270. あわいの列車に乗りました(本編)
「むぎゃ!!!」
それは悲しい事故だった。
その日は、久し振りに遊びに来てくれたダナエとバーレンを招いて、アルテアがお料理を作ってくれるバルバの会がリーエンベルクの敷地内であり、みんなで楽しく過ごしていた。
春闇の竜のお酒というものをお土産で貰ったりして、遅れて最後に参加したゼノーシュもたらふくバルバ料理を堪能し、みんなでわいわいした後に解散した後のことだ。
エーダリアとヒルドは、ゼノーシュからザルツでの任務について話を聞くということで、一足先に本棟の方に戻ってゆき、ネアが悪酔いを警戒して最後に残しておいた春闇の竜のお酒をいよいよ飲むということで、そのお酒をお勧めするノアが残っていた。
勿論、隣にはディノがいて、アルテアも隣でボウルなどの片づけをしていたような気がする。
(あの温室の床は、石床だったのに…………)
老朽化が進んでいたわけでもなく、せいぜいネアが、バルバのときに悪さをした使い魔に対抗するべく、ばすばす弾んだくらいのものではないか。
とは言え、それですっかり床と地盤が弱ってしまったのか、なぜか突然、ネアの足元だけ床が抜けて地下の世界に落下したのだ。
運悪くちょうどその直前に温室の窓から首なし馬の亡霊が見えたので、ディノは、その馬が最近ネア達を翻弄している茶色い首なし馬なのかを確かめに窓の方に行ってくれており、ノアも心配そうにそちらを見ていた。
そんな時に、すとんと体が垂直落下したのだから堪らない。
咄嗟に腕を掴んだのはアルテアで、二人は諸共落ちた。
まったく謎としか言いようのない事件だったが、更なる謎は、落ちたそこに列車が来て、ホームと思しき場所に落とされたネア達は、謎めいたずんぐりむっくりした巨大穴熊のような者たちに、さぁさぁ乗り遅れるなよと言わんばかりに列車に押し込まれてしまい、何の準備もないままぶらり列車の旅がスタートしてしまったことだろうか。
ガタンゴトンと、規則正しくレールの上を走る列車の音が聞こえる。
ネアとアルテアは、呆然としたままがらんとした列車に乗せられていた。
「ほわ……………。可愛い花輪をつけた穴熊さん達に強要され、強制的に列車の旅が始まりました」
「……………地下?…………いや、単純な地下じゃないな。これはあわいの列車だ。…………そろそろ、お前じゃなかったら、俺を損なう為の陰謀論を推してもいいくらいの事故率だな」
「あら、今回のことはアルテアさんの虐めに端を発している事故ですので、アルテアさんの驚きの事故率としか言いようがありません。こうして巻き込まれてしまうのはたいへんに遺憾なことではありますが、素敵な冬の海が見えてきましたので、許して差し上げますね」
「……………冬海だと?」
アルテアが、ぎょっとしたように窓の方を見る。
窓の外には、偶然にもネアが先ほど見たいなと思っていた、穏やかで静かな海が広がっていた。
冬の海と言っても、淡い南洋の海のような色合いの海にやってきた冬だ。
海の色は淡いまま、空は優しい灰色になり、白に近しい砂の色には柔らかな灰色の影が落ちる。
海岸線はなめらかな弧を描き、たぷたぷと揺れる波に寄り添ってどこまでも続いていた。
(綺麗……………)
抽象画のような色彩の中で、砂浜に茂っているのはどんな植物だろう。
淡いピンク色の朝顔のような花を咲かせており、その花が時折風に揺れる。
薄紫色の花を咲かせるのは、ビテックスの茂みか、ネアの知らない他の花なのか。
誰もいない海辺は寂寥を滲ませた感傷的な光景で、ネアはそんな光景をいつまでも見ていられそうな気がした。
「………………くそ、時間軸までずらされたか、かなりの遠方に飛ばされたぞ。…………何でお前はそんなに余裕なんだ」
「うむ。この景色は以前にも見たことがあるので、あの時はどうにかなったからでしょうか。そして、頼もしい使い魔さんがいるので、食後の運動くらいで済むと考えております。…………ディノを呼んだ方がいいですか?」
「………………あわいの列車だと、駅に着かないと無理だろうな。カードはあるか?」
