狐温泉と滲みの死者 2
「滲みの死者だね………」
狐温泉の第一の湯には現在、奇妙な影のような生き物が出現していた。
そう呟いたディノは、何か魔術を敷いてくれたようだ。
その影のような生き物が現れた途端にひやりとした空気が、先程のうっとりするようなふくよかな森の香りに戻る。
ネア達が息を詰めて見守る先でゆらゆらと揺れる黒い影は、滲みの死者というものなのだという。
特に何か悪さをする様子はないし、興味を惹かれているのは温泉のお湯のようだが、現在入浴中のお客達にとっては大問題に違いない。
橙色の狐は、そろりと体を低くすると、卵の入ったざるを持ってお湯から上がるようだ。
その奥でお湯に浸かっていた三食団子のような三匹のちび狐達も、お湯から上がるかどうかをひそひそ相談している。
けれどもその結論が出る前に、影のような生き物はぐいんと長く足を伸ばし、浴槽から零れるお湯に足先を浸けると、ぎゃっと驚いたように体を竦めどこかへ駆け去って行った。
「ほわ、…………逃げ去りました………。まぁ、お湯が……」
「良かった、すぐに立ち去ったね」
幸いにも、影が爪先を浸けたのは浴槽から零れるお湯の部分だったので浴槽の中は無事だった。
だが、触れた部分のお湯がぱきぱきと音を立てて凍ってしまったので、ネアは驚いてしまう。
そこでも何か魔術を使ったのか、ディノが素早くその部分のお湯だけを見えない結界のようなものに隔離してくれた。
混浴されてしまうのかと震え上がっていた三色狐達は、ふしゅんと体の強張りを解き、温まり直すようにまたお湯に深く浸かる。
再びお湯に浮かぶ三色団子になり、ネアは真ん丸狐の愛くるしさに心が和んだ。
「……………ディノ、…………今のものは何でしょう?」
「滲みの死者と呼ばれる生き物で、死んでいるけれどそれに気付かず彷徨っているものだ。この施設の中を歩いてきたような気配はなかったから、恐らく生前は転移が出来る個体だったのだろう。………特別悪さをしたりするようなものではないよ。けれど、理を歪める者だからあまり関わらない方がいい」
「触れた部分のお湯が凍ってしまったのは、あの方が来た途端に、空気がひんやりしたことに関係があるのでしょうか?」
「ここは温める為の施設だろう?滲みの死者は、その土地の恩恵を正しく受け取れない性質があるから、彼にはこうして氷のように感じたんだろう。理を外れたものを排除する土地の魔術の自衛効果でもあるから、この凍ってしまったお湯は、この土地の中で丁寧に浄化してやった方がいい」
例えば、真冬の雪の中で遭遇すると、滲みの死者は雪を燃やし溶かしてしまい、乾いた土地を湿らせ、潤う土地を干上がらせる。
単純に反対の作用を齎すだけなら利用の仕方もあるのだが、滲みの死者の齎すものは、“土地の恩恵を受けられない”というものである為、嫌厭される傾向にあるのだそうだ。
「……………滲みの死者を見たのは、二回目でしたが、やはり害を及ぼさないと分かってはいても体に力が入りますね」
そう呟いたヒルドは、背中の後ろ側に庇っていたエーダリアを解放し、小さく息を吐く。
ヒルドは特に自然の恩恵に深く関わるものを与る妖精である為、滲みの死者は苦手なのだとか。
「エーダリア様…………?」
ネアはふと、エーダリアが一言も喋っていないことが気になった。
ヒルドの背中の後ろに隠されていたエーダリアは、まだ滲みの死者が消えていった場所を呆然と見つめている。
あまりにも微動だにせずにその一点を見つめているので、ヒルドも不安になったようだ。
心配そうに瑠璃色の瞳を伏せ、そっとエーダリアの肩に手をかける。
ネアはその手のかけ方にふと、ヒルドが幼い頃のエーダリアをどれだけ慈しんでいたとかを見たような気がした。
「エーダリア様、もう滲みの死者は去りましたよ。………しっかりして下さい」
「ああ、…………ヒルド」
どこか心ここに在らずな眼差しで顔を上げ、エーダリアはヒルドが自分の肩に置いた手を不思議そうに見つめる。
