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バルバと竜と鯨 1



しとしとと雨の降る朝だった。


ネアは朝から窓に張りつき、また誰かがヨシュアに強制労働を課してくれないだろうかという悪い願いをかけていたが、今回はヨシュアもウィームを晴れにしに来てはくれなかったようだ。

せっかくのバルバの日なのに雨だなんてと考えてしょんぼりしていたが、ディノから、バルバ会場はあの屋内の温室のような部屋を使うから大丈夫だよと慰めて貰う。



「しかし、まず間違いなくダナエさんは、生きのいい棘牛を連れてきます。ワンワン鳴く棘牛をびしょ濡れで捌くことになるので、使い魔さんも大変ではないでしょうか」

「アルテアは、雨の中で捌くのかな……………」

「しかしながら、棘牛タルタルを食べずにはいられないので、そんな使い魔さんには少しでも作業が捗るような祈りを捧げておきますね」

「ずるい、アルテアの為に祈るなんて………」

「むむぅ。もはや、ディノの中で何がずるいに区分されるのかが分りません。呪うのはありですか?」

「………………ずるい」

「では、あの紙吹雪の魔物さんのようにお祝いするのはどうでしょう?」

「………………ずるい」

「……………おい、お前が歌うとなるともはや呪いだろうが。やめろ」

「むぐぅ!」



隣の部屋から戻ってきて、綺麗な白い濡れ布巾で手を拭ったのは、ネアの厨房を借りる形で色々と下拵えしていたアルテアだ。

ディノは、アルテアだけが厨房を使うことについては反対なのだが、今回は、ロマックというリーエンベルクの騎士の一人が、ネア達がバルバをやると聞いて実家のお勧めフレッシュチーズを大量に御裾分けしてくれたのだ。

急遽、そのフレッシュチーズで何品か作られることになり、アルテアに厨房が解放されたのだった。


また、丁寧に袖を折り上げて準備していたアルテアをネアが褒めたところ、荒ぶったディノが自分の袖を折り上げてみる事件があり、ネア達はようやく落ち着いたばかりであった。


ディノは袖を折るよりも毛布にくるまっている系のカテゴリであるというご主人様の嗜好に突き進んだ区分により、ディノは袖を折り上げるという流行には乗らないことで着地している。


魔物には内緒だが、ネア的には、ウィリアムも袖を折り上げて欲しい系の魔物だ。

厳密にその線引きがどうなされるのかは謎だが、どこかで何かの区分が違うのである。




ネアは広げてあったカードがぺかりと光ったのに気付き、唇の端を持ち上げた。

ダナエから、もうあの温室にいるよと到着のメッセージが入ったのだ。


「むむ!ダナエさんが到着したようです」

「おい、一時間も早いぞ………」

「では、私とディノが華麗なお喋りで時間を稼いでおきますね。………エーダリア様、ダナエさんが到着してしまったようなので、バルバ会場に行っていますね」

「やはり早めの到着になったな。こちらも一通り片付けた筈だったのだが、一件連絡しなければいけない案件が出てきてしまった。そちらの仕事を片付けたら、私達も向かおう」

「はい。アルテアさん、先に会場に入っています」

「ああ。俺もまだ少しかかる。あいつ等は待たせておけ」



ネアは、会食堂を出て執務を一件片付けてから来るというエーダリアに手を振り、今日は雨模様なので灰雨のリボンでお洒落をした魔物を引き連れてバルバ会場に向かった。

早めに到着した食いしん坊には悪いが、暫くは旧交を温めるお喋りで我慢して貰うより他ない。



外に出ると、静かな雨が木々の枝葉にあたる音が、さぁっと響いていた。


穏やかな波音に似たその優しい響きに、ネアはふと、不思議な列車に乗って旅した時に見た、灰色の海辺を思う。

トトラと一緒に眺めたあの海は、実際にもある場所なのだろうか。

何とも言えない白灰色と砂浜に咲いていた淡いピンク色の花の色が、今も記憶の中に残っている。



「まだ食べ物がないようだけれど、大丈夫かな」

「まずは、前菜として、マロンクリームのおまんじゅうを食べていて貰いますね」

「ああ、それがあったね」



そうして二人が会場になる温室に到着すると、今日もほんわりした微笑みが儚げで美しいダナエと、前回、春告げの舞踏会で膝を抱えて座っていた印象が今尚残る、光竜のバーレンが待っていてくれた。



