ねずの木と雪森結晶の守り石
ネア達はその日、ウィームの北部にある山間の村に来ていた。
小さな村だが、ここは古くから特殊な魔術を持つ者達が住んでおり、酪農と雪森結晶の細工ものが有名である。
魔術の才能のある者達が細工をし、その他の者達は牛や山羊を飼って生活しているらしい。
青みがかった緑の葉が美しい針葉樹が立ち並び、薄らと雪を被った木々の美貌にネアは目を細める。
ウィームに暮らし始めてから、ネアはすっかり雪景色が好きになってしまった。
久し振りに見た清廉な雪景色に胸が熱くなる。
(ここは、…………ランシーンのあの高地に雰囲気が似てるな………)
あの土地は岩山と草原で、ここは森の中ではあるのだが、どこか荒涼としたひたむきさが良く似ている。
胸の中をきりっと冷たい風が吹き抜けてゆくような温度は、不思議と心の中まで凛とさせてくれた。
「静謐だが美しいところだね。君は好きだろう?」
「ええ。この森の静けさとひたむきさだけで、私はもうここを美しいと思います」
冬の最盛期の雪深さとは違い、薄らと残った雪の間からは春の花々が顔を出している。
木の枝には栗鼠が駆け抜けてゆき、ぽわりとした光の粒子を煌めかせた。
遠い山肌にある一本の木の上で空を見上げて羽を微かな陽光に当てているのは、長い黒髪の美しい女性の妖精だ。
ディノが、松の木の妖精だと教えてくれた。
雲間から差し込む陽光が筋のようになり、溶けかけて夜の内に凍った雪の表面をきらきらと輝かせていた。
木立の向こうを、鈍い銀色の鹿達が駆け抜けてゆく。
「この森に、おかしな生き物が現れるのですね………」
「話を聞く限りは、悪食か祟りものの可能性が高い。君は私から離れないようにね」
「はい。…………しかし、そのような生き物の気配は、あまりないのですよね?」
そう言えば、魔物は少しだけ不愉快そうな、魔物らしい怜悧な横顔を見せた。
こんな雪景色の中でこそ際立つ擬態の青灰色の髪と水紺の瞳は、この美しい森をこの上なく贅沢な額縁にする。
「……………どこかに、かすかに煙がたなびくように、歪んで壊れたものの気配はする。けれども、森の生き物達は普通にしているだろう?古くからここに住むものなのかもしれないね」
「古くからここにいて、問題がなかったものなのだとしたら、どうして最近急に荒ぶり始めてしまったのでしょう?」
「悪夢の中の停滞期と同じようなものだね。その顛末に至るまでの長い時間を静かに過ごす狂気や崩壊がある。そうして静かに息を顰め、実が熟すように狂ったのかもしれない」
「……………そう考えると、とても悲しい気持ちになります。その方が、或いはその生き物が、そのまま静かに暮らしてゆければ良かったのに」
「それはどうだろう」
微笑んで首を傾げ、こちらを見た魔物の眼差しはどこか悲しげだった。
はらりと零れた前髪の一筋に、澄明な瞳が微かに揺れる。
「ディノ…………?」
「手の尽くしようのないものであれば、終わりたくても終わらせることが出来なかったものなのかもしれない」
「……………それなら、そろそろゆっくりと眠れるといいのですが」
「うん…………」
ディノは誰を思ったのだろう。
或いは出口のない孤独は自身の記憶を振り返ったのかもしれず、ネアはそんな魔物の手をそっと掴んだ。
エーダリアから、事前に、あまり気持ちのいい仕事ではないかもしれないと言われてはいる。
それでもとネアが引き受けたのは、どうやら問題の生き物が、ウィーム王家の守護や祝福、或いはどこかで魔術の縁を繋いだ者であるらしいからだ。
そうなってしまうと、魔術の誓約によりリーエンベルクの騎士達は手が出せない。
また、どんな弊害が出るのかが分らないからこそ、エーダリアも手を出すにはかなり注意の必要がある。
ある種、魔術の領域においてそこから分断することも出来る歌乞いだが、グラストに関しては彼がリーエンベルクの騎士であるということがネックになった。
だからこそ今回は、その二つの魔術の線を限定的に絶つことも出来る、ネアとディノが対処にあたることになったのだ。
(この森のどこかに、ひっそりと暮らすよくないものがいる…………)
それは古くからこの森にいたもので、ここ三カ月ほどで、村の家畜や子供達を襲うようになった。
襲われた家畜や子供達の共通点として、この村で作られる災い封じの細工ものを身に着けていることが判明し、どのような性質のものなのかの検証が進められた。
