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271. 海辺の家で過ごします(本編)




ざざん、ざざんと波音が響く。


穏やかなエメラルドグリーンの海は、灰色の空を映して少しだけくすんでいる。

その色の変化が例えようもなく美しく、白に近い色合いの砂浜に寄せては返す。



浜辺に咲く昼顔のような花は、波間の祝福を受けた魔術の花なのだそうだ。

この海辺がかなり魔術の潤沢な土地であることを示すもので、ディノとアルテアの見解では前回のあわいの列車事件で訪れたモナの近くの砂浜のあたりだろうということだった。



でもなぜか、二人ともその正確な位置までは分からないのだ。





「ネアは、この景色が気に入ったんだね」



ディノにそう言われて振り返ると、ネアはふすんと頷いた。



「ここの方が夢で見るような特別な美しさがあるのですが、…………私が以前暮らしていた屋敷の空気に似ているような気がするのです。今の私には、ディノやアルテアさんや、リーエンベルクの皆さんがいるので、この、どこか孤独な透明感のようなものを、ただ穏やかに眺められるようになったのでしょうか…………」



ネアがそう言えば、ディノは静かに目を瞠った。



「…………君の住んでいた、あの家かい?」

「はい。………でも、似ているのは空気だけですよ。………ここの海の色合いは独特ですね。灰色と灰色がかったエメラルドグリーンと、砂浜の色に淡いピンクとラベンダー色のお花。…………寂寥を滲ませた淡い淡い色のパレットを見ているようで、でも、なぜかとても魅力的で目が逸らせなくなってしまいます…………」



ネアはリビングキッチンのようなその家の中央にある部屋の、食卓の椅子を海の方に向け、飽きずに窓の外を見ていた。

自分も椅子を一つ隣に並べると、そっと隣に座ったディノが、ネアと同じ方に視線を向ける。



「…………ネア、ここは恩寵の土地だけれど、あまり魅入られないようにしておくれ」

「……………ディノ?」

「喜びや願いを叶えるからこそ、迷い家は魅力的なのだという。…………正反対のものもあるけれどね。………人間の中には、そんな迷い家に魅入られてしまって、己の持ち物を全て捨ててしまってその家を探して彷徨う者がいるそうだ」

「…………ディノ、不安にさせてしまいましたね?」

「……………ネア」



悲しげな声に瞬きをし、ネアは隣に座った魔物の頭を、伸び上がって撫でてやる。

ぐりぐりと頭を押し付けてくる魔物は、すっかり不安になってしまったようだ。



「何というか、とても惹かれるのですが、この風景に見える孤独を見ていられるのは、今の私がもう孤独ではないからのような気がするのです。命綱があるから見通せる絶景のようで、不思議な贅沢さについつい眺めてしまいました。なので、ディノを置いてどこかに行ってしまったりはしませんよ?」

「…………君が、あまりにも遠くを見ているから、少しだけ怖くなったんだ」

「まぁ…………」



ネアは少しだけ驚いた。

ディノが、このような問題で怖いとはっきりと言葉にすることは珍しい。

そうなると余程怖かったのだろうと思い、唇の端を持ち上げて微笑むと、ネアは椅子の上から、隣の魔物製の椅子の上に移動した。



「えいっ」

「ご主人様…………」

「これで、ディノは私を捕まえていられますね。少しだけ安心出来ましたか?」

「うん………」

「それと、アルテアさんが消えました………」

「入浴してくるそうだよ。君が使う前に、不備などないか確かめるのだそうだ」

「…………おのれ、先程からとても堪能しています」

「…………気に入ったのかな」

「さては、気に入りましたね。…………すぐに事故ってしまうアルテアさんが一人なので心配なのですが、以前のモナの時のように、海から怖いものが来てしまったりはしませんか?」



ネアが、一人で浴室にいる使い魔を心配してそう尋ねると、ディノは微笑んで大丈夫だよと教えてくれた。

しっかりとネアを抱き寄せて、少しだけ安心したのか深く息を吐く。



「そのような穢れは感じないから、安心していい。ただし、モナの周囲の海がそのような土地であることは変わらないから、窓は開けないようにね。ヴォジャノーイが海から上がってはこなくても、この土地の海が埋葬地であることは確かなんだ」