ダナエは、濃紺の長い髪に額の片側だけに残る白メノウのような角を持つ、美しい春闇の竜だ。


澄んだ桜色の瞳がまさに春闇の美貌という感じになり、ネアが考える一番美しい竜の一人でもある。

何だか言動がディノに似ているが、白を持つ春闇の禍子であるそうで、何でも食べてしまう悪食だ。

そんなダナエに懐き、すっかりお兄ちゃん子になってしまったバーレンは、アルテアに森竜にされていたこともある、光竜の最後の生き残りである。


今や仲良し兄弟にしか見えなくなったこの二人は、一緒にあちこちを旅して仲良く暮らしていた。



実は先日、ダナエに恋をした花竜のお嬢さんがいて何やら拗れたようなのだが、二人の恋の邪魔者としてその女性に邪険にされたバーレンが拗ねている間に、ダナエはそのお嬢さんをぱくりと食べてしまったらしい。

ダナエは、どんなに素敵な恋人を作っても、一日くらいで恋人は食べてしまう系の悪食の竜なのだ。

それでも彼に恋する女性がいるのは、彼が春闇の中に潜む絶望だけでなく、魅了というものをも司る美しい竜だからだろう。

ダナエはもてるのだ。


とは言え、バーレンが大好きなダナエの不在に寂しくなる前に、ダナエの新しい恋人はいなくなってしまったので、いつもの二人に戻っている。



「ダナエさん、バーレンさん、春告げの舞踏会ぶりです!」

「ネア、大きくはなっていなくて良かった」

「…………なぬ、それは魔術可動域的な…………」

「今日は世話になる。これを買って来たのだが、もう渡してしまって問題ないだろうか」

「まぁ、素敵なお土産です!」

「ネアとアルテアと、バーレンがウィームの領主にも買っていった方がいいというから、ここにも買って来た」



バーレンが差し出してくれたのは、真ん丸の硝子のボールのようなものに、なみなみと入った不思議な水のようなものだ。

重いからと言われてディノが受け取ってくれたのだが、ネアはそれを横から覗き込んで歓声を上げた。

持ち手はなく、西瓜のように紐がかけられており、ぶら下げて運ぶようだ。


綺麗な真円の中の液体には、こんな曇天の日なのに、ちらちらと木漏れ日が揺れていて、どこからか満開の花を咲かせた枝の影が映っている。

よく見れば、小さな注ぎ口がついているので、お酒のようだ。

その透明さの向こうに想像出来る美しい花盛りの木を思い、何だかわくわくしてしまう。


ディノが真円の酒瓶を傾けてくれると、その中でお酒がたぷたぷゆらゆらとしていた。

映って見える木漏れ日の角度が変わるので、ネアはむふぅと感動の声を上げる。



「…………ほわ、なんて綺麗なんでしょう!お酒なのですか?」

「ああ。春闇の竜が作るものらしい。この前、初めてダナエの一族の竜達に会ったんだ。あまり形を固定しない竜なのだが、春の盛りのその時にだけ、このような酒を造っているらしくて、幾つか売ってもらった」

「珍しいだけではなくて、ダナエさんの一族の方が作ったお酒だなんて、嬉しいです!では、みんなで美味しくいただきますね。これを貰ったら、エーダリア様もアルテアさんもとても喜びそうですね………」



春闇のお酒は、辛口のきりっとしたお酒であるらしい。


一族以外のところへ出回ることは滅多にないらしく、存在を知らない人達も多いそうだ。

ネアは、我慢が出来ずにどれか一個を今日のバルバで飲んでみたい気持ちと、この綺麗な酒瓶の中の木漏れ日をいつまでも見ていたい気持ちとでもしゃもしゃしてしまう。

そうするとダナエが、酒瓶の中に映っている木漏れ日や花影は、お酒が全部なくなってしまわない限りは見えていた筈だと言ってくれたので、封を開けて少しだけ飲んでみることにした。