この村で作られる細工物は、災いを封じる為の精緻な彫り物が有名な雪森結晶の装飾品だ。
小さな滴型の石に細やかで美しい彫り物をし、そこに込められた魔術が石を輝かせて持ち主を守る。
村の外では高価な贈り物になるその石だが、この村では、少し細工が歪んでしまったものや、石の質が良くなくて売りものにならないひび割れが出たものなどを、村の仔牛や子供達のお守り代わりに持たせていたのだそうだ。
そして、そんなお守り石を持った子供達が立て続けに襲われたのである。
さくさくと薄い雪を踏んで、二人は森の奥へと進んだ。
村人が同行を申し出てくれたのだが、調査に入った近くの大きな街の騎士団や、この森を日常的に行き来していた商人達には何の被害も出なかったことから、その村の住人が特定の獲物とされている可能性もある。
万が一の際に危険が及ぶことを避け、彼等にはガレンの魔術師達が立派な結界を施した村の中から出ないようにして貰っている。
既に四頭の仔牛と二人の子供を失った村では、これ以上の被害は出せない。
子供を失った家の親達は、悲しみに暮れていた。
「それは何だい?」
「この村の歴史についてざっとまとめて貰ったものです。ダリルさんが手配してくれたのですが、この村は統一戦争前までは、リーエンベルクにもお守り石を卸していたところだったのですね」
ネアが手にしている小さなメモの束は、ダリルが必要な箇所をメモ型の通信魔術で飛ばしてくれたものだ。
そこに記された歴史に、ネアはふと、予感めいたものを感じてここに来た。
「豊かな土地だよ。この土地の魔術は澄んでいて質がいい。このようなところで採れたものであれば、リーエンベルクでも重宝されただろう」
「…………統一戦争の最中、そんなお守り石を何とかして王宮に届けようとして、命を落とした方達もいるそうです。少しでも助けになればと、無理をしてでも届けようとしてしまったのでしょう」
「この土地の守り石は、確か効果に期限があるのだったね?」
「ええ。一つの石の効果が続くのは、二年の間だけなのです。村の方達が石を無理にでも届けようとしたのは、前に納めた石の効果が切れる時期だったということもあったようですね…………」
様々な要因で転がり落ちるように、あの戦争で途切れ失われたものは多い。
どれだけの思いや願いが踏みにじられ、あの炎の中に消えていったのだろう。
けれどもその先に大事なものを見付けたネアは、ごうごうと燃え盛る炎の記憶に人間らしくしたたかに背を向けることが出来る。
それでも尚、心が揺れて目の奥が熱くなるのだ。
あそこで失われた人の微笑みを知っているから、心が揺れてしまう。
「君は、その村の過去が何か関係していると思うのだね?」
「…………ディノは、それは古くから住んでいたものかもしれないと言いました。そして森の生き物達には大きな被害が出ておらず、村の人、………それも守り石を持っている子供達が狙われたこともありますし、ウィーム王家に関わる魔術の証跡があると調査で判明しています。………なので私は、村の過去に関係するものなのかもしれないとは考えています………」
「それは、君にとっても悲しいことなのかな?」
「ええ。私は赤の他人ですが、あの炎に飲まれた人々のことを思い胸を痛めたことがあるので、ただそれだけで、そこに関わる悲劇がまだ残っているのであれば、それは私も形を知っている悲しみなのです」
「自分の事のように?」
「…………いえ、私はそこまで繊細ではありません。ただ、………人間というのはとても短絡的な生き物なので、想像出来るものというものは、やはり悲しいのです」
その質問には魔物らしい心の動きも見えたので、ネアは少しだけ慎重になった。
ディノは、どれだけ優しくてもやはり魔物らしい魔物である。
人間の心が己の想像の及ぶ範囲で留まるように、魔物もまた、己の領域の外側のものをネアが慈しみ過ぎることを好まない。
そんな酷薄さがちらりと窺え、ネアはディノの手をぎゅっと握った。
ふっと、視界が翳って額に一つの口付けが落とされる。
こちらを見たディノは、長命な生き物らしい静謐さで微笑んだ。
「想像出来るものが、………悲しいんだね」
