274. 復活祭では歌ってはいけません(本編)
朝から不思議な翳りの落ちるその日、ウィームは晴天に恵まれたものの奇妙な薄暗さに包まれていた。
チリリとどこかで風に鈴が鳴る音が聞こえる。
そちらに視線を向けると、庭道具などを入れる小さな小屋の軒先に、黒いリボンが揺れるのが見えた。
復活祭のこの日は、黒いリボンと銀色に塗った松ぼっくりの飾りに、チリリと澄んだ音を立てる鈴をつけて飾るのが習わしになっている。
ウィームの重要な施設や、リーエンベルクの周囲には、去年はネアも集めた色つきの火を焚いていた。
今年は、昨年ネアがツベルトで乱獲してきた地精を目当てに、リーナとロマックというあまり見ないコンビが、火の精霊から火を貰ってきたのだが、副産物として狙っていた地精は一匹しか捕まえられなかったのだそうだ。
幸いにも昨年の竜の墓場の近くでまた老いた竜が亡くなったらしく、葬送の火を宿す火の精霊は、今年もツベルトにいてくれたのだとか。
(ツベルトのレストランで食べたジャガイモのパンは美味しかったな…………)
婚約中の乙女が考えることは他にもありそうだが、ネアは素敵な山羊のチーズ入りのパンを思っていた。
禁足地の森近くを歩き、春夏仕様のブーツの踵を鳴らす。
その日のネアは、たいへんに迂闊だったと言わざるを得ない。
なぜかとてもご機嫌な軽率さで、無意識に歌を口ずさんでしまったようなのだ。
弁解の場を与えられるのならば、恐らく、今日はあの茶色い首なし馬を見かけても、もわもわ妖精に埋められていなかったこともあり、とても自由な感じがしたのだろう。
でも、その時はまだ、自分が何をしているのか気付いていなかった。
(エーダリア様達はもう、ヴェルリアに着いただろうか…………)
復活祭の儀式に参加するエーダリア達は、まずは今日門が開く王都での儀式の為に、リーエンベルクを空けていた。
この世界には幾つもの死者の日があるのだが、この復活祭で死者の国の扉が開くのは、ヴェルクレアの中では王都の一画と、ガーウィンだけになる。
ネアの当初の予想の死者の日は、薄暗い街に死者達が死者の国から戻ってくるホラーな感じの怖い日という印象ばかりであったが、それが恒例化しているこの世界では、恐怖など頭から吹き飛んでしまうくらいにもっと頭の痛い問題が勃発する。
(今年は、悪ノリして死者の門をくぐる若者達が減るといいな…………)
死者の日というものが生活の一部になると、どうやらそんな問題が常態化するようだ。
荒ぶるのは自身の勇猛さを見せつけたい若者達だけにとどまらず、熟年夫婦が、死者の国でも一緒に過ごす羽目になると堪らないということで、まだ生きている伴侶を死者の国に押し込んでしまう事案なども発生する。
昨年起きた悲しい事故の中には、死者の国から流れてくる風にあたると肌荒れが治るという噂を信じ、門のところで風を浴びていた女性が向こう側に落ちてしまったというものもあった。
あまり問題視されないものの、研究熱心な魔術師や、信仰に篤過ぎる教会関係者があちら側に行ってしまい、そのまま帰らないという事件は毎回発生する。
その結果、本来であれば、鹿角の聖女が亡くなり、その後の教会組織の基盤となる仕組みを信者たちが組み上げた大切な日としての記念の日である復活祭の側面よりも、死者の日としての性質が強く出るのは致し方ない。
毎年、荘厳な大聖堂で鹿角の聖女の為の祈りの儀式を行うガーウィンでは、しずしずと祈りを捧げる為の行列に並ぶ人達がいる反面、その行列の向こうでは若者達が死者の国詣でをするぜと意気込んでいたりするのだから、ある意味平和なことなのかもしれなかった。
なお、王都での儀式には、国の首都らしい政治的な煩雑さを伴いあれこれが多いのだそうだ。
チリリと、どこかでまた鈴が鳴る。
ネアは、意気揚々と禁足地の森を歩いていた。
今年は銀狐がエーダリア達と一緒に出掛けており、今日のボール当番だったネアは、見回りがてら伸び伸びとお散歩に精を出していたのだ。
今日は、エーダリア達と一緒に早い時間に復活祭恒例の辛いスープの朝食をいただいたのだが、今年のスープは、料理人の機転でお酢を使ったスープにしたところ、胃や喉に厳しいもったりとした辛さが、やみつきになる爽やかな辛さの旨味に生まれ変わっていた。
しゃきしゃきする筍風な熟していないあざみ玉と、ふわふわ卵を具にしてエスニックな美味しいスープになり、ネア達は嬉しい驚きをもってそんな復活祭のスープを楽しませて貰ったばかりだ。
(今年からは、復活祭のスープも美味しくなったし!)