「でもネアは、酔っぱらってしまうかもしれないから最後にね」

「むぐぅ。最後までそわそわしてしまいそうですが、一番最後に楽しみがあるなんて素敵ですね」

「それと、棘牛が…………」

「ぎゃ!」



雨の中でお外に繋がれた棘牛は、自分もその温室に入れるべきであると、扉のところでじっとりとこちらを睨んでいた。


とても怖いし、あまり触れ合うと美味しくいただけなくなってしまうので、ネアはそちらを見ないようにして、一刻も早いアルテアの到着を祈った。



(あそこには何もいない。あそこには何もいない…………)



何度か脳内で暗示をかけ、無事にそちらの方は見なかったことに記憶を書き換える。



「ダナエさん、バーレンさん、これはウィームのおまんじゅう祭りで売っていた、その日にしか買えないおまんじゅうなのです。麦の香りとお酒の香りが素敵な皮に、マロンクリームが入っているおまんじゅうなんですよ」

「くれるのかい?」

「ええ。ダナエさんは、お料理が来るまでにもお腹が空いてしまうでしょう?これを食べて待っていて下さいね」

「……………マロンクリーム。…………美味しい」


ネアは、お料理の到着はもう少しお待ち下さいねと伝え、まずは、既に用意されていたので振る舞ったお茶の、お茶請けのお菓子にとそんなおまんじゅうを献上した。

ダナエは嬉しそうに一口でぱくりと食べてしまい、美味しいねぇとにこにこしている。

バーレンも気に入ったようで、ダナエからのもう少し欲しいという熱い眼差しの圧力に屈しないように、背中を向けてはぐはぐ食べていた。


「バーレンさんが甘党かどうかわからなかったのですが、美味しかったようで良かったです」

「ああ、私も甘いものは好きだ。ダナエは、甘いものの中でも、このようにクリーム系のものが好きなんだ」

「まぁ。では、蜂蜜クリームチーズなどもお好きですか?」

「うん。好きだよ。…………ネア、おまんじゅうをくれて有難う」


そう言うとダナエは、また指を二本だけ出してネアの頭をそっと撫でると、きゃっとなって離れていった。

すぐに恋人を食べてしまうダナエにとって、食べたくない性別の知り合いと、食べたくない程度の可動域しかないネアは、貴重な友人枠なのだ。



「また撫でられた………」

「ネアを撫でるなんて………」

「むむ、ディノ、これはご挨拶のようなものなので、荒ぶってはいけませんよ!」

「ダナエ、彼女は指輪持ちなのだから、まずは婚約者に断りを入れなくてはいけない」

「ディノも、撫でてもいいかい?」

「……………私を撫でてもいいのは、ネアだけだよ」

「そうなんだね、残念だ」


バーレンがすかさずダナエに注意をしたのだが、そんなダナエは、ディノまで撫でようとしていたようだ。

聞けば、直近で恋人を食べてしまったばかりでとても悲しかったので、少しだけ友人を大切にしたい気分が強くなっているらしい。

危険を予測したバーレンから、アルテアも撫でてはいけないと注意されてしゅんとしていた。


ネアは、荒ぶってしまった魔物を羽織りながら、そういう場合は、ディノの場合はリボンを褒め、アルテアの場合はお料理を褒めてあげると親交が深まるので、撫でる以上の効果があるかもしれないと伝えておく。


「わかった。ディノのリボンは綺麗だね」

「……………ネアが買ってくれたんだよ。宝物だからね」

「だからお気に入りなんだね。私も、バーレンがくれたマントは気に入ってる。これも宝物なのかな?」

「あら、バーレンさんからマントを貰ったのですか?」

「うん。バーレンの持っている竜の外套を参考にして、角だけ隠せるフードのついたマントを作ってくれたんだ。人間の街の店に食事に行く時、角を隠した方がいい場合があるらしい」

「ふむ。確かにお国によってはそういうところもありそうですね。さすがバーレンさんです。素敵な宝物ですね」

「うん」



その後何だかちょっと似ている二人は、ディノはネアから貰ったリボンの自慢を、ダナエはバーレンから貰ったマントの自慢をして友好を深めたようだ。

ネアは、バーレンから、ダナエが食べ過ぎて困ってしまった問題を幾つか教えてもらって、機転を利かせて事件を回避したバーレンを労ってやる。

バーレンがネアに一定距離以上近寄らないのは、ネアがきりんというとんでもない武器を持っているからなのだそうだ。



(もう、仲直りしたのだし、実験の必要もないから、いきなり攻撃したりはしないのにな………)



