檸檬シロップと鏡の裏側
「すみません、俺の不手際でした。戻り時の妖精を使えますか?」
そう伝えれば、呼び出されたアルテアが眉を持ち上げる。
「らしくないな。お前なら、その場で壊せばいいだろうに」
そう笑ったアルテアがいるのは、この浴室に繋いだとは言え、正面の鏡の向こう側にある見知らぬ廃墟だ。
がらんとした教会跡のようなところだが、天窓からは鎖が垂れ下がり、誰かの亡骸が吊るされている。
いつもの椅子に座り、ステッキを椅子の背にかけて煙草の煙を吐き出した旧知の魔物は、どこで何をしていたものか擬態の気配はない。
であれば彼は、選択の魔物としてそこにいるのだ。
「今回は、単純に壊してしまう訳にはいかないんですよ。ネアは、彼女を気に入ったようだ」
「…………まさか、直接会わせたのか?」
「リロレイドが部屋に入って来たんですよ。………直接会話した訳でもないが、ネアは誰かを気に入ると分かりやすいですから」
そう言えば、アルテアがさもありなんという目をして天井を仰いだ。
話を聞く限り、アルテアといる時の方が、ネアはそのような相手に出会いやすい傾向がある。
アルテアは、もう何度もそんな場面を見たのだろう。
「………ったく、だから余計な奴には会わせるなと言っただろうが。特に女は厄介だ。あいつ自身が痛切に欲しがっている縁だからな、気に入ればすぐに好意的になるし、あいつが気に入りそうな女は自尊心が高そうで鬱陶しい」
それは、アルテアとは再三話してきたことであった。
人間は、その手を取りたいと望む相手には、己の期待を反映しやすい生き物だ。
なので、ウィリアムとアルテアは、そんなネアが警戒心を緩めそうな領域ではかなり気を張ってきたつもりだった。
一度繋いだ縁を剥がすのは厄介だし、シルハーンは恐らくネアが望めば押し負ける。
その要求に屈した先に、自身が望まない展開が待ち受けていても、彼は己の苦悩を切り捨てて大事なネアの願いを叶えてしまうだろう。
ネアは聡明だが正直だ。
そして、魔物の心は時に呆気ないくらいに脆く壊れる。
「…………ネアは特に、地竜の女達は気に入ったようです。ルハートには、今後とも注意させないと………」
「と言うか、そうなると分かっていて、ルグリューを担当に指名したんだろ?」
そう言われて頷いた。
どうやら、シシィからその情報がアルテアにも入っていたらしい。
その抜かりなさが、あの仕立て妖精の王女はどこかダリルに似ている。
ウィリアムは、シシィであれば友情を築いても構わないと考えていたのだが、聡明な仕立て妖精は、あえて距離を縮めずにいるらしい。
「彼は、空気の読み方も気の回し方も上手く、優しいだけではない聡明な竜ですからね。それに、シシィは顧客としてのネアを気に入っていますから、今回のことを知れば夫に彼女との接し方を上手く指導する。妻を溺愛している地竜は、その願いには忠実だ」
「あいつが気に入るような気質の、尚且つ自身の立場を弁えた担当をつけ、地竜の女達からは遠ざけたか」
「…………上手くいきませんでしたけどね。彼女のことは予定外でした。ルグリューも、第二王女の指示には逆らえない」
「やれやれ、あいつはどうしてこうも災難ばかりを引き寄せるんだかな…………」
地竜の第二王女は、情深い地竜の女達の中でも、ずば抜けた才を持ち、こうと決めたことは決して譲らない行動力のある女性だ。
ウィリアムは彼女が幼い子供の頃から見てきたが、アルテアが言うように自尊心が高く、王位継承を視野に入れず育てられた女児として、伸び伸びと育った分かりやすく奔放な竜である。
うっかり会わせてしまえば、ネアは気に入るだろうと考えていたが、まさかあんな誤解を受けるとは思ってもいなかった。
(俺が、リロレイドを…………?)