本来であればアルテアが滞在する予定だったのだが、前回のあわいの列車の旅で一つの予定を後倒しにしたようで、今日の午後まではそちらにかかりきりなのだとか。
よってネアは、本来であればべったり警備隊なディノの監視下に置かれている筈だったのだ。
けれどもその時、ディノはネアの背後で小さな逃げ沼を、どこか離れた土地にぽいっと捨てているところであった。
(今年は逃げ沼にも落ちなかったし!)
ネアのご機嫌の理由は、ここにもあったのだろうか。
先程、木の影に隠れていたもののきらりと朝陽を反射しているちび逃げ沼を発見し、愚かな逃げ沼めとディノに言いつけたあたりで、今日のネアは自分の有能さが怖いというくらいの気分である。
この時間帯は、差し込む朝日の角度から、逃げ沼があってもすぐに見付けられるので、案外屋内よりも森の方が安全なのかもしれない。
そんな軽やかな気持ちで、しっかりと鍵をかけて施錠してあった心の扉がぱかりと開いてしまい、ネアはうっかり歌を口ずさんでしまったのだろう。
先程からしっかり歌っているように見えるだろうが、今のところ本人は無意識である。
近くに被害の出る生き物がたまたまおらず、一緒に居るディノもネアの歌声で死んでしまったりはしないので、すっかり気付いていなかった。
「むーきゅっきゅっ、むーきゅっきゅっ、むーきゅっきゅっきゅ」
そうして、ワルツのリズムで歌詞のない歌を口ずさんでいたその時、ぼすん!と何かが空から落ちて来た。
「……………むーきゅ………………きゅっ」
ネアはぎょっとして目を瞠った視線をそのまま下に下げてゆき、ばしゃんという謎めいた効果音で地面に落ちたものを怖々と観察する。
黒っぽい飛沫が散ったので、まさか落下の衝撃で中身が出てしまった系の惨事かなとも思ったのだが、何か様子がおかしい。
「ネア、何か落ちてきたけれど、大丈夫かい?」
「…………お空から降ってきた何かが水溜りに落ちたようです」
「ネアの歌を聴いてしまったのかな」
「歌……………ってました?」
「うん。可愛かったから、また聞かせて欲しいな」
「…………ほぎゅ。そう言えば、お口の中に音を出していたような余韻があります………ほわ…………」
背後で逃げ沼の移送を終えたディノも目撃したのか、慌ててネアのところに戻ってきた。
ネアが、そんな大空からの落下物を放っておけずに近付いたのは、ディノの指摘によって自分が何をしていたのかを理解したことで、多分自分の歌声で殺してしまった何かだろうという自覚があったからだ。
ここで見殺しにしたら、きっと後悔するに違いない。
人間には、逃げるべき時と踏みとどまるべき時があるのだ。
「ふ、ふぇぇぇ……………」
そして、落下ポイントに急いだネア達がそこで発見したのは、よりにもよって逃げ沼に落下して泣いている、悲しい悲しい雲の魔物の姿であった。
手は逃げ沼の縁にかけて沈んでしまわずにいたし、ターバンは幸いにも頭の上に乗ったままだったが、落ちてきた衝撃がすごかったのか、跳ね上がった泥でほぼ泥人形になってしまっている。
「…………ヨシュアさんです。………ディノ、ここだけの話ですが、た、多分私のせいなので、どうかヨシュアさんを助けてあげてくれますか?」
「うん。逃げ沼に落ちたんだね……………」
「その、……………ヨシュアさんを引っ張り上げるには、ディノも、逃げ沼でびしゃびしゃになってしまいます?であれば、棒のようなものを探して来て差し出すので、言って下さいね」