「…………………私は以前、滲みの死者について書かれた文献を読んだことがあったのだ。………死者の王が管轄する死者の国に行けず、耳や尻尾が生えてきて世界を彷徨う死者などとんだ与太話だと思い、あの本は手放してしまったのだが、実在したのだな……………。私はなぜ、あの本を手放してしまったのだろう………」
「……………よほど恐ろしかったのかと心配した私が馬鹿でした。あなたは、そういう方でしたね………」
「実在するとは思わなかった!…………あの本をまた探さなければならないな。まさかこの目で見られるとは、なんと幸運なことだろう………。ヒルド?…………あ、いいや、その…………つい興奮してな」
「あなたといい、ネイといい、まったく……………」
ヒルドにそう言われてしまった銀狐は、先程の異変にまったく気付いていないのか、幸せそうな寝顔のままお湯にぷかぷかと浮かんでいた。
ディノも、ご主人様を膝に抱えたまま悲しそうにそんな友人を見ている。
立ち上がったヒルドが、そろそろ洗い場ですねと呟き、幸せそうにぐうぐう寝ている銀狐をざばりと水揚げした。
隣の部屋にある洗い場は、ぴかぴかした宝石質な壁の美しい部屋で、壁に残る壁画などの様子を見るに、元はこの城の城主の部屋だったのだろう。
藍色の毛並みが美しい狐頭にメイド服な洗浄妖精達が控えており、有料で素晴らしい洗浄サービスを受けることが出来る。
毛皮をぴかぴかに洗い上げてくれるだけでなく、筋肉疲労の揉みほぐしや、体の癖などで歪んだ部分の改善もしてくれるので、姿勢が良くなったり小顔になれたりすると好評だ。
腰痛などの疾患がある狐は、このサービス目当てで治療として通う者達も多い。
ネア達はそこで、橙色の狐が呼んできたらしい狐温泉の従業員に出会い、ディノが四角い不可視の箱のようなものに隔離した、凍ったままの温泉のお湯を手渡すことが出来た。
狐温泉に滲みの死者が現れるのは三回目らしく、楽しそうな気配や声に惹かれて入り込んでしまうこともあるのだと、困ったように教えてくれ、ネア達はほほうと頷く。
今回は浴槽の中のお湯に被害が出ずに済んで良かったと笑う従業員は、狐頭に優美な女性の体を持つ妖精で、白っぽい目元の毛が美しい。
少し小さめの四枚羽は綺麗なエメラルドグリーンで、この温泉で派生した妖精なのだという。
普遍的な母親というものを思わせる優しい声でネア達に丁寧にお礼を言ってくれ、洗浄妖精に渡されてゆく眠ったままの銀狐に嫋やかな微笑みを深める。
凍ってしまったお湯は、あの大きなモミの木の根元に埋めて浄化するのだとか。
ヒルドと親しげに会話していたので、いつの間にか知り合いになっていたらしい。
「温泉妖精さんは、エーダリア様も知らなかったような滲みの死者を普通にご存知で驚きました。不思議な生き物はまだまだたくさんいるのですね…………」
「このような土地は、その輝きや賑わいで色々なものを惹き寄せやすいからということもあるだろう。滲みの死者はとても珍しいんだよ。死者ではあるけれど、死の理からも外れてしまうから、ウィリアムの領域でもなくなるんだ。一種の迷い子のようなもので、旅の魔物の管理になる」
そう言われたネアは、こてんと首を傾げた。
「と言うことは、私もなのでしょうか?」
「その属性によるよ。時間軸の迷子は時間の座の精霊達のものだし、場所から場所への迷子や彷徨うものは旅の魔物の管轄だ。君は異なる世界から呼び落とされたから、私の管轄になる」
「ふふ、ディノの管轄だと聞いて、ちょっとほっとしました。やっぱり、私がお世話になるのはディノなんですね」
「ご主人様!」
ネアは知らない生き物に紐付かずにほっとしただけなのだが、魔物は大喜びする。
そんな魔物とは別の理由で、エーダリアもほっとしたようだ。
「そうか、お前はディノの管轄なのだな。まさかそのような関係があるとは知らなかったが、それを聞いて安心した」
「色々な迷子の管轄というのも、不思議で面白いですね。…………それと、狐さんはもうぐんにゃりし過ぎて死体のようです………」