そう考えると、どうしても眉を寄せてしまう。
ネアがそう誤解して振る舞ったことに対しては、不愉快というよりは驚きや焦りの方が大きく、彼女が心配したように怒っていたりなどはしないが、そんな誤解を与えるような言動が自分にも見受けられたのかと思えば、自分の迂闊さにもうんざりする。
彼女の気持ちを、知らなかったなどとは言うまい。
自分でも感じることはあったし、周囲の者からそうだと言われることもあった。
その度にそんなことはないと微笑んで受け流し、内心は辟易としていた。
ネアが出会ってさえいなければ、人知れず壊してしまうことも容易かったのだが。
(恐らく、リロレイドはネアを懐柔しようとしている…………)
あの檸檬シロップを見れば、それは明らかだ。
人外者をよく知らないネアや、人のいいルグリューは危険視していないが、そもそも口に入れるものを高位の者が振る舞うということは、余程その手段を考えねばならず、魔術の繋がりを断たねば危うい。
砂風呂で頼んだような調理されふるまわれる出来上がった商品とは違い、品物として贈られた食品は扱いが難しいものだ。
特に大地に紐付く地竜の祝福は、見逃しやすく厄介なものであった。
彼女は女なりの直感のようなもので、ネアが自分を気に入っていることを狡猾に察したのだろう。
頭のいい女で、ネアが掌握されそうなくらいには情深い。
けれども、情深い女が決して善人だとは言えないのだ。
そしてリロレイドは、何とも便利な知り合いを得たことを逃さず、自分の都合のいいように事を運ぼうと考えている。
それは決してウィリアムに近付く為にということだけではなく、ネアは万象の指輪持ちなのだ。
ウィリアムは牽制のつもりでそれを告げたが、あの時の彼女の瞳は愉快そうに煌めいた。
そうして、ウィリアムは自分の失策に気付いたのであった。
(ネアであれば、そんな大仰なことではないと笑って言うのかもしれないが……)
けれど、歯に衣着せずに言えばそういうことなのだ。
そして、穏やかさを資質とするルグリューとは違い、リロレイドは荒々しさを資質とする高位の地竜である。
口調や表情は柔らかくとも、己の欲望や信念に応じて、苛烈とも言える行動に出ることを、ウィリアムは過去の遭遇からよく知っていた。
彼女がウィリアムに手を引かれたと話していたあの日、ウィリアムは、彼女が気に入った香木の苗を保護する為だけに戦場に入り込み、危うく命を落とす危険もあるような無謀な行動をするのを、頭を痛めながら見ていた。
戦場にしかけられた崩壊魔術の一つに足を取られて転倒した彼女に手を貸したのは、こちらの仕事を増やさないで欲しかったから以外の何物でもない。
リロレイドは、突然戦場に乱入してきた地竜に驚いた兵士達に攻撃され、多くの兵士達を邪険に踏み殺している。
それに関してどうこう思うと言うよりも、あのままでは、余計な混乱を招きかねないと感じ、昔からなぜかこちらに深く踏み込もうとしてくる厄介な地竜の姫に渋々手を貸したのだ。
ただ、ウィリアムはそんな気質を煩わしいと思うばかりだったが、ネアは一概にはそう思わないかもしれない。
彼女は一度心の内側に入れた者に対しては、とことん相手を赦し続けるようなところがある。
もし、そんなネアの心の織りに、待ち望んでいた同性の友人としてリロレイドが入り込んだら、ウィリアムばかりではなく、シルハーンやアルテアにとっても、災難以外の何物でもない。
「………で、あいつを取り込んでお前に近付こうとしているから、邪魔なのか?」
「それも不愉快ですが、高位の地竜は、激情に走ると邪魔なものを滅ぼしかねませんからね。ネアが、好意や友情を深めた相手から傷付けられるのは避けたい」
「ほお、その可能性だけで、お前に惚れた愚かな女の心を壊すか」
それが自分でも壊すくせに、アルテアはそう笑う。
なのでウィリアムは、更に頭の痛い事実を、そんな古い友人に伝えておいた。
「可能性だけとは言えないかな。これでも俺は終焉ですからね、その稚拙な願いの道筋に終焉の翳りを見たと言ったら?」
「おいおい、お前が終焉の翳りを見るとなると、相当ろくでもないぞ」