「魔術で引き揚げられるから心配しなくて大丈夫だよ。…………ほら、ヨシュア、そこから出すからね」
「ふぇ………………何も見えない」
「うむ。その症状は、泥人形ですね。私も経験済なのでよく分ります」
「真っ暗だよ。…………ふぇ。イーザ、…………イーザとハムハムに会いたい……………」
「大丈夫ですよ、逃げ沼は臭くて汚いだけで、死んでしまったりはしませんからね!」
「ぎ、ぎゃあ!!!臭い………………臭いよ!」
「むむぅ。さては、言うまでは臭いことに気付いていなかった模様です…………」
そんな風にしたら口に泥が入ってしまうと話しているのに、口を閉じていられずに大泣きしてしまっているヨシュアは、すぐにディノの魔術で救出された。
ネアは、儀式参加中のエーダリア達に代わりウィームに留まっているダリルに大急ぎでお伺いを立て、ヨシュアを泥から解放するべく客間の浴室への搬入の許可を得ながら、迅速な救命救急の準備を同時に進めた自分を賛美した。
ダリルに連絡を取りながら、お庭にある道具部屋の通信端末から家事妖精にも連絡をしておき、客間の受け入れの準備を整えて貰ったのだ。
(家事妖精さんには、そのお部屋の浴室で汚れてはいけないものをどかして貰ったし、タオルもたっぷり準備して貰った。消臭剤も置いておいてくれたみたい………)
「ディノ、許可が出ましたよ。前回に一度リーエンベルクに泊まった際に、ダリルさんは狡猾にも、今後もリーエンベルクに悪さを出来ないような誓約をさせてしまったのだそうです」
「では、客間の浴室に運ぼうか。……………ヨシュア、転移させるから限定排除をかけているようであれば、それを解くようにね」
「………………ふぇ」
「聞こえたのかな?」
「うむ。こうして地上に救出された後、泥が乾いてくるとそれはそれで事件なのです。乾いた泥の繭の中に閉じ込められて、泥人形は喋れなくなりますからね…………」
経験者の知恵を頼りに、ディノはまずばしゃりと浄化の水を降らせてヨシュアをもう一度湿らせてくれた。
乾くと匂いが和らいでいたのか、また臭いと大騒ぎをし始めたヨシュアだったが、幸いにも意志疎通が可能になったので、限定排除というものを解除出来たようだ。
持ち運びに楽なように、もう一度軽く乾燥されて乾燥泥人形になったヨシュアは、道中で泥をこぼさないようにディノが魔術で取り出したさらりとした絨毯のようなもので包まれ、ネア達と一緒にリーエンベルクの客間の浴室に運び込まれる。
外にいるときにはそこまででもなかったが、やはりこうして室内に入るとつんとした沼の匂いが鼻をつく。
綺麗な淡い水色の浴槽に泥人形が投下される姿も心臓に悪かったが、人命救助が一番ではないか。
「むぐ。…………窓を開けますね。洗浄は、責任を取るべく私がやるので、ディノは泥飛沫が飛ばないように離れていて下さい」
「………………浮気」
「いえ、ディノはとても白くて綺麗なので、私の精神衛生上、逃げ沼洗浄に関わらせたくないのです。狐さんならともかく、ヨシュアさんの大きさとなるとなかなかに苦労しそうですからね」
「ずるい、ヨシュアを洗うなんて……………」
「ややこしくなりましたが、救命活動は時間勝負ですので、私は着替えます!」
ネアがずばっと着ているものを脱ぎ始めると、ディノはきゃっとなって慌て始めた。
慌ててスカートを捲らないようにと窘められたのだが、ネアはそもそも、浴室着になるつもりなのである。
浴室着で髪の毛もおだんごにしないと、逃げ沼洗浄は難しい。
