272. かつて欲しかったものでした(本編)
「困ったものだ。またあの穢れが寄ってきてしまった」
気配で気付いたのか、振り返ってそう呟いた元海竜の王に、ディノは困ったように海の向こうを眺める。
海と空の境目の染みのようなものは、じわじわと広がってきていて、ただの色の変化とは思えないようなぞっとする冷たさを感じさせた。
「…………私が来たからかな」
「……………ディノが、来たからなのですか?」
その言葉に困惑して眉を寄せたネアに、ネアを抱き締めたまま、ディノは困ったように微笑んだ。
男性は特にそれを気にしている様子はなく、色がなぁと、呆れたような目で海の向こうを見ている。
「……………私には運命の頸木がある。ここは外殻を剥ぎ取られた無防備な場所だから、正当な運命を侵食するものの妄執を呼び込みやすいのだろう」
「いや、シルハーンのせいなものか。あの穢れはそうでなくても時折這い寄ってくるものだ。何度あの穢れに忍び込まれ、俺は望まない眠りについたことだろう。前にも一度、その少女を呼ぼうとしたことがあるのだが、その時も海の穢れにあまり長く目を開けていられず、結局連れて行かれてしまった」
その言葉に、ディノは何かを感じたようだった。
「……………以前、この子が同じような風景を、あわいの列車から見たと話していた。その時のことかい?」
「恐らくその時だろう。俺からは外側の世界は見えないが、その子供が列車に乗ってここを通りかかったことがあった。運命を持たぬ者だと気付いて何とか呼び止めようとしたのだが、その先の穢れの方が引きが強くてな、俺も長くは呼びかけられずにいる内に持って行かれてしまった」
「まぁ。………あの列車に乗った時に、私を見付けていたのですね…………」
(だから、この人は私を見た時に無事だったのかと言ってくれたんだ………)
ネアがそう納得している横で、イブ、とディノが名前を呼んだような気がする。
原始を思わせるその名前に、ネアは、この竜は随分古い時代の竜だったのだなと理解した。
良く分らないのだが、なぜだかそう思ったのだ。
「…………イブ、その時にこの子達を呼んでいた者がわかるかい?」
「さて、そこまでは欠片の俺には難しいな。だが、招かれたのは海辺のあわいを走る列車なのだから、海辺や海に住む悪しき者の呼びかけなのだろう。魔術の縁が心配ならば、尚更にここに来て良かったな」
「そうだろうか。ここは、もういない君の欠片の中の世界でしかないだろう?」
「その通りだ。けれども、海が澱み始めているからこそ、そのようなものが蔓延る。…………あの穢れも、近年になっての澱み方は随分と深い。…………俺が考える以上の要因がなく、これから話すことで少し海を整えられれば、その子達を呼んだものも崩れるかもしれない」
「…………だといいのだけどね。やれやれ、やはり海のものなのだね………」
(…………ディノは、その時のことをまだ心配してくれていたのだわ。…………でも、去年の夏の事件でヴェルリアの海に行ったことや、海遊びの時には何も言わなかったのは、どうしてなのだろう?)
ネアは少しだけ不思議に思ったが、今はその疑問を紐解いている時ではないようだ。
イブは目を細めて背後を振り返ると、やれやれそろそろかなと肩を竦める。
「さて、昔馴染も来たことだし、早々に話してしまおう。俺が今度眠ったら、もう海竜の戦には間に合うまい。………人の子よ、先程話したことを、シルハーンにも伝えてくれ。そしてその先に唯一、海竜を海に繋ぐ術を伝えておく。………どこかにいる俺の魂を持つ者に、海竜の戦で手に入る海竜の至宝を、一度だけ渡してやってくれ。一度その者が受け取れば、後はもう誰かに譲渡してくれてもいいのだ。正当な手順となるからな」
ネアは目を瞠り、その言葉を聞いた。
海の色はどんどんどす黒くなってゆき、風も強くなってきたようだ。
「あなたの、…………魂を持った方に」
「ああ。探すのは難儀だろうが、ここで俺が託すものがその縁を繋ぐだろう。…………すまんな、シルハーン。海竜の戦には関わらない方がいいのだが、誰かそれを必要とする者の為に、この伝言だけ頼んでもいいだろうか。この子でなければ、ここで見聞きしたことを覚えてはいられない。ここは、運命から切り離された場所だからな」