「ええ。そこまでのものを引き起こすのであれば、リロレイドは放っておけば間違いなくネアを傷付けるでしょう。後腐れなく壊しておきたいところですが、ネアはこの砂風呂を気に入っていますし、既に一度彼女に出会ってしまった。………勘のいいネアに気付かれないよう、リロレイドを殺さずに危険を排除しておきたい」
そこまで言えば、アルテアは煙草を淡く燃やし消し、ゆっくりと立ち上がる。
乱れてもいないシャツの襟を直し、唇の端だけで微笑みを深めた。
「一つ貸しだ。…………それと、よく俺を頼ろうと思ったな?」
「この前のカードの対価は返しましょう。あなたを頼ったのは、……そうですね、こんなにも彼女を傷付けることの出来る絶好の機会だからこそ、あなたはもう、それを放置しないと思ったからですね」
「…………カードの対価を戻すとなると、仕込みが終わった顛末では、鳥籠が必要になるが?」
「はは、ネアの為なら小さな国の一つくらい、あなたの玩具に差し上げますよ」
「………お前は、本当に一度その目をあいつに見せてみろ」
そう言われても微笑むに留めておいたが、恐らくネアには、こんな無様な姿を見せることは二度とないだろう。
終焉は静謐で規則正しく美しいものだが、同時に、喧しく入り乱れた醜悪なものでもある。
ネアはきっとそれを見ても逃げないだろうが、やっと手に入れた大切なものに、そんな醜いものを見せたいと思う筈がない。
あの悪夢の中で見せた、あの欠片で充分だ。
「戻り時の毒を、俺が持っていると思ったのは?」
「去年のシルハーンの事件で、あれだけの効果と可能性を知ったあなたが、それを手元に置かないことはないでしょう。まず間違いなく、効果を固定しておく術式か薬剤も開発済では?」
「………さてな。今回はそれは使わん。戻り時の毒は、あくまでも一過性のものだ。効果を固定した術式や薬剤が、どんな要素で壊れるかわからない。要するに、一定期間の記憶を剥ぎ取っておけばいいんだろ?」
そう呟いて手袋をはめ直したアルテアに、ウィリアムは小さく息を吐いて目を細める。
アルテアはネアから貰った手袋を愛用しているが、あまり好ましくない遊びや仕事をする時には、決してその手袋をつけない。
今日も、彼がつけているのは、どうでもいいようなお気に入りの衣装の一つ。
とあれば、あの後ろの窓に吊るされた誰かは、決して悪人ではないのだろう。
彼の魔物の質の部分が、弄び嬲り殺した哀れな犠牲者なのだ。
「確かにあなたなら、記憶を剥ぎ取るくらい容易いでしょうが、あなた自身の力を使うと証跡が残る。余計な負債を抱えない方がいい」
「…………お前らしくない説教だな」
「あなたが、ネアの使い魔でなければ言いませんよ。と言うか、アルテア自身が関わると、絶対に事故りそうですからね」
「………は?」
「知らないんですか?あなたは、ネアに出会ってから彼女周りではどうも不手際が多い。まぁ、今回は俺が仕損じた訳ですが、これまでの実績がありますから、俺があなたを案じるのも仕方ないかと」
そう言えばアルテアは嫌な顔をしたが、幸いにも手法は変えることにしたようだ。
一年分の記憶を壊す美しい花があるらしく、どこかで誰かを弄び壊す時にと温存しておいたその花を、リロレイドに摘ませようということになった。
「それと、檸檬シロップの複製をお願い出来ますか?」
「……………は?」
「リロレイドが、ネアに、彼女がとても気に入っていた檸檬の氷菓子のシロップを贈ったんです。取り上げるのは可哀想ですが、妙な効果を添付されていても厄介だ。中身を入れ替えて欲しいんです」
「他の市販品と変えろよ」
「残念ながら、ここの檸檬シロップは門外不出のレシピでして」
「……………お前、俺が何でもすると思っているだろう?」
「思ってますよ。ネアは、さっき蜘蛛に出会ってすっかり落ち込んでしまったばかりなので、彼女の喜びを奪うようなことはしたくないんです」
「…………蜘蛛にか」
「石材修復の精なので、かなり大きくなったかな。可哀想に、すっかり怯えてしまっていて……」
「…………いきなりのすり替えは無理だ。事前にそのシロップとやらは手に入るのか?」
「ええ、勿論」
浴室の通信から、ルグリューにはもう一杯のあの檸檬氷を頼んでおいた。
