの息のかかった者だわ)
何という悪意に満ちた、言葉だろう。
会いたいひとなど一人しかいない。
でも、ヘルメネアはその人には会うことは出来ないのだ。
与えられた短い時間はその人を救う為に使うが、彼に会うだけの猶予はないのである。
それを知って、こうして嘲笑う女なのか。
「いいえ。あなたでいいの。あの方の婚約者の座を掠め取った、あなたに会いに来たのよ」
そう言えば、灰色の目を丸くして、歌乞いの少女は隣にいる魔物の方を見上げる。
長い三つ編みを持つその魔物は、困惑したように首を傾げた。
「掠め取った……………」
「あの方の婚約者は、生まれたその時から私だった。………でもそれを今更論じても虚しいばかりね。だって私はこうして殺されてしまっているのだし、あの方は、自分の目を塞がれていることに気付かないまま、あなた達に利用されているのだから」
「……………その、何やら誤解があるような気がするのですが、あなたは、私の婚約者の…………生まれた頃からの婚約者…………さんなのでしょうか?………その、随分お年を召していらっしゃる?」
「わざとらしい嫌味な物言いね。そうやって無害そうに微笑んでみせたり、困ってみせたりして、あなたは孤独だったあの方を取り込み利用しているの?」
準備は整えてあった。
ヘルメネアが、こうして問いかけで道を整えている間に、テメインが準備をしてあったその場所に立つ。
彼の役目は、今は亡きレーヌが用意してくれていた魔術の一つを動かす鍵となることだ。
死者を探知して捕食を開始する呪いは、かつて王族の罪人を死者の国に落とす為に作られたものであるらしい。
とある異国では、かつて、死者の日に死者の言葉を聞くことを罪としたのだとか。
それは多分、生者に都合の悪い言葉を遮ろうとしたのだろうが、その結果、こうして死者の言葉に耳を傾け、死者に言葉を返した人間を死者の国に落とす為の門の魔術が残された。
この少女は、ヘルメネアと話しただけでもう既に、あの仕掛けに食われる条件を満たしているのだ。
それだけで門は開き、咎人には咎人らしい顛末が待ち受ける。
(ここで一人、そして、出来ればあの代理妖精も)
あの妖精には妖精らしい顛末が用意されているのだが、この少女には人間らしい罰がお似合いではないか。
「…………私は、確かに私の婚約者を、私自身の利益の為に利用します」
所詮死者だと嘲笑うのも今の内だと思っていたヘルメネアに、目の前の地味な灰色の瞳をした少女は、突然そんなことを言い出した。
「……………よくもそんなことが堂々と言えるわね。あなたには、品位も、人並みの良心の欠片もないのね!」
「それもあながち間違いはないのかもしれませんね。私は確かに褒められたものではない過去を、そしてそのような強欲さや身勝手さを持っていますし、決して善人でもありません。けれども、それもこれも私自身と、私の婚約者の間の問題なのです。私の婚約者が私に与えてくれるものも、私が彼から受け取るものも、あなたには関係のないことなのですから」
「…………………ダリル仕込みかしらね。やはり、あなたは私達が思った通りの、残忍で狡猾な道具だった。どうやって彼の孤独に鎖をかけたの?それとも、口に出すのも汚らわしいような手段で彼を篭絡したの?あなたのような薄汚い人間はなんでもするでしょう。自分の身内すらお金や欲望の為に見殺しにするような、低俗で心の貧しい人間だと、私は分かっているわ」
真っ直ぐにその瞳を見てそう言えば、目の前の少女の瞳に微かな痛みを見た。
勿論、ヘルメネアは、自分の清らかさを手放す覚悟で、彼女を傷付ける為に言ったのだ。
己の醜さに恥じ入るべきだと、留飲を下げる。
もうそろそろだろうかと、小さく息を吐く。
目の前の少女に言いたいことは沢山あったが、これ以上言葉を交わすのは胸が悪くなるだけだ。
(正常な判断が出来ないようにしておいて、その彼の判断を盾にするだなんて、なんて卑怯なのかしら)
幼い頃、よく頭を撫でてくれていた父親の微笑みを思い出す。
父はよく、彼のことを野蛮な血が流れている王子だが、あの小さな子供には罪はないのだと案じていた。
愛で癒し、ヘルメネアが指揮を執り彼を上手く誘導すれば、彼を、洗練された王族らしい清く正しい道に戻すことが出来る。
彼は孤独で浅はかだが、それでもずっと、ヘルメネアが守ってやらなければいけない人だった。
彼がヘルメネアに愛していると告げる機会を奪ってしまったのは、誰でもなく、彼に時間を与えてやれなかったヘルメネアの幼さのせい。
将来この国の王になり、ヘルメネアを王妃とするはずだった彼を守るために、彼をこの穢れた土地に戻すなどと言う浅はかな者達を、ヘルメネアの一族は彼の為に排除してきた。
けれどそんなことよりも、彼の心を守ってあげることを真っ先にするべきだったのだ。
「ダリルさんの……………?」
しかし、まんまと彼の婚約者の座におさまり、彼を食い荒らしている少女は、またしてもわざとらしく首を傾げた。
ヘルメネアは、胸が軋むような思いで、そのわざとらしい声音に耳を塞ぎたくなる。
(…………落ち着いて、こんなところでこの卑怯な人間の思惑通りに反応しては駄目よ。一度は私の愚かさであの人を失ったのだから、今度こそは上手くやらないと)