「ノアベルトはあれでいいのかな………」
「やれやれ、とうとう洗浄が始まっても目を覚ましませんでしたね。………本人曰く抵抗しきれない心地良さでどうしても眠ってしまうということで、毎回このような感じになるんですよ」
「ほわ、毎回…………」
「あんなに熟睡していると、洗浄係も洗い難そうだな…………」
ネア達の視線の先では、べろんとした毛皮のようになってしまった熟睡銀狐を、メイド服姿の狐妖精が丁寧に洗い上げてゆく。
あわあわになった後に丁寧にマッサージをされると、ぐぅーという一際気持ち良さげな鼾が一度聞こえたものの、その後はまた死体のようにぐんにゃりしたまま無反応なお客というのはどうなのだろう。
とは言え、その奥で洗われている先程の橙色の狐も、すぐにかくりと寝落ちしているのが見える。
泡を洗い流した後、最後に香りのいい香草湯をかけて貰い、熟睡したままの銀狐はヒルドに手渡された。
「ほわ、眠ったままの狐さんを運ぶヒルドさんが手馴れています………」
「起こそうとしても、仕上げの湯でまた寝ますからね………」
「エーダリア様、本当はここで狐さんが起きてくれると、先程のマッサージで美狐さんになっているのが分ってとても感動するのですよ」
「その変化を見てみたいが、…………ここまで気持ちよさそうに眠っていると、起こすのが忍びなくなるものだな」
洗浄妖精に美狐にして貰った銀狐が向かうのは、仕上げの湯だ。
ぐんにゃりしたままの銀狐を持つヒルドを先頭にその部屋に入ると、ネアはもうあまりにもいい香りに幸せいっぱいで、微笑まざるを得ない。
ここでは、第一の湯の浴槽に湧き出しているエメラルドグリーンのお湯とは違う、透明な琥珀色のお湯が入った浴槽が並んでおり、その中には香りのいい香草が紐で束ねられて入っている。
その量は一つの浴槽につき大人の男性の二の腕くらいの太さがあるので、たっぷりの香草を使ってくれているのだ。
浴槽の底には祝福のある結晶石が沈んでいて、そんな結晶石がぺかりと光ると、お湯が優しい緑色に光る。
この仕上げの湯は堪らなくいい香りがするので、ネアは心もとろけそうな蒸気の中で目を細めた。
リーエンベルクの大浴場のお湯にも素晴らしい香りがあるが、こうしていい香りのする温泉は、その土地に染み込んだ魔術や祝福によるところが大きいのだそうだ。
ヒルドの羽は淡く光り、エーダリアも深呼吸していい香りの蒸気を吸い込んでいる。
ディノもほわりと目元を緩めるので、種族に関わらず気持ち良いと感じる香りなのだろう。
ここにお城があった頃には、あのリーエンベルクの大浴場のようなお風呂場があったのかもしれないし、お城がなくなった後の発見が初めての出現なのかもしれない。
なぜに狐達に効果抜群なのかは謎だが、そんな不思議が残るところもまた、ネアは素敵だなと思っていた。
「ここは、個別の浴槽になるのだな」
「ええ。最後に一人の浴槽でゆっくり入れるというのも、何だか嬉しいですよね」
「湯を循環させるような仕組みになっているのか………」
仕上げの湯の部屋には、真鍮のような色合いと素材の、猫足の置き型浴槽が沢山並んでいる。
中央の大きな浴槽から魔術でお湯が汲み上げられ、藍色水晶のパイプを通ってそれぞれの浴槽に流れ込むようになっていて、更に各浴槽はパイプと同素材のお盆のようなものの上に乗せられており、溢れたお湯はそのトレイに通された水路に流れて部屋中にお湯が巡回する仕組みになっている。
この部屋が堪らなくいい香りに包まれているのは、このお湯が巡回する仕組みの賜物だろう。
ネアはこのいい香りの蒸気で体全体が焚き染められるようにとスカートをぱたぱたしたが、すかさずディノに拘束されてしまった。
飛べないよと窘められたが、なぜにスカートで羽ばたこうとしているのだと勘違いされたのか、ネアには分らない魔物の思考回路の不思議である。
「浴槽は自由に選べるのか?」