「はい。…………うぃっく」
「………………そうか。お前、春闇の酒を飲んだばかりだな?」
「ふぁい。いい気分なほろ酔いで列車の旅なのです!アルテアさん、二人であちこち観光しましょう!!」
「……………酔っ払いめ」
「むぐる。なぜに椅子になるのでしょう。まさか、アルテアさんもとうとう縛られたい系の魔物さんに進化…」
「やめろ。………酩酊状態ってのは、それも一種のあわいに近しい状態なんだ。その状態でお前を一人にしておくと、更にどこかに呼ばれかねないからな」
「むが!私は酔っ払いではありませんのでふ。ひっく」
「その状態のどこが素面なんだ。立派な酔っ払いだろうが!」
「むぐぅ。引っ張るべき三つ編みがありません。さては隠しましたね?」
「………………くそ、酔っ払いとあわいの列車に乗せられたとなると、最悪だな」
ネアは、三つ編みを隠した悪い魔物に不満を申し立てたが、アルテアからはお口に何か甘くて美味しいものを突っ込まれて黙らされた。
「むぐ」
「おい…………指を噛むな」
「むぐるる。美味しいものがもうありません」
「俺の指を噛んでも追加が出てこないのは確かだな。…………膝の上で弾むな」
「この角度だと、窓のお外が見えないのでふ!喋る椅子よ、角度を変えるのだ!!」
呆れた目で座席に斜めに座ってくれたアルテアに、ネアはご機嫌で窓の外を眺めた。
何度かアルテアに何かを言われ、こてんと首を傾げるとカードだといわれたので、我儘な使い魔には、首飾りからカードを取り出して見せてやる。
「まったくもう。そんなにディノとお話をしたいのですね?ディノは私の魔物なのですが、仕方ありません。ディノに甘えるのは少しだけですよ?」
「そのおかしな設定はどこから引っ張り出したんだ。………いい。お前はもう黙れ」
「むむ。椅子になったままカードを開くのは大変そうです。一度降りますね。なぬ。なぜに拘束椅子になったのだ。解せぬ」
ガタンゴトンと列車はゆるやかに走ってゆく。
ネアは、周囲に見えるふかふかとした座席らしくなく、座り心地がいいのか悪いのか謎な座面を訝しく思いながら、穏やかな冬の海が続くばかりの外の景色を、安らかな思いで眺めていた。
「……………前にもこの海を見たと言ったな?寸分違わず、同じ景色か?」
そうして静かに窓の外を見ていると、カードでのやり取りを終えたらしいアルテアが、小さく息を吐いたようだ。
耳元に、吐息の温度を感じる静かな問いかけが落ちる。
「む。また難しい質問をしてくる椅子ですねぇ。………寸分たがわずかどうかは分かりませんが、砂浜に咲いている花の色といい、同じ砂浜の違うどこかかしらと思うくらいにはそっくりですね」
「……………そうなると、お前はあわいのどこかから、この界隈に呼ばれ続けている可能性もあるな」
「もしくは、先ほどその時のことを思い出して、あの風景が実際にある場所ならば、今度行ってみたいなぁと思ったのでそれかもしれません!………………むぐ。なぜに椅子に頬っぺた摘ままれたのだ。許すまじ」
「そうか。完全にお前の所為だな」
「むぐる。と言うことは、またあの海辺の町のホテルに泊まるのでしょうか?オムライスを注文するのです」
「食い気しかないな」
ふわりと、髪の毛を漉く手の温度を感じる。
膝の上にしっかり抱き直され、ネアはたくさん食べたばかりのお腹を圧迫する拘束椅子に眉を寄せて唸り声を上げた。
「むぐるる…………」
「シルハーンも少し時間を置いて合流する。今回のあわいの列車には誘導人がいないだろう?恐らく、惑わせるものという側面ではなく、どこか祝福の地へ導くという意味合いのあわいの列車の方だな。恩寵として齎されているものを遮ると呪いに転じやすい。駅に着くまでは大人しくしていろよ?」
「うむ。この素敵な列車の旅にお招きいただいたのですね。それもこれも、私が偉大だからかもしれません。椅子になりたいかもしれない病の疑いのある使い魔さんは、私の偉大さに感謝してもよいのですよ?うぃっく…………」
「ったく。お前の酔いは、いつになったら覚めるんだ」