「…………私も、何があったかまでは忘れはしないだろう。どうであれ、ここは私の世界の一部ではあるのだからね」
「はは、であれば最初から君に頼めば良かったのか」
ゆっくりと屈み、男性は砂の中からあの檸檬色の巻貝を拾い上げた。
「これを持っていってくれ。俺の魂のかけらとして、俺の魂を継ぐ者を探し当てるだろう。そうそう、……」
そこで言葉を切ってふわりと微笑むと、彼はディノの方を見てぴしりと指を立てる。
「この子は守護はかなりの分厚さだが、可動域が低い。こんなことを任せておいて今更だろうが、あまり深入りはさせないでやってくれ。知らずにひび割れ、知らずに歪み初めているのが今の海竜達の運命だ。良くない者達が紛れ込んでいる可能性もある」
「その通りだね、今更だ。君が私のものをこうして呼び寄せてしまったこと自体は、とても不愉快なんだよ。…………だが、今回の君の招待は恩寵の一環として機能している。こうであるべきものがどこかにあり、こうならなければ良くないことが起こったに違いない。この子が暮らすのは、海に面する王都を有する国だからね」
ディノはネアがここに連れ込まれてしまったことが不愉快なようなので、ネアは慌ててそんな魔物の腕を撫でてやった。
ここに来た後、なぜかすっかり名前を呼ぶのを忘れていたのだ。
きっと、自分の名前を呼ぼうともしないネアの様子にも、傷付いただろう。
「……………ネア」
そうすると、ディノは少しだけ目元を染めてこちらを恨めしそうに見る。
ついでにさり気なく爪先を踏んでやると、ぎゅっと抱きしめられた。
そんなネア達を見て少し驚いたようにした後、イブはくすりと微笑んだ。
君も幸せになったのだなと呟き、すっかり澱んでしまった海を眺める。
「すまない。君の大事な子供だったのだな。であれば、俺が気にかけることもなく君が守るだろう。………ほら、この通り無事だから安心してくれ」
「この子が無事でなければ、そしてここが恩寵の道筋でなければ、私はここを壊してしまったと思うよ。その判断をしたのは理だからこそ、祟りものの側面の強いあわいの列車が、珍しく誘導人もなく走ったのだろう」
「……………今度は俺の領域に駅が出来たのかと、あわいの列車の変化を不思議に思っていたのだが、理はこれを恩寵としてくれたか。運命にはすっかり見放されたと思っていたが、何とかなるかもしれないな」
微笑んだイブの眼差しには、どこか安堵のようなものが滲む。
いつかこうなると案じ、最後に切り分けて残したものがあるのなら、彼は二度と戻らなかった海竜の国にいる自分の仲間達を、やはり愛してもいたのだろう。
(つまり、イブさんは私を呼んでいただけで、それ以上は何もしていなかったってことなのかな?…………今回は色々あって繋がりやすい状態が整ったとは言え、あわいの列車がここを恩寵の下車駅として列車を走らせてくれたからこそ、私はここに来れたのかもしれない)
そうなると、あわいの列車とは何なのだろう。
列車の祟りものだと聞いていたが、こうして恩寵としての行き先へ運んでくれる側面もあるのだという。
またしてもこの世界への不思議さを深め、ネアはこちらを見ているエメラルドグリーンの瞳を見上げた。
「…………これを」
そっと、ネアの手の平に柔らかなクリームイエローの巻貝が乗せられた。
檸檬色より白に近く、まだらに宝石質になっており、きらきらと淡い陽にきらめく。
その際に確かにイブの指にも触れた筈なのに、そこにあるのは空気のようなものばかりで、何の温度も感じられなかった。
「これを……………ほわ?!」
これをどうすればいいのかと尋ねようとして、ネアは驚きのあまり声を上げる。
いつの間にかそこは、先程までディノと並んで座っていたあの海辺の家の長椅子ではないか。
突然声を上げてきょろきょろしたネアに、自前の揺り椅子に座っていたアルテアがこちらを見て訝しげに眉を寄せている。
「ゆ、夢………?」
呆然と呟いたネアに、隣に座っていたディノが小さく微笑んだ。
そっと指し示された指先に自分の手の中を見れば、確かに先程受け取ったばかりの美しい巻貝がある。
「これを君に渡してしまったことで、あの場所が消え失せ、繋がりが絶たれたのだろう」
「ディノ……………、良かったです。先程のことを覚えていてくれたのですね?」