そうこうしている内に、アルテアが最初のお料理を運んできてくれた。

大喜びで弾むネアの前と、目をきらきらさせてアルテアを見ているダナエの前に大きなボウルをどすんと置いてくれる。


水色の琺瑯のボウルには、同色のトングと美味しそうなお肉が入っていた。



「ほわ、………お肉様………?」

「香草塩だれに漬け込んだ鶏肉だ。だが、さきにこっちを食べるようにして、…………肉はまだ焼くなよ?それと、こちらで火にかけるトレイはソースだからな、これだけでは食べるな」

「フレッシュチーズのサラダです!」

「ドライトマトと、アスパラ、鶏胸肉にフレッシュチーズのバジルソースのサラダだ。意外に質量があるから、お前は食べすぎるな」

「むぐ。棘牛さんがいるので、食べ過ぎないようにします」


そこでアルテアは、一拍無言になった。

ディノとバーレンから温室の外の方を視線で示され、自分も屋根の下に入れるべきだと外から睨んでいる棘牛を一瞥し、どこか呆然とした面持ちになった。



「おい、………あれ程、棘牛は肉屋で買って来いと言っただろうが」

「部位というものがわからなくて、ダナエは、肉屋で一頭丸ごと手配してしまったようだ」


申し訳なさそうにそう申告したバーレンに、アルテアは、しばし扉の向こうの棘牛と見つめ合ったらしい。

外からワンワン鳴く声が聞こえてきて、ネアは慌てて聞こえなかったことにする。

雨に濡れている生き物の鉄板の流れで、このまま拾ってきて飼ってあげるねという感じになると、美味しいタルタルが食べられなくなってしまう。

ネアは再度、あの外にいるのは美味しいタルタルであるという、猟奇的な自己洗脳をする羽目になった。



「………あざみ玉と雨の花がこれだ。熟れている方は塩焼きだが、緑の方はオイル焼きにする」

「あざみ玉は、初回のバルバで大好きになりました!……………む。アルテアさん、これはなんでしょう?」

「ああ。水鯨だな」

「鯨さん………………。しんなりした青い胡瓜ではなく?」

「は…………?」



ネアは、アルテアが網の上に、しんなりした青い胡瓜のようなものを置いたので慄いていたが、それが胡瓜ではなく鯨だと知って更に驚いた。

白身のほくほくした美味しいお魚なのだそうだが、あんまりな見た目にすっかり不安定な気持ちになったので、ネアは食べるのを躊躇ってしまいそうな気がする。



(鯨…………とは…………)



水鯨は、この時期になると海に繋がる川の汽水域に登ってくる魚で、あまりにも沢山やってくるので、川沿いの人々の季節の味覚にされてしまうのだそうだ。

上流の方まで無事に登りきった水鯨は大きな鯨になって空に昇り、やがては、人間などを食べてしまうくらいの巨大な生き物になって空を泳ぐらしい。


(アルテアさんと悪夢に落ちた時に、上から水を降らせていたあの鯨になると言うけれど…………)