浴室に魔物達を残して隣の部屋で素早く着替えると、ネアはアルテアの髪留めで前髪を上げ、後ろの髪の毛はシュシュのようなもので大雑把にお団子状にした。
淑女らしさは失われてしまうが、これから待ち受けているのは贖罪を兼ねた死闘なのである。
「準備が出来ました!さぁ、ヨシュアさんを洗浄しますよ!」
「ネアが虐待する…………前髪がかわいい……………ずるい」
「ディノ、こんなことで弱っていたら、ヨシュアさんの命は助かりません!」
「ほぇ、………………僕、死んじゃうの…………?」
幸いにも、ディノは浴槽にお湯を入れていてくれた。
なので、まずはお湯を溜めた浴槽に泥人形を漬けて、自分でもごしごしと自分の体を擦るように命じてみたのだが、泥人形は泥人形でしかなく、ずるりと浴槽に寄り掛かって沈むばかりだ。
このままでは、なかなかに高位の雲の魔物が、浴槽に溜まった泥水の藻屑となってしまうので、ネアは慌ててシャワーのお湯を頭からもかけてやった。
「ふぇ……………臭いよ」
「ごめんなさい、少しだけ我慢して下さいね。まずは大まかに泥を落としてしまわないと、泥が固まって完成形の泥人形になってしまいますよ?」
「ど、泥人形は嫌だ!…………べたべたする!ふぇぇ…………」
「ほらほら、お口を開けると中に泥が入ってしまうので、暫く我慢して下さい。お湯で温められた泥がひどく匂いますが、この行程を経ないと泥から解放されません!」
くすんくすん鼻を鳴らしながら、ヨシュアは泥が多少なりとも流れ落ちるまで我慢した。
やはり逃げ沼は特殊なものなので、丁寧な魔術洗浄も必要となる。
ディノが、魔術洗浄をしてくれる柔らかなブラシのようなものを用意してくれたので、ネアはそれで丁寧に泥をこそげ取ってやった。
持ち手が長くていい感じにカーブがあるので、泥まみれの魔物を洗うのにとても適している。
「ヨシュア、泥と混ざってしまうから涙を落とさないようにね」
「ふぇ、シルハーン………………。僕、泥人形になるの?」
「ネアが、ならないようにしてくれているから、安心していいよ。けれど、洗浄には時間がかかるから、もう少し辛抱出来るかい?」
「出来ない……………」
「ヨシュアさん、待てです!でないと、ずっと泥人形のままですよ!」
「…………………ふぇ。我慢したら助かるのかい?」
「はい。綺麗になったら、美味しい紅茶でも飲みましょうね」
「………………うん」
そこからの死闘は、語るまでもないだろう。
昨年はネアも体験した油っぽくて臭い泥を洗い流すのは、表面についた泥をこそげ落としてもまだまだ試練が続く。
魔術汚染や油汚れなどに強い、馬を洗う用の洗浄剤を家事妖精が差し入れてくれたので、ネアは、泥を一通り洗い流した後はその洗浄剤をばしゃばしゃ使った。
ヨシュアはいい匂いがすると少し喜んでしまっていたが、馬用シャンプーなのでネアは胸が苦しくなる。
ご主人様にヨシュアが洗われてしまうくらいなら、自分が洗浄係をすると荒ぶっていた魔物には、ネアの腕以外の部分の泥汚れ防御と、浴室内の換気という重要な任務を遂行するように言いつけ、それが作戦の要であるとご理解いただいた。
「ディノ、イーザさんは連絡が取れましたか?」
「やはり不在にしているようだね。ヒルドから共有されている連絡端末には応答しないようだ」
「…………………イーザは家族会議なんだ。弟の一人が、人妻に手を出したんだって」
「まぁ……………それは何というか、是非に今日はそちらに専念してもらいましょう」
「………………ほぇ、僕は?」