「うん。少しだけ曖昧になってしまったけれどね。…………そうか、領域外で得たものは、このようになるのだね」
指先でこめかみに触れ、ディノは小さく息を吐いた。
相変わらず窓の外には穏やかな波音が揺れ、あの美しい海岸が広がっている。
すっかり陽が落ちて滲むような青さに包まれていたが、先程まで立っていた砂浜と同じような形の海岸線が見えた。
ネアはそろりと足元を見たが、足紐はそのままあるようだ。
あの不思議な場所でも繋がっていたので、実は凄い足紐なのかもしれない。
「アルテア、選択の魔術で、この魂の欠片が侵食されないように保護してくれるかい?」
「……………は?」
とても嫌そうに顔を顰めて、こちらにやって来たアルテアは、ネアの手のひらの上にある巻貝に気付くと、どこか呆れたような目でネアを見つめた。
「よく、この状況で事故ったな…………」
「むぐる。今回のはご招待であって、事故ではありません!」
「どうしてこんなに側にいるのに、また誰かに呼ばれてしまうのかと思ったけれど、運命のない者の領域だとは思わなかった。……………ネア、あの場所はね、運命を持たない者以外は私より他に入れないんだ。私が側に居る時で良かったよ」
「ほわ…………そうなのですね…………、ディノが隣にいてくれて良かったです。…………あの竜さんは、どうなってしまったのですか?」
「あれはここにある魂の欠片から派生した、意思のある記録絵のようなものだ。あの場を離れてしまった今は、もう残っていないだろう。こうして欠片を残してはいても、新しい誰かに生まれ変わっているのだから、彼はそうあるべき時に望むように死んだのだと思うよ」
そう教えて貰って、ネアは目を瞬く。
彼は最初から自分は手紙のようなものだと話してくれたが、あんなに生き生きと目の前で喋ったり笑ったりしていた人なのに、こんなに簡単に消えてしまったということが何だか信じられない。
けれども、ディノが言うのだから、そういうものなのだろう。
(この世界は、とても不思議なところなのだから…………)
そう考えてふむふむと唸っていると、なぜかアルテアからべしりと頭をはたかれた。
「むが!ゆるすまじ…………」
「誰が原因の事故だって?」
「…………む。…………むぐぅ」
「一緒に巻き込まれてやったんだ。きちんと説明しろ」
「むぐぅ。気持ち良くお風呂に入って、湯上りの一杯をやりながら部屋着で読書をしている満喫っぷりの使い魔さんに言われても、何だか釈然としないのです…………」
「アルテアは、ここを気に入ってしまったのかな…………」
「余暇だと思うから、お前に補償を求めずにいてやっているんだが、そっちの方がいいのか?」
「む、そうなると、肩もみなどをして差し上げる羽目になるのでしょうか?」
ネアがそう言えば、ディノが困惑したように首を傾げてしまい、ネアは肩凝りというものについての説明をする羽目になってしまった。
大変羨ましいことに、魔物には打撲や捻挫と言う概念や、偏頭痛的な症状を持つ魔物もいるのに、すぐに疲労が治癒されてしまうことから慢性的な肩凝りという症状はないようだ。
そして、説明を聞き終えたディノは、とんでもないことを言い出したではないか。
「君には出来ないんじゃないかな。治癒にあたる行為になるからね」
「ほわ……………?」
「可動域が足りないな」
「ぐっ、私の可動域を貶す暴言は許しません!!」
「実際に、無理だろうが。諦めろ」
「むぐるるる…………」
「そんなに、肩の痛みを軽減する魔術を使いたいのかい?そういうことが出来なくても、私がいるだろう?薬を作ってあげるから、悲しまなくてもいいよ」
「な、何かが違うのです!肩もみは肩もみであって、服用薬では満たされない悲哀と、それが解消された時の達成感があるのです!!」
「ご主人様………」
肩揉みすら出来ない己の弱さに悲しくなったネアはここですっかり荒ぶってしまい、魔物達をたいそう困惑させた。
解決策として今度ディノが疲れている時に、肩を揉んであげるということで着地したのだが、そもそも肩こりという概念がなく、ご主人様が肩を掴むということだけで喜んでしまう魔物の肩を揉んでも、何だか違う効果しか生まない気がする。
そんなこんなで少し脱線してしまったが、ネアはその後、あの砂浜で見聞きしたことをディノとアルテアに全部話して聞かせた。