「むぎゃふ!肋骨のあたりやお腹を触るのはやめるのだ。そこを撫でても、美味しいお酒は出てきませんよ!!」
「なんでだよ…………」
窓の外を、静かな景色がどこまでも流れてゆく。
穏やかで柔らかなその景色を見ながら、ネアはふと、初めてあわいの列車に乗って連れて行かれた海のあたりに、何か曰くがあったような気がするなと考えた。
(何だろう。…………思い出せない………)
考えかけてやめる。
今はただ、この感傷的な海を見ていたい。
「いい感じに心が穏やかになってきましたね。これはもう、海辺の素敵なお家で、アルテアさんのパジャマでも着てのんびりごろごろしたいです。ほろ酔いで素敵な風景を見ながら眠れたらきっと幸せでしょう」
「……………俺だからまだ、そのお前の言動には何の意味もないのが分かるが、いい加減言動に気を遣えよ?共寝の誘いにしか聞こえないぞ……………」
「………………ほわ、アルテアさんが素敵なもふもふになって一緒に寝てくれるのですか?」
「やめろ」
「尻尾の付け根をこしこししてあげますよ?一緒に寝ましょう!」
「いらん。やめろ」
そんな話をしていると、列車は、どこかの駅が近いものか、徐々に速度を落とし始めた。
進行方向の先の方の窓を覗いてみると、連なる窓の向こうに、小さなホームのようなものが見えてくる。
やがて列車は止まり、ぷしゅりと扉が開いた。
「駅舎はありませんね。無人駅のようです…………」
「……………だが、家があるな。……………ひとまず降りるぞ。あわいの列車はどこで変質するのかが分からない。こうして無害な内に降りておいた方がいい」
「………………あの綺麗なお家はお宿でしょうか?」
「そんな訳あるか」
しかし、二人が列車を降りてみると、その家は今晩の宿にしか見えなかった。
台形の石の台しかないホームを石の階段を踏んで下りれば、白交じりにも思える淡い淡い砂色の浜辺に続く砂地が広がっている。
目の前にあるのは、忽然と砂浜に出現した可愛らしいお家で、ホームとなっている石や、砂浜まで続く砂地が白に近いくらいの淡い砂色である中、優しいミントグリーンの壁の家がぽこんと建っている姿は、絵本の一頁のようだ。
玄関の前には大きなオリーブの木が生えていて、家の敷地内には、こんな砂地で育つのが不思議な、淡いラベンダー色の花を咲かせたローズマリーの茂みがある。
「この壁は、木のお家をこの色に塗っているのかと思っていたのですが、白みがかったミントグリーンの煉瓦なのですね…………」
「誰もいないようだな。…………それと、この花びら…………」
ホームからそのお家の玄関まで、綺麗な赤い花びらが地面に撒かれていた。
よく観光地などでお客をもてなす為のものに似ていて、こちらの世界でも、このようなものは相手への歓迎と招待を示すものなのだそうだ。
玄関の扉は開いていて、入ってすぐのところには小さな丸いテーブルがあり、グラスに入ったジュースのようなものが二個並んでいる。
綺麗なクリームピンクの薔薇を一輪だけ活けた花瓶が横に置かれ、真っ白なカードには優美な文字で、ゆっくりお過ごし下さいと書かれていた。
「…………お宿です。何というか、新婚旅行的な………………」
「………………お前は少し黙れ」
「むぐぅ………………。あのジュースを飲んで、お宿でのんびりしてはいけないのですか?」
「お前が、普段どれだけ無頓着に生きているのかよく分かった」
「なぜにおでこを叩かれたのだ。解せぬ」
とは言え、二人はその家に入ってみることになった。
以前遭遇したことのある屋敷の魔物のように、入ったらおしまいという悪いものではなく、この家自体には何の魔術的な効果もないようだ。
「迷い家の一種だろうな。…………ウィリアムのテントにも同じような質があるが、ここは中が空だ」
ネアの手を掴んだまま、アルテアは器用に片手で腕を組む風のポーズになると、屋内を見渡して溜め息を吐く。
シャツにジレ姿でこちらに連れて来られているので、別荘に遊びに来た紳士にも見える。