「ヨシュアさんは、ここで私とディノが綺麗に洗ってあげますので、その後は一緒にお茶をしましょうね」
「うん……………僕のことは、大事にするべきだと思うよ」
「……………………ずるい」
「………………ディノは、今度お風呂で洗ってあげますから、今日は我慢して下さいね」
「………………うん」
ネアは、その時魔物を宥める為に安易に約束してしまったことを後で後悔する羽目になるのだが、自身の罪滅ぼしも兼ねてヨシュアを馬用シャンプーで洗うのに忙しく、その時は目元を染めてもじもじしている魔物の姿に気付いてはいなかった。
一時間後、かぽんと、浴室に平和な音が響く。
戦いが終わったのだ。
「があがあいう鳥だ……………」
「アヒルさんですね」
無事に元通りの綺麗な雲の魔物に戻ったヨシュアは、いい香りの入浴剤を入れてやった浴槽に浸かり、黄緑色のお湯の上に浮かべたアヒルの人形で遊んでいる。
素っ裸にして洗わねばならず色々苦労したが、わぁわぁ泣く大きめの幼児だと思ってネアは心を無にして任務を無事に終えた。
実は一度浴室から追い出してネア達はその隙に浴槽などの大掃除をしていたのだが、一人で着替えられないヨシュアが素っ裸のまま立ち尽くしていたことで湯冷めしてしまい、再度お湯に浸からせることになったのだ。
ネアは現在、真剣な目をしたディノに、ヨシュアを洗っていたことで泥に触れてしまった手を、あわあわにして貰って洗われていた。
この魔物は、自分が洗うことでご主人様の所有権を主張しているのである。
「…………………があがあ」
「鳴き声を当ててあげなくても、お腹の部分を押すと鳴きますよ?」
「ほぇ……………」
お風呂場のアヒル人形で一人遊びしていたヨシュアは、ネアにそう言われて首を傾げると、怖々とアヒル人形のお腹を指で押してみる
その途端、アヒル人形から、があがあというか、ぶーぶーという音が出て、ヨシュアはびゃっとお湯の中に隠れてしまった。
「ネア、この人形が鳴いたよ!」
「ええ。音の出る玩具なのです。よくお子さんが持っていますが、知りませんでしたか?」
「でも、があがあ言わない…………」
「玩具なので、少し音が違うのでしょう。ヨシュアさんの魔術で、ちゃんとがあがあ聞こえるように、改造してみます?」
そう言ったのは、アヒル人形に夢中なヨシュアが微笑ましかったからなのだが、雲の魔物は真剣な眼差しでこくりと頷くと、そこから五分ほど、ネアには見えない魔術的な何かで試行錯誤していた。
ネアが、ディノから手を綺麗に洗ってもらってクリームまで塗り込まれ、そのほかの部分も泥の匂いや汚れなどがないように綺麗にされた後にヨシュアを迎えに行くと、とてもいい笑顔をした雲の魔物が、なんとがあがあ鳴くようになったアヒルの玩具で遊んでいた。
「……………まぁ。があがあ鳴くようになったのですね?」
「うん。僕は偉大だからね」
「………………ヨシュア」
「シルハーン、このアヒルはね、があがあ鳴くんだよ!」
「うん……………」
ディノは、購入の際に対象年齢二歳からと書かれていたアヒル人形に夢中なヨシュアを見ていると、しょんぼりしてしまうようだ。
とは言え、銀狐が夢中になっているボールは、そもそも人間の子供用ではなくペット用である。
このお風呂アヒルも、ちびふわのお風呂遊び用に買ったのだし、もはや周囲の魔物達はみんなそんな感じなのだと諦めて欲しい。
(でも、そう言えばムグリスディノは、あんまり玩具遊びはしないかな…………)
むくむくもこもこしてネアに甘えるのと、プールでぷかぷか浮かぶのが、ムグリスディノの楽しみなようだ。