「ええ。例えば、どんなお話なのかを知っている悲しい物語は、その題名を聞くだけで悲しい結末を思い出したりしませんか?実際に起こった悲しい出来事を物語に例えるのは乱暴ですが、それに近いものなのでしょう。でも、これは所謂共感型の悲しみですので、ディノのことを思って動かすような気持とは、まるで違うものですよ?」
「…………うん。でも何だろう、…………君が悲しいと思うのは、やはり嫌なんだ」
「ふふ。ディノは優しい魔物ですね。では、少しだけ繊細な気持ちになった私と、もう暫くこうして手を繋いでいて下さい」
「……………ずるい」
ふにゃりとなった魔物の姿に微かな安堵を噛み締め、ネアは森のあちこちに目を凝らした。
豊かな古い森らしく様々な者達がいるが、今日は仕事で来ているので狩りに精を出してはいけない。
近くに何か悪いものが潜んでいれば話は別だが、今日は得体の知れないものが相手なので、あまり森の生き物達を刺激しないようにしよう。
「近くにいるかもしれないよ」
半刻程歩いたところで、ディノがそう呟いた。
ネアの手をしっかりと握り直し、自分でそうしたくせに目元を染めて少しだけ弱っている。
けれども、その爪先の下の雪が不可視の重みで形を変え、周辺の木々の枝に乗った雪がざわりと震えたので、何か結界のようなものを補強したのだろう。
ネアの目には見えない魔術が、大きく動いているという感じがした。
「ダレダ…………」
その直後のことだった。
ひび割れたような低い声が一本の大きな木の幹から聞こえて来て、ネアはぎくりとする。
不思議なことに、確かにそこから声がするのに、そこには一本の大きなねずの木があるだけなのだ。
他には何もなく、目を凝らすとなぜか背筋がひやりと冷たくなる。
ネアが何かを言おうとすると、ディノから、人差し指をそっと唇に当てられた。
目を見て理解したかどうか眼差しで問いかけられたので、ネアはこくりと頷く。
(喋らない方がいいんだわ………)
なのでネアは、この場をディノに任せてみることにした。
「君がビャシヤの村の人間の子供を襲ったのかい?」
ディノがそう問いかけると、木の幹のあたりから低い唸り声が聞こえた。
しかしネアの目には、相変わらず何の変哲もない一本の木が生えているようにしか見えず、木の根元に揺れる小さな花や、地面にぽとりと落ちて薄い雪を被った松ぼっくりも、何も変わったところはないように見える。
(威嚇しているのかな。………会話が出来るかしら………)
そんな唸り声にネアは少し不安になったが、ディノは特に焦る様子もない。
ただ問いかけるだけではなく、精神圧をかけるようにしたようだ。
「あの村の子供や、牛の子供をどうして壊してしまったんだい?」
次のディノの言葉には、不思議な鋭さがあった。
穏やかに凪いで見えるのに凍えるように冷たい水のようなその冷やかさに、守られている筈のこちら側にいるネアも息を詰める。
人間とは違うものの異質さが際立つ美しい声音は、ネアには見えない何者かをも怯えさせたようだった。
「イシヲ、………ダレモイシヲ、トドケナイ」
「石を届けて欲しいのかい?だから、村を襲ったのかな」
「ココニイル………ト、……………ダレモ、ミナイ。ダカラ………」
「成る程。自分の存在に気付かせようとして、村を襲ったのか」
「テヲ……………オロシタ………ダケ。……………ツブレテ、アカクナッタ」
「どうやら君は、もう自分が人の理を越えてしまったことに気付いていないようだね」
「………………オレハ、……………ニンゲンダ」
「私にはそうは見えないよ。恐らく、君はもう人の形をしてはいない。人の形を失い、他のものに取り込まれた人間だったものだ」
「…………………オウキュウニ、…………イシヲ………トドケル」
ふっと、物思いに耽るような僅かな間があり、声の主は、会話をしていたディノのことを忘れてしまったようだ。
会話が最初のところに戻り、ディノが困ったように首を傾げる。
(……………ああ、)
ネアはその言葉に一度目を閉じ、ずしんと胸に響いた思いを受け止めていた。
姿の見えない誰かは、王宮に石を届けると言った。
ディノの話ぶりでは、元は人間だったものなのだろう。
そんな要素を組み合わせて、ネアはこの性別も分らない声の誰かが、統一戦争の時に王宮に守り石を届けようとした誰かではないかと考えたのだ。
そっと魔物の方を窺うと、ディノも頷いている。