「…………ほ、ホラー展開にはなりません?」

「ほらー、かどうかは分からないけれど、ここに漂う静謐さは、終焉の気配なのかもしれないね」

「む、むぐ。…………ディノが怖いといけませんので、今日は一緒にいましょうね。仕方がないので優しいご主人様は手を繋いで差し上げます!」

「ご主人様……………」



魔物はもじもじしながら、さっと紐を持ち出してきた。

合流した時にネアがアルテアに紐で繋がれていたので、自分もやって貰えると思っているらしい。

期待に満ちた瞳の煌めきに、ネアは断ると荒ぶりそうなので、ここは諦めるしかないと腹を括る。



「むぅ。仕方ありません。ディノを紐で繋ぎます…………」

「ご主人様!」


途端に嬉しそうに微笑みを深めた魔物は、いそいそと腰ベルトを装着した。

ネアはたいへん慄きながらではあるものの、震える手でベルトの留め金のところの輪に紐を通して、魔物を紐で繋ぐことに成功した。

本当はこのベルトはリードのようなものも装着出来る作りなのだが、それを繋いでしまったら何かが終わってしまう気がして、ネアは頑なに紐や縄で運用していた。

とは言え、自分もリードをつけてしまう系の魔物であるノアから見ても、この状態はかなり異様なものであるらしい。



(で、でも、道でばったり遭遇したベージさんからは、素敵な紐ですねって爽やかに言って貰えたから、見る人の心模様によっては、迷子紐のような感じでおかしな趣味には見えないのかも…………?)



すっかりはしゃいでしまった魔物を引き連れて、ネアは引っ張って欲しい系の魔物の為に屋内をあちこち散策してみた。

そうすることで、己の心を鎮めていたのである。



(それにしても、なんて素適な家なのかしら……)



ここは、必要なものだけを揃えた居心地のいい簡素な家だ。


厨房にあたる区画には綺麗なお花の絵付けをされたタイルがあって、どこの窓からも砂浜と海が見える。

玄関近くの道具部屋を捜索してみると、釣り道具にボートの他に、庭仕事用の道具や、植物の栄養剤、家の修繕などをする為の道具もあった。



「元々ここにあった家が、失われた後に土地の魔術に再現され、迷い家になったようだね」

「と言うことは、この素敵な家に、以前は住人の方がいたのですね…………」

「私は、こういうものには詳しくないけれど、道具を見る限りは魔術を多用しない生活をしていたのだと思うよ。けれど、この土地に家を建てるということは、かなり高階位の魔術を扱える者でもあったのだと思う」

「この砂浜には、本来はお家を作れないのですか?」

「この家そのものに込められた祝福の中には、森のものがある。外にある木や花なども、海の系譜の植物ではなく森の系譜のものだね。森の祝福と海の祝福を織り交ぜ、上手く融合させることが出来るというのはかなりの調整を必要とする筈だ」



ネアはここで、トトラが海を見て大喜びしていた姿を思い出した。

トトラは森の賢者なので、自身の意志では海を訪れることは出来ないのだという。

一緒に朝食を摂った時、ディノが結界を強化してあげないと外には出られなかったのだ。



「もしかして、森の方が海に憧れて頑張ったのか、海の方が少しでも森の要素を取り入れようとしたのでしょうか…………?」

「恐らく、この土地を扱えたのだから後者だろうね。海から離れずにいる中で、それでも少しでも陸の暮らしに似たものをと、この家を建てたのだろう。陸の者が海辺で暮らすように暮らしてみたかったのかな………」

「そうなると、その方はきっとこの家を大事にしていたのでしょう。だから、こうして綺麗なまま、迷い家として残ったのかもしれませんね」



ざざんと、波音が遠く聞こえる。

ネアはよく使い込まれていて、古びた艶が美しい釣竿に触れた。

残された道具的にはここに住んでいたのは男性のようだが、体格のいい女性などもいるのでどちらとは断定出来ない。

とは言え、背の高い御仁だったようだ。



ボートもあるので、このボートで少し沖に出て海釣りをしたのだろうか。

確かこのあたりの海域は、遠浅だった筈だ。

ボートで漕ぎ出すと、その先にある急激に深くなる部分というところで釣りが出来るのかもしれない。



「…………ふと心配になったのですが、埋葬地にもなっている場所で、釣りをしても大丈夫なのでしょうか?」

「海の系譜の者なら問題ないだろう。ましてや、高位の者だったようだからね」



ネアは、この家に住んでいた誰かが、ぷかぷかとボートで海に浮かび、のんびり釣りをしている姿を想像してみた。

何だか長閑で可愛いので、穏やかな気質の人だったのだろうか。



「なんだ、釣りにでも行くつもりか?」


不意にそう声がかかり、振り向くとお風呂上りのアルテアが戸口から呆れた顔でこちらを見ている。



(む。………あの用意されていたパジャマを着たな………)