ネアは今度、ムグリスでも遊べる玩具を調べてやろうと、心の中にメモしておく。
ヨシュアはお風呂でひとしきりアヒルで遊び、ネアからそろそろ上がるように言われるととても悲しい目で浴槽から見上げてきた。
そのアヒルは持って帰っていいと言われると笑顔が戻ったので、すっかり気に入ってしまったらしい。
雲の魔物の素敵な装束は、現在家事妖精に洗濯に出されている。
最近は魔物達の居住や滞在が増えたので、リーエンベルクの家事妖精のお洗濯技術は、今や魔物の装いにも万全に対応していた。
とは言え暫くは時間がかかるので、その間、ヨシュアは自力で他の衣服を用意して貰い着替えさせたのだが、自分で着替えられないヨシュアの為に、家事妖精とディノが手伝ってやる羽目になった。
「僕は今日、一人でシャツを着たんだ!褒めるといいよ!」
「まぁ、ヨシュアさんは偉いですね。私の大事な魔物は、一人で全部着替えられる優秀な魔物なのですよ?この先、他の着脱も学ぶと、きっとイーザさんが褒めてくれると思います」
「……………イーザが」
狡猾な人間に誑かされ、ヨシュアは一人で着替えられるようになる決意を固めたようだ。
じっと澄んだ目でこちらを見上げてくるので、今日は復活祭なので他のことに注意しなければならないのだが、何もないお休みの日であれば、着替えの練習に付き合ってあげると約束してあげた。
(その日は、こっそり使い魔さんを招聘しよう……………)
狡賢い人間はそう企んでしまったが、よく考えたら面倒見の良さそうなゼベルなどに相談してもいいかもしれない。
以前、エアリエルの魔術はヨシュアの魔術と相性がいい筈だと、エーダリアが話していたからだ。
(ゼベルさんがヨシュアさんに貸しを作っておけば、更なる技術向上への祝福付与が見込めるかもしれない………)
基本的に人外者のお礼は祝福などが多いのだが、ネアは可動域がとても低いので、守護以外のところで貰ったものを生かすのが難しい。
どうせなら使える人物にそのようなものを付与されるのが望ましいだろう。
(それに私には、ヨシュアさんの守護というか、魔術の欠片としては、海で拾った煙管もあるし………)
ネアが、昨年の夏にヴェンツェル王子に貸し出された島の海辺で拾った雲の魔物の煙管は、魔物にとってはかなり大事な道具の一つである。
ウィリアムの剣やアルテアのステッキや椅子のように、長くを生きる魔物達は自分のお気に入りの品や、魂を削って作った武器に魔術を溜め込み、力のある道具にすることが多い。
ネアが拾ったヨシュアの煙管も、そのようなものの一つであったのだ。
勿論、そのようなものなので、強欲な人間としては珍しく比較的速やかに返却しようとしたのだが、返却方法を相談した魔物達は、当人のヨシュアがネアと知り合いになってしまったことも踏まえ、その煙管をそのまま持っているようにと言い出した。
ヨシュアはこの通り、ちょっとうっかりなところもある魔物だが、そんなヨシュアにうっかりで傷付けられないようにとネアが彼の守護を貰うのは、魔物達的に愉快なことではなかったらしい。
(一度知り合った以上、お前は絶対に今後もあいつに会うぞというのが当時のアルテアさんの意見だったけど…………)
確かにその後もヨシュアとは会っているし、何だか最近ではよく懐いた知り合いの家の子供感も出てきた。
こうなってくると確かに、アルテアの懸念もあながち間違いではない。