何度かその見えない相手に声をかけてくれたが、唸るばかりで会話が出来るような状態には思えなかった。
「………そのねずの木の下に、人間の亡骸があるようだ。随分と遠くから彷徨ってこの森に帰って来たのだろう。森に帰って来た時にはもう、半分以上は人間ではなくなっていたようだ。そんな状態だから、魔術の潤沢な土地の木に養分として摂り込まれてしまい、混ざり合ったままここに生えていたようだね」
「……………もしかして、…………今、お話しされていた方は、木になってしまっているのですか?」
「そうだよ。この目の前の木がそうだ。内側にその人間も入っているけれど、混ざり合っているからただの木であることも多い。どこで自我が戻ったのかは分らないけれど、なにかきっかけがあって、動き出したのだろう」
「………………木の姿のままで、動けるのですね」
「そう。だから、手を下しただけのつもりでも、子供や仔牛を殺してしまったんだ。自分がここにいると気付いて欲しかったようだから、まだ魂が成長しきっておらずに彼を見付けることが出来た者を、何とか捕まえようとしたのかもしれないね」
どんな生き物にも、まだ魂が育ちきっておらずに未熟な者の中に、大地や自然に近しい目を持つ者が、ごく稀に生まれることがあるのだそうだ。
目の前の木が標的としたのは、そんな魂を持つ子供達であったらしい。
「魔術の質がいいから、この土地にはそのような子供が育ちやすいのだろう。それに、手にしていた守り石がそんな要素を強めたのかもしれない。…………人間の子供だけでなく、該当する者全てに訴えかけようとしたのだろうね」
「他の土地の方や大人の方に被害が出なかったのは、それでなのですね………」
ディノ曰く、このような混ざりものの木は、夜や夜明け、夕暮れ時など、特定の時間に動き出すことがある。
ハシバミが荒ぶるのと同じように、木であっても顔が浮かび上がったり、大きな枝を手足にして歩き回ったりするのだとか。
そのようにして動き出したこの木が、自分を見える子供を捕まえようとして、力加減が分らずに殺してしまったのだろうということだった。
「この木を壊してしまうのは簡単だよ。どうして欲しい?」
「事情が分かったので、まずはエーダリア様に相談して、この成り行きを見届けることの出来る方と、村の方に立ち会って貰えればと思います」
「…………立ち会わせて、壊すのかい?」
「いえ、……………もし、可能であれば、受け取ってあげたいのです」
「受け取る…………」
「この方は、お届けものが出来ずに迷子になってしまったのではないでしょうか。気休めのようなものですが、何とかそれを再現してあげられたなら、或いは起きてしまったことを無駄にせずに済むのではないでしょうか」
その後ネアは、リーエンベルクに連絡をしてエーダリアに事情を話した。
その内容をエーダリアの方で、ダリルを交えて話し合い、ここに派遣して貰える人が決まる。
ビャシヤの村にも連絡が入り、統一戦争の時代を知る村人が五人程、ここに来てくれることになった。
その中には犠牲になった子供の祖父もいるそうで、彼等は村にある贈答用の守り石を一つ持ってきてくれるのだ。
「ネア様、お待たせしました」
真っ先にこちらに来てくれたのは、ヒルドだ。
本人がどうしても言ってきかなかったらしく、擬態させたエーダリアを連れたノアもいる。
村人達を連れてきてくれたのはアメリアで、彼もまた統一戦争で親を亡くした子供の一人だ。
「こんなに近くに仲間がいたのに、俺達は気付かなかったんだなぁ………」
アメリアに手を取られてやって来た白髪のご老人は、既に目に涙をいっぱいに浮かべていた。
孫を失ったという祖父も、決してその木に怒りをぶつけるようなことはなく、ただただ無念そうに項垂れている。
「ニユル、大丈夫かい?」
そう尋ねた老婦人にゆっくりと頷き、森のものになっちまった仲間なら、その理ももう森のものなので、孫を殺されても責めるわけにもいかないと呟いて零れた涙を拭った。
「誰だろうなぁ」
「ああ、誰だろうねぇ。あの時は、村から七人の男達が王都に向かったんだ。誰も帰ってはこれなかったが、その中の誰かが、彷徨い歩いてこの森に帰って来ていたんだねぇ」
「私の兄さんだろうか。………兄さんかい?聞こえるかい、ツァイルだよ」
「俺の弟かもしれないよ。だが、誰にせよ、こんなに長い間森で一人ぼっちで寂しかったろうになぁ」