そんな、上半身にはまだタオルしか羽織っていないのでパジャマの上も着てくれるのか気になるアルテアは、ネアがディノを腰紐で繋いでいるのを見ると一瞬眉を寄せたが、そこは触れずに釣り道具を手にしたネアに視線を戻す。



「………いえ、ディノを紐で引っ張るついでにお家の中の探索をしていたのです。このお家を作ったどなたかは、釣りをしたのかなぁと考えていたところでした」

「さてな。………それと、湯を張っておいたぞ。入るんだろ?」

「むむ!いよいよお風呂ですね」

「アルテア、何も問題はなさそうかい?」

「ああ。驚くくらいに普通の浴槽だな。引いている水も、水を熱する魔術も、あえて森のものを使ってある。特に何の問題もないが、念の為に繋いでおけ」

「ああ、そうしよう」

「………………む?………それは、魔術的なやつでしょうか。それとも物理………む、むぎゅ?!」




そして半刻後、魔物達の説得に失敗したネアは、ひと睨みで敵を殲滅出来るくらいの獰猛な気分で、足首に紐を結ばれるという悲惨な状態のままお風呂に入っていた。


勿論魔術でも繋いであるのだが、何だか不安になってしまった過保護な魔物達の蛮行により、この足枷縛りも強要されてしまったのだ。

今日は何かと縛ったり縛られたり続きであるので、これが魔物の最近の流行になっているのでなければいいのだが。



(なぜにこの素敵なお風呂で、足枷つきなのだ…………)



ご主人様の暗い眼差しにディノは慄いていたが、他にもやりようはあったと思うのだ。


幻惑の世界に落ちた時のように、浴室に目隠しで同席してもいいのだが、あの時の措置がたいそう恥ずかしかったらしく、その提案をしたところ魔物は儚くなりかけてしまった。

ここでディノが死んでしまったら困るので、そうならないように足枷案が出たのだが、これではまるで護送中の囚人のお風呂ではないか。


いっそもう、ここまでしなくてはいけないのであれば入浴は辞退すると言いたいところだが、ネアがこのお風呂を楽しみにしていたと知っている魔物は、そう言えば涙目になってしまう。

結果、渋々ネアは足枷つきで入浴する羽目になってしまった。



「むぐぅ…………」


ディノ繋ぎ用の紐とは違う、かなりの長さの布紐を出して貰ったが、こうして浴槽に浸かっているとその紐がびしゃびしゃになっているのが心配になる。

精神衛生上よろしくないのだ。



そう考えてぐるると唸っていたものの、素適なお風呂にすぐに心を蕩かされてしまった。



「むふぅ…………」



青い青い浴槽の中には、エメラルドグリーンのお湯が揺れている。


洗い場と浴槽が別になっているお風呂なので、浴槽のお湯を入れ替える手間はかけていない。

ほこほこと湯気の上がる浴槽には、アルテアが森の香りのする素適な入浴剤を入れてくれていた。

お湯を張る際にも魔術洗浄をかけてくれて、その上入浴剤の質でもお湯を浄化保護することで、おかしなものが入り込まないようにしてくれたらしい。


年頃の娘さんのように、お父さんならぬ使い魔さんの後のお湯は嫌だと言うこともなく、ネアは有難くあたたかなお湯に浸かる。

魔物達は常に魔術で余分を弾き、事故にでもあってびしゃびしゃに汚れない限りは綺麗にしている。

後のお湯くらい、特に嫌厭することもなかった。



ざざんと、また遠くで揺れる波間を見ていた。



家の、海側の部分にもオリーブの木が植えられているようで、窓の左上にはオリーブの枝が額縁のようにかかっている。

そんな緑の葉に縁どられた窓から見る海岸は、一枚の絵のようで心が和んだ。



(この、青い浴槽も素敵だな………)