ディノの記憶が曖昧になってしまっている部分もあるので、ディノが来てからのことも合わせて伝えると、魔物達は途方に暮れたような表情になってしまう。
「……………一時期を境に妙に気質が変わったと思っていたが、あいつは元々建前と本音が随分歪だったからな。…………入れ替わっていたのか」
「私も気付いていなかったよ。…………ある日を境に、彼に興味がなくなってしまって、会わなくなってしまったんだ。中身が変わっていると考えたことはなかった」
「…………なぜでしょう。入れ替わりに気付いて貰えなかった竜さんを思い、とても悲しくなりました」
ネアはそれなりにイブを知っていたという二人の魔物の証言を聞き、とても悲しくなった。
これだけ高位な魔物二人が、知り合いの海竜の王様の中身が変わってしまったことに気付いていなかったのだ。
「だが、そう言われてみれば納得もいくな。この浜辺はモナだ。ただし、今の街が出来る前の、五百年程前のモナだな」
「ご、ごひゃくねん………。と言うことは、この素適な浜辺はもうないのですか?」
「ネアが前に泊まったホテルがあっただろう?あのあたりがここなのだと思うよ」
「むぎゃ!私のお気に入りの場所が、既に開発されています!!」
どうやら、素適な浜辺はすっかりリゾート開発されてしまったらしい。
悲しくなったネアは、イブが自慢していた素適なお家を鋭い目で見回した。
もうない場所であるのなら、せめてこの滞在の間にここを堪能し尽くさねばなるまい。
「ディノ、海竜さんの問題はとても重大なことですが、今はぽいです!」
「ネア…………?」
「開発されて失われてしまったこの景色を堪能するべく、今宵はここを楽しみ尽くしますよ!!」
「堪能するんだね……」
ごくりと息を呑み慌てて頷いたディノに、ネアは、今の優先順位的にはそちらが上位なのだと教えてやった。
「海竜さんのお話は帰ってからも出来ますが、このお宿を楽しめるのは今夜だけです!」
「ご主人様!」
「……………イブも、ろくでもない相手に伝言を頼んだと、今頃後悔してるだろうな」
「ふっ、既にいらっしゃらない方は荒ぶりようがありませんね。それに、用意されたパジャマにカーディガンまで着ているアルテアさんに言われたくありません!負けてなるものですか、私もパジャマに着替えます!!」
「…………アルテアとお揃いにするなんて」
「ディノ、残念ながらここにはふた組しかパジャマとセーターがないので、分け合いっこしましょうね」
「…………うん」
ネアはここで、少し大きめのパジャマの上を着てがぼりと羽織れるカーディガンでシャツワンピース風の装いとした。
ディノにはパジャマのズボンを差し上げ、手持ちの中から寝る時に着ていても楽なシャツ、或いはカットソー的なもののどれかを上に着るように言いつける。
「……………やり直しだな」
「ネアが虐待する…………」
しかし、ネアが着替えて部屋に戻ってくると、なぜか魔物達はさっと表情を強張らせた。
すかさず失格を申し渡したアルテアに、ネアは怒りのあまりにばすばすと弾んだ。
「なぬ。なぜなのだ。可愛いではないですか!多少モデルが微妙だと思っても、ここは褒めるのが紳士の礼儀ですよ!」
「ネア、君はいつもとても可愛いのだけど、…………もう少し着ようか」
「…………着丈を言っているのであれば、ぎりぎり膝まではあります」
「裾を引っ張るその調べ方だとだろ。手を離して真っ直ぐ立ってみろ」
「む?」
「……………ほら見ろ。やり直しだ」
「……………ネアが虐待する…………」
「解せぬ」
ネアは、なかなかいい合わせだと自負していたのだが、荒ぶる魔物達に、どこからか取り寄せたものかパジャマズボンのようなものを無理矢理穿かされてしまい、よれよれになって椅子に座る。
こんな海辺のお家で過ごすのだし、もこもこ靴下もあるのでそこまで寒くもないのになんとも過保護な魔物達だ。
ざざんと、波音が聞こえる。
(イブさんが、私を呼んでいたんだ………)
最初にあわいの列車に乗った後からずっと、この海岸線を窓から見た時のことを忘れられずにいた。
淡い色の合わせに魅せられていたこともあり、この景色は幾度となく思い出している。
詩的な美しさと、どこか胸に響く孤独の色を併せ持つこの浜辺の家で、魂だけになった海竜の王はどんな風に暮らしたのだろうか。