ウィームの人々は昔から、人ならざる者達と向かい合って生きてきた。
だからこそ、このような形で彷徨い正気を失った者に対しては、愛する者を奪われても責めることはない。
闇の妖精の事件の時にウィームの人々の気質を聞かされてはいたが、こうして受け入れるのだと目の当たりにして、ネアは人々の強さと優しさに胸がいっぱいになった。
「孫を失ったのは胸が張り裂ける思いだが、この木の中にいるのは俺の兄さんかもしれないんだなぁ……」
そう呟きまた涙を拭った老人の背中を眺め、ネアはしっかりとノアに守られたまま立ち尽くしているエーダリアを振り返る。
ネアと目が合うと頷き、エーダリアはゆっくりと進み出た。
村人達に付き添ったアメリアが道を譲り、村人達もここまで出向いてきてくれた領主に涙ながら頭を下げる。
「では、私が少しだけ木の意識を解きましょう」
「ああ。ヒルドが来てくれて助かった」
「この森にはこの森の主がいるでしょうが、これでも私も森を司る者ですからね」
ヒルドが頷いたその直後、さぁっと地面を走ったのは青白い魔術の光だ。
目の前に大きくそびえるねずの木の枝葉がぽわりと柔らかな金色の光を帯び、驚いたように枝にとまっていた小鳥が飛び立ってゆく。
(鳥さんがとまっていられるくらい、すっかり森の中のものになっていたんだわ………)
そんな不思議な感動にとらわれて見つめる先で、大きな木の枝がざわざわと動いた。
ヒルドに意識を分離して貰ったその木に話しかけるのは、エーダリアの役目だ。
「そこにいるのなら、私の声に応えてくれるだろうか。私は、ウィーム王家に連なる者だ。この森に、リーエンベルクに守り石を届けようとしてくれている者がいると聞き及び、こうして立ち寄った」
するとどうだろう。
大きな木が興奮したようにざわざわと枝を揺らし、オオオと、低い歓喜の声が上がった。
同じ唸り声でも明らかに窺える感情の響きが違う声に、ネアは、内側に混ざり込んでしまった誰かが、安堵に泣いているような気がした。
「イシヲ、…………イシヲ、」
「ああ、守り石を届けようとしてくれたのだな。ビャシヤ村の守り石は、とても素晴らしいものだ。更新の年はいつも、届くのを楽しみにしている」
オオオと、またねずの木が歓喜の声を上げた。
ざわざわと大きな木の枝をまるで手のように動かし、ぎぎぎっと太い幹をたわめて腰を折るようにして恭しく何かを差し出してくる。
「イシ………、マモリイシヲ、…」
「届けてくれたのだな。よく、……………長い間頑張ってくれた」
「オモチシマシタ、…………オウ、………リリィサマ」
(あ、…………!)
その言葉にはっとしたのはネアだけではなかっただろう。
それは、エーダリアの祖母の名前だ。
名前のない王女とされ、殺されたことになっていた彼女は、死んだ兄の代わりに王座を継ぎ、父と共に最後のウィーム王として国を治めた。
リリィという名前は、そんな彼女を女性として呼ぶ為に用意された、親しい者達だけが知る特別な名前であったらしい。
(であれば、この人は、リリィ様と親しい人だったのだ…………)
何かの折に知り合ったのかもしれないし、最初から秘密を分け合う者達の中の一人だったくらいに、王家に近しい者だったのかもしれない。
ぼろりと、エーダリアの手の平に落ちたのは土塊のようなものだった。
それをすかさず魔術で入れ替えたのは、その場に同席したノアだ。
元々、この木の中の誰かが渡す筈だった守り石を失くしてしまったと混乱しないように、石そのものが出て来ない場合は、村から持って来て貰った立派な守り石と入れ替えることにしてあったのだ。
魔術で入れ替えられ、ぽとりとエーダリアが差し出した手のひらに落ちたのは、澄んだ水色の綺麗な滴型の石だった。
精緻な彫り物は、草花や魔術陣などを組み合わせたもので、レース模様のようで美しい。
オオオと、また声を上げたねずの木に、エーダリアが大きく頷いてみせる。
「確かに受け取った。これで、リーエンベルクは安泰だ」
「オトドケ………サセテイタダキマシタ。………オウケ…………ノ……ミナサマニ、カワラヌコウフクガツヅキマスコトヲ」
相変わらず片言だったが、最後の言葉は、今迄に聞こえた中で、一番明瞭であったように思う。
村人達の方からはすすり泣く声が聞こえた。
村長だよと誰かが呟き、老人達は深く頷き合う。