家造りの際に参考にしてもいいのだが、きっと、こんな海辺にある家だから素敵なのだと思う。

であればこの時間を贅沢に楽しみ、海辺の素敵なお家で青い浴槽のお風呂に入ったことを覚えておこう。




「うむ。いいお風呂でした」



ネアがそう言いながらほこほこになってお風呂から出てくると、浴室の外に椅子を引き摺ってきて待っていた魔物達が、なぜか呆然とした面持ちでこちらを見るではないか。



ネアが首を傾げると、ディノはふるふるしたまま頷いた。



「………………うん。お帰りネア」

「普通に出てきたな…………」

「おのれ、なぜ事故らなかったのかという驚愕の眼差しはやめるのだ!!」

「やっぱり、これからは紐で縛った方が安全なのかな」

「案外それでいけるのか…………」

「そして、紐縛り安全神話を打ち立てるのもやめるのだ!」



ネアは、布紐凄いで盛り上がりかけてる魔物達を牽制しつつ、びしゃびしゃになるかと思ったのだが、魔術仕掛けで防水だったらしい足の紐の解除を願った。

しかしなぜか、魔物達はそっと首を横に振るではないか。



「必要があれば、手を繋ぎます。足紐はいけません」

「ネア、これがあれば君も動きやすいだろう?」

「精神的な何かが削られるのです。それに、ご主人様というのはリードを持つ側であって、紐で捕獲される側ではないのですよ?」

「では、私を縛って君が紐を持つかい?」

「せめてそれで…」

「いや、魔術階位に紐付ける形で、シルハーンか俺が紐を持っていた方が安全なのかもしれないな。このままの形にしておいた方がいい」

「むぐぅ!」



せめてディノがお風呂に入っている間は自由になれるかと思えば、ディノは今日の入浴を見送るそうだ。

ネア達と違い、毛だらけの穴熊たちにぎゅうぎゅうやられていないし、あまりネアから目を離したくないのだという。


では少し早めにこのお家から失礼させていただくかと言えば、よくは分らないが何かがこれからだという感じがするので、やはり泊まった方がいいのだそうだ。



「…………と言うことは、またあの隠し部屋の時のように、三人で並んで寝るのですね?」

「寝台を狭く感じるなら、私は椅子でも構わないよ。眠っている君をずっと見ていられるから、心配しなくていい」

「怖っ」

「ご主人様……………」

「……………あの広さなら問題ないだろう。ただし、お前は暴れるなよ?」

「あら、私は寝相はいいのですよ」

「ほお、良く言えたな……………」




三人はその後、何となく気が抜けてしまい、穏やかな時間の流れる海辺の家で、のんびりと思い思いの時間を過ごした。



アルテアは自前の揺り椅子のようなものを取り出し、実は一番の絶景スポットである寝室とリビングキッチンの部屋の間にある大きな窓の前のところで読書を始めているし、ネアは窓辺を向いた長椅子のところでのんびりとお茶をしながら、ディノから海の魔術に纏わる話をあれこれと披露して貰っていた。



(ふふ。何だか、ちょっと老後の生活みたいだ…………)



老後の別宅では、こんな風に過ごすのだろうか。

そんなことを考えながら、ネア達は特に事件も起こらない穏やかな時間を堪能した。




ざざん、ざざんと波音が揺れる。



ゆっくりと陽を落してゆく夕暮れの海辺は、薄曇りでもどこまでの青いその空の裾に菫色を滲ませ、光を孕む海のその色の方が明るく輝く。

夜の海になると、きっと曇天の空よりも海の中の方が星空のように煌めくのだろう。



そんなことを考えながら、夕暮れの砂浜を見ていた時のことだった。





「やれやれ、やっと繋がったか」



ふわりと誰かがそう呟き、ネアは目を瞠る。



(え、……………?)