「ええ、選べますよ。特に追加料金などもないので、ネイのようにお気に入りの浴槽を指定する者もおりますし、通いながら全ての浴槽を楽しむ者もおります。………あちらにあるのは、団体客用の大きな浴槽ですね」
「浴槽の底に沈んでいるのは、古い結晶石だな。だが、大事にされているのだろう。よく光る」
「ええ。私も感心しておりました。土地で汲み上げられる温泉との相性が良いのでしょうね」
それぞれの猫足浴槽は自然な感じでさり気なく仕切られており、ここにもまたお気に入りの浴槽があるのか、ヒルドは慣れた様子で一つの浴槽に向かうと、ふがふが眠っている銀狐を投入した。
そんな銀狐は、仕上げの湯に入った瞬間には目を覚ましたものの、またすぐに至福の表情になってぐーっと眠ってしまう。
「この仕切りは、綺麗な菫と青緑の結晶石が綺麗ですねぇ」
「ええ。ネイが気に入ってここをよく使うようになったのですが、この通りほとんど眠っておりますから果たして楽しめているのかどうか………」
「ずっと眠っているんだね………」
「むむぅ。浮かぶお湯でなかったら、大惨事になるところでしたね………」
しかし、銀狐はそろそろ水揚げすると宣告されると、はっと目を覚まし、暫くの間きりっとしてお湯に浸かっていた。
どうやらこのタイミングでやっと、意識のある状態が生まれるらしい。
「さぁ、ふかふかタオルで乾かしますよ!」
目を開けてみるとやはり美狐になっていた銀狐は、乾燥などを行う隣室でネアにタオルをふわりとかけられ、ご機嫌で尻尾を振り回しかけ、びしゃびしゃの尻尾をさっとヒルドに押さえられていた。
しかし、何だかこちらまで楽しい気分で満載なネアがわしわしと拭き始めようとすると、銀狐はなぜかじーっとエーダリアの方を見ている。
その助けを請うような眼差しに気付いたのか、エーダリアがすぐにタオル係の交代に来た。
「私がやろう」
「むむぅ。なぜに私では不服なのでしょう。ディノは、私のタオル乾燥が大好きなのですよ?」
「水気を切るのに、魔術を使いながらの乾燥がいいのだろう」
「なぬ。可動域差別です。タオルだけでも一気にわしわしと荒っぽく拭き回せば…」
ネアがそう言うと、銀狐がさっと首を横に振ったので、わしわし拭きはお気に召さないようだ。
では銀狐が望むタオルドライとはどんなものなのだろうとじっと観察していると、確かに魔術を使いながらタオルで拭くので、しっとりと優しい拭き方になる。
ネアは恨めしい眼差しで乾燥台の横に立ち、ご主人様の眼差しの暗さに慄いたディノにそっと撫でられていた。
「私は、君に拭いて貰うのが一番だよ」
「………むぐる。ディノも、本当は魔術でふわっとがいいとは思っていません?」
「君は優しく拭いてくれるからね」
すると、銀狐がそちらの拭き方は自分のと違うぞという目で振り返ったので、獣型と人型では毛質が違うので拭き方も違うのだと説明してやった。
しかし、扱いに差があったと知ってしまった銀狐は、涙目でムギムギと抗議の足踏みをしている。
「これくらいでいいだろうか」
暫くして、優しい手つきでふんわりと銀狐をタオルドライしていたエーダリアが、そう呟いて顔を上げた。
銀狐はすっきりとした面立ちで艶ぴかになっており、心なしか朝より表情の彫りが深くなったように感じる。
毛先の一本一本が潤って艶やかさを増し、その上で柔らかく感じるのだから狐温泉の効果は凄い。
「まぁ!抱き締めて寝たいくらいに、いい匂いで艶ぴかな狐さんが出来上がりました!」
「濡れた毛並みを乾かしていても、先程の湯のいい匂いがした。素晴らしい効果だな」
「今日も卵と一緒に入浴したんだね………」
「…………ディノには、少し刺激が強すぎたのかもしれませんね………」
ここでひと休憩となり、お風呂上りのお客達が寛ぐスペースで、ネア達はきりりと冷やした香草茶と、お茶請けに一人一つ貰える美味しい砂糖菓子をいただいた。
ここの砂糖菓子は、ディノが砂糖菓子というものにはまったきっかけのお菓子で、前回来た時にも美味しそうに食べていたものだ。