望んでいたものに近いものを得て、自分は幸せだったと言って微笑んだあのエメラルドグリーンの眼差しが、くっきりと心に残る。
(あの竜さんがまだ生きている人だったなら、お友達になってみたかったな………)
ネアは、ノアの心の動かし方は自分に似ていると思っていた。
その他にもたくさん、こんなところが自分に似ていると感じる人達がこの世界にはいる。
けれど、あのイブの求めた自由や手に入れた幸福の形は、この世界に呼び落とされてディノと生きていくと決める前のネアが欲しかったものの理想形に近く、それをまっとうした人を見るのは初めてだった。
(私は、海よりもどちらかと言えば森の中とかの方がいいけれど………)
この見ず知らずの世界にいる新しい自分で、頑張って働いて簡素な小さな家を持ち、自分に管理出来る範囲でそんな日常を慈しみながら、そこで静かに暮らせたなら。
今はもう一人では寂し過ぎるけれど、確かにそんな願いを持っていた頃があった。
だからこそネアは、そんな生き方をまっとうしたイブに惹かれる部分があるのだろう。
そんなことを考えるネアの横で、ディノとアルテアがあれこれ議論をしている。
「……………ああ。泥酔じゃない程度の酔い方だったのも、道を繋げ易くしたんだろうな」
「あの春闇の竜の酒そのものは、幸福や幸運などの祝福のあるものだから、そういう意味でも恩寵としての道を繋げ易くしたのかもしれないね」
「あのお酒は美味しかったです!帰ったら、またみんなで飲みましょうね」
「ずるい…………」
「私の魔物は、なぜに荒ぶり始めたのでしょう…………」
「飲んだばかりの時は普通だったし、私が来た時にはもう、酔っぱらっていなかっただろう?」
「あらあら、では帰ったら二人であのお酒を飲みましょうね」
「酔った君は、紐で繋いでおいてもいいのかな?」
「猟奇的な提案を却下します」
「ご主人様……………」
「こうしている今も繋がれているけどな」
「足枷反対なのです!ご主人様というものは、伸び伸びと放し飼いにするべきもの。紐で繋ぐなど、邪道と言わざるを得ません!」
今回はたまたま、形のない曖昧なものなどの象徴でもある春闇の竜のお酒を呑み、ネア自身もここに来たいと考えてしまったことで、道が繋がった要因となったのだろうと魔物達は考えているようだ。
「もしくは、あわいの列車に乗るくらいだからな、この邂逅が必要になる事態が近付いているのかもしれないな。海竜の戦は夏あたりだろ?」
「そう言えば、ちょうど今日のバルバでも、海竜さんのお話が出ていましたものね………」
「そのようにして、幾重にも場が整ってしまったのだろう。火を囲む行為や輪になって座る行為も、時として魔術儀式の形になる。どれが一番の要因なのかは分からないけれどね。………ネア、少しの間イブと二人にしてしまったけれど、怖くはなかったかい?」
「はい。不思議なのですが、あの方の側はとても落ち着きました。お亡くなりになっていなければお友達になりたいくらいにとても素適な方でしたので、もっと色々なお話をしてみたかったです………」
「浮気…………」
「むむぅ…………」
怖がっていたと考えて余計に落ち込むといけないと思い、ネアは正直に告白したのだが、魔物はそれもそれで寂しかったようだ。
とは言え、足紐があって心強かったと言ってしまえば、余計な運用を固定させかねない。
それだけは何としてでも避けなければだ。
(あ、…………)
そこでネアは、一つ、不思議だなと思っていたことを思い出したので質問してみることにした。
上手く話題を変えてみよう。
「ディノは、前回のあわいの列車の時のことをまだ何か心配しているようでしたが、私が気を付けた方がいいことはありますか?」
ネアがそう尋ねると、ディノは水紺色の瞳を揺らして少しだけ悲し気に微笑む。
そっと頭を撫でられ、ネアはふすんと息をつく。
「ごめんね、君を不安がらせたくはなかったのだけど、今回は良きものであれ、あわいの列車に乗るのは二度目になるだろう?あの時の誘導人は壊してしまったけれど、一度その先にいた何かに呼ばれてしまったという証跡は残る。あわいの列車と呼び合い易くなっていてもしにも次があるといけないから、イブが何かを知っていないか聞いておきたかったんだ」