あたりはどこまでも穏やかな灰色に白んだ空で、白っぽい砂浜で、エメラルドグリーンの海だ。

砂浜には白ピンク色の夕顔のような花が揺れ、波打ち際には檸檬色の巻貝が落ちている。



そうして、あの男性がこちらを見ていた。



白みがかった長い水色の髪を引き摺り、こちらを見る瞳は澄んだエメラルドグリーンだ。

この海の色のように淡く澄明なその瞳にみつめられると、ネアは不思議な静けさに包まれるような気がする。




「あなたは、…………どなたなのでしょうか?」



不思議と、怖さはなかった。

ただ穏やかで優しく、心のどこかでこの男性は自分の味方だと確信している。

いつだったか、祝福とそうではないものの差は、体感すれば分るとエーダリアが話していた。

そんなことを思い出し、だからだろうかとネアは考える。



多分、そう言えば、もしかしたら。

そろそろ、誰かの名前を呼ばなければいけない。


でも今は、まだ大丈夫。

ここは安全だし、この時間は貴重な財産になる。

足首に結ばれた布紐を見て、ネアはこれは何だったかしらと首を傾げた。




ざざんと、波が鳴った。



優しいこの海の色の瞳をした人は、穏やかに微笑みこちらを見る。


くたびれたような白いカットソーめいたシャツに、クリーム色の麻のようなパンツを履いている。

ぎゅっと絞った腰帯は色とりどりの宝石がついているけれど、他には装飾はなく足は裸足だ。



「………俺が誰なのかとは、少し難しい質問だな。俺はもう、この世界には生きていないものだ。魂は新しい体を得ているし、肉体は不愉快な奴に奪われた。…………ここにあるのは、いつかこうなった時の為に残しておいた、魂の切れ端。俺の残像のようなものだ。………そうだな、手紙と言えばいいのかな」

「…………もしかしてあなたは、あの海辺のお家の家主さんでしょうか?」



ネアがそう尋ねると、男性は笑い皺が素敵な笑顔で、いい家だろうと笑う。

自分のお城を離れて、あの家で穏やかな余生を過ごしたくて建てたのだそうだ。

友人である森の系譜の妖精達や魔物達の力を借り、あの家が完成した時には嬉しくて堪らなかったのだという。



「絵を描くのと、本を読むのが好きでな。あの家で一人で暮らしていた。海で魚を釣り、自分で料理して港の方の市場に買い物に行って、擬態薬を飲んで森の友人達と食事をしたりして」

「…………あなたは、海の系譜の方なのに、森が好きだったのですね?」



そんなネアの質問に、男はどこか悲しそうに微笑んだ。

淡い瞳がきらきらと光り、唇は微かな苦笑にも似たカーブを描く。



「そうだな、こういうことは時折あることなのだ。…………俺はきっと、場所を誤って生まれたのだろう。海のものが陸で生まれるように、陸のものが海で生まれるように、俺は誤って海に生まれ落ちたのだな」



その言葉は深く深く、ネアの心に響いた。

いつかの自分が嘆いたことを、こうして幸せになったからといって、簡単に忘れてしまうことは出来ない。



「………そのようなことなら分る気がします。私はここではない遠いところで生まれたのですが、そこで幸福だった頃もなぜか、どこか遠くへ行きたくて堪りませんでした。今暮らしている場所に来て初めて、自分に見合う土地や空気を得たような気がします。………身勝手なことですが、私はそこで生まれるべきだったのではとさえ思うのです」

「では、君を呼び落とした者は、良い仕事をしたということだ」



そう微笑んだ男性に、ネアは目を瞬いた。

迷い子ということだけではなく、目の前の男性はネアが違う世界から呼び落とされたことすら知っているような気がする。

微かに息を詰めれば、死んでみると分かることもあるのだと男はのんびりと笑った。



(死んでみると………?)



「…………あなたは不思議です。………過去のあなたが残した手紙だと言うのに、お喋りが出来ます…………」

「そのように切り分けて残した、自分の魂の欠片のようなものだからだろうな。上手く動かないことが多いが、久し振りに君がこの海を思い出したから、こうして繋がったのだろう。どうなってしまったのかと思っていたが、無事でいてくれてほっとした」



ざざんと波が鳴り、ネアは、海に背を向けて立っている男性をまじまじと見つめた。

先程まで夕暮れの青さに包まれていた海辺は、今はまた穏やかな薄曇りの午後の日差しに戻っている。

それともこの色合いは、霧がかって霞んだ夜明けだろうか。




「……………あなたは、私を知っているのですか?」



そう尋ねると、彼は目を丸くしてからくすりと笑う。



「そうだと威張りたいところだが、正確には違う。君のように強い守護を持ち、海に焦がれず、不条理さと死を知り、この世界にひしめくどんな種族とも少しだけ違う魂の持ち主を探していた。………何よりも、この世界の運命を持たない者を」