ネアの目の前に並んで、網で焼かれているのは、どう見ても青い胡瓜だ。

質感まで完全に胡瓜なので、どうやって海から川に上がって来るのかも謎で堪らない。

あまりにも謎めいているので、誰かが食べるのを見てから、怖くなさそうだったらこっそり試してみよう。


そう考えていると、仕事を終えたエーダリア達が到着した。

初見の人から見たら落ち着いた理知的な眼差しをしていると思うだろうエーダリアは、ネアから見ると、あまり会えない竜種二人との食事に少しわくわくしている。

こうして理解出来るようになる表情に、また少し家族らしさが増してゆくのだろう。

ヒルドがネアの前を見て、水鯨ですねと微笑んだので、ネアはぎくりとしながら頷く。



「すまない、遅くなった」

「とは言え、予定時間よりだいぶ早いですけれどね」

「……………ふぁぁ。僕はまだ眠いけど……………ありゃ、もしかして春闇の竜の酒かい?」

「む!皆さんが揃ってからと思っていましたが、ここで発表します!!」


ネアはここで、眠たそうな目でやってきたノアが、はっと目を丸くするくらいに驚いて凝視しているまあるい瓶に入ったダナエ達のおみやげを、誇らしげに紹介した。

じゃじゃんとディノに持ち上げて貰うと、ノアは目を輝かせた。



「………………春闇の竜の酒か」


アルテアも呆然としており、ひと瓶受け取ってすぐさま仕舞い込んだので、やはりかなり貴重なお酒なのだろう。


受け取った瓶をまじまじと観察しているエーダリアに、ノアはすぐに開けようとさかんに訴えている。

ネアと同じように、エーダリアが中に揺れている木漏れ日が消えてしまうのではと不安そうにしているので、ネアが、お酒が残っている間は木漏れ日も残っているようだと説明すると、この美しい木漏れ日を楽しみたいので、きっちり三分の一までならと飲酒量を戒められ、蓋を開けて貰えることになったようだ。



「こりゃいいや。僕は、飲むのは二回目だよ。ゼノーシュもいたら喜んだだろうなぁ」


ノアがそう言ったのは、ゼノーシュが今日は不在にしているからだ。

ザルツでの任務で少し調整が必要になっている案件があり、ダリルの弟子の一人と共に、グラストとゼノーシュがその対策にあたっている。

気難しい魔物が一人いるので、その魔物から資料を借りるのが面倒なのだそうだ。

エーダリアがノアにも相談していたようだが、その上で、ノアが適任者としてグラストとゼベルの二人の名前を挙げ、今回は初対面ということで、隊長であるグラストが伺うことになった。



「この量ですと、全員に一杯ずつは行き渡りますね」

「あ、私は酔っぱらってしまうと勿体ないので、最後にいただくようにしますね。今回はエーダリア様の瓶を開けていただくので、次回にみんなで飲むときには、私が貰ったものを開けましょう」

「わーお。そうなると、後何回飲めるのかな。アルテアのもあるしね」

「おい、勝手にそっちに換算するな。やらんぞ」

「何言ってるの、みんなで飲んだ方が美味しいよ」



きゅぽんと、水晶の結晶を差し込んだような栓を抜くと、ふんわりと涼やかな早春の夜の香りがした。

麗しく華やかなのだが、どこか幻のような儚さを感じる不思議な香りは、香りというよりは音楽のように心に触れる不思議さだ。



(すごい………匂いを嗅いで、こんな風に情景が浮かぶような思いになるなんて………)


ネアはすっかり感動してしまい、みんなが乾杯でその透明な春闇のお酒を一口飲むのを見守った。

ネアのものは、ディノが魔術でぬるくならないように温度を保ってくれ、すぐ横に繊細なカットの入った美しいグラスに入ってひたひたと揺れている。



「……………これは、…………素晴らしいな」

「……………私も、このようなものは初めて飲みました。他にどう表現すればいいのか分りませんが、素晴らしいですね」

「うわ、やっぱり美味しいなぁ!」

「美味しいものだね。私は初めて飲んだよ………」

「ほわ…………」


みんなの大絶賛に羨ましそうに周囲を見回したネアに、アルテアがこのお酒の味わいを言葉で説明してくれた。

このような表現は上手な、お料理上手の使い魔である。


「春闇そのものを醸造した酒だ。春の夜の華やかさや美しさに、ひと匙の春の夜の絶望や冷やかさが入る。口に含んだ瞬間は仄かに甘いが、すぐによく冷えた辛口の酒になる。飲み干した直後に適度な酩酊があるが、春闇らしくその酔いも一瞬で抜け落ちる幻のような酒だ」

「む、むぐぅ!!」

「なんだ、飲むのか?料理が食べられなくなるような酔い方だけはするなよ?」

「…………まだ棘牛タルタルも食べていないので、やはりお酒は最後にします!」

「ありゃ。あの棘牛かぁ。アルテア頑張ってね」

「お前が捌いて来いよ」

「別にいいけど、僕だと毒の部位とかは分らないよ?適当でいい?」


そう言ったノアに、アルテアは深い深い溜息を吐いた。

顔を上げて扉の方を見ると、ワンワンと鳴いている棘牛がいるようだ。

ネアはさっと耳を押さえ、悲しげな鳴き声が聞こえないようにしてエーダリアを半眼にさせた。



「…………あの牛を捌いてくる。あざみ玉と、このあたりの料理を食べていろ。こっちの肉は焼いていても構わないが、表面を炙るだけでいい。この、藍色の入れ物のソースで食べろ」