「………そう言えば、結局獲物にされていたのはノアだったということ以外は、あの時のことはよく分らなかったのですよね?」
「うん。誘導人というのは装置の一部のようなもので、道を繋ぐだけの存在だからね。ノアベルトを捧げようとしたのがヴォジャノーイではないのは確かだけれど、何に引き渡すつもりだったのかまでは分らなかった」
「……………その良くないものが海のものだと、ディノは考えているのですよね?」
「あわいの列車の走る道は、魔術の系譜があるんだ。森を抜けて海に向かったのであれば、恐らく目的地はそちらの領域のものだろうね」
「しかし、ディノは私に海を警戒するようにとは言っていなかったのです。それが不思議だなと思ったのですが………」
首を傾げたネアは、目の前のテーブルにことりと置かれたパイナップルジュースに目を輝かせた。
アルテアが用意してくれたのだが、どこから出してくれたものか、海辺のお家に相応しいさすがの準備である。
ネアが大喜びでジュースを飲んでいる間に、ディノがこれまでは注意喚起がなかった理由を教えてくれた。
「ヴェルリアの近海は、幾つかの魔術誓約があって安心なんだよ。あの辺りにはノアベルトの誓約が根付いているから、君が最初に乗った列車が向かおうとした先にいるような者は、そこには棲みつけないんだ」
「まぁ…………。ノアはやっぱり凄いのです!!」
「かつての彼は、ヴェルリア王族を獲物としていたからね。ヴェルリア王家とは縁深い海を逃げ場とされないように押さえておき、他の呪いを利用して自分の網を外されないように手を打ってあるらしい。だから、あの辺りはノアベルトの敷いた呪いに触れないようにと、彼の守りを持つものや持ち物を、許可なく呼び寄せることは出来ない。それに、あの界隈はアルテアの統括地でもあるしね。二人の守護を受ける君にとっては安全なんだ」
「それで、あの島では楽しく海遊びが出来たのですね!」
「そうだね。そういうことだから、ひとまずヴェルリア近郊の海は怖がらなくてもいいよ」
「はい!」
すっかり安心してジュースを堪能していたネアは、揺り椅子に深々と腰掛け、ひどく遠い目をしたアルテアが気になった。
「…………アルテアさん?」
「お前は今度、俺がいない時に事故った分を紙か何かに書き出しておけ」
「なぬ。なぜなのだ…………」
「その二次被害が、俺にも来るだろうが」
「むぐぅ」
ネアはそれよりも自分の事故率を下げ給えな目をしていたのだが、そこでディノが恐ろしい一言を発して、ネアとアルテアは凍りつくことになった。
「帰り道は大丈夫かな。アルテア、帰りの列車が来たら、私達も色々と注意した方が良さそうだね」
「…………………は?」
「…………まぁ、帰りも列車になるのですね?」
「うん。ここは実際にある土地ではなくて、あわいの中に下車したところだからね。私とアルテアの二人がこちら側に来てしまっている以上、君を転移で連れ帰ることが出来るくらいの軸が外にはないことになる。無理な転移で迷ってしまうと危ないから、帰りもあわいの列車に乗ることになるね」
「……………アルテアさんが事故らないといいのですが」
「……………お前にだけは言われたくないな」
その夜は、かつて海竜の王だったイブが暮らした迷い家で、三人はのんびりとした夜を過ごした。
線路にアルテアが特殊な魔術を仕込んでくれたので、迎えの列車が来る時間を逃してしまうことはなさそうだ。
ざざん、ざざんと波が鳴る。
心配ごとを一つ残していったとはいえ、美しい海辺で、海で生まれて森に憧れたあの竜に会えたことを、ネアはこっそり運命に感謝した。
胸の中にぽとりと、美しい絵のような海辺の情景が落ちる。
ディノに預かって貰ったクリームイエローの巻貝は、このあたりの浜辺にはよく落ちているそうだ。
そう言えば、モナのホテルでお土産に買ったトトラの貝も、もう少し色味が強いものの綺麗な檸檬色をしていた。
アルテアの美味しい海鮮料理に舌鼓を打ち、蝋燭の灯りと海からの灯りで過ごす、穏やかな海辺の夜がゆっくりとふけてゆく。
また朝になれば、あの美しいエメラルドグリーンの海が広がり、灰色の空が広がっているのかもしれない。
この素敵な家で過ごした夜のことを、ネアはきっと忘れないだろう。
あの穏やかな瞳で微笑んだ人の魂を持つ誰かに、ネアは会ってみたかった。