(村長さんだったんだわ…………)
バキバキっと、大きな音がしたのはその時だ。
ぎくりとしたネア達の目の前で、大きなねずの木は、あっという間に枯れ木になってもろもろと崩れ落ちてしまった。
「……………木が」
「混ざり合っていた者が、浄化されたのだろう。役目を果たして、死者の国に行ったようだ」
「死者の国に行けるのですね?」
「綺麗に剥がれ落ちたから、大丈夫だと思うよ。混乱していた記憶や心まで元に戻ったかどうかは分らないが、行くべきところに行けたのは確かだ」
そう教えてくれたディノに、崩れ落ちる大木から守られるようにしてノアの結界に覆われていたエーダリアがそうかと呟く。
「そうか。………あるべきところに行けたのだな。…………良かった」
手のひらに落ちた土塊と一緒に守り石を握り締め、深く項垂れる。
隣に立ったノアがそんなエーダリアの肩に手を乗せており、崩れる木の残骸から村人たちを守っていたヒルドも、そんな主人の姿にひどく優しい微笑みを浮かべていた。
「あの日の僕と同じだね。僕もあの日、王宮には行けなかった。でもさ、後で間に合ったんだ。ねぇ、ネア?」
「ええ。……………この方も、やっとお役目を果たせてほっとしたでしょう」
「だからさ、エーダリア。君がここに来たことで、彼はやっと救われたんじゃないかな」
「…………そうだな。そうであると、私も救われる」
もう少し早く見付けてあげたかったと言いたかったが、それは控えた。
そうすれば失われない命があったことが無念でならないが、それを思うのはネアではない。
自分の領域にないものには触れず、ただ、ディノの手をぎゅっと握った。
その後、崩れ落ちたねずの木の残骸には、エーダリアが鎮魂の詠唱を捧げ、浄化の炎で綺麗に焼いた。
村人達はその灰を村に持ち帰り、村の墓地の村長の一族のお墓に埋葬してくれるそうだ。
村に立ち寄るエーダリア達と別れ、ネア達は一足先に森を出ることになった。
「欲しいチーズがあるのだろう?」
「……………はい。エーダリア様は、大丈夫でしょうか」
「ノアベルトとヒルドが一緒だから、大丈夫だよ。君は、早くあのねずの木の男のことなど忘れていいからね」
「むぐぅ。言い方が…………」
「彼を惜しむのは、彼を思う者の役目だ。他の者に心を分け与えるのではなく、君は君自身の為に心を使うといい」
それはきっと、慰めようともしてくれているのだろうが、魔物なりの許容の範囲でもあるのだろう。
ネアは、その殆どの場合をさっくり切り捨ててしまう他者の問題だが、今回は思ってたよりもずっと心を揺らしてしまった。
ディノは、それがとても気になるようだ。
「そうですね。お仕事は無事に解決しましたし、後は、エーダリア様がしょんぼりしてしまわなければいいのですが、ヒルドさんもノアも一緒なので、きっと大丈夫だと思います。ディノ、今日はねずの木になった村長さんとお話ししてくれて、有難うございました。チーズのお土産を買ったら、リーエンベルクで美味しい紅茶を淹れてあげますね」
「……………爪先も踏むかい?」
「むむ。では、帰ったら爪先を踏みましょう。………本日の上限は、二度までですよ?」
「ご主人様!」
二人は、今はもう物言わぬ木達を見回して背を向けると、転移で清廉な雪をいただく古い森を後にした。
後日、ビャシヤ村の当時の村長とエーダリアの祖母の関係は、ディートリンデとのカードのやり取りで判明した。
王宮に届けられる綺麗な守り石に興味を持ったリリィが、父王や騎士達に頼んであの村での守り石の作成行程を学びに行ったことがあるらしい。
当時の村長宅には体の弱い少女がおり、リリィは、仲良くなったその少女が亡くなるまで、文通を続け高価な薬などもこっそり届けていたそうだ。
その少女はまだ若い内に亡くなってしまったが、彼女の兄だったあの男性は、妹の友人だった王女が名前を剥ぎ取られる時に唯一その事実を知らされ、リリィという彼女の為の秘密の名前で、彼女の守り石を作り続けた。
様々な思いが重なり、彼は最後まで妹の友人に守り石を届けようとしたのだろう。
エーダリアがあのねずの木から受け取った土塊は、悪いものが混ざっていないことを調べた後に、リーエンベルクの庭に埋められた。
そこには立派な薔薇の茂みがあり、エーダリアの祖母が手ずから植えた薔薇が、まだ残っているのだという。