狐温泉と滲みの死者 1
その朝は、素晴らしく澄んだ空気に包まれていた。
淡く清廉な陽光が差し込んだ森は緑色のありとあらゆる透明さを備えた宝石のように煌めき、咲き誇った花々は朝の空気に芳しい香りを漂わせる。
陽光に揺らぐのは、朝靄の白いヴェールに、夜明けの香りと朝露の香り。
そんな瑞々しさを胸いっぱいに吸い込みながら、ネアはふと、森の向こうに黒っぽい影が揺れたのを見たような気がして首を傾げる。
しかし、一緒にいる銀狐は気付いた様子もなく、小さな妖精にからかわれてばいんばいんと弾んでいた。
(気のせいだったのかしら……?)
小さな毛だらけの妖精は、怒り狂って追いかけてくる銀狐が面白いのか、執拗につついたりしてからかっているので、銀狐の隣にいるエーダリアは、先程から気が気ではないようだ。
「むむぅ。その毛だらけの、………親指のようなやつを成敗しますか?」
「親指ではなく、穴鼠の妖精だな………」
「なぬ。親指以上に似ているものが見付からないくせに、こやつは穴鼠なのですね?」
「木材の虫食いの穴に住む妖精なのだ。穴鼠が暮らす建物は栄えるらしい」
「む。そんな親指めが、エーダリア様に張り付きました」
「………ん?ああ、………っ?!ノ、ノアベルト、落ち着いてくれ!!」
大好きなエーダリアにへばりついた親指に、怒り狂った銀狐はムギーと鳴くと、慌ててエーダリア登りを開始する。
大事な契約主に張り付くことなど絶対に許さないという決意に満ちた眼差しで、怒りのあまり夏毛になりかけの尻尾が歯ブラシのようだ。
しかし、銀狐が登ってきても穴鼠が更に上に逃げてしまうので、エーダリアに叱られながら登る銀狐は分が悪い。
「狐さん、任せてください!」
可愛そうになったネアは、邪悪な親指生物への報復を代わりに引き受けることにして、えいっと指先で摘まみ取ってやった。
キーキーと鳴き声を上げて身をよじる親指は猟奇的な光景だったが、このおかしな生き物をどうしようかなと首を傾げたネアの横から、誰かが手を伸ばして親指生物を引き取ってくれる。
「ネア様、この穴鼠は私が森に帰しておきましょう」
「…………ほわ、ヒルドさんに受け取って貰ったら急に動かなくなりました。死んでしまったのでしょうか?」
「ヒルドがシ―だから、怯えて気を失ってしまったのだろう。それとネア、指先を拭こうか」
ディノは、ネアがまた見知らぬ妖精を触ったことが悲しいのか、さっと濡れタオルを取り出してきてくれた。
最近のディノは、幻惑の世界でネアの教えでネアが懐いた餌付け作戦で味を占め、様々な人々からネアへの対処法を学びつつある。
因みに、何か妙なものを触ると手を拭いてくれていたのは、主にヒルドで時々アルテアだった。
「はい。すぐに拭きます。じんわり湿っていて生暖かい穴鼠さんでした………」
「毛皮なのにあまり好きではないんだね………?」
「ふぁい。…………穴鼠さんは、毛皮の会の愛でたい生き物リストから除外しますね」
「湿っていたのは、朝靄の森を飛んだからではないのか?」
そう言われたネアは銀狐と顔を見合わせ、親指生物から守ってあげたのにわかっていないエーダリアに渋い顔をする。
ヒルドは、恐怖のあまりぐんにゃりしてしまった親指を、小枝の上にそっと捨てていた。
すると今度は、銀狐はその木の根元に生えていた、しゃりしゃり音を鳴らす鈴花草に夢中になってしまう。
尻尾でぱすぱすすると、半透明の檸檬色の硝子細工のような鈴蘭に似た花が、しゃりんと涼やかな音を立てるのだ。