「むむ?ウィリアムさんのテントと同じなのですか?」
「その場所にずっとあるものだが、見えるものはほとんどいない。招待されるか、見る為の資格がある者、或いは偶然その条件が揃って初めて辿り着ける家のことだ。…………よく、旅人が見知らぬ土地で迷っていると、食事の用意がされた無人の家に迷い込むという話があるだろう。土地の魔術の祝福が見せる幻影のようなもので、そこで得たものは現実にも反映される」
「む。現実にも…………?」
「雪山で迷い家で休んでも、それが幻影だからと言って凍える心配はない。実際に暖もとれるし、食事をすれば現実にもそのようなものを食べたことになる。…………ウィリアムのテントは、そういう迷い家を利用して作られたものだ」
「ほわ……………そうだったのですね。では、遠慮なくここでのんびりごろごろします。うぃっく」
「……………まずは、酔い覚ましを飲め。…………おい?!逃げるな!!」
ネアがしゅばっと逃げ出したのでアルテアは焦ったようだ。
すぐに後ろから捕獲され、持ち上げられてしまう。
「ほろ酔いで見る素敵な夢なのかもしれません。あのパジャマに着替えてごろごろするまでは、酔い覚ましなど飲みませぬ!!!」
「…………………は?パジャマだと…………?」
ネアが指さした方を見て、アルテアは暫く無言になった。
そこには、あたたかなもこもこした青灰色のケーブル編みのカーディガンと一緒に、どこかで見たことがあるようなパジャマが置かれている。
「もこふわな靴下までありますよ!むふぅ。これに着替えてごろごろのんびりしまふね。何と素敵な夢なのでしょう。ひっく………」
ネアが目をきらきらさせてそう言えば、なぜかアルテアは嗜虐的な魔物らしい微笑みで眉を持ち上げる。
「ほお、ここで着替えるつもりか?俺とお前と二人しかいないのに?」
「うむ。ちびふわもちびふわに着替えますか?」
「なんでだよ」
「安心して下さいね。ここにはもわもわはいないので、好きなだけちびちびふわふわしていても良いのですよ?」
「やめろ」
ネアはじたばたしたがなぜか下してもらえずに、暴れるなと頭を押さえてきたふとどきな手をがじがじ齧りながら唸り声を上げる。
そのまま屋内探索ツアーが始まってしまい、ネアはその小さな家の素晴らしさを知ることになった。
トイレの他には全部で四部屋しかない、さっぱりとした平屋の家だ。
玄関の横には、ボートや釣り道具のある小さな道具部屋があり、その奥に広がるのが海に面した大きな窓が素晴らしいダイニングキッチンのような空間だ。
その部屋の左側の部屋が浴室で、これまた海に面した素晴らしい浴槽がある。
浴槽は陶器のような素材の真っ青なもので、ここにお湯を張って海を眺めたらきっと素敵だろう。
白木造りの棚に用意されたタオルも、ふわふわのアイリス色をしている。
右側の部屋は寝室のようで、大きな寝台には白いシーツとふかふかの白いおふとん、砂色に水色がかったつやとろな肌触りの毛布もあり、大きな窓から海を眺めながらごろごろすることが出来そうだ。
ネアは見たことのない青い浴槽の浴室ですっかりはしゃいでしまい、アルテアをげんなりさせた。
「まぁ!素敵な海の見えるお風呂もありますよ!!」
「一緒にだったら、入ってやらんこともないぞ?」
「あら、ちびふわ用のあひる浮き輪を忘れてしまったのですが、それでもいいのですか?」
「…………いい加減のその設定の酔いから醒めろ」
「む?」
「お前がその気なら、こっちにも考えがあるからな」
そしてネアはその後、アルテアに腰紐をつけられるという屈辱的な扱いを受け、逃げないように拘束された。
紐の端を持ったアルテアは、すっかりくつろいだ風に寝台に横になりながら、ディノとカードでやり取りしているようだ。
ぽわぽわした思考のままのネアにはよくわからなかったが、ディノであれば迷い家の基盤の魔術を安定させられるそうで、ここでも安全に過ごせるのだそうだ。
つまり、この寛ぎようといい、アルテアもすっかりこの家が気に入ったのである。
(おのれ、一人だけ堪能している!!)