今回もお土産に買って帰ろうと言えば、魔物は嬉しそうに微笑んで目をきらきらさせる。
狐温泉の砂糖菓子は、温泉の湯気で育った花蜜を使っているので、口の中で崩れる時にほんわりいい香りがするのが特徴だ。
「そんなに長く居た訳ではないのだが、ゆっくりと休暇を取った後のような爽快感だな。あの香りにある癒しや浄化の効果は素晴らしい」
「私もよく来ますが、ネイだけではなく私自身にも効用があると思っておりますよ」
「お前がそう言っていた言葉の意味が、やっと私にも分かった。ああ、………まだいい香りがする」
エーダリアは香草茶が気に入ったようで、帰りにお土産に買って帰るのだそうだ。
温泉に入るのは狐達だけなのだが、一緒に来たネア達もいい香りの湯気で焚き上げられ、すっかりほこほこといい匂いに包まれている。
狐温泉がすっかり気に入った様子のエーダリアに、ネアはヒルドと顔を見合わせて微笑んだ。
こことてウィーム領の一部なのだ。
エーダリアの知らないウィームの豊かさが、まだまだあちこちにあるのだと思うと、ネアはまた何か新しいものを紹介してあげたくなった。
「確か、朝食はシュタルトのメゾンに行くのだったな?」
「ええ。ノアのお気に入りのお店があるんですよ!」
「それは楽しみだ。………その前に、香草茶を……」
「ふふ、エーダリア様がすっかり香草茶にはまりました」
「いや、石鹸と砂糖菓子も買って帰るつもりだが……」
不思議そうな顔でそう振り返ったエーダリアに、銀狐がムギーと喜びの声を上げる。
お気に入りの狐温泉をエーダリアが楽しんでくれて、とても嬉しかったようだ。
シュタルトに着くまでには魔物に戻って欲しいのだが、果たして大丈夫だろうか。
(あ、ヒルドさんも石鹸を買うんだわ)
ネアは何だかそんなことも嬉しくなり、売店にも漂っているいい匂いをふすふすと吸い込む。
残念ながら今回は、エントランスに生えているあの大きな木の枝のお土産は貰えないようだが、また来月あたりに伸びすぎた枝を落すそうなので、その時にヒルドがネア達の分も枝を貰ってきてくれるそうだ。
「これを買うんだね」
「あら、私がディノの分の砂糖菓子も持っていますよ?」
ディノは、ネアが手に持っている砂糖菓子の袋に、自分で棚から持って来たものをもう一袋足し、ネアが今度はお試しサイズではない大きさを買うことにした石鹸と一緒にお会計をしてくれた。
これは相当大好きだぞと感じたネアは、次回からヒルド達が狐温泉に行く時にも、この砂糖菓子を頼んであげようと心のメモに記しておく。
「何だか最近は、ほこほこするところを楽しむご縁が多いみたいです」
「週明けの仕事では、また少し北部の山間になる。体調を崩さないようにな」
「はい。ディノ、温かい恰好をして行きましょうね」
「大丈夫、君に寒い思いなんてさせないよ」
「そして、お仕事は華麗な早さで終わらせてしまい、雪白チーズを買って帰る予定です!」
「ご主人様………」
「ありゃ。チーズなら今日の朝食でもいいメニューがあるよ」
「む。ノアがノアに戻りました。………ふむ。姿を変えてもいい匂いがしますね」
「ネアが虐待する………。ノアベルトの匂いを嗅ぐなんて………」
「解せぬ………」
五人は、シュタルトのメゾンで美味しい朝食をいただいた。
若干入口で壁画の小熊が脱走したばかりの現場の混乱はあったものの、穏やかで素敵な時間であったと言えよう。
エーダリアはネアのお勧めの葡萄ジュースにはまり、湖水メゾンの主人はお忍びで店を訪れた領主に男泣きした。
なお、脱走したばかりの小熊は、帰り道に道沿いの茂みに隠れて近所のお宅から盗んで来た焼き菓子を貪り食べているところをヒルドに見付かり、無事に絵の中に連れ戻され、御用となった。
その後暫く、ヒルドに厳しく叱られた小熊が、絵の中の聖人達の服裾に隠れて、その隙間から怯えた目で周囲を警戒しているというたいへん猟奇的な絵が生まれたが、またすぐに本来の自分を取り戻し、絵から脱走したのだそうだ。