大はしゃぎで花を鳴らす銀狐をさっと抱き上げ、すぐに野性化してしまう友人を魔物の世界に引き戻したのはディノだった。
「ほら、狐温泉に行くのだろう?」
そう言われて尻尾をふりふりした後、銀狐は自分が出立を遅らせていることに気付いたのか、青紫色の瞳をまん丸にする。
その後はとても大人しくなったので、朝のお出かけにはしゃぎすぎたことを反省したようだ。
「さて、行きましょうか!」
今日は以前から約束していた、エーダリアを交えて狐温泉に行く日だった。
このお出かけに備えて、リーエンベルクには早起きした騎士達が詰めており、エーダリアは珍しく擬態している。
領主不在となるリーエンベルクだが、初めての狐温泉で銀狐よりわくわくしているエーダリアの姿を数日前から見ていたので、騎士達のやる気もかなりのものだ。
ネアは、何人の騎士達に、当日は多少のことがあっても帰ってきてはいけないと言い含められただろう。
お出かけの間くらいはここを死守するので、エーダリアに狐温泉を堪能させてやって欲しいということだった。
「では転移するよ」
「はい!」
「宜しく頼む」
「お手数をおかけします」
今日は契約の魔物なノアが狐になってしまっているので、エーダリアとヒルドの転移はディノが補助する。
エーダリア自身の力でも転移は可能だが、初めて行く場所なのでその土地を知る者の手を借りた方がいいし、やはり転移は人間には簡単に扱える魔術ではない。
ヒルドも転移は出来るが、あまり妖精が得意とする魔術ではないので他者を連れて踏むには負担が大きい。
有事以外の時のヒルドは、エーダリアを肩に抱えて移動する派だ。
そうして踏み入る今日の転移は、淡い薄闇にあの狐温泉のお湯のいい匂いがした気がした。
ネアは、銀狐を抱えて目を輝かせているエーダリアの横顔をちらりと観察し、微笑みを深める。
エーダリアの向こうにいるヒルドと目が合えば、ヒルドもそんなエーダリアを見ていた。
どこか嬉しそうなその眼差しの愛情深さに、ネアも一緒に嬉しくなる。
(犬用シャンプーと、狐さんのブラシに換毛期用のブラシも持った。万が一の時用のリードもあるし大丈夫!)
ふわりと転移から一歩踏み出せば、そこはウィーム北部にある森の中だ。
この中にある古城が、崩れかけたその様も美しい、お城の内部にも森を宿した素晴らしい狐温泉になっている。
ぷんと、朝靄に濡れた森の香りがした。
どこかで小鳥がピチチと鳴き交わし、がさっと音を立てて駆け抜けてゆく藍色の毛皮の獣が見える。
そんな豊かな森の中に現れたお城には、屋根は殆ど残っていなかった。
外側の壁だけの造りをテント風の屋根を張ったりして上手く利用しているのだが、屋根が残っている部分の区画も少しだけあり、そこは屋根が必要な受付やお土産屋さんなどの施設として重宝されていた。
温泉部分は屋根がないので、結界で屋根を作っているが、透明な壁の状態なので基本露天風呂のような造りだ。
エーダリアがまず反応したのは、入り口からその内側の玄関ホールに見える、大きなモミに似た木だ。
「素晴らしい木だな。魔術が濃い…………。森の加護と水の加護、………治癒の祝福もあるのか………」
「エーダリア様、まずは受付をしますのでお待ち下さい。ネア様、私の方で全員分を済ませてしまいますね」
「ああ、そうだった。任せていいか?」
「ヒルドさん、宜しくお願いします」
狐温泉は、受付の妖精に何か温泉の管理に有効そうなものや、森の妖精達が喜ぶようなものを渡せば入場料代わりになる。