「むぐ!この紐の長さでは、あの素敵なお風呂に行けません!!」
「シルハーンが来るまで我慢しろ。それとも、俺と一緒に入るか?」
「おのれ、ご主人様を解放するのです。どれだけ懐いていても、紐で繋ぐのはご主人様の役目ですよ!」
「悪いが、そちらの趣味はないな。それとも、余程それを俺で試してみたいか?」
「やはり、そちらの趣味に染まり始めてしまったのですね。なぜ私の魔物は、みな変態と化してしまうのでしょう。アルテアさんは素敵な魔物さんでしたのに、惜しい方を亡くしてしまいました……………」
「やめろ」
「むぎゃ!なにをするのでふ!!」
うんざりとしたような溜め息を吐き、立ち上がったアルテアに横抱きにされたネアは、寝台にお持ち帰りにされた挙句、よいしょと寝かしつけられてしまう。
毛布もかけられてしまい観光気分な人間はむがむが暴れたが、添い寝してきた魔物にさらりと押さえられている筈なその腕が、どれだけ暴れてもびくとも動かない。
「なんだ?子守歌でも必要なのか?それともそろそろお前の情緒でも育てるとするか」
「むぐ!!浴室の探検をして、あの素敵な海を向いて座れるテーブルで湯上りのジュースを飲むのです!私の野望を阻止する悪者など、成敗してくれる!!」
「成敗出来るならな」
「むが!!子守唄を歌うのをやめるのだ!!!」
ネアは、意地悪でわざと子守唄を歌ってくる魔物に怒り狂って暫く暴れたが、途中で酔っ払いの大奮闘でぜいぜいしてしまい、遠い目になって天井を悲しく見上げた。
「………………むぐぅ、こんなに素敵なお家にいるのに、天井とアルテアさんしか見えません」
「贅沢な眺めだろうが」
「贅沢……………?」
ネアが虚ろな目をそちらに向けると、アルテアは露骨に嫌そうな顔をした。
ネアは、贅沢というのは、あの青い浴槽のお風呂のことではないのだろうかと考えているので、若干もう見慣れてしまった魔物ごときの美麗さでは心が癒されない人間の強欲さを悲しく思った。
(あの、青い青い浴槽に浸かって、綺麗な海を見られたらきっと幸せ)
そんなことを考えながら天井を見ていると、意識がふわふわとしてくる。
美味しいバルバのお肉や、ダナエの微笑みなどを思い出している内に、何だか眠くなってきた。
「意識は繋いでおいてやる。お前はすぐに事故るからな。シルハーンがこちらに道を繋ぐまでは寝てろ」
誰かのそんな声が聞こえた気がしたが、ネアは眠りの淵で、窓の向こうに広がる静かな海を見ていた。
ざざん、ざざんと静かな波が寄せては返す。
澄んだエメラルドグリーンの海が限りなく白に近い美しい砂をさらってゆき、クリームイエローの華奢な巻貝を残した。
穏やかな灰色の空はどこまでも同じ色だが、そこには無機質さはなく繊細で儚い美しさに胸が苦しくなる。
(霧雨が降っているのかしら。それとも、波飛沫が風にさらわれて飛んでくるのかな?)