その言葉にネアは小さく息を飲み、どう答えるべきかを悩み沈黙する。

それは秘密なのだ。

秘密と言えるかどうかは難しいかもしれないが、初めて会う人に言うことではない。



「警戒せずともいいさ。運命を持たないものは様々で、決してその在り方は唯一ではない。君にはそれなりの秘密や覚悟があるのだろうが、そうであると特定されたことは、君を脅かすものではない」

「と言うことは、運命を持たないというひとは、他にもいるのでしょうか?」

「ああ。俺もそうだ。だから君を見付けられたのだろう。と言うか、ここに入れるのはそういうものだけだ」

「……………あなたも?」



思いがけない答えに目を丸くしたネアに、男性はからりと笑って、長い髪を少しだけ引っ張った。



「やれやれ。この長い髪はなぁ。踏んでしまうので邪魔くさいと思って何度も切るんだが、これが俺の魂の形なんだろう。すぐに伸びてしまう」

「そんなに綺麗なのですから、結い上げておけばどうでしょうか?」

「頭が重いんだ。足元まであるだろ」

「むむ。確かに、かなりの長さですね…………」

「でもまぁ、仕方ないな。自由に暮らせたこの幸福な時間が与えられたのだから、これくらいの不自由はな」



ネアはそう呟いて微笑んだ彼の目元に、微かな鱗の煌めきを見たような気がした。

白に近い水色のような煌めきで、目を凝らそうとすると消えてしまう。

瞬きをするともう、目の前に立っている男性の姿には、鱗など見当たらなかった。



「…………あなたは、竜さんなのでしょうか?………と言うか、竜さんだったのですか?」



そう尋ねるとエメラルドグリーンの瞳を細めて笑い、男性は頷く。



「ああ。昔は竜だった。だが、この通り偏屈ものでな。海を嫌う俺を嫌った仲間の一人に体を奪われてしまった」

「……………体を?」

「乗り換えの魔術の一種のようなものだ。そいつは竜の病を得て死にかけていたから、新しい体が欲しかったんだろう。単純な魂の入れ替えかと思ったのだろうが、残念ながらそいつの体には俺の魂は収まらなくてな。うっかり弾き出されしまったところ、奇妙なことに自由になった」

「…………ちょっとよく分らないのですが、竜さんは体がなくても問題ないのでしょうか?それとも、その事件がきっかけで死んでしまったのですか?」

「そうそう容易く滅びはしないさ。これでも俺は王だ。………いや、それは決して望ましいことではなかったが。………魂が頑強だったのか、少しばかり世界の理を外れたものとして、滲みの死者や祟りものに似て非なる者として、こうしてここで穏やかな余生を送った。本来の肉体を奪われたことで、俺には定められていた運命がなくなったからな」



柔らかな風が長い髪を揺らす。

だからさっき、この男性は魂の形がこうだから髪を切れないのだと言ったのかと得心し、ネアはそんな男性の横顔を眺めた。



「これは、俺の魂がここに記した手紙のようなものだ。俺はここで望んでいたものに近い余生を送り、魂がこうして形を成していることが出来なくなった時に、滅びて去った。君が暮らす今の世には、俺の魂を持つ新しい誰かがいるんだろう」

「なぬ。………いよいよこんがらがってきました………」

「そうさなぁ、人間の子供には少し難しいか。だが、こんな風に作られた空間で俺の言葉を受け取れる、俺がこれぞと思う者が、君しかいなかったのだ。どうか許してくれ」

「…………むぅ、謎だらけですが、条件に見合った相手として見付けたからこそ、私を知っているのですね?」

「ああ。細かいことは無理に理解しなくてもいい。ただ、これから言う言葉を覚えておいてくれ」




きっと、心の豊かな優しくて強い人だったのだろう。


そう感じさせる温かくて美しい声に、ネアはこくりと頷く。

この土地に呼ばれたことが恩寵だと言うのならば、彼は決して悪いものではない筈なのだ。


そして、こうして向き合って話をしているこの男性が、ネアは何だかとても好きだった。



(きっとこの人は、思い残すことがないとはいわずとも、満足して死んだのではないかしら………)