なお、知り合い度が増してきた結果、煙管を無断で持っていることに気が引けるようになってきたので、一度、イーザを含めて話をし、ネアは安心して煙管を着服したままでいられるようになった。
実は海辺でヨシュアの煙管を拾ったのだがと相談したところ、イーザはとても素敵な笑顔で、これまでの迷惑料としてそのままどうぞお持ちくださいと言ってくれたどころか、ちょっとぐずったヨシュアを、どうしても必要な時には借りにいけばいいと丸め込んでしまった。
(イーザさん曰く、失くしたまま見付からないよりは、保管場所が分かっているだけいいだろうと言うことだったけど……………)
実は、ネアはヨシュアがちょっと不憫になってしまい、独断で返してあげようと思ったこともある。
しかし、ヨシュアが結構雑にばりんと何かを壊してしまう場面や、危なっかしく行動している現場を見ることもあるので、その度にこのままでいいやと考え直してしまうということの繰り返しであった。
そんな場面で一緒にいてもネアが無傷でいられるのは、ヨシュアの煙管を持っているからでもあるのだ。
(だけど、こんな風に事故ってしまうことも多いから危なっかしいし、そもそも今回は、当人は急に一瞬失神したと思っているみたいだけど、私に攻撃されたようなもので……………)
なので、ヨシュアをうっかり歌声で空から逃げ沼に落としてしまったばかりのネアは、お風呂上りでどこか幼気な雰囲気のヨシュアを見て、煙管を返してあげた方がいいのではとまた考えていたのだ。
「ネア、僕は、紅茶には牛乳と砂糖が入ってないと飲めないよ!」
「では、お砂糖と牛乳を入れましょうね。それとも、蜂蜜を入れた温かい牛乳にしますか?」
「…………………それなに?」
目をきらきらさせて、ヨシュアはネアとディノの顔を交互に見つめる。
ディノからも美味しいよと教えてもらい、ホットミルクにすることにしたようだ。
(もし、煙管を持っていないことで、雲から落ちやすくなっているのだとしたら…………)
無邪気な雲の魔物の姿に、そんなことを考えていたネアは、すぐに己の善良さを後悔することになる。
「これは何だい?」
「……………む。客間に備え付けの、お客様用ポットですね。中には珈琲が…」
「僕は珈琲も、そのままでは飲まないよ」
ここで、ヨシュアが珈琲の入ったずしりと重い銀のポットをぽいっと放り投げたのは、雲のお城だと、そうしてもぷかりと浮くからだったのだそうだ。
しかし、リーエンベルクのポットにはそんな効果は勿論ない。
「ネア!!」
ひゅんと飛んで来た珈琲ポットは、はっとしたディノがネアに激突する前に慌てて空中で受け止めた。
幸いにも、このポットには転倒時に珈琲が零れて大惨事にならないように、注ぎ口が閉じているものだったこともあり、ネアもディノも、素敵な調度品のお部屋も、珈琲まみれになることはなかった。
「ヨシュア」
珍しく、ひやりとするような声でディノに叱られてしまって泣き出したヨシュアを見ながら、ネアは雲の煙管はこのまま首飾りの金庫で保管させていただこうと、凛々しく頷く。
(それに、雲の魔物さんの力を含んだ煙管は、天候の系譜や、海の系譜の人たちへの抑止力にもなると言うし………)
そう考えてふすんと頷くと、ネアはホットミルクを頼む為に、家事妖精を呼んだのだった。
色々な事件が勃発したその年の復活祭の日は、まだお昼前の時間でこの有様であったのだから、どれだけの忙しさだったのか分かって貰えるだろう。
ヨシュアが森に暗殺者を発見するというお手柄で褒められるのは、この半刻後になる。