とは言え、風はそこまで強くはない。
温度のない風を肌に感じ、この静かな海辺を歩くのは心地よいばかりだ。
胸の奥がすっとするようで、詩的な情景の持つ孤独さに目を細める。
その孤独はさらりとしていて、苦痛ではなかった。
もし、ネアがこの世界に一人きりでいたならば、こんな孤独こそが致命傷になっただろうか。
或いは、こんな孤独ならば、美しいのでそれも悪くないと堪能したのだろうか。
「………………あ、」
ネアはそんな砂浜を歩きながら、ふと、そこにいるのが自分だけではないことに気付いた。
少し離れたところに、誰かが立っている。
足元までの長い髪が風に揺れ、白みがかった長い水色の髪はディートリンデを思い起こさせた。
海のずっと向こうを見ている横顔は、はっとする程に美しい。
繊細で悲しげな微笑みが似合う美貌は、星空のような瞳を持つグレアムにも似ている。
波の音が聞こえる。
静かな海辺でそっと目を閉じ、その男性は淡く自嘲気味に微笑んだ。
その人がこちらを見たら、何を言おう。
ずっと、ネアのことを待っていてくれたのだろうか。
そう考えていたところで、ネアはふっと目を覚ました。
「………………む」
「ああ、目を覚ましたね」
そう言ってネアを見下ろしているのは、真珠色の三つ編みの魔物だ。
手を伸ばしてその三つ編みを掴みつつ、ネアはつい先ほどまで見ていた夢を思い出せなくなってしまったことを嘆いた。
(とても素適な夢だったのに…………)
なぜだか、それだけを覚えている。
あの砂浜から見る海が、どれだけ美しかったのかを。
「むぐ。ディノがいます」
「うん。迎えに来たよ。………でも、ここはやはり君にとっては恩寵のようだ。無理やり帰ってしまうことは出来ないから、今日はここに一緒にいようね」
「…………あのお風呂に入れます?」
「アルテアから、君はあの浴室が気に入ったようだと聞いたよ。この迷い家の魔術基盤は整えたから、安心して入っていい。ただし、窓を開いてはいけないよ?」
「ふぁい。……………それと、私に子守唄を歌う悪い奴は…………むぐ」
「酔っ払いが事故るのを未然に防いでやったんだ。感謝しろよ」
アルテアはいつの間にか、寝台の上から離れて寝室にある長椅子に腰かけていた。
白いシャツに麻混のズボンという寛いだ服装に代わっており、何やらすっかりこの滞在を楽しむ気満々である。
ディノに手伝ってもらってもそもそ起き上がったネアは、窓の外の明るさ的に、まだ昼間であることに安堵した。
なぜだか、少しでも長くこの色合いの海をじっくり眺めていたいのだ。
「ディノ、迎えに来てくれて有難うございます。…………エーダリア様達は心配していませんでしたか?」
「大丈夫だよ。ノアベルトが、すぐに恩寵の招きだと気付いたからね。アルテアからもカードに連絡が来たのだけど、一つだけ、君が酔っていると聞いたのがとても心配だったんだ」
「むぅ……………」
そんなには酔っぱらっていなかった筈だと諦めの悪い人間は眉を寄せたが、ディノに心配そうに頭を撫でられてすぐに反省する。
「確か、酩酊というのもあわいの一種に近いのですよね。アルテアさんに教えて貰いました。心配をかけてごめんなさい」
「君は、酔っぱらってしまうと周りにいる者たちを倒してしまうからね。いつもは可愛いだけなのだけれど、このような場所だと危ないから心配だったんだ。アルテアが、紐で繋いでいてくれて良かった」
「なぬ。私はそんな悪さをしたりはしません………」
「嘘つけ。お前はいつも、殺してばかりだろうが」
「誤解されるようなことを言うのはやめるのだ!巨人のお酒で酔っぱらってしまうくらいですし、そもそも今回のお酒では気持ちがふわふわするくらいの罪のない酔い方でしたよ!」
「どうだかな…………」
「むぐぅ!」
今晩は、この家に泊まることになるそうだ。
迷い家に招かれた場合は、悪夢を見るとか襲ってくるものがいるだとか、そのような否定的なことが起こらない限りは、一晩泊めていただくのが礼儀であるらしい。
「君にこの風景を見せたいというくらいのものであれば帰ってしまってもいいのだけれど、この土地で過ごすことの何かが、今後君を助けるのであれば、恩寵を受け取っておいた方がいい。私も、念の為にアルテアも一緒にいるから、安心して過ごしていいからね」
「はい。明日のお仕事が午後にずれ込んでしまいそうなのが気がかりですが、こんな素敵な海辺のお家でのんびり過ごせる夜があるなら、私は強欲な人間なので楽しんでしまいそうです。ディノとアルテアさんがいれば、どこでも安心ですしね」
(夢の中でも、この浜辺にいた気がする…………)
ざざん、ざざんと波音が聞こえる。
ネアは砂浜の方をじっと眺めてしまい、どうして自分が何かを探しているのか不思議に思った。
また目を閉じたら、あの人に会えるだろうか。