ヒルドは、ここの管理と素晴らしい温泉の香りへのお礼も込めて、いつも入場料より遥かに高額なお掃除道具や美味しいザハのチョコレートを手渡しているそうだ。
今回も、受付の妖精はヒルドを見るなり羽を煌めかせて大喜びし、ずしりとした重厚な箱詰めのチョコレートを大喜びで受け取っている。
わらわらとバックヤードに控えていた妖精達も出てきているので、このチョコレートはみんなの楽しみであるようだ。
「成る程、そのようなものでも入場料代わりになるのだな」
「森の生き物達が手持ちの通貨でも通えるよう、入場料の支払いはどの時代のウィームの通貨でも構わないそうですよ」
エーダリアはそんな受付の様子を見てヒルドから入場料について教えて貰ったり、エントランスホールにある大きなクリスマスツリーのようなモミの木を見たりと、嬉しそうにあちこちを見回している。
足下を跳ね回る銀狐が、常連さんの顔でそんなエーダリアにあちこちを自慢しているのが微笑ましい。
今日は灰色の髪に青い瞳で擬態したエーダリアは、ノアから、ノア自身が好む擬態の色として、わざわざその色彩を指定されて擬態している。
何かがあればノアがその擬態で入れ替われるし、こちらを知っている人達に遭遇していたり、誰かがネア達のことを見ていたとしても、人々の印象の中での色彩の区分というのは、大きな要素を占めるからなのだそうだ。
(色だけが印象に残れば、エーダリア様の存在をぼやけさせることが出来るからなのかな…………)
「この木にかけられたオーナメントは、支払われた品物などが入っているのだな」
「見て下さい、私はこの奥にあるぺかぺか光る水色のお花がとてもお気に入りなのです」
「………清涼感などを添付する、涼風の祝福を受けた花だ。珍しいもので、私も見るのは初めてだ………」
決して高価稀少というものではないのだが、見付けてもすぐに枯れてしまうことが多いので、森に住む者達でないと、なかなかお目にかかれないのだそうだ。
なお、今日のエーダリアの偽名はリアである。
偽名と言うよりは名前の一部を取っているもので、通り名として使えるようなものだ。
王族の名前には守護がとても強くかけられているので、エーダリア自身も、お忍びの時に使う偽名では、その守護を失わないように自分の名前から文字を抜くように気を付けているらしい。
「リア、こちらですよ」
「そ、そうかすまない」
見慣れない施設にすっかり夢中のエーダリアの名前を呼び、ヒルドが順路を説明する。
ネアも、久し振りの狐温泉なのではぐれないようにディノの三つ編みを握った。
カツカツと足音が響く。
朝の早い時間で訪問した今回は、崩れかけた壁やお城の中に育った木々から零れる木漏れ日の美しさに、胸の奥が清々しく清められるような気がした。
朝の光は水晶のように透明で澄んでいる。
ネアは以前の訪問とは季節が変わったことで、また新たに装いや雰囲気を変える春の花々に目を瞠って、大きな砂灰色の壁を見上げた。
「春の狐温泉も綺麗ですね」
「一年を通して咲いている花もあるようだよ。ほら、君がいい匂いだと話していた花がある」
「まぁ、この花は今日も楽しめるのですね!」
前回咲いていた淡い水色と黄色のマーガレットのような花は、今も壁にみっしりと群生して可愛らしい花を満開にしている。
その林檎のような香りを胸いっぱいに吸い込むと、今度は紫陽花のような瑠璃紺の花が満開になっている区画に近付き、ネアは、爽やかな森の香りのようなふくよかな花の香りを楽しんだ。
(前回とは違って、光るキノコはないみたい。でもその代りに、そこかしこにお花が沢山咲いてる!)