その穏やかさと柔らかさに、ネアは惹かれた。

こんな風に突然呼び出されて何かを頼まれてしまっても、煩わしいだとか、怖いという思いは一切抱かない。

それは多分、どんな訪問理由であれ、この美しい海を見られて良かったと思う心の動きに似ている。




こくりと頷いたネアに、男性は穏やかに深く微笑んだ。


その微笑みは、澄んで洗われ、色を失くし穏やかに澄み渡ったもの。

この砂浜の穏やかさに似ていると言ったら、森に憧れたひとは悲しいのだろうか。




「海竜の王が滅びようとしている。そろそろ、そちらの世界でも海竜の戦が行われる筈だ」



「……………!」


唐突に鋭さを増したその言葉に、ネアは愕然とした。

何度かネアの周囲で交わされ、囁かれていたその話題が、こんなところで突きつけられるとは思ってもいなかったのだ。



「だが、今代の王には正当な継承が行えない。その魂が、本来の王のものではないからだ」

「…………あなたは、海竜の王様だったのですね?」



ネアが呆然とそう呟けば、男性は肩を竦めて苦笑する。



「愚かな王だと笑うか?陸と森に憧れ、肉体を奪われても少しも悲しくはなかった。それどころか、海竜の体から解放され身軽になると、俺はここで、魂に残された時間を気儘に自由に生きた。もしかしたら、その時間を無駄にせずに、俺は自分の体を取り戻す為に戦うべきだったのかもしれない。………だが、君と同じように、俺は、ずっと遠くに行きたくて堪らなかったし、この海辺を離れることはどうしても出来なかったが、ここでやっと自分の望みを叶え、幸せだったんだ」



幸せだったと微笑んだひとを、ネアは単純に眩しく思う。

出会ったばかりなのに、この人が幸せになれて良かったと思うのはなぜだろう。



「…………世間一般的にはそれを愚かだと言う方もいるかもしれませんが、私は自分もそのような気質なので、あなたが、幸せだと言える日々を過ごせて良かったと思うばかりです。………でも、そんなあなたが、魂の欠片を手紙のようにしてここに残すくらい、その正当な継承が出来ないということは、困ったことなのですね?」

「ああ、そうだ。継承が正しく行われなければ、海竜から海を治める資格が失われる。海竜の戦で争われる海竜の至宝は、この海というものへの誓いの形でもあるのだ」

「それを分かっていたのなら、魂が残っている内にどうにか出来なかったのでしょうか?」

「気付いた時にはもう、俺はこの魂の一欠片しかここには残っていなくてな。………内側が違うからといってその権利が失われているとは思わなかったが、こうして時が進んでもそれが是正されなかったということは、この世界の運命においては海竜は滅びる定めにあるのだろう。………だからこそ、運命を持たない子供に、この言伝を誰かに届けて欲しかったのだ」



ふっと、エメラルドグリーンの瞳が揺れた。

ネアはその眼差しが自分の背後を向いたことに気付いた。



「それでこの子を呼んでいたのか。でも、この子は私のものなのだから、こうして君の領域に呼ぶのは感心しないね」



あまりにも重い内容の伝言に固まっていたネアは、背後の気配に慌てて振り返った。

水紺の瞳に魔物らしい色合いを強めて、いつの間にかディノが立っている。



「ディノ…………」

「困ったご主人様だね。どうして私をすぐに呼ばなかったんだい?」

「む、………言われてみれば、謎にすっかり寛いでいました。………なぜ、ディノを呼ばなかったのでしょう?」



ネアがぎりぎりと眉を寄せて首を傾げると、海竜の王だったという男性がからりと笑う。



「すまんな、シルハーン。この子供は、俺に心の色が似ているようだ。違和感を覚えない色や温度のあまり混ざり込み、危機感が薄れてしまったんだろう。ましてやここは、特殊な場所だからな」

「それもまた、困ったことだけれどね」

「はは、違いない」



(……………知り合いのようだった…………)



あまりにも衝撃的な事実を聞かされてしまったせいで、ネアは後ろから自分を抱き締めている魔物の腕の中で、ほっと息を吐く。



この元海竜の王様が託そうとしている伝言はかなり重大な問題になりそうな事案だが、ディノがいれば一安心だ。



そう考えて空の端を見て、ネアはぎくりとした。



優しい色合いのエメラルドグリーンと灰色の空の境目のところに、どす黒い染みのようなものが広がり始めていたのだ。
















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