「むむ!こちらのお肉は何のお肉なのですか?」

「駝鳥だ。それと、ソースは辛味のあるタルタルソースだな」

「辛味タルタルソース様!!」


ゆっくりと立ち上がり、アルテアは暗い目で外にいる棘牛と向かい合ったようだ。

ヒルドが立ち上がり、お手伝いしましょうかと尋ねたが首を振っている。

歩いていって扉を開けるとさぁっと雨の音が聞こえ、ワンワンという鳴き声が聞こえた後に、ぱたりと扉が閉まる音がした。


ネアがそちらを見てみると、もうアルテアと棘牛の姿はないようだ。

ここにいる食いしん坊達のお腹を満たしてくれる尊い犠牲に感謝の祈りを捧げ、ネアは棘牛タルタルの到着を清らかな心で待つことにする。



「ディノ、ダナエさん、お肉を焼きますか?」

「あざみ玉………」

「ふふ、そちらからですね。では、ホイルの端にぐつぐつ透明なオイルの泡が出来たら出来上がりだそうですので、もう少しお待ち下さい」

「…………ドライトマト」

「あら、ディノはこのサラダが気に入りましたね?…………むぐ!ロマックさんのチーズがとっても美味しいです!!」



ロマックが持って来てくれたチーズは、モッツァレラとヨーグルトの間という感じのとろりもちもちとしたチーズで、爽やかな酸味と新鮮な風味が、ドライトマトの塩気によく合う。


柔らかく茹でたアスパラとしっとりと手間をかけて柔らかく茹でた鳥胸肉と共に、バジルソースのようなもので和えてある。

サラダは、他にも葉っぱ多めでグレープフルーツとナッツの入った爽やかなサラダに、千切りにしてお肉と合わせて食べやすくしてくれた、紫玉葱やセロリと人参の色鮮やかな酢漬け野菜も並んでいる。



(雨の花は、和え物かな?)


雨の花も、白いお皿に盛りつけられているが、こちらはまだ解説をいただいていないので、アルテアが帰ってくるまで待っていよう。

やがてあざみ玉が焼き上がり、ほこほこ甘い風味が堪らないお芋風の熟れたあざみ玉と、しゃくしゃく筍風の歯触りが楽しい、オイル焼きの緑のあざみ玉がみんなのお皿に並んだ。


ネアはアルテアの分を取り分けておき、ディノに保温魔術をお願いする。


そうして、みんなでわいわいしながら美味しいあざみ玉を食べていると、アルテアが戻って来た。




「………………持って来たぞ」

「む!とげ…………アルテアさんのお帰りです!!」

「お前、棘牛を先に言おうとしただろう」

「むぐぅ。そんな風にお皿の上に素敵なタルタルを乗せておいて、私の目を奪う悪い棘牛ですので仕方ありませんね」

「ネアが棘牛に浮気する……………」

「ディノ、美味しいアルテアさん特製のタルタルですよ。一緒に食べましょうね」


ネアがそう言えばディノはこくりと頷いたが、ちゃんと焼けてるのかとアルテアに尋ねられ、ネアが筍風な方のあざみ玉をアルテアのお口にひょいと入れてやると、またしてもずるいと騒ぎ出した。



「しかし、ディノにもやってあげたいのですが、…………すぐに死んでしまうでしょう?」

「ずるい。…………アルテアなんて…………」

「ぱたりと死んでしまうと、髪の毛が燃えてしまったりしそうで危ないのです。アルテアさんはデザートも作っていましたので、網の火を落してからやってあげますね」

「ずるい……………」

「む。爪先が差し出されました…………」



ここで、ぶちんという音が聞こえてきて、ネアは目を丸くした。

音の出どころを探ると、並んで置かれていてアルテアにまだ食べないようにと言われていた水鯨が、表面の皮が弾けてほくほくと焼き上がったようだ。


しかしながら、ネアの目にはやはり青い焼き胡瓜にしか見えない。



「皮が弾けたな。そろそろ食べごろだ」



アルテアから、そんな水鯨をごろりとお皿の上に取り分けられてしまい、ネアは固まった。

焼き立てであることを考えて置いてくれたのだろうが、これはかなりの難関と言わざるをえない。



ほかほかと湯気を立てている青い胡瓜が、お皿の上に横たわっている。

棘牛タルタルの前に、大きな壁が立ち塞がっていた。













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