朝靄と朝露で木々や花々はしっとりと濡れているが、そこにべたべたじめじめしたような気持の悪さはなく、床に寝転んですやすやと眠ってしまいたいくらいに、安らかで穏やかな森の透明感が様々な色合いで重なる。
何層にも、何層にも。
萌木色の小さな葉をつけた枝に、大きな青緑色の葉をつけた枝。
零れるように垂れ下がって咲いている藤の花に、名も知れぬ可憐な黄色い花の茂み。
桜のような満開の花を咲かせている木は、ネアが秋に来た時にはサンザシだと思っていたものだ。
赤い実を重たくつけていたその枝は、今や八重咲の桜のようなふっくらとした花を幾つも咲かせていた。
結晶化した壁には、祝福が結晶化した鉱石があちこちにある。
ネアが前回感動した素敵な壁は、森の結晶石や緑柱石が混ざって壁を様々な質感で彩り、結晶化した砂灰色の壁の質感を艶々と宝石質にしたり、どこか温もりを感じさせる琥珀のようなとろりとした質感に変えていた。
ざりざりとした砂岩のような部分も、ほっこりと素朴で悪くない。
苔がぼうっと光り、そんな城壁の結晶石にまた違う煌めきを映す。
エーダリアは、そんな壁のあちこちを興味深そうに指先でなぞっていた。
「この部分には、不思議な魔術が絡み合っているな………」
「その、もやっと白くなった部分は、ヨシュアさんの祝福なのだそうですよ」
「雲の結晶石か!………森結晶とこんな風に混ざり合うのだな………」
そこでエーダリアが無言で視線を下げたのは、じっとりした目の銀狐が爪先をぎゅっと踏んでいるからだ。
わざと体重をかけて踏んで、自分が主賓なのだと重く訴えかけている。
「す、すまない。ついな…………」
すっかり足が止まってしまっていたが、そんな催促を受けてネア達は再び歩き始めた。
いつもは脱線しがちな主人に声をかけるヒルドが無言だったのは、彼も、羽を広げてこの芳しい夜明けの空気に浸っていたからであるらしい。
ネアは、そんなヒルドの羽を透過して地面に落ちた光の煌めきにも、こっそり見惚れていた。
この辺りを抜けると、周囲には霧なのか湯気なのかわからない、胸の奥からすこんと疲れが抜け落ちそうな、狐温泉お馴染みの森と水の香りが強くなってくる。
壁の一画には溶かした蝋燭をかけたような、とろりとした白みがかった緑色の結晶石が育っており、瑞々しい葉を茂らせた木の枝を映して不思議な奥行きを見せてくれる。
ムギーと銀狐が鳴いた。
次に見えてきたのは、小鳥達がぎゅう詰めに乗った小枝で、立ち昇る湯気にあたりに来ている小鳥達は、以前に来た時と同じように湯気があたる枝のところを選んで、みっしりと並んで止まっていた。
今回は春先に生まれた雛なのか、まだ羽が生えそろっていないむちむちした青い小鳥が一番いいところを押さえていて、声を上げて尻尾を振り回した銀狐の登場に目を丸くしている。
しかし、他の小鳥たちは親しげに鳴き返してくれたので、すっかり顔見知りになったようだ。
美しいシーであるヒルドの登場に大喜びした小鳥達と、ヒルドの一番は譲れない銀狐の間には大きな溝があった筈なのだが、ネアはいつの間にか育まれた思いがけない友情に驚いてしまった。
「………まぁ、狐さんは鳥さん達とお友達になったのですね」
「ノアベルトが鳥と…………」
「最初はネイがあまりにも威嚇するものですから、鳥達も警戒してしまっていましたが、何回か来る内に和解したようです」
ヒルドが聞いた話によると、ここの小鳥達と仲良しになるのが常連の証なのだそうだ。
黄色いのが陽光の精霊、青いのが水辺の妖精の一種なのだと教えて貰ったことを思い出し、ネアは愛くるしい小鳥達のバトルを観察する。
今回も、雛のいないポジションでは押し合いの戦争が勃発しており、またしても黄色い小鳥が青い小鳥をぐいぐいと押していた。
押されている青い小鳥は、全身の体重をどっしりと木の枝に添わせ、眠ったふりをしているが押し出されないようにしっかりと足で踏ん張って抗っている。
そんな小鳥の小枝の下をくぐり抜けて歩いてゆくと、ネアが前回来た時に感動したアーチ型の梁が現れた。