ネアの為に作り方を学んでおきたいので、浴室に届けてくれと言われ、先程彼は、快くそのグラスを一つ、この浴室に届けて入れてくれている。
部屋で寛いでいるネアには、いきなり部屋を変えたので、浴室の備品が補充されていなかったと説明してくれ、覆いをかけてこっそり隠して届けてくれたのだ。
「これですよ」
「…………よく、その状態で渡そうと思ったな。俺の状況が見えてないのか?この状況下で、氷菓子ごと渡すつもりじゃないだろうな?」
「何か問題が?それと、グラスはすぐに返して下さい。俺も、まさかこの施設から、こんなグラスを持ち帰ったという疑惑はかけられたくない」
「おい……………」
アルテアは顔を顰めたが、渋々別容器に檸檬シロップのよく染みた部分の氷を移し、持ち帰ってくれた。
ネアをリーエンベルクに送り届けるおおまかな時間を伝え、ネアであれば恐らくその日の内に、シルハーンに檸檬シロップの氷を振る舞うだろうと話しておく。
「貸しは二つだ」
「やれやれ、仕方ありませんね」
「言っておくが、お前がその地竜の女への対処を誤ったせいだからな」
「落としたと思った花を拾ってやっただけでしたよ。その程度でも誤解されるとなると、この上なく煩わしいな」
「その顔で舞踏会に出りゃいいだろうが」
あれこれ言いながらも、アルテアは、檸檬シロップの染みた氷を入れた容器を持って空間の繋ぎを解き、姿を消した。
これから、急ぎあの檸檬シロップの再現をやってくれるのだろう。
どこでネアが貰ったものと入れ替えるのかは彼次第だが、ネアは特に食事周りのことではアルテアを信頼しているようなので、然程難しくは無い筈だ。
「さてと」
そう呟き、シャワーを浴び直していたふりをする為にあえて髪を濡らした。
この扉の向こうにはネアがいて、まだウィリアムの休日は続いている。
(来た時のように門から出て行っても構わないが、リロレイドにまた遭遇しないとも限らないな……)
そう考えるとうんざりしたので、転移で直接ハヴランに行くことにした。
同じ地下とは言え属性や領域が違うので、転移で移動しても結局門から入り直しなのだが、ここはあえてこの扉の外に出るのはやめておこう。
これ以上、穏やかな休日を地竜達に損なわれるのは御免だ。
そう考えながら浴室の扉を開けると、ネアがちょうど檸檬氷を食べ終えているところだった。
少しだけ悲し気にグラスの底に溜まったクリームをすくっているので、これは予想通りに今夜も食べるだろうなと考えて微笑みを深める。
「はは、すっかりお気に入りだな」
「うむ。何だか幸せな気持ちです。砂風呂は素敵でしたね!」
ウィリアムの問いかけに、ネアはそんな檸檬氷の感想と一緒に、今日の砂風呂についても嬉しい感想をくれた。
地竜の選定の儀式だけならともかく、石材修復の精を見てしまったので心配していたが、先程の発言通りその記憶は本人の中で抹消してくれたらしい。
今日の一日を彼女がどう評価するのかを心配していたが、ネアは砂風呂を気に入ったようだ。
ハヴランの方はまだ政局も安定していないので、ふわりと装いを切り替えていつもの服装になる。
必ずしも必要という訳ではなかったが、ネアはこの白い軍服に嫌悪や怯えを目に浮かべることはなく、いつも嬉しそうに目を輝かせるのだ。
そんな眼差しを見るといつも、ウィリアムは胸の奥に凝った何かが、安堵に溶かされるのを感じる。
ただの眼差し一つでそんな喜びを与えているのだとは知らずに、ネアは妙に真剣な眼差しで、焼肉弁当の分析をしていた。
「ゼノ曰く、お弁当屋さんは今回、ソース味しか出していないようです。地底の国では美味しいお塩が取れないのかもしれませんね」
「だとすれば、塩の美味しい土地で店を開いて、また塩味を食べられるといいな」
「酪農の盛んな土地でお店を開いて、焼肉チーズ弁当を開発してくれないでしょうか…………。そんな素晴らしい奇跡が起きる日を、私は楽しみに待っているのです……」
「うーん、アルテアにも、味の再現は出来なかったのか?」
「ええ。アルテアさんも惨敗してしょんぼりでしたが、美食の祝福などで生み出される味わいは特別なものが多いみたいなんです。串焼きの魔物さんの串焼きも、簡単なようで再現は難しいそうなんですよ」