「ネアは、残忍だけど道具じゃないよ」
そう言い出したのは、歌乞いの隣にいた魔物だ。
ひやりとする程の美貌だが、だらしなく素肌にシャツを羽織っただけの格好をしてポケットには子供用の遊具を入れている。
決して、聡明にも高位にも見えないのでさしたる脅威ではない。
人ならざる者達の中には、欲望を満たす為の奴隷として重用される、愛玩用の美貌を持つ者もいるのだそうだ。
あの王妃が飼っていたそんな妖精の一人が、よりにもよって彼の教育係に選ばれたと知った時、愛するひとが甘んじて受けた屈辱を思い、どれだけ悔しかったことか。
「あら、私は残忍かもしれませんが、森に迷い込んだ死者さんで遊ぼうとしてお部屋を飛び出してゆく魔物さんを叱るからこそ、頭を叩いたのですよ?」
「ふぇ……………、死者くらい、一個減っても分からないと思うよ。それにこの人間は嫌いだ」
「しかしながら、このように心を持ち動いていらっしゃる方です。…………多少むしゃくしゃしても、悪さをしてはいけません」
「お、怒ってる!!」
「むぅ。そんな自分の未熟さには悔しさも感じてしまいますが、私の婚約者がこんな綺麗なお嬢さんと知り合いで、尚且つダリルさんと何かをしてしまったのかなと考えると、もやもやするのは認めざるをえません。おまけに、こんな風に普通の人間の死者さんに見えますが、ディノの生まれた頃からいるとなると、ウィリアムさんやアルテアさんよりも年上ということになりますから普通の方ではないのでしょう。……………初めて知る、ディノのお知り合いです」
「ほぇ……………ただの人間にしか見えないよ?」
(………………何を話しているの?)
ふと、自分は何かとんでもない勘違いをしているのではないだろうかという考えに捕らわれた。
ヘルメネアは周囲を見回し、なぜだかもうそこまで寒くない筈なのに、ひどく寒いような気がする自分の体を両腕で掻き抱く。
どうしてこんなに寒いのだろう。
「このリーエンベルクの主人は、エーダリア様の筈よ……………。だってここは、あの人の牢獄なのですもの」
「ええ。こんなに素敵なところを牢獄と言うのは賛成しかねますが、ウィームの領主はエーダリア様です。あなたはエーダリア様のこともご存知なのですか?その、失礼ですがお名前を窺ってもいいでしょうか?」
「お前の言っていることがよく分からないわ。…………私はただの人間だし…」
「そうだな。君はただの人間だ。ただし、残念ながらもう死者でもある」
突然背後から聞こえたその声は、ずしりと重く、魂を押し潰しそうに暗かった。
凍えそうな程寒くて、ヘルメネアはがたがたと震える。
寒さの原因はその声の主だとわかった。
決して振り返りたくないのに、この体は、どうしてゆっくりと振り返ってしまうのだろう。
もしかしたら、目の前にいる三つ編みの魔物が真っ青になり、歌乞いの少女の背中に隠れてしまったからだろうか。
あまりにも恐ろしいものが背後にいると、竦んで動かない筈の体が勝手に動いてしまう。
ああ、ヘルメネアは絶対に振り返りたくなんてなかったのに。
「………………っ、」
そこに立っていたのは、純白の軍服姿の男性だった。
それ以外のことは目が霞んで上手く見えなかったが、その体を包む黒い靄のようなものの奥で、白銀色の凍えるような光が見えた気がした。
「まぁ、ウィリアムさん!」
「ネア、その役に立たないヨシュアを連れて、少しだけ離れていてくれ。ダリルから、この死者が死者の門を開こうとしている一派の者だと一報が入ったんだ」
「…………………死者の門を、ですか?」
「ちょっとした計略があったようでな、ネアをそこに落とそうとしたらしい。向こうに避難していてくれるか?」
「むぅ。お昼にはもう一度美味しくなった辛いスープを食べる予定なのです。私から食事の楽しみを奪わんとする悪い奴でした。であれば情けなどかけようもないので、ここは大人しく避難しますね」
「ああ。…………後、念の為に言っておくが、この女性が執着を残しているのはエーダリアらしい。シルハーンじゃないからな?」
「………………ディノではないのですね。…………もやもやがすっきりしました……………!」
「シルハーンは、隠してあった死者の門を展開しようとしていた死者を排除している。出来れば、部屋に戻っていてくれると安全かな」
「だからディノは、私にヨシュアさんから離れないようにと言いつけて、いきなりあちらに行ってしまったのですね。ディノやウィリアムさんは危なくはありませんか?」
「ああ。すぐに済むから安心していい」
「では、ヨシュアさんと客間にいますね」
「そうしてくれ。俺も後で合流する」
そうして歌乞いの少女は行ってしまい、森の中には軍服の男とヘルメネアだけが取り残される。
恐怖のあまりに気を失いそうになっているヘルメネアに、彼は微笑んだのだろうか。
「まったく、よくも俺が力を強めるその日に、俺の守護を受ける者を損なおうとしたものだな。…………だが、君が俺の管轄にある死者で、この上なく幸いだ。少しだけ俺にも時間を割いて貰うことになるが、ファービットには、悪いものを食べて胃を壊さないようにと言っておこう」
そうしてそれが、ヘルメネアの聞いた最後の言葉になった。