「お気に入りのところに来ました!あの羽箒の魔物さんの俯き加減な微笑みがとても好きなのです」
「ネアが浮気する………」
「あらあら、私は、装飾品には浮気をしませんよ?壁と彫像に荒ぶってはいけません」
「羽箒なんて…………」
ここには壁画やモザイクと一体化するような意匠で、柱を支えるように佇む羽箒の魔物の彫像があり、ネアは、どこか繊細なその面立ちや翼の彫刻の美しさに惹かれたのだった。
隣を見れば、エーダリアもそのアーチに見惚れている。
ゆっくりと歩きながらその下をくぐり、まるで壁画の中から出てきているかのような大きな翼の先をじっと観察して、擬態で青くなった目を輝かせた。
「…………このようなものがまだ残っていたのだな。昔の絵の具には、描いたものを絵の中から引きずり出し、彫刻にもしてしまうという技術があったそうだが、これはその初期のものだ」
「まぁ、そういうものだったのですか?前回来た時にすっかりお気に入りになった装飾でしたが、珍しい技法だったのは知りませんでした」
「特殊な魔術でな、扱える者が少なかったようだ。随分昔にウィームから出て行ってしまった王族達が、この技術を持った絵師達を連れていってしまい、その技法はもうウィームには残っていない。………こんなに綺麗な状態で残っているのを見たのは、私も初めてなのだ」
「カインの建物にはその技術の名残りがありましたよ。どこかで技術を継いだ者達が息災であれば良いのですが、あのあたりも、広範囲で滅びた土地ですからね………」
エーダリアは嬉しそうに羽箒の魔物の絵の部分を撫で、今日はいいものを見たと微笑みを深める。
途中で下を向いたのは、温泉を目の前に待ちぼうけな銀狐が、またしても爪先を踏んだのだろう。
初回はヒルドの肩の上にいた銀狐も、何回も狐温泉に来ている常連になってからは、我が物顔で自分の足で歩いている。
「ほら、エーダリア様、あれが第一の湯なんですよ」
「第一の湯……。ヒルドが話していたように、何とも言えない気持ちのいい香りだな」
朝の狐温泉は、柔らかな金色の朝陽が差し込むことで前回とはまた違う美しさを見せてくれている。
お客さんの少ない時間だが、朝風呂を楽しむ狐達もそれなりにいるようだ。
二段ケーキのような円形の温泉は、エメラルドグリーンのお湯を泉のように湛えている。
地面に小川のように流れているのも湧き出したお湯で、お客達はそんな浅い温泉の川を渡ることでしゃばしゃばと足を温める。
ムギムギ鳴きながら尻尾を立てた銀狐は、いつもの場所なのか慣れた様子でお気に入りらしいところにぴたりと到着すると、さぁ、かけ湯をし給えなご機嫌の表情になってヒルドを見上げる。
「また卵が入っているんだね………」
前回に引き続き、お湯の熱い部分で籠に入った卵が茹でられているのを見付け、ディノは友人が卵と一緒に茹でられてしまうことへの悲しさを深めたようだ。
「みなさん、入浴がてらおいしい温泉卵を作って帰るのでしょう。今度、私達も持って来てみますか?」
「ノアベルトと卵を一緒に茹でるんだね………?」
「あらあら、そんなにしょんぼりしないで下さいね。効率的な温泉の利用法で、私の育ったところでも見かけたので、昔からよくある楽しみ方なのでしょう」
「うん………」
ネアがしょぼくれた魔物を慰めている間に、銀狐は慣れた様子のヒルドにかけ湯をして貰っている。
夏毛になりつつあるので驚きの細さになり、エーダリアにそんなに細いのだなと驚きの声を上げさせていた。
この第一の湯は、円形の噴水のような造りになっている。
ネア達はそんな浴槽を眺められる位置のベンチに座り、小さな生き物が入っても沈まないという有難い温泉にちゃぽりと足先を沈めた銀狐を見守った。
もう何度も入っている筈なのだが恒例なのか、銀狐は、ぶるりと感動のあまりに身震いをしてけばけばになってから、とぷんとお湯に沈み至福の表情になる。
微笑みの気配に横を向けば、エーダリアがふにゃふにゃになっている銀狐の姿を眺めていた。