「そう言えば、そんなことを聞いたような気がするな………」
手を伸ばすと、ネアは当たり前のようにそこに自分の手のひらを重ねてくれる。
その温度と儚さに酔い、隣で自分を当たり前の存在として受け入れ、喜びや楽しみを分かち合おうとするその姿の甘さを噛み締める。
ここにいる少女はシルハーンの恩寵だが、同時に彼女がシルハーンの恩寵であることが、ウィリアムにとっての恩寵でもある。
誰でもなく、シルハーンの望む者でなければこの世界にもいなかった筈のその存在の温度を感じ、柔らかな声の響きを記憶に焼き付けた。
何度も、何度も。
そうすればいつか、誰もいない砂漠を最後の一人として歩くその日にだって、彼女がそこに居た日々を思いながら、最後の瞬間を正気で生きられるかもしれない。
だから、ずっと先のその日まで、決してこの温もりを忘れないように。
「岩の精霊さんは、とても強いそうなのですが、ウィリアムさんが怪我をしないように、今日は黄色と黒で塗ったきりんさんの絵を持ってきました!」
「……………よし、まずは俺に任せてくれるか?特に問題がなければ、大人しく道を開けてくれそうな気もするんだ」
「むむ!ウィリアムさんは、やっぱりすごいのですねぇ」
嬉しそうに弾むネアと手を繋ぎながら、室内の通信端末でルグリューに退館を告げ、淡く転移の薄闇を踏んだ。
問題の地底の国の入り口近くに下り立てば、まだ崩壊と殺戮の香りの仄かに残るハヴランの風に青みがかった灰色の髪を流し、ネアが澄んだ鳩羽色の瞳でこちらを見上げる。
その眼差しの堪らない愛おしさに、胸の奥がざわつく。
そう言ってしまえば誰かに誤解されそうだが、ウィリアムが愛しているネアは、恐らくシルハーンを愛するからこそ、その心を開いてウィリアムをも抱き締めてくれるネアなのだろう。
ネアは苛烈だ。
苛烈で極端で残忍な程に、我が儘だ。
彼女を開くことが出来る唯一の鍵がシルハーンであるなら、ネアはそれ以外のどんなものにだって心を開かず、委ねない。
シルハーンがいなければ、こうしてウィリアムの心を震わせるネアもいなくなる。
我ながら随分と厄介なものに魅入られたと考えたが、とは言え元々、ウィリアムはシルハーンもこの上なく大事なのである。
グレアムのように彼を置き去りにしない為には、最良というものは結局この形に落ち着くしかなかったのかもしれない。
「買い物が済んだら、ネアが前に行ってみたいと話していた星の丘の屋台村に行こうか?」
「や、屋台村!!むふぅ!今日をこんなに盛り沢山にしてくれていいのですか?」
「せっかくだから、最後までいい一日にしよう。ネアはずっと憧れていたものな」
「はい!ディノと一度一緒に行ってみようかなと思ったのですが、何かお作法などがあるとおろおろしてしまうので、まずは、行き慣れているウィリアムさんに連れて行って貰ってからにしようと思っていたんです」
「よし、じゃあ、今夜はそこで夕食を摂ろう。色々な料理を少しずつ頼めるから、当初の予定通り焼肉弁当も一緒に食べられるぞ」
「ほわ、こんなに幸せな夜があっていいのでしょうか。…………ウィリアムさんに聞いていた、米粉の汁麺が食べたいです!」
シルハーンが不安にならないように、あまり夜が更けない内にネアをリーエンベルクに帰す頃には、アルテアが檸檬シロップの複製を終えているだろう。
もっと単純に考えるのなら、贈られた現品の魔術洗浄をすればいいだけなのだが、大地の加護を受ける地竜が、祝福として添付した魔術であった場合は追跡が難しい。
万が一があっては困るのだ。
(アルテアが一仕事終えたら、リロレイドとの間にある魔術の縁を切っておこう……)
彼女の兄のルハートは、話の分かる男だ。
これから、あの砂風呂を愛用するかもしれないネア達が、愚かな地竜に煩わされないよう、あらためて話をしておくことも忘れずにいなければ。
きっと今夜も、ウィリアムはあの枕で眠るのだろう。
どこか冴え冴えとしたウィームの冬と雪の香りがする枕に頭を乗せると、いつもごろりと体を横にして、まずはタグ部分に刺繍された文字を眺める。
あの枕を手にしてからウィリアムは悪夢を見なくなった。
きっと今夜は、こうして手を繋いでいるネアの夢を見るのだろうか。