エメラルドグリーンのお湯にぷかぷか浮かんでいる銀狐は可愛い以外の何物でもないが、そんな絵としての可愛さよりも破壊力が高いのは、大事な家族が幸福に緩み切った顔でお湯に浸かっていることだろう。
むふんむふんと甘い息を吐いていた銀狐は、二分もしない内にとろとろと眠り始めてしまう。
体はぷかりと浮くので、こうして時間を見ていてあげる同伴者さえいれば、お湯の中で眠るのも気持ちいいのだろう。
ベンチに座っているヒルドも軽く目を閉じているが、エーダリアはヒルドがこの狐温泉のふくよかな森と水の香りを堪能している姿も嬉しいようだ。
唇の端を持ち上げてそんな家族達を見守り、ひどく穏やかな目をする。
ネアが見たかったのはまさにそんな顔のエーダリアだったので、カードで勝つことの出来た自分の才能に感謝したい。
(狐温泉の狐さんの姿は、むしゃくしゃした時には思い出して心を宥めるいいお薬になるくらい可愛いから、エーダリア様だってきっと喜んでくれると思っていたけど、やっぱり連れて来て良かった………)
こうして過ごす時間は、幸せな非日常の時間だ。
勿論、共に暮らしてゆく中で見ることの出来る姿も愛おしいが、こうして過ごす時間も特別だと思うのだ。
だからネアは、狐温泉のことを話した食卓の席で、銀狐だけではなくヒルドもとても素晴らしかったと称賛していることに目を瞠ったエーダリアに、お土産の石鹸の香りを嗅ぎいい匂いだなと呟いたエーダリアに、この狐温泉で寛ぐ銀狐とヒルドを見せてあげたかった。
「仕上げのお湯はもっと香りが濃密で、うっとりとろりなお部屋になるんですよ」
「日頃の疲れが吹き飛びそうだな。湯気というよりは、香りの蒸気のようだ。淡く光る祝福も美しいし、これは連れて来て貰って本当に良かった」
「…………淡く光る祝福」
「そ、そうか、お前には見えないのだな………」
「むぐぅ………」
こぽこぽと、お湯が湧き出し流れてゆく音がする。
他のお客達ものんびりとお湯に浸かっていて、何とも平和的な光景だ。
ディノは、卵を入れたざるを確認しているお客の方を見てしまい、少し怖くなったのかネアの膝の上にそっと三つ編みを設置していた。
(あれ…………?)
その時、ふっと、冷たい空気が揺れたような気がした。
ネアが何だろうかとそちらを向くよりも早く、ディノはネアの膝の上に置いていた三つ編みを手に握らせてきた。
のんびりと目を閉じていたヒルドも立ち上がり、素早くエーダリアの前に立つ。
このような動きには慣れているのか、エーダリアは特に声を発することもなくヒルドの背に守られるような位置で動きやすいように座り直している。
「………何かが来るね。これを持っておいで」
「お客さんではないのでしょうか?」
「どうだろう………。少し気配が曖昧なんだ。まだここにはいないものだから、これは転移の予兆だね」
そうこうしていると、ふわりと、見たことのない影のような生き物が現れた。
ずっとその辺りを見ていた筈なのに、いつの間にかそこにいたのだ。
ネアはいきなり視界の端に揺れた黒い影にどきりとして、思わず魔物の三つ編みをぎゅっと握ってしまう。
銀狐の向こう側で卵を茹でていた橙色のふくよかな狐が、ぎょっとしたようにお湯の中で飛び起きたが、残念ながら銀狐はまだ眠ったままだ。
(これは、何だろう…………)
それは、不思議な形をした影のようなものだった。
ネアは死者の国で見た花売りを思い出しひやりとしたが、影の形としては狐耳のある人型のものだ。
妙に手足が長いが、影のように実態はない。
さっとディノの方を見ると、眉を顰めた魔物に素早く膝の上に乗せられる。
警戒はしているようだが、強い危機感を覚えるような表情ではなかった。
ヒルドの眼差しにも、これならばという微かな安堵のようなものがある。
けれどもなぜか、完全に安心したようにも見えず、表情は硬いままだ。
ネアはこの生き物が何なのか尋ねたかったが、当該の生き物が目の前にいるのでと声を飲み込む。
部屋の空気がひんやりと